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阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ

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阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ
種類しゅるい 株式会社かぶしきがいしゃ
本社ほんしゃ所在地しょざいち 日本の旗 日本にっぽん
大阪おおさか池田いけだ896番地ばんち[1]
設立せつりつ 1907ねん明治めいじ40ねん)10がつ30にち[1]
業種ぎょうしゅ てつ軌道きどうぎょう
事業じぎょう内容ないよう 旅客りょかく鉄道てつどう事業じぎょう百貨店ひゃっかてん経営けいえい不動産ふどうさん ほか[2]
代表だいひょうしゃ 社長しゃちょう 佐藤さとう博夫ひろお[1]
資本しほんきん 70,000,000えん[1]
発行済はっこうずみ株式かぶしき総数そうすう 1,400,000かぶ[1]
主要しゅよう株主かぶぬし
特記とっき事項じこう:1943ねん昭和しょうわ18ねん現在げんざい[1][2]
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阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ(はんしんきゅうこうでんてつ)は、1918ねん2がつから1943ねん9がつにかけて存在そんざいした、阪急はんきゅう阪神はんしんホールディングス前身ぜんしんとなる鉄道てつどう事業じぎょうしゃ現在げんざい阪急電鉄はんきゅうでんてつ各線かくせんのうち、神宝線しんぽうせん京都きょうとせん系統けいとうのぞ路線ろせん)にたる地域ちいき路線ろせん完成かんせいさせた会社かいしゃである。

本稿ほんこうでは、阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ名乗なのっていた時代じだい歴史れきしについておもべる。前身ぜんしんとなる箕面みのお有馬ありま電気でんき軌道きどうについては、そちらを参照さんしょうのこと。また、京阪神けいはんしん急行きゅうこう電鉄でんてつについては阪急電鉄はんきゅうでんてつ参照さんしょうのこと。

概要がいよう

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都市としあいだ電車でんしゃへの脱皮だっぴ

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現在げんざい阪急はんきゅう直系ちょっけい母体ぼたいであり、小林こばやし一三かずみひきいる箕面みのお有馬ありま電気でんき軌道きどうゆう電車でんしゃ)は1910ねん梅田うめだえき - 宝塚たからづかえき箕面みのおえきあいだ軌道きどうほうもとづく電車でんしゃ運行うんこう開始かいしした。この路線ろせん現在げんざい阪急はんきゅう宝塚本線たからづかほんせん阪急はんきゅう箕面線みのおせんであるが、先行せんこうして開業かいぎょうしていた阪神電気鉄道はんしんでんきてつどう現在げんざい本線ほんせん)・京浜けいひん電気でんき鉄道てつどう現在げんざい京浜急行電鉄けいひんきゅうこうでんてつ本線ほんせん)などとことなり、2つの大都市だいとしあいだむす路線ろせんインターアーバン)ではなく、おも大阪おおさか郊外こうがい田園でんえん地帯ちたいはし田舎いなか鉄道てつどう路線ろせんであった。そのため開業かいぎょうまえは「ミミズ電車でんしゃ」と揶揄やゆされ、採算さいさんせい不安ふあんするこえつよかったとされている[だれによって?]

小林こばやしはその沿線えんせんにおいて、現在げんざいふくごうがた私鉄してつ経営けいえい原型げんけいとなる沿線えんせん開発かいはつ住宅じゅうたく行楽こうらく開発かいはつ)をおこなうなどし、乗客じょうきゃくすうおおきくばすことに成功せいこうした。しかし将来しょうらい発展はってんせい見越みこした場合ばあいたんなる郊外こうがい電車でんしゃでは限界げんかいがあるとして、開業かいぎょうからあいだもなくしたころ商都しょうと大阪おおさか貿易ぼうえきみなとのある神戸こうべという、近畿きんき地方ちほうにおいて当時とうじ重要じゅうようされた大都市だいとしあいだむす輸送ゆそう参入さんにゅうすることを決定けっていした。

なだ循環じゅんかん電気でんき軌道きどう買収ばいしゅう

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しかし前述ぜんじゅつしたように、この区間くかんには日本にっぽんはつ都市としあいだ電車でんしゃとなる阪神電気鉄道はんしんでんきてつどう本線ほんせん1905ねん開業かいぎょうしており、1874ねん開通かいつうした鉄道てつどういん当時とうじ国有こくゆう鉄道てつどう管轄かんかつしていた官庁かんちょう東海道本線とうかいどうほんせん現在げんざい通称つうしょうJR神戸こうべせん)より乗客じょうきゃくおおくをうばうことに成功せいこうしていた。そのため、これと並行へいこうする軌道きどう敷設ふせつ特許とっきょ確保かくほするのには、様々さまざま障害しょうがいえる必要ひつようがあった。

箕面みのお有馬ありま電気でんき軌道きどう開業かいぎょうした2ねん1912ねんなだ循環じゅんかん電気でんき軌道きどうという会社かいしゃ神戸こうべ葺合ふきあい現在げんざい中央ちゅうおう)より篠原しのはら岡本おかもともり西宮にしのみや深江ふかえ御影みかげと、東海道とうかいどう本線ほんせん阪神はんしん本線ほんせん北側きたがわ山手やまて)および南側みなみがわ海岸かいがん)をとおって、神戸こうべ西宮にしのみやむすかたち環状かんじょうせん敷設ふせつするための特許とっきょ取得しゅとくした。箕面みのお有馬ありま電気でんき軌道きどう以下いかゆうとする)では、これと路線ろせん接続せつぞくさせるかたちで、阪神はんしんあいだ輸送ゆそう参入さんにゅうする構想こうそうえがいた。

しかし競合きょうごうけたい阪神電気鉄道はんしんでんきてつどうも、このなだ循環じゅんかん電気でんき軌道きどう計画けいかくにはつよ関心かんしんいだき、はたらきかけをおこなっていた。ゆうはそんななかでなんとか、不景気ふけいき発起人ほっきにんから資金しきんはらみをけることのできていなかったなだ循環じゅんかん電気でんき軌道きどう自身じしん主導しゅどう設立せつりつさせる(このとき、環状かんじょうせんみなみ半分はんぶん計画けいかくる)とともに、自社じしゃ工事こうじかっていた宝塚たからづか - 門戸もんこ厄神やくじん - 西宮にしのみや現在げんざいこうはぜのきそのえきあたり)あいだ予定よていせん接続せつぞくし、中間ちゅうかんにある伊丹いたみ発展はってんうながすという名目めいもくで、じゅうさんから伊丹いたみ門戸もんこ厄神やくじんいた区間くかんじゅうさんせん)の特許とっきょ1913ねん2がつ20日はつか取得しゅとくすることに成功せいこうした。

