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ベルリンの歴史 - Wikipedia

ベルリンの歴史れきし(ベルリンのれきし)ではドイツ都市としベルリンとその周辺しゅうへん地域ちいきにおける歴史れきし概説がいせつする。

ベルリンのだい紋章もんしょう(1839ねん

ヴュルムごおり終焉しゅうえん

編集へんしゅう

火打石ひうちいし加工かこうされたほねつかったことにより、だいたい紀元前きげんぜん6まんねんごろにはベルリンの周辺しゅうへん人間にんげん生活せいかつしていたということが解明かいめいされた。どう時期じきとおはなれた北部ほくぶドイツや東部とうぶドイツでは、紀元前きげんぜん7まんねんからどう8000ねんにわたる最終さいしゅうごおりこおりおおわれていた。ベルリンからみなみに75キロメートルにあるグローガウ=バールートばら流谷ながれたにドイツばんポーランドグローガウからベルリンのみなみ位置いちするバールート/マルクブランデンブルク周辺しゅうへんにまでびる、氷河ひょうが作用さようでできた渓谷けいこく)には、大陸たいりく氷河ひょうががその南端なんたんとしてひろがっていたが、人間にんげんんでいた集落しゅうらくこおりおおわれていない高地こうち限定げんていされていた。すべての渓谷けいこく地下ちかられるように、とおる氷水こおりみずでできた大量たいりょうすなそうがあることから、およそ18,000ねんまえのフランクフルトにできたベルリンばら流谷ながれたにドイツばんにもとおる氷水こおりみずながんだとかんがえられている。やく16,000ねんまえのベルリン周辺しゅうへん地域ちいきにはこおりっておらず、この年代ねんだい低地ていちたいにはヴュルムごおりモレーンられる。シュプレーがわがベルリンばら流谷ながれたにながれ、その下流かりゅうにはマツえたツンドラ地帯ちたいがところどころにあった。また西側にしがわには渓谷けいこく泥炭でいたんひろがっていた。

ベルリンでもっとたかやまだいミュッゲルベルクやまドイツばん標高ひょうこう114.7メートル)のあるミュッゲルベルゲ丘陵きゅうりょうのような丘陵きゅうりょうこおりにできたとかんがえられている。バルニムドイツばんテルトウドイツばんといった台地だいちはシュプレーがわながれはじめたあとに平行へいこうして形成けいせいされた。こおりすくなくなってくるにつれて、シカイノシシといった動物どうぶつ定着ていちゃくするようになり、一方いっぽうトナカイなどは移動いどうしていった。そのヒト定着ていちゃくし、りをするようになってムラを形成けいせいするようになった。シュプレーがわダーメがわドイツばんベーケがわドイツばん沿岸えんがんには紀元前きげんぜん9000ねんごろにそぎ石斧せきふなどがつかり、これらを使つかった狩猟しゅりょう漁獲ぎょかくおこなわれていたとられている。紀元前きげんぜん7000ねんごろには狩猟しゅりょうさいのまじないひんとして仮面かめん使つかわれていたとかんがえられている。

ゲルマン、スラヴ、ブランデンブルク辺境へんきょうはく

編集へんしゅう
 
1900ねん、ベルリン=ケルンのジーゲスアレードイツばんならべられたヨハン1せいドイツばんオットー3せいドイツばん記念きねん

紀元前きげんぜん3000ねんには耕地こうちつくられたり家畜かちく飼育しいくおこなわれたりしたほか、手製てせい土器どき備蓄びちく倉庫そうこなどがつくられるなどの文化ぶんか形成けいせいされた。紀元前きげんぜん6世紀せいきになると、このころの史料しりょうスエビぞく一部いちぶであるセムノーネースぞくドイツばんブルグントぞくといった名称めいしょうてくるようになり、勢力せいりょくつよめたゲルマンじん定住ていじゅうするようになる。

紀元きげん4世紀せいきから5世紀せいきにかけてゲルマン民族みんぞくだい部分ぶぶんハーフェルがわやシュプレーがわ周辺しゅうへんからはなれ、シュヴァーベンなどのオーバーライン地方ちほうドイツばんうつっていった。このためベルリン周辺しゅうへん人口じんこう密度みつど低下ていかしたが、なおも少数しょうすうのゲルマンじんがベルリン周辺しゅうへんのこっていた。6世紀せいきになるとスラヴじんラウジッツ地方ちほう流入りゅうにゅうし、720ねんごろになるとベルリン周辺しゅうへんはいんできた。スラヴじんはかねてよりんでいたゲルマンじんにかわってベルリンに定着ていちゃくするようになった。

ベルリンにのこったゲルマンじんすう世紀せいきにわたって奪還だっかん失敗しっぱいつづけてきたが、そのベルリンのスラヴじん時代じだいアスカニア出身しゅっしんアルブレヒト1せいヤクツォヤクサ・フォン・ケーペニックドイツばんどう一人物いちじんぶつとする見方みかたがある)ひきいるスラヴじんやぶり、1157ねんブランデンブルク辺境へんきょうはくふうじられたことで終焉しゅうえんげる。現在げんざいのベルリンない形成けいせいされた最初さいしょむらがテルトウ台地だいちつくられ、そのアスカニア辺境へんきょうりょうとして開拓かいたくされて、政治せいじ中心地ちゅうしんちシトー修道しゅうどうかい(レーニン修道院しゅうどういん[注釈ちゅうしゃく 1]テンプル騎士きしだん騎士きし修道しゅうどうかい管区かんくテンペルホーフドイツばん)などの世界せかいてき活動かつどう中心ちゅうしんとなっていった。

ベルリンの形成けいせい

編集へんしゅう

テルトウ台地だいちとバルニム台地だいちあいだにある沼地ぬまちとなっていた渓谷けいこくのうち、みず比較的ひかくてきすくない一帯いったいでは、シュプレーがわ浅瀬あさせ形成けいせいされていた。浅瀬あさせ右岸うがんではアルト=ベルリンドイツばんほんベルリン)が発展はってんし、シュプレーがわ中州なかすにはケルンドイツばん形成けいせいされていった。どう時期じきにのちのだいベルリンを構成こうせいする地域ちいき名称めいしょう文書ぶんしょてくるようになる。1197ねんシュパンダウ1209ねんケーペニックドイツばん1237ねんにケルン、1244ねんにベルリンという名称めいしょうあらわれてくるが、このうちシュパンダウとケーペニックはかつてスラヴじん地域ちいきであった。ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルだい聖堂せいどう博物館はくぶつかん所蔵しょぞうされているふる文書ぶんしょには1237ねん10がつ28にち日付ひづけでケルンが、1244ねん1がつ26にち日付ひづけでベルリンが記載きさいされている。シュパンダウは1232ねん都市とし特権とっけん付与ふよされるが、これは同時どうじにベルリンが都市とし特権とっけんあたえられたことを意味いみする。1307ねんにはベルリンとケルンが統合とうごうされる。双子ふたご都市としベルリン=ケルンは、かつて共同きょうどう辺境へんきょうはくオットー3せいドイツばんヨハン1せいドイツばん統治とうちみなと周辺しゅうへん市場いちばひら権利けんりあたえられたシュパンダウやケーペニックなどの都市としくらべても、とく経済けいざいめん発展はってんしていった。

近年きんねん研究けんきゅうでは、ベルリン・ケルンへの初期しょき入植にゅうしょくは、おそらく12世紀せいきまつはじまったとかんがえられている。1997ねんから1999ねん考古学こうこがく調査ちょうさでは、ブライテどおり28番地ばんち(アルト=ケルン)で、1200ねんごろにさい利用りようされた木材もくざい発見はっけんされ、年輪ねんりん年代ねんだいがくもちいると1171ねんごろかそれ以降いこうのものであると判明はんめいした[1]。2007ねんペトリ広場ひろばドイツばんにある地下ちか貯蔵庫ちょぞうこでの発掘はっくつ調査ちょうさでは、オーク木材もくざいつかった。年輪ねんりん年代ねんだいがくによる分析ぶんせき結果けっかによると、1212ねんごろのものであると鑑定かんていされた[2]

 
ヨハン・グレゴール・メムハールトドイツばんによるベルリンとケルンの都市とし計画けいかく(1652ねん図面ずめん上部じょうぶひがしうえ半分はんぶんがベルリン、した半分はんぶんがケルン)

1230年代ねんだい以降いこう共同きょうどう辺境へんきょうはく統治とうち双子ふたご都市とし重点的じゅうてんてき開発かいはつすすめられたことは、テルトウ台地だいちやバルニム台地だいち居住きょじゅうとなっていくことと密接みっせつ関係かんけいがある。アスカニアがこれらに進出しんしゅつしていくようになるということは、ミッテンヴァルデドイツばんやケーペニックといったテルトウ地方ちほうヘーノウドイツばん地方ちほうとくヘラースドルフドイツばんにおけるヴェッティン支配しはいたいする戦略せんりゃくてき要素ようそゆうしていたとかんがえられている。当時とうじのアスカニアとヴェッティン領域りょういき境界きょうかいせんは、現在げんざいのベルリン市域しいきをちょうど東西とうざいける位置いちかれていた。なお両者りょうしゃあいだマクデブルク大司教だいしきょうりょうがあったというせつは、近年きんねんでは否定ひていてき見方みかたつよ[3]。ヴェッティンとの緊張きんちょう関係かんけいは1239ねんから1245ねんにかけてのテルトウ戦争せんそうドイツばんでアスカニア勝利しょうりし、これによりテルトウと、リューダースドルフドイツばんのぞくバルニムがアスカニア支配しはいかれるようになり、現在げんざいのベルリン市域しいき形成けいせいされた。

