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徐霞客 - 維基百科,自由的百科全書 とべいたり內容

じょかすみきゃく

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じょかすみきゃく
徐霞客

じょかすみきゃく畫像がぞう

大明だいめい中書ちゅうしょ舍人とねり
ぞく かんぞく
ごう めいひろこれごうかすみきゃく
諡號しごう とらひつじさる仙人せんにん
出生しゅっしょう まんれきじゅうねんじゅういちがつななにち
(1587ねん1がつ5にち
ちょくこうかげけんうまみなみ暘岐
逝世 たかしただしじゅうよんねん正月しょうがつななにち
(1641ねん3がつ8にち
ちょくこうかげけん
著作ちょさく

じょかすみきゃく(1587ねん1がつ5にち—1641ねん3がつ8にちそくまんれきじゅうよんねんじゅういちがつななにちたかしただしじゅうよんねん正月しょうがつななにち),めいひろ[1]これごうかすみきゃくちょくこうかげけんひとせき江西えにしみなみあきら明代あきよ著名ちょめいてき地理ちりがく旅行りょこう文學ぶんがく

じょかすみきゃく旅行りょこう足跡あしあと

生平おいだいら[編輯へんしゅう]

じょかすみきゃくきょ江蘇ちぁんすーしょうこうかげじょかすみきゃく
じょかすみきゃく雕像,福建ふっけんしょう三明さんみょうはたらくけんたまはなほらけい

じょひろしきたそうまつ開封かいふういんじょ錮之けんえんよんねん1130ねん)遷居浙江せっこう[2]じゅうさんせいてき高祖父こうそふじょけいこうかげ巨富きょふ,「あぶら腴連のべ,貨泉りゅう溢」,[3]弘治こうじじゅうねんいんかいためしまいへいあん」,あずかからとら一起かずきわたるあん下獄げごくじょけいさく《賁感しゅう》以自明じめいそもそもうつ父親ちちおやじょゆうつとむゆう兄弟きょうだい6にん母親ははおやおう孺人せいつとむしらき,「こうげいうえこう紡織ぼうしょく」,[4]生子おいごさんにんひろ祚、ひろかすみきゃく)、ひろ禔(庶子しょし)。いたりじょかすみきゃくじょいおり及中じんこれさん」,じょかすみ客分きゃくぶんとく家產かさんゆう200うね

まんれきさんじゅうねん(1607ねん丁未ていみじょかすみきゃくめとこうかげもちぞくもとがくえびす侄女ためつま生子いくこじょ屺;あずかもとがくえびすとおるゆう惠山えさんひらきけいたびゆう序幕じょまくまんれきよんじゅうねん(1617ねんもとはいもとびょう隔年かくねんつづけめとわたるじょためつま生子いくこじょ峴。ただせいせい兇悍,夫妻ふさい感情かんじょうむつみかすみきゃく卻愛じょう前妻ぜんさいてき婢女あまね妒恨,じょうかすみきゃくどおもんはたあまねあらためよめ,「ほう孕而嫡嫁」,生子いくこかいりつ[5]

じょかすみきゃくたてゆう舉國南北なんぼく跋涉ばっしょうりょう許多きょた人煙じんえん罕至てき荒野あらの地區ちく往往おうおう宿やど荒野あらの足跡あしあと遍歷へんれきいま北京ぺきん河北かわきた山東さんとう河南かなん江蘇こうそ浙江せっこう福建ふっけん山西さんせい江西えにし湖南こなん廣西ひろせ雲南うんなんしゅうとう16しょうしょいたこれしょさがせかそけひろひめなみゆうゆう記錄きろくかん察到てき各種かくしゅ現象げんしょう人文じんぶん地理ちりどう植物しょくぶつとう狀況じょうきょう

じょかすみきゃくゆう其對石灰岩せっかいがん進行しんこうりょう深刻しんこくてき研究けんきゅう記錄きろく包括ほうかつ溶洞ぶん佈,いしがねちち石筍せきじゅん溶溝いしいし成因せいいんゆう詳細しょうさいてきこうしゃく舉世だい一人ひとり同時どうじたい長江ながえみなもとあたまさくりょう考察こうさつ,糾正りょう古代こだい文獻ぶんけんたい岷山しるべてき錯誤さくご論斷ろんだん

たび途中とちゅうじょかすみきゃくこう識友,如雲みなみおさめ西にしぞくぞう詩人しじんからたい[6]黃道こうどうしゅうぶんふるえはじめせんけんえきこうちんひとしすずひとしあずかじょかすみきゃく經常けいじょう唱和しょうわたかしただし元年がんねん(1628ねん),じょかすみきゃくにゅう閩游浮,そくはしおとずれ黃道こうどうしゅうていちんはこてるうつしゆうじょかすみきゃく墓誌ぼしめい》。