ゆうでは特許とっきょ収得しゅうとく、3月にはじゅうさんから東海道とうかいどう本線ほんせん沿いに一気いっき門戸もんこ厄神やくじんまでけるルートへの変更へんこう申請しんせいおこなっている。しかしこれには翌年よくねん1がつあきらかに特許とっきょ申請しんせい目的もくてきことなっていることからみとめない判定はんていくだされ、結局けっきょく申請しんせいのルートでゆう1915ねん4がつじゅうさんせん施工しこう認可にんかけた。

だがその直前ちょくぜん1914ねんゆう社長しゃちょう岩下いわしたきよししゅう頭取とうどり兼任けんにんしていたゆうだい株主かぶぬしである北浜きたはま銀行ぎんこうが、大阪おおさか電気でんき軌道きどう大林組おおばやしぐみへの融資ゆうしきもあって破綻はたんし、ゆう負債ふさい担保たんぽとしてあづけていたなだ循環じゅんかん電気でんき軌道きどう株式かぶしき同行どうこう整理せいりにあたって売却ばいきゃくする方針ほうしんてられた。北浜きたはま銀行ぎんこうだい株主かぶぬしには、阪神電気鉄道はんしんでんきてつどう専務せんむつとめていたものもおり、事態じたい阪神電気鉄道はんしんでんきてつどうなだ循環じゅんかん電気でんき軌道きどうかぶ買収ばいしゅうする方向ほうこうすすんだ。

ゆう小林こばやしにとっては危機ききというべき事態じたいであったが、小林こばやし阪神はんしんたいして「なだ循環じゅんかん電気でんき軌道きどう買収ばいしゅうおこなうのであれば、じゅうさんせん敷設ふせつのためにようした準備じゅんび費用ひよう補償ほしょうせよ」「それができないのなら免許めんきょせん阪神はんしんゆう共同きょうどう経営けいえいとするか、ゆうによる買収ばいしゅう認可にんかせよ」と交渉こうしょう阪神はんしんではゆう資本しほんりょくちいさいことから、このだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつ直後ちょくごこった恐慌きょうこうしたでは買収ばいしゅう不可能ふかのうだろうとかんがえ、買収ばいしゅう意思いしがないことをゆうつたえた。小林こばやしはこののがさず、1916ねん4がつ臨時りんじ株主かぶぬし総会そうかい開催かいさいし、なだ循環じゅんかん電気でんき軌道きどう買収ばいしゅう、その特許とっきょせんじゅうさんせんとの結合けつごう決議けつぎする。阪神電気鉄道はんしんでんきてつどうはこの事態じたいおどろき、総会そうかい無効むこう訴訟そしょう提出ていしゅつ用地ようち買収ばいしゅう妨害ぼうがいといった活動かつどうた。

しかし訴訟そしょう1918ねん12月までに阪神はんしん敗北はいぼくというかたち決着けっちゃくがつき、計画けいかくにおける最大さいだい問題もんだいであった建設けんせつ資金しきんかんしても、大戦たいせん景気けいきけて増資ぞうし借用しゃくようというかたち確保かくほすることができた。その資材しざい価格かかく高騰こうとうという問題もんだいはあったものの、ようやく計画けいかく前進ぜんしんすることになったのである。

ゆう1917ねん6月1にちじゅうさんせん計画けいかく阪神はんしんあいだ競争きょうそうおこなうにたって優位ゆういにすべく、ふたた南側みなみがわルートへの変更へんこう申請しんせいおこなった。これにたいしては、伊丹いたみなどから「約束やくそく反故ほご」だとして抗議こうぎこえがったものの、結局けっきょくは「塚口つかぐち経由けいゆし、そこから伊丹いたみまで支線しせん敷設ふせつすること」を条件じょうけんにして8がつ29にち認可にんかくだった。

阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつという社名しゃめい

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箕面みのお有馬ありま電気でんき軌道きどうは1918ねん大正たいしょう7ねん2がつ4にち阪神はんしんあいだ輸送ゆそう参入さんにゅうすることをしめすため、社名しゃめい阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつあらためた。その通称つうしょうは「阪神はんしん急行きゅうこう」や「阪急はんきゅう」となり、現在げんざいでは正式せいしき社名しゃめいにまでもちいられるほどになった後者こうしゃは、このときまれたというてん特筆とくひつされる。

なお、正式せいしき社名しゃめいを「電気でんき鉄道てつどう」の略称りゃくしょうである「電鉄でんてつ」としたり、既存きそん阪神電気鉄道はんしんでんきてつどうなどにたいして速達そくたつせいをアピールするため「急行きゅうこう」の文字もじれたのも、これがはつ事例じれいであった。前者ぜんしゃは、「軌道きどうほう準拠じゅんきょして敷設ふせつされているのに、『鉄道てつどう』はおかしいのではないか」という鉄道てつどうしょう指摘してき対抗たいこうすべく、小林こばやしかんがしたもので、以後いご軌道きどうほうもとづいて建設けんせつされた路線ろせんが、高速こうそく鉄道てつどう移行いこうするさい活用かつようされることとなる[よう出典しゅってん]

神戸こうべせん開業かいぎょう

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1920ねん大正たいしょう9ねん7がつ16にち紆余曲折うよきょくせつがありながらも神戸こうべせんとして、宝塚たからづかせんじゅうさんえき起点きてん神戸こうべえきうえ筒井つつい)にいた区間くかんと、免許めんきょ申請しんせい条件じょうけんとされていた伊丹線いたみせん開業かいぎょうする。

神戸こうべせんのルートは既存きそん阪神はんしん本線ほんせん東海道とうかいどう本線ほんせんより北側きたがわ山手やまて沿いの人口じんこう過疎かそ地域ちいき直線ちょくせんてきすくないえきすうむすぶものとなり、同社どうしゃ宝塚たからづかせん阪神電気鉄道はんしんでんきてつどう路線ろせん集落しゅうらくうようにカーブを多用たようし、おおくのえきもうけたのとは対照たいしょうてきであった。また架線かせんかんしても、それまでの直接ちょくせつつるししきではなく、シンプルカテナリつるししき採用さいようした。

これらの選択せんたく高速こうそく運転うんてん可能かのうにし、開業かいぎょう各駅かくえき停車ていしゃながら梅田うめだえき(※当時とうじ) - 神戸こうべうえ筒井つついえきあいだを50ふんと、阪神はんしんより12ぶん速達そくたつ運転うんてんをおこなった。小林こばやし開業かいぎょう新聞しんぶんに「奇麗きれいはやうて、ガラアキ、ながめの素敵すてきによいすずしい電車でんしゃ」と路線ろせん特徴とくちょうせてアピールをおこなっている。

