金本 知憲(かねもと ともあき、1968年4月3日 - )は、日本の元プロ野球選手(外野手)、野球解説者・野球評論家、指導者。広島県広島市南区青崎出身。
愛称は「アニキ」、「鉄人」。
1002打席連続無併殺打は日本記録であり、1999年から2010年にかけて達成した1492連続試合フルイニング出場と13686連続イニング出場は世界記録である[1]。
平成での最多本塁打の記録も持つ[2]。
2016年シーズンから2018年シーズンまで阪神タイガース監督を務めた。
2018年1月、野球殿堂入りを果たした[3][4]。
経歴
プロ入り前
広島市立青崎小学校4年時にリトルリーグ「広島中央リトル」で野球を始めたが、練習についていけず、また体育の授業で手を骨折して練習が出来なくなったこともあり、わずか1年で退部した[5][6]。一学年下の野村弘樹が同チームのエースで四番打者だった[6]。その後は町内会のソフトボールや広島市立大州中学校の軟式野球部でプレー[5][7]。広島高校に落ちて、広陵高校に入学、硬式野球部に入部。2年生からレギュラーとなる。一学年上のエース本原正治を擁し、左翼手として1985年の広島大会決勝に進出するが、広島工業に敗退。翌年も広島大会で敗れ、全国選手権出場はなかった[8]。高校通算20本塁打。
法政大学野球部のセレクションを受ける準備を進めていたが、当時の広陵監督が本当なら8月に行われるセレクションを12月だと金本に告げ、金本はそれを信じてしまったために受けられなかった。1年間の浪人生活の後、中央大学野球部のセレクションを目指すが、中央大学の監督からは浪人は推薦がないと聞かされていたものの、広陵の監督が「推薦は大丈夫」だと言い、金本はそれを信じてしまう。金本はこのことについて、監督に二度も騙されて目の前が真っ暗になったと述べている[9]。この間、ヤクルトスワローズの入団テストを受けたがこれも不合格[10]。
失意の中、知人から東北福祉大学を紹介され一般受験で入学[9][注 1]。同野球部では、恩師として名前を挙げる監督・伊藤義博の下で1年からレギュラーとなり、仙台六大学リーグ通算52試合出場、165打数63安打、打率.382を記録。最優秀選手1回、ベストナイン2回受賞。2学年上の佐々木主浩・大塚孝二、1学年上の矢野輝弘(1浪のため同年齢)、同期の斎藤隆・作山和英・浜名千広・伊藤博康ら後にプロ入りするメンバーと共に主力として4年連続で全日本大学野球選手権大会に出場。1988年第37回大会では決勝で近畿大学に逆転負けを喫して準優勝。第38回大会では連続優勝した近畿大学に準々決勝で敗れ、第39回大会では小池秀郎・高津臣吾・川尻哲郎らを擁する亜細亜大学に決勝で敗れて準優勝。1991年、4年時の第40回大会では3度目の決勝で関西大学と延長17回の末に勝利し初優勝を達成。左手首をはく離骨折していながら勝ち越しの2点適時打を放ち、初優勝の立役者となった[8]。同年、第20回日米大学野球選手権大会日本代表に選出され、チームの勝利に貢献。
1991年秋のプロ野球ドラフト会議にて広島東洋カープが金本を4位指名して交渉権を獲得、金本は契約金6,000万円、年俸720万円(金額は推定)という契約条件で広島に入団した[11]。背番号は10。同年の広島は通算6回目のセントラル・リーグ優勝こそ達成したものの、チーム本塁打は88本、チーム打率も.254と打撃成績が大きく低迷しており、野手の補強が急務になっていたことから、金本以外にも若田部健一(広島を含む4球団競合、福岡ダイエーホークスが交渉権獲得)の外れ1位として町田公二郎(専修大学)、また2位でも徳本政敬(木本高校)と、長打力のある野手を複数指名していた[12]。金本本人は指名を受けた当時、自分は脚も肩も良くないので長打力を売り物にしたいと話していた[13]。当時、徳本は即戦力とは言い難いと評されていたことから、金本は町田と並んで同年の広島が指名した選手たちの中で2人の即戦力と評されていた[14]。担当スカウトは備前喜夫で、強肩と長打力が持ち味とされていた[15]。
広島時代
入団後の2年間(1992年 - 1993年)は芽が出ず、年下の前田智徳や江藤智らに追い抜かれ、打撃は当時のコーチから「転がして足を活かせ」と言われるほど非力で、外野守備も送球を地面に向かって投げてしまう悪癖から「モグラ殺し」のあだ名を付けられるなど、本人曰く「クビを覚悟していた」という。それらの悔しさから筋力トレーニングを本格的に取り入れ、地道な身体作りを行う。山本一義コーチと出会ったことも転機となり、1994年後半から頭角を現し17本塁打を打つなどレギュラーに定着していった。
1995年は開幕戦から5番打者として起用される。全試合5番で出場し続け自身初のオールスターゲーム出場を果たすも、8月29日に左手首骨折により戦線離脱。それでも初の規定打席に到達し、24本塁打を記録するなど主軸として活躍。初のベストナインを受賞した。
1996年も主に5番打者として活躍し、初の打率3割を記録し、出塁率も4割を超えた。77四球はリーグトップで、選球眼にも磨きがかかる。9月には自身初の月間MVPも受賞した。
1997年の開幕戦に3番打者で起用されると、開幕から35試合連続出塁を達成し当時のセリーグ記録を更新した[16]。その後も好調を維持し2年連続の打率3割と出塁率4割、そして自身初の30本塁打を記録する。9月9日には100本塁打を達成。
1998年は規定打席には達したものの、成績は前年に比べて大幅に落ち込んだ。7月5日の阪神12回戦で舩木聖士から死球を受け、試合は最後まで出たものの腫れが引かず、翌日からの2試合を欠場。10日の対ヤクルト15回戦から復帰して以降は2011年途中まで連続試合出場を続けた。また、7月12日には自身初となる4番スタメンで起用された。
1999年は、開幕から15打数1安打の不振で、開幕4戦目にはスタメンを外されている。その後復調し、4月24日には史上49人目となるサイクル安打を達成(広島市民球場での達成は、1959年に大和田明が達成して以来40年ぶりとなる)。初の全試合出場を果たすなど完全復活し、本塁打と打点でキャリアハイの成績を残した。シーズン序盤は5番や6番を任されていたが、中盤以降は江藤に代わって4番に座っている。この年の7月20日、対阪神17回戦の試合中に代打を送られベンチに退き[17]、翌21日の同18回戦より、2010年途中まで続く連続フルイニング出場が始まった。引退後の2023年、テレビ出演した当時監督の達川晃豊(光男)は(これだけの記録になったことから)「金本に代打を送ったことを後悔している」という趣旨の発言を行っている[18]。
2000年に前年まで不動の4番だった江藤がFAで読売ジャイアンツへ移籍したことで、3番・緒方、4番・前田、5番・金本の新クリーンアップが組まれるが、シーズン中盤から怪我で戦線離脱した前田に代わり4番に抜擢される。また、シーズン打率3割以上、シーズン30盗塁を記録した上で、シーズン最終試合で30号本塁打を打ったことから、史上7人目となるトリプルスリーを達成。5年ぶりにベストナインを受賞した。中々、30本目の本塁打が出なかったことから、達成の可能性を高めるために少しでも多くの打席に立たせようと、達川の計らいで最終残り2試合は1番打者としてスタメン出場している。
トリプルスリーについて、金本は本塁打も大変だったが不馴れな盗塁の方がもっと大変だったと語っている[19]。達川は出塁した金本に所謂「グリーンライト」を出し自由に盗塁させ(先述の前田の他野村謙二郎や佐々岡真司もシーズン中に故障離脱しており、達川自身、最早優勝争いに加わることは難しいと勝敗以上に選手個々の記録への意志を尊重して采配を振るっていた)、当時守備走塁コーチだった笘篠賢治も積極的に盗塁をしてもいいといってくれたことも励みになったという[20]。
2001年は全試合4番でフル出場を果たす。39年ぶりに毒島章一の記録を大きく更新する1002打席連続無併殺打の日本記録を樹立。7月7日には200本塁打、9月2日には1000安打をそれぞれ達成。また、出塁率でも128四球で.463という数値を記録し、ロベルト・ペタジーニに次ぐ2位に入った。出塁率.450以上が2人以上出るのは日本プロ野球史上初めてのことであったが、この年は一気に3人も出すほど歴史的な出塁率争いであった。また、このシーズン128四球は日本プロ野球史上歴代6位の記録だが、シーズン四球数の歴代1位から4位までは王貞治(4位は丸佳浩と並ぶタイ)、さらに7位から10位も全て王の記録であり、王以外でシーズン四球数記録の十傑に名を連ねているのは金本と丸のみである。
