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ベルリン王宮 - Wikipedia

ベルリン王宮おうきゅう(ベルリンおうきゅう、Berliner Stadtschloss)は、かつてドイツ首都しゅとベルリン中心ちゅうしんにあった宮殿きゅうでん1701ねんからはプロイセン王国おうこく国王こくおうの、1871ねんからはドイツ帝国ていこく皇帝こうてい居城きょじょうであった。

1920年代ねんだいのベルリン王宮おうきゅう西にしめん中央ちゅうおうもんがエオザンダーもん
かつてのベルリン王宮おうきゅう位置いちうすあか)。灰色はいいろ現在げんざい建物たてもの配置はいち
ルネサンスのベルリンじょう再現さいげん模型もけい

1918ねんドイツ革命かくめい君主くんしゅせいほろびて以来いらい王宮おうきゅう博物館はくぶつかんとして利用りようされてきたが、1945ねんえいべいぐん空襲くうしゅう焼失しょうしつし、その廃墟はいきょ1950ねんドイツ民主みんしゅ共和きょうわこくひがしドイツ)政府せいふによってこわされた。

しかしドイツさい統一とういつ以来いらいベルリン王宮おうきゅう再建さいけん提案ていあんされつづけ、2013ねんから再建さいけん工事こうじ本格ほんかくてきはじまった。王宮おうきゅう外観がいかん復元ふくげんしたあたらしいふくあい文化ぶんか施設しせつ名称めいしょうは「フンボルトフォーラム」(Humboldtforum)と決定けっていされ、2020ねん12月に開館かいかんした。

ドイツ帝国ていこく成立せいりつまでのベルリン王宮おうきゅう歴史れきし

編集へんしゅう

ドイツの「Stadtschloss」は、都市とし意味いみする「Stadt」としろ意味いみする「schloss」に分解ぶんかいできる。ベルリン王宮おうきゅうはもともとはしろあるいは要塞ようさいであり、シュプレーがわはさんでひがしにベルリン、西にしにケルン(Cölln、のちにベルリンに吸収きゅうしゅうされた)という双子ふたごしょう都市としがあった時期じきはしまもるようにケルンがわてられていた。しろっていたケルンのまちはフィッシャーとう(Fischerinsel、現在げんざい博物館はくぶつかんとう)とばれる中州なかすうえにあった。

 
1688ねんのベルリン(うすあか)およびケルン(うす)の地図ちず中州なかすであるケルンのきた半分はんぶん王宮おうきゅうがある
 
1880ねんごろのベルリン王宮おうきゅう裏側うらがわあずまつばさ)の写真しゃしんみぎ北側きたがわ)のおくには、ルネサンスふうかざりのあるみっつの破風はふがあるくすりとうえる
 
1702ねんごろのベルリン王宮おうきゅう
 
シュリュターホーフ(中庭なかにわ)、1830ねんごろ

ベルリン王宮おうきゅうができるまえ、この周囲しゅういブランデンブルクにあり、ベルリン・ケルンには1310ねんごろてられたホーエス・ハウスとばれるゴシック様式ようしきのレンガづくさんかいてのしろがベルリンがわひがしはしっていた。15世紀せいきはいり、ホーエス・ハウスはブランデンブルク辺境へんきょうはく居城きょじょうとなった。

1443ねんフリードリヒ2せいてつこうあたらしいベルリンじょうをケルン市街しがい北側きたがわきずいた。これがこうのベルリン王宮おうきゅうである。このしろおよび兵営へいえい目的もくてきは、中世ちゅうせい以来いらい都市とし特権とっけん手放てばなそうとせず中央ちゅうおう集権しゅうけんすすめる君主くんしゅしたがおうとしないベルリン市民しみんに、せんみかどこう権威けんいけるためのものであった。1448ねんころせんみかどこう対立たいりつふかめる市民しみんはホーエス・ハウスとベルリン市城いちしろ建設けんせつ現場げんばおそ事件じけんこすが、1451ねんせんみかどこうはベルリンじょう入居にゅうきょした。このしろはベルリン市街しがい対岸たいがんにあたる中州なかす東側ひがしがわ、シュプレーがわ沿ってさんかいてでながさ88mものなが建物たてものでありかわ礼拝れいはいどうしており、市民しみんからは「ケルン威圧いあつじょう」とばれきらわれた。このひがしつばさがベルリン王宮おうきゅう最初さいしょてられたむねである。

