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基壇きだん

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法隆寺ほうりゅうじ金堂こんどう階段かいだんいているいし部分ぶぶん基壇きだん切石きりいしせきじゅう基壇きだん

基壇きだん(きだん)とは、おも伝統でんとうてき礎石そせき建築けんちくにみられる建物たてもの荷重かじゅう地面じめんつたえる部位ぶい基壇きだん礎石そせきは、現代げんだい建築けんちく基礎きそ相当そうとうする[1][2]ほん記事きじかめはら(かめばら)についてもれる。

概説がいせつ

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日本にっぽんには飛鳥あすか時代ときよ寺院じいん建築けんちく技術ぎじゅつとして大陸たいりくから伝来でんらいした。古墳こふん時代じだいまでの日本にっぽん建築けんちく草葺くさぶき板葺いたぶき屋根やね重量じゅうりょうかるく、掘立柱ほったてばしら建物たてものがほとんどであった。しかし仏教ぶっきょう寺院じいんおもかわら屋根やねせるため、この荷重かじゅうささえるために地面じめんかためたうえで礎石そせきえ、そのうえはしらてた。これを礎石そせき建築けんちくという[1]。なかでも仏教ぶっきょう寺院じいん金堂こんどう仏塔ぶっとう宮殿きゅうでん大極殿たいきょくでん官衙かんが正殿せいでんなど主要しゅよう建築けんちくぶつでは地面じめんよりもたかってしめかため、建物たてもの内部ないぶへのみず侵入しんにゅうふせぎつつ見栄みばえをくした。このたかった部分ぶぶん基壇きだんである[1][2]はんちくつくられる基壇きだん強固きょうこであるため、古代こだい寺院じいん発掘はっくつ基壇きだん検出けんしゅつされることがすくなくない[1]

8世紀せいき以降いこう登場とうじょうするゆかりの建物たてものでは、基壇きだんかめはら変化へんかした[1]中世ちゅうせい以降いこうでもゆか土間どま仕上しあげである禅宗ぜんしゅう寺院じいんでは基壇きだんつくられたが、他宗たしゅう本堂ほんどうなどではゆかりになったためすくなくなっていった[2]

つくかた

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基壇きだん摸式もしき断面だんめんだん上積うわづみ
解体かいたい修理しゅうりちゅう基壇きだん外装がいそうはずされた薬師寺やくしじひがしとう基壇きだん

基壇きだんすなしつねばしつ交互こうごとっかためるはんちくによってつくられる。軟弱なんじゃく地盤じばん場合ばあい基壇きだん範囲はんいって地下ちかからはんちくかためていた。この地下ちか部分ぶぶん堀込ほりごみぎょうび、地上ちじょう部分ぶぶん基壇きだん区別くべつされる[1][2]堀込ほりごみぎょう奈良なら時代じだい以前いぜんおおられ、よりふる時代じだいのほうが丁寧ていねいおこなわれる傾向けいこうがある。たとえば吉備きび廃寺はいじ(639ねん発願ほつがん)では堀込ほりごみぎょうないはいんだ雨水あまみず湧水わきみず排水はいすいするためのみぞ基壇きだん周囲しゅういられ、ちかくの排水溝はいすいこうまで接続せつぞくされていた[2]

基壇きだん部分ぶぶんつくさいは、外縁がいえん部分ぶぶんはなだらかな斜面しゃめんじょうとっかためるが、建物たてもの完成かんせいにほぼ垂直すいちょくけずとして基壇きだん外装がいそう基壇きだん化粧けしょう)で仕上しあげる。外装がいそうざいはんちくあいだにはうらこみれ、外装がいそう固定こていする[2]。この垂直すいちょく部分ぶぶん外装がいそうをどのような素材そざいつくるかによって、基壇きだん壇上だんじょうただしせき切石きりいしせきらん石積いしつみかわらせき木製もくせいなどに分類ぶんるいされる[1][2]。このうちだん上積うわづみたばせき羽目はめせきくつがえいしなどからなり、もっと格式かくしきたか仕上しあげである。飛鳥あすか時代じだい建築けんちく現存げんそんするだん上積うわづみいが、これからたばせきのぞいた切石きりいしせきには法隆寺ほうりゅうじ金堂こんどう薬師寺やくしじ金堂こんどうなどがある。また法隆寺ほうりゅうじ金堂こんどうのように、基壇きだんが2だん上成うえなし下成しもなり)で構成こうせいされるものをじゅう基壇きだんという。じゅう基壇きだん飛鳥あすか地方ちほう中心ちゅうしんおおく、下成しもなり玉石ぎょくせき簡略かんりゃくしたものもすくなくない[2]。また基壇きだん上面うわつら切石きりいし・塼・かわら漆喰しっくいはたゆかなどで仕上しあげられる[1][2]

基壇きだん礎石そせきえるタイミングは、築造ちくぞうちゅうえる場合ばあいと、一度いちどきずいた基壇きだんあなってえる場合ばあいがある。いずれの場合ばあい礎石そせきえるたかさよりも基壇きだん仕上しあたかさのほうたか仕上しあげることがおおい。またほうとうしんばしらささえるしんいしずえ完全かんぜん基壇きだんまっている場合ばあい地下ちかしき)もある。地下ちかしきこころいしずえは7世紀せいき中心ちゅうしんで、現存げんそんするのは法隆寺ほうりゅうじ五重塔ごじゅうのとうのみである[2]

基壇きだん建物たてもの内部ないぶ土間どま土足どそく)だが、8世紀せいきごろから建物たてものないゆかられるようになると基壇きだん床下ゆかしたかくれるようにもうけられ、しろ漆喰しっくいかためられるようになった。これをかめばらという[1][2]かめはらは、建物たてもの周囲しゅういをめぐるえん保護ほごされており、基壇きだん外装がいそう省略しょうりゃくした形式けいしきかんがえられる。あわせて外縁がいえん部分ぶぶんけずとさずなだらかに仕上しあげられることおおく、全体ぜんたい饅頭まんじゅうがたていするものもある[2]

脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i 海野うみのさとし 2020, pp. 58–59.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l はこ﨑和ひさ 2018, pp. 350–354.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 海野うみのさとし ちょ基礎きそ」、平井ひらいきよし へん日本にっぽん建築けんちく文化ぶんか事典じてん丸善まるぜん出版しゅっぱん、2020ねんISBN 978-4-621-30408-2 
  • はこ和久かずひさ ちょ基壇きだんとその構造こうぞう」、坂本さかもといさお へん図説ずせつ日本にっぽん木造もくぞう建築けんちく事典じてん-構法の歴史れきし朝倉書店あさくらしょてん、2018ねんISBN 978-4-254-26645-0