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マヨルカ島 - Wikipedia

マヨルカとう(マヨルカとう、Mallorca, カタルーニャ発音はつおん[məˈʎɔrkə], スペイン発音はつおん[maˈʎorka])[1]Majorca, 英語えいご発音はつおん: [məˈjɔːrkə] )は、地中海ちちゅうかい西部せいぶバレアレスうみかぶしまバレアレス諸島しょとう最大さいだいしまであり[2]メノルカとうとともにバレアレス諸島しょとう北東ほくとうジムネジアス群島ぐんとう構成こうせいしている。マジョルカ島まじょるかとうマリョルカとうとも表記ひょうきされる[3]

マヨルカとう
現地げんちめい:
Mallorca
マヨルカとう衛星えいせい画像がぞう
マヨルカ島の位置(スペイン内)
マヨルカ島
マヨルカ島の位置(バレアレス諸島内)
マヨルカ島
地理ちり
場所ばしょ 地中海ちちゅうかいバレアレスうみ
座標ざひょう 座標ざひょう: 北緯ほくい3937ふん 東経とうけい259ふん / 北緯ほくい39.617 東経とうけい2.983 / 39.617; 2.983
諸島しょとう バレアレス諸島しょとうジムネジアス群島ぐんとう
面積めんせき 3,640.11 km2 (1,405.45 sq mi)
最高さいこう標高ひょうこう 1,445 m (4741 ft)
最高峰さいこうほう プッジ・マジョー
行政ぎょうせい
けん バレアレス諸島しょとう
最大さいだい都市とし パルマ人口じんこう404,681にん
人口じんこう統計とうけい
人口じんこう 869,067にん(2010ねん1がつ1にちねん時点じてん
人口じんこう密度みつど 238.75 /km2 (618.36 /sq mi)
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1983ねんスペインの自治じちしゅうとしてバレアレス諸島しょとうしゅう成立せいりつすると、マヨルカとうパルマ・デ・マヨルカ州都しゅうととなった[4]。メノルカとうイビサとうなどバレアレス諸島しょとうしま同様どうよう人気にんきのある観光かんこうであり、とくドイツイギリスからの観光かんこうきゃくおお[5]

名称めいしょう

編集へんしゅう

名称めいしょうラテン語らてんごで「おおきなしま」を意味いみするinsula maiorに由来ゆらいし、のちに「おおきなほう」を意味いみするMaioricaとなった。さらにカタルーニャでMaiorca、Mayorcaとなったが、イェイスムという発音はつおん現象げんしょうによってMallorcaとつづりがわって現在げんざいいた[6]一方いっぽうで、メノルカとう名称めいしょうはマヨルカとう比較ひかくして「ちいさなほう」を意味いみするMinorcaに由来ゆらいする。英語えいごではMajorca(マジョルカ, [məˈjɔːrkə]または[-ˈɔːr-][7])、イタリアではMaiorca(マヨルカ)、フランス語ふらんすごではMajorque(マジョルク)[2]古称こしょうはマヨールとう(Major)[2]

概要がいよう位置いち

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地形ちけい

マヨルカとう地中海ちちゅうかい西部せいぶバレアレスうみにあるバレアレス諸島しょとう構成こうせいするしまであり[2]、スペイン本土ほんどから東側ひがしがわ位置いちしている[8]面積めんせきは3,640.11km2であり[8]、バレアレス諸島しょとうではもっともおおきく、日本にっぽん沖縄おきなわ本島ほんとうやく3ばいである[9]。2012ねん人口じんこうは869,000にんである[10]地中海ちちゅうかい島嶼とうしょなかでは面積めんせき中規模ちゅうきぼであるとされるが、地中海ちちゅうかいにおける面積めんせきだい3キプロスとう匹敵ひってきする人口じんこうつ。地中海ちちゅうかい主要しゅよう島嶼とうしょなかではひときわ人口じんこう密度みつどたか[11]人口じんこうだい1シチリアとうよりもたか人口じんこう密度みつどゆうする[12]

東西とうざいはばは96km、南北なんぼくちょうは78kmであり、海岸かいがんせんながさは554kmである[13]バルセロナからやく210kmみなみバレンシアからやく240kmひがしにある[10]。フランスのマルセイユからパルマ・デ・マヨルカまでの距離きょりは460km、アルジェリアのアルジェからパルマまでの距離きょりは340kmである[14]地理ちり学者がくしゃのオノフラ・ルリャン(Onofre Rullan)は、マヨルカとう山地さんち平地ひらち内陸ないりく沿岸えんがん、パルマとパルマがいという3つのじくによって8つの地域ちいきけている[11]

マヨルカはひとつの小型こがた大陸たいりくである。無数むすうはまがあり、山脈さんみゃくがあり、鉄道てつどうがあり、こうやされた平野ひらの歴史れきしてき大都市だいとし(パルマ)、デパート、ブチク……があり、ミシュランのほししるしつレストラン(複数ふくすう)では王侯おうこう貴族きぞく食事しょくじをする。 — アンドリュー・イーメス『Insight guides, Mallorca & Ibiza』[15]
 
トラムンターナ山脈さんみゃく

北西ほくせいトラムンターナ山脈さんみゃく南東なんとうのリェバン山地さんちという2ほん山脈さんみゃくがマヨルカ島内とうないはしっている。リェバン山地さんち標高ひょうこうやく500mと比較的ひかくてきひく山地さんちであり、うつくしい農村のうそん景観けいかんつことからトレッキングに人気にんきがある[16][8]

トラムンターナ山脈さんみゃく南西なんせいがんから北岸ほくがんにかけて90kmにわたってびており[16]、1,067km2面積めんせき[17]。イベリア半島はんとう南東なんとうベティコ山系さんけい連続れんぞくせいち、きたにむかうほど急峻きゅうしゅんになる[16]うみかって劇的げきてき標高ひょうこうちるため、海岸かいがんにはがけ形成けいせいされている[16]。トラムンターナ山脈さんみゃくにはマヨルカとう最高峰さいこうほうプッジ・マジョー(1445m)があるが[18][2][13][8]、プッジ・マジョーの頂上ちょうじょう軍用ぐんようゾーンとなっており、民間みんかんじんがアクセスできるマヨルカとう最高さいこう地点ちてんプッジ・ダ・マッサネーリャ英語えいごばん(1364m)である[8]

トラムンターナ山脈さんみゃくない道路どうろ状況じょうきょう貧弱ひんじゃくであるが、山脈さんみゃくないむらからむらわたるためのおおくのハイキングコースを[16]、そのには登山とざん、ノルディックウォーキング、急流きゅうりゅうくだりなどのスポーツをおこなうことができる[13]山脈さんみゃくないおおくの地域ちいき保護ほご地域ちいきとなっており[16]、2011ねんには「トラムンターナ山脈さんみゃく文化ぶんかてき景観けいかん」がユネスコ世界せかい遺産いさん文化ぶんか遺産いさん)に登録とうろくされた[19]山脈さんみゃく石灰岩せっかいがん構成こうせいされており、その浸食しんしょく作用さようによって洞窟どうくつみず急流きゅうりゅう形成けいせい[13]やく700の湧水わきみずじょうがある[17]

わん平原へいげん属島ぞくとう

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北岸ほくがんにある入江いりえ

マヨルカとう北東ほくとうにはポリェンサわんアルクーディアわんがあり、南西なんせいにはパルマわんがある[8]。ポリェンサわんはトラムンターナ山脈さんみゃく北端ほくたんかこまれており、アルクーディアわんはリェバン山地さんち北端ほくたんさきにある[17]洞窟どうくつ小規模しょうきぼ入江いりえはマヨルカとう観光かんこう資源しげんであり、それらはおも東岸とうがん位置いちしている[8][17]。アルクーディア付近ふきんアルブフェラ・デ・マヨルカ自然しぜん公園こうえんスペインばんラムサール条約じょうやく登録とうろくである[20]

マヨルカとう中央ちゅうおうには肥沃ひよくなマヨルカ平原へいげんひろがっており、動植物どうしょくぶつゆたかさでられている[13]典型てんけいてき植物しょくぶつマツトキワガシキャロブなどの樹木じゅもくである[13]アーモンドオリーブ栽培さいばいなど、しま農業のうぎょうだい部分ぶぶんはこの平原へいげんおこなわれている[8]南岸なんがんはマヨルカとうなかでも乾燥かんそうしていわがちな地域ちいきであり、エス・ミグジョルンとばれている[17]。エス・ミグジョルンと2つの山地さんちしま中央ちゅうおうにある肥沃ひよくなマヨルカ平原へいげんかこんでいる[17]

マヨルカとう沖合おきあいにあるすべての小島こじま行政ぎょうせいてきにパルマにぞくしている[13]ひがし南岸なんがんにある無人島むじんとうカブレラとうカブレラ群島ぐんとうマリティメ=テレストリアル国立こくりつ公園こうえん英語えいごばん指定していされており、西岸せいがんにある無人島むじんとうドラゴネーラとう保護ほご地域ちいきとなっている[13]。マヨルカとうにあるその特徴とくちょうてき地形ちけいには、アルファビア山地さんち、アス・クルナドルス、フルマントールみさきなどがある。

周辺しゅうへん海域かいいき

編集へんしゅう
 
バレアレスうみ範囲はんい

イベリア半島はんとうとバレアレス諸島しょとうあいだ海域かいいきバレアレスうみばれ、その最大さいだい水深すいしんは2,065mである[21]カステリョン・デ・ラ・プラナ沖合おきあいやく50km、バレアレス海南かいなん西部せいぶには無人島むじんとうコルンブレテス諸島しょとうがあるものの、そのしま浅瀬あさせ存在そんざいしない[21]。イベリア半島はんとう沿岸えんがんから20-65kmの範囲はんい大陸棚たいりくだなひろがり、水深すいしんがもっともふかいのは中央ちゅうおうである[21]。バレアレスうみ主要しゅよう港湾こうわん都市としはスペイン本土ほんどバルセロナバレンシア、マヨルカとうのパルマなどである[21]

地中海ちちゅうかい西部せいぶにはながさ900km、はば200kmにわたって平坦へいたん海底かいていがあり、この平均へいきん水深すいしん2,000-3,000m、最大さいだい水深すいしん3,150mの海底かいていはバレアレス深海しんかい平原へいげんばれる[21]。そのひがしはしはフランスのコルシカとうとイタリアのサルデーニャとう南端なんたんはアフリカ大陸たいりくアルジェリア北西ほくせいはしはスペインのバレアレス諸島しょとうであり、フランス本土ほんど沖合おきあいはバレアレス深海しんかい平原へいげんにはふくまれない[21]。フランスのローヌがわやアルジェリア北岸ほくがん海底かいていだにからおおくの堆積たいせきぶつ供給きょうきゅうされる[21]

マヨルカとう平原へいげん山地さんちおもしんだい三紀みき後期こうき鮮新)に形成けいせいされたとされ[22]、バレアレス諸島しょとうは150まんねんまえ更新こうしん)に形成けいせいされたとされる[23][10]。この平原へいげん山地さんち南西なんせいから北東ほくとう方向ほうこう連続れんぞくせいち、イベリア半島はんとう南東なんとうベティコ山系さんけい連続れんぞくせい[22]。マヨルカとう地質ちしつはほぼ完全かんぜん石灰岩せっかいがんからなり[24]石灰岩せっかいがん強力きょうりょく浸食しんしょく作用さよう峡谷きょうこく洞窟どうくつ形成けいせいしている[25]

もともと降水こうすいりょうとぼしい地中海ちちゅうかいせい気候きこうこう透過とうかせい石灰岩せっかいがんわさっているため、大半たいはん河川かせんはすぐに水流すいりゅう途絶とだえる[24]。マヨルカ島内とうないにはいちねんつうじてみずたたえている河川かせん存在そんざいせず、淡水たんすい資源しげんだい部分ぶぶん地下水ちかすいめている[12]雨水あまみず石灰岩せっかいがん透過とうかして地下水ちかすいとなるため、マヨルカとういけみずうみすくない[25]地下水ちかすい極度きょくど依存いぞんしているというてん特筆とくひつすべき地中海ちちゅうかい地域ちいき島嶼とうしょであるとされる[12]