2002年、打率や出塁率は前年から大きく落としてしまうが、前年に引き続き全試合4番でフル出場。同年オフ、FA権の行使に悩み球団幹部に「今季は成績が悪かったので年俸は1,000万円減で構わないが、FAの再契約金を100万円でいいから出してほしい」と相談した。しかし、球団は厳しい財政事情から再契約金高騰の前例が作られることを懸念してFA権を行使しての残留は認めない方針を曲げなかったため、最終的にFA権を行使して移籍することとなった。
阪神時代
2003年、「プロ野球全体のことを考えて来い」、「俺とお前は一緒に歩むようになっている」[21]と阪神タイガース監督の星野仙一からラブコールを受け、阪神へ移籍。「過去に藤田平さん・和田豊さんらが付けていた背番号6を引き継げて嬉しい」と話し阪神ファンの心を掴んだ。しかし、金本は後に大学時代の背番号だった5番を付けたかったと話しており、当時阪神への移籍が取り沙汰されていた中村紀洋のため6番にしたという。広島時代に付けていた背番号10は阪神では永久欠番(藤村富美男)のため、選択不可であった。かつて広島から巨人へFA移籍した川口和久や江藤智が広島市民球場で激しく野次られるのを見ていたため自分も野次られるのではないかと恐れていたが、移籍後初の広島市民球場での試合で逆に声援を受け安堵したと語っている。同年は開幕から3番に定着し、2番赤星憲広の盗塁王獲得に協力するとともに主軸として活躍し、18年ぶりのリーグ優勝に貢献。日本シリーズでは第4戦のサヨナラ本塁打を含む4本塁打、3試合連続本塁打、1試合2本塁打と3つのシリーズタイ記録を達成したが、チームは日本一に届かなかった。
2004年は新監督・岡田彰布の意向で開幕から4番として起用され長打を量産。7月29日の対中日ドラゴンズ戦で左手首に死球を受け軟骨損傷と診断され、離脱の危機に直面した。しかし、翌日の巨人戦で自分のバットより軽い久慈照嘉のバットを借りて試合に出場し、この試合で高橋尚成から右手だけで安打を打ったシーンが引退試合で放映されたビデオに選出された。8月1日には連続試合フルイニング出場の日本新記録を樹立。最終的に打率、本塁打(1999年と同数)、打点の3部門で自己最高記録を達成し、初タイトルとなる打点王を獲得する。左手首の故障についてシーズン後「この時だけは記録のために出続けた」と語ったが、故障後は本塁打のペースこそ落ちたが打率はむしろ上がっていた。
2005年4月9日の対横浜戦で300本塁打を達成。6月10日の対北海道日本ハムファイターズ戦で入来祐作から本塁打を打ち史上4人目の全球団から本塁打を達成。過去の3人はいずれもセ・パ各4球団以上に所属して記録したが、金本は同年から導入された交流戦のおかげで2球団に所属しただけで達成できた。6月28日には米子市民球場での対広島戦で本塁打を打ち、現役選手では最多の32球場でアーチをかけた。この記録は2007年に田中幸雄が33球場で本塁打を打ち現役1位は一旦譲ったが、田中が同年限りで引退し再び現役1位となった[注 2]。8月11日の対中日戦では1000試合連続出場、8月25日の対広島戦で1000得点、9月9日の対広島戦で1000打点、10月4日に阪神では1986年のランディ・バース以来、日本人選手では1985年の掛布雅之以来、阪神甲子園球場のラッキーゾーン撤廃後は初となる40本塁打を達成。打率・本塁打・打点の3部門で前年の自己記録を更新し、チームも優勝してMVPに選ばれた。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは、ヒットが1本しか打てず、チームは4連敗で敗退。
2006年3月31日にカル・リプケン・ジュニアの8243イニング連続出場を更新。4月9日の対横浜ベイスターズ戦でリプケンを抜く、904試合連続フルイニング出場の世界新記録を達成し[22]、その試合ではリプケンからも映像で祝福をした。そして8月15日に同カード、同球場の試合で1000試合に伸ばした。オフの契約更改では推定年俸5億5,000万円と日本人選手では球界トップとなった。仲間を信頼して献身的なチームバッティングをするプレースタイルをしつつも自分も結果を残し、「活躍できたのは裏方さんのおかげ」と試合の副賞でもらった賞金や賞品をスタッフにプレゼントし、私生活でも若手選手やチームの裏方や記者にまで食事会や送別会を開いたりする等細やかな気遣いを見せ、選手やスタッフや野球関係者だけではなく、ファンからも「アニキ」[注 3]と呼ばれるようになり、他の選手とは一線を画する存在となった[23]。
2007年7月8日の対中日戦で一死満塁から金本の安打で生還しなかった二塁走者の鳥谷敬に対し「あのヒットで1人しか還ってこれないなんてもったいない」「足の速い若い選手が緊張感とか集中力がないのかなと思う」と叱咤。それまで後輩に対して苦言を呈することはあまりなかったことから、翌日のスポーツ新聞各紙では大きく取り上げられた。同年はシーズン中に左膝半月板損傷の大怪我をしながら2004年同様強行出場を続け、31本塁打95打点を記録したが打率は.265と4年ぶりに3割を下回った。この年の金本を最後に、阪神の日本人選手による30本塁打達成者は出ていない。なお、負傷していた左膝については、オフの10月に人生初という手術を受けた。
2008年は左膝のリハビリテーション優先のため1月後半からアメリカに滞在し、2月後半の安芸キャンプからチームに合流。4月6日に1999本目の安打を記録してから3試合18打席無安打だったが、4月12日の対横浜戦で史上37人目の通算2000安打を達成、リーチをかけてから連続打席無安打の歴代最長記録だった。2022年時点では数少ない40歳以上の達成者でもある[24]。この試合では広島からFA移籍したばかりの新井貴浩も1000安打を達成した。5月13日の対広島戦では阪神所属(達成時点)及び右投げ左打ちの選手として初の通算400本塁打を達成した。交流戦では首位打者を獲得した。6月に自身3度目となる月間MVPに選出され、最終的に2年ぶりに3割、3年ぶりに100打点に到達した。なお、40代での3割達成は史上5人目、同100打点達成は史上3人目の記録となった。オフには2年連続で左膝の手術をした。また、現役選手でありながら同年からエイベックス・エンタテインメントとマネジメント契約を結んだが、引退後のマネジメントに関しては、ハードシックスプロジェクト、ダブルカルチャーパートナーズ(DCP)が管理している。
2009年は手術の影響でオープン戦にはほとんど出場できなかったが、41歳の誕生日でもある4月3日に行われたヤクルトとの開幕戦でリーグ最年長記録となる開幕戦本塁打を打った。4月8日の対広島戦、4月10日の対巨人戦で3打席連続本塁打を記録し、史上初となる月間2度の3打席連続本塁打を達成した。得点圏で27打数13安打21打点と好調だった4月には、自己最多となる月間30打点を記録し、自身4度目となる月間MVPに選出された。5月12日の対広島戦では、0-0で迎えた9回裏に横山竜士から球団通算7000号となるサヨナラ本塁打を打った。しかし5月以降の月間打率は全て2割台前半で最終的には移籍後ワーストとなる打率.261で、本塁打数も21本だった。
2010年は順調なキャンプを送ったが、3月17日、ヤクルトとのオープン戦前の練習中に味方選手と激突し[25](後に藤川俊介と判明)[26]、右肩の棘(きょく)上筋部分断裂という重傷を負う[27]。3月31日のマツダスタジアムでの対広島戦で本塁打を放ち、現役最後となる通算33球場目での本塁打となった。
連続試合フルイニング出場世界記録