ヴィッテルスバッハからポツダムみことのりれいまで

編集へんしゅう

1320ねんハインリヒ2せいぼっしてアスカニア断絶だんぜつしたことで、ハインリヒ2せい母方ははかた叔父おじ当時とうじ神聖しんせいローマ皇帝こうていでもあったヴィッテルスバッハルートヴィヒ4せい1323ねんみずからの長男ちょうなんであるルートヴィヒ(ブランデンブルク辺境へんきょうはくルートヴィヒ2せい)をあらたなブランデンブルク辺境へんきょうはくふうじた。ブランデンブルクを手中しゅちゅうおさめるとヴィッテルスバッハ強圧きょうあつてき統治とうちはじめた。1325ねんにはベルリン=ケルンの司祭しさい皇帝こうてい反抗はんこうしていた教皇きょうこうのニコラウス・フォン・ベルナウをやきころしたことにより、ローマ教皇きょうこうはベルリンにたいしてインターディクトひじりつとむ禁止きんしれい)をくだした。

1373ねんルクセンブルクカール4せいオットー5せい(ルートヴィヒ4せいの6なん)からブランデンブルクを買収ばいしゅうして長男ちょうなんヴェンツェルあたえたが、1380ねんにはベルリンでだい火災かさい発生はっせいし、市庁舎しちょうしゃ教会きょうかい建物たてもの壊滅かいめつてき被害ひがいあたえた。

 
1688ねんごろのベルリン(1835ねん作成さくせい)。あかがベルリン、黄色おうしょくがケルン、その西北せいほくフリードリヒ・ヴィルヘルム建設けんせつするしん市街しがいひろがる
 
フランス語ふらんすご礼拝れいはいとうのユグノーの伝統でんとういままもるフランスだい聖堂せいどう
 
ベルリン北東ほくとうのユグノー入植にゅうしょくにあるフランツェーズィシュ・ブーフホルツ福音ふくいん主義しゅぎ教会きょうかい

1415ねんニュルンベルクじょうはくフリードリヒ6せいジギスムントからブランデンブルクをあたえられてせんみかどこうとなり、1440ねんまでブランデンブルクをおさめる。そのホーエンツォレルン1918ねんまで、当初とうしょブランデンブルクせんみかどこうとして、そのプロイセンこうプロイセン国王こくおうドイツ皇帝こうていとしてベルリンをおさめていくことになる。しかしながらベルリン市民しみんはそういった変革へんかくかならずしも歓迎かんげいしていたわけではなかった。1448ねんにはフリードリヒ2せいてつこうしん宮殿きゅうでん建設けんせつ反対はんたいしてベルリン反乱はんらんドイツばんこる。ところがこの抵抗ていこう成功せいこうせず、市民しみん政治せいじてきにも経済けいざいてきにも自由じゆううしなうこととなった。1451ねん、ブランデンブルクせんみかどこうはケルンに王宮おうきゅう建設けんせつした。

ホーエンツォレルン拠点きょてんとなったことにより、ベルリンはハンザ都市とし地位ちいをやむなく放棄ほうきした。また経済けいざい活動かつどう通商つうしょうから貴族きぞく階級かいきゅうけの贅沢ぜいたくひん生産せいさんへと転換てんかんしていった。人口じんこう急速きゅうそく増加ぞうかし、1600ねんごろには12,000にんほどとなるが、同時どうじ貧困ひんこん増加ぞうかした。このあいだにはユダヤじん迫害はくがいされることがあった。1510ねんにはホスチアぬすんでけがしたとして100にんのユダヤじん嫌疑けんぎけられ、そのうち38にんしょうころせ2人ふたりのちキリスト教きりすときょう改宗かいしゅうするが斬首ざんしゅのこりのベルリンにいたユダヤじん追放ついほうされた。ただこの30ねんにはかれらの無実むじつみとめられ、ユダヤじんは、金銭きんせんはらうことを条件じょうけんふたたびベルリンに居住きょじゅうすることがゆるされた。しかし1573ねん再度さいどユダヤじん追放ついほうされ、その100年間ねんかんもどることがゆるされなかった。

1539ねん、ブランデンブルクせんみかどこうヨアヒム2せいはブランデンブルクにおいて宗教しゅうきょう改革かいかくおこない、教会きょうかい世俗せぞくてき領地りょうちさえた。これによってられた資金しきんグルーネヴァルト狩猟しゅりょう宮殿きゅうでんドイツばん居城きょじょうであるベルリン王宮おうきゅうとをむす道路どうろクーアフュルステンダムドイツばん建設けんせつといっただい規模きぼ事業じぎょうとうじられた。1567ねん、ベルリンとシュパンダウとのあいだで3日間にちかんおよ戦争せんそう棍棒こんぼう戦争せんそうドイツばん)がこる。この戦争せんそうはもともとベルリンとシュパンダウにかれて模擬もぎ戦闘せんとうおこなっていたものだが、けるやくあたえられたシュパンダウがこれをこばんだことから実際じっさい戦争せんそう発展はってんし、最終さいしゅうてきにはベルリンがシュパンダウに大勝たいしょうする結果けっかとなった。

17世紀せいき前半ぜんはんさんじゅうねん戦争せんそうによりベルリンは被害ひがいける。市内しないにあった家屋かおくの3ぶんの1が損壊そんかいし、人口じんこう半減はんげんした。1640ねん、のちにだいせんみかどこうとしてとなえられるフリードリヒ・ヴィルヘルム父親ちちおや死去しきょけてブランデンブルクせんみかどこう継承けいしょうする。フリードリヒ・ヴィルヘルムはまず移民いみんれと宗教しゅうきょう寛容かんようさくす。また市域しいき拡張かくちょう開発かいはつフリードリヒスヴェルダードイツばんドロテーエンシュタットドイツばんフリードリヒシュタットドイツばんといった周辺しゅうへん地区ちくきずいていった。1671ねんオーストリアから追放ついほうされた50にんのユダヤじん住居じゅうきょあたえられた。1685ねん、フリードリヒ・ヴィルヘルムはポツダムみことのりれいくだしてフランスユグノーれた。このとき15,000にんえるフランスじんがブランデンブルクに移住いじゅうし、そのうち6,000にんほどがベルリンにむようになった。1700ねんごろにはベルリン市民しみんのうち20%ほどがフランスけい住民じゅうみんとなり、ベルリンの文化ぶんかおおきな影響えいきょうあたえた。このほかにもベーメン(ボヘミア)、ポーランドザルツブルクからベルリンへ移民いみんあつまってきた。またフリードリヒ・ヴィルヘルムはこのころ常備じょうびぐん整備せいびした。

プロイセン王国おうこく

編集へんしゅう

1701ねん、ブランデンブルクせんみかどこうフリードリヒ3せいはプロイセンおうとして戴冠たいかんされ、フリードリヒ1せいとなる(ただし当時とうじのプロイセンは全域ぜんいきがブランデンブルクせんみかどこう支配しはいかれていなかった)。フリードリヒ1せいはまずプロイセン全土ぜんど統一とういつつとめようとした。フリードリヒ1せいはベルリン西部せいぶシャルロッテンブルク宮殿きゅうでん造営ぞうえいし、また1707ねんまでにはベルリン王宮おうきゅう拡張かくちょうしている。また1709ねん1がつ18にちにフリードリヒ1せいみことのりれいで、従来じゅうらい独立どくりつしていたベルリン、ケルン、フリードリヒスヴェルダー、ドロテーエンシュタット、フリードリヒシュタットを1710ねん1がつ1にちまでに統合とうごうしておうベルリンとすることをあきらかにした。また城門じょうもん周囲しゅういにはすでにあらたに郊外こうがい地域ちいき開発かいはつすすめられていた。

1713ねん、フリードリヒ1せいフリードリヒ・ヴィルヘルム1せいはプロイセン王位おうい継承けいしょうし、財政ざいせいなおしてプロイセン主力しゅりょくぐん整備せいびつとめた。1709ねんにはベルリンの人口じんこうが55,000にんほどとなっており、そのうち5,000にん兵役へいえきいていたものが、1755ねんには人口じんこうが10まんにん突破とっぱし、26,000にん兵力へいりょくつようになっていた。さらにフリードリヒ・ヴィルヘルム1せいはベルリン周囲しゅうい木製もくせいかべかこみ、14のもんきずいた。