マヨルカとう気候きこう典型てんけいてき地中海ちちゅうかいせい気候きこうであり[24]ケッペンの気候きこう区分くぶんではCsaに分類ぶんるいされる。とく降水こうすいぶしせい顕著けんちょである[26]冬季とうきにはてい気圧きあつなか緯度いど偏西風へんせいふうベルトの影響えいきょう大雨おおあめることもあり、偏西風へんせいふうベルトが高緯度こういど移動いどうする夏季かきには高気圧こうきあつ亜熱帯あねったいベルトの影響えいきょうつよけ、乾燥かんそうしたあつ気候きこうとなる[24]。この結果けっかとし降水こうすいりょう大半たいはん秋季しゅうき冬季とうき集中しゅうちゅうし、もっとも降水こうすいりょうおお時期じきは10がつから12がつである[24][26]とし降水こうすいりょう地域ちいきてき差異さいおおきく、南東なんとうではわずか300mmであるのにたいして、そこから100kmもはなれていない北西ほくせいのトラムンターナ山脈さんみゃくでは1,200mmとなる[24]平原へいげんあつ夏季かきおだやかですずしい冬季とうきつが、冬季とうきのトラムンターナ山脈さんみゃく平原へいげんより温度おんどひくくなり、しばしば降雪こうせつられる[26]

平地ひらちでは年間ねんかん300にち以上いじょうこう天日てんじつとされており、ふるくから「地中海ちちゅうかい楽園らくえん」とばれる[9]冬季とうきにちちゅう気温きおん摂氏せっし10-15おだやかであるが、夜間やかんには摂氏せっし10-5までがる[27]夏季かき気温きおん摂氏せっしやく27であり、最高さいこう気温きおん摂氏せっし30-32である[27]。パルマのとし平均へいきん気温きおん摂氏せっし17.9)は日本にっぽん鹿児島かごしまとほぼひとしいが、年間ねんかん気温きおん較差かくさ鹿児島かごしま比較ひかくしてはるかにすくない[28]海水かいすい温度おんど夏季かきの8がつ摂氏せっし25冬季とうきの1がつ・2がつ摂氏せっし16である[5]

冬季とうきから春季しゅんきには強風きょうふう[23]南東なんとうふうシロッコアフリカ大陸たいりく砂漠さばくからマヨルカとうあかすなはこ[23]。トラムンターナ山脈さんみゃくはマヨルカとう北風きたかぜからまもっており、マヨルカとう気候きこう決定けっていづけている[29]

パルマ・デ・マヨルカ(Satellite view)気候きこう
つき 1がつ 2がつ 3がつ 4がつ 5月 6がつ 7がつ 8がつ 9月 10月 11月 12月 とし
平均へいきん最高さいこう気温きおん °C°F 15.2
(59.4)
15.7
(60.3)
17.1
(62.8)
18.7
(65.7)
22.1
(71.8)
25.9
(78.6)
29.9
(85.8)
30.5
(86.9)
28.1
(82.6)
23.4
(74.1)
19.2
(66.6)
16.5
(61.7)
21.6
(70.9)
にち平均へいきん気温きおん °C°F 11.7
(53.1)
12.1
(53.8)
13.3
(55.9)
15.0
(59)
18.4
(65.1)
22.1
(71.8)
25.1
(77.2)
25.9
(78.6)
23.4
(74.1)
19.7
(67.5)
15.7
(60.3)
13.0
(55.4)
17.9
(64.2)
平均へいきん最低さいてい気温きおん °C°F 8.3
(46.9)
8.5
(47.3)
9.5
(49.1)
11.3
(52.3)
14.7
(58.5)
18.4
(65.1)
21.3
(70.3)
22.2
(72)
19.8
(67.6)
16.1
(61)
12.1
(53.8)
9.7
(49.5)
14.3
(57.7)
降水こうすいりょう mm (inch) 43
(1.69)
34
(1.34)
26
(1.02)
43
(1.69)
30
(1.18)
11
(0.43)
5
(0.2)
17
(0.67)
39
(1.54)
68
(2.68)
58
(2.28)
45
(1.77)
427
(16.81)
平均へいきん降水こうすい日数にっすう (≥1 mm) 5 5 4 6 4 2 1 1 4 7 6 6 52
平均へいきん月間げっかん日照ひでり時間じかん 165 168 204 231 280 307 342 313 228 204 165 154 2,763
出典しゅってんスペイン国立こくりつ気象庁きしょうちょうスペインばん[30]

人口じんこう自治体じちたい

編集へんしゅう

1965ねんのマヨルカとう人口じんこうは40まん6000にん人口じんこう密度みつどは112にん/km2であり、スペインのなかでも人口じんこう密度みつどたか地域ちいきだった[31]。マヨルカとうふくジムネジアス群島ぐんとうしゅうきょ人口じんこうおおく、イビサとうなどのピティウザス群島ぐんとうきょ人口じんこうおおかった[31]。マヨルカとうの2006ねん人口じんこうは790,763にん、2012ねん人口じんこうは869,000にんであり、今日きょうでもはやいペースで人口じんこう増加ぞうかしている[10]カナリア諸島かなりあしょとうテネリフェとうグラン・カナリアとう、バレアレス諸島しょとうのマヨルカとうと、スペインには3つの規模きぼおおきなしまがあり、それぞれ80-90まんにん人口じんこうゆうしている。マヨルカとうはバレアレス諸島しょとうでもっとも人口じんこうおおしまである[13]。バレアレス諸島しょとう全体ぜんたい面積めんせきは4,992km[32]、2007ねんのバレアレス諸島しょとう全体ぜんたい人口じんこうは103まんにんであり[32]、マヨルカとうはその面積めんせき諸島しょとう全体ぜんたいの72.5%を、人口じんこう諸島しょとう全体ぜんたいの78.6%をめている。

マヨルカ島内とうないでもっとも人口じんこうおお自治体じちたいパルマ・デ・マヨルカであり、パルマに隣接りんせつするカルビア東部とうぶ中心ちゅうしん都市としであるマナコールがパルマにつづいている[13]パルマ・デ・マヨルカ都市としけんスペインばんはパルマを中心ちゅうしんとする9自治体じちたい構成こうせいされており、マヨルカとう人口じんこうの50%以上いじょうがパルマ・デ・マヨルカ都市としけんんでいる[33]

マヨルカとうおも自治体じちたい[34]
# 自治体じちたい 人口じんこうひと 所在地しょざいち
1 パルマ・デ・マヨルカ 427,973 パルマ・デ・マヨルカ都市としけんスペインばん
2 カルビア 50,363 パルマ・デ・マヨルカ都市としけんスペインばん
3 マナコール 40,264 東部とうぶ
4 マラチ 35,521 パルマ・デ・マヨルカ都市としけんスペインばん
5 リュックマジョール 34,602 パルマ・デ・マヨルカ都市としけんスペインばん
6 インカ 30,625 中央ちゅうおう
7 アルクーディア 19,768 北部ほくぶ
8 ファラニチュ 17,291 東部とうぶ
9 ポリェンサ 16,088 北部ほくぶ

マヨルカとうしゅであるパルマ・デ・マヨルカは、先史せんし時代じだい集落しゅうらく遺跡いせきタライオット英語えいごばん)のうえにローマじんきずいた野営やえい基礎きそになっている[23][35]。ローマじんはその集落しゅうらくを「パルマリア」とんだ。西にしマ帝国まていこく崩壊ほうかいにはヴァンダルぞくがパルマリアになん略奪りゃくだつ行為こういくわえた。パルマリアの支配しはいしゃはそのビザンツ帝国ていこくこうウマイヤあさムラービトあさムワッヒドあさアラゴン王国おうこくなどと変遷へんせんした[23][35]。スペインの民主みんしゅの1983ねんバレアレス諸島しょとう自治じちしゅう設置せっちされると、パルマが自治じち州都しゅうととなった[4]。マヨルカとう南東なんとうおきにあるカブレラとう無人島むじんとう)も行政ぎょうせいてきにはマヨルカとう評議ひょうぎかい一部いちぶであり、パルマの自治体じちたいいきふくまれている。

1857ねん時点じてんではスペインだい9の4.3まんにん人口じんこうゆうしていた[36]。1887ねんには6.0まんにん(11)、1920ねんには7.7まんにん(12)、1950ねんには13.7まんにん(13)、1970ねんには23.4まんにん(12)と堅実けんじつびをせ、スペインの50けんなかでもつね上位じょうい位置いちした[36]。1991ねんには308,616にん、2011ねんには405,318にんとなっている[37]夏季かきには各国かっこくから観光かんこうきゃくあつまることから、「地中海ちちゅうかいなつ首都しゅと」とばれることもある[37]

2008ねん時点じてんではパルマの人口じんこうの19.5%に相当そうとうする77,330にんがスペイン以外いがい国籍こくせきであり、これはスペイン平均へいきんよりもたか比率ひりつである[38]国籍こくせきべつ内訳うちわけは、アルゼンチンが5,682にん、ボリビアが5,541にん、ブルガリアが5,293にん、コロンビアが5,200にん、イタリアが5,142にん、ドイツが4,724にん、モロッコが3,397にんなどだった[38]

先史せんし時代じだい

編集へんしゅう
 
マヨルカとうにある先史せんし時代じだい集落しゅうらく

マヨルカとうには先史せんし時代じだい紀元前きげんぜん6000ねん-紀元前きげんぜん4000ねんごろ人類じんるいんでいた痕跡こんせきがある[35]青銅器せいどうき時代じだいには巨石きょせき記念きねんぶつふくタライオティック文化ぶんか英語えいごばんさかえ、タライオット英語えいごばんばれる埋葬まいそうじょう住居じゅうきょ痕跡こんせき発見はっけんされている[39]

マヨルカとうのタライオットのれい
  • カンポコルブ・ベイ : 現在げんざいリュックマジョール自治体じちたいいき
  • ネクロポリ・ダ・ソン・レアル : 現在げんざいサンタ・マルガリーダ英語えいごばん自治体じちたいいき
  • ヌベティフォルマ・アラマニー : 現在げんざいカルビア・マガルフ海岸かいがん
  • プブラット・タライオティック・ダ・シリョット : 現在げんざいサン・リュレンス・ダス・カルダサー自治体じちたいいき
  • プブラット・タライオティック・ダ・ソン・フルネス : 現在げんざいムントゥイリ英語えいごばん自治体じちたいいき
  • サ・カノーバ・ダ・ムレイ : 現在げんざいアルター自治体じちたいいき
  • セス・パイッセス : 現在げんざいのアルターの自治体じちたいいき
  • セス・タライアス・ダ・カン・ジョルディ : 現在げんざいサンタニー自治体じちたいいき
  • ススピタレット・ベイ : 現在げんざいマナコール自治体じちたいいき

カルタゴ時代じだい

編集へんしゅう
 
ローマ時代じだい投石とうせきへい

はじめてマヨルカとう植民しょくみんおこなったのは、紀元前きげんぜん8世紀せいきごろレバント東部とうぶ地中海ちちゅうかい沿岸えんがん地方ちほう)からやってきて多数たすうのコロニーをきずいた航海こうかい民族みんぞくフェニキアひとであり、マヨルカとう主要しゅようなフェニキア都市としとなっていたきたアフリカのカルタゴ統制とうせいはいった。紀元前きげんぜん700ねんから紀元前きげんぜん145ねんのバレアレス諸島しょとうはフェニキアじんによって支配しはいされ[40]、マヨルカとうにやってきたフェニキアじん地中海ちちゅうかい西部せいぶ精力せいりょくてき交易こうえき活動かつどうおこなった[23]。フェニキアじん時代じだいにバレアレス諸島しょとう商業しょうぎょう中心ちゅうしんとなったのはイビサとうエイビッサであり、マヨルカとうはわずかな役割やくわりたしたにぎなかったが、ポエニ戦争せんそう投石とうせきしゅとしてカルタゴのためにたたかったマヨルカじん存在そんざい文献ぶんけん記載きさいされている[23]。バレアレス諸島しょとう名称めいしょうは「投石とうせき」を意味いみするギリシアの「ballerin」に由来ゆらいすると指摘してきする歴史れきし学者がくしゃもいる[41]侵略しんりゃくしゃから領土りょうどまも唯一ゆいいつ防衛ぼうえい手段しゅだん投石とうせきだったため、マヨルカじん投石とうせきしゅすぐれた投石とうせき技術ぎじゅつでよくられている[41]