しかし小林こばやし自身じしんが「ガラアキ」とみとめたように、沿線えんせん過疎かそであるうえ既存きそんの2路線ろせん競合きょうごうする神戸こうべせん乗客じょうきゃくすうはしばらく低迷ていめいした。宝塚たからづかせんより圧倒的あっとうてき乗客じょうきゃくすうひく状態じょうたい昭和しょうわ10年代ねんだいまでつづくが、そのために様々さまざま集客しゅうきゃくのための努力どりょくおこなわれるようになる。

運行うんこうめんではまず1922ねん大正たいしょう11ねん)5がつ全国ぜんこく私鉄してつ先駆さきがけて電車でんしゃしゅうでん装置そうち従来じゅうらいのポールからパンタグラフに交換こうかんした。これにともな速度そくど向上こうじょう可能かのうとなり、阪神はんしんあいだ所要しょよう時間じかんを12月には40ふん短縮たんしゅくさせている。また、新車しんしゃ投入とうにゅう宝塚たからづかせんより優先ゆうせんしておこなわれることになり、日本にっぽんはつぜんはがねせい車両しゃりょうとなる600かたち1926ねん大正たいしょう15ねん)に導入どうにゅうされている。

そして宝塚たからづかせん開業かいぎょう同様どうよう沿線えんせん開発かいはつすすめられた。六甲山ろっこうざん開発かいはつ小林こばやし人的じんてきコネクションによる学校がっこう誘致ゆうち梅田うめだ方向ほうこうぎゃくかう乗客じょうきゃく流動りゅうどう確保かくほ目的もくてきとした)などのほか、住宅じゅうたく開発かいはつにはとくちかられられた。住宅じゅうたく開発かいはつには、このころになると阪急はんきゅう本体ほんたいのみならず様々さまざま民間みんかん業者ぎょうしゃ参入さんにゅうするようになっており、その結果けっか六甲ろっこう山麓さんろく西宮にしのみやななえん代表だいひょうされるような高級こうきゅう住宅じゅうたくがい形成けいせいされ、さらには阪神はんしんあいだモダニズムばれるような独自どくじ文化ぶんか生活せいかつけん構築こうちくしている。

なお前述ぜんじゅつしたように、ゆう時代じだい免許めんきょ取得しゅとくしていた宝塚たからづか - 西宮にしのみやはぜのきえんあいだ路線ろせんについては、終点しゅうてん神戸こうべせん接続せつぞくする西宮北口にしのみやきたぐちえき変更へんこうしたうえで、1922ねん大正たいしょう11ねん9月2にち西宝さいほうせんとして開業かいぎょうした。1926ねん大正たいしょう15ねん12月18にちには阪神はんしん本線ほんせん接続せつぞくする今津いまづえきまで延伸えんしんされ、今津線いまづせん改称かいしょうしている。

梅田うめだえき付近ふきん変遷へんせん

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神戸こうべせん開業かいぎょう梅田うめだえきげん大阪おおさか梅田うめだえき) - じゅうさんえきあいだ宝塚たからづかせん線路せんろ共用きょうようしており、さらには併用へいよう軌道きどう残存ざんそんしていた。また起点きてんとなる梅田うめだえきにしても、当時とうじ地上ちじょうはしっていた国鉄こくてつ東海道本線とうかいどうほんせんえるかたちで、大阪おおさかえき南側みなみがわゆう時代じだいもうけられた地上ちじょうえきを、2めん2せんから3せん拡張かくちょうさせただけで使用しようしていた。

しかし、運転うんてん本数ほんすう増加ぞうかにより将来しょうらいてきにはさばききれなくなることが予想よそうされたこと、それに阪神はんしん国鉄こくてつとの競合きょうごうじょう併用へいよう軌道きどうのこしたままでは高速こうそくによる対抗たいこう困難こんなんであったことから、どう区間くかん線路せんろべつ複々線ふくふくせん専用せんよう軌道きどう決定けっていされた。1924ねん大正たいしょう13ねん)に新淀川しんよどがわ橋梁きょうりょうえをおこなったことからこの工事こうじはじまり、1926ねん大正たいしょう15ねん7がつ5にち完成かんせいする。これにともな梅田うめだは2めん4せん高架こうかえきとなったが、地上ちじょう併用へいよう軌道きどう区間くかんかんしても、1949ねん昭和しょうわ24ねん1がつ1にち休止きゅうしとなるまで北野線きたのせんという支線しせんあつかいで、北野きたのえきいた区間くかんまでが残存ざんそんした。さらにこの用地ようち北野線きたのせん休止きゅうし1959ねん昭和しょうわ34ねん)、京都きょうとせん梅田うめだれにともなさん複線ふくせん工事こうじさい活用かつようされている。

なお1920ねん大正たいしょう9ねんごろからはせきはじめひきいる大阪おおさか、それに都市とし改良かいりょう計画けいかく調査ちょうさかいにより「将来しょうらいてきには、大阪おおさか市街しがいにおける国鉄こくてつ私鉄してつせん高架線こうかせんないし地下ちかせんにし、市街しがい分断ぶんだんしている線路せんろ踏切ふみきり除去じょきょする」という内容ないよう計画けいかくがっており、それにともな国鉄こくてつ大阪おおさかえきも貨客を分離ぶんりしたうえで、旅客りょかく専用せんよう高架こうかえきとする計画けいかくがっていた。そうなると、高架こうかえきとして開設かいせつされた梅田うめだえき付近ふきんかんしては、ふたた地上ちじょうせんうつ必要ひつようがある。そのため高架こうかさいし、えき部分ぶぶんかんしては、すぐ撤去てっきょ可能かのうなように鉄骨てっこつ構造こうぞうつくられていた。

その1928ねん昭和しょうわ3ねん)、大阪おおさかえき貨物かもつあつかいが新設しんせつされた梅田うめだ貨物かもつえき移行いこうされると、高架こうか工事こうじはいよいよ具体ぐたいし、1931ねん昭和しょうわ6ねん)6がつには鉄道てつどうしょう当時とうじ国有こくゆう鉄道てつどう運営うんえい組織そしき)より阪急はんきゅうへ、梅田うめだえき付近ふきん地上ちじょうせん移行いこうする要請ようせいされた。しかし、その費用ひようを「全額ぜんがく阪急はんきゅう負担ふたんせよ」としたことから同社どうしゃでは反発はんぱつし、以後いご2ねんあまりこのけんしょうめることとなった。結局けっきょく住民じゅうみんなどからも早期そうき高架こうかおこなうべく要請ようせいされたため、1933ねん昭和しょうわ8ねん)8がつ一部いちぶ費用ひようしょう負担ふたんすることで妥協だきょう成立せいりつし、1934ねん昭和しょうわ9ねん6月1にち深夜しんや共同きょうどう工事こうじ実施じっしすることとなった。

