(Translated by https://www.hiragana.jp/)
劉義宣 - 維基百科,自由的百科全書

りゅう義宣よしのぶ(415ねん—454ねん8がつ4にち[1]そうたけしみかどりゅうひろしだいろくりゅうそう宗室そうしつ,受封ためみなみぐんおうりゅう義宣よしのぶざいそうかんいたり丞相じょうしょう,曾出にん荊州刺史ししたちじゅうねんなみ憑荊しゅうぐん力量りきりょう先後せんごおこりへい討伐とうばつりゅう反抗はんこうそうたかしたけみかどただし最終さいしゅうためこうたけみかど討伐とうばつぐんしょはいころせ

りゅう義宣よしのぶ
せいりゅうせい
義宣よしのぶ
ふうごうみなみぐんおう
出生しゅっしょうすすむやすみかどじゅういちねん (415ねん
逝世そうたかしたけみかどこうけん元年がんねん (454ねん

生平おいだいら

編輯へんしゅう

げんよしみ元年がんねん(424ねん),りゅう義宣よしのぶ受封ため竟陵おうしょく邑五せん[2]はいひだり將軍しょうぐん[3]鎮守ちんじゅ石頭いしあたまじょうげんよしみななねん(430ねん),遷任使ぶしみやこただしじょあおかそけしゅうしょ軍事ぐんじじょしゅう刺史しし,仍以ひだり將軍しょうぐん戍守石頭いしあたまじょうつぎねんあらためにんとくみなみ兗、兗州刺史ししほんおううつり山陽さんようぼつゆう成行しげゆきげんよしみきゅうねん(432ねん),遷中書ちゅうしょかんしんごうちゅうぐん將軍しょうぐんつねさむらいきゅう鼓吹こすい一部いちぶ當時とうじ竟陵蠻族ばんぞく問題もんだい嚴重げんじゅうとげあらためふうためみなみ譙王またりょう石頭いしあたま戍事。げんよしみじゅうさんねん(436ねん),義宣よしのぶにんとくしゅうしゅうこれ西陽にしびすすむしんさんぐんしょ軍事ぐんじ、鎮南將軍しょうぐんしゅう刺史しし

南朝なんちょう長江ながえ天險てんけん守衞しゅえいたてやすし,而荊州地區ちくしょたてやすしてきじょうゆう位置いちじゅうふん重要じゅうよう兵力へいりょくまたつよりゅうひろし曾遺みことのり諸子しょしにん荊州刺史ししそうぶんみかどにゅうつぎ帝位ていい先後せんごゆずるよんおとうと彭城おうりゅう義康よしやす及五おとうと江夏えなつおうりゅうよしきょうにん此職。また以已臨川りんせんおうりゅうみちぶんまわしぜん有功ゆうこうくん,其嗣子ししりゅうよしけいまたゆう人才じんさいとくゆずるけいせっがえきょうにん荊州[4]いたりもとよしみじゅうろくねん(439ねんけい解任かいにん荊州,按次じょ就應よしため六弟的義宣出掌荊州,そうぶんみかどみとめため義宣よしのぶ才能さいのうけい不足ふそく以擔此重任じゅうにん,竟讓ななおとうと衡陽おうりゅうよしにん荊州,而讓義宣よしのぶ以征きた將軍しょうぐんとくみなみじょしゅう軍事ぐんじみなみじょしゅう刺史ししつねさむらいせっがえばらしょくそうぶんみかどざいかい稽長公主こうしゅつぎため義宣よしのぶせつじょう最終さいしゅうかえざいもとよしみじゅういちねん(444ねん),以義せんにんとくえきりょうやすしみなみきたしんななしゅうしょ軍事ぐんじくるま將軍しょうぐん、荊州刺史しし義宣よしのぶいた荊州努力どりょく勉勵べんれい督促とくそく自己じこまたせいこう當地とうち政事せいじげんよしみじゅうねん(448ねん),りゅう義宣よしのぶしんためそらさむらいちゅうりょう南蠻なんばんこうじょうげんよしみじゅうななねん(450ねん),朝廷ちょうていきたはんゆずるきた軍隊ぐんたいだい南下なんか,雖然大軍たいぐんなみこう荊州進發しんぱつただし義宣よしのぶかえ怕魏ぐんかいおさむいた荊州,一度想由江北的治所江陵逃到江南的上明。