山西さんせい渾源けんかかむなしてらじょかすみきゃく遺蹟いせき

じょはは生產せいさんてきみやつこひんじょかすみきゃく早年そうねんてき重要じゅうよう旅費りょひらいげんばんあかりかんむさぼみんこま盜賊とうぞく蜂起ほうきざい長期ちょうきてき遊歷ゆうれき考察こうさつ過程かていちゅう,曾多ぜっかてつぎぐうとうたかしただしじゅうねん(1637ねんがつざい湘江ぐうぬすめじょ本人ほんにん赤身あかみとべすい逃走とうそうだつけんいち所有しょゆうただこう同鄉どうきょうこうともきむさちはじめかしじゅうりょう銀子ぎんすざい完成かんせい旅程りょてい[7]たかしただしじゅうねんよんがつじゅうにちぎょういたり湖南こなんきた新城しんじょう附近ふきん,「蔬米俱盡,而囊無一文むいちもん」,以友じんりゅうくんしょおくおくてき綢布一方いっぽう,「就村えきまいよんとう。」勉強べんきょう難關なんかんたかしただしじゅうねんじゅうがつはつじゅうちゅうぐんとうだまへいきゅうりょうじょかすみきゃく一塊ひとかたまりぱいじょかすみきゃくとく以用ぱいささえ使村民そんみんためぼくにん抬轎趕路,人手ひとで夠時,以「婦人ふじんだい輿こし」。甚至ためりょうせき雞失竊而扣人みとめためゆう擾民いや[8]

たかしただしじゅうさんねん(1640ねん),じょかすみきゃくざいくもみなみあがこしいまあが遊歷ゆうれきとくびょうそうあし不能ふのうぎょうはしゆかり當地とうちよう轎子おくかえし江蘇こうそこうかげひさ[9]

ゆう[編輯へんしゅう]

じょかすみきゃく生前せいぜんたくゆめりょうかいあきら整理せいり自己じこてき稿こうゆめりょうおうただしはたゆうしゅ稿こう編輯へんしゅうなりしょきよしぐん進攻しんこうこうかげゆめりょう幫助もりじょうぜんいえころせ稿こうだい部分ぶぶん焚於兵火へいかじょかすみきゃく私生子しせいじよせ收集しゅうしゅう殘存ざんそんてき抄本しょうほん編輯へんしゅうなりじょかすみきゃくゆう》,きよしはつこうじんはんためじょかすみきゃくゆうさくじょ。1980ねん褚紹とうおうことぶきまたたい此書進行しんこう整理せいりこうてん。其內よう包括ほうかつ他所よそいたこれしょてき地理ちり地質ちしつみずぶん氣候きこう植物しょくぶつ農業のうぎょう礦業手工業しゅこうぎょう交通こうつう運輸うんゆ古蹟こせき風俗ふうぞく民情みんじょう,仍然具有ぐゆう很高てき科學かがく文學ぶんがく值。

評價ひょうか[編輯へんしゅう]

しんはつせんけんえきざいじょかすみきゃくでんはたじょかすみきゃくあずかちょうげん奘法耶律すわえざい並列へいれつ清朝せいちょう文人ぶんじんはんひょう「以性れいゆう,以軀いのちゆうわた以來いらい一人ひとり而已」。

りょうあきらちょうはたじょかすみきゃくあずか地質ちしつがく顧祖禹ひとし人並ひとなみ舉為いちだい地理ちりがく成就じょうじゅしゃたん其驤はたじょかすみきゃくあずかおうせいなみ舉為あかりまつゆう記文きぶんがくそう耀。

からすずじんざい中國ちゅうごく科學かがく技術ぎじゅつ·地學ちがくまきしょうじょかすみきゃくあずかめずらししゅじょひかりけいそうおうぼし並列へいれつため當時とうじだい科學かがく。」[10]

參考さんこう書目しょもく[編輯へんしゅう]

  • 東陽とうよう:《あきら中書ちゅうしょ舍人とねりじょくんめい
  • しげざい:《ややあんじょこうはかこころざしめい》,《そうまき54《はかこころざしめい》。
  • ただし其昌:《あきらじょあんかくれきみ暨配おう孺人ごうそうはかこころざしめい》。
  • 《楊氏夫人ふじん手書しゅしょぶんばち

註釋ちゅうしゃく[編輯へんしゅう]