この工事こうじ国鉄こくてつ阪急はんきゅうども列車れっしゃ長期間ちょうきかん運休うんきゅうさせず、まさに「一夜いちや」で実施じっしすることになっていた。阪急はんきゅうがわでは神戸こうべせん運転うんてんを20宝塚たからづかせん運転うんてんを2330ふんり、600にん動員どういんして0までに軌道きどう撤去てっきょした。そして鉄道てつどうしょうがわでは1200にん動員どういんし、前日ぜんじつまでに準備じゅんびされていた東海道とうかいどう本線ほんせん城東じょうとうせん大阪環状線おおさかかんじょうせん)の橋脚きょうきゃくをはめんだ。さらには国鉄こくてつ地上ちじょうせん撤去てっきょ阪急はんきゅう地上ちじょうえきへの線路せんろ接続せつぞくおこなわれたが、やく5あいだ作業さぎょう終了しゅうりょうした。なおこの工事こうじでは、小林こばやしみずか出向でむいて陣頭じんとう指揮しきおこなっている。

地上ちじょうえきへの移行いこう阪急はんきゅうだい規模きぼ拡張かくちょう工事こうじ実施じっしし、1936ねん昭和しょうわ11ねん)には7めん8せんという巨大きょだいターミナルえき成長せいちょうした。なお、国鉄こくてつせん部分ぶぶん使つかわれていた2つの橋脚きょうきゃく解体かいたいして保管ほかんされ、1つは神戸こうべせん住吉すみよしがわ橋梁きょうりょう1938ねん昭和しょうわ13ねん)の阪神はんしんだい水害すいがい流出りゅうしゅつしたさい、その代替だいたいとして活用かつようされている。

ちなみに、地上ちじょうせんから高架線こうかせんがる部分ぶぶんには1000ぶんの30(30パーミル)の勾配こうばいができ、ラッシュなどにはえき発車はっしゃする電車でんしゃがノロノロとのぼっていく姿すがたることができた。また1959ねん昭和しょうわ34ねん)には京都きょうとせんれで9めん9せんとなるものの、手狭てぜまであったことから京阪神けいはんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ時代じだい1970ねん昭和しょうわ45ねん) - 1972ねん昭和しょうわ47ねん)にかけ、東海道とうかいどう本線ほんせん北側きたがわ現在地げんざいち移転いてんされている。

ターミナルデパート

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阪急はんきゅう神戸こうべせん開業かいぎょうから4かげつの1920ねん大正たいしょう11ねん)11月、自社じしゃ建設けんせつした梅田うめだビル1かい日用にちよう雑貨ざっかあつか白木屋しらきや出張所しゅっちょうしょれ、同時どうじに2かいにおいて直営ちょくえい食堂しょくどう営業えいぎょう開始かいしした。これは、日本にっぽんにおけるターミナル・デパートの先駆せんくとされている[だれによって?]

1925ねん大正たいしょう14ねん)には白木屋しらきやとの契約けいやく終了しゅうりょうともない、「阪急はんきゅうマーケット」として今度こんど直営ちょくえいでこれを営業えいぎょうすることにした。しかし、なにぶん鉄道てつどう事業じぎょうにしかかかわったことのいものによる運営うんえいであったことから、失敗しっぱいおおくあったといわれている[だれによって?]

1929ねん昭和しょうわ4ねん)3がつには、梅田うめだえきビルの改築かいちくともな前述ぜんじゅつした「阪急はんきゅうマーケット」を拡張かくちょうするかたちで、当時とうじ世界せかいでもるいない鉄道てつどう会社かいしゃ直営ちょくえいデパート、「阪急百貨店はんきゅうひゃっかてん」が開店かいてんした(1947ねん独立どくりつ会社かいしゃとして分離ぶんりする)。なお、開業かいぎょうさいしては百貨店ひゃっかてん経営けいえいのノウハウをけるため、百貨店ひゃっかてん関係かんけいしたものをほとんど審査しんさなしで採用さいようしたり、アメリカなど諸国しょこくのそれの視察しさつをおこなったりしている。

これにかんしては周囲しゅういから反対はんたいこえつよかったが、「素人しろうとだからこそかることもある」・「便利べんり場所ばしょなら暖簾のれんなしできゃくあつまる」という小林こばやしげんもあり、大戦たいせん長期ちょうき不況ふきょうにもかかわらず盛況せいきょうおさめた。この鉄道てつどう事業じぎょうしゃによる百貨店ひゃっかてん経営けいえいは、のち東横ひがしよこ百貨店ひゃっかてん京阪けいはんデパートなど、私鉄してつでも採用さいようされている。

三宮さんのみや高架こうか騒動そうどう

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神戸こうべせん敷設ふせつさいし、当初とうしょ市街地しがいちはなれたうえ筒井つついをターミナルとする予定よていはなく、三宮さんのみやへのれを計画けいかくしていた。しかし、阪急はんきゅう高架線こうかせんでのれを主張しゅちょうしていたのにたいし、神戸こうべでは市街しがい分断ぶんだんされるとして地下ちか主張しゅちょう沿線えんせん住民じゅうみんによる高架線こうかせん反対はんたい運動うんどうもあって交渉こうしょう暗礁あんしょうげていたため、うえ筒井つつい暫定ざんていターミナルとして開業かいぎょうさせたのである。

神戸こうべでは、おなじく市街しがい地上ちじょうせんかよっていた東海道とうかいどう本線ほんせん阪神はんしん本線ほんせんについても、地下ちかせんにするよう要請ようせいしていた。このうち阪神はんしんについては、市内しない存在そんざいする併用へいよう軌道きどう高架こうか解消かいしょうしようとかんがえていたものの、要望ようぼうおうじて地下ちかせんへの計画けいかく変更へんこう承諾しょうだくした(1933ねん実施じっし)が、東海道とうかいどう本線ほんせんについては鉄道てつどうしょう費用ひようばいになることを理由りゆう難色なんしょくしめし、結局けっきょく1931ねん昭和しょうわ6ねん)に高架こうか実施じっしされた。

阪急はんきゅうでは東海道とうかいどう本線ほんせん既成きせい事実じじつげてねばづよ交渉こうしょうつづけ、神戸こうべせん開業かいぎょうから13ねんたった1933ねん昭和しょうわ8ねん)、ようやく三宮さんのみや高架こうかれにかんして神戸こうべかい承諾しょうだくることができた。これにともな工事こうじ開始かいしされることになる。

このころになると東海道とうかいどう本線ほんせんでも電化でんか工事こうじすすめられ、1934ねん昭和しょうわ9ねん)7がつ吹田すいたえき - 明石あかしえきあいだ電化でんか完成かんせいには、大阪おおさかえき - 三ノ宮さんのみやえきあいだを24ふん走破そうはする急行きゅうこう電車でんしゃ関西かんさい急電きゅうでん運行うんこう開始かいしされていた。また、前述ぜんじゅつしたように阪神はんしんでも併用へいよう軌道きどう解消かいしょうによる高速こうそくおこなわれており、阪急はんきゅうとしてもこれらへの対抗たいこうじょう神戸こうべのターミナルえき市街地しがいちかつ交通こうつう接点せってんうつ必要ひつようがあった。