 
アブラハム・グイベルト・ドゥザブローによるベルリンの都市とし計画けいかく(1737ねん図面ずめんうえみなみ
 
ブランデンブルクもん(1832ねん
 
シャルロッテンブルクとシュパンダウ(1842ねん

1740ねんフリードリヒ2せい(フリードリヒ大王だいおう)がプロイセン国王こくおう即位そくいする。フリードリヒ2せいヴォルテール文通ぶんつうしていたこともあって「哲学てつがくおう」(Philosoph auf dem Thron) ともしょうされる。フリードリヒ2せい統治とうちにおいてベルリンは啓蒙けいもう思想しそう中心ちゅうしんとなり、このころのベルリンでは哲学てつがくしゃモーゼス・メンデルスゾーン名声めいせいたかめていた。フリードリヒ2せい後継こうけいしゃフリードリヒ・ヴィルヘルム2せい時代じだいになると経済けいざい停滞ていたいする。フリードリヒ・ヴィルヘルム2せい啓蒙けいもう思想しそうきらい、検閲けんえつ実施じっしして抑圧よくあつてき政策せいさくる。フリードリヒ・ヴィルヘルム2せいのもとでベルリンをかこ防壁ぼうへきいしでできたりょう堡式城郭じょうかくつくえられる。18世紀せいきまつにはあらたに、現在げんざいのベルリンのランドマークとなっているブランデンブルクもん建造けんぞうされる。

1806ねん、ベルリンはナポレオン・ボナパルト占領せんりょうされる。これにより次第しだい民主みんしゅがもたらされていき、ベルリンは自治じちけんるようになる。1809ねんにははつのベルリン市議会しぎかい選挙せんきょおこなわれるが、このとき投票とうひょうけんあたえられたのは富裕ふゆうそう男性だんせいのみであった。1810ねん、ベルリン大学だいがく(のちのベルリン・フンボルト大学だいがく)が創立そうりつされ、初代しょだい総長そうちょうには哲学てつがくしゃヨハン・ゴットリープ・フィヒテく。1810ねんから1811ねんあいだにはハインリヒ・フォン・クライストによりベルリンではつとなる日刊にっかんベルリン夕刊ゆうかん新聞しんぶんドイツばん』が発行はっこうされた。1812ねんになるとユダヤじんたいして居住きょじゅうけんみとめられるようになる。しかし、1814ねんにフランスが敗北はいぼくすることで、これらの変革へんかくうごきはわりをむかえることになった。

19世紀せいき前半ぜんはんには産業さんぎょう革命かくめいこり、人口じんこうが20まんから40まん急増きゅうぞうする。ベルリンはヨーロッパでもロンドンパリサンクトペテルブルクについで4番目ばんめおおきい都市としとなる。1838ねんにはプロイセンではつとなる鉄道てつどう会社かいしゃベルリン-ポツダム鉄道てつどうドイツばん開業かいぎょうし、ポツダムえきドイツばん設置せっち鉄道てつどうまちベルリンを急速きゅうそく発展はってんさせるきっかけとなった。

ほかのヨーロッパの都市とし同様どうように、1848ねんはベルリンにおいても革命かくめいの1ねんであった。フリードリヒ・ヴィルヘルム4せい時代じだいにはいわゆる「バリケード蜂起ほうきドイツばん」がこるもこれは鎮圧ちんあつされる。しかし情勢じょうせい深刻しんこくなものとなり、1848ねん6がつ14にちにはベルリン武器ぶき襲撃しゅうげきドイツばん発生はっせいし、略奪りゃくだつこった。この事件じけんけてベルリンの自治じちは、選挙せんきょ参加さんかするための納税のうぜいがく下限かげんげられて制限せいげんされることになった。このためベルリン市民しみん選挙せんきょ参加さんかできたのはぜん人口じんこうのわずか5%におさえられた。この選挙せんきょ制度せいどは1918ねんまで継続けいぞくされた。

1861ねんヴィルヘルム1せいがプロイセン国王こくおう即位そくいする。ヴィルヘルム1せい治世ちせいでは当初とうしょ自由じゆう期待きたいされた。ヴィルヘルム1せい自由じゆう主義しゅぎけい大臣だいじん任命にんめいし、またあか市庁舎しちょうしゃ建設けんせつすすめた。1861ねん、ベルリンはヴェディングドイツばんモアビートドイツばん編入へんにゅうし、また郊外こうがいテンペルホーフドイツばんシェーネベルクドイツばんへと拡張かくちょうした。

この時期じきのベルリンの人口じんこう急増きゅうぞうおおきな問題もんだいこすことになった。1862ねんには、ジェームス・ホーブレヒトがベルリンとその周辺しゅうへん道路どうろ鉄道てつどうむすぶ、いわゆる「ホーブレヒト計画けいかくドイツばん」を立案りつあんした。またルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ヴィルヒョウ参加さんかのもと、上下水道じょうげすいどう施設しせつ整備せいびされ、ベルリンは近代きんだい都市としとしての条件じょうけんととのえていった。

ドイツ帝国ていこく

編集へんしゅう
 
国会こっかい議事堂ぎじどう(19世紀せいきまつ

プロイセンはみずからの指揮しきもとによりどくふつ戦争せんそう終結しゅうけつさせたことによりしょうドイツ主義しゅぎすすめていく。1871ねんにはドイツ帝国ていこく建国けんこくされ、ヴィルヘルム1せい皇帝こうてい即位そくいした。またオットー・フォン・ビスマルク帝国ていこく宰相さいしょう任命にんめいされ、ベルリンは帝都ていととなった。

ベルリンはこの時代じだい産業さんぎょう都市としとして発展はってんし、人口じんこうも80まんえるようになっていた。この成長せいちょうによりインフラストラクチャーわなくなってきた。1873ねんにようやく下水道げすいどう整備せいび工事こうじ開始かいしされ、1893ねん完了かんりょうする。経済けいざいめんでは、いわゆるグリュンダーツァイトドイツばん泡沫うたかた会社かいしゃ乱立らんりつ時代じだい)を1873ねん恐慌きょうこうこり、1870年代ねんだい後半こうはん不景気ふけいきとなっていく。しかしながらなおも都市とし開発かいはつすすめることは課題かだいとしてのこっていた。1876ねん1がつ1にち、ベルリン帝国ていこく政府せいふからはし道路どうろ建設けんせつかんする契約けいやくける。1882ねんのいわゆるクロイツベルク判決はんけつドイツばんにより、建築けんちく警察けいさつドイツばん権限けんげん危険きけん回避かいひにかかるものに制限せいげんされ、美観びかんかんする関与かんよ禁止きんしされた。

1896ねん輸送ゆそうりょく増強ぞうきょうはかるため地下鉄ちかてつ近郊きんこうせん建設けんせつ開始かいしされた。またヴィルヘルミニッシャー・リングドイツばんといった都心としん周辺しゅうへん住宅じゅうたくクロイツベルクドイツばんプレンツラウアー・ベルクフリードリヒスハインドイツばん、ヴェディング)では、労働ろうどうしゃやす家賃やちんめる集合しゅうごう住宅じゅうたく建設けんせつされた。1850ねんからはベルリン南西なんせい開発かいはつ着手ちゃくしゅし、中産ちゅうさん階級かいきゅうけの住宅じゅうたくがい拡張かくちょうし、また19世紀せいきまつには西部せいぶ高級こうきゅう住宅じゅうたくがい造成ぞうせいされていった。1904ねんから1908ねんにかけて、ベルリンについて詳細しょうさい研究けんきゅうした 『大都市だいとし叢書そうしょドイツばんぜん51かん出版しゅっぱんされた。これは当時とうじドイツ語どいつごけんおこなわれた都市とし研究けんきゅうプロジェクトのなか最大さいだいのものである。この主要しゅようなテーマのひとつに、ベルリンとウィーンの比較ひかくがある。それは当時とうじ、ベルリンは「近代きんだい人工じんこう都市とし」、ウィーンはこれにくら伝統でんとう文化ぶんかめんまさる、と一般いっぱん理解りかいされていたという背景はいけいがある[4]。1909ねんヨハニスタールドイツばんにドイツはつ飛行場ひこうじょうヨハニスタール飛行場ひこうじょうひらかれる。1911ねんにはベルリン市域しいき急速きゅうそく発展はってんによりインフラストラクチャー政策せいさく調整ちょうせい必要ひつようとなったことからだいベルリン広域こういき連合れんごうドイツばん設置せっちされ、この目的もくてき組合くみあいは1920ねんだいベルリン後述こうじゅつ)となっていく。またこの広域こういき連合れんごう成果せいかとして保存ほぞん樹林じゅりん協定きょうていドイツばん締結ていけつげられる。

だいいち世界せかい大戦たいせんによりベルリンは食糧しょくりょう不足ふそくさいなまれる。1916ねんから1917ねんにかけてのふゆ時季じきには15まんにん食糧しょくりょう支援しえんたより、またストライキこった。1918ねん大戦たいせん終結しゅうけつするとヴィルヘルム2せい皇帝こうてい退位たいいする。その社会しゃかい民主党みんしゅとう (SPD) に所属しょぞくしていたフィリップ・シャイデマン共産きょうさん主義しゅぎしゃカール・リープクネヒトはそれぞれ11月革命かくめい成功せいこうしたのちに共和きょうわせい国家こっか成立せいりつ宣言せんげんする。その翌月よくげつ、ベルリンでは議会ぎかい会派かいはあいだ市街しがいせん頻発ひんぱつした。

