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プレショフ - Wikipedia

プレショフスロバキア:Prešov [ˈpreʂɔw] 発音はつおん)は、スロバキア東部とうぶ都市としプレショウけんけんで、国内こくないだい3人口じんこうつ。

プレショフ
Prešov
プレショフの市旗 プレショフの市章
はた あきら
位置いち
プレショフの位置の位置図
プレショフの位置いち
位置いち
プレショウの位置(スロバキア内)
プレショウ
プレショウ
プレショウ (スロバキア)
プレショウの位置(中央ヨーロッパ内)
プレショウ
プレショウ
プレショウ (中央ちゅうおうヨーロッパ)
プレショウの位置(ヨーロッパ内)
プレショウ
プレショウ
プレショウ (ヨーロッパ)
座標ざひょう : 北緯ほくい4900ふん06びょう 東経とうけい2114ふん22びょう / 北緯ほくい49.00167 東経とうけい21.23944 / 49.00167; 21.23944
歴史れきし
最初さいしょ文献ぶんけん
登場とうじょうしたとし
1247ねん
行政ぎょうせい
くに スロバキアの旗 スロバキア
 けん プレショウ県の旗 プレショウけん
 ぐん プレショウぐん
  プレショフ
市長しちょう Pavel Hagyari
地理ちり
面積めんせき  
  市域しいき 70.40 km2
標高ひょうこう 250 m
人口じんこう
人口じんこう (2006ねん現在げんざい
  市域しいき 91,650にん
    人口じんこう密度みつど   1,302にん/km2
その
ひとしときおび 中央ちゅうおうヨーロッパ時間じかん (UTC+1)
夏時間なつじかん 中央ちゅうおうヨーロッパ夏時間なつじかん (UTC+2)
公式こうしきウェブサイト : www.presov.sk

歴史れきしてきに、EperiesまたはドイツPreschauハンガリーEperjesラテン語らてんごFragopolisポーランドPreszówロマPeryeshisルシンПряшів/Пряшyвラテン文字もじ表記ひょうきPriashiv/Priashuv)、ウクライナПряшівおおくの名前なまえばれてきた。

特徴とくちょう

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目立めだ産業さんぎょうとして、機械きかい電機でんき工学こうがく会社かいしゃ衣料いりょうひん会社かいしゃがある。スロバキア国内こくない唯一ゆいいつ岩塩がんえん採取さいしゅ製造せいぞう会社かいしゃソリヴァリは、プレショフで操業そうぎょうしている。

1まんにん以上いじょう生徒せいとがプレショフ市内しない大学だいがくかよう。8学部がくぶようするプレショフ大学だいがくコシツェ工科こうか大学だいがくである。プレショフには東方とうほう典礼てんれいカトリック教会きょうかい司教しきょうルーテル教会きょうかい司教しきょう正教会せいきょうかい主教しゅきょうがある。

プレショフは文化ぶんか都市としでもある。おおくのコンサート、オペラ、演劇えんげきがヨナーシュ・ザーボルスキー劇場げきじょう新館しんかん開催かいさいされる。

市内しないにはバロック様式ようしきロココ様式ようしきゴシック建築けんちくなどの建物たてものがある。歴史れきし的中てきちゅう心地ごこちでは、主要しゅよう大通おおどおりの両側りょうがわにこれらの様式ようしき教会きょうかい建物たてものならぶ。しかし、郊外こうがいると、ソビエト連邦れんぽう影響えいきょうあきらかな、どっしりとしたコンクリート建築けんちくのアパート(パネラーク建築けんちく)がシードリスカーやセクチョフつ。よりソビエトふう建物たてものは、中心ちゅうしん市庁舎しちょうしゃ建築けんちくぐんなかつけられる。

プレショフの場所ばしょひと定住ていじゅうした記録きろくおそくとも旧石器時代きゅうせっきじだいさかのぼる。発掘はっくつされた最古さいこ石器せっきマンモスほねは、およそ2まん8せんねんまえのものである。スラヴじんがこの地域ちいきうつんだのは、4世紀せいき5世紀せいきである。

11世紀せいきわりころからまちハンガリー王国おうこく一部いちぶとなり、マジャールじん兵士へいしたちがこのうつんだ。13世紀せいきおおくのドイツじんたちが、スピシュ地方ちほうからプレショフへやってきた。

