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エルトゥールル号遭難事件 - Wikipedia

エルトゥールルごう遭難そうなん事件じけん

1890ねん和歌山わかやまけん紀伊きい大島おおしま東方とうほう海上かいじょう発生はっせいした軍艦ぐんかん海難かいなん事件じけん

エルトゥールルごう遭難そうなん事件じけん(エルトゥールルごうそうなんじけん)は、1890ねん明治めいじ23ねん9月16にち夜半やはんオスマン帝国ていこく現在げんざいトルコ一部いちぶ)の軍艦ぐんかんエルトゥールルごう (Ertuğrul Fırkateyni) が、現在げんざい和歌山わかやまけん東牟婁ひがしむろぐん串本くしもとまちにある紀伊大島きいおおしま樫野かしの東方とうほう海岸かいがん沿いで遭難そうなんし、500めい以上いじょう犠牲ぎせいしゃした事件じけん[1]日本にっぽん海難かいなん史上しじょうはつだい規模きぼ外国がいこくせん海難かいなん事故じこである[2]

エルトゥールルごう殉難じゅんなん将士しょうし慰霊いれい
和歌山わかやまけん串本くしもとまち
オスマン帝国ていこく海軍かいぐん「エルトゥールル」

事件じけん経緯けいい

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訪日ほうにち

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アブデュルハミト2せい
 
オスマン・パシャ艦長かんちょう

日本にっぽんとオスマン帝国ていこくとのあいだでは1887ねんおこなわれた小松こまつみやあきらじん親王しんのう夫妻ふさいイスタンブール訪問ほうもん契機けいき皇室こうしつ儀礼ぎれい関係かんけいはじまり、アブデュルハミト2せい明治天皇めいじてんのう勲章くんしょう奉呈ほうていするためにエルトゥールルごう日本にっぽん派遣はけんすることとなった[2]

エルトゥールルごう船体せんたい整備せいびけたうえで1889ねん7がつ14にちにイスタンブールを出港しゅっこうし、数々かずかず困難こんなんいながらも航海こうかい途上とじょうったインドインドネシアなどのイスラム諸国しょこく歓迎かんげいけつつ、11ヶ月かげつかけて1890ねん6月7にちにようやく日本にっぽん到着とうちゃくした。横浜よこはまこう入港にゅうこうしたエルトゥールルごう司令しれいかんオスマン・パシャを特使とくしとするいちぎょうは、同年どうねん6がつ13にちアブデュルハミト2せいからの皇帝こうてい親書しんしょ明治天皇めいじてんのう奉呈ほうていし、オスマン帝国ていこく最初さいしょ親善しんぜん訪日ほうにち使節しせつだんとして歓迎かんげいけた。

帰途きと遭難そうなん

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紀伊大島きいおおしまトルコ記念きねんかん直下ちょっか海岸かいがん画像がぞうおく中央ちゅうおう岩礁がんしょうにエルトゥールルごうげ、座礁ざしょうした。

エルトゥールルごうかんよわい26ねん老朽ろうきゅうかんだったうえ、補給ほきゅうひん不足ふそく乗員じょういん経験けいけん不足ふそくなどもあり、そもそも極東きょくとうきの航海こうかい自体じたい海軍かいぐん内部ないぶ反対はんたい意見いけんつよく、日本にっぽんにたどりいたこと自体じたい大変たいへん幸運こううんだとみられていた。そして出港しゅっこう以来いらい蓄積ちくせきつづけたかん消耗しょうもう乗員じょういん消耗しょうもう資金しきん不足ふそくともな物資ぶっし不足ふそく限界げんかいたっしていた。

さらにエルトゥールルごうではコレラわざわい発生はっせいし、1890ねん9がつ15にちになってようやく横浜よこはま出港しゅっこうすることとなった[2]遠洋えんよう航海こうかいえないエルトゥールルごう消耗しょうもうぶりをみた日本にっぽんがわ台風たいふう時期じきをやりごすように勧告かんこくするも、オスマン帝国ていこくがわはその制止せいしって帰路きろについた。