ヴァイマル共和きょうわせい

編集へんしゅう
 
1912ねんのベルリン・シュピッテルマルクトドイツばんパウル・ヘーニガードイツばんさく

1918ねん12がつまつ共産党きょうさんとう (KPD) がベルリンで創設そうせつされる。1919ねん1がつ、KPD は政権せいけん奪取だっしゅしようとスパルタクスだん蜂起ほうき実行じっこうこころみる。この暴動ぼうどう失敗しっぱいし、1がつ15にちローザ・ルクセンブルクカール・リープクネヒト右派うは武装ぶそう集団しゅうだんによって殺害さつがいされた。1920ねん3がつ右派うはドイツ祖国そこくとう結成けっせいしたヴォルフガング・カップ政府せいふ転覆てんぷくはかり、ベルリン駐屯ちゅうとん部隊ぶたい側面そくめんから攻撃こうげきさせて、政府せいふビルを占拠せんきょした(なお当時とうじヴァイマル共和きょうわこく政府せいふはすでにベルリンをのがれていた)。しかしこのクーデターはゼネラル・ストライキによってはばまれた。

1920ねん10がつ1にち行政ぎょうせい新設しんせつほうGesetz über die Bildung einer neuen Stadtgemeinde)によりだいベルリン設置せっちされることになった。これによりきゅうベルリンは7 (Stadtgemeinde)(シャルロッテンブルクドイツばん、ケーペニック、リヒテンベルクノイケルン、シェーネベルク、シュパンダウ、ヴィルマースドルフドイツばん)59むら (Landgemeinde)、27領地りょうち区域くいき (Gutsbezirk) と統合とうごうされた。このときだいベルリンの人口じんこうは3,804,048にんのぼった。

1922ねん、ベルリンで外相がいしょうヴァルター・ラーテナウ殺害さつがいされる。ベルリンはこの事件じけん衝撃しょうげきけ、およそ50まんにん市民しみん葬儀そうぎ参列さんれつした。

ヴァイマル共和きょうわせい景気けいき惨憺さんたんたるものであった。ドイツはヴェルサイユ条約じょうやくにより莫大ばくだい賠償金ばいしょうきん支払しはらわなければならず(だいいち世界せかい大戦たいせん賠償ばいしょう参照さんしょう)、政府せいふ貨幣かへいおお発行はっこうすることで問題もんだい解決かいけつしようとした。さらに賠償ばいしょう支払しはら問題もんだいくわえて、1923ねん発生はっせいしたハイパーインフレーションは、とりわけ労働ろうどうしゃ給与きゅうよ所得しょとくしゃ年金ねんきん生活せいかつしゃくるしめるものとなった。しかし1924ねんになると連合れんごうこくのひとつであるアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく支援しえんさくこうじたり、財政ざいせい政策せいさく改善かいぜんすると状況じょうきょう好転こうてんし、ベルリンは最高潮さいこうちょう、いわゆる「黄金おうごんの20年代ねんだい」をむかえる。このころのベルリンはヨーロッパ最大さいだい産業さんぎょう都市としとなっていた。

文化ぶんかめんでも、建築けんちくヴァルター・グロピウス物理ぶつり学者がくしゃアルベルト・アインシュタイン画家がかジョージ・グロス作家さっかアルノルト・ツヴァイクベルトルト・ブレヒトクルト・トゥホルスキー俳優はいゆうマレーネ・ディートリヒ映画えいが監督かんとくフリードリッヒ・ヴィルヘルム・ムルナウフリッツ・ラングといった人物じんぶつあつまった。クラシック音楽おんがくでも、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽かんげんがくだんひきいるヴィルヘルム・フルトヴェングラーやベルリン市立しりつ歌劇かげきじょうブルーノ・ワルターベルリン国立こくりつ歌劇かげきじょうエーリヒ・クライバーといった当時とうじ世界せかいでも代表だいひょうてき指揮しきしゃたちが活躍かつやくし、ベルリンはヨーロッパにおいて文化ぶんか中心ちゅうしんとなった。この時代じだいのナイトライフは映画えいが『キャバレー』表現ひょうげんされている。

1924ねんテンペルホーフ空港くうこう開港かいこうする。また同年どうねんはつベルリン国際こくさい無線むせん展示てんじかいドイツばんメッセ会場かいじょうドイツばんひらかれた。ベルリンはドイツ国内こくないで2番目ばんめおおきな内陸ないりくみなととなった。1924ねんからはベルリン市内しない鉄道てつどう市街しがいせん環状かんじょうせん近郊きんこうせん)の電化でんかすすめられ、1930ねんSバーンとして統合とうごうされた。このようなインフラストラクチャーはベルリン400まん市民しみん生活せいかつかせないものであった。1926ねんにはベルリン電波でんぱとうドイツばんだい3かい無線むせん展示てんじかいひらかれる。1930ねんから1933ねんのあいだには、のちに技師ぎしとなるヴェルンヘア・フォン・ブラウン所属しょぞくする宇宙うちゅう飛行ひこう協会きょうかいテーゲルドイツばんロケット発射はっしゃじょう液体えきたい燃料ねんりょうロケットのはつ発射はっしゃ実験じっけんおこなった。

しかしこのような黄金おうごんは1929ねん世界せかい恐慌きょうこう終焉しゅうえんむかえる。1932ねん7がつ20日はつかプロイセンしゅうオットー・ブラウン政権せいけんプロイセン・クーデターによってたおれ、共和きょうわせい極左きょくさ極右きょくう影響えいきょうけて崩壊ほうかいしようとしていた。11月には共産党きょうさんとう市議会しぎかい単独たんどくだいいちとうとなる。そして1933ねん1がつ30にちヒトラー帝国ていこく首相しゅしょう任命にんめいされる。

だいさん帝国ていこく

編集へんしゅう

共産きょうさん主義しゅぎしゃ社会しゃかい主義しゅぎしゃ牙城がじょうであったベルリンがナチズム中心ちゅうしんになったことはなく、ナチズムはもっぱらバイエルンにその起源きげんをたどることができる。ベルリンはヴァイマル共和きょうわこくナチス・ドイツ両方りょうほう首都しゅととなった。

1933ねん2がつ27にちドイツ国会こっかい議事堂ぎじどう放火ほうか事件じけんこる。ナチとうはこの事件じけん利用りようして基本きほんけん停止ていしさせたことにより、事実じじつじょうヴァイマル憲法けんぽう効力こうりょくうしなった。

1933ねんごろのベルリンにはドイツけいユダヤじんの3ぶんの1にあたる、およそ16まんにんのユダヤじん居住きょじゅうしており、ベルリン人口じんこうの4%をめていた。その3ぶんの1はひがしヨーロッパからうつんできた貧困ひんこんそうで、おもにアレクサンダー広場ひろば付近ふきんショイネン地区ちくドイツばんらしていたが、ユダヤけい住民じゅうみんはナチス政権せいけんから迫害はくがいけていた。1933ねん3がつにはユダヤけい医師いしがベルリン大学だいがく医学部いがくぶ付属ふぞく病院びょういんシャリテから退職たいしょく余儀よぎなくされ、4がつにはいるとナチス政府せいふは「ユダヤじんボイコット運動うんどう」をとなえ、ユダヤけい以外いがい市民しみんがユダヤじん経営けいえいする商店しょうてんでの購入こうにゅう妨害ぼうがいした。

 
イエス=キリスト=教会きょうかい (ダーレム)
ベルリンダーレム地区ちくドイツばん
あり、ナチスに抵抗ていこうした告白こくはく教会きょうかい中心ちゅうしんてき存在そんざいだった。

1936ねん、ベルリンでだい11かい夏季かきオリンピック大会たいかい開催かいさいされる。ナチスは1933ねん以降いこう、ベルリンでオリンピックが開催かいさいされることをプロパガンダとして利用りようした。国際こくさい社会しゃかい演出えんしゅつした「普通ふつうくに」にきずをつけないように、従来じゅうらいまでのユダヤじんたいする差別さべつ迫害はくがい政策せいさく緩和かんわしたりした。たとえば一時いちじてきFür Juden verboten (ユダヤじん禁止きんし)の看板かんばん撤去てっきょするといったことがおこなわれた。1937ねん、ベルリン700周年しゅうねん祝賀しゅくが行事ぎょうじにあわせてナチスのプロパガンダ集会しゅうかい開催かいさいされた。

このころになるとナチスは世界せかい首都しゅとゲルマニア計画けいかくし、ベルリンの拡張かくちょう着手ちゃくしゅした。建築けんちくアルベルト・シュペーア計画けいかくでは、ベルリンに巨大きょだいとおりをつくり、これに沿ってモニュメントとなる建築けんちく配置はいちするものだった。この計画けいかくのほとんどは実現じつげんされなかったが、その名残なごりとなる構造こうぞうぶつ現在げんざいもなおベルリン市内しないにすることができる。

1938ねん11月9にちから10日とおかにかけて、いわゆる「水晶すいしょうよる事件じけんこり、シナゴーグはなたれ、またユダヤけい商店しょうてん居住きょじゅう地域ちいき破壊はかいされたり、ユダヤじん拘束こうそくされたりした。1939ねんごろのベルリンにはおよそ75,000にんのユダヤじんんでいたが、1941ねん10がつ18にちグルーネヴァルトえきドイツばんから、ユダヤじん移送いそうする一番いちばん列車れっしゃリッツマンシュタット出発しゅっぱつした(ウッチ・ゲットー参照さんしょう)。これはのちけい63ほん編成へんせいされることになる。またホロコーストはじまった。5まんにんのユダヤじん拘束こうそくされて強制きょうせい収容しゅうようしょおくられ、そのおおくが殺害さつがいされた。ホロコーストにかんして歴史れきしじょう重要じゅうよう出来事できごととして、1942ねんヴァンゼー湖畔こはんひらかれたヴァンゼー会議かいぎげられる。ここでは国家こっか保安ほあん本部ほんぶ長官ちょうかんラインハルト・ハイドリヒ主導しゅどうしてホロコーストの実行じっこう決定けっていされた。このようなことがこってもベルリンでは1,200にんえるユダヤじんかくしてのこることができた。