同年4月14日の対巨人戦で犠牲フライを本塁に返球できなかったり[28]、17日の対横浜戦では二塁走者の生還を2度許すなど満足な送球ができず、打撃でも打率.167と不振であったため[6]、翌18日の試合前に真弓明信監督に「これ以上出てもチームに迷惑をかける」と自ら申し出て[28][29]スタメンから外れ、左翼守備を葛城育郎に譲った。これにより連続試合フルイニング出場の記録は1492試合で止まり、同年5月15日にギネス世界記録に認定され世界記録樹立となった[30]。金本にとって阪神移籍8年目にして初のベンチスタートとなり、阪神の一軍公式戦で金本以外の選手が左翼の守備につくのは2002年10月14日の対中日戦における濱中治以来のことだった。それ以降、スタメン出場しないときは、下記の2011年4月15日まで毎試合代打として出場し、連続試合出場は継続した。ただし、金本の記録のために、試合中の選手の起用方法に悪影響を与えた可能性も指摘された[31]。
スタメン復帰した時期もあったが結局最後まで調子が上向くことはなく、守備面でも補殺0, 打率(規定打席数未到達)、本塁打、打点全て阪神移籍後最低の成績に終わった。この年の規定打席未到達で全試合出場はNPB史上初の珍記録となっている。また、中日戦の成績は.096 (52-5)、打点1, 16三振であった。連続試合出場と関係のないクライマックスシリーズファーストステージ第2戦では出場機会がなかった。この時期、金本の右肩は棘(きょく)上筋が完全に断裂していた状態であったとも言われている。
連続出場記録途絶える
2011年4月15日の対中日戦、8回表二死一塁で投手の代打に立った際、打席中に一塁走者の俊介が盗塁に失敗し、打席未完了のままイニングが終了。この後真弓監督は金本に代え投手を出した。この場合、試合出場は記録されるが、連続試合出場の条件には満たないため[注 4]、連続出場記録が1766試合で途絶えた。この試合以降もシーズンを通して一軍で出場は続けたものの、成績は前年より落ち込んだ。また、このシーズンで日本プロ野球史上8人目となる10000打席に到達した。
2012年、44歳を迎えるシーズンにして開幕戦に「6番・左翼手」で先発出場。その後、一時は打率が3割に到達するなど好調だったため5番でスタメン起用され、その後、新井の不振により5月4日の巨人戦(甲子園)から約2年ぶりに4番として出場し交流戦が終了するまで2試合を除き4番を務めた(その2試合はマット・マートンが4番で先発出場した)。その後は打撃の調子が落ちて結果が出ず、前年と変わらず右肩痛で守備難も目立ち、8月25日の広島戦では、天谷宗一郎にレフトオーバーの打球でランニング本塁打を許した。6月3日に史上9人目となる通算1500打点を達成[32]。6月28日に1991年の門田博光以来21年ぶり史上7人目、大学出身の選手では初の通算2500安打を達成。
9月12日に同年限りでの引退の意思を固めた事が明らかになり[33]、その日の会見で本人の口から改めて2012年シーズンでの現役引退が発表された。会見の中で金本は自らの進退について「10日くらい前に考え始め、本当の決断は2日前くらいに決断した。いろいろ理由はあるが、自分に対して『限界かな?』という思いと、時代の流れ。いつまでもいい時のパフォーマンスを出せない自分が居るのも」と語り、また家族の話になると「子供は大泣きしていたが『いつかはやめるんだよ』と言った。母親には最初に伝えたが、『体のケアをしてくれと…』」と言う所で涙を堪えるために言葉に詰まり、更にファンの話になると「落ちぶれてからはバッシングもあったけど、励ましてくれたファンには…」とついに涙を流す場面も見られた。また、記者からの自身にとって野球とは?という質問に対しては、「長嶋さんじゃないけど、人生そのもの。野球人生を10歳から始めて、7、8割はしんどいこと、2、3割の喜びしかなかったけど、少しの2、3割を追い続けて7、8割で苦しむ。そんな野球人生だった」と感慨深いように語った[34]。同記者会見において「記録」について聞かれた際は、「連続フルイニング出場」よりも「連続無併殺打」の方が印象深いとも語っている。
9月16日の対巨人戦で宮國椋丞から通算475本目となる本塁打を打ち、田淵幸一を抜いて通算本塁打単独10位とした[35]。
阪神シーズン最終戦となった10月9日の対横浜DeNAベイスターズ戦(甲子園)を金本の引退試合[36]として6月11日以来となる4番左翼として先発フル出場。6回の第3打席でDeNA先発三浦大輔から中前安打を打ち直後にセリーグ最年長記録を更新する盗塁を決めた。現役最終打席となった7回裏二死一・三塁では、三浦の前に捕飛に終わった。現役最終試合は、4打数1安打1盗塁だった。試合は3-0で勝利し、荒波翔のフライを金本が掴んで試合終了となった[37][38]。打点は記録できず長嶋茂雄の通算1522打点には1打点届かなかった。試合後には引退セレモニーが行われ、かつて引退試合で金本が花束を贈った清原和博から花束を受け取っている[39]。10月18日に任意引退公示された[40]。
2012年10月16日に農業法人への出資金目的で現金約1,900万円を騙し取られる詐欺被害に遭っていたことが発覚し、元会社社長が逮捕されている[41]。
現役引退後
解説者時代
ダブルカルチャーパートナーズ(DCP)内HSP林田ルームがマネジメントを担当。また、RAS(Route American Sports, Inc.)、エイベックス・スポーツ株式会社とエージェント契約を結んでいる。
2012年12月12日桑田佳祐の全国ツアーI LOVE YOU -now & forever-大阪公演にて、桑田佳祐の曲で、金本本人の名前が歌詞に登場する「OSAKA LADY BLUES 〜大阪レディ・ブルース〜」演奏時にゲスト出演。桑田佳祐VS金本知憲の対決が実現した。
2013年からはフリーの野球解説者[42](日本テレビ、読売テレビ、広島テレビ[43][44]、MBSラジオゲスト解説者[45])、デイリースポーツの特別評論家[46]、スポーツニッポンの野球評論家[47]として活動。このうち、ラジオでの解説については、MBSのみで年間10本程度出演する予定であることも明かされた[45]。
なお、2013年1月23日には、現役時代の晩年から痛めていた肩と脂肪腫の手術を無事終えたことを公式ブログで公表。「もう手術はごめんだ、健康第一!」とコメントしている[48]。
阪神監督時代
2015年10月17日、2016年シーズンからの阪神タイガース監督就任要請を受諾したと発表[49]。同球団の第33代監督に就任。背番号は現役時代と同じ6に決定。
10月22日、監督として初めて臨んだドラフト会議では、明治大学・髙山俊の交渉権をめぐって東京ヤクルトスワローズと競合抽選となり、一度はヤクルト監督の真中満が交渉権を引き当てたかに思われたが、直後に当たりくじを引いたのは金本のほうであったことがわかり、壇上でのインタビューで「ビデオ判定でホームランに覆った心境」と話した。
2016年の中日との開幕3連戦(京セラドーム大阪)では黒星スタートとなるも第2.3戦を勝利し2勝1敗で開幕カードを勝ち越した。だが巨人相手に最初の3連戦を2勝1敗で勝ち越すも、その後は苦戦が続き、甲子園での巨人戦は2度の同一カード3連敗を喫するなど引き分けを挟み9連敗を喫した。9月19日にようやく勝利した[50][51]が甲子園での9連敗が響き対戦成績9勝15敗1分けと負け越し、リーグ優勝した広島にも7勝18敗と大きく負け越すなど苦戦が続き金本政権1年目は4位で終わった。また、先発陣の柱である藤浪晋太郎が広島戦の序盤で5失点し、懲罰で完投こそさせなかったものの結果的に8回161球を投げさせたことや、延長戦で投手に打席が回るも代打を出さず、それが響いて敗れるなど采配を疑問視されることもあった。
2017年は前年に引き続き若手を積極的に起用する中、打撃陣ではFA移籍で加入した糸井嘉男や福留孝介などのベテランを打線の軸に据え、投手陣では前年一軍登板無しに終わっていた桑原謙太朗をセットアッパーに抜擢するなど中継ぎ陣の強化を推進したことによって前年より安定感のあるチーム状況を作り出した。それにより開幕カード負け越しによる4位スタートを除けば最低順位は3位とシーズンを通してリーグ上位を推移し[52]、最終的には78勝61敗4分と17の勝ち越しを記録し順位は2位と前年から大きく躍進した。しかし、金本政権下では初出場となったクライマックスシリーズにおいて3位横浜DeNAと対戦し1勝2敗で1stステージ敗退となった。就任1年目であった前年に散見されたような疑問視される采配は改善を見せ、積極的休養やそれに伴う選手起用、代打起用[53]、投手の継投[54]など各所で勝利に導く好采配を見せることもあった。