1936ねん昭和しょうわ11ねん4がつ1にち三宮さんのみや新設しんせつされた神戸こうべえき1968ねん三宮さんぐうえき2013ねん神戸こうべ三宮さんぐうえき改称かいしょう)へのれをたす。このときえき全体ぜんたいつつむようにして神戸こうべ阪急はんきゅうビル建設けんせつされ、1995ねん平成へいせい7ねん)に阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさい倒壊とうかいするまでのあいだ神戸こうべにおけるひとつのシンボルとなった。

この三宮さんのみやれにともない、それまでのうえ筒井つついにあったきゅう神戸こうべえきうえ筒井つついえき改称かいしょうし、1940ねん昭和しょうわ15ねん5がつ20日はつか廃止はいしされるまでの4年間ねんかん西にしなだえき王子おうじ公園こうえんえき)とのあいだ支線しせんうえ筒井つついせんとして単行たんこう90かたち電車でんしゃによるかえ運行うんこうおこなわれた。

また、神戸こうべせんでは1930ねん昭和しょうわ5ねん4がつ1にちより専用せんよう車両しゃりょう900かたちもちいて、ぜん区間くかんを30ふんはし特急とっきゅう運転うんてん開始かいしされていた(1934ねん7がつに25ふん運転うんてん短縮たんしゅく)が、この三宮さんのみやれにより名実めいじつどもに「阪神はんしん急行きゅうこう」として、省線しょうせん急行きゅうこう電車でんしゃ対抗たいこうできる水準すいじゅんとなった。そのおもててい速度そくどは78.0km/h、最高さいこう速度そくどは95.0km/hで、おもててい速度そくど軌道きどうほうぞくする路線ろせんとしては最高さいこう鉄道てつどうせんふくめても阪和はんわ電気でんき鉄道てつどうちょう特急とっきゅう阪和はんわ天王寺てんのうじえき - 阪和はんわひがし和歌山わかやまえきあいだ45ふん運転うんてんおもててい速度そくど81.6km/h)にぎ、日本にっぽんだい2となるはやさであった。

開業かいぎょう阪神電気鉄道はんしんでんきてつどうとの対立たいりつ

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神戸こうべせん敷設ふせつ特許とっきょ収得しゅうとく経緯けいいからかるとおり、阪神電気鉄道はんしんでんきてつどう自社じしゃせん並行へいこう路線ろせんとなる阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつこころよおもわなかった。その同社どうしゃ阪神国道はんしんこくどう国道こくどう2ごうじょうはし路面ろめん電車でんしゃ敷設ふせつ決定けっていされると、さらなる競合きょうごう阻止そしすべく積極せっきょくてき支援しえん介入かいにゅうおこなっている(1927ねん子会社こがいしゃ阪神国道はんしんこくどうでんとして開業かいぎょう1928ねん買収ばいしゅうして阪神国道はんしんこくどうせんとし、1975ねん廃止はいし)。

開業かいぎょう当初とうしょ阪神電気鉄道はんしんでんきてつどう専務せんむは「やま沿いをはし路線ろせんでは採算さいさんれないだろう」と同情どうじょうてきなコメントをおくったりもしているが、同線どうせん沿線えんせん開発かいはつすすむにつれて自社じしゃのテリトリーをおかす、強力きょうりょくなライバルであるという意識いしきゆうするようになった[よう出典しゅってん]

そのためきゃくのがすまいと、御影みかげ神戸こうべ市街しがいにあった併用へいよう軌道きどう解消かいしょうして全線ぜんせん62ふんから35ふんへのスピードアップをしたほか、線形せんけいめん不利ふりぶん本数ほんすうおぎなおうと、4ふんごと急行きゅうこうかく停電ていでんしゃをそれぞれはしらせる頻発ひんぱつ運転うんてんおこなった。阪神はんしんではこれを「たずにれる阪神はんしん電車でんしゃ」としてアピールしている。また、一時いちじ乗客じょうきゃくタオルはなくばったり(阪急はんきゅう呼応こおうして同様どうようのことをした)と、採算さいさん無視むししたサービスもおこなった。

そのだい阪神はんしんせんとしてこう規格きかく別線べつせん敷設ふせつによる複々線ふくふくせんさえも計画けいかくされた。その一部いちぶは、現在げんざい阪神はんしんなんばせんとして開業かいぎょうしている。

当然とうぜんながら競争きょうそう阪神はんしんあいだ直通ちょくつうきゃくのみならず、沿線えんせんでもおこなわれた。それは、りょうせん東海道とうかいどう本線ほんせんはさんで近接きんせつする西宮にしのみや芦屋あしや神戸こうべあたりにおいてとく顕著けんちょであった。そのなかには、いささか現代げんだいからると陰湿いんしつ、あるいは子供こどもじみたようなものも存在そんざいした。おもなものをげると、以下いかのようになる。

西宮にしのみや神社じんじゃ参拝さんぱいきゃく輸送ゆそう

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「えべっさん」としてしたしまれる西宮にしのみや神社じんじゃは、阪神はんしん西宮にしのみやえき最寄もよえきであった。当然とうぜん同社どうしゃせん参拝さんぱいきゃく輸送ゆそうおおくをになっていたわけであるが、阪急はんきゅうではこの輸送ゆそうむことを画策かくさくした。西宮にしのみやにおける神戸こうべせんえきは、当時とうじから西宮北口にしのみやきたぐちえき夙川しゅくがわえきの2つしかなかったが、1がつ10日とおかはさんで3日間にちかん開催かいさいされる十日とおかえびすまつりにわせ、りょうえきあいだ臨時りんじえき西宮にしのみやえびすえき)を設置せっち、「えびすさんへは阪急はんきゅうへ」と宣伝せんでんをおこなった。

しかし1がつ9にちよいえびすばん臨時りんじえきから神社じんじゃかうみち街灯がいとう突如とつじょ停電ていでんした。これによって乗客じょうきゃく迷惑めいわくこうむった。この地域ちいきにおいて配電はいでん事業じぎょうがけていた阪神はんしんが、阪急はんきゅうへの妨害ぼうがいたくらんでおこなったことであった[よう出典しゅってん]