宗教しゅうきょう改革かいかく最中さいちゅう1538ねんヨアヒム2せいヘクトルしろ周囲しゅうい建物たてものこわし、主任しゅにん建築けんちくのカスパル・タイス(Caspar Theiss)にイタリアルネサンス様式ようしきのよりおおきく立派りっぱはなやかな装飾そうしょくほどこされた宮殿きゅうでんつくるようめいじた。タイスは既存きそん建物たてものみなみのケルン市街しがいめんするようにあらたなつばさつくりそのまえ広場ひろばつくった。この増築ぞうちく結果けっかじょうはLがた増築ぞうちくされ、さらに中州なかす中央ちゅうおうにもうひとむね増築ぞうちくされしろは「コ」のがたになった。しろまえ広場ひろば馬上もうえやり試合しあいなどの開催かいさいされるベルリン・ケルンの中心ちゅうしんとなった。16世紀せいきまつヨハン・ゲオルクはイタリアじん建築けんちくリナールはくロクス(Rochus Graf zu Lynar、イタリア:Rocco Guerrino di Linari、ロッコ・グェリーノ・ディ・リナーリ)にさらに西にしつばさきたつばさつくらせふたつの中庭なかにわのある「」のがた配置はいちとした。ひがしつばさきたのシュプレーかわ沿いには「くすりとう」(ホーフアポテーケ、Hofapotheke)とばれる錬金術れんきんじゅつ実験じっけんとうつくらせた。

さんじゅうねん戦争せんそう1618ねん - 1648ねん)ののちフリードリヒ・ヴィルヘルムだいせんみかどこうはオランダじん建築けんちくヨハン・ネリンク(Johann Nering)をやと宮殿きゅうでんをより壮麗そうれい改築かいちくした。かれ治世ちせいわりごろ、王宮おうきゅう北側きたがわ菜園さいえん薬草やくそうえんはオランダふう幾何きかがくてき庭園ていえんルストガルテンとなり、王宮おうきゅうないにはおおきな舞踏ぶとうかいしつやブラウンシュヴァイク・ギャラリーなどが完成かんせいした。

1699ねんフリードリヒ3せい1701ねんにプロイセンおう即位そくいし「フリードリヒ1せい」となる)はベルリンじょうをバロックしき王宮おうきゅう改造かいぞうする野望やぼうち、プロテスタント・バロックを代表だいひょうする建築けんちくでもとは彫刻ちょうこくであったアンドレアス・シュリューター(Andreas Schlüter)を王宮おうきゅう建築けんちく監督かんとくかんとする契約けいやくをし宮殿きゅうでんバロック様式ようしき改築かいちくさせた。かれのもと、既存きそん建物たてもの秩序ちつじょただしくよう所要しょようしょもんに4ほんコリントしきだい円柱えんちゅうはいしたバロックてき古典こてん主義しゅぎ外観がいかんそなえるようになり、宮殿きゅうでんない広間ひろま階段かいだんしつもバロックしき装飾そうしょくいろどられた。しかし1706ねん王宮おうきゅう北西ほくせいはし給水きゅうすいとうを「鋳造ちゅうぞうしょとう」(ミュンツトゥルム、Münzturm)に改造かいぞうする工事こうじ軟弱なんじゃく地盤じばんのために失敗しっぱいし、この責任せきにんってシュリューターは解任かいにんされた。より豪華ごうかおおきな宮殿きゅうでん建築けんちくあん提出ていしゅつしたライバル建築けんちくヨハン・フリードリヒ・エオザンダー・フォン・ゲーテ(Johann Friedrich Eosander von Göthe)がこうぐ。シュリューターのかれがけた円柱えんちゅう立像りつぞうならぶバロック様式ようしき中庭なかにわシュリューターホーフに、エオザンダーのはち角形かくがたのドームをいただいたバロック様式ようしき西門にしもん・エオザンダーもんにそれぞれのこった。凱旋がいせんもんしき入口いりくちおおきくうねるブロークン・ペディメントをせたエオザンダーもんさんかい部分ぶぶんにはエオザンダー・カペレという八角はっかくがたおおきな礼拝れいはいどうがあり王族おうぞく挙式きょしきなどがひらかれ、となりの「しろあいだ」(Weißen Saal)はプロイセンの歴史れきし舞台ぶたいとなった。