このように無理むりしてエルトゥールルごう派遣はけんされたうらには、インド東南とうなんアジアムスリム(イスラム教徒きょうと)にイスラム教いすらむきょう盟主めいしゅ・オスマン帝国ていこく国力こくりょく誇示こじしたい皇帝こうてい・アブデュルハミト2せい意志いしはたらいており、出港しゅっこう強行きょうこうしたのも、日本にっぽんまりつづけることでオスマン帝国ていこく海軍かいぐん弱体じゃくたい流布るふされることを危惧きぐしたためとわれている。遭難そうなん事件じけんはその帰途きとこった。

1890ねん9がつ16にち21ごろ[3]おりからの台風たいふうによる強風きょうふうにあおられたエルトゥールルごう紀伊大島きいおおしま樫野かしの埼につらなる岩礁がんしょう激突げきとつし、座礁ざしょうした機関きかんへの浸水しんすいによる水蒸気すいじょうき爆発ばくはつ発生はっせいした結果けっか、22時半じはんごろに沈没ちんぼつした[3]。これにより、司令しれいかんオスマン・パシャドイツばんをはじめとする600めい以上いじょううみされた。

救難きゅうなん活動かつどう

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樫野かしの埼灯だい

樫野かしの埼灯だいしたながいた生存せいぞんしゃのうち、何人なんにんかが暗闇くらやみなか灯台とうだいかりをたよりに断崖だんがいのぼって灯台とうだいにたどりついた[2]

灯台とうだいには逓信ていしんしょう管轄かんかつ雇員こいん2めい灯台守とうだいもりとして勤務きんむしており、生存せいぞんしゃ介護かいごとともに大島おおしまむら現在げんざい串本くしもとまち樫野かしの地区ちく区長くちょう急報きゅうほうした[2]灯台守とうだいもり応急おうきゅう手当てあておこなったが、おたがいの言葉ことばつうじないことから国際こくさい信号しんごうはた使用しようし、遭難そうなんしたのがオスマン帝国ていこく海軍かいぐん軍艦ぐんかんであることをった[3]

樫野かしの地区ちく区長くちょうしま反対はんたいがわにある大島おおしま地区ちくにいた大島おおしま村長そんちょうおきあまねおき あまねにも使者ししゃおくり、翌日よくじつ午前ごぜん1030ふんごろつたえられた[2]おき村長そんちょうぐん役所やくしょ和歌山わかやま県庁けんちょう使者ししゃ派遣はけんし、むら居住きょじゅうする3にん医師いしとともに午前ごぜん1130ふんごろ現場げんば到着とうちゃくし、村民そんみんだい動員どういんして生存せいぞんしゃ探索たんさく負傷ふしょうしゃ救済きゅうさいおこなった[2]。このとき台風たいふうによって出漁しゅつぎょできず食料しょくりょうたくわえもわずかだったにもかかわらず、住民じゅうみん浴衣ゆかたなどの衣類いるいべいたまごサツマイモ、それに常用じょうようにわとりすら供出きょうしゅつするなど、生存せいぞんしゃたちの救護きゅうごつとめた。この結果けっか、656めいちゅう樫野かしのてら学校がっこう灯台とうだい収容しゅうようされた69めい救出きゅうしゅつされ、生還せいかん成功せいこうした。その一方いっぽう司令しれいかんのオスマン・パシャをふくめた587めい死亡しぼうまたは行方ゆくえ不明ふめいというだい惨事さんじとなった。

大島おおしま村長そんちょうおき生存せいぞんしゃ士官しかんから事情じじょう聴取ちょうしゅをすると17にち夕刻ゆうこく東京とうきょう海軍かいぐんしょう鎮守ちんじゅ打電だでんし、さらに18にち早朝そうちょうには村役場むらやくば雇員こいん巡査じゅんさと2めい生存せいぞんしゃ士官しかん領事館りょうじかん林立りんりつする神戸こうべ派遣はけんした[2]村長そんちょうからの連絡れんらくにより、19にち未明みめいには和歌山わかやま県庁けんちょう兵庫ひょうご県庁けんちょう第一報だいいっぽうけ、和歌山わかやま県庁けんちょう海軍かいぐんしょう兵庫ひょうご県庁けんちょうみや内省ないせい打電だでんした[2]