2018年は開幕から若手選手が結果を残せず、この年獲得した大砲候補であったウィリン・ロサリオも全く結果を残せず極度の貧打に悩まされ、また投手陣も前年ほどの安定感が見られず、9月下旬までは何とかCS出場権争いに加わっていたものの、雨天中止の多さによる日程の厳しさや絶好調であった北條や糸井らの故障離脱もあり大失速し、17年ぶりの最下位になった。この成績の責任を取る形で金本は辞任した[55]。その後、記者会見が行われたが、写真やテレビカメラはNGという異例の対応が取られた[56]。
選手としての特徴
無類の勝負強さ[57]と優れた選球眼が魅力のスラッガー。好球をじっくり待てる辛抱強さもあり、シーズン最多四球を通算6度記録している[58]。
“走攻守”3拍子揃ったプレーで[59]、広島時代の2000年には打率.315、30本塁打、30盗塁でトリプルスリーを達成。阪神移籍後も中軸として活躍し、2度のリーグ優勝に貢献。骨折しても試合に出続けるなど不屈の精神力を誇った[60]。
平成(1989年1月8日 - 2019年4月30日)における最多記録として、通算本塁打数(通算476本塁打の全てを平成の間に記録している、以下同じ)、通算安打数(2539安打)、通算打点数(1521打点)[61]、4番打者としての出場試合数(1346試合)[62]、クリーンナップとしての出場試合数(2023試合)を[62]記録している。
連続無併殺打(1002打席)[63]・連続4番先発出場数(880試合)[64]の日本記録保持者であり、盗塁・本塁打・代打本塁打・猛打賞においてはセントラル・リーグ最年長記録を保持している。
金本自身は素振りに勝る打撃の練習方法はないと語っている[65]。
人物
両親は韓国人で、金本は在日韓国人3世にあたった[66][67][注 5]。中央日報は、金本の韓国名を金 知憲(キム・ジホン、朝鮮語: 김지헌)としている[68]。4人兄弟の末っ子であり[69]、通称が「アニキ」だけに皮肉を感じるときがあるとのこと[70]。
2001年に日本人女性と結婚するにあたり、日本に帰化した[66][67]。広陵高校時代の1986年に在日韓国人学生野球団の一員として渡韓した経験を持つ[71]。自身が公私混同を嫌い、さらにはナイーブな側面もあり、2001年に結婚した際も夫人を写さないことなどを条件に取材を受けている。
広島時代から阪神時代にかけてチームメイトであった後輩の新井貴浩とは親交が深く、金本は新井を「本当に弟のような存在」と語っている[72]。現役時代は金本が新井に対して頻繁にイタズラを仕掛けていたという[73]。
広島中央リーグ時代のチームメイトに野村弘樹と山本圭壱がいる[6]。
詳細情報
年度別打撃成績
年
度 |
球
団 |
試
合 |
打
席 |
打
数 |
得
点 |
安
打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁
打 |
打
点 |
盗
塁 |
盗 塁 死 |
犠
打 |
犠
飛 |
四
球 |
敬
遠 |
死
球 |
三
振 |
併 殺 打 |
打
率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S
|
1992
|
広島
|
5 |
5 |
3 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
1 |
0 |
0 |
2 |
0 |
.000 |
.250 |
.000 |
.250
|
1993
|
42 |
95 |
89 |
9 |
17 |
3 |
0 |
4 |
32 |
9 |
0 |
1 |
0 |
0 |
5 |
0 |
1 |
16 |
4 |
.191 |
.242 |
.360 |
.602
|
1994
|
90 |
293 |
257 |
41 |
69 |
14 |
2 |
17 |
138 |
43 |
2 |
0 |
3 |
2 |
31 |
2 |
0 |
64 |
3 |
.268 |
.345 |
.537 |
.882
|
1995
|
104 |
438 |
369 |
72 |
101 |
15 |
1 |
24 |
190 |
67 |
14 |
10 |
0 |
3 |
61 |
2 |
5 |
78 |
5 |
.274 |
.381 |
.515 |
.896
|
1996
|
126 |
511 |
423 |
84 |
127 |
18 |
2 |
27 |
230 |
72 |
18 |
7 |
0 |
7 |
77 |
2 |
4 |
104 |
2 |
.300 |
.407 |
.544 |
.951
|
1997
|
133 |
552 |
465 |
77 |
140 |
17 |
2 |
33 |
260 |
82 |
13 |
9 |
0 |
4 |
80 |
5 |
3 |
104 |
8 |
.301 |
.404 |
.559 |
.963
|
1998
|
133 |
573 |
499 |
77 |
126 |
33 |
3 |
21 |
228 |
74 |
9 |
6 |
0 |
1 |
68 |
0 |
5 |
94 |
2 |
.253 |
.347 |
.457 |
.804
|
1999
|
135 |
576 |
502 |
84 |
147 |
21 |
2 |
34 |
274 |
94 |
10 |
3 |
0 |
1 |
70 |
1 |
3 |
92 |
3 |
.293 |
.382 |
.546 |
.928
|
2000
|
136 |
588 |
496 |
96 |
156 |
20 |
2 |
30 |
270 |
90 |
30 |
10 |
0 |
4 |
80 |
7 |
8 |
101 |
2 |
.315 |
.415 |
.544 |
.959
|
2001
|
140 |
615 |
472 |
101 |
148 |
28 |
1 |
25 |
253 |
93 |
19 |
9 |
0 |
6 |
128 |
16 |
9 |
69 |
1 |
.314 |
.463 |
.536 |
.999
|
2002
|
140 |
604 |
540 |
80 |
148 |
30 |
2 |
29 |
269 |
84 |
8 |
5 |
0 |
2 |
60 |
4 |
2 |
99 |
5 |
.274 |
.348 |
.498 |
.846
|
2003
|
阪神
|
140 |
632 |
532 |
94 |
154 |
24 |
2 |
19 |
239 |
77 |
18 |
4 |
0 |
2 |
93 |
5 |
5 |
89 |
6 |
.289 |
.399 |
.449 |
.848
|
2004
|
138 |
613 |
521 |
92 |
165 |
32 |
4 |
34 |
307 |
113 |
5 |
0 |
0 |
8 |
79 |
2 |
5 |
100 |
10 |
.317 |
.406 |
.589 |
.995
|
2005
|
146 |
662 |
559 |
120 |
183 |
35 |
3 |
40 |
344 |
125 |
3 |
1 |
0 |
2 |
98 |
4 |
3 |
86 |
6 |
.327 |
.429 |
.615 |
1.044
|
2006
|
146 |
634 |
545 |
85 |
165 |
24 |
4 |
26 |
275 |
98 |
2 |
2 |
0 |
5 |
79 |
18 |
5 |
98 |
5 |
.303 |
.393 |
.505 |
.897
|
2007
|
144 |
624 |
533 |
74 |
141 |
17 |
3 |
31 |
257 |
95 |
1 |
0 |
0 |
7 |
81 |
11 |
3 |
113 |
9 |