ローマ時代じだい

編集へんしゅう
 
ローマ都市としポリェンティアの遺跡いせき

バレアレス諸島しょとう地域ちいきからやってくる海賊かいぞくとのたたかいにつかれたローマじんは、紀元前きげんぜん123ねんクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・バリアリクスひきいる軍隊ぐんたいおくってマヨルカとう征服せいふくし、やく550ねんわたるローマ時代じだいまくけた[42][23][35]。バレアレス諸島しょとうキリスト教きりすときょうされたのはこの2世紀せいきのことである[40]。ローマ時代じだいには北岸ほくがんポリェンティア英語えいごばん現在げんざいアルクーディアちかく)と南岸なんがんのパルマリア(げんパルマ・デ・マヨルカ)という2つの都市としがあったとされている[23][35]くわえて、建設けんせつがローマ以前いぜんさかのぼ北部ほくぶのボッチョリスのまちは、古代こだいローマの連合れんごうとなった[43]。ローマ時代じだいにはオリーブやブドウの栽培さいばい岩塩がんえん採掘さいくつなどがマヨルカとう経済けいざいささえていた[35]。マヨルカじん兵士へいし投石とうせき技術ぎじゅつマ帝国まていこくない評価ひょうかされた[44]

ヴァンダルぞく

編集へんしゅう
 
455ねんガイセリック王国おうこくヴァンダル王国おうこく)の最大さいだい版図はんと

古代こだいローマ文明ぶんめいわらせた原因げんいんについては諸説しょせつあるが、5世紀せいきしょうこおりがねになったというせつがある[45]グンデリック英語えいごばんおうひきいるヴァンダルぞくは、406ねん凍結とうけつしたラインがわわたり、409ねんにはピレネー山脈さんみゃくえ、419ねんにはイベリア半島はんとう西部せいぶくにてた[46]。425ねんには当時とうじヒスパリスとばれたセビージャとカルタゴのあいだで、西にしマ帝国まていこくぬすんでみつ貿易ぼうえきおこない、427ねんにバレアレス諸島しょとうあらかすめした[46]。グンデリックの息子むすこゲイセリック地中海ちちゅうかいにおいてカルタゴシチリアとうコルシカとうサルデーニャとう、バレアレス諸島しょとう版図はんときずき、イタリア半島はんとう沿岸えんがん集落しゅうらくみつ貿易ぼうえきしたり海賊かいぞく行為こういをしたりするさい基地きちとしてマヨルカとう利用りようした[47][48]。ヴァンダルぞくキリスト教徒きりすときょうと迫害はくがいした[40]

中世ちゅうせい

編集へんしゅう
 
ユスティニアヌス1せいみかど、555ねんビザンツ帝国ていこく版図はんと

中世ちゅうせい前期ぜんき

編集へんしゅう

地中海ちちゅうかい世界せかい中世ちゅうせいは、信仰しんこう統治とうち原理げんりにした3勢力せいりょくギリシア正教せいきょうカトリックイスラームのめまぐるしい交替こうたいげきいろどられる。マヨルカとうもこのれいれないが、すくなくとも中世ちゅうせい前半ぜんはんは、いずれの勢力せいりょく支配しはいした場合ばあいであってもしまにははん独立どくりつてき地位ちいみとめられた[49]:32

ヴァンダル王国おうこくった将軍しょうぐんフラビオス・ベリサリオスは、配下はいかのアッポロニオスをバレアレス諸島しょとう派遣はけんし、534ねん前後ぜんこうにマヨルカとうビザンツ帝国ていこく版図はんとれた(cf. ヴァンダル戦争せんそう[49]:32以後いご、10世紀せいき初頭しょとういたるまでの500年間ねんかんじゃくしま名目めいもくじょうビザンツ帝国ていこくりょうになったが、中核ちゅうかくてき先住せんじゅう島民とうみんへのギリシア正教せいきょう影響えいきょう限定げんていてきであった[49]:35。ビザンツじんはバレアレス諸島しょとうかくしまにギリシア正教せいきょう教会きょうかいて、それぞれに司祭しさい派遣はけんしたが、先住せんじゅう島民とうみん教化きょうか非常ひじょうにゆっくりしたものであったとられる[49]:39。マヨルカとうたシチュエーションにあったコルシカとうとサルデーニャとうではビザンチン時代じだいわりごろでもまだ、伝統でんとう宗教しゅうきょうペイガニズム)の信仰しんこうつよのこっていた[49]:39。20世紀せいきまつから実施じっしされるようになったビザンツ時代じだいのギリシア正教せいきょう教会きょうかい考古学こうこがくてき調査ちょうさによれば、タライオット集落しゅうらく、ローマじん植民しょくみん、ヴァンダルぞく集落しゅうらくのいずれともかさならない位置いち立地りっちしており、先住せんじゅう島民とうみんとのつながりが希薄きはくであった可能かのうせい示唆しさされる[49]:39

 
マヨルカとうのギリシア正教会せいきょうかいソン・ペレト教会きょうかいドイツばん洗礼せんれいどうあと

かつてマウレタニアばれたきたアフリカのマグリブ遊牧ゆうぼく生活せいかついとなんでいたベルベルじんは、8世紀せいきよりまえキリスト教きりすときょうなどを信仰しんこうしていたようであるが東方とうほうからウマイヤあさによるマグリブの征服せいふくイスラーム受容じゅようした[50]:80-93。イスラームおよびアラブしたベルベルじんであるムーアじんとウマイヤちょうぐんはイベリア半島はんとう征服せいふくした[50]:80-93。バレアレス諸島しょとうにも707ねんにムスリムぐん来襲らいしゅうし、地元じもと首長しゅちょう何人なんにんダマスカスまで捕虜ほりょとして連行れんこうされた[49]:33。ムスリムぐん一時期いちじき南仏なんふつまでめたが、789ねんごろにはフランクおうシャルルマーニュピレネー山脈さんみゃくまでもどされた[51]。フランク王国おうこく年代ねんだいには、セプティマニアれたシャルルマーニュの宮廷きゅうていに、バレアレス諸島しょとう海賊かいぞく来襲らいしゅうけているというらせがはいったとしるされている[49]:33[51]。798ねんにマヨルカとうキリスト教きりすときょう修道しゅうどうかいからもたらされたこのらせにおいて、海賊かいぞくは「サラセンじんとムーアじん」であるとされている[51]

マヨルカとうはムーアじんのイベリア半島はんとう征服せいふくから150ねんほどおくれた902ねんこうウマイヤあさのアミール、アブドゥッラー英語えいごばん時代じだいにコルドバに併合へいごうされる[23][52]。マヨルカとうのコルドバへの併合へいごう経緯けいいは、イサーム・ハウラーニースペインばんという人物じんぶつ航海こうかい途中とちゅう荒天こうてんのためやむなくしま寄港きこうしたさいしま様子ようすてこれをり、バレアレス諸島しょとう全体ぜんたいのコルドバへの編入へんにゅうをアミールに具申ぐしんし、アミールがこれをゆるしたとというものだったとされる[52]。ハウラーニーの「コンキスタ」は小規模しょうきぼ小競こぜいだけで終了しゅうりょうした[52]。ムスリムとの最初さいしょ接触せっしょくがあった707ねんから903ねんまでを「ビザンツ=ムスリム時代じだい」と研究けんきゅうしゃもいる[49]:33。この時代じだい外部がいぶのイスラーム勢力せいりょく散発さんぱつてき権益けんえき主張しゅちょうする一方いっぽうで、ビザンツじん優位ゆういたも社会しゃかい構造こうぞう継続けいぞくした[49]:33。なお、マヨルカとうはこの時代じだいゲルマンけいノルマンじんによる来寇らいこう経験けいけんした(869ねん[49]:33ノルマンじんはシチリアとう王国おうこく建国けんこくする

 
10世紀せいきパルマに建設けんせつされたハンマーム(公共こうきょう浴場よくじょうあと

ハウラーニー以後いごのムーアじん支配しはいしゃ海賊かいぞく行為こういをよくまり、しましょう工業こうぎょう発展はってんさせた[35][52]政治せいじ史上しじょうは、こうウマイヤあさがそのターイファ(くにというしょう王国おうこくぐん解体かいたい分裂ぶんれつすることになり[50]:80-93、マヨルカとうは1015ねんからデーニアのターイファ英語えいごばんくに一部いちぶ、1087ねん以後いご分離ぶんりしてマヨルカのターイファ英語えいごばんくに形成けいせいした[40][35]。しかし、経済けいざいじょうは、アフリカ大陸たいりく北岸ほくがん、イベリア半島はんとう、バレアレス諸島しょとうがアラブ=イスラームの文化ぶんかしょう習慣しゅうかん共有きょうゆうしたので、マヨルカとうでは貿易ぼうえきさかんになった[35][41]。ムーアじんはまた、灌漑かんがい有用ゆうよう作物さくもつしま導入どうにゅうして農業のうぎょう発展はってんさせた(cf. アラブ農業のうぎょう革命かくめい英語えいごばん[35][52]

ターイファ時代じだいには、コルドバ出身しゅっしん博学はくがくしゃイブン・ハズムがマヨルカとうおとずれ、地誌ちしあらわした[53]。イブン・ハズムの『マヨルカとう地誌ちし』は、12世紀せいきごろまでのマヨルカとう歴史れきしるためのいちきゅう史料しりょうになっている[52]。レコンキスタ以後いごしょう工業こうぎょう停滞ていたいしたので、マヨルカとう民俗みんぞく言語げんごしょく文化ぶんかなどにはムーアじん支配しはいした時代じだい痕跡こんせきがよく保存ほぞんされている[35][23]

中世ちゅうせい後期こうき

編集へんしゅう
 
マヨルカとう遠征えんせいするカタルーニャじんえがいたゴシック調ちょう壁画へきがアルモガバルスえがいたものか?(バルセロナ歴史れきし博物館はくぶつかんスペインばんくら

11世紀せいきから14世紀せいきにかけてのイベリア半島はんとう歴史れきしは、宗教しゅうきょうてき寛容かんよううしなわれ、カトリック/ムスリム/ユダヤじん共存きょうぞん崩壊ほうかいしていく過程かていでもある。マヨルカとうはこのてん、イベリア半島はんとうとはすこことなる歴史れきしをたどった。ファナティックなムラービトあさもムワッヒドあさ半島はんとうよりおくれてマヨルカとう支配しはいれ、しかもその支配しはいはずっとゆるやかであった。

マヨルカとう半島はんとうより100ねんおくれで宗教しゅうきょうてきにファナティックなムラービトあさ支配しはいはいったきっかけは、カトリック勢力せいりょく武力ぶりょく攻撃こうげきである。マヨルカとう繁栄はんえい十字軍じゅうじぐん襲撃しゅうげきをひきつけることにもつながった。1114ねんにバルセロナはくラモン・バランゲー3せい盟主めいしゅとしたカタルーニャ君主くんしゅこくぐんピサ共和きょうわこくひじりヨハネ騎士きしだん(マルタ騎士きしだんひとし連合れんごうしてマヨルカとうへの十字軍じゅうじぐん遠征えんせいカタルーニャばんスペインばんおこなった[40][35]。カトリック連合れんごうぐんは、イビサとうとマヨルカとうしゅマディーナ・マユールカーを8箇月かげつあいだ包囲ほういしたのち交渉こうしょうすえ戦利せんりひん満足まんぞくし、マヨルカとう占領せんりょうすることなくかえった[54]。マヨルカのターイファはアンダルス政権せいけんムラービトあさたより、マヨルカとうは1116ねんにムラービトあさ勢力せいりょく圏内けんないはいった[52]

以後いごの120ねんほどのあいだ、マヨルカとうにはワーリーという地方ちほう代官だいかんかれ、ワーリーによるはん自律じりつてき統治とうちおこなわれた[52][55]。ワーリーは、ムラービトあさおこしたベルベルけいサンハージャ部族ぶぞく英語えいごばんいち支族しぞくバヌー・ガーニーヤドイツばんにより世襲せしゅうされた。アンダルスとマグリブの政権せいけんが1144ねんごろムワッヒドあさ交替こうたいしたのちはバヌー・ガーニーヤが中央ちゅうおう支配しはいけず自立じりつした[注釈ちゅうしゃく 1]ワーリー・イスハークドイツばんがマヨルカとうおさめた1152ねんから1185ねんまでの時代じだいとく繁栄はんえい時代じだいとしてられている[52]