  1. ^ しんだい避乾たかしみかどいみな改作かいさくひろし
  2. ^ 《梧塍じょむね
  3. ^ ぶん璧:《<賁感しゅう>ついで》,《梧塍じょむねまき57《だいおくじょ
  4. ^ 維楨:《あき圃晨圖引ずひき
  5. ^ ひかりいとぐちこうかげけんまき18《人物じんぶつ隱逸いんいつでん》:「ははあまねじょひろしわらわぽう孕而嫡嫁,以育於李めいよせまた『以介於兩せいれき兩朝りょうちょうめいかいりつ。』」。
  6. ^ ちんはこてるじょかすみきゃくこころざしめいせつじょかすみきゃくせい好奇こうきじんざい旅行りょこう途中とちゅう,「ゆうしょう嚮慕しゃそく草履ぞうり叩扉,そで中出なかいではんとげとう一揖いちゆうとうどう便びんしょう傾倒けいとうわかおくげんそく受,とう貺即つげぎょう矣」。
  7. ^ じょかすみきゃくゆううらゆういちだんばなし:「きむさちはじめはつため措資,てんうたて就。ゆるがせくじいちかいとくひゃくあまりきんざいぐう知之ともゆききむなんさいもとかりじゅうきん田租でんそじゅううねりつけんづけ。」
  8. ^ 《粵西ゆう日記にっきさん》:「ちょううしじゅうがつじゅうろくにち晨餐とくりょうかた輿こしじゅうおっと」;「じゅういちがつはつにちめしおっといたりしょうめい,以婦人ふじんだい擔」;「こうおっと甚久,以婦人ふじんだい輿こし」;「はつさんがつむら小夫おうぶしょうはん童子どうじだい輿こし」;「じゅういちにち……眾夫哄然一人ひとり縶之……あまり縶其おっと,一老人乃出而言曰……あまり當代とうだいため催夫;しつ雞……仍縶前夫ぜんふしゃく久之ひさゆき村人むらびと召雞,しゃくおっと」;「じゅう二日其夫哄然去,あまり一人ひとり縶之,ぶた其夫ふくほっ村人むらびと也;はじめ村人むらびと肯承,しょ縶夫へんごうよび……」
  9. ^ せんけんえきちょじょかすみきゃくでん其生たいら:「じょかすみきゃくしゃめいひろしこうかげ梧塍里人さとびと也。……かすみきゃくかえ滇南,そく不良ふりょうぎょうおさむ《雞足山たりやまこころざし》,さんがつ而畢。うらら江木えぎ太守たいしゅ偫餱かてたけのこ輿こし以歸。やまい甚,とえやまししゃ曰:「ちょう騫鑿そら睹崑崙;からげん奘、もと耶律すわえざい銜人ぬしめいじ,乃得西遊せいゆうわれ以老布衣ふい筇雙屨,きゅうかわすなうえこん崙,れき西域せいいき題名だいめいぜっこく與三よそうじん而為よん恨矣。」あまり識霞きゃく也,いん漳人りゅうくつひのとくつひのとためあまりげん:「かすみきゃく西にし氣息きそくささえつづり,聞石齋下さいげみことのりごく長子ちょうしあいだせき往視,さんがつ而反,じゅつせきとき頌繫じょうよりどころゆかひろし嘆,しょく而卒。」其為じんわか此。梧下先生せんせい曰:「むかしやなぎ公權こうけんさんみねごとゆうおうげんおきしゃおとずれみなみ坡僧うみやくとう蓮花れんげほうぼうにちとどけやま趾,けい五千仞為一旬之程,すんでじょう,煹煙為信ためのぶ」。うみ如期宿やどももりんたいらあきらたけしょく清明せいめい佇立ちょりつすういきゆうしろけむり一道いちどうおこりさんほういただきかえりしゅん而玄おきいたり玉井たまいれん落葉らくようすうべん,及池てつせんすんもとのこうみきゅう而去。げんおきはついたりうみ渭之曰:「茲山そぎなり馭風憑雲,ゆう。」げんおき曰:「賢人けんじん勿謂てん不可ふかとうただしおもんばか其志なんじ。」かすみきゃくよく以張騫諸じんいのち,以玄おきなずらえこれなみためさん清之きよゆき奇士きし,殆庶幾しょき乎?かすみきゃくきのゆうこれしょこうかくれ几。ぞく其從けいなかあきら讎勘而艷じょう當為とうい古今ここんゆうさいかすみ客死かくしねんじゅうゆうろく西遊せいゆう以庚たつろくがつそつ以辛正月しょうがつそうこうかげうまわんまたくつひのとくも。」
  10. ^ からすずひとし、楊文衡主へん,《中國ちゅうごく科學かがく技術ぎじゅつ·地學ちがくまき》(北京ぺきん科學かがく出版しゅっぱんしゃ,2000),ぺーじ398。