ベルリンから北西ほくせいに30キロはなれたオラーニエンブルクちかくにはザクセンハウゼン強制きょうせい収容しゅうようしょがあり、おもに政治せいじはんやソヴィエト赤軍せきぐん捕虜ほりょ収容しゅうようされ、1まんにんがそこで死亡しぼうした。ザクセンハウゼン強制きょうせい収容しゅうようしょには付近ふきん工場こうじょう併設へいせつされており、そこで収容しゅうようされていた人々ひとびとには強制きょうせい労働ろうどうされた。このような収容しゅうようしょはベルリンにも数多かずおお存在そんざいしていた。

1939ねんだい世界せかい大戦たいせん開戦かいせんするが、当初とうしょベルリンは戦争せんそう影響えいきょうをほとんどけていなかった。1940ねんにはベルリンにイギリスによるはつ空襲くうしゅうがなされるが、ばくげき対象たいしょうがわずかにはずれていたため初期しょき被害ひがい比較的ひかくてきちいさなものであった。しかしアメリカが参戦さんせんするとベルリンの被害ひがい範囲はんい拡大かくだいしていった。イギリスが夜間やかんにベルリンにかう一方いっぽうで、アメリカが昼間ひるまにベルリン上空じょうくう飛行ひこうするようになったことで、ばくげきはほぼ24あいだちゅうおこなわれるようになった。1945ねん3がつ、1,250ばくげきがベルリンを攻撃こうげきし、およそ2まんにんのベルリン市民しみん死亡しぼう、150まんにん住居じゅうきょうしなった。ベルリン中心ちゅうしん完全かんぜん破壊はかいされた一方いっぽうで、郊外こうがい被害ひがいすくなかった。こういったベルリン空襲くうしゅうで、平均へいきんするとベルリンの5ぶんの1(そのうち中心ちゅうしんが50%をめる)が破壊はかいされた。

 
1943ねん11月23にちよる空襲くうしゅうによっておおきな損害そんがいけたカイザー・ヴィルヘルム記念きねん教会きょうかい戦後せんごきゅう教会堂きょうかいどう廃墟はいきょ部分ぶぶんのこしたまましん教会堂きょうかいどうしん鐘楼しゅろうしょう礼拝れいはいどう新築しんちくした。
だい世界せかい大戦たいせんにおけるベルリン市内しない建物たてものへの被害ひがい
被害ひがい状況じょうきょう % 損失そんしつ度合どあい
全壊ぜんかい 11.6 100
深刻しんこく破壊はかい 8.3 75
復旧ふっきゅう可能かのう破壊はかい 9.7 30
軽微けいび破壊はかい居住きょじゅう可能かのう 69.4 10


交通こうつう機関きかんもまたおおきな被害ひがいけており、運行うんこう状態じょうたい戦争せんそう終結しゅうけつまで壊滅かいめつてきなものであった。ベルリンに投下とうかされたばくだんは45まんトンにものぼった。1945ねん4がつ21にちソヴィエト赤軍せきぐんポーランド部隊ぶたいがベルリンに侵攻しんこうした(ベルリン市街しがいせん)。1945ねん4がつ30にち、ヒトラーは総統そうとう官邸かんてい地下ちかごう自殺じさつし、5月2にち、ベルリン防衛ぼうえいぐん降伏ごうぶくし、ベルリンは陥落かんらくした。ベルリン市民しみん女性じょせいおおくがソ連それんへい強姦ごうかんされたとわれている。ある医師いし推定すいていでは、ベルリンでレイプされた10まん女性じょせいのうち、その死亡しぼうしたひとが1まん前後ぜんこうでその大半たいはん自殺じさつだった。

戦争せんそう終結しゅうけつ、ベルリンには瓦礫がれきはいもっていた。市街地しがいちの28.5平方へいほうキロメートルが廃墟はいきょとなり、60まんけん住居じゅうきょ全壊ぜんかい、10まんけん損傷そんしょうし、百貨店ひゃっかてんも2けんに1けん崩壊ほうかいしていた。1939ねん開戦かいせんからかぞえると100まんにんもの市民しみん戦死せんし逮捕たいほ、または避難ひなんによってベルリンからうしなわれた。

分断ぶんだんされたベルリン

編集へんしゅう
 
分割ぶんかつされたベルリン

1945ねん2がつ11にちヤルタ会談かいだんにおいて連合れんごうこくはドイツをイギリス、フランス、アメリカ、ソヴィエト連邦れんぽうの4かこく占領せんりょうし、ベルリンも4つに分割ぶんかつすることがめられた。またソヴィエト赤軍せきぐんベルリンのたたか以降いこう駐留ちゅうりゅうつづけた地域ちいきのうち、1945ねんなつ西側にしがわ3かこく占領せんりょう地域ちいきから撤退てったいした。ソヴィエトのぐん司令しれいかんは5月のうちに、戦後せんごはつのベルリン市長しちょうアルトゥール・ヴェルナードイツばん任命にんめいし、ベルリン参事さんじかいドイツばん、また共産党きょうさんとういん支援しえんする行政ぎょうせい組織そしき設立せつりつした。ベルリンは連合れんごうこくが4地区ちく分割ぶんかつして統治とうちすることになったが、4地区ちくつうじて同一どういつ司令しれいかん管轄かんかつするものとされた。しかしこのとき、すでに西側にしがわ諸国しょこくとソヴィエト連邦れんぽうとのあいだはげしい政治せいじ対立たいりつこっていた。べいえい占領せんりょう地区ちく (Bizone) やべいえいふつ占領せんりょう地区ちく (Trizone) の形成けいせい、またのちのドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく西にしドイツ)の成立せいりつや、ソヴィエト占領せんりょう地区ちく流通りゅうつうしていたライヒスマルク西側にしがわ占領せんりょう地域ちいきにおいて貨幣かへい価値かち消滅しょうめつさせるという突然とつぜん一方いっぽうてき通貨つうか改革かいかくドイツばん実施じっしについて、ソヴィエトはこれらを4かこく協定きょうてい破棄はきされたものと解釈かいしゃくした。一方いっぽうでこの対立たいりつはソヴィエト占領せんりょう地区ちくマーシャル・プランへの参加さんか拒絶きょぜつした当然とうぜん結果けっかでもある。マーシャル・プランは、ソヴィエト連邦れんぽうにとってはその経済けいざいけんはなされることを意味いみし、れるわけにはいかなかった。東側ひがしがわ地域ちいきのドイツ各州かくしゅうはソヴィエト連邦れんぽうたいして戦争せんそう賠償ばいしょう支払しはらつづける必要ひつようがあったのにたいし(デモンタージュ)、西にしドイツおよび西にしベルリンはマーシャル・プランのもとで経済けいざい強化きょうかされ、また自由じゆうすすめられた。

1946ねん10がつ20日はつか、4かこく占領せんりょう地区ちく合同ごうどうでのだいベルリン市議会しぎかいドイツばん選挙せんきょおこなわれ、SPD がキリスト教きりすときょう民主みんしゅ同盟どうめい (CDU) 、社会しゃかい主義しゅぎ統一とういつとう (SED) にたいして勝利しょうりする。政府せいふ議会ぎかいでは非難ひなん応酬おうしゅうはげしさをし、西側にしがわ占領せんりょう地域ちいきかんする議論ぎろん騒然そうぜんとなる場面ばめんこされ、ついにはSED議員ぎいん出席しゅっせき拒否きょひされる事態じたいいたった。

1948ねん12月5にちだいベルリン市議会しぎかい改選かいせんおこなわれたが、ソヴィエトが占領せんりょう地区ちくでの選挙せんきょ禁止きんししたため、実際じっさいには西にしベルリンでのみ投票とうひょうおこなわれた。社会しゃかい主義しゅぎ統一とういつとうはこれに先立さきだつ11月30にちひがしベルリンの100めい自称じしょう議員ぎいんで「市議会しぎかい」を開催かいさいさせた。そして参事さんじかい合法ごうほうてき解任かいにんしたと声明せいめいし、フリードリヒ・エーベルト同名どうめいもとヴァイマル共和きょうわせい大統領だいとうりょう)を市長しちょう選出せんしゅつした。

ベルリン封鎖ふうさと「そらはし作戦さくせん

編集へんしゅう

1948ねん6がつソヴィエトの駐屯ちゅうとんぐんはソヴィエト占領せんりょう地域ちいきから西にしベルリンにかう道路どうろ鉄道てつどうもうをすべて封鎖ふうさし、ベルリン全体ぜんたい経済けいざい統制とうせいしようとした。だいベルリン市庁しちょうではひがしベルリン同様どうよう西にしベルリンのぜん市民しみんたいして食糧しょくりょう配給はいきゅうカードを配布はいふしたが、ほとんどの西にしベルリン市民しみん食糧しょくりょう配給はいきゅうカードを利用りようしなかった。この封鎖ふうさ象徴しょうちょうてき事件じけんで、もっぱら西側にしがわドイツからの物資ぶっし輸送ゆそう妨害ぼうがいするためだけにおこなわれた。しかし西にしベルリン市民しみんは、みずからを政治せいじ情勢じょうせいから、西部にしべドイツ経済けいざいけんほうつよ帰属きぞく意識いしきち、東側ひがしがわ地区ちく周辺しゅうへん地域ちいきからの物資ぶっし輸送ゆそう見切みきりをつけていった。