ムーアじんやアラブじんにはアラビアでマディーナ・マユールカーとばれたしましゅは、12世紀せいきわりごろには人口じんこう35,000をかぞえるようになり、人口じんこう規模きぼると当時とうじのバルセロナやロンドンと同等どうとうの、西にしヨーロッパ有数ゆうすう大都市だいとしであった[52]。マディーナは12のまちけられ、地中海ちちゅうかいによくられる迷宮めいきゅう都市とし様相ようそうていした[52]。また、ムーアじん支配しはいしゃ征服せいふくみん信仰しんこうについては自由じゆうまかせたため(改宗かいしゅうさせると人頭じんとうぜい徴収ちょうしゅうできないため)、マディーナには国際こくさい都市とし雰囲気ふんいきただよった[52]。なお、マヨルカとう繁栄はんえい時代じだい(950ねん-1150ねんごろ)は、西洋せいよう史学しがくでは中世ちゅうせい温暖おんだんばれている時代じだい合致がっちする。

 
1229ねんのカタルーニャぐんによるマヨルカとう征服せいふくえがいた壁画へきがとううえでムーアじんころすカタルーニャへい

1208ねんからしまおさめたムワッヒドあさアブー・ヤフヤー最後さいごのワーリーとなった[55][56]。マヨルカとうは1229ねんアラゴン王国おうこくぐん侵略しんりゃくけ、マディーナ・マユールカーが9月から3箇月かげつあいだにわたり包囲ほういされたのち開城かいじょうマヨルカとう征服せいふく英語えいごばん完了かんりょうした[23][35][57]。マヨルカとうの「レコンキスタ」をげたアラゴン王国おうこくは、もともと内陸ないりくのカトリック王国おうこくであったが、12世紀せいき前半ぜんはんにカタルーニャと連合れんごう強大きょうだいした。西にしヨーロッパの中世ちゅうせいてき封建ほうけん国家こっかつねふうしんあたえる封土ほうど必要ひつようとしたから(cf. レーエン)、わかくして王国おうこくいだハイメ(ジャウマ)1せい領土りょうど拡大かくだい企図きとした(これにたいしてムスリムのイクターせいにおいては土地とち所有しょゆうけんはすべておうにあった)。バレンシアバレアレス諸島しょとう候補こうほは2箇所かしょあったが、貿易ぼうえきをマヨルカとう商人しょうにん支配しはいされていることに不満ふまんつバルセロナの商人しょうにんはバレアレス諸島しょとう侵攻しんこう支持しじした。

二十歳はたちそこそこのおうによる治世ちせいはその、50ねんちかつづいた。パルマだい聖堂せいどう建設けんせつ大学だいがく設立せつりつ準備じゅんびはこのあいだおこなわれた[41][58]。ハイメ1せいはマヨルカとうにバルセロナ慣習かんしゅうほう導入どうにゅうし、バルセロナじん商人しょうにん商業しょうぎょう特権とっけんあたえた[59]。「カタルーニャちち」ともばれる哲学てつがくしゃラモン・リュイは、このレコンキスタにマヨルカとうまれて、13世紀せいき後半こうはんから14世紀せいき初頭しょとうきた人物じんぶつである[40]

ハイメ1せいが1276ねんくなるとその領地りょうち2人ふたり息子むすこ分割ぶんかつ相続そうぞくした。アラゴン王位おういあにペドロぎ、バレアレス諸島しょとうとセプティマニアをおとうとハイメ(ジャウマ)相続そうぞくした。おとうとハイメは、マヨルカ王位おういいて、みずからの相続そうぞくしたくに独立どくりつしたマヨルカ王国おうこくとして成立せいりつさせた[40][35]。アラゴン王位おういがペドロ3せい息子むすこアルフォンソ3せいだいになるとマヨルカの武力ぶりょくによるアラゴンへのさい統合とうごうこころみられたり(1285ねん。ローマ教皇きょうこう介入かいにゅう失敗しっぱい)、メノルカとう征服せいふくされたりした(1287ねん)が、アルフォンソのつぎにアラゴンおういだハイメ2せいは、1291ねんにメノルカとうをマヨルカおうハイメ2せい返還へんかんした[40]

 
マヨルカとう地図ちず製作せいさく学派がくは英語えいごばん一人ひとり、アブラハム・クレスカスによる『カタルーニャ地図ちず英語えいごばん』(14世紀せいき

ハイメ2せい治世ちせい短期間たんきかんだったものの、歴史れきし学者がくしゃはこの時代じだいをマヨルカとうの「黄金おうごん」とんでいる[23]。ハイメ2せいした農業のうぎょう工業こうぎょう海上かいじょう交易こうえき発達はったつし、あたらしいむら数多かずおおきずかれた[23]。1309ねんにはパルマこう見下みおろすおかうえベルベルじょうきずかれた[58]。アルムダイナは立派りっぱなゴシック様式ようしき宮殿きゅうでんえられ、サン・フランセセ修道院しゅうどういん建設けんせつはじまったのもこの時代じだいだった[23]

マヨルカおうジャウメ2せい息子むすこであるサンス英語えいごばんおう治世ちせい(1312ねん-1324ねん)をて、1324ねんから1344ねんのマヨルカおうジャウメ3せい英語えいごばん治世ちせいには経済けいざいてき繁栄はんえい時代じだいむかえ、パルマは地中海ちちゅうかい地域ちいき有数ゆうすうゆたかな都市としとなった[40]。1344ねんにはアラゴンおうペドロ4せいぐんがバレアレス諸島しょとう侵略しんりゃくし、3つのしま再度さいどアラゴン王国おうこくんだ[40][35]。1349ねんにはジャウメ3せいがマヨルカ王国おうこく復活ふっかつこころみたが、リュックマジョールのたたかいで戦死せんしした[40]

このようにレコンキスタもマヨルカとうはイベリア半島はんとうがわ政権せいけん完全かんぜんにはまれない時期じき存在そんざいし、アラゴン十字軍じゅうじぐん異端いたん審問しんもん盛行せいこう、ユダヤひとモサラベ迫害はくがいといったイベリア半島はんとう情勢じょうせい距離きょりがあった。コルシカとう、サルデーニャとう、シチリアとうへと領土りょうど拡張かくちょうしていったアラゴン王国おうこく地中海ちちゅうかい海図かいず必要ひつようとし、マヨルカとうコスモポリタニズムがこれにこたえた。13世紀せいきから15世紀せいきごろまで「マヨルカとう地図ちず製作せいさく学派がくは英語えいごばん」というユダヤじん職人しょくにん集団しゅうだんが、その幅広はばひろ国際こくさいてきネットワークをかして、西方せいほう教会きょうかいけん西にしヨーロッパの知識ちしきのみならず、東方とうほう教会きょうかいけんのアナトリア半島はんとうや、イスラームけんきたアフリカやサハラ以南いなんのアフリカの知識ちしきをもんだ、当時とうじとしては詳細しょうさい装飾そうしょく地図ちず作成さくせいした[60]。これらはカタルーニャかれ、『カタルーニャ地図ちず英語えいごばん』とばれる[60]

近世きんせい

編集へんしゅう
 
1601ねん完成かんせいしたパルマだい聖堂せいどう

1479ねんにはアラゴン王国おうこくカスティーリャ王国おうこく統合とうごうすることでスペイン王国おうこく成立せいりつした[40]。バレアレス諸島しょとうはたびたびきたアフリカからやってくるバルバリア海賊かいぞく攻撃こうげきされたため、諸島しょとう住民じゅうみん沿岸えんがん監視かんしとう要塞ようさい教会きょうかい建設けんせつした。16世紀せいきのマヨルカとうではなん暴動ぼうどうこり、ユダヤじん異端いたん尋問じんもんおこなわれ、オスマン帝国ていこく脅威きょういにさらされた[41]。このような情勢じょうせいけて1570ねんには、スペインおうフェリペ2せいとその助言じょげんしゃがバレアレス諸島しょとう住民じゅうみん完全かんぜん疎開そかい検討けんとうしている[61]。17世紀せいきにも交易こうえき活動かつどう復興ふっこうすることはなく、疫病えきびょうによってすうせんにんくなった[41]中世ちゅうせいからルネサンスのマヨルカとう地中海ちちゅうかい貿易ぼうえき中継ちゅうけいとなった。バレンシアから輸出ゆしゅつされたムーア人様ひとさましき陶器とうき影響えいきょうけてイタリア各地かくちつくられるようになった「マヨリカ」の語源ごげんはマヨルカとうであるとされることもある[62]

 
カリフォルニアで布教ふきょうしたフニペロ・セラ神父しんぷ

18世紀せいき初頭しょとうスペイン継承けいしょう戦争せんそうスペイン・ブルボンあさ確立かくりつした戦争せんそうである。この戦争せんそう最終さいしゅう局面きょくめんではマヨルカとう征服せいふくおこなわれ、1715ねん7がつ2にちにはブルボン艦隊かんたいがマヨルカとう到着とうちゃくしてマヨルカとう降伏ごうぶくした。1716ねんヌエバ・プランタおうれい英語えいごばんによってマヨルカとうはバレアレスけん一部いちぶとなり[35]、1718ねんにはマヨルカとう一般いっぱん議会ぎかい解散かいさんさせられている[40]。ブルボンあさした公的こうてき言語げんごがカタルーニャからスペインえられ、さらには飢饉ききんかんばつ、疫病えきびょうがマヨルカとう住民じゅうみんくるしめた[41]。18世紀せいききたマヨルカとう出身しゅっしん人物じんぶつとしてフランシスコかい修道しゅうどうフニペロ・セラがおり、セラ神父しんぷアメリカ大陸あめりかたいりくアルタ・カリフォルニアでの布教ふきょうおおきく貢献こうけんした[40]

19世紀せいき

編集へんしゅう

1808ねんから1813ねんスペイン独立どくりつ戦争せんそうときには、フランスにちかいカタルーニャ地方ちほうからマヨルカとう難民なんみん流入りゅうにゅうし、社会しゃかいてき政治せいじてき緊張きんちょう状態じょうたいたかまった[40]。1820ねんから1822ねんにはきたアフリカのアルジェリアやみなみアメリカにだい規模きぼ移民いみんおこなわれた[40]。1837ねんにはマヨルカとうとイベリア半島はんとうあいだはじめて定期ていきせん蒸気じょうきせん)が就航しゅうこうした[40]。19世紀せいきにはマヨルカとうにもブルジョアが誕生たんじょうし、社会しゃかい変革へんかくのうねりがこった[23]。パルマちかくの湿地しっちたい干拓かんたくされ、あらたに造成ぞうせいされた土地とち農地のうちとなった。カタルーニャ復権ふっけんこころみる地域ちいき主義しゅぎ芽生めばえた[23]

1857ねんから1887ねん期間きかんには農業のうぎょう工業こうぎょう発展はってんしたために人口じんこう急増きゅうぞうしたが、そのの10年間ねんかんにはバレアレス諸島しょとう全体ぜんたい経済けいざい低迷ていめいして人口じんこう減少げんしょうした[31]害虫がいちゅうフィロキセラ流行りゅうこうによって成長せいちょういちじるしいワイン産業さんぎょうおおきな打撃だげきけた[40]。さらに1898ねんべい西にし戦争せんそうでスペインが植民しょくみん喪失そうしつしたことで、マヨルカとうでは造船ぞうせんぎょう打撃だげきけた[23]繁栄はんえい時代じだいわりをむかえ、この時期じきにはマヨルカとう住民じゅうみんおおくがイベリア半島はんとう本土ほんどアメリカ大陸あめりかたいりく移住いじゅうした[23]

20世紀せいき

編集へんしゅう
 
パルマの人口じんこう変動へんどう(1900–2005)

1936ねん7がつスペイン内戦ないせん開始かいしにマヨルカとうはナショナリスト牙城がじょうだったが、8がつ16にちには共和きょうわこくがナショナリスト駆逐くちくしてしますくうことを目的もくてきとした上陸じょうりく作戦さくせん対象たいしょうとなった。共和きょうわ国軍こくぐんナショナリストぐん英語えいごばん圧倒あっとうして12km内陸ないりくまでんだが、空軍くうぐんりょくすぐれたナショナリストおもにイタリア空軍くうぐんをマヨルカとう派遣はけんし(イタリアのマヨルカ占領せんりょう英語えいごばん)、共和きょうわ国軍こくぐん退却たいきゃくと9がつ12にち完全かんぜん撤退てったい余儀よぎなくされた。この出来事できごとマヨルカのたたか英語えいごばんとしてられている[63]。フランコ体制たいせいのマヨルカとう政治せいじてき状況じょうきょうはイベリア半島はんとう本土ほんどわらなかった[23]