プレショフの最初さいしょ記録きろくされたのは1247ねんである。1299ねん、プレショフは自治じち特権とっけんさづけられ、1374ねん王立おうりつ自由じゆう都市としとなった。これが工芸こうげい貿易ぼうえきとくティサがわ地方ちほうからポーランドへのワイン輸出ゆしゅつ)の発展はってん牽引けんいんした。15世紀せいき、プレショフは中世ちゅうせい都市としリーグ、パンタポリタナに加盟かめいした(その加盟かめい都市としは、バルデヨフレヴォツァコシツェサビノフ)。

プレショフの学校がっこう記録きろく1429ねんである。1572ねん、ソリヴァル(当時とうじ郊外こうがいまち現在げんざい一部いちぶ)で岩塩がんえん採掘さいくつはじまった。プレショフの重要じゅうようせいすにれ、1647ねんにはシャリシュ地方ちほう中心ちゅうしん都市としとなった。

1667ねんまちのルーテル教会きょうかい信徒しんとによって、重要じゅうよう福音ふくいんルーテル学校がっこうがつくられた。1687ねん代表だいひょうする市民しみん貴族きぞく22にんテケリ・イムレはく反乱はんらん荷担かたんしたとして処刑しょけいされた。

18世紀せいき初頭しょとう人口じんこう黒死病こくしびょう流行りゅうこう大火たいか減少げんしょうし、わずか2,000にんとなった。その20ねんほどでまちふたた工芸こうげい貿易ぼうえき再建さいけんさせ、あたらしい工場こうじょうった。1752ねん、ソリヴァルの岩塩がんえんこう洪水こうずい見舞みまわれた。以来いらい塩水えんすい沸騰ふっとうさせてしお製造せいぞうするようになった。1768ねんにポーランドでバール連盟れんめい結成けっせいされたさいに、オーストリア支持しじのもと、一時いちじプレショフに連盟れんめい参謀さんぼう本部ほんぶがおかれた。

1870ねん最初さいしょ鉄道てつどう路線ろせんがコシツェからプレショフへと建設けんせつされた。19世紀せいきわり、まちには電気でんき電話でんわ電信でんしん下水げすい処理しょりシステムが導入どうにゅうされた。1887ねん大火たいかまちだい部分ぶぶん延焼えんしょうした。1918ねん、プレショフはあらたに独立どくりつしたチェコスロバキア一部いちぶとなった。 だい世界せかい大戦たいせん前夜ぜんやミュンヘン協定きょうていによる初回しょかいウィーン裁定さいていで、コシツェ近隣きんりんまちふたたびハンガリーの一部いちぶとなった。その結果けっかとして、おおくの機関きかんがコシツェからプレショフへうつり、この移動いどう重要じゅうようせいした。1944ねん、プロの俳優はいゆう舞台ぶたいつスロバク劇場げきじょうがプレショフに創立そうりつされた。

1948ねんからの共産きょうさん主義しゅぎ時代じだい、プレショフは産業さんぎょう都市としとなった。1950ねんに28,000にんだった人口じんこう急速きゅうそく増加ぞうかし、1970ねんに52,000にん1990ねんに91,000にんとなった。

プレショフは海抜かいばつ250メートル地点ちてんにあり、面積めんせきは70.4平方へいほうキロメートルである[1]。スロバキア北東ほくとう、コシツェ盆地ぼんち北端ほくたんにある。市域しいきにセクチョフがわのトリサかわへの合流ごうりゅうてんがある。スランスケー・ヴルチ山地さんち南東なんとう、シャリシュスケー・ヴルショヴィナ山地さんち南西なんせい、バシュレニュ山地さんち西にし、チェルゴフ山地さんちきたである。近隣きんりん都市としコシツェはプレショフのみなみ34キロにあり、ポーランド国境こっきょうから50キロはなれている。首都しゅとブラチスラヴァからは陸路りくろで410キロはなれている。

プレショフは温帯おんたいぞくし、四季しきかれた大陸たいりくせい気候きこうである。あつなつさむゆきおおふゆ特徴とくちょうづけられる。

統計とうけい

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プレショフ聖堂せいどう

プレショフは2005ねん12月の調査ちょうさで91,621にん人口じんこうがある。2001ねん調査ちょうさによれば、人口じんこうの93.7%がスロバキアじん、1.4%がロマじん、1.2%がルシンじん、1.1%がウクライナじん、0.8%がチェコじん、0.2%がハンガリーじんである。信仰しんこうは、66.8%がカトリック教会きょうかい、13.6%が宗教しゅうきょう、8.9パーセントが東方とうほう典礼てんれいカトリック教会きょうかい、4.8%がルーテル教会きょうかいである[1]

姉妹しまい都市とし

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参照さんしょう

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  1. ^ a b Municipal Statistics”. Statistical Office of the Slovak republic. 2008ねん1がつ22にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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