みなもと義平よしひら

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あく源太げんた(『新形しんがたさんじゅうろくかいせん月岡つきおか芳年よしとし
にちうつしほう
にち原文げんぶんみなもと義平よしひら
假名かめいみなもと の よしひら
平文へいぶんしき罗马Minamoto no Yoshihira

みなもと義平よしひら(1141ねん—1160ねん3がつ4にち永治えいじ元年がんねん - えいれき元年がんねん1がつ25にち),日本にっぽん平安へいあん時代じだい晚期ばんきてき武士ぶし。綽號あく源太げんた鎌倉かまくら源太げんた官位かんい左衛門さえもん少尉しょういにち左衛門尉さえもんのじょう源義朝みなもとのよしとも長男ちょうなん母親ははおや三浦みうら義明よしあきにち三浦みうら義明よしあき女兒じょじ也有やゆう一說いっせつみとめため生母せいぼ橋本はしもとてき遊女ゆうじょみなもと賴朝よりとも源義經みなもとのよしつねてきどうちち異母いぼ長兄ちょうけい

大藏おおくら合戰かっせん[编辑]

久壽きゅうじゅ2ねん(1155ねん),父親ちちおや源義朝みなもとのよしともあずか叔父おじ帯刀たいとう先生せんせいにち帯刀たいとう舎人とねり源義賢みなもとのよしまさにち源義賢みなもとのよしまさあさてき異母弟いぼてい木曾きそ義仲よしなかこれちち發生はっせい衝突しょうとつ當時とうじ源義賢みなもとのよしまさあずかざい武藏むさしこく豪族ごうぞく秩父ちちぶ重隆しげたかにち秩父ちちぶ重隆しげたか結成けっせい姻親,もたれ岳父がくふてき支持しじざい關東かんとう建立こんりゅう很大てき勢力せいりょくたい父親ちちおや源為義みなもとのためよし逐出家門かもんてき源義朝みなもとのよしとも構成こうせい極大きょくだいてきおびえ源義朝みなもとのよしとも先發せんぱつせいじん派遣はけん當時とうじただゆう15さいてき長子ちょうしみなもと義平よしひら突襲武藏むさしこく比企ひきぐんまと大倉おおくらかん斬殺ざんさつ源義賢みなもとのよしまさ及秩ちち重隆しげたか。其後,世人せじんみな稱呼しょうこみなもと義平よしひらため鎌倉かまくらあく源太げんた

たいら治之はるゆきらん[编辑]

たいら治之はるゆき亂發らんぱつせいみなもと義平よしひらしたがえ鎌倉かまくらはせ赴京當時とうじけん中納言ちゅうなごん藤原ふじわら信頼しんらいにち藤原ふじわら信頼しんらいほしいまましょしょ將士しょうし意欲いよく授源義平よしひら官位かんいみなもと義平よしひら推辭せつ:「元之もとゆきらん叔父おじため遽任藏人くろうどしか以其不急ふきゅう授,受。じつごう時宜じぎ殲滅せんめつ信西しんぜいまちやすし謐,領國りょうごく任官にんかんまた不為ふためばん。嚮在鎌倉かまくら士卒しそつ慣呼あく源太げんたむべ仍舊たたえねがいかりわがしょうそつよう清盛きよもり於安げき不意ふい,鏖盡。」藤原ふじわら信賴しんらい遵從。