げん嘉三よしぞうじゅうねん(453ねん),義宣よしのぶしんにんつかさあらためにんちゅうぐん將軍しょうぐんあげしゅう刺史ししただしかえ出發しゅっぱつ就遇じょう太子たいしりゅう弒父とうてきことりゅう任命にんめい義宣よしのぶため中書ちゅうしょかんふとしじょうりょうさむらいちゅうただし義宣よしのぶ知道ともみち變亂へんらんそくおこりへい討伐とうばつりゅう劭,なみ徵集ちょうしゅう士卒しそつつてげき遠近えんきん。其時しゅう刺史ししたけりょうおうりゅう駿しゅん也起へい義宣よしのぶ就派りょうさんぐんじょのこたからりつさんせんへい支持しじりゅう駿しゅん作為さくいぜんほこさき同年どうねん討伐とうばつぐん消滅しょうめつりゅう劭,りゅう駿しゅん即位そくいためみかどそくそうたかしたけみかど便びん任命にんめい義宣よしのぶため中書ちゅうしょかんとくあげしゅう丞相じょうしょうろく尚書しょうしょろくじょうごとあげしゅう刺史しし葆、鼓吹こすいなみたまものはんけんよんじゅうにんあらためふうためみなみぐんおうしょくまん同時どうじかえすすむ義宣よしのぶ生母せいぼまご美人びじんためけんじふとし次子じしむべこうりゅう愷也すすむ爵南譙王。義宣よしのぶゆずる內任あげしゅうろく尚書しょうしょ六條事及兒子的進爵,こうたけみかどとげあらため授義せんためとく雍梁やすし南北なんぼくしんはちしゅうしょ軍事ぐんじ、荊湘しゅう刺史ししあらためふうりゅう愷為むべけんおう。另義せん手下てしたまいりふうしょう

ざい義宣よしのぶおこりへい,雍州刺史しし臧質也領へい赴江りょうあずか會合かいごう,甚有野心やしんてきさらそう藉義せんたいらいさお懦弱だじゃくてきとくてん利用りよう奪取だっしゅ權力けんりょく此一度想推他為帝,いんため義宣よしのぶやめけい推了こうたけみかどためみかどけい劃不なり[5]。臧質ざいりゅう劭被平定へいていあらためにんしゅう刺史しし仍未放棄ほうきつぎ密書みっしょ義宣よしのぶさそえ其起へい,其時こうたけみかどあずかため其堂あねいもうとてき義宣よしのぶしょおんな亂倫らんりん義宣よしのぶいん而發いか決定けっていおこりへい暗中あんちゅう準備じゅんび船艦せんかんへいあずかていざいこうけん元年がんねん(454ねん秋季しゅうき出兵しゅっぺい當時とうじ義宣よしのぶ通報つうほうりょうしゅう刺史しし魯爽及兗しゅう刺史ししじょのこたから約定やくじょう們一どうおこりへい魯爽卻因しゅよい而於がつ就起へいさらばん義宣よしのぶため天子てんしおく天子てんし輿こしふく義宣よしのぶたい魯爽反應はんのう甚為驚愕きょうがく[6]ただしよし事情じじょうやめただこうあずか臧質倉卒そうそつおこりへい義宣よしのぶ先遣せんけんさんぐんりゅう諶之とうさきあずか臧質會合かいごう自己じこじゅういちにちりつじゅうまん大軍たいぐん出發しゅっぱついのち八子劉慆留鎮江陵,べつ魯秀とう討伐とうばつ支持しじ自己じこてき雍州刺史しししゅおさむこれ