1960年代ねんだいには観光かんこうブームがこり、すうおおくのホテル、マンション、ショッピングセンターが建設けんせつされた[35]。20世紀せいき観光かんこうブームは、スペイン本土ほんど、ヨーロッパ、みなみアメリカ、アフリカからやってきた移民いみんによる人口じんこう増加ぞうか要因よういんであるとされている[33]スペイン1978ねん憲法けんぽう制定せいていされて「自治じちしゅう設置せっちとびらひらかれると、1983ねんにはバレアレス諸島しょとう自治じち憲章けんしょう制定せいていされてバレアレス諸島しょとうしゅう発足ほっそくし、バレアレス諸島しょとうしゅうにある3つのしま評議ひょうぎかいのひとつとしてマヨルカとう評議ひょうぎかい設立せつりつされた[40][64]。21世紀せいきにはミラー計画けいかくばれる都市としさい開発かいはつもとで、欧州おうしゅう連合れんごう(EU)そととくにアフリカとみなみアメリカから移民いみん労働ろうどうしゃせた[65]今日きょうのマヨルカとう住民じゅうみんがいしてたか生活せいかつ水準すいじゅんにある[33]

動植物どうしょくぶつ

編集へんしゅう
 
リェバン半島はんとう自然しぜん公園こうえん

海水かいすいめん低下ていかした氷河期ひょうがきにはマヨルカとうメノルカとう陸続りくつづきだったため、動植物どうしょくぶつしょうにはメノルカとうとの類似るいじせいられる[32]一方いっぽうで、マヨルカとうなどのジムネジアス群島ぐんとうと、イビサとうなどのピティウザス群島ぐんとう陸続りくつづきだったことはない[32]。もっともちいさな野生やせい哺乳類ほにゅうるいハツカネズミトガリネズミであり、もっともおおきな哺乳類ほにゅうるいジャコウネコである[23][66]鳥類ちょうるい哺乳類ほにゅうるいよりも豊富ほうふであり、2,000しゅ以上いじょう生息せいそくまたはわたりのさいにマヨルカとう使用しようしている[23][66]とくしま北部ほくぶバードウォッチング流行りゅうこうしている[66]

マツクロウメモドキローズマリー野生やせいオリーブPistacia lentiscus(マスティック)、Chamaerops humilisシュロ一種いっしゅ)などがマヨルカとう主要しゅよう植生しょくせいである[67]山地さんちではハンニチバナラベンダー卓越たくえつしており、山地さんちこう降水こうすいりょう地域ちいきではコルクガシのこっている[67]海岸かいがん砂丘さきゅうにはオオハマガヤぞく英語えいごばんえている[67]人間にんげんによって導入どうにゅうされていない植物しょくぶつ衰退すいたい傾向けいこうにないのはマツのみであり、それは人間にんげんくわわっているためである[67][23]

マヨルカとう降水こうすいりょうすくなく、いちねんつうじてみずたたえる河川かせん存在そんざいしない。さらには20世紀せいき後半こうはん灌漑かんがい農業のうぎょう観光かんこう開発かいはつなどでみず需要じゅよう増大ぞうだいした結果けっかみず資源しげん逼迫ひっぱくりざたされている[12]。1972ねんにはトラムンターナ山脈さんみゃくみなみふもとにゴルク・ブラウ貯水池ちょすいちとクバ貯水池ちょすいち建設けんせつされたが[11]、1994ねんと1997ねん渇水かっすいにはそれぞれ700まんm2真水まみずがスペイン本土ほんどからマヨルカとう海路かいろ輸送ゆそうされた[68]。1999ねんにはパルマ海水かいすい淡水たんすい施設しせつ稼働かどう開始かいししたが、たか環境かんきょう負荷ふかなどが批判ひはん対象たいしょうとなっている[69]。2001ねんにはバレアレス諸島しょとう水利すいり計画けいかく(1996ねん策定さくてい)が発効はっこうされ、長期ちょうきてきみず資源しげん開発かいはつ利用りよう計画けいかくんでいる[12]水質すいしつ汚染おせん問題もんだいれいとして、環境かんきょうてきに「んだ」サンタ・ポンサわんげられる[70]

ショパンとサンド

編集へんしゅう
 
ショパンとサンド

音楽家おんがくかフレデリック・ショパンはマヨルカとうとかかわりがふかい。1838ねんから1839ねんふゆ、ショパンとフランスじん作家さっかジョルジュ・サンドはマヨルカとうバルデモーサ滞在たいざいした[71]。ショパンは結核けっかく悪化あっかしており、乾燥かんそうしていて太陽たいようおおいバレアレス諸島しょとう療養りょうようするよう医者いしゃすすめられたためだとされる[72][73]

マヨルカとうでのふゆはショパンにとって生産せいさんてき期間きかんであり、1835ねんきはじめていた「あまだれのプレリュード」を完成かんせいさせた[74]のはマヨルカとうごしていた1839ねん1がつのことだった。また、マヨルカとうでは「バラードだい2ばん」、「2つのポロネーズ」、「スケルツォだい3ばん」に着手ちゃくしゅした[75]。バルデモーサ修道院しゅうどういんにはショパンの記念きねんかんがあり、スコアや原稿げんこうなどが展示てんじされている[71]。1855ねん、サンドはマヨルカとうでの経験けいけん小説しょうせつマヨルカのふゆ英語えいごばん』にいた[74]

おう大公たいこうサルヴァドール

編集へんしゅう
 
マヨルカとうにあるサルヴァドールの銅像どうぞう

オーストリア大公たいこうルートヴィヒ・サルヴァドール英語えいごばんはバレアレス諸島しょとう観光かんこう先駆せんくしゃだった。サルヴァドールはノイエンドルフ (Neuendorf) はくだった1869ねんはじめてバレアレス諸島しょとうおとずれると、マヨルカとうあいしてマヨルカとう住民じゅうみんからもあいされた[76]。マヨルカとう出身しゅっしん女性じょせい結婚けっこんし、マヨルカとうで22年間ねんかんらした[76]自然しぜん保護ほご娯楽ごらく目的もくてきとして自然しぜん地域ちいき購入こうにゅうしており、今日きょうではいくつかのトレッキングルートにサルヴァドールのかんされている[77]。サルヴァドールはカタルーニャまなび、動植物どうしょくぶつ歴史れきし文化ぶんか研究けんきゅうおこなうと、バレアレス諸島しょとうかんするきわめて包括ほうかつてきなコレクションである『Die Balearen』ぜん7かん発表はっぴょうした[78]

文学ぶんがく

編集へんしゅう

イギリスじん小説しょうせつアガサ・クリスティは20世紀せいき初頭しょとうにマヨルカとうおとずれ、パルマとポリェンサこう滞在たいざいした[79]彼女かのじょが1939ねんあらわした『黄色きいろいアイリス』のなかには短編たんぺん『ポリェンサ海岸かいがん事件じけん』がふくまれている。アルゼンチンじん作家さっかホルヘ・ルイス・ボルヘスは、家族かぞくとともに2マヨルカとうおとず[80]、コミュニティ『バレアレス』に「エストレーリャ」(1920ねん)と「だい聖堂せいどう」(1921ねん)という2へん寄稿きこうした[81]。「だい聖堂せいどう」はパルマだい聖堂せいどうへの称賛しょうさんあらわしたである[82]。ニカラグアじん詩人しじんルベン・ダリオ小説しょうせつ『El oro de Mallorca』(マヨルカとうかね)や『La isla de oro』(かねしま)とばれるなんへんかのいた[83]

芸術げいじゅつ

編集へんしゅう
 
ピラール・イ・ミロ財団ざいだん美術館びじゅつかん

カタルーニャじん画家がかジョアン・ミロ生涯しょうがいつうじてマヨルカとう密接みっせつ関係かんけいしている。ミロ自身じしんはバルセロナ出身しゅっしんだが、ミロの母親ははおやはマヨルカとう出身しゅっしんである。さらに、1929ねんにはパルマでマヨルカとう出身しゅっしんのピラール・フンコーサと結婚けっこんし、1954ねんにはマヨルカとう定住ていじゅうした[84]。ピラール・イ・ミロ財団ざいだん美術館びじゅつかんはかつてミロがんでいたいえであり、マヨルカとうでもっとも入館にゅうかんしゃすうおお博物館はくぶつかんである[85]おおくの絵画かいが彫刻ちょうこく展示てんじされているほかに、ミロの制作せいさく風景ふうけいしたアトリエもある。近年きんねんにはパルマにアス・バルアードきん現代げんだい美術館びじゅつかん開館かいかんし、幅広はばひろ興味深きょうみぶかいコレクションをゆうしている[85]アルクーディア周辺しゅうへんには、ポリェンサ・モノグラフ博物館はくぶつかん教会きょうかい博物館はくぶつかん、ヤニック・イ・ベン・ジャコバー財団ざいだん美術館びじゅつかんという、3つの美術館びじゅつかん博物館はくぶつかんがある[85]ポリェンサ、ベニサール、アングラーダ・カマラサ、ティト・シタディーニ、アダン・ディレ、ソローリャには美術びじゅつ学校がっこうがある[74]現代げんだいスペイン美術びじゅつかいでもっとも有名ゆうめいなマヨルカとう出身しゅっしんしゃミケル・バルサローであり、バルサローは2003ねんアストゥリアス皇太子こうたいししょう芸術げいじゅつ部門ぶもん受賞じゅしょうした[74]

 
デイアにあるグレーヴスの自宅じたく

トラムンターナ山脈さんみゃく芸術げいじゅつ人気にんきがある地域ちいきであり、ながデイアんだロバート・グレーヴスパブロ・ピカソアレック・ギネスなどおおくの友人ゆうじん招待しょうたいした[74]ピーター・ユスティノフはマヨルカとう北部ほくぶこいし、毎年まいとしオテル・フルマントールに滞在たいざいした[74]。イタリアの未来みらい画家がか彫刻ちょうこくであるアリギ・サッス英語えいごばんは1963ねんにポリェンサ近郊きんこうむらうつみ、2000ねんにポリェンサで死去しきょした[74]。アルクーディアのロータリーにはサッスが制作せいさくした巨大きょだいうま彫刻ちょうこく設置せっちされている[74]

2011ねんにはマヨルカ発展はってん国際こくさい映画えいがさい創設そうせつされた。毎年まいとし11がつ世界せかい各国かっこくから映画えいが製作せいさくしゃ・プロデューサー・監督かんとくなどをあつめ、パルマのプリンシパル劇場げきじょうしゅ会場かいじょうとなる[86]

祭礼さいれい

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エジプトじんフェニキアじん、ローマじんムーアじんユダヤじん、カタルーニャじんと、マヨルカとうには歴史れきしてきことなる文化ぶんか民族みんぞくんでいたため、ことなる背景はいけい文化ぶんか行事ぎょうじおこなわれる[87]。マヨルカとう住民じゅうみんの99%はカトリックである[88]。マヨルカとうぜん地域ちいきでは12月25にちクリスマスいわわれ、クリスマスイブには教会きょうかいでイエスの誕生たんじょう祝福しゅくふくされる[87]。1月6にちには東方とうほうさん博士はかせ行列ぎょうれつおこなわれ、1がつ17にちにはひじりアントニオの祭礼さいれい開催かいさいされる[87]せい週間しゅうかんには馬車ばしゃのパレードが開催かいさいされ、こののためにエンパナーデスとばれるペイストリーがつくられる[87]。6月29にち漁師りょうし存在そんざいするほぼすべての沿岸えんがん自治体じちたいで、漁師りょうし守護しゅご聖人せいじんであるせいペドロとカルメルの聖母せいぼ祭礼さいれいおこなわれる[87]とくにクリスマスイブでのシビュラによる聖歌せいか詠唱えいしょうは2010ねんにユネスコの無形むけい文化ぶんか遺産いさん登録とうろくされた[89]

マヨルカとうにはバイ・デ・ボットまたはバイ・デ・パジェスとばれる伝統でんとうてき舞踊ぶようがあり、この舞踊ぶよう男性だんせいではなく女性じょせいがリードする[87]

 
アイアンマン・マヨルカ

オープンウォータースイミング国際こくさい大会たいかいトライアスロン国際こくさい大会たいかい(アイアンマン・マヨルカ)、国際こくさいエアロビ&フィットネス会議かいぎなどのスポーツ大会たいかいがマヨルカとう開催かいさいされる[90]。9月に開催かいさいされるオープンウォーターズスイミング大会たいかいしま北部ほくぶ舞台ぶたいであり、やく7kmのポリェンサわんおよぎきる必要ひつようがある[90]。ダビド・メカやシャビ・トーレスなどの著名ちょめい水泳すいえい選手せんしゅ出場しゅつじょうしたこともある[90]。アイアンマン・マヨルカはプッジ・マジョーをも舞台ぶたい自転車じてんしゃ)とするトライアスロン大会たいかいである[91]