1713ねんにプロイセンおうとなったフリードリヒ・ヴィルヘルム1せいは、「兵隊へいたいおう」のあだどおり軍事ぐんじりょく増強ぞうきょうちからそそぎ、ルストガルテンを練兵れんぺいじょうえてしまい、王宮おうきゅう建設けんせつすすめていた職人しょくにん芸術げいじゅつたち解雇かいこした。このためエオザンダーの建築けんちくあん結局けっきょく部分ぶぶんてきにしか実現じつげんしなかったものの、18世紀せいきなかばには宮殿きゅうでん外観がいかんはほぼ後年こうねんとおりの姿すがたになった。

 
19世紀せいき絵画かいがえがかれたベルリン王宮おうきゅう正面しょうめんにはいえならび、全景ぜんけいることはできない
 
しろあいだ」(Weißen Saal)

最後さいご増築ぞうちくとなったのは1845ねんから1853ねんにかけて、フリードリヒ・ヴィルヘルム4せい時期じきにエオザンダー・カペレのうえてられただいドームで、カール・フリードリッヒ・シンケル設計せっけいもとづき、その弟子でしフリードリッヒ・アウグスト・シュテューラーがけたものであった。これにより礼拝れいはいどう巨大きょだいドームのしただい空間くうかんとなった。これ以後いご宮殿きゅうでん外観がいかんおおきな変化へんかはなかった。しかし内部ないぶは、ゲオルグ・ヴェンツェスラウス・フォン・クノーベルスドルフらによっておおきくくわえられている。

ベルリン王宮おうきゅうはプロイセンにおける1848ねん革命かくめいしゅ舞台ぶたいとなった。自由じゆう主義しゅぎしゃ市民しみんらは、フリードリヒ・ヴィルヘルム4せいてた憲法けんぽう制定せいてい自由じゆう主義しゅぎ改革かいかくドイツ統一とういつもとめる嘆願たんがんしょ王宮おうきゅうまえ結集けっしゅうし、フリードリヒ・ヴィルヘルム4せい王宮おうきゅうまえあつまっただい群衆ぐんしゅう要求ようきゅうれる約束やくそくをした。3月18にちには王宮おうきゅうまえでのおおきなデモが流血りゅうけつ暴動ぼうどうとなり、市街しがいせん発展はってんした。フリードリヒ・ヴィルヘルム4せいはプロイセン欽定きんてい憲法けんぽう制定せいていしたものの、自由じゆう主義しゅぎ改革かいかくおこなわず専制せんせいつづけた。こうしてベルリン王宮おうきゅうはベルリン市民しみんからプロイセンの専制せんせいのシンボルとみなされるようになる。

ドイツ帝国ていこくからだい大戦たいせんまでの歴史れきし

編集へんしゅう
 
ベルリン王宮おうきゅう西にしめん、1900ねんごろ。エオザンダーもんむかってカイザー・ヴィルヘルム記念きねん
 
そらからたベルリン王宮おうきゅう、1900ねんごろ
 
1946ねんひがしベルリン。王宮おうきゅう廃墟はいきょしたが外観がいかんのこっていた
 
王宮おうきゅうこわ工事こうじ。1950ねん9がつ

1871ねんヴィルヘルム1せいヴェルサイユ宮殿きゅうでんかがみあいだ統一とういつドイツの初代しょだい皇帝こうてい即位そくいし、ベルリン王宮おうきゅうドイツ帝国ていこく中心ちゅうしんとなった。帝国ていこく立憲りっけん君主くんしゅせいであり、1894ねん議会ぎかい内閣ないかく拠点きょてんとなる国会こっかい議事堂ぎじどう完成かんせいすると王宮おうきゅう政治せいじてきちからはかすむようになった。