義宣よしのぶいたひろあずか臧質會合かいごう一同いちどう東下ひがししも途中とちゅう知道ともみちじょのこたから戰敗せんぱい而魯爽戰死せんしてき消息しょうそくしつしょくせっいたおくらいてき魯爽首級しゅきゅうさらおどろき懼,ただしかえ繼續けいぞく進軍しんぐんときおうげん謨大ぐんざいやなさんしゅうあずか臧質ぐん對峙たいじ,而やなぎもとけいすすむたむろしゅうと總統そうとうしょぐん。臧質曾建議けんぎ義宣よしのぶ派兵はへいまんにんおさむしゅうと孰,べつまんにんおさむやなさんゆずる兩者りょうしゃ無法むほうせっおう自己じこ以水ぐん循外こうただし取石とりいしあたましん逼京しか而劉諶之ざい義宣よしのぶそうようこたえおう進言しんげん懷疑かいぎ臧質もとめぜん赴的意圖いとはん建議けんぎ盡力じんりょくおさむ樑山しゅうはやぜんりゅうよしきょう曾寫しんきゅうりゅう義宣よしのぶどう:「昔日せきじつ桓玄したがえいんなかこらえ中手なかてちゅうへい南下なんかこうぞうこんてん這樣呀。」くらゆび臧質就是桓玄,義宣よしのぶ於是聽從ちょうじゅう諶之しょげんしたがえ臧質けい[7]とき臧質ざいげん謨軍がいいちさと附近ふきんちゅう紥,義宣よしのぶ就駐かぶら五月ごがつじゅう九日臧質就乘風猛攻玄謨軍在江邊的西壘,成功せいこうおさむじゅういちにち義宣よしのぶりつ眾到やなさん,臧質出兵しゅっぺい進攻しんこうひがしるいげん謨盡精銳せいえい抵抗ていこう最終さいしゅう臧質軍陣ぐんじんげん謨等ぐん突入とつにゅう軍隊ぐんたいつぶせはいかきまもるさらじょうふう放火ほうかしょう毀臧しつせんせき連帶れんたいざい西岸せいがんてき義宣よしのぶ也被波及はきゅう義宣よしのぶ此見軍隊ぐんたい大敗たいはいとげ乘船じょうせん逃走とうそうあずか臧質しつ聯絡れんらく當時とうじ西境にしさかいてきじんかえすわすうひゃくはやぶね跟隨義宣よしのぶ逃到江夏えなつどき聽聞ちょうもんともえりょうゆうてきぐん,於是ざい逕口あらため步行ほこう逃回にげまわこうりょう眾於つき,僅得じゅうじん跟着,義宣よしのぶ也因腳痛而無ほうさいくだりむかい平民へいみんくるままたこう沿路えんろきょみんもとめしょくかいかつえ義宣よしのぶおわりかいいたこうりょう,竺超みんりょうへい迎接げいせつ。此時こうりょうかえゆういちまん名士めいしへい,魯秀及竺ちょうみん仍然そう招集しょうしゅうあまり眾與朝廷ちょうていぐんけついち勝負しょうぶ其時義宣よしのぶやめけい迷惘昏亂,竟不さい出來できめん眾人,於是殘餘ざんよ眾都逃走とうそうりょう,魯秀またただとくきた逃。義宣よしのぶ無法むほうさいまもり住江すみえりょうそう跟魯しゅうはし,於是準備じゅんびこうえびすそう及糧すいおびりゅう慆和五名易為男裝的愛妾要出走,ただし在江あるえりょう城中じょうちゅうぐうじょう衝突しょうとつ刀劍とうけん亂舞らんぶてき情景じょうけい嚇得墮馬,逼改以步ぎょう出城でしろいたしろがい竺超みんおくうまきゅう自己じこ留守るすりょう義宣よしのぶげんそうおいじょう魯秀,ただし根本こんぽん不知ふち魯秀哪,於是はなれじょう郊士へい就散つき義宣よしのぶただこうじょうよるおりかえしかいいたやめけいそらおけてきみなみぐん官舍かんしゃいんためぼつゆうゆかただこうせきすわいたてんあきら接着せっちゃく義宣よしのぶ黃門こうもん通報つうほう竺超みんちょうみんりょう一架舊車送他到獄戶處,義宣よしのぶ此時すわざい地上ちじょうせつ:「臧質這老やつあやまりょうわが呀。」おこりはつ愛妾あいしょうあずか一同いちどう入獄にゅうごくただしひさ五人都被送走了,義宣よしのぶかえ哭着たい獄吏ごくりせつ:「平日へいじつ痛苦つうく今日きょう分別ふんべつざいかんいた痛苦つうく。」

ずいだい司馬しばりゅうよしきょうあずか八座下書新任荊州刺史朱脩之要賜死義宣,但書ただしがきしたしゅおさむ就到りょうはた義宣よしのぶあずか其諸どうとうつきすう誅殺ちゅうさつ義宣よしのぶねんよんじゅう