マヨルカとうふゆでも温暖おんだんであり、なお高地こうちトレーニングができるだけの山岳さんがく地帯ちたいゆうするという自転車じてんしゃ競技きょうぎ理想りそうてき条件じょうけんっている。このことから冬季とうきにはヨーロッパを代表だいひょうする自転車じてんしゃ競技きょうぎチームがトレーニングのためにおとずれる[91]
また、2がつには「ぜん4ステージのステージレース」ではなくあくまでも「ワンデーレースが4にち連続れんぞくおこなわれる」としてあつかわれることでられるチャレンジ・シクリスタ・マヨルカ開催かいさいされる。

マヨルカとうには19のゴルフコースがあり、マイケル・ダグラスジャック・ニコルソンジョン・トシャックヨハン・クライフブリジッタ英語えいごばんなどが島内とうないのゴルフコースをまわった[92]。マヨルカとうはスペインで闘牛とうぎゅうさかんな地域ちいきではないが、ゆたかな闘牛とうぎゅう伝統でんとうおおくの支持しじしゃっている[93]。マヨルカとうにはパルマ、ムーロ、ファラニチュ、インカ、アルクーディアに闘牛とうぎゅうじょう存在そんざいし、夏季かきには全土ぜんど闘牛とうぎゅう開催かいさいされる[93]

しょく文化ぶんか

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マヨルカ料理りょうり

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マヨルカふう野菜やさい煮込にこ

バレアレス諸島しょとうやマヨルカとう料理りょうり地中海ちちゅうかい料理りょうりふくまれ、伝統でんとうてきオリーブオイルラードによって味付あじつけがなされている[94]。ラードは伝統でんとうてきなブタの屠殺とさつ方法ほうほうもちいて生産せいさんされ、豚肉ぶたにく部位ぶいごとに様々さまざま料理りょうり使用しようされている[94]特徴とくちょうてきなマヨルカ料理りょうりのひとつに、こまかくきざんだパン、にくはし野菜やさいなどがはいっているソパ・マヨルキーナスペインばん(マヨルカふう野菜やさい煮込にこみ)がげられる[94]

 
バレアレス諸島しょとうのソブラサーダ

マヨルカとう象徴しょうちょうする食材しょくざいとしてオリーブとアーモンドがある。伝統でんとうてき食後しょくご軽食けいしょくとしてゼリーやジャムをったブレッドスティックがあり、ゼリーとジャムの輸入ゆにゅうりょうおおい。マヨルカ料理りょうりには豚肉ぶたにくのソーセージであるソブラサーダ英語えいごばんチョリソ一種いっしゅ)、アロス・ブルット(鶏肉とりにく豚肉ぶたにく野菜やさいくわえたサフランライス)などがある。

バレアレス諸島しょとうさんのチーズはイスラーム支配しはい時代じだいでも尊重そんちょうされたが、イギリス支配しはい時代じだい生産せいさんりょう拡大かくだいした[95]牛乳ぎゅうにゅうもちいたはこがたのチーズであり、保存ほぞんのためにかわ黄色きいろまたは橙色だいだいいろをしている[95]隣接りんせつするメノルカとうマオー・チーズ英語えいごばんはバレアレス諸島しょとうでもっとも人気にんきのあるチーズであり、1985ねん原産地げんさんち呼称こしょう(DO)に認定にんていされた[95]

ローマじんがマヨルカとうにブドウのなえちこんだことで、マヨルカとうワイン生産せいさん伝統でんとうはじまった[96]今日きょうではすうひゃくヘクタールのブドウはたけがあり、しろブドウ品種ひんしゅではモイしゅマカベオたねパレリャーダ英語えいごばんたねくろブドウ品種ひんしゅではマント・ネグロ英語えいごばんたね、カリェットしゅテンプラニーリョたねモナストレルたねなどが栽培さいばいされている[96]

マヨルカとうでもっとも著名ちょめいなワイン産地さんち中央ちゅうおうビニサレムである[96]。500ねんまえからすぐれたワインを生産せいさんしており、20世紀せいき後半こうはんにおけるマヨルカワインの復活ふっかつはビニサレムでこった[96]。1990年代ねんだい初頭しょとうには原産地げんさんち呼称こしょう産地さんち(DO)に指定していされた[96]。ビニサレムのほか産地さんちとしてはプラ・イ・リェバンなどがあり、マヨルカとう中央ちゅうおうから東部とうぶにかけての18自治体じちたい伝統でんとうてき手法しゅほうによるワインを生産せいさんしている[96]近年きんねんになってアルクーディア周辺しゅうへんでもブドウ栽培さいばい再開さいかいされ、マヨルカとう北東ほくとうがんの17むら産地さんち形成けいせいしている[96]今日きょうではビニサレム (DO)プラ・イ・リェバン (DO)英語えいごばんの2つの産地さんちがスペインの原産地げんさんち呼称こしょう制度せいどであるデノミナシオン・デ・オリヘン(DO)に指定していされている[9]

 
エンサイマダ

マヨルカとうではエンサイマダばれるペイストリー伝統でんとうがあり、ジュゼップ・プラは「このくに(スペイン)の菓子かしなかでもっともかるく、もっとも繊細せんさいで、もっとも優美ゆうびなもの」ととなえた[97]。エンサイマダの起源きげん不明ふめいだが、イスラーム支配しはい時代じだいやマヨルカとうのユダヤじん関連かんれんしているとされることもある[97]はじめて文献ぶんけん登場とうじょうするのは17世紀せいきさかのぼり、長年ながねんわたってこのしましょくされている[97]

エンサイマダは小麦粉こむぎこみず砂糖さとうたまご、スターター生地きじ、ラードをおも材料ざいりょうとし、発酵はっこう焼成しょうせいこな砂糖さとうけられる[97]近年きんねんにはパンプキンジャム、クリーム、アーモンド、チョコレート、果物くだものなどがトッピングされることもある[97]おおきさやおもさは多様たようであり、だい家族かぞくあつまったときにはデザートとして巨大きょだいなエンサイマダがべられる[97]。アルクーディアではほぼすべてのバルやカフェでエンサイマダを注文ちゅうもんすることができ、それぞれのバルやカフェは自前じまえのオーブンでいている[97]。1996ねんには「マヨルカとうのエンサイマダ」という名前なまえ使用しよう保護ほごされ、2003ねん4がつにはバレアレス諸島しょとうしゅう政府せいふ地理ちりてき表示ひょうじ(GI)を承認しょうにんした[97]

 
パム・ボリ

パム・ボリ(パ・アム・トゥマカット)はパンにトマトをけた簡素かんそなカタルーニャ料理りょうりであり、マヨルカとうではラマリェットしゅばれる果皮かひうす地元じもと品種ひんしゅ使用しようされる[95]。トマト以外いがいにはたっぷりのオリーブオイルとひとつまみのしおりかけ、トーストしたりニンニクをったりすることもある[95]。しばしばソーセージやチーズもせてべられる[95]

オリーブオイル

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マヨルカとうはオリーブの栽培さいばいなが歴史れきしっており、オリーブオイル生産せいさんとその消費しょうひ歴史れきしなが[29]。オリーブのおもにトラムンターナ山脈さんみゃくみなみ斜面しゃめん栽培さいばいされ、つよ風味ふうみつのが特徴とくちょうである[94][29]。マヨルカとうさんのオリーブオイルの認知にんち諸島しょとう内外ないがいたかく、17世紀せいきから19世紀せいきには経済けいざいめん重要じゅうよう役割やくわりたした[29]。1888ねんバルセロナ万国博覧会ばんこくはくらんかいではマヨルカとうさんのオリーブオイルがとうしょう受賞じゅしょうし、諸島しょとうがい認知にんちされるようになった[29]。2002ねんには原産地げんさんち呼称こしょう(DO)に認定にんていされている[29]収穫しゅうかくはや段階だんかいつまむことで果実かじつあじ強調きょうちょうしたタイプ、完熟かんじゅくさせたオリーブを使用しようすることで黄金おうごんしょくあまさを強調きょうちょうしたタイプの2種類しゅるいがある[29]

行政ぎょうせい

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マヨルカとう評議ひょうぎかい紋章もんしょう

地域ちいき政府せいふ

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1983ねんにはスペインに17ある自治じちしゅうのひとつとしてバレアレス諸島しょとう自治じちしゅう発足ほっそくし、マヨルカとうはその一部いちぶとなった。バレアレス諸島しょとうしゅうしゅう議会ぎかいしゅう政府せいふしゅう首相しゅしょう州立しゅうりつ高等こうとう裁判所さいばんしょゆうしている[98]

バレアレス諸島しょとうしゅうはマヨルカとう評議ひょうぎかい、メノルカとう評議ひょうぎかい、イビサとう評議ひょうぎかい、フォルメンテーラとう評議ひょうぎかいの4評議ひょうぎかい集合しゅうごうたいであり、マヨルカとう評議ひょうぎかいはマヨルカとうカブレラとう管轄かんかつしている。マヨルカとう評議ひょうぎかいはマヨルカ島内とうない文化ぶんか道路どうろ鉄道てつどう市政しせいなどを担当たんとうしている。マヨルカとうにあるかく自治体じちたい独自どくじ自治体じちたい議会ぎかいゆうしている[98]。マヨルカとううたラ・バランゲーラ英語えいごばんである。

マヨルカとう評議ひょうぎかい
マヨルカとう評議ひょうぎかい政党せいとうべつ議席ぎせきすう推移すいい(1979-2019)
政党せいとう 79 83 87 91 95 99 03 07 11 15
民主みんしゅ中道ちゅうどう連合れんごう (UCD) 15 - 3 - - - - - - -
国民党こくみんとう (PP) - 11 13 - 16 16 16 16 19 10
国民党こくみんとうマヨルカ連合れんごう (PP-UM) - - - 18 - - - - - -
スペイン社会労働党しゃかいろうどうとう (PSOE) 6 11 11 11 8 8 9 11 10 7
メス・ペル・マヨルカスペインばん (Més) - - - - - - - - - 6
ポデモス - - - - - - - - - 5
シウダダノス (C's) - - - - - - - - - 2
プロポスタ・ペル・ラス・イリェススペインばん (PI) - - - - - - - - - 3
マヨルカ連合れんごう (UM) - 6 4 - 2 3 3 3 - -
マヨルカ独立どくりつ連合れんごうスペインばん (UIM) - - - 1 - - - - - -
マヨルカ社会しゃかい主義しゅぎしゃとうスペインばん (PSM-Entesa) 2 2 2 3 5 4 3 - 4 -
バレアレス諸島しょとう統一とういつ左翼さよく (EU-EV) 1 - - - 2 2 2 - -
マヨルカ・ブロックスペインばん (PSM-EN. EU-EV, ESQUERRA) - - - - - - - 3 -
議席ぎせきすう合計ごうけい 24 30 33 33 33 33 33 33 33 33
マヨルカとう評議ひょうぎかい代表だいひょう
だい 名前なまえ 就任しゅうにん 退任たいにん 政党せいとう
1. ジェロニ・アルベルティ 1979ねん7がつ24にち 1982ねん9がつ27にち 民主みんしゅ中道ちゅうどう連合れんごう (UCD)
2. マキシミリアーノ・モラーレス 1982ねん9がつ27にち 1983ねん6がつ23にち 民主みんしゅ中道ちゅうどう連合れんごう (UCD)
3. ジェロニ・アルベルティ 1983ねん6がつ23にち 1987ねん6がつ29にち マヨルカ連合れんごう (UM)
4. ジョアン・ベルジェル 1987ねん6がつ29にち 1995ねん7がつ7にち 国民党こくみんとう (PP)
5. マリーア・アントーニア・ムナル 1995ねん7がつ7にち 2007ねん6がつ29にち マヨルカ連合れんごう (UM)
6. フランシーナ・アルメンゴル 2007ねん7がつ7にち 2011ねん6がつ14にち スペイン社会労働党しゃかいろうどうとう (PSOE)
7. マリーア・サロン 2011ねん6がつ14にち 2015ねん7がつ4にち 国民党こくみんとう (PP)
8. ミケル・エンセニャット 2015ねん7がつ4にち 現職げんしょく メス・ペル・マヨルカスペインばん (Més)