だいいち世界せかい大戦たいせん末期まっき1918ねん11月にはいるとドイツ革命かくめい勃発ぼっぱつかく都市とし蜂起ほうき政変せいへんこり、11月9にちにはベルリンでもだい規模きぼデモがこった。政府せいふ機能きのう麻痺まひするなか同日どうじつにはフィリップ・シャイデマンフリードリヒ・エーベルトらとともに国会こっかい議事堂ぎじどうのバルコニーから共和きょうわこく樹立じゅりつ宣言せんげんおこなった。その2あいだスパルタクスだん指導しどうしゃであったカール・リープクネヒト王宮おうきゅうだいよんもんのバルコニーから「ドイツ社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく樹立じゅりつ宣言せんげんおこなった。このヴィルヘルム2せいオランダ亡命ぼうめいし、11月まつにはドイツ皇帝こうていおよびプロイセン国王こくおうからの退位たいい同意どういし、ドイツの帝政ていせい王政おうせいわりをげ、ベルリン王宮おうきゅう君主くんしゅ居所きょしょとしての役割やくわりわった。革命かくめいあいだもなく王宮おうきゅうは「人民じんみん海兵かいへいだん」(de)によって占拠せんきょされたが、12月23にちかれらが略奪りゃくだつはじめたため政府せいふによって攻撃こうげきされた(人民じんみん海兵かいへいだん事件じけん)。

ヴァイマル共和きょうわせい時期じき王宮おうきゅう一部いちぶ博物館はくぶつかんとなり、部分ぶぶん国家こっか式典しきてんなどの行事ぎょうじ使つかわれた。なおもホーエンツォレルン復位ふくいのぞ君主くんしゅせい支持しじしゃ活動かつどうしていたが、かれらののぞみは君主くんしゅせい反対はんたいするナチス政権せいけんにぎったことでついえることとなる。ナチス時代じだい王宮おうきゅうきゅう王族おうぞく無視むしされた存在そんざいであった。だい世界せかい大戦たいせん末期まっき王宮おうきゅう連合れんごうぐんばくげきけた。1945ねん2がつ3にち空襲くうしゅうでは小規模しょうきぼ被害ひがいたが、2がつ24にち空襲くうしゅうではベルリンをまも対空たいくう砲火ほうかもう迎撃げいげき部隊ぶたいはすでに崩壊ほうかい状態じょうたいであり、王宮おうきゅう焼夷弾しょういだん命中めいちゅう屋根やね内部ないぶ炎上えんじょうした。

終戦しゅうせんにはベルリン王宮おうきゅうちて廃墟はいきょしていたが、外壁がいへきもんなどの構造こうぞうぶつや「くすりとう」、「しろあいだ」など一部いちぶ部屋へや砲撃ほうげき銃撃じゅうげき損傷そんしょうしているもののくずれずにっており、王宮おうきゅう一部いちぶ1945ねんから1950ねんまでのあいだ屋根やねけられて仮設かせつ展示てんじじょうとして使用しようされた。おなじように廃墟はいきょとなりながらも外壁がいへきのこったベルリンの歴史れきしてき建築けんちくぶつおおく(たとえば博物館はくぶつかんとうやウンター・デン・リンデンのしょ建築けんちく、あるいはベルリン王宮おうきゅうより重大じゅうだい損害そんがいこうむったシャルロッテンブルク宮殿きゅうでんなど)は戦後せんご再建さいけん工事こうじ元通もとどおりの姿すがたもどしており、ベルリン王宮おうきゅう資金しきんをかけて再建さいけん工事こうじおこなえば復元ふくげんすることは可能かのう状態じょうたいだった。しかし王宮おうきゅうのある地区ちくソ連それんぐん占領せんりょうひがしベルリンとなっており、1949ねん発足ほっそくしたドイツ民主みんしゅ共和きょうわこくひがしドイツ)政府せいふ王宮おうきゅうをプロイセン軍国ぐんこく主義しゅぎ象徴しょうちょうとみて保存ほぞんしないことをめた。1950ねんの9がつ7にちから12月30にちにかけて王宮おうきゅう残骸ざんがいこわされ、都心としんにできたおおきな跡地あとちパレードのための広場ひろばとなった。唯一ゆいいつ、カール・リープクネヒトが社会しゃかい主義しゅぎ政府せいふ樹立じゅりつびかけたバルコニーのある部分ぶぶん外壁がいへきだけがこわされずにのこされた。