生存せいぞんしゃ士官しかんかった神戸こうべでは地方ちほう新聞しんぶんの『神戸こうべ又新またしん日報にっぽう』が19にちづけ号外ごうがいし、海難かいなんったドイツ領事館りょうじかん神戸こうべ停泊ていはくちゅうドイツ海軍かいぐん砲艦ほうかん「ウォルフ」を大島おおしま急行きゅうこうさせ、生存せいぞんしゃ大半たいはんは21にち早朝そうちょう神戸こうべ[3]和田わだみさき消毒しょうどくしょ[4][5]搬送はんそう収容しゅうようされた[2]

中央ちゅうおう政府せいふでは明治天皇めいじてんのう賓客ひんきゃくとしてむかえていたことからみや内省ないせい外国がいこく軍艦ぐんかんであることから外務省がいむしょう海軍かいぐんしょう海難かいなん事故じこであることから内務省ないむしょう逓信ていしんしょう対応たいおうたった[2]みや内省ないせい明治天皇めいじてんのう意向いこうけ、海軍かいぐんしょう軍艦ぐんかん急派きゅうは要請ようせいし、みや内省ないせい侍医じい日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃ要員よういん神戸こうべ経由けいゆ派遣はけんした[2]。このうち海軍かいぐんしょう八重山やえやま派遣はけんしたが出航しゅっこう手間取てまどり、ウォルフごうおくれをとり任務にんむ遂行すいこうまっと出来できなかった[2]神戸こうべ和田わだみさき消毒しょうどくしょではみや内省ないせい侍医じいによって生存せいぞんしゃ69めい診察しんさつされ介護かいごおこなわれた[2]

送還そうかん

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大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐんコルベットかんである「比叡ひえい」と「きむつよし」が遭難そうなん事故じこ20日はつか10月5にち東京とうきょう品川しながわわんから出航しゅっこうし、神戸こうべこう生存せいぞん乗員じょういん分乗ぶんじょうさせて1891ねん1がつ2にちにオスマン帝国ていこく首都しゅとイスタンブールまでおくとどけた[3]

比叡ひえい艦長かんちょう薩摩さつまはん出身しゅっしん田中たなかつなつね最終さいしゅう階級かいきゅう少将しょうしょう)は、オスマン帝国ていこく皇帝こうていアブデュルハミト2せいより勲章くんしょう下賜かしされた。そのほか、2せきには秋山あきやま真之まさゆき海兵かいへい17期生きせい少尉しょうい候補こうほせいとして乗船じょうせんした。ちなみに、エルトゥールルごう遭難そうなん事故じこから125ねんの2015ねんおこなわれた「日本にっぽんトルコ友好ゆうこう125周年しゅうねん追悼ついとう式典しきてん」に参加さんかするために、トルコ海軍かいぐんフリゲふりげト艦とかん「ゲディズ」が日本にっぽん寄港きこうしたさい、この訪日ほうにちにゲディズに「比叡ひえい」と「きむつよし」の名前なまえかんされたふたつの船室せんしつもうけられ、うち「比叡ひえい」が晴海はるみとう報道ほうどう公開こうかいされた[6]

日本にっぽんでは新聞しんぶんしゃ各社かくしゃ義援金ぎえんきん活動かつどうおこなったが、おおくのしゃ送金そうきん手続てつづきに戸惑とまどうなか、4,000えんえる義援金ぎえんきんあつめた『時事新報じじしんぽう』は送金そうきんふつ為替かわせもちいることとし、自社じしゃ記者きしゃ野田のだ正太郎しょうたろうたくして比叡ひえい便乗びんじょうさせオスマンちょう義援金ぎえんきん直接ちょくせつとどけた[2]野田のだはオスマンちょうわれてやく2年間ねんかんイスタンブールに駐在ちゅうざいし、日本人にっぽんじんはつのイスラーム世界せかいにおける派遣はけん駐在ちゅうざい記者きしゃとなり、野田のだよせこうさきでの記事きじは『時事新報じじしんぽう』に随時ずいじ掲載けいさいされ好評こうひょうはくした[2]

追悼ついとう検証けんしょう

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乗組のりくみいん合同ごうどうそう様子ようす[7]