アメリカ政府せいふはこの事態じたい対応たいおうし、食糧しょくりょう燃料ねんりょうやそのほかの物資ぶっし西にしベルリンに空輸くうゆする作戦さくせんそらはしドイツばん、ベルリン空輸くうゆ作戦さくせん)を実行じっこうする。ベルリン封鎖ふうさは1949ねん5がつ12にち解除かいじょされるが、空輸くうゆ作戦さくせん同年どうねん9がつまで続行ぞっこうされた。またこの作戦さくせん一環いっかんとしてアメリカぐん技術ぎじゅつしゃによりテンペルホーフ空港くうこう拡張かくちょうされた。この空輸くうゆ作戦さくせんにあたって、パイロットが着陸ちゃくりくどもたちに菓子かしまどからとすことがあったことから、ベルリン市民しみん空輸くうゆ作戦さくせん使つかわれる航空機こうくうきレーズン爆撃ばくげきんだ。なお菓子かしつつみはひがしベルリンにもとされた。

西にしベルリンをみずからが占領せんりょうする地域ちいきみ、また経済けいざいてき分離ぶんりすることを阻止そししようとしたソヴィエト連邦れんぽう目論見もくろみ完全かんぜん失敗しっぱいした。さらに、西にしベルリンの住民じゅうみん封鎖ふうさまえよりも西部にしべドイツとの政治せいじてき経済けいざいてきむすびつきをつよ認識にんしきするようになった。西にしベルリンが政治せいじてきにも経済けいざいてきにも乖離かいりしていくうごきはもはやとどまることはなかった。

ベルリンと東西とうざいドイツ

編集へんしゅう

1949ねん5がつ23にちべいえいふつ3かこく占領せんりょう地区ちくからなるドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく西にしドイツ)が成立せいりつし、同日どうじつ公布こうふされた基本きほんほうだい23じょうでは、だいベルリン連邦れんぽうしゅうの1つとすることがうたわれた。これは同年どうねん10がつ7にち成立せいりつしたドイツ民主みんしゅ共和きょうわこくひがしドイツ)も同様どうようであった。当時とうじドイツ民主みんしゅ共和きょうわこく憲法けんぽうでは、ドイツ全体ぜんたいを「不可分ふかぶん共和きょうわこく」 (unteilbare Republik) と規定きていし、ドイツ国籍こくせきはただ1つのみであり、首都しゅとはベルリンである、とした。これはまぎれもなくだいベルリン、すなわちベルリン全体ぜんたいしていた。ひがしドイツの視点してんでは、だいベルリンはソヴィエト占領せんりょう地区ちくうちにあり、その西部せいぶ西側にしがわ連合れんごうこく管理かんりしている、とされていた。このためあらたに成立せいりつした東西とうざいドイツ両国りょうこくだいベルリンにかかるあらゆる権利けんり主張しゅちょうしていたが、実際じっさいには1990ねん10がつ3にちまで、いずれかの完全かんぜん支配しはいかれることはなかった。

1950ねん西にしベルリンにおいてベルリンしゅう憲法けんぽうドイツばん施行しこうされる。ベルリンしゅう憲法けんぽうだい1じょうだい2こうでは、ベルリンは1990ねん以前いぜんにおいてもドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく当時とうじ政治せいじてきにはひとつのドイツの一部いちぶという意味いみで「西にしドイツ」という表現ひょうげんもちいられていた)の1連邦れんぽうしゅうであるとうたわれていたが、この条文じょうぶんはベルリンが連合れんごうこく管理かんりにおかれていたため効力こうりょくゆうすることはなかった。1950ねん12月3にちはつのベルリン市議会しぎかい選挙せんきょ実施じっしされた。

ひがしドイツにおける6がつ17にち事件じけん

編集へんしゅう

1953ねん6月17にち当初とうしょ60にん建設けんせつぎょう労働ろうどうしゃはじめられたデモはその全国ぜんこく規模きぼ暴動ぼうどう発展はってんした。もともとデモの目的もくてきは、直前ちょくぜんひがしドイツ政府せいふ決定けっていした労働ろうどう生産せいさんせい政策せいさく抵抗ていこうするというもので、デモ行進こうしん工事こうじちゅうのスターリンアレー(現在げんざいカール=マルクス=アレー)にかっていた。アメリカぐん占領せんりょう地区ちく放送ほうそうきょくドイツばん (RIAS) によるデモについての報道ほうどうでは、おおくのひがしベルリン市民しみんがこのデモ行進こうしんくわわって団結だんけつしていたとされている。ひがしベルリン市民しみんポツダム広場ひろば到達とうたつすると、西にしベルリン市民しみんからも支援しえんけていた。またひがしドイツの一部いちぶしゅうでもひがしベルリンでの蜂起ほうき呼応こおうしてストライキやデモが実施じっしされた。

蜂起ほうき統制とうせいかなくなるおそれがたことにより、ひがしドイツ政府せいふはソヴィエトぐん支援しえん要請ようせいした。このため市街しがいせんこり、武装ぶそうした労働ろうどうしゃとのはげしい銃撃じゅうげきせんとなった。この暴動ぼうどう鎮圧ちんあつさいして、すくなくとも153にん死者ししゃした。また西にしベルリンの労働ろうどうしゃ加担かたん、RIASの報道ほうどう人民じんみん警察けいさつへの攻撃こうげきひがしドイツ政府せいふ機関きかん入居にゅうきょするコルンブスハウスドイツばんへの放火ほうか利用りようし、ひがしドイツ政府せいふはこれをはん革命かくめい動乱どうらん西にしベルリンの策謀さくぼうとした。しかし反感はんかんった労働ろうどう生産せいさんせい政策せいさく撤回てっかいされ、また今後こんご反乱はんらんきた場合ばあい、ソヴィエトへいたよらずとも鎮圧ちんあつ可能かのうにすべく、とう方針ほうしんしたが市民しみんからなる労働ろうどうしゃ階級かいきゅう戦闘せんとうだん結成けっせいされた。

かべ建設けんせつ

編集へんしゅう
 
ブランデンブルク門前もんぜん演説えんぜつするアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうジョン・F・ケネディ(1963ねん
 
ベルリンのかべ建設けんせつ作業さぎょう

1961ねん8がつ13にちひがしドイツ政府せいふはベルリンの分断ぶんだん強固きょうこにするためにベルリンのかべ建設けんせつ開始かいしした(ベルリン危機きき (1961ねん)英語えいごばん)。ベルリンのかべ建設けんせつ計画けいかくひがしドイツ政府せいふ国家こっか機密きみつであった。ひがしドイツは経済けいざい職員しょくいん流出りゅうしゅつすること(いわゆる「あしによる投票とうひょう (Abstimmung mit den Füßen)」)をおそれ、ひがしドイツの国民こくみん西側にしがわ移住いじゅうすることをかべによって阻止そししようとしたのである。

早朝そうちょう、ポツダム広場ひろば石塊いしくれげられはじめた時点じてんでアメリカぐん実力じつりょく行使こうししてかべ建設けんせつ妨害ぼうがいする準備じゅんびはできていたものの、実際じっさいにはかべ出来上できあがっていくのをただながめているだけであった。西側にしがわ3かこく西にしベルリンの封鎖ふうさを「露骨ろこつ手段しゅだん」とつたえ、遮断しゃだん時期じき規模きぼおどろきをあらわにした。しかしながら西にしベルリンへの通行つうこうさえぎられたということではなかったため、西側にしがわ3かこく軍事ぐんじ介入かいにゅうおこなわなかった。

1963ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうジョン・F・ケネディがベルリンを訪問ほうもんした。シェーネベルク庁舎ちょうしゃドイツばんまえでケネディはかべについて演説えんぜつし、歴史れきしのこる "Ich bin ein Berliner" でめくくった。この演説えんぜつは、ひがしドイツにかぶ民主みんしゅ主義しゅぎ孤島ことうにあるベルリン市民しみんにとってはおおきな意味いみったが、同時どうじかべ建設けんせつ部分ぶぶんてき容認ようにんするアメリカの姿勢しせい象徴しょうちょうするものであった。その一方いっぽうかべ西側にしがわ3かこくにとってもひがしドイツにとっても政治せいじ軍事ぐんじめんでの安定あんてい意味いみし、西にしベルリンの現状げんじょうはまさしく固定こていされた。ソヴィエト連邦れんぽうはかつて1958ねん西側にしがわ3かこくたいニキータ・フルシチョフによる最後さいご通牒つうちょうベルリン危機きき (1958ねん)ドイツばん)で要求ようきゅうした、武装ぶそうかつ「自由じゆうな」都市とし西にしベルリンを放棄ほうきしたのであった。