其後,平重盛たいらのしげもりおさむにゅうまちけんもん藤原ふじわら信賴しんらい惶怖,及排じん出走しゅっそう源義朝みなもとのよしともだいいかしたれいみなもと義平よしひら佈防。みなもと義平よしひらあずか鎌田かまたまさしきよしにち鎌田かまたまさしきよし後藤ごとう實基さねもとにち後藤ごとう実基さねもと佐佐木ささき秀義ひでよしにち佐々木ささき秀義ひでよし三浦みうら義澄よしずみにち三浦みうら義澄よしずみ山内やまうち首藤しゅどうしゅんどおりにち山内やまうち首藤しゅどうしゅんどおり齋藤さいとうみのるもりにち斎藤さいとうみのるもり岡部おかべただしきよしにち岡部おかべただしきよし猪俣いのまたはんつなにち猪俣いのまたはんつな熊谷くまがい直實なおみ波多野はたののべけい平山ひらやまおもにち平山ひらやまおも金子かねこただしにち金子かねこただし足立あだちとおもとにち足立あだちとおもと上總かずさ廣常ひろつねにち上総かずさ広常ひろつねせきいんかたきりけいおもにちかたきりけいおもとうじゅうろくいち併俱しんみなもと義平よしひらいい左右さゆうせつ:「擐櫨勻鎧而乘白馬はくばしゃ重盛しげもり也。きょうとうみとめこれ。」跟着おどうま而出,縱橫じゅうおうはせ突,ちょく平重盛たいらのしげもり大戰たいせん於大おだいにわてきむく樹下じゅか,擐左近櫻さこんのさくら右近橘うこんのたちばな,緊追平重盛たいらのしげもりななはち匝,其勢甚厲がい平重盛たいらのしげもり退すさいたり大宮おおみやちまたさいりつりょう新兵しんぺいひゃくさいつぎおさむにゅう大庭おおばみなもと義平よしひらよびかつ平重盛たいらのしげもりせつ:「わが及子ため源平げんぺい嫡冑,兩兩りょうりょう媿匹敵ひってき,請與決死けっし。」また驅逐くちくろく匝。平重盛たいらのしげもりまた引兵退すさにゅう大宮おおみやこう源義朝みなもとのよしとも以敵へいらいいたり派遣はけんじん激勵げきれい大軍たいぐんしたれい擊退げきたい卻敵ぐんみなもと義平よしひらまたあずかじゅうろくいたり大宮おおみやちまた衝擊しょうげきてきぐんてきへいいん此奔つぶせ平重盛たいらのしげもりあずか其臣與三よそう左衛門さえもんけいやす新藤しんどう左衛門さえもんたい出走しゅっそうみなもと義平よしひらあずか鎌田かまたまさしつい逐他いたりじょう堀河ほりかわかいしょう追及ついきゅうみなもと義平よしひら躓而ふく鎌田かまたまさし引弓こう平重盛たいらのしげもりいんてききのえあつし而不とくいれみなもと義平よしひらだい喊:「!」鎌田かまたまさしこう其馬,平重盛たいらのしげもりいん此墜だてざいじょうかぶと鍪亦墜下。鎌田かまたまさしさこきんあずか三左衛門景安撲上來遮擋。みなもと義平よしひらはせいたり剌向けいやす新藤しんどう左衛門さえもんたいしょうてきゆずるきゅう平重盛たいらのしげもりしかあずかみなもと義平よしひらにく搏。鎌田かまたまさし乃剌むこうたい平重盛たいらのしげもりとく而有空間くうかん出走しゅっそうかいろく當時とうじきゅうかげ沍寒,した使馬鞍まぐらゆい冰,鎌田かまたまさししゅこおよじうえみなもと義平よしひらきょう馬鞍まぐら上刻じょうこくらいじょうくらはじめ世人せじん依據いきょ手形てがた設計せっけい馬鞍まぐら

源義朝みなもとのよしともすんで卻賴もりむかいぜんおさむろくみなもと義平よしひらりょうへいひらき赴。當時とうじ源賴政みなもとのよりまさ整頓せいとん騎兵きへいさん百餘騎於六條河源,觀望かんぼう而不前進ぜんしんみなもと義平よしひらだいいかせつ:「賴政よりまさ首鼠しゅそ兩端りょうたん觀望かんぼう勝敗しょうはい不可ふかさきげき。」とげりつりょうじゅう搏擊。源賴政みなもとのよりまさはいじんとげとう奔至平清盛たいらのきよもりぐんちゅうみなもと義平よしひらじょうかつおさむにゅうろくもん內,平清盛たいらのきよもりおやとくへいせん雙方そうほう交戰こうせんよしはやじょういちちょく殺到さっとう日暮ひぐれ,而源義平よしひら麾下きかてき軍隊ぐんたいはやじょういたり此經れきすうせん銳氣えいきややため衰退すいたい平清盛たいらのきよもりてき軍隊ぐんたい交進防備ぼうびみなもと義平よしひらとげ斂兵而退。