.265 |
.361 |
.482 |
.843
|
2008
|
144 |
623 |
535 |
87 |
164 |
33 |
2 |
27 |
282 |
108 |
2 |
1 |
0 |
8 |
77 |
9 |
3 |
99 |
8 |
.307 |
.392 |
.527 |
.919
|
2009
|
144 |
619 |
518 |
66 |
135 |
37 |
0 |
21 |
235 |
91 |
8 |
1 |
0 |
8 |
88 |
6 |
5 |
98 |
7 |
.261 |
.368 |
.454 |
.822
|
2010
|
144 |
396 |
353 |
39 |
85 |
12 |
0 |
16 |
145 |
45 |
1 |
1 |
0 |
1 |
39 |
0 |
3 |
90 |
3 |
.241 |
.321 |
.411 |
.732
|
2011
|
122 |
372 |
348 |
27 |
76 |
11 |
1 |
12 |
125 |
31 |
1 |
1 |
0 |
0 |
24 |
4 |
0 |
53 |
5 |
.218 |
.269 |
.359 |
.628
|
2012
|
126 |
406 |
356 |
24 |
92 |
16 |
1 |
6 |
128 |
30 |
3 |
3 |
0 |
1 |
49 |
0 |
0 |
54 |
2 |
.258 |
.347 |
.360 |
.707
|
NPB:21年
|
2578 |
10431 |
8915 |
1430 |
2539 |
440 |
37 |
476 |
4481 |
1521 |
167 |
74 |
4 |
72 |
1368 |
98 |
72 |
1703 |
96 |
.285 |
.382 |
.503 |
.884
|
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別打撃成績所属リーグ内順位
年
度 |
年
齢 |
リ | グ |
打
率 |
安
打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
打
点 |
出 塁 率 |
四
球 |
O P S
|
1992 |
24 |
セ・リーグ |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
-
|
1993 |
25 |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
-
|
1994 |
26 |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
-
|
1995 |
27 |
- |
- |
- |
- |
5位 |
- |
8位 |
8位 |
6位
|
1996 |
28 |
- |
- |
- |
- |
6位 |
- |
4位 |
1位 |
5位
|
1997 |
29 |
- |
- |
- |
- |
3位 |
9位 |
5位 |
4位 |
5位
|
1998 |
30 |
- |
- |
3位 |
9位 |
7位 |
- |
- |
4位 |
-
|
1999 |
31 |
- |
- |
- |
- |
6位 |
6位 |
9位 |
6位 |
8位
|
2000 |
32 |
5位 |
6位 |
- |
- |
4位 |
5位 |
4位 |
3位 |
3位
|
2001 |
33 |
5位 |
9位 |
6位 |
- |
9位 |
5位 |
2位 |
1位 |
3位
|
2002 |
34 |
- |
10位 |
5位 |
7位 |
4位 |
5位 |
- |
3位 |
9位
|
2003 |
35 |
- |
9位 |
- |
- |
- |
10位 |
2位 |
1位 |
-
|
2004 |
36 |
4位 |
8位 |
2位 |
4位 |
7位 |
1位 |
3位 |
1位 |
5位
|
2005 |
37 |
3位 |
4位 |
3位 |
6位 |
2位 |
2位 |
2位 |
1位 |
1位
|
2006 |
38 |
8位 |
9位 |
- |
3位 |
7位 |
7位 |
4位 |
2位 |
6位
|
2007 |
39 |
- |
- |
- |
9位 |
6位 |
7位 |
- |
3位 |
-
|
2008 |
40 |
- |
6位 |
3位 |
- |
6位 |
3位 |
6位 |
2位 |
7位
|
2009 |
41 |
- |
- |
2位 |
- |
- |
5位 |
7位 |
1位 |
-
|
2010 |
42 |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
-
|
2011 |
43 |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
-
|
2012 |
44 |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
-
|
- -は10位未満(打率、出塁率、OPSは規定打席未到達の場合も-と表記)
年度別守備成績
年 度 |
球 団 |
外野
|
試
合 |
刺
殺 |
補
殺 |
失
策 |
併
殺 |
守 備 率
|
1992
|
広島
|
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000
|
1993
|
26 |
38 |
0 |
0 |
0 |
1.000
|
1994
|
82 |
155 |
3 |
0 |
0 |
1.000
|
1995
|
102 |
178 |
5 |
1 |
0 |
.995
|
1996
|
121 |
227 |
6 |
3 |
3 |
.987
|
1997
|
128 |
225 |
9 |
4 |
1 |
.983
|
1998
|
131 |
209 |
11 |
5 |
1 |
.978
|
1999
|
135 |
197 |
10 |
6 |
1 |
.972
|
2000
|
136 |
226 |
4 |
6 |
0 |
.975
|
2001
|
140 |
200 |
5 |
3 |
0 |
.986
|
2002
|
140 |
205 |
8 |
2 |
2 |
.991
|
2003
|
阪神
|
140 |
222 |
9 |
6 |
0 |
.975
|
2004
|
138 |
186 |
12 |
10 |
3 |
.952
|
2005
|
146 |
197 |
8 |
2 |
3 |
.990
|
2006
|
146 |
204 |
6 |
3 |
1 |
.986
|
2007
|
144 |
186 |
9 |
1 |
1 |
.995
|
2008
|
144 |
193 |
4 |
2 |
0 |
.990
|
2009
|
144 |
184 |
2 |
7 |
1 |
.964
|
2010
|
73 |
90 |
0 |
4 |
0 |
.957
|
2011
|
101 |
81 |
0 |
2 |
0 |
.976
|
2012
|
92 |
100 |
3 |
1 |
0 |
.990
|
通算
|
2510 |
3503 |
114 |
68 |
17 |
.982
|
年度別監督成績
- レギュラーシーズン
- ポストシーズン
- ※ 勝敗の太字は勝利したシリーズ
タイトル
表彰
記録
- 世界記録
- 連続試合フルイニング出場:1492試合[80](1999年7月21日 - 2010年4月17日)
- 連続イニング出場:13686イニング[80](1999年7月21日 - 2010年4月17日)
- 日本記録
- 連続4番先発出場:880試合(2004年4月2日 - 2010年4月17日)
- 連続打席無併殺打:1002打席(2000年5月12日 - 2001年9月28日)
- 40代での代打本塁打:5本
- 初記録
- 節目の記録