性格せいかく特徵とくちょう

編輯へんしゅう
  • りゅう義宣よしのぶせいらい舌頭ぜっとうたん擅長げんだん皮膚ひふしろ晢,よしひげまゆこうななしゃくすん腰帶こしおびじゅうかこえ才能さいのうまた相當そうとうたいらいさおそうぶんみかどねがい任用にんよう其為荊州刺史しし,臧質また藉以奪取だっしゅ權力けんりょく
  • りゅう義宣よしのぶざい討平りゅう劭時ちゅう鎮荊しゅうやめたちじゅうねん荊州へいきょうとみにょうまたよしおこりへい消滅しょうめつりゅう劭而威名いめいどお播,義宣よしのぶたい朝廷ちょうていてき請求せいきゅういちいちとくまこと相反あいはん義宣よしのぶ卻一概不遵自己不同意的朝命。當時とうじりゅう義宣よしのぶ曾向こうたけみかどしんけんじみつぎしゅただし就先かつしゅしょうあまりてきふうそんざいおく
  • 荊州刺史ししにん內義せん畜養ひめわらわ,竟達せんにん,另也やしなえりょうすうひゃくあましゅうとさんじゅう男女だんじょ生活せいかつまた相當そうとうおごはな,耗費甚大じんだい

父母ちちはは

編輯へんしゅう
  • 美人びじんまごりゅうひろしてきわらわしつじゅういちねん(415ねん),まごせいりゅう義宣よしのぶりゅうひろし建立こんりゅう宋朝そうちょうふうまごため美人びじんそうたかしたけみかどしんおくりなまご美人びじんためけんじふとし
  • りゅう恢,ふうみなみぐんおう世子せいしざいこうやすし墓所はかしょたまもの
  • りゅう愷,ふうむべけんこうしんふうみなみ譙王,ざいこうやすし墓所はかしょたまもの
  • りゅう𢚝,臨武悼侯,はやそつ
  • りゅう悰,ふう湘南しょうなんけんこうあずかりゅう義宣よしのぶどうためしゅ修之のぶゆきしょころせ
  • りゅう憬,ふう祁陽けんこうあずかりゅう義宣よしのぶどうためしゅ修之のぶゆきしょころせ
  • りゅう惔,ざいこうやすし墓所はかしょたまもの
  • りゅうあつしざいこうやすし墓所はかしょたまもの
  • りゅう慆,あずかりゅう義宣よしのぶどうためしゅ修之のぶゆきしょころせ
  • りゅうはくあずかりゅう義宣よしのぶどうためしゅ修之のぶゆきしょころせ
  • りゅうぎょうあずかりゅう義宣よしのぶどうためしゅ修之のぶゆきしょころせ
  • りゅう悉達,はやそつ
  • りゅうほうみちびけあずかりゅう義宣よしのぶどうためしゅ修之のぶゆきしょころせ
  • りゅうそうあずかりゅう義宣よしのぶどうためしゅ修之のぶゆきしょころせ
  • りゅうとしただしあずかりゅう義宣よしのぶどうためしゅ修之のぶゆきしょころせ
  • りゅうとしあずかりゅう義宣よしのぶどうためしゅ修之のぶゆきしょころせ
  • りゅうあきらわたるとりこあずかりゅう義宣よしのぶどうためしゅ修之のぶゆきしょころせ
  • りゅうたえさとしあずかりゅう義宣よしのぶどうためしゅ修之のぶゆきしょころせ
  • りゅうたからあきらあずかりゅう義宣よしのぶどうためしゅ修之のぶゆきしょころせ
  • りゅう善藏ぜんぞうあずかちちりゅう恢在こうやすし墓所はかしょたまもの

かげ作品さくひん

編輯へんしゅう

延伸えんしん閱讀

編輯へんしゅう

[へん]