1971ねん西にしベルリンとの通行つうこうについてめたベルリン4ヶ国かこく協定きょうてい発効はっこうし、道路どうろ封鎖ふうさによって政治せいじてき経済けいざいてき恫喝どうかつされる心配しんぱいもなくなった。さらに4かこくはベルリン全体ぜんたいたいする共通きょうつう責任せきにん確認かくにんし、西にしベルリンはドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく構成こうせいする領域りょういきではなく、かつドイツ連邦れんぽう共和きょうわこくによる統治とうちおよばないものとされた。4かこく地位ちいかんしてソヴィエト連邦れんぽうは、西にしベルリンのみ適用てきようされるとしたが、西側にしがわ3かこくは1975ねん国際こくさい連合れんごうてた文書ぶんしょ強調きょうちょうして、ベルリン全体ぜんたいおよぶものとした。

まち発展はってんとベルリンの政治せいじ

編集へんしゅう

西にしベルリンは西にしドイツから多額たがく財政ざいせい支援しえんけたが、「西側にしがわのショーウィンドウ」がひがしドイツでプロパガンダ効果こうか発揮はっきすることをしたものでもあった。また企業きぎょう多額たがく投資とうし奨励しょうれいきんっていた。ベルリン手当てあてドイツばんばれる6%の割増わりまし賃金ちんぎんは、慢性まんせいてき労働ろうどうりょく不足ふそくおぎなうものとなっていた。

西にしベルリンのクーアフュルステンダムドイツばん(クーダム)とひがしベルリンのアレクサンダー広場ひろばはそれぞれにおいて代表だいひょうてき都心としんとして発展はってんしていった。西にしベルリンには1948ねん独自どくじ大学だいがくとしてベルリン自由じゆう大学だいがく設立せつりつされた。さらにおおきな建設けんせつプロジェクトには、市内しない自動車じどうしゃ高速こうそく道路どうろドイツばんベルリン・フィルハーモニーオイローパ・センタードイツばんベルリン・ドイツ・オペラしん劇場げきじょうがあった。

ひがしベルリンでも西にし対抗たいこうすべく、様々さまざまなプロジェクトがすすめられた。ベルリンテレビ塔てれびとう共和きょうわこく宮殿きゅうでんといっただい規模きぼ建造けんぞうぶつ建設けんせつカール=マルクス=アレー整備せいびだい規模きぼ住宅じゅうたく開発かいはつおこなわれ、これらのプロジェクトはすべての市内しない地区ちくすすめられた。またひがしベルリンのおよそ50%の都市とし世帯せたいひがしドイツの国庫こっこから融資ゆうしけていた。

西にしベルリンの68ねん世代せだい

編集へんしゅう

1968ねん以降いこう西にしベルリンはベルリン自由じゆう大学だいがくこった学生がくせい運動うんどう中心ちゅうしんとなり、とくにシャルロッテンブルクでは学生がくせい活動かつどう頻繁ひんぱんおこなわれた。またクロイツベルクのコッホどおドイツばんにある保守ほしゅけいマスコミ、シュプリンガーしゃ本社ほんしゃ周辺しゅうへんもデモの中心ちゅうしんとなっていた。この運動うんどう争点そうてんとなっていたのは住民じゅうみん分断ぶんだんする社会しゃかいてき対立たいりつで、ときに学生がくせい警察けいさつとのあいだでのにらみいに暴力ぼうりょくともなったこともある。

1967ねん6がつ2にちベルリン・ドイツ・オペラちかくでイラン皇帝こうていモハンマド・レザー・パフラヴィー訪問ほうもん反対はんたいするデモに参加さんかしていた平和へいわ主義しゅぎ学生がくせいベンノ・オーネゾルク私服しふく警官けいかんカール=ハインツ・クラス射殺しゃさつされる事件じけんこったことにより、よく1968ねんには西にしドイツ全土ぜんど学生がくせい運動うんどう激化げきかするようになった。

西にしベルリンでのテロ攻撃こうげき

編集へんしゅう

1970年代ねんだい初頭しょとう西にしベルリンではテロ事件じけん頻発ひんぱつする。ドイツ赤軍せきぐんから派生はせいした集団しゅうだんで、ベンノ・オーネゾルクの射殺しゃさつ事件じけんにちなんでづけられた6月2にち運動うんどうドイツばん頻繁ひんぱん活動かつどうしていた。1974ねん11がつ10日とおか、ベルリン高等こうとう裁判所さいばんしょ長官ちょうかんギュンター・フォン・ドレンクマンドイツばん殺害さつがいされ、また1975ねんにはキリスト教きりすときょう民主みんしゅ同盟どうめいペーター・ローレンツドイツばんがテロリストに誘拐ゆうかいされるという事件じけん発生はっせいしている。

不法ふほう居住きょじゅう事件じけん

編集へんしゅう

西にしベルリンではへの一斉いっせい投機とうき制限せいげんにより住宅じゅうたく不足ふそくし、おおくの貧困ひんこん家庭かてい移民いみん困窮こんきゅうすることになった。これに対抗たいこうして、1970年代ねんだいまつにクロイツベルク東部とうぶきゅう郵便ゆうびん区域くいき SO 36ドイツばんではだい規模きぼさかんな不法ふほう居住きょじゅう運動うんどうこる。1981ねん7がつにはベルリンで不法ふほう居住きょじゅうされている住宅じゅうたく最大さいだいの165けんとなっていた。これらのうち1984ねん11がつまでには賃貸ちんたい売買ばいばいなどの契約けいやく成立せいりつして不法ふほう状態じょうたい解決かいけつされ、のこりの住宅じゅうたくでは退きの措置そちがとられた[5]。1980ねん12月には住居じゅうきょ不法ふほう占拠せんきょしようとして、不法ふほう居住きょじゅうしゃ警察けいさつとのあいだではげしい衝突しょうとつこっていた。また8けん不法ふほう居住きょじゅう退きに反対はんたいするデモに参加さんかしていたさい、デモ参加さんかしゃ死亡しぼうし、また警察官けいさつかんばされた不法ふほう居住きょじゅうしゃクラウス=ユルゲン・ラタイドイツばんベルリン交通こうつうきょくドイツばんのバスにひかれて死亡しぼうするという事態じたいこっていた。

1989ねんヴェンデドイツばんだい転換てんかん)をけて、ひがしベルリンのベルリン=フリードリヒスハインドイツばんプレンツラウアー・ベルクふたた不法ふほう居住きょじゅう運動うんどうこる。この運動うんどうたいして、とくにひがしベルリンの人民じんみん警察けいさつ積極せっきょくてきうごいて事態じたい沈静ちんせいした。ところが1990ねん7がつひがしベルリン市庁しちょう西にしベルリン政府せいふ影響えいきょうかれたことにより状況じょうきょう変化へんかした。マインツどおりの退ドイツばんをめぐってはげしい暴動ぼうどうこるが、おおくの不法ふほう居住きょじゅう以前いぜん不法ふほう居住きょじゅうおなじように正常せいじょうされていった。そののこっていた不法ふほう居住きょじゅう住宅じゅうたくベルリン倫理りんり方針ほうしんドイツばんによって許容きょようされてきたが、1996ねんから1998ねんにかけてベルリンしゅう内相ないしょうイェルク・シェーンボームドイツばんもとで退きがすすめられた。

750周年しゅうねん

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1982ねんから1986ねんにかけて、1987ねんにベルリン750周年しゅうねんむかえるにあたって東西とうざいベルリンの各地かくちでさまざまな準備じゅんびすすめられた。たとえば西にしベルリンではブライトシャイト広場ひろばドイツばんラーテナウ広場ひろばドイツばん新装しんそうされた。またひがしベルリンではニコライ地区ちくドイツばんあらたにふる街並まちなみを再現さいげん建設けんせつされた。さらに東西とうざいベルリンでは市街地しがいちとおSバーンUバーン改修かいしゅうすすめられた。

かべ崩壊ほうかいさい統一とういつ

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象徴しょうちょうてき墓標ぼひょうはベルリンのかべによる犠牲ぎせいしゃ追憶ついおくしている(1990ねん1がつ
 
ひがしドイツ閣僚かくりょう評議ひょうぎかい議長ぎちょうハンス・モドロウ西にしドイツ連邦れんぽう首相しゅしょうヘルムート・コール西にしベルリン市長しちょうヴァルター・モンパーかべがわのコールとモンパーのあいだにひがしベルリン市長しちょうエアハルト・クラック
1989ねん12月22にち、ブランデンブルクもん開放かいほうにおいて
 
ポツダム広場ひろばちかくのベルリンのかべ残骸ざんがい

1989ねんになるとポーランド民主みんしゅ運動うんどうハンガリー民主みんしゅ運動うんどう影響えいきょうけてひがしドイツ各地かくちひがしベルリンではん体制たいせいデモが多発たはつし、おおくのひがしドイツ国民こくみんハンガリーチェコスロヴァキア経由けいゆ西にしドイツへ逃亡とうぼうするようになっていた(ひろしヨーロッパピクニック)。10月、ひがしベルリンでドイツ民主みんしゅ共和きょうわこく建国けんこく40周年しゅうねん記念きねん式典しきてんひらかれ、貴賓きひんとして出席しゅっせきしていたミハイル・ゴルバチョフ演説えんぜつで、ハンガリーやチェコスロヴァキアにのがれた亡命ぼうめいしゃかんするひがしドイツの政策せいさくみとめないということをほのめかした。これによって、ひがしドイツ政府せいふソ連それんうしたてうしなったことがあきらかになり、それまで実権じっけんにぎっていたエーリッヒ・ホーネッカー国家こっか評議ひょうぎかい議長ぎちょうけんドイツ社会しゃかい主義しゅぎ統一とういつとう書記しょきちょう)は失脚しっきゃくし、エゴン・クレンツ後継こうけいしゃとなったが混乱こんらんつづ一方いっぽうだった。