1942ねん昭和しょうわ17ねん)の配電はいでん統制とうせいれいによって、日本にっぽんはつ送電そうでんと9つの配電はいでん会社かいしゃ戦後せんご現在げんざい電力でんりょく会社かいしゃとなる)へ現物げんぶつ出資しゅっしおこない、電力でんりょく事業じぎょうしゃがそれらに統一とういつされるまでのあいだおおくの電気でんき鉄道てつどう会社かいしゃでは自社じしゃ発電はつでんしょからつくられる電気でんき周辺しゅうへん地域ちいき供給きょうきゅうしていた。これは戦前せんぜん電気でんき鉄道てつどう運営うんえいにおいては重要じゅうよう収益しゅうえきげんであり、なかには宮川みやがわ電気でんき三重交通みえこうつう神都しんとせん1961ねん全廃ぜんぱい)のように電力でんりょく会社かいしゃ余剰よじょう電気でんきもちいて電車でんしゃ運営うんえいおこなうという、まったぎゃく事例じれい大口おおぐち電力でんりょく供給きょうきゅうさき確保かくほ目的もくてき)もあった。

プロ野球やきゅう球団きゅうだん球場きゅうじょう

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小林こばやし阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ発足ほっそくまえ1915ねん大正たいしょう4ねん)、学生がくせい野球やきゅうろく大学だいがく野球やきゅう)の人気にんき全国ぜんこく中等ちゅうとう学校がっこう野球やきゅう優勝ゆうしょう大会たいかいげん全国ぜんこく高等こうとう学校がっこう野球やきゅう選手権せんしゅけん大会たいかい)の開催かいさいて、さらなる野球やきゅう発展はってん見込みこみ、日本にっぽんにおいても職業しょくぎょう野球やきゅうプロ野球やきゅう球団きゅうだん設立せつりつする構想こうそうえがいた[3]日本にっぽんはつのプロ野球やきゅう球団きゅうだんである日本にっぽん運動うんどう協会きょうかい関東大震災かんとうだいしんさい影響えいきょうで1924ねん大正たいしょう13ねん)に解散かいさんしたさいには、これをり「宝塚たからづか運動うんどう協会きょうかい」としてさい結成けっせいさせている。しかし日本にっぽんにプロ野球やきゅう根付ねつくには時期じき尚早しょうそうであり、これは1929ねん昭和しょうわ4ねん)に解散かいさんした。

阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう阪神はんしん甲子園こうしえん球場きゅうじょう位置いち関係かんけい

その阪神はんしん西宮にしのみや南部なんぶ阪神はんしん甲子園こうしえん球場きゅうじょうを1924ねん大正たいしょう13ねん)に開設かいせつ、そしてだい日本にっぽん東京とうきょう野球やきゅう倶楽部くらぶ読売よみうりジャイアンツ設立せつりつけ、さん大都市だいとしけんにおける野球やきゅう試合しあい開催かいさいおこな構想こうそうり、1935ねん昭和しょうわ10ねん)に大阪おおさかタイガース(阪神はんしんタイガース)を設立せつりつすると、阪急はんきゅうでもこれに対抗たいこうして1936ねん昭和しょうわ11ねん)にふたた野球やきゅうへの参入さんにゅう決定けってい宝塚たからづか球場きゅうじょう根拠地こんきょちに「阪急はんきゅう職業しょくぎょう野球やきゅうだん」(阪急はんきゅうブレーブス→オリックス・バファローズ)を設立せつりつした。阪急はんきゅうはそれにらず、翌年よくねんには甲子園こうしえん球場きゅうじょうから2kmらずの至近しきん距離きょり西宮北口にしのみやきたぐちえきのそばに阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう開設かいせつしている。阪神はんしんタイガースの初代しょだい監督かんとくであるもり茂雄しげおは、阪急はんきゅうへの敗北はいぼく要因よういんとなって解任かいにんされている。

阪急はんきゅう1988ねん昭和しょうわ63ねん)に球団きゅうだん経営けいえいから撤退てったいしたのち1991ねん平成へいせい3ねん)から阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょうはフランチャイズ球場きゅうじょうではなくなった[4]。その2002ねん平成へいせい14ねん)に閉鎖へいさ2005ねん平成へいせい17ねん)までに解体かいたいされている。

六甲山ろっこうざん開発かいはつ

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阪急はんきゅう六甲山ろっこうざん観光かんこう開発かいはつ目的もくてきに、傍系ぼうけい会社かいしゃとして六甲ろっこう登山とざん架空かくう索道さくどう六甲ろっこうロープウェイ)を設立せつりつ、1931ねん昭和しょうわ6ねん9月22にちより六甲山ろっこうざんぞう井谷いたに - 六甲山ろっこうさんホテルぜんあいだでロープウェイ(索道さくどう)の営業えいぎょう開始かいしする。

すると阪神はんしん対抗たいこうして六甲越ろっこうごえ有馬ありま鉄道てつどうろくきのえ摩耶まや鉄道てつどう)を設立せつりつし、1932ねん昭和しょうわ7ねん)(昭和しょうわ7ねん3がつ10日とおか土橋どばし六甲ろっこうケーブル) - 六甲ろっこうさん六甲ろっこう山上さんじょうあいだ索道さくどう並行へいこうしてケーブルカー鋼索こうさく鉄道てつどう)を開業かいぎょうさせた。

その前者ぜんしゃ不要ふよう不急ふきゅうせんとして1944ねん昭和しょうわ19ねん1がつ11にち撤去てっきょされるまでのあいだ客寄きゃくよせできそったといわれている[だれによって?]。また、六甲ろっこう山麓さんろく頂上ちょうじょう開発かいはつでも競合きょうごうられた。

六甲山ろっこうざんでの開発かいはつ競争きょうそうは、六甲ろっこうさん#大正たいしょうから戦前せんぜん参照さんしょう

あまたから電鉄でんてつをめぐる対立たいりつ

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1922ねん大正たいしょう11ねん)に不動産ふどうさん開発かいはつおこなっていた西宮にしのみや土地とちが、阪神はんしん出屋敷でやしきえき起点きてんとして武庫川むこがわ並行へいこうし、伊丹いたみ経由けいゆして阪急はんきゅうにとって聖域せいいきともいえた宝塚たからづかえきいた鉄道てつどう路線ろせん敷設ふせつ計画けいかくてた。阪神はんしんはこの計画けいかく便乗びんじょうして、計画けいかく実施じっし必要ひつよう会社かいしゃ設立せつりつのための資金しきん半分はんぶんたるがく出資しゅっし決意けつい、1924ねん大正たいしょう13ねん2がつ6にち宝塚たからづか尼崎あまがさき電気でんき鉄道てつどうあまたから電鉄でんてつ)を設立せつりつした。