1929ねん昭和しょうわ4ねん)6がつ3にち昭和しょうわ天皇てんのう串本くしもとまち行啓ぎょうけいしたさい、エルトゥールルごう記念きねんった[8][注釈ちゅうしゃく 1]。 1937ねん昭和しょうわ12ねん)6がつ3にち天皇てんのう大島おおしま行啓ぎょうけい記念きねん[10]山内やまうち海軍かいぐん少将しょうしょう日本にっぽんトルコ協会きょうかい総裁そうさい高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのう差遣さけん[11]ゲレデ大使たいし[12]けいじゅん大井おおい乗組のりくみいん学生がくせいたち参列さんれつしてちょうたましい除幕じょまくしきおこなわれた[注釈ちゅうしゃく 2]串本くしもとまちでは5ねんごとに追悼ついとう式典しきてんおこなわれており[14]2008ねん平成へいせい20ねん)には訪日ほうにちしていたアブドゥラー・ギュル大統領だいとうりょう同国どうこく大統領だいとうりょうとしてはじめてこのおとずれ、遭難そうなん慰霊いれいまえおこなわれた追悼ついとう式典しきてん出席しゅっせきし、献花けんかおこなった[15][16][17]

エルトゥールルごう残骸ざんがいは、2007ねん平成へいせい19ねん)からトルコを中心ちゅうしんすうこく水中すいちゅう考古学こうこがく国際こくさい調査ちょうさだん構成こうせいし、調査ちょうさすすめた[18][19][20][21]よく2008ねん平成へいせい20ねん)にはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく海洋かいよう考古学こうこがく研究所けんきゅうじょのトルコじんスタッフらが発掘はっくつ調査ちょうさおこない、遺骨いこつ弾丸だんがんなど1000てん以上いじょう遺品いひんげた。いかりいまだにつかっておらず、4ねん2010ねん平成へいせい22ねん)に沈没ちんぼつ地点ちてんちかくの海底かいていにて探索たんさく作業さぎょうおこなわれた[22]

遭難そうなん事件じけん日土ひづち関係かんけい

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エルトゥールルごう遭難そうなんはオスマン帝国ていこくないおおきな衝撃しょうげきんだが、アブデュルハミト2せいのもとでは人災じんさいとしての側面そくめんおおかくされ、天災てんさいによる殉難じゅんなん位置付いちづけて新聞しんぶんおおきく報道ほうどうされるとともに、遺族いぞくへの弔慰ちょういきんあつめられた。また、このときに新聞しんぶんつうじて大島おおしま村民そんみんによる救助きゅうじょ活動かつどう日本にっぽん政府せいふ尽力じんりょくおおきくつたえられ、当時とうじのオスマン帝国ていこく人々ひとびととお異国いこくである日本にっぽん日本人にっぽんじんたいして好意こういいたといわれている[よう出典しゅってん]

山田やまだ寅次郎とらじろう

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茶道さどうそう徧流跡取あととりである山田やまだ寅次郎とらじろうも、この事件じけん衝撃しょうげきけた日本人にっぽんじんのひとりであった。山田やまだ日本にっぽん国内こくない民間みんかんから『エルトゥールルごう事件じけん犠牲ぎせいしゃ遺族いぞくたいする義捐ぎえんきん』をあつめるキャンペーンをおこない、事件じけん翌々年よくよくねん当時とうじ外務がいむ大臣だいじんだった青木あおき周蔵しゅうぞう提案ていあんから、あつまった義捐ぎえんきんたずさえて一人ひとりでオスマン帝国ていこく首都しゅと・イスタンブールにわたった。

山田やまだ民間みんかんじんでありながら義捐ぎえんきんっておとずれたことが判明はんめいするやかれ国民こくみんから熱烈ねつれつ歓迎かんげいけ、数日すうじつには皇帝こうていアブデュルハミト2せい拝謁はいえつする機会きかいにすらめぐまれた。このとき、皇帝こうてい要請ようせいでオスマン帝国ていこくまることを決意けついした山田やまだはイスタンブールに貿易ぼうえき商店しょうてん中村なかむら商店しょうてん」をひらき、士官しかん学校がっこうにて少壮しょうそう士官しかん日本語にほんご日本にっぽん文化ぶんかおしえ、政府せいふ高官こうかんのイスタンブール訪問ほうもん手引てびきするなど、日土ひづち国交こっこう樹立じゅりつされないなか官民かんみん交流こうりゅう尽力じんりょくした。山田やまだ士官しかん学校がっこう教鞭きょうべんをとったさい、そのおしえをけた生徒せいとなかには、のちにトルコ共和きょうわこく初代しょだい大統領だいとうりょうとなったムスタファ・ケマルもいたとされる。