 そうしょ/まき68》,出自しゅつじ沈約そうしょ
 みなみ·まき13》,出自しゅつじ延壽えんじゅみなみ

參考さんこう資料しりょう

編輯へんしゅう
  • そうしょ·列傳れつでんだいじゅうはち·りゅうよし宣傳せんでん
  1. ^ そうしょ·こうたけみかど》:〔ろくがつかのえとら義宣よしのぶこうりょうたまもの
  2. ^ そうしょ·りゅうよし宣傳せんでん》:「げんよしみ元年がんねんねんじゅうふう竟陵おうしか而亦義宣よしのぶこうけん元年がんねんねんよんじゅうそくせい於415ねんのりもとよしみ元年がんねんおうためじゅうさい
  3. ^ 中華ちゅうかしょきょくそうしょ·まきろくじゅうはち校勘こうかん:仍拜ひだり將軍しょうぐん さん朝本あさもと北京ぺきん圖書館としょかんぞうそうあきらもとさんあさ遞修ほんさくひだり將軍しょうぐん」,きたかんほん明朝みんちょう北京ぺきん國子くにこかん刊本かんぽん)、もうほんもうすすむ汲古かくほん)、殿しんがりほんきよし武英たけひで殿どのかんこくほん)、きょくほんさくみぎ將軍しょうぐん」。またそうしょ·りゅうやすしさんでんゆう「遷竟おう義宣よしのぶひだり將軍しょうぐんはかさんぐん」;《そうしょ·ぶんみかどまたゆう「以左ぐんはかさんぐんりゅう道產どうさんため雍州刺史しし」;《たてやすし實錄じつろく·まきじゅうまたゆう「以左將軍しょうぐん、竟陵おう義宣よしのぶため兗州刺史しし,鎮山陽さんよう
  4. ^ そうしょ·りゅうよしけいでん》:「荊州きょ上流じょうりゅうおもこうへいきょうじつへいかぶときょ朝廷ちょうていはん高祖こうそ使諸子しょしきょけい以宗しつれい特有とくゆう此授。」
  5. ^ そうしょ·臧質でん》:「いい人才じんさいあしためいちせい英傑えいけつはじめ聞國便びんゆう,以義せん凡暗,えきせい勒,よく外相がいしょう推奉,以成其志。及至こうりょう便びん致拜稱名しょうみょうしつ於義せん雖為兄弟きょうだい,而年だいきんじゅうさい義宣よしのぶおどろき曰:『きみなにはいおとうと?』しつ曰:『ことちゅうむべしか。』義宣よしのぶやめ推崇其計くだり。」
  6. ^ そうしょ·魯爽でん》:「爽與義宣よしのぶ及質しょうゆいやめひさし義宣よしのぶまたよく其勇りょくじょうちぎり甚至。こうけん元年がんねんがつ義宣よしのぶほう爽,あきとうどう舉。爽狂しゅ乖謬,即日そくじつ便びんおこりへいはせしんほうおとうと瑜,將家しょうか奔叛,みなとく西にし。爽使其眾載しるべしょうけんひらた元年がんねん,竊造法服ほうふく登壇とうだんごううたぐちょう韋處きよしちゅうへいさんぐん楊元こまちゅう庾騰あずかおのれどうころせこれ義宣よしのぶしつ聞爽やめ處分しょぶん便びん狼狽ろうばいはんしん爽號せいきた將軍しょうぐん。爽於おくところみやつこ輿こしふくまいこうりょうはん義宣よしのぶ及臧しつとうなみおこりせい北府きたご曹版ぶん曰:『丞相じょうしょうりゅう天子てんし名義めいぎせんくるま臧今丞相じょうしょうめいしつひら西にししゅこんしゃめい修之のぶゆきみなばんいた奉行ぶぎょう。』義宣よしのぶ駭愕。爽所おくほうぶつなみとめ竟陵けん聽進。」
  7. ^  《そうしょ·臧質でん》:「義宣よしのぶまたあいつぎけいいたり江夏えなつおうあずか義宣よしのぶしょ曰:『むかし桓玄へい於仲こらえゆう今日きょう。』義宣よしのぶよし此與しつしょううたぐしつしんけい曰:『こんまんにんみなみしゅうのりやなさん中絕ちゅうぜつまんにんつづりげん謨,必不敢動。しつ浮舟うきふね外江とのえちょくこう石頭いしあたま,此上りゃく也。』義宣よしのぶはたしたがえこれ腹心ふくしんりゅう諶之曰:『しつもとめぜんはせ,此志なんはか如盡するどおさむやなさんことかつしかこう長驅ちょうくまんやすけい也。』
  8. ^ みなみ·まゆみ珪傳》:だん珪同どうしゅうとためみなみ譙王
政府せいふ職務しょくむ
そらかけ
うえ一位持有相同頭銜者:
りゅうよしきょう
りゅうそうつかさそら
448ねん-453ねん
つぎにん
りゅう