- 100本塁打:1997年9月9日、対阪神タイガース23回戦(広島市民球場)、9回裏に藪恵壹から右越2ラン ※史上194人目
- 150本塁打:1999年8月22日、対中日ドラゴンズ22回戦(ナゴヤドーム)、6回表に山本昌から右越決勝ソロ ※史上109人目
- 200本塁打:2001年7月7日、対阪神タイガース14回戦(広島市民球場)、3回裏に谷中真二から右越2ラン ※史上73人目
- 1000試合出場:2001年8月15日、対阪神タイガース20回戦(大阪ドーム)、4番・左翼手として先発出場 ※史上372人目
- 1000安打:2001年9月2日、対読売ジャイアンツ25回戦(広島市民球場)、8回裏に岡島秀樹から中前適時打 ※史上207人目
- 250本塁打:2003年5月31日、対読売ジャイアンツ11回戦(東京ドーム)、9回表に木村龍治から右越3ラン ※史上45人目
- 1000三振:2004年9月4日、対読売ジャイアンツ25回戦(阪神甲子園球場)、4回裏に久保裕也から ※史上37人目
- 1500安打:2005年4月2日、対ヤクルトスワローズ2回戦(大阪ドーム)、3回裏に坂元弥太郎から左越適時三塁打 ※史上87人目
- 300本塁打:2005年4月9日、対横浜ベイスターズ2回戦(阪神甲子園球場)、4回裏に斎藤隆から右越逆転決勝2ラン ※史上30人目
- 1500試合出場:2005年5月14日、対東北楽天ゴールデンイーグルス2回戦(阪神甲子園球場)、4番・左翼手として先発出場 ※史上143人目
- 1000得点:2005年8月25日、対広島東洋カープ16回戦(広島市民球場)、6回表に四球で出塁し次打者の今岡誠の本塁打により記録 ※史上32人目
- 1000打点:2005年9月9日、対広島東洋カープ17回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に黒田博樹から右越ソロ ※史上26人目
- 3000塁打:2005年9月13日、対読売ジャイアンツ19回戦(長崎ビッグNスタジアム)、2回表に高橋尚成から右越満塁本塁打 ※史上39人目
- 300二塁打:2006年7月5日、対横浜ベイスターズ11回戦(阪神甲子園球場)、3回裏に門倉健から右中間二塁打 ※史上45人目
- 350本塁打:2006年7月12日、対広島東洋カープ9回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に横山竜士から左越ソロ ※史上20人目
- 1000四球:2006年8月29日、対中日ドラゴンズ14回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に久本祐一から ※史上12人目
- 3500塁打:2007年8月10日、対横浜ベイスターズ14回戦(横浜スタジアム)、8回表に横山道哉から右前安打 ※史上21人目
- 2000安打:2008年4月12日、対横浜ベイスターズ5回戦(横浜スタジアム)、7回表に寺原隼人から右前安打 ※史上37人目(大卒選手かつ入団初年度に安打0本では史上初)
- 400本塁打:2008年5月13日、対広島東洋カープ6回戦(富山アルペンスタジアム)、9回表に横山竜士から右越2ラン ※史上15人目
- 350二塁打:2008年7月4日、対横浜ベイスターズ9回戦(横浜スタジアム)、9回表にマットホワイトから ※史上26人目
- 2000試合出場:2008年8月16日、対横浜ベイスターズ15回戦(京セラドーム大阪)、4番・左翼手として先発出場 ※史上39人目
- 4000塁打:2009年8月6日、対中日ドラゴンズ14回戦(ナゴヤドーム)、1回表に川井雄太から右翼線適時二塁打 ※史上13人目
- 1500三振:2009年9月21日、対横浜ベイスターズ22回戦(横浜スタジアム)、3回表に三浦大輔から ※史上8人目
- 400二塁打:2009年9月29日、対東京ヤクルトスワローズ20回戦(明治神宮野球場)、3回表に由規から右中間適時二塁打 ※史上10人目
- 450本塁打:2010年6月27日、対東京ヤクルトスワローズ8回戦(明治神宮野球場)、8回表に松岡健一から右越2ラン ※史上13人目
- 10000打席:2011年10月8日、対横浜ベイスターズ19回戦(横浜スタジアム)、6回表に高崎健太郎との対戦で ※史上8人目(大卒選手史上初)
- 2500試合出場:2012年6月2日、対北海道日本ハムファイターズ3回戦(札幌ドーム)、4番・指名打者として先発出場 ※史上9人目
- 1500打点:2012年6月3日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(札幌ドーム)、5回表に武田勝から右翼線適時2点二塁打 ※史上9人目
- 2500安打:2012年6月28日、対中日ドラゴンズ9回戦(ナゴヤドーム)、7回表に岩田慎司から右翼線二塁打 ※史上7人目(大卒選手史上初[注 6])
- 日本シリーズ・オールスターゲーム
- 日本シリーズ4本塁打(2003年)※シリーズタイ記録
- 日本シリーズ3試合連続本塁打(2003年)※シリーズタイ記録
- オールスターゲーム出場:11回(1995年 - 1997年、2000年、2001年、2003年 - 2006年、2008年、2009年)
- その他の記録
- サイクルヒット:1999年4月24日、対中日ドラゴンズ5回戦(広島市民球場)※史上49人目
- トリプルスリー:1回(2000年)
- 連続試合出場:1766試合(1998年7月10日 - 2011年4月14日)※衣笠祥雄の2215試合、鳥谷敬の1939試合に次ぐ第3位
- 3年連続最多四球:2003 - 2005年 ※王貞治、落合博満に次ぐセ・リーグ歴代3位タイ
- 1試合5四球:2001年10月11日、対ヤクルトスワローズ27回戦(神宮球場)
- 1イニング5打点:2003年5月31日、対読売ジャイアンツ11回戦(東京ドーム)の9回表に無死満塁の場面で2点適時打を放ち、打者一巡でまわってきた打席で二死一、二塁から本塁打を放ち
- 月間2度の3打席連続本塁打:2009年4月8日、対広島東洋カープ2回戦(阪神甲子園球場)・4月10日、対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)※プロ野球史上初
- 全試合出場で規定打席未到達(2010年)※プロ野球史上初
- 本塁打した投手数 226人※歴代2位
- 投手との年齢差本塁打:24歳0か月差:2012年9月16日、対読売ジャイアンツ24回戦(東京ドーム)の4回表に宮國椋丞投手から ※歴代2位
- セ・リーグ最年長盗塁:44歳6か月-2012年10月9日、対横浜DeNAベイスターズ24回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に二盗(投手:三浦大輔、捕手:髙城俊人)
- セ・リーグ最年長本塁打:44歳5か月-2012年9月26日、対ヤクルトスワローズ21回戦(明治神宮野球場)、9回表に増渕竜義から右越ソロ
- セ・リーグ最年長代打本塁打:同上
- セ・リーグ最年長猛打賞:44歳0か月-2012年4月28日、対読売ジャイアンツ4回戦(東京ドーム)、8回表に山口鉄也から投強襲安打で達成
- 全球団から本塁打:2005年6月10日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(阪神甲子園球場)、1回裏に入来祐作から右中間へ逆転2ラン ※史上4人目
背番号
- 10(1992年 - 2002年)
- 6(2003年 - 2012年、2016年 - 2018年)
登場曲
関連情報
著書
関連書籍
映像
- 『ガンバレ日本プロ野球!?:こんなアニキはどうでしょう?〜金本知憲編』(DVD、ジェイ・スポーツ・ブロードキャスティング、TDV-19286D)
- 『金本知憲「祝」2000本安打達成への軌跡 Hansin Tigers』(DVD、スペースビジョンネットワーク、2008年7月、GNBW-7566)
- 『金本知憲・新井貴浩"爆笑トークショー":カネアラここだけの話』(DVD、GAORA、東宝、2012年4月、TDV-22176D)
出演
テレビ番組