1964ねんひがしドイツ政府せいふ国家こっか評議ひょうぎかいビルを王宮おうきゅう跡地あとち南隣みなみどなり新築しんちくし、カール・リープクネヒトのバルコニーをそのファサードけた。王宮おうきゅう跡地あとちのうちひがし半分はんぶんには、エーリッヒ・ホーネッカー時代じだい1973ねんから1976ねんにかけてブロンズミラーガラス張がらすばりのおおきな近代きんだい建築けんちくである共和きょうわこく宮殿きゅうでん(Palast der Republik)がてられ、人民じんみん議会ぎかい(Volkskammer)や美術館びじゅつかん、レストラン、ボウリングじょうなどに利用りようされた。

1990ねん10月のドイツさい統一とういつ直前ちょくぜん共和きょうわこく宮殿きゅうでんアスベスト多数たすう使用しようされているとして閉鎖へいさされた。さい統一とういつ、ベルリン政府せいふ2003ねんまでアスベスト除去じょきょ作業さぎょうおこなったが、このにあった王宮おうきゅうをめぐって、共和きょうわこく宮殿きゅうでんこわして王宮おうきゅう再建さいけんする意見いけんひがしドイツ時代じだい遺産いさんである共和きょうわこく宮殿きゅうでんこわしに反対はんたいする意見いけんとが対立たいりつした。2003ねん11月、連邦れんぽう政府せいふ共和きょうわこく宮殿きゅうでんこわしの決定けっていおこない、2006ねん2がつから解体かいたい着手ちゃくしゅした。2008ねんなかばに解体かいたいわったのちは、将来しょうらい計画けいかく本決ほんぎまりになるまで跡地あとち利用りよう凍結とうけつし、当面とうめん駐車ちゅうしゃじょうとして利用りようすることとされた。

再建さいけん計画けいかく

編集へんしゅう
 
カール・リープクネヒトがっただいよんもんとバルコニーはのこされ、ちかくの国家こっか評議ひょうぎかいビルに移設いせつされた。現在げんざい欧州おうしゅう経営けいえい技術ぎじゅつ大学院だいがくいん(ESMT)がはいっている
 
王宮おうきゅう跡地あとち発掘はっくつ現場げんば
 
2011ねんから2018ねんれまでシュロスプラッツ南側みなみがわでオープンしていた仮設かせつ建築けんちく「フンボルトボックス」。開業かいぎょうのベルリン王宮おうきゅうフンボルトフォーラムについての情報じょうほう提供ていきょうし、発掘はっくつ再建さいけん現場げんば見渡みわたすことができた
 
ベルリン王宮おうきゅう外観がいかん再現さいげんされた文化ぶんか施設しせつフンボルトフォーラム(2023ねん

1991ねん以来いらいすくなからぬドイツ国民こくみんがベルリン王宮おうきゅう再建さいけん支持しじした。内部ないぶまでふくめた完全かんぜん再現さいげんのぞこえもあれば、外観がいかんのみ復元ふくげんして内部ないぶ現代げんだい建築けんちくとするという提案ていあんもあった。ベルリン王宮おうきゅう協会きょうかい(Gesellschaft Berliner Schloss)やベルリン王宮おうきゅう再建さいけん促進そくしん協会きょうかい(Förderverein Berliner Schloss)などといったロビー団体だんたい設立せつりつされ、2001ねんには統合とうごうしてベルリン王宮おうきゅうイニシアティブ(Stadtschloss Berlin Initiative)が発足ほっそくした。これらの団体だんたい王宮おうきゅう再建さいけんあんさい利用りようのありかたについて詳細しょうさい計画けいかく発表はっぴょうしており、王宮おうきゅう再建さいけんはベルリン中心ちゅうしんルストガルテンベルリンだい聖堂せいどう博物館はくぶつかんとうからなる歴史れきし地区ちくにさらなる統一とういつかん史跡しせき集積しゅうせき歴史れきしあつみをもどすことができると主張しゅちょうしている。