山田やまだがイスタンブール滞在たいざいちゅうこったにち戦争せんそう日本にっぽん勝利しょうりわると、ながらくロシア帝国ていこくから圧力あつりょくつづけて同様どうようにロシアの南下なんか圧力あつりょくさらされていた日本にっぽんたいし、親近しんきんかんたかめていたオスマン帝国ていこく人々ひとびとは、ひがし小国しょうこく日本にっぽん快挙かいきょとしてこれによろこび、熱狂ねっきょうした。日本海にほんかい海戦かいせんときバルチック艦隊かんたいやぶった連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんである東郷とうごう平八郎へいはちろう提督ていとくにちなみ、トーゴーという子供こどもにつけることが流行りゅうこうしたという。

日土ひづち国交こっこう

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日本にっぽんとオスマン帝国ていこく外交がいこう当局とうきょくによる国交こっこう交渉こうしょうなんおこなわれたが、両者りょうしゃ交渉こうしょう暗礁あんしょうげてうまくすすまず、結局けっきょくオスマン帝国ていこく滅亡めつぼうまで正式せいしき国交こっこうむすばれることはなかった。

1914ねん大正たいしょう3ねん)、だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつするとドイツ帝国ていこく同盟どうめいこくがわれられつつあったオスマン帝国ていこく対外たいがい情勢じょうせい緊迫きんぱくし、山田やまだはイスタンブールのみせ閉鎖へいさして日本にっぽん帰国きこくした。この戦争せんそうイギリス連合れんごうこくがわについた日本にっぽんはオスマン帝国ていこくとは敵同士かたきどうしとなり、戦後せんごのオスマン帝国ていこく解体かいたいとトルコ共和きょうわこく成立せいりつというまぐるしい情勢じょうせい変化へんかて、1924ねん大正たいしょう13ねん発効はっこうローザンヌ条約じょうやく締結ていけつ1925ねん大正たいしょう14ねん)の大使館たいしかん開設かいせつにより、日本にっぽん政府せいふとトルコ共和きょうわこく政府せいふ正式せいしき国交こっこうむすんだ。

イラン・イラク戦争せんそうちゅうにおけるトルコ航空機こうくうきによるテヘラン邦人ほうじん救出きゅうしゅつ事件じけん

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日本人にっぽんじんはこんだトルコ航空こうくうDC-10イズミルごう機体きたい記号きごうTC-JAY)

イラン・イラク戦争せんそうなかの1985ねん3がつイラクは、突然とつぜん、「48あいだの3がつ19にち午後ごご8以降いこう、イラン上空じょうくう航空機こうくうきは、民間みんかんふくめ、差別さべつ攻撃こうげきする」と宣言せんげんした。このとき、すでにテヘランは住宅じゅうたくがいふくめ、イラクの空爆くうばくけている状況じょうきょうで、200めい以上いじょう日本人にっぽんじんのこされていた。

これにさいし、隣国りんごくトルコのオザル首相しゅしょうは、重要じゅうようなパートナーでありみずか親友しんゆう森永もりなが堯氏(当時とうじ伊藤忠商事いとうちゅうしょうじイスタンブール支店してんちょう)に懇請こんせいされると即座そくざ英断えいだんくだし、テヘランの日本人にっぽんじん救出きゅうしゅつするためにトルコ航空機こうくうき派遣はけん決定けっていした[23]。このことは、エルトゥールル事件じけんむすびつけられて、「トルコはうみおんを、そらかえした」とわれることにもなった。