王室おうしつ

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パルマにはスペイン王室おうしつなつ離宮りきゅうであるマリベント宮殿きゅうでんがあり[99]国王こくおう一家いっか夏季かき休暇きゅうかをマヨルカとうごす[100]王室おうしつ住居じゅうきょおおくは国家こっか遺産いさんきょく英語えいごばん管理かんりしているが、マリベント宮殿きゅうでんはバレアレス諸島しょとうしゅう政府せいふ管理かんりしたにある。スペイン王室おうしつ全員ぜんいんセーリング競技きょうぎ経験けいけんしゃであるため、全員ぜんいんあつまるとセーリングをたのしむことがある[101]

マリベント宮殿きゅうでん私邸していであり、公務こうむ使用しようされることはまれであるが、非公式ひこうしき活動かつどう使用しようされることもある。2007ねん11月にはスペイン国王こくおうフアン・カルロス1せいイベロアメリカ首脳しゅのう会議かいぎなかに、ベネズエラのウゴ・チャベス大統領だいとうりょうたいして「¿Por qué no te callas?」(だまったらどうかね?)と発言はつげんしたことが国際こくさい問題もんだい発展はってんしたが[102]、2008ねんにはスペイン=ベネズエラ両国りょうこく関係かんけい修復しゅうふく国交こっこう正常せいじょうのために[103]、チャベス大統領だいとうりょうがマリベント宮殿きゅうでん滞在たいざいした[104]

1980年代ねんだいにはスペイン王室おうしつ招待しょうたいで、イギリス王室おうしつチャールズ3せい当時とうじ皇太子こうたいし)とダイアナ夫妻ふさいがしばしばマヨルカとうおとずれている[76]。1988ねんにはエリザベス2せい女王じょおうフィリップ夫妻ふさいがイギリス王室おうしつヨットのブリタニアごうでマヨルカとうおとずれた[76]。1994ねん10がつには日本にっぽん明仁あきひと天皇てんのう皇后こうごう美智子みちこがスペイン国王こくおう夫妻ふさいとともにアルムデナ離宮りきゅう滞在たいざいした[76]

経済けいざい

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マヨルカとうはオリーブ、ブドウ、オレンジなどの農産物のうさんぶつや、ワインやブランデーなどの酒類しゅるい大理石だいりせきてつなまり羊毛ようもう陶器とうきなどを産出さんしゅつする[2]農業のうぎょう観光かんこうぎょうにおける女性じょせい就業しゅうぎょうしゃすうおおいため、スペインの地域ちいきくらべてバレアレス諸島しょとうではゆうぎょう人口じんこう比率ひりつたか[31]

観光かんこうぎょう

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カプデペーラのカーラ・アギリャ

観光かんこうぎょう特徴とくちょう

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バレアレス諸島しょとう経済けいざい主要しゅよう原動力げんどうりょくとなっている2つの部門ぶもんは、工業こうぎょう農業のうぎょうしのけて観光かんこうぎょう建設けんせつぎょうである[13]。マヨルカとうには世界せかい有数ゆうすうのホテル企業きぎょうがある[13]。マヨルカとう沿岸えんがんはほぼ全域ぜんいき観光かんこうとなっているが、観光かんこうきゃく大半たいはん南岸なんがんのパルマとカルビア、さらに北岸ほくがんのポリェンサわんとアルクーディアわん集中しゅうちゅうしている[13]かずおおくのうつくしい砂浜すなはまやビーチ・リゾートが島内とうない点在てんざいしており、マヨルカとうにあるビーチのかずは139かしょのぼ[105]とくバカンスぶしになるとビーチは海水浴かいすいよくたのしむ観光かんこうきゃくでごったがえす。ビーチ以外いがいにも、北部ほくぶにはうみへと断崖絶壁だんがいぜっぺきやそのあいだ点在てんざいするむら々、また東部とうぶポルト・クリスト英語えいごばんにはドラック洞窟どうくつなど多数たすう巨大きょだい鍾乳洞しょうにゅうどうがある。

 
アンドラッチみなと

今日きょうでもマスツーリズム観光かんこうきゃくは「太陽たいよう砂浜すなはま」をもとめてマヨルカとうにやってくる[106]旅行りょこう会社かいしゃのイメージ戦略せんりゃくによって5S (SeaSandSunSangríaSex)を目的もくてきとした夏季かき観光かんこうきゃくおおく、とく浜辺はまべでの飲酒いんしゅ性行為せいこうい目的もくてきとする若者わかものによる騒音そうおん問題もんだいやモラルの低下ていか社会しゃかい問題もんだいにもなっている[107]。2011ねんくにべつ観光かんこう客数きゃくすうはドイツが37%、イギリスが21%、スペインが13%だった[5]平均へいきん滞在たいざい日数にっすうは8.5日間にちかんだった[5]

パルマにあるオテル・メディテラネの宿泊しゅくはくしゃ名簿めいぼには、エヴァ・ガードナー(アメリカの女優じょゆう)、リチャード・ニクソン(アメリカ大統領だいとうりょう)、イラン国王こくおうエロール・フリン(オーストラリアの俳優はいゆう)、アガサ・クリスティ(イギリスの作家さっか)などの名前なまえがみられ、オテル・ソン・ビダが開業かいぎょうしたさい主賓しゅひんはモナコ大公たいこうレーニエ3せいグレース・ケリーだった[76]ポリェンサにあるオテル・フルマントールの宿泊しゅくはくしゃ名簿めいぼには、ウィンストン・チャーチル(イギリス首相しゅしょう)、ダグラス・フェアバンクス(アメリカの俳優はいゆう)、チャーリー・チャップリン(アメリカの俳優はいゆう)、クリストファー・プラマー(アメリカの俳優はいゆう)、ウェールズこうチャールズ(チャールズ3せい)、モナコ大公たいこうレーニエ3せいとグレース・ケリー、スペイン国王こくおうフアン・カルロス1せいソフィアなどの名前なまえかれており[76][108]ジャクリーン・ケネディ・オナシス(アメリカのファーストレディ)やそのおっとアリストテレス・オナシス実業じつぎょう)もこのホテルを起点きてんにヨットで地中海ちちゅうかい巡航じゅんこうした[108]

観光かんこうぎょう歴史れきし

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サンタ・ポンサのホテルぐん

ギリシャのケルキラとうなどとともに、マヨルカとうでは地中海ちちゅうかい島嶼とうしょなかでははやくから観光かんこう発展はってんはじまった[106]。19世紀せいきにフランスじん貴族きぞくがやってきて、おもにパルマに滞在たいざいしながら島内とうない自然しぜん景観けいかん文化ぶんかてき景観けいかんたのしんだのが観光かんこうぎょう創始そうしである[5]。イギリスじんやドイツじんは、とく冬季とうき避寒ひかんにマヨルカとうえらんだ[5]。19世紀せいき中頃なかごろまでの観光かんこう客数きゃくすう年間ねんかんすうせんにんにすぎなかったが、20世紀せいきはいると観光かんこう客数きゃくすう急増きゅうぞうし、1920年代ねんだいには地中海ちちゅうかいクルーズの目的もくてき、またスペインじんにとっての新婚しんこん旅行りょこう目的もくてきとなった[5]。イギリスじんによってはじめられたハイキングをスペインじんたのしむようになり、ドイツじん高地こうちにある歴史れきしてきまち目指めざすハイキングをブームにみちびいた[5]。1930年代ねんだいにはアメリカから海水浴かいすいよく日光浴にっこうよくがもたらされ、ヨーロッパじんにとってはめずらしかったはだ露出ろしゅつさせたよそおいも、ファッションとして定着ていちゃくした[5]

 
作家さっかやミュージシャンにあいされるデイアのまち

だい世界せかい大戦たいせんのヨーロッパでは島嶼とうしょ観光かんこうがブームとなり、マヨルカとうマスツーリズムは1950年代ねんだいまつはじまったとされる[109]。1950ねん観光かんこう客数きゃくすうは10まんにんだったが、1951ねんには20まんにんとなり、1955ねんにイギリスで海外かいがい旅行りょこう規制きせい緩和かんわされるとイギリスじん観光かんこうきゃく急増きゅうぞうした[107]。アメリカじん冷戦れいせんしたのヨーロッパ政策せいさくとしてインフラ整備せいび開始かいしし、イギリスじんがホテル建設けんせつやリゾート開発かいはつなどをおこなった[107]。1960年代ねんだい初頭しょとうにはパッケージツアーはじまり、1964ねんにスペイン政府せいふ外国がいこくじん観光かんこうきゃく増加ぞうか目指めざ観光かんこう政策せいさく実施じっししたことで、さらに国外こくがいからの投資とうし観光かんこう発展はってんすすんだ[107]。1964ねんまつ時点じてんでは918けんホテルまたはペンションがあり、そうベッドすうは40,908しょうたっした[107]。ピークには2にちに1けんのペースで宿泊しゅくはく施設しせつ開業かいぎょうしたとされる[107]

1970年代ねんだいから1980年代ねんだいには、イギリスだけでなくドイツの旅行りょこう会社かいしゃによるパッケージツアーが増加ぞうかし、イギリスじん観光かんこうきゃくとドイツじん観光かんこうきゃく目的もくてきかれた[107]マガルフやサレナルなどでは英語えいご表記ひょうき看板かんばん、プラヤ・デ・パルマやアルクーディアなどではドイツ表記ひょうき看板かんばんおおることができる[107]。1960年代ねんだいから観光かんこうきゃく一貫いっかんして増加ぞうか傾向けいこうにあり、1960年代ねんだいまつから1970年代ねんだい最初さいしょのブームであるとされる[107]

1977ねん時点じてんではスペインの宿泊しゅくはく施設しせつすうは9,542けんだったが、バレアレス諸島しょとうにはけんべつでスペイン最多さいたの1,467けんがあった[36]。うち290けんは3つほし以上いじょうのホテルであり、宿泊しゅくはく施設しせつ充実じゅうじつ当時とうじから際立きわだっていた[36]。1990年代ねんだい衰退すいたいであり、カルビアでは競合きょうごう相手あいて増加ぞうかによる観光かんこうきゃく減少げんしょう、マスツーリズムではない個人こじん旅行りょこう増加ぞうからん開発かいはつ環境かんきょう問題もんだいなどがこったものの、マスツーリズムからサステイナブルツーリズムへの移行いこうがうまくいった結果けっか、1997ねん以降いこうにはすうおおくの観光かんこう関連かんれんしょう受賞じゅしょうするようになった[107]

1950年代ねんだいにはいた内陸ないりく山間さんかんへの別荘べっそう開発かいはつはじまり、1980年代ねんだいには夏季かき別荘べっそう滞在たいざい退職たいしょくしゃ長期ちょうき滞在たいざい増加ぞうかした[107]。2000ねんにはかし別荘べっそうが39,000たっしている[110]。また、農場のうじょう家屋かおく宿泊しゅくはく施設しせつとして利用りようするアグリツーリズムさかんとなり、2010ねん時点じてんで175けん農場のうじょう家屋かおくがドイツじん富裕ふゆうそうなどに利用りようされている[110]

2000ねん時点じてんで、バレアレス諸島しょとうでは域内いきないそう生産せいさん(GRP)の60%以上いじょう観光かんこうぎょうめていた[24]。1986ねん時点じてんではしま全体ぜんたいにリゾートが4つあったが、2000ねんには13に増加ぞうかし、これらのリゾートは大量たいりょう真水まみず必要ひつようとしている[24]。2000ねん春季しゅんきには水不足みずぶそくみず供給きょうきゅう問題もんだいかさなったことで、ドイツからの観光かんこうきゃく通常つうじょうの1/3にまで減少げんしょうした[24]。2013ねんには950まんにんがマヨルカとうおとずれ、バレアレス諸島しょとう全体ぜんたいには1300まんにんおとずれた[111]

くに地域ちいきべつ観光かんこう客数きゃくすう

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くに地域ちいきべつ観光かんこう客数きゃくすう[112]
順位じゅんい くに地域ちいき 2014 2013 2012 2011 2010
1   ドイツ 3,731,458 3,710,313 3,450,687 3,308,604 2,224,709
2   イギリス 2,165,774 2,105,981 1,986,354 1,898,838 1,324,294
3   スペイン 1,088,973 985,557 1,192,033 1,195,822 759,825
4 北欧ほくおう諸国しょこく 758,940 758,637 668,328 572,041 387,875
5 ベネルクスさんこく 366,130 363,911 360,973 368,930 284,845
6   スイス 334,871 312,491 292,226 280,401 188,826
7   フランス 328,681 337,891 349,712 316,124 187,589
8   オーストリア 175,530 160,890 138,287 181,993 107,991
9   イタリア 165,473 154,227 173,680 200,851 135,535
10   アイルランド 100,059 104,827 115,164 158,646 68,456