一方いっぽう再建さいけん反対はんたいする国民こくみんもいる。共和きょうわこく宮殿きゅうでんもドイツかた重要じゅうよう遺産いさんであるとして解体かいたい反対はんたいする意見いけんがあったほか、共和きょうわこく宮殿きゅうでん解体かいたい跡地あとちだい公園こうえんつくるべきとする意見いけんもある。また再建さいけんされる王宮おうきゅうはもはや歴史れきし遺産いさんではなく過去かこ建築けんちく様式ようしき模造もぞうひんぎないとする意見いけん王宮おうきゅう帝政ていせいドイツの植民しょくみん主義しゅぎという過去かこおもこさせるとする意見いけん時代じだい錯誤さくごであり経済けいざいてきなに意味いみもないとする意見いけんもある。またたとえ再建さいけんされたとしても、王宮おうきゅう内装ないそうについては、細部さいぶにいたる過去かこ記録きろく存在そんざいせずその再現さいげん必要ひつよう職人しょくにん技術ぎじゅつえているため正確せいかく再現さいげん困難こんなんという議論ぎろんもある。

これらの反対はんたい意見いけん存在そんざいや、ドイツ連邦れんぽう政府せいふ自体じたい財政難ざいせいなんのため、巨額きょがく費用ひようがかかる再建さいけんあん政府せいふ言及げんきゅうすることは次第しだいすくなくなっていた。2002ねんから2003ねんにかけて、超党派ちょうとうは議員ぎいん王宮おうきゅう部分ぶぶん再建さいけん支持しじする決議けつぎ連邦れんぽう議会ぎかい採択さいたくした。部分ぶぶん再建さいけんあたらしい建物たてもの名前なまえとしては、ベルリンで活躍かつやくしたアレクサンダー・フォン・フンボルトヴィルヘルム・フォン・フンボルト兄弟きょうだい精神せいしん教育きょういく知識ちしき文化ぶんかになるべきとして、「フンボルトフォーラム」が提案ていあんされた。しかし、最終さいしゅうてき政府せいふ決定けっていはなされなかった。

政府せいふつづ王宮おうきゅう跡地あとちさい利用りよう王宮おうきゅう再建さいけんもしくはあたらしい建造けんぞうぶつ建築けんちく)について検討けんとうかさね、2007ねん連邦れんぽう議会ぎかい王宮おうきゅう再建さいけん・フンボルトフォーラム建設けんせつのための最終さいしゅうてき決議けつぎ採択さいたくした。これによれば王宮おうきゅうのうちさんぽうのファサード(外観がいかん)が再現さいげんされるがのこ一方いっぽう建築けんちく自由じゆうにまかされ、内部ないぶ現代げんだい建築けんちくとなる予定よていである。2008ねん12月には建築けんちく設計せっけい競技きょうぎ結果けっかアルド・ロッシおしであったイタリアの建築けんちくフランコ・ステラ(Franco Stella)のあん採択さいたくされた。内部ないぶをどう利用りようするかは明確めいかくではなく、様々さまざまあんりざたされたが、ベルリン美術館びじゅつかんのうち、ダーレム地区ちくにあるヨーロッパ諸国しょこく美術びじゅつ紹介しょうかいする「民族学博物館みんぞくがくはくぶつかん」と「アジア美術館びじゅつかん」の移設いせつ決定けっていし、ここにフンボルト大学だいがくによる研究所けんきゅうじょ、ベルリン市立しりつ博物館はくぶつかん財団ざいだんによるベルリンの歴史れきし展示てんじしつ、かつての共和きょうわこく宮殿きゅうでんのようなレストランやイベントホール、映画えいがかんなどがくわわることになった。2009ねんにはこれらの事業じぎょうおこなうために、政府せいふ密接みっせつ連携れんけいしたNPOであるベルリン王宮おうきゅう・フンボルトフォーラム財団ざいだん(Stiftung Berliner Schloss – Humboldtforum)が組織そしきされた。

2013ねん6月12にちヨアヒム・ガウク大統領だいとうりょう出席しゅっせきのもと「ベルリン王宮おうきゅう・フンボルトフォーラム」の定礎ていそしきおこなわれ5おく9,000まんユーロをかけた再建さいけん工事こうじ本格ほんかくした[1][2]2015ねん定礎ていそしき同日どうじつの6がつ12にち上棟じょうとうしき(Richtfest)をむかえ、よく13、14にち一般いっぱん公開こうかいされておおくの市民しみんおとずれた[3]完成かんせい2019ねん予定よていしていたが、技術ぎじゅつめんなど諸般しょはん事情じじょう延期えんきとなり2020ねん10がつ完成かんせい予定よていとしていた[4]新型しんがたコロナウイルス感染かんせんしょうのパンデミックによりさらに延期えんきされ、2020ねん12月16にちにオンラインで開館かいかんしき開催かいさいした[5]