其後源義朝みなもとのよしとも敗走はいそうみなもと義平よしひら跟從いたり美濃みの青墓あおはか源義朝みなもとのよしとも下命かめいみなもと義平よしひらみなもと朝長ともなが其他地方ちほう募兵ぼへいみなもと義平よしひら赴北こく招募。とう前進ぜんしんいたりらいとうてき人數にんずうややおお。及源義朝みなもとのよしともてき訊來いた,眾人りつそく離散りさんみなもと義平よしひらまた準備じゅんび自殺じさつただしそう清楚せいそみとめため:「ふか讎未ふく大丈夫だいじょうぶあに徒死とし乎?」

みなもと義平よしひらせんかえし京師けいし,伺機暗殺あんさつ平清盛たいらのきよもりゆう源義朝みなもとのよしともてき舊臣きゅうしんこころざし內景きよし素因そいん出身しゅっしん賤而不為ふためじん識。源義朝みなもとのよしとも戰敗せんぱい,仍可以委しつ於平,以俟こう時機じき變數へんすうてき逢源義平よしひら到來とうらい,交談大喜だいぎいつわり以源義平よしひらため自己じこてき奴僕どぼく出入でいりろくみなもと義平よしひらおや執行しっこう廝役,けいきよし僦舍ざい三條さんじょう烏丸からすまとまてき主人しゅじん卻注いたみなもと義平よしひら舉動,みとめため是非ぜひ常人じょうじんけいきよしまた每次まいじしんしょくれいじんいた主人しゅじんえき懷疑かいぎ。偷偷したがえさわあいだ窺探,いたけいきよしあずかみなもと義平よしひら互換ごかんさい餚就しょく主人しゅじんこうろくつげじょう平清盛たいらのきよもり派遣はけん難波なんばけいぼうりつへいさんひゃくにんかこえみなもと義平よしひら拔刀ばっとう躍出おどりでたてそく斬殺ざんさつすうにんとべとう屋上おくじょうゆるがせしかりょうひらけいぼうどく捕獲ほかくけいきよし回歸かいき平清盛たいらのきよもり當面とうめんあざけ諷志內景きよしふところゆうこころざしとうそく斬殺ざんさつけいきよしせつ:「わがつかまつ源氏げんじ。暫事なんじしゃ,俟源興隆こうりゅうみみなんじ疏漏さとるなんとくあざけわが哉?」平清盛たいらのきよもりだいいかたてそく斬殺ざんさつみなもと義平よしひら宿やど山中さんちゅうつぎ偷偷偵察ていさつたいら,備嘗艱苦かんく,覓故きゅう於東おひがし近江おうみそくはたなげ奔其途中とちゅう逢坂おうさかこまひたすらねむ山中さんちゅうてき難波なんばけいぼうまいせき明神みょうじんいん此分へいじゅう搜索そうさくみなもと義平よしひらりつしかおこりおうづけ難波なんばけいぼうしゃちゅう其手うでみなもと義平よしひら不能ふのう揮刀。へい眾垜うずたか逮捕たいほ俘虜ふりょかえしろくれいすわ於廡みなもと義平よしひらだいいかせつ:「わが雖命きゅう就虜,なにためきょ廡下!」そくおこりいれ平清盛たいらのきよもり而面:「こうきょうかこえ烏丸からすまのうつぶせさんひゃく而出。こんためじゅうしょとりこなに?」みなもと義平よしひらわらいせつ:「いのち也。きょうまたいのちあしなえとげいたり於此。われため勍敵,よろしひさしかつやまし斫。」そく斬殺ざんさつみなもと義平よしひらろくじょう河原かわはら當時とうじ是永これながれき元年がんねん(1160ねん),みなもと義平よしひらただゆうじゅうさい

みなもと義平よしひら臨死りんしぜんだいののし:「もとちゅう源平げんぺい將士しょうしまい以夜ぶんこん白晝はくちゅうころせわがひらやつなんじょう也!嚮使信賴しんらいようわがげんひらやつ噍類矣。」難波なんばけいぼうせつ:「きょうなん饒舌じょうぜつ!」みなもと義平よしひら瞋目どう:「なんじぜんわがいや必為かみなりふるえころせなんじとう!」難波なんばけいぼう果然かぜんかみなりふるえ世人せじんみとめため源義げんよし平作へいさくたたり

參考さんこう書目しょもく[编辑]