機長きちょうオルハン・スヨルジユ[注釈ちゅうしゃく 3]もと空軍くうぐんパイロットで、みずからフライトを志願しがんした。215めい日本人にっぽんじんはこれに分乗ぶんじょうし、全員ぜんいんトルコに救出きゅうしゅつされ、やがて日本にっぽん帰国きこくできた。トルコは、陸路りくろ脱出だっしゅつできる国民こくみんよりも、日本人にっぽんじん救出きゅうしゅつ優先ゆうせんしたのである。この救援きゅうえん搭乗とうじょうできなかったトルコじんやく500めいは、自動車じどうしゃでイランを脱出だっしゅつしている[注釈ちゅうしゃく 4]が、トルコの国民こくみんとメディアは、この対応たいおう好意こういてきれた[注釈ちゅうしゃく 5]

この逸話いつわ2002 FIFAワールドカップでのサッカートルコ代表だいひょうチームの活躍かつやくに、テレビ番組ばんぐみ雑誌ざっしげられた。2004ねんにはこれを紹介しょうかいした児童じどうしょ小学生しょうがくせい高学年こうがくねんけの読書どくしょ感想かんそうぶんコンクール課題かだい図書としょになった[注釈ちゅうしゃく 6]

2007ねん10月28にち、エルトゥールルごう回顧かいこてん[27]にあわせて東京とうきょう三鷹みたか中近東ちゅうきんとう文化ぶんかセンターでこの逸話いつわかんするシンポジウムが開催かいさいされた。当時とうじ関係かんけいしゃ[注釈ちゅうしゃく 3]出席しゅっせきし、事件じけん当時とうじちゅうイラン大使たいしであった野村のむらゆたかもそのとき経緯けいいかたっている[28]

2015ねんターキッシュ エアラインズ日本にっぽんれるエアバスA330かた「KUSHIMOTOごう」に、1985ねん当時とうじのデザインの特別とくべつ塗装とそうほどこした[注釈ちゅうしゃく 7]

実際じっさい経緯けいいと、映画えいが海難かいなん1890」におけるストーリーの相違そうい

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日本にっぽん・トルコ友好ゆうこう125周年しゅうねん記念きねんとして2015ねん制作せいさくされた日本にっぽんトルコ合作がっさく映画えいが海難かいなん1890』では、「日本にっぽん野村のむらゆたかちゅうイラン大使たいしがトルコがわはたらきかけて、トルコ航空機こうくうき派遣はけん決定けっていされた」という筋書すじがきになっているが、野村のむらもと大使たいし自身じしんはそうした発言はつげん主張しゅちょうはしていない。野村のむらもと大使たいし自身じしんかたったところによれば、同氏どうしは「フセインのうタイムリミットの前日ぜんじつの18にち夕方ゆうがた」に、ビルセル大使たいし当時とうじちゅうイラン・トルコ大使たいし)から、「明日あした、トルコ航空機こうくうきが2る。空席くうせきがあるから日本人にっぽんじん搭乗とうじょう希望きぼうしゃすうおしえてほしい」という電話でんわけた[注釈ちゅうしゃく 3]

すなわち、日本にっぽん外務省がいむしょうは、すべてがまったのちに、トルコ外務省がいむしょうからその連絡れんらくけたという経緯けいいであった[注釈ちゅうしゃく 3]ちなみに、映画えいが海難かいなん1890』には森永もりなが堯氏は登場とうじょうしておらず、そのてんでは、この映画えいが実際じっさいこった事実じじつとはちが内容ないようとなっている。

姉妹しまい都市とし記念きねん

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串本くしもとまちは、トルコの2つのまち姉妹しまい都市とし提携ていけいをしている。

  • ヤカケントまち、1964ねんから[30]
  • メルスィン、1975ねんから[30]。この港湾こうわん都市としにはクシモト・ストリートとばれる同市どうし最大さいだい繁華はんかがいがある。

樫野かしの埼灯だいそばにはエルトゥールルごう殉難じゅんなん将士しょうし慰霊いれいおよびトルコ記念きねんかんっており、まちざい日本にっぽんトルコ大使館たいしかん共催きょうさいによる慰霊いれいさいが5ねんごとにおこなわれている。

事件じけんから125ねんとなった2015ねんには、トルコ海軍かいぐん軍艦ぐんかんゲティズ下関しものせき串本くしもと東京とうきょうの3こうおとずれ、串本くしもとまちおこなわれた追悼ついとう式典しきてん参加さんかした[31]