ラジオ番組
CM
- 広島選手時代
- 阪神選手時代
- 引退後
- スカパー!「堺議員『いよいよ開幕 妻のアニキ』篇」(2019年)[83]
脚注
注釈
- ^ 金本が自著で大学を選んだ経緯の話だと、当時の東北福祉大学は1962年創立で金本が入学した1988年では大学としては歴史が浅かった。このことから無名であり積極的に有望な選手を集めようとした結果、本来大学では推薦を認められない浪人でも受け入れようとし、金本も入ることが出来たという。
- ^ 最終的には、後述の通り現役引退までに田中幸雄に並ぶ歴代2位タイとなる33球場で本塁打を放った。日本記録は、1952年のフランチャイズ制導入以降にプロ野球球団に入団した選手に限れば、山内一弘で39球場。それ以前も含めると小鶴誠で48球場。
- ^ ただし、実際に兄弟では一番末っ子である。
- ^ 公認野球規則10・23(c)「プレーヤーが連続試合出場を記録するためには、少なくとも自チームのあるイニングの守備(回の初めから終わりまで)に出場するか、あるいは塁に出るかアウトになって打撃を完了しなければならない。」(以下略)
- ^ 広陵高校野球部オフィシャルサイトでは1987年卒業生の欄に「金本博成」と記載されており、高校時代までは「博成」を名乗っていた。
- ^ 達成時点では、張本勲、野村克也、王貞治、門田博光、衣笠祥雄、福本豊、金本の7名だが、金本以外はいずれも高卒である。
出典
参考資料
- 各種外部リンク
- 元阪神 金本知憲 独占インタビュー120分 vol.1 - 『エキサイトニュース』(ソース:『デジタル大衆』)2013年2月18日8時配信・同20日7時42分更新(原資料:『週刊大衆』2013年2月25日号掲載記事)
関連項目
外部リンク
業績 |
---|
|
---|
競技者表彰 |
1960年代 | |
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 |
- 90 真田重蔵, 張本勲
- 91 牧野茂, 筒井修, 島岡吉郎
- 92 廣岡達朗, 坪内道則, 吉田義男
- 93 稲尾和久, 村山実
- 94 王貞治, 与那嶺要
- 95 杉浦忠, 石井藤吉郎
- 96 藤田元司, 衣笠祥雄
- 97 大杉勝男
- 99 中西太, 広瀬叔功, 古葉竹識, 近藤貞雄
|
---|
2000年代 | |
---|
プレーヤー |
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
|
---|
エキスパート |
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
|
---|
|
---|
特別表彰 |
1950年代 | |
---|
1960年代 |
- 60 飛田忠順, 河野安通志, 桜井彌一郎
- 62 市岡忠男
- 64 宮原清
- 65 井上登, 宮武三郎, 景浦將
- 66 守山恒太郎
- 67 腰本寿
- 68 鈴木惣太郎, 田邊宗英, 小林一三
- 69 三宅大輔, 田部武雄, 森岡二朗, 島田善介, 有馬頼寧
|
---|
1970年代 |
- 70 田村駒治郎, 直木松太郎, 中馬庚
- 71 小西得郎, 水野利八
- 72 中野武二, 太田茂
- 73 内海弘蔵, 天野貞祐, 広瀬謙三
- 74 野田誠三
- 76 小泉信三
- 77 森茂雄, 西村幸生
- 78 伊丹安広, 吉原正喜, 岡田源三郎
- 79 平沼亮三, 谷口五郎
|
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
新世紀 |
|
---|
|
---|
|
---|
1950年代 | |
---|
1960年代 | |
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
|
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 |
- 2010 阿部慎之助, 和田毅
- 2011 内海哲也, 坂口智隆
- 2012 杉内俊哉, 吉川光夫
- 2013 能見篤史, 田中将大
- 2014 山田哲人, 則本昂大
- 2015 畠山和洋, 菊池雄星
- 2016 鈴木誠也, 大谷翔平
- 2017 丸佳浩, 松本剛
- 2018 石山泰稚, 石川歩
- 2019 柳裕也, 鈴木大地
|
---|
2020年代 | |
---|
|
---|
1950年代 |
- 1951 川上哲治, 野口明, 林義一
- 1952 飯島滋弥
- 1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男
- 1954 中西太, 山内和弘
- 1955 山内和弘, 西沢道夫
- 1956 森下正夫, 吉田義男
- 1957 大下弘, 宮本敏雄
- 1958 宮本敏雄, 中西太
- 1959 山内和弘, 中利夫
|
---|
1960年代 |
- 1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲
- 1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎
- 1962 ブルーム, 張本勲
- 1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅
- 1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ
- 1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一
- 1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識
- 1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男
- 1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司
- 1969 土井正博, 船田和英
|
---|
1970年代 |
- 1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎
- 1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司
- 1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩
- 1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之
- 1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲
- 1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博
- 1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司
- 1977 若松勉, 野村克也, 王貞治
- 1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之
- 1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二
|
---|
1980年代 |
- 1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊
- 1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博
- 1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之
- 1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満
- 1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓
- 1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美
- 1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章
- 1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博
- 1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三
- 1989 村田兆治, 彦野利勝
|
---|
1990年代 |
- 1990 R.ブライアント, 清原和博
- 1991 古田敦也, 広沢克己
- 1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広
- 1993 清原和博, T.オマリー
- 1994 秋山幸二, G.ブラッグス
- 1995 落合博満, 松井秀喜
- 1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲
- 1997 松井稼頭央, 清原和博
- 1998 川上憲伸, 松井秀喜
- 1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志
|
---|
2000年代 |
- 2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博
- 2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋
- 2002 G.アリアス, 的山哲也
- 2003 高橋由伸, 金本知憲
- 2004 松坂大輔, SHINJO
- 2005 金城龍彦, 前田智徳
- 2006 青木宣親, 藤本敦士
- 2007 A.ラミレス, 阿部慎之助
- 2008 山﨑武司, 荒木雅博
- 2009 青木宣親, 松中信彦
|
---|
2010年代 |
- 2010 阿部慎之助, 片岡易之
- 2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀
- 2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼
- 2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一
- 2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐
- 2015 藤浪晋太郎, 會澤翼
- 2016 筒香嘉智, 大谷翔平
- 2017 内川聖一, A.デスパイネ
- 2018 森友哉, 源田壮亮
- 2019 森友哉, 近本光司
|
---|
2020年代 | |
---|
|
---|
1950年代 | |
---|
1960年代 | |
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
|
---|
1950年代 | |
---|
1960年代 | |
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
|
---|
1950年代 |
- 1950 青田昇, 岩本義行, 小鶴誠
- 1951 青田昇, 岩本義行, 金田正泰
- 1952 杉山悟, 南村不可止, 与那嶺要
- 1953 金田正泰, 南村不可止, 与那嶺要
- 1954 杉山悟, 与那嶺要, 渡辺博之
- 1955 町田行彦, 与那嶺要, 渡辺博之
- 1956 青田昇, 田宮謙次郎, 与那嶺要
- 1957 青田昇, 田宮謙次郎, 与那嶺要
- 1958 田宮謙次郎, 森徹, 与那嶺要
- 1959 大和田明, 坂崎一彦, 森徹
|
---|
1960年代 |
- 1960 中利夫, 並木輝男, 森徹
- 1961 江藤慎一, 近藤和彦, 森永勝治
- 1962 近藤和彦, 並木輝男, 森永勝治
- 1963 江藤慎一, 近藤和彦, 藤井栄治
- 1964 江藤慎一, 近藤和彦, 重松省三
- 1965 江藤慎一, 近藤和彦, 中暁生
- 1966 江藤慎一, 中暁生, 山本一義
- 1967 近藤和彦, 柴田勲, 中暁生
- 1968 江藤慎一, D.ロバーツ, 山内一弘
- 1969 高田繁, D.ロバーツ, 山本一義
|
---|
1970年代 |
- 1970 江尻亮, 高田繁, 中暁生
- 1971 柴田勲, 高田繁, 水谷実雄
- 1972 柴田勲, 高田繁, 若松勉
- 1973 江尻亮, 柴田勲, 若松勉
- 1974 G.マーチン, 末次利光, 若松勉
- 1975 井上弘昭, 山本浩二, ロジャー
- 1976 張本勲, 谷沢健一, 若松勉
- 1977 張本勲, 山本浩二, 若松勉
- 1978 C.マニエル, 山本浩二, 若松勉
- 1979 M.ラインバック, 山本浩二, 若松勉
|
---|
1980年代 |
- 1980 杉浦亨, 山本浩二, 若松勉
- 1981 J.ライトル, 田尾安志, 山本浩二
- 1982 田尾安志, 長崎啓二, 山本浩二
- 1983 田尾安志, 松本匡史, 山本浩二
- 1984 山崎隆造, 山本浩二, 若松勉
- 1985 杉浦享, 真弓明信, 山崎隆造
- 1986 W.クロマティ, 山本浩二, 吉村禎章
- 1987 W.クロマティ, C.ポンセ, 吉村禎章
- 1988 C.ポンセ, J.パチョレック, 広沢克己
- 1989 W.クロマティ, 彦野利勝, 山崎賢一
|
---|
1990年代 |
- 1990 J.パチョレック, 原辰徳, 広沢克己
- 1991 R.J.レイノルズ, 原辰徳, 広沢克己
- 1992 飯田哲也, 前田智徳, L.シーツ
- 1993 A.パウエル, 新庄剛志, 前田智徳
- 1994 A.パウエル, G.ブラッグス, 前田智徳
- 1995 A.パウエル, 金本知憲, 松井秀喜
- 1996 A.パウエル, 松井秀喜, 山崎武司
- 1997 鈴木尚典, D.ホージー, 松井秀喜
- 1998 鈴木尚典, 前田智徳, 松井秀喜
- 1999 関川浩一, 高橋由伸, 松井秀喜
|
---|
2000年代 |
- 2000 金本知憲, 新庄剛志, 松井秀喜
- 2001 稲葉篤紀, 金本知憲, 松井秀喜
- 2002 清水隆行, 福留孝介, 松井秀喜
- 2003 赤星憲広, A.ラミレス, 福留孝介
- 2004 金本知憲, 嶋重宣, T.ローズ
- 2005 青木宣親, 赤星憲広, 金本知憲
- 2006 青木宣親, 金本知憲, 福留孝介
- 2007 青木宣親, A.ラミレス, 高橋由伸
- 2008 A.ラミレス, 青木宣親, 金本知憲
- 2009 A.ラミレス, 青木宣親, 内川聖一
|
---|
2010年代 |
- 2010 M.マートン, 青木宣親, 和田一浩
- 2011 長野久義, M.マートン, 青木宣親
- 2012 長野久義, 大島洋平, W.バレンティン
- 2013 W.バレンティン, M.マートン, 長野久義
- 2014 M.マートン, 丸佳浩, 雄平
- 2015 筒香嘉智, 福留孝介, 平田良介
- 2016 鈴木誠也, 筒香嘉智, 丸佳浩
- 2017 丸佳浩, 鈴木誠也, 筒香嘉智
- 2018 丸佳浩, 鈴木誠也, N.ソト
- 2019 丸佳浩, 鈴木誠也, N.ソト
|
---|
2020年代 |
- 2020 佐野恵太, 丸佳浩, 鈴木誠也
- 2021 鈴木誠也, 近本光司, 塩見泰隆
- 2022 近本光司, 佐野恵太, 岡林勇希
- 2023 近本光司, 西川龍馬, 岡林勇希
- 2024 近本光司, D.サンタナ, 細川成也
|
---|
|
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
|
|
---|
監督 | |
---|
コーチ | |
---|
投手 | |
---|
捕手 | |
---|
内野手 | |
---|
外野手 | |
---|