 
ベルリン王宮おうきゅう再建さいけん予想よそう(ルストガルテンからみた予想よそう

フンボルトフォーラム建設けんせつ工事こうじ

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評価ひょうか

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ベルリン王宮おうきゅうつねくわえられ完成かんせい状態じょうたいであり、またシュリューターやエオザンダーらのだい規模きぼ改造かいぞうあん中途半端ちゅうとはんぱにしか実現じつげんしなかった。しかし15世紀せいき以来いらいのさまざまな様式ようしき建築けんちくふく合体がったいとして、またプロテスタント・バロックの傑作けっさくとして、王宮おうきゅう周囲しゅうい様々さまざま時代じだい様式ようしき建造けんぞうぶつぐんとともにベルリン中心ちゅうしん歴史れきしてき景観けいかん形成けいせいしていた。とく建築けんちく彫刻ちょうこく天才てんさいであったシュリューターの実績じっせき特筆とくひつすべきものがある。

 
王宮おうきゅうぜん広場ひろばにあったネプチューンの噴水ふんすい(Neptunbrunnen、1900ねんごろ

ドイツのほかしろ宮殿きゅうでん同様どうよう、ベルリン王宮おうきゅうにも亡霊ぼうれいるという伝説でんせつが、ホーエンツォレルンつたわっていた。王族おうぞくはしばしば「しろ婦人ふじん」(Weiße Frau、ヴァイセ・フラウ、古城こじょうあらわれる妖精ようせいのような存在そんざい)を目撃もくげきし、王族おうぞく一員いちいんぬ3にちまえには彼女かのじょ出現しゅつげんしていかりをるうとされた。最初さいしょ記録きろくのこっているのは1628ねんで、以後いご1840ねん1850ねんにも記録きろくされた。戦後せんご西にしベルリンでシャルロッテンブルク宮殿きゅうでんなどしろ宮殿きゅうでん管理かんり統括とうかつした美術びじゅつ史家しかのマルガレーテ・クーン(Margaret Kühn)は、王宮おうきゅう空襲くうしゅうえる直前ちょくぜんの1945ねん1がつ31にちにも「しろ婦人ふじん」が王宮おうきゅうないとおっていったという。

この亡霊ぼうれいについては、1891ねんにベルリンから王宮おうきゅうおくられたネプチューンの噴水ふんすい(Neptunbrunnen、1951ねん王宮おうきゅうぜん広場ひろばからベルリン市庁舎しちょうしゃまえ移設いせつ)が間違まちがえられたことも一因いちいんではないかというせつもある。この噴水ふんすい皇帝こうてい寝室しんしつのすぐはたにあり、皇后こうごうアウグステ・ヴィクトリア噴水ふんすい不快ふかいかんち180きをえさせたという。

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ そう工費こうひ750おくえん、ベルリン王宮おうきゅう再建さいけんはじまる「税金ぜいきん無駄むだ批判ひはん 産経新聞さんけいしんぶん、2013.6.13 08:10
  2. ^ ベルリン王宮おうきゅう再建さいけんはじまる 税金ぜいきん無駄むだとの批判ひはん 2013/06/13 05:17 共同きょうどうニュース
  3. ^ 上棟じょうとうしきむかえたベルリン王宮おうきゅう ニュースダイジェスト、2015.7.17
  4. ^ Das Humboldt Forum kommt später als gedacht”. DM.COM (12 June 2019). 30 December 2019閲覧えつらん
  5. ^ ドイツ帝国ていこく時代じだい王宮おうきゅう復元ふくげん きゅう植民しょくみん文化財ぶんかざい展示てんじ朝日新聞あさひしんぶんデジタル 2020-12-17

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 杉本すぎもとしゅん『ベルリン―都市とし進化しんかする』講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ〉、1993ねん2がつ1にちISBN 978-4061491366 

外部がいぶリンク

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