2012ねん2がつから3がつにかけて日本にっぽん外務省がいむしょうがトルコの民間みんかん会社かいしゃ委託いたくしてった調査ちょうさによると、トルコでエルトゥールルの遭難そうなん事件じけんを「っている」と回答かいとうしたのは29.9%だった。おな調査ちょうさで、日本にっぽん経済けいざい協力きょうりょく案件あんけんであるだい2ボスポラス大橋おおはしは44.9%、マルマライ計画けいかくは52.5%だった[32]

エルトゥールルごう遭難そうなん事件じけんあつかった作品さくひん

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小説しょうせつ
  • 救出きゅうしゅつ日本にっぽん・トルコ友情ゆうじょうのドラマ』木暮こぐれ正夫まさお相沢あいざわるつ(アリスかんひとと“こころ"のシリーズ 4〉2004ねん[16]、75200254X、NCID BA6520044X
  • ひがし太陽たいよう西にし新月しんげつ日本にっぽん・トルコ友好ゆうこう秘話ひわ「エルトゥールルごう事件じけん山田やまだくに坂本さかもと俊夫としお現代書館げんだいしょかん 2007ねん[16]ISBN 9784768469583NCID BA83145445
  • うみつばさ:トルコ軍艦ぐんかんエルトゥールルごう救難きゅうなん秋月あきづき達郎たつお(2010ねん3がつ 新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ新人しんじんぶつ文庫ぶんこ あ-4-1〉ISBN 9784404037916
    • 〈PHP文芸ぶんげい文庫ぶんこ あ9-1〉に改版かいはん改題かいだいうみつばさ : エルトゥールルごう奇蹟きせき』(2014ねん7がつ NCID BB19348379
  • 『トルコ軍艦ぐんかんエルトゥールルごう海難かいなん』オメル・エルトゥール(Ertur, Omer S.)ちょ山本やまもと雅男まさお植月うえつきめぐみ一郎いちろう久保くぼ陽子ようこ やく(2015ねん11月 いろどりりゅうしゃ ISBN 9784779121562NCID BB20306627
  • 『ブルーアウト』鈴木すずき光司こうじ(2019ねん 小学館しょうがくかんISBN 9784093864305NCID BB20281504)。
児童じどうしょ絵本えほんふくむ)
  • 『エルトゥールルごう遭難そうなん トルコと日本にっぽんむすしん物語ものがたりりょう美千子みちこ ぶんいそ良一りょういち (2013ねん6がつ 小学館しょうがくかんクリエイティブ、小学しょうがくかん (発売はつばい)、ISBN 9784778037598NCID BB12915266厚生こうせい労働省ろうどうしょうどもたちにんでほしいほん選定せんてい図書としょ(2013ねん[33]
  • 加来かく耕三こうぞう 企画きかく構成こうせい監修かんしゅう学習がくしゅうまんが『歴史れきし感動かんどう! エルトゥールルごう遭難そうなん事件じけん : 日本にっぽんとトルコのきずな水谷みずたに俊樹としき 原作げんさく佐藤さとう尚美なおみ 作画さくが(2015ねん ポプラ社ぽぷらしゃ ISBN 9784591147252)。
  • 『タイヨウのくにとツキのふね』やまぐちさゆり さく、ちねしょうご 、ほんだけいし へん、トルコ併記へいき=Aysum Uyar Makibayashi やく(2018ねん4がつ 串本くしもとまち株式会社かぶしきがいしゃKCR 全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:23305703ISBN 978-4-909522-01-6
トルコ題名だいめいGüneş Ülkesı ve Ay Gemısı
漫画まんが
映画えいが
テレビ番組ばんぐみ
  • ひがし太陽たいよう 西にしつきぼしうみ記憶きおくそらかける・日本にっぽんとトルコ117ねん物語ものがたり〜』(制作せいさくBS朝日あさひ演出えんしゅつ千葉ちば龍之介りゅうのすけ、2007ねん3がつ10日とおか放送ほうそう
音楽おんがく