阪急はんきゅうはこの計画けいかく免許めんきょ交付こうふ対抗たいこうすべく、尼崎あまがさき西宮にしのみや宝塚たからづか循環じゅんかん電気でんき鉄道てつどうしょうし、今津線いまづせん伊丹いたみせん延伸えんしんして宝塚たからづかえき - 伊丹いたみえき - 塚口つかぐちえき - 阪神はんしん尼崎あまがさきえき - (西宮にしのみや海岸かいがん) - 今津いまづえき - 西宮北口にしのみやきたぐちえき - 宝塚たからづかえきという、環状かんじょうせん敷設ふせつ計画けいかく早速さっそく立案りつあんし、特許とっきょ申請しんせいす。阪神はんしんはこれにさい対抗たいこうし、出屋敷でやしきえき - (高洲たかす東浜ひがしはま) - 今津いまづえきあいだ軌道きどう敷設ふせつ特許とっきょ申請しんせい提出ていしゅつした。

結局けっきょく阪急はんきゅう尼崎あまがさきえき - 今津いまづえきあいだのぞいてすべてに特許とっきょ交付こうふされたが、実際じっさい建設けんせつされたのは尼崎あまがさき海岸かいがんせんあまたから電鉄でんてつのみで、それも前者ぜんしゃ大半たいはん後者こうしゃ全部ぜんぶ未成みせいせんした。あまたから電鉄でんてつ完成かんせいした路盤ろばんは、バス専用せんよう自動車じどうしゃどう(→兵庫ひょうごけんどう42ごう尼崎あまがさき宝塚たからづかせん)として転用てんようされた。

しかし阪神はんしんでは、あまたから電鉄でんてつ路盤ろばんもちいたバス専用せんよう自動車じどうしゃどう活用かつようし、子会社こがいしゃ阪神国道はんしんこくどう自動車じどうしゃのち阪神はんしん統合とうごう阪神電鉄はんしんでんてつバス(げん阪神はんしんバス)となる)によって、大阪おおさか梅田うめだ新道しんどう - 宝塚たからづかあいだ東光寺とうこうじ (西宮にしのみや)門戸もんこ厄神やくじん)などにれるバスの運行うんこう開始かいしした。阪急はんきゅうはここで妨害ぼうがいをいれ、バスけないようにバリケード構築こうちくしたり、みちほそくして通行つうこうしにくくするなどの工作こうさくをおこなったといわれている[だれによって?]

トロリーバスと甲陽線こうようせん

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1922ねん大正たいしょう11ねん)、阪神はんしん子会社こがいしゃとして摂津せっつ電気でんき自動車じどうしゃ設立せつりつし、西宮にしのみや西部せいぶこうはぜのきそのえきより北上ほくじょうし、苦楽くらくえんあたりにいたトロリーバス無軌道むきどう電車でんしゃ)の敷設ふせつ計画けいかくてた。

阪急はんきゅうでは、この計画けいかく自社じしゃせんのテリトリーをおかすものとして反発はんぱつ同年どうねん12がつ急遽きゅうきょ本来ほんらい予定よていかった、神戸こうべせん夙川しゅくがわえきより分岐ぶんきしてきのえようそのえきいた甲陽線こうようせん敷設ふせつ認可にんかけ、1924ねん大正たいしょう13ねん10月1にち開業かいぎょうさせた。

その阪神はんしんのトロリーバス計画けいかく具体ぐたいせず、1931ねん昭和しょうわ6ねん)には摂津せっつ電気でんき自動車じどうしゃ解散かいさんした。なお戦後せんごには阪神電鉄はんしんでんてつバスにより、甲陽線こうようせんのエリアを周回しゅうかいするようなルートの西宮にしのみや山手やまてせん開設かいせつされた(2006ねんより阪神はんしんバスへ移管いかん)。


京阪電気鉄道けいはんでんきてつどう統合とうごう分離ぶんり

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京阪神急行電鉄の社章
京阪神けいはんしん急行きゅうこう電鉄でんてつやしろあきら

にちちゅう戦争せんそう - 太平洋戦争たいへいようせんそうだい世界せかい大戦たいせん)の進展しんてんにより、産業さんぎょうかいでも戦時せんじ体制たいせい強化きょうかされ、1943ねん昭和しょうわ18ねん)には陸上りくじょう交通こうつう事業じぎょう調整ちょうせいほう根拠こんきょとし、阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ京阪電気鉄道けいはんでんきてつどう対等たいとう合併がっぺいすることになった。

もともと、合併がっぺい対象たいしょうとしては競合きょうごうする阪神電気鉄道はんしんでんきてつどうほう妥当だとうではないかとられていたが、阪神はんしん沿線えんせん軍需ぐんじゅ工場こうじょうゆうしており、さらに政財界せいざいかいへのパイプもふとかったことから単独たんどくのこることが可能かのう判断はんだんされたのにたいし、一方いっぽう京阪けいはん昭和しょうわ初期しょきしん京阪けいはん鉄道てつどう現在げんざい阪急はんきゅう京都きょうと本線ほんせん千里線せんりせん嵐山線あらしやません運営うんえい)・奈良なら電気でんき鉄道てつどう近鉄きんてつ京都きょうとせん運営うんえい)・阪和はんわ電気でんき鉄道てつどうJR阪和線はんわせん運営うんえい)などへ過大かだい投資とうしをし、その債務さいむ処理しょりながらくわれたことから経営けいえい基盤きばんよわいと判断はんだんされ、結局けっきょく阪急はんきゅうとの統合とうごういたったといわれている[だれによって?]

この合併がっぺい形式けいしきてきには京阪けいはん解散かいさんし、阪急はんきゅう京阪神けいはんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ改称かいしょうするかたち実施じっしされた。京阪けいはん合併がっぺい社名しゃめいたんに「きょう阪神電気鉄道はんしんでんきてつどう」とすることを提案ていあんしていたが、阪急はんきゅうがわ意向いこうで「急行きゅうこう」がのこったといわれている[だれによって?]。なお、公式こうしき略称りゃくしょうは「京阪神けいはんしん」とされ[5]対外たいがい呼称こしょうとして「京阪神けいはんしん急行きゅうこう」「京阪神けいはんしん急行きゅうこう電車でんしゃ」をもちいていた[6]実際じっさいにはほとんど定着ていちゃくせず、利用りようきゃく依然いぜんとして「阪急はんきゅう」・「京阪けいはん」・「しん京阪けいはん」(京阪けいはんゆうするきゅうしん京阪けいはん鉄道てつどう路線ろせん合併がっぺい時点じてんでは京阪けいはんしん京阪けいはんせん総称そうしょうしていた)などとんでいたといわれている。プロ野球やきゅう阪急はんきゅうぐんも、京阪けいはんとの合併がっぺい期間きかんちゅうつうじて「阪急はんきゅう」の名称めいしょうあらためることはなかった[7][8]