11月9にちボルンホルムどおドイツばん検問けんもんしょ国境警備隊こっきょうけいびたいは、SED 政治せいじ局員きょくいんギュンター・シャボフスキー記者きしゃ会見かいけんでの勘違かんちがいによる発言はつげんしんじてせていたひがしベルリン市民しみん西にしベルリンに通過つうかすることをみとめた。このほか検問けんもんしょもこれにつづいた。おおくのひがしベルリン市民しみんがそのよるうち国境こっきょうえた。 おおくのベルリン市民しみんブランデンブルクもんまわりでかべによじのぼり、周囲しゅういまつりのような活気かっきつつまれた。旅行りょこう自由じゆうされることなく、かべはそのままこわされた。おおくのベルリン市民しみん金槌かなづちに、いわゆる „Mauerspecht“(かべキツツキ)になって、かべのかけらを記念きねんひんとしてかえっていった。この事件じけんのちに「ベルリンのかべ崩壊ほうかい」とばれることになる。

ひがしベルリン市長しちょうティノ・シュヴィーアツィナドイツばん西にしベルリン市長しちょうヴァルター・モンパーはそのめをわし、さい統合とうごうともなすうおおくの業務ぎょうむ着手ちゃくしゅすることをめた。りょう市長しちょうはメディアにおいて「シュヴィーアツォンパー、あるいはモンプツィナ (Schwierzomper oder Mompzina)」という表現ひょうげん揶揄やゆされた。

1990ねん10がつ3にち、ドイツ、そして同時どうじにベルリンがさい統一とういつされた。さい統合とうごうかんする同意どういにより、連合れんごうこくはベルリンの統治とうちけん放棄ほうきし、これによってベルリンはドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく構成こうせいする領域りょういきとなった。その12がつ2にち統一とういつベルリンはつ市議会しぎかい選挙せんきょ実施じっしされた。

近年きんねん

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1991ねん、ベルリンはさい統一とういつされたドイツの首都しゅととなった。

1994ねん1がつ1にちには連邦れんぽう大統領だいとうりょうリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーがドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく憲法けんぽう機関きかんドイツばんとしてはじめてベルリンに移転いてんしてきた。

1999ねん9がつ7にちには連邦れんぽう議会ぎかいが、2000ねん9がつ29にちには連邦れんぽう参議院さんぎいんがそれぞれベルリンで活動かつどう開始かいしした。

1996ねんブランデンブルクしゅうとベルリン都市とししゅうとの統合とうごうについて住民じゅうみん投票とうひょうおこなわれたが、ブランデンブルクしゅう住民じゅうみん反対はんたい意思いししめして計画けいかく頓挫とんざした。

さい統合とうごう以来いらいほとんどの連邦れんぽう政府せいふからの補助ほじょきん節減せつげんされ、1997ねん以降いこうはこれにくわえてベルリン銀行ぎんこう疑獄ぎごくドイツばんけてベルリンは行政ぎょうせい支障ししょうるほどの莫大ばくだい財政ざいせい問題もんだいかかえることとなった。ベルリンしゅう連邦れんぽう憲法けんぽう裁判所さいばんしょたいして極度きょくど財政ざいせい危機ききにより、3500まんユーロの債務さいむ削減さくげんするためのしゅうあいだ財政ざいせい調整ちょうせい実施じっしもとめた。これにより2001ねん市長しちょうエーベルハルト・ディープゲンたいする不信任ふしんにん決議けつぎ可決かけつされる。ディープゲンの後任こうにんには SPD と同盟どうめい90/みどりとうによる連立れんりつくわえて民主みんしゅ社会党しゃかいとう (PDS) の支持しじけたクラウス・ヴォーヴェライト選出せんしゅつされた。2001ねん10がつ21にち市議会しぎかい選挙せんきょでは信号しんごう連立れんりつドイツばん(SPD、自由民主党じゆうみんしゅとうみどりとうによる連立れんりつ協議きょうぎ不調ふちょうわり、赤赤あかあか連立れんりつドイツばん(SPD と PDS)の連立れんりつでまとまった。

関連かんれん施設しせつ

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先史せんし時代じだい古代こだい時代じだいにおける集落しゅうらくについては、ベルリン先史せんし博物館はくぶつかんドイツばんや、生活せいかつ状況じょうきょう再現さいげんしたデュッペル博物館はくぶつかんむらドイツばんれることができる。またこれらの博物館はくぶつかんでは中世ちゅうせい手工業しゅこうぎょう製品せいひん展示てんじされている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 現在げんざいのベルリン南部なんぶツェーレンドルフドイツばんや、当時とうじツェーレンドルフとはべつであったシュラハテンドイツばん沿岸えんがんのスラヴじん地域ちいき、スラートドルプ(Slatdorp)は一時いちじレニーン修道院しゅうどういんドイツばん所有しょゆうしていた。

出典しゅってん

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  1. ^ Hofmann, Michael; Romer, Frank (Deutsch). Vom Stabbohlenhaus zum Haus der Wirtschaft. Ausgrabungen in Alt-Cöln, Breite Straße 21 bis 29. Berlin: Schelzky & Jeep. ISBN 978-3895411472 
  2. ^ Deutschland: Berlin älter als bisher angenommen (ドイツばんウィキニュース)
  3. ^ Waack, Ulrich (2005). “Die frühen Herrschaftsverhältnisse im Berliner Raum - eine neue Zwischenbilanz der Diskussion um die "Magdeburg-Hypothese"”. Jahrbuch für brandenburgische Landesgeschichte (56/2005): pp. 7-38. ISSN 0447-2683. 
  4. ^ Thies, Ralf (2001ねん). “Schriftenreihe der Forschungsgruppe "Metropolenforschung" des Forschungsschwerpunkts Technik - Arbeit - Umwelt am Wissenschaftszentrum Berlin für Sozialforschung” (PDF) (ドイツ). Wissenschaftszentrum Berlin für Sozialforschung. 2008ねん8がつ24にち閲覧えつらん
  5. ^ Rekittke, Volker; Becker, Klaus Martin (1995ねん11月17にち). “[http://squat.net/archiv/duesseldorf/Dipl_Int-1_4-2.html Politische Aktionen gegen Wohnungsnot und Umstrukturierung und die HausbesetzerInnenbewegung in Dusseldorf von 1972 bis heute]” (ドイツ). 1.4.1 Häuserkämpfe in Berlin 1979 - 81. 2008ねん8がつ24にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Wolfgang Ribbe (Hrsg.): Geschichte Berlins (Veröffentlichungen der Historischen Kommission zu Berlin), 2 Bde., München 1987, 3. erweiterte und aktualisierte Auflage, Berlin 2002; Standardwerk anlässlich des 750-Jahre-Jubiläums
  • Ingo Materna und Wolfgang Ribbe: Geschichte in Daten. Berlin, München / Berlin 1997
  • Wolfgang Fritze: Gründungsstadt Berlin. Die Anfänge von Berlin-Cölln als Forschungsproblem. Bearbeitet, herausgegeben und durch einen Nachtrag ergänzt von Winfried Schich, Berlin 2000.
  • Felix Escher: Berlin und sein Umland. Zur Genese der Berliner Stadtlandschaft bis zum Beginn des 20. Jahrhunderts (= Einzelveröffentlichungen der Historischen Kommission zu Berlin, Bd. 47, Berlin 1985
  • Geschichte der Berliner Verwaltungsbezirke, hrsg. von Wolfgang Ribbe, Bd. 1 ff., 1987 ff.
  • Adriaan von Müller: Jahrtausende unter dem Pflaster von Berlin. Edition Praeger, 1973
  • Adriaan von Müller: Die Archäologie Berlins. Gustav Lübbe Verlag, 1986
  • Adriaan von Müller: Unter dem Pflaster Berlins, Ein archäologischer Streifzug. Argon Verlag, 1995
  • Michael Schwibbe, Huth P. et al: ZEIT REISE – 1200 Jahre Leben in Berlin. Berlin: Zeitreise Verlagsgesellschaft 2008, ISBN 978-3-00-024613-5
  • Autorenkollektiv: Chronik Berlin. Chronik Verlag, Gütersloh/München 1997, ISBN 3-577-14444-0
  • Angela M. Arnold, Gabriele von Griesheim: Trümmer, Bahnen und Bezirke. Eigenverlag, 2002, ISBN 3-00-009839-9 - Ausführliche Darstellung zu den Zerstörungen Berlins nach dem Zweiten Weltkrieg, auch bezirksbezogen
  • Ernst Engelberg: Das Wilhelminische Berlin, Berlin 1997, Einleitung zum gleichnamigen Buch, herausgegeben von Ruth Glatzer
  • Kristina Hammann, Katharina Hammann: "Berliner Sagen und Legenden": Die schönsten Berliner Stadtsagen als Hörbuch. Es liefert Antworten auf sagenhafte Ereignisse und wundersame Dinge in Berlin, John Media, 2008, ISBN 978-3-9811250-5-4

外部がいぶリンク

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