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 和歌山わかやま串本くしもとさんにち[9]中略ちゅうりゃく山路やまじ玉歩ぎょくほすすさせられ、明治めいじじゅうさんねんきゅうがつじゅうろくにちよる沈没ちんぼつしたみみ其軍かんエルトグロールごう運命うんめいともにした同國どうこく特派とくは使節しせつオスマンパシャ殿下でんか以下いかひゃくはちじゅうななめいつるしたましいまえたせられ、かしこくも會釋えしゃくたまものはつたのち樫野かしの燈臺とうだい臨幸りんこう熊野灘くまのなだ風光ふうこう展望てんぼうだい展望てんぼう以下いかりゃく
  2. ^ トルコ軍艦ぐんかん遭難そうなん記念きねん[13] 明治めいじ廿にじゅうさんねんきゅうがつじゅうろくにち日土ひづち親善しんぜん使命しめいはた歸國きこく遭難そうなんしたトルコ軍艦ぐんかんエルドグロールごう遭難そうなん紀南きなん熊野灘くまのなだ孤島ことう大島おおしま樫野崎かしのざき建設けんせつされたとむらいたましい除幕じょまくしきなみ慰靈いれいさいは三日午前九時日土協會總裁高松宮殿下御差遣の山内やまうち海軍かいぐん少将しょうしょう、ゲレデみみ大使たいし以下いか官民かんみんひゃくめい特派とくはされた軍艦ぐんかん大井おおいなみ地元じもと學童がくどうひゃくめい参列さんれつした盛大せいだい擧行きょこうされた(記事きじおわり)
  3. ^ a b c d シンポジウム登壇とうだんしゃ当該とうがいトルコ航空機こうくうきもと機長きちょうもと客室きゃくしつ乗務じょうむいん野村のむらゆたかもとちゅうイラン日本にっぽんこく特命とくめい全権ぜんけん大使たいし森永もりながはじめ伊藤忠商事いとうちゅうしょうじイスタンブール支店してんちょう毛利もうりさとるもと東京銀行とうきょうぎんこうテヘラン駐在ちゅうざいいんら。
  4. ^ その1994ねん自衛隊じえいたいほう改正かいせいされ、有事ゆうじ在外ざいがい邦人ほうじん国外こくがい脱出だっしゅつさせる必要ひつようしょうじたさいには、外務省がいむしょう在外ざいがい公館こうかんつうじて相手あいてこく許可きょかたうえで、防衛ぼうえい大臣だいじん指揮しき日本国にっぽんこく政府せいふ専用せんよう護衛ごえいかん用意ようい自衛隊じえいたい在外ざいがい邦人ほうじん輸送ゆそうすることになった。2013ねんアルジェリア人質ひとじち事件じけんではこのような自衛隊じえいたいによる救出きゅうしゅつ活動かつどうおこなわれた[24]自衛隊じえいたいはまた、在外ざいがい邦人ほうじん輸送ゆそう訓練くんれん毎年まいとしおこなっている。
  5. ^ このあいだ事情じじょうは、日本にっぽんトルコ協会きょうかい創立そうりつ80周年しゅうねん記念きねん『アナトリアニュース』だい118ごう所収しょしゅう森永もりなが寄稿きこうほかにくわしい[23][25][26]
  6. ^ だい50かい青少年せいしょうねん読書どくしょ感想かんそうぶん全国ぜんこくコンクールの小学校しょうがっこう高学年こうがくねん(5・6年生ねんせい課題かだい図書としょ木暮こぐれ正夫まさお さく相澤あいざわるつ 救出きゅうしゅつ 日本にっぽん・トルコ友情ゆうじょうのドラマ』(アリスかんISBN 4-7520-0254-X
  7. ^ この逸話いつわをとりあげた映画えいが海難かいなん1890』の公開こうかい記念きねんしたタイアップ[29]

出典しゅってん

編集へんしゅう
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  8. ^ 「7.和歌山わかやまけん大島おおしまむらみみ遭難そうなん軍人ぐんじん墓地ぼち関係かんけい 昭和しょうわよんねんろくがつじゅういちねんはちがつ」、本邦ほんぽうニ於ケル墓地ぼちなみ埋葬まいそう関係かんけい雑件ざっけん火葬かそう関係かんけい(G.3.2.0.3)(外務省がいむしょう外交がいこう史料しりょうかん)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.B04121153900  p.4
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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