戦中せんちゅう戦後せんごには資材しざい不足ふそくによる車両しゃりょう故障こしょう破損はそん、それに空襲くうしゅう被害ひがいなどで運行うんこうもままならない状態じょうたいつづくが、そんななか1944ねん昭和しょうわ19ねん4がつ8にちには、しん京阪けいはんせん急行きゅうこう電車でんしゃじゅうさんえきより宝塚たからづかせん経由けいゆし、梅田うめだえきれる(戦争せんそう末期まっき空襲くうしゅう事故じこ影響えいきょう一旦いったん中断ちゅうだん)などといった、両社りょうしゃ統合とうごう象徴しょうちょうする出来事できごともあった。

その近畿日本鉄道きんきにほんてつどう東京急行電鉄とうきょうきゅうこうでんてつのように、戦中せんちゅう強制きょうせいてき統合とうごうされた鉄道てつどう会社かいしゃ解体かいたいおこなわれることになり、京阪神けいはんしん急行きゅうこうでもきゅう京阪けいはんサイドから分離ぶんり圧力あつりょくたかまった。そのさい完全かんぜん合併がっぺいまえ状態じょうたいもどすべきだというこえつよかったが、結局けっきょくきゅう阪急はんきゅうがわ発言はつげんりょくおおきいことも影響えいきょうし、しん京阪けいはんせんのこして分離ぶんりすることになった[よう出典しゅってん]当時とうじ京阪神けいはんしん急行きゅうこう太田垣おおたがき士郎しろう社長しゃちょうは、分離ぶんり正式せいしき決定けっていした1949ねん昭和しょうわ24ねん9月27にち臨時りんじ株主かぶぬし総会そうかいに「淀川よどがわ西岸せいがん各線かくせんしん京阪けいはんせんきゅう阪急はんきゅう各線かくせん)は日本にっぽん国有こくゆう鉄道てつどう国鉄こくてつ)との競合きょうごうおおきく、高速こうそく新車しんしゃ投入とうにゅうなどを積極せっきょくてきおこな必要ひつようがあるのにたいし、東岸とうがん各線かくせん京阪けいはんせん大津線おおつせん)は観光かんこう輸送ゆそうめんでの特色とくしょく発揮はっきする必要ひつようがあり、双方そうほうのためにもこの地域ちいきブロックによる分離ぶんりおこなうのが妥当だとう」という内容ないようのコメントをしている[9]おなじコメントの末尾まつびでは「京阪神けいはんしん急行きゅうこう電鉄でんてつとしても、しん会社かいしゃをあくまで兄弟きょうだい会社かいしゃとして育成いくせいする義務ぎむ責任せきにんかんじている次第しだいである」ともべている[9][10]

1949ねん12月1にちに(しん京阪電気鉄道けいはんでんきてつどう分離ぶんり発足ほっそくし、京阪神けいはんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ社名しゃめいはそのままながらきゅうしん京阪けいはんせん(このとき京都きょうとせん改称かいしょう地域ちいきふくめ、「阪急はんきゅう」とばれるようになった。1973ねん昭和しょうわ48ねん4がつ1にちには定着ていちゃくした略称りゃくしょうをそのまま正式せいしき社名しゃめい採用さいようし、阪急電鉄はんきゅうでんてつ改称かいしょうしている。

なお、合併がっぺいまえ両社りょうしゃ系列けいれつにあったバス事業じぎょうしゃ阪急はんきゅうがわ阪神はんしん合同ごうどうバス→阪急はんきゅうバス(1946ねん改称かいしょう)、京阪けいはんがわ京阪けいはん自動車じどうしゃげん京阪けいはんバス))については統合とうごう対象たいしょうとならなかったため、両社りょうしゃ合併がっぺいちゅうべつ会社かいしゃであったが、京阪けいはんさい分離ぶんりともない、1951ねん京阪けいはん自動車じどうしゃ淀川よどがわ西岸せいがん路線ろせん阪急はんきゅうバスに譲渡ゆずりわたされている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 株式会社かぶしきがいしゃ年鑑ねんかん. あきら18年版ねんばん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)
  2. ^ a b 地方ちほう鉄道てつどう及軌どう一覧いちらん. 昭和しょうわ18ねん4がつ1にち現在げんざい国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)
  3. ^ 小林こばやしが1923ねんごろ執筆しっぴつしたと推定すいていされる「職業しょくぎょう野球やきゅうだん打診だしん」という文章ぶんしょうでさらに具体ぐたいてき構想こうそうべている(小林こばやし著書ちょしょわたしかた』(みなみ書院しょいん、1935ねん)に収録しゅうろく)。なお、全国ぜんこく中等ちゅうとう学校がっこう野球やきゅう優勝ゆうしょう大会たいかい最初さいしょ開催かいさい阪急はんきゅう建設けんせつ保有ほゆうしていた豊中とよなかグラウンドである。
  4. ^ 1991ねんから1996ねんまで、はるなつ高校こうこう野球やきゅう全国ぜんこく大会たいかい(この期間きかんちゅう阪神はんしん甲子園こうしえん球場きゅうじょうはプロ野球やきゅう使用しようできない)期間きかんちゅう阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう阪神はんしんタイガースの主催しゅさい試合しあい実施じっししていた。また、阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう最後さいご開催かいさいされたプロ野球やきゅう公式こうしきせん阪神はんしんせんだった。
  5. ^ しん京阪けいはんせん京都きょうとがわターミナルだった京阪けいはん京都きょうとえきげん大宮おおみやえき)は合併がっぺい同時どうじに「京阪神けいはんしん京都きょうとえき」に、1945ねん交野かたの電気でんき鉄道てつどう合併がっぺいしたさいには「交電いわふなえき」を「京阪神けいはんしんいわふなえき」にそれぞれ改称かいしょうしている(京阪神けいはんしんいわふなえき1948ねん廃止はいし)。
  6. ^ 毎日まいにちjp 「震災しんさいまえ神戸こうべ昭和しょうわ20ねん6がつ神戸こうべ阪急はんきゅう会館かいかん写真しゃしんより
  7. ^ 1947ねんに「阪急はんきゅうベアーズ」をて「阪急はんきゅうブレーブス」となる。
  8. ^ おなじく私鉄してつ傘下さんかのプロ野球やきゅうだんだった南海なんかいぐんは、南海なんかい鉄道てつどう関西かんさい急行きゅうこう鉄道てつどう合併がっぺいして近畿日本鉄道きんきにほんてつどうになったのにともない、「近畿きんき日本にっぽんぐん」に改称かいしょうしている。
  9. ^ a b 京阪電気鉄道けいはんでんきてつどう株式会社かぶしきがいしゃ史料しりょう編纂へんさん委員いいんかいへん)『鉄路てつろじゅうねん京阪電気鉄道けいはんでんきてつどう、1960ねん、pp.315 - 316
  10. ^ 実際じっさい京阪神けいはんしん急行きゅうこう新生しんせい京阪けいはん株式かぶしき出資しゅっし一部いちぶけている。

関連かんれん項目こうもく

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