農業のうぎょう漁業ぎょぎょう

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マヨルカとうのアーモンドはたけ

マヨルカとう地中海ちちゅうかい地域ちいきしまとしてはめずらしく肥沃ひよくみどりゆたかである[10]。マヨルカとう急斜面きゅうしゃめんには耕作こうさく困難こんなん場所ばしょもあるが、一部いちぶでは人間にんげん段々畑だんだんばたけきずいてオリーブやブドウを栽培さいばいしている[67]。マヨルカとう主要しゅような2つの作物さくもつオリーブブドウであり、そのには柑橘類かんきつるいとくオレンジ)、アーモンド穀物こくもつ野菜やさい栽培さいばいしている[67]。とはいえ、農業のうぎょうがマヨルカとう域内いきないそう生産せいさん(GRP)にめる割合わりあいは1.1%、農業のうぎょう従事じゅうじしゃ労働ろうどうりょく人口じんこうめる割合わりあいは2%とひく[113]ぜん耕地こうち面積めんせきやく半分はんぶんはアーモンド、オリーブ、イナゴマメなどの樹木じゅもく栽培さいばいである[114]零細れいさい土地とち所有しょゆう卓越たくえつしており、1979ねん時点じてん中規模ちゅうきぼ土地とち所有しょゆうしゃ農業のうぎょう人口じんこうやく27%・農地のうち面積めんせきの35%にぎず、のこりは5ヘクタール以下いか小規模しょうきぼ土地とち所有しょゆうしゃである[114]石灰せっかいしつのやせた赤土あかつち農地のうちおおく、パルマ周辺しゅうへんのぞけば灌漑かんがい農地のうちすくない[114]農業のうぎょう機械きかい導入どうにゅうおそく、農業のうぎょう従事じゅうじしゃ所得しょとく水準すいじゅんひく[114]

ローマじんがマヨルカとうにオリーブを[115]、13世紀せいきにはすでにオリーブオイルを生産せいさんしていた記録きろくのこっている[116]。19世紀せいきにはマヨルカとうからの輸出ゆしゅつひんの90%をめており、観光かんこうぎょう発展はってんするまでのしゅ産物さんぶつだった[116]。そのいったんは衰退すいたいしたものの、今日きょうには復活ふっかつして年間ねんかん10まんリットルきょう生産せいさんしている[116]。マヨルカとうには55,000ヘクタールの土地とちに500まんほんのアーモンドがえられているとされる[117]気候きこうなどが影響えいきょうして、マヨルカとうのアーモンドは水分すいぶん含有がんゆうりょうひく脂肪しぼう含有がんゆうりょうたか[117]一般いっぱんてきにアーモンドの開花かいか時期じきは2がつであり、収穫しゅうかく時期じきは8がつである[117]

マヨルカとう南東なんとうにあるコロニア・サン・ジョルディ塩水えんすいみずうみからは年間ねんかんやく15,000トンのうみしお(英語えいごばん)収穫しゅうかくされる[118]。この塩水えんすいみずうみ海水かいすいをポンプでげて造成ぞうせいされた人造湖じんぞうこであり、マヨルカとううみしおマグネシウムカリウムカルシウムなどを豊富ほうふふくんでいる[118]。マヨルカとう四方しほううみかこまれているものの、漁業ぎょぎょうなが低迷ていめいにあり、マヨルカとう販売はんばいされている魚類ぎょるいだい部分ぶぶんはイベリア半島はんとう漁港ぎょこうから輸入ゆにゅうしたものである[119]

皮革ひかく製品せいひん

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カンペールのストア

カンペール、ファルチュ(Farrutx)、ヤンコ(Yanko)などはいずれもマヨルカとう工場こうじょう皮革ひかく製品せいひんメーカーであり、いずれもスペイン国内外こくないがいられた存在そんざいである[120]。このなかでもっとも著名ちょめいくつメーカーのカンペールは、「皮革ひかくまち」とばれるインカ発祥はっしょうであり、マヨルカとう中心ちゅうしん位置いちするインカは皮革ひかく製品せいひん製造せいぞうとくしたおおくの工場こうじょう工房こうぼうゆうしている[120]。ファルチュ、ヤンコ、ロトゥセ(Lottusse)はくつ、バッグ、コート、手袋てぶくろなどこう品質ひんしつ皮革ひかく製品せいひん製造せいぞうしている[120]

地図ちず製作せいさく

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13世紀せいきから15世紀せいきのマヨルカとうでは地図ちず航海こうかい製作せいさく技術ぎじゅつ花開はなひらき、中世ちゅうせい後期こうきには世界せかいでもっとも重要じゅうよう地図ちず製作せいさく拠点きょてんのひとつだった[121]。この時期じき活躍かつやくした地図ちず製作せいさくしゃ総称そうしょうして「マヨルカ地図ちず製作せいさく学校がっこう英語えいごばん」とぶことがある[121]実際じっさい地図ちず製作せいさくまなぶための学校がっこう設置せっちされていたわけではないが、バレアレス諸島しょとうからはすぐれた地図ちず製作せいさくしゃ数多かずおおまれた。この時代じだい地図ちずには地中海ちちゅうかいばかりではなく、紅海こうかい黒海こっかいバルト海ばるとかい大西おおにしひろし沿岸えんがんえがかれ、カタルーニャ以外いがいにはラテン語らてんごもちいられた[121]主要しゅよう地図ちず製作せいさくしゃにはアンジェリ・ドゥセルト(Angelí Ducert)、ギリェム・ソレール(Guillem Soler)、ガブリエル・デ・バルセカ(Gabriel de Vallseca)などがいる[121]。この時代じだい地図ちず製作せいさくしゃおおくは、のちカトリックりょうおうによってスペインから追放ついほうされることになるユダヤじんだった[121]

社会しゃかい

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カタルーニャ方言ほうげん分布ぶんぷ

スペインは全土ぜんどスペイン公用こうようとしており、マヨルカとうふくむバレアレス諸島しょとうしゅうはスペイン以外いがいカタルーニャ公用こうようとしている[122][88]。バレアレス諸島しょとうしゅう自治じち憲章けんしょうでカタルーニャは「わたしたちの言語げんご」(llengua propia)とされている[122]島民とうみんによってはなされるカタルーニャマヨルカ方言ほうげんはマヨルキ(Mallorqui)ともばれ、集落しゅうらくごとに発音はつおんがわずかにことなる。

地域ちいき言語げんごきびしい政策せいさくったフランコ体制たいせいは1930年代ねんだいまつから35ねん以上いじょうつづいたため、マヨルカとうまれの住民じゅうみんはほぼ全員ぜんいんがスペインはなすことができる[23]。フランコ体制たいせい教育きょういくけた住民じゅうみんはカタルーニャんだりいたりすることが困難こんなんであるし、マヨルカとうにある5つの日刊にっかんなかにカタルーニャかれている日刊にっかん存在そんざいしない[23]。2012ねん、バレアレス諸島しょとうしゅう政府せいふ政権せいけんとうである国民党こくみんとう(PP)は学校がっこうでカタルーニャ優先ゆうせんてきあつかうことを終了しゅうりょうし、公用こうよう言語げんご同格どうかくあつか意思いし発表はっぴょうした。この発表はっぴょうでかなりちか将来しょうらいに「マヨルカけいカタルーニャじん」は消滅しょうめつするだろうとされている[123]

かなりのかず観光かんこうきゃく英語えいご母語ぼご話者わしゃであり、観光かんこうきゃくおおくはイギリスとアイルランドから、またアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとカナダからる。また、ドイツけんからの観光かんこうきゃくおおく、「マヨルカとうはドイツの17番目ばんめ連邦れんぽうしゅうである」というジョークもある[124][125]。マヨルカとう発行はっこうされている地元じもとのいくつかは、ドイツけん英語えいごけんかんするドイツ英語えいご情報じょうほうふくんでいる[126]新聞しんぶん販売はんばいてんやホテルなどでは国際こくさいてき新聞しんぶん容易よういることができ、本国ほんごくからわずか数時間すうじかんおくれでドイツ語どいつご英語えいごむことができる[126]

カタルーニャ言語げんご政策せいさくという観点かんてんで、マヨルカとう住民じゅうみんおやカタルーニャはんカタルーニャ関心かんしんの3つに分類ぶんるいされるが、もっともおおいのは関心かんしんである[127]おやカタルーニャなかにはフランコ体制たいせい投獄とうごくされたり亡命ぼうめいしていたものおお[127]。カタルーニャのテレビ番組ばんぐみ増加ぞうかなどを主張しゅちょうし、カタルーニャやカタルーニャ文化ぶんか促進そくしんのためのイベントに資金しきん提供ていきょうしている[127]はんカタルーニャ少数しょうすうであるものの、カタルーニャ看板かんばん破壊はかいしたり、カタルーニャ放送ほうそうきょくであるTV3英語えいごばん受信じゅしんきょく爆破ばくはする事件じけんこしている[127]

交通こうつう

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航空こうくう

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パルマ・デ・マヨルカ空港くうこう

マヨルカとうはつ民間みんかん飛行場ひこうじょうソン・ボネー飛行場ひこうじょう英語えいごばんであり、1927ねんはつ商業しょうぎょう飛行ひこうおこなわれた。1960ねんパルマ・デ・マヨルカ空港くうこう開港かいこうし、主要しゅよう空港くうこうがソン・ボネー飛行場ひこうじょうからうつった。パルマ・デ・マヨルカ空港くうこうマドリード=バラハス空港くうこうバルセロナ=エル・プラット空港くうこういでスペインで3番目ばんめ旅客りょかくすうおお空港くうこうであり[128]、2014ねん旅客りょかくすうは2310まんにんだった[129]。スペイン本土ほんどやヨーロッパの主要しゅよう都市としとのあいだ定期ていき便びん就航しゅうこうしており[13]、イギリスのロンドンしょ空港くうこうや、ドイツのフランクフルト空港くうこうからやく2あいだはん距離きょりにある[105]夏季かきすうげつあいだはヨーロッパでもっとも混雑こんざつする空港くうこうのひとつであり、「夏季かきにはパリ=オルリー空港くうこうよりも発着はっちゃく便数びんすうおおい」と喧伝けんでんされたこともある[37]国際こくさい便びんにはおも大型おおがたジェット機じぇっとき使用しようされる[130]

パルマ空港くうこうから中心ちゅうしん市街地しがいちまでの距離きょりはわずか10kmであり、高速こうそく道路どうろとバス路線ろせんつうじている[128]。パルマ・デ・マヨルカ空港くうこう発着はっちゃく便数びんすうの70%は定期ていき便びん以外いがいチャちゃ便びんであるとされる[37]。2007ねん時点じてんで、パルマ・デ・マヨルカ空港くうこうには526便びん/にち定期ていき便びん設定せっていされており、うち41便びんはバルセロナ=エル・プラット空港くうこうき、36便びんはマドリード=バラハス空港くうこうき、11便びんイビサ空港くうこうき、7便びんメノルカ空港くうこうきだった[32]。バレアレス諸島しょとうないしまよりもバルセロナやマドリードとのむすびつきを志向しこうしており、バレアレス諸島しょとうないではおもに50にんりの小型こがた運航うんこうされているにぎない[32]イベリア航空こうくうエア・ヨーロッパなどが小規模しょうきぼターボプロップ運航うんこうし、パルマ・デ・マヨルカ空港くうこうとバレアレス諸島しょとうかく空港くうこうむすんでいる[130]

鉄道てつどう

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マヨルカとう鉄道てつどうもう

1875ねん2がつにはパルマとインカむすぶマヨルカとうはつ鉄道てつどう開業かいぎょうした[131]軌間きかんは914mm(狭軌きょうき)であり、入手にゅうしゅ容易よういなイギリスせい蒸気じょうき機関きかんしゃ車両しゃりょう使用しようして投資とうしがくおさえられた[131]アルターマナコールサ・ポブラファラニチュサンタニーなどの主要しゅようまちにも鉄道てつどうつうじ、近代きんだい過程かていでメーターゲージへの変更へんこう気動車きどうしゃ導入どうにゅうなどがなされた[131]。1960年代ねんだいまつ以降いこうには相次あいついで路線ろせん廃止はいしされ、ソーリェル方面ほうめん路線ろせんのぞけばインカ以外いがい主要しゅようまちから鉄道てつどううしなわれたが、2000年代ねんだいになって運行うんこう再開さいかいすすんでいる。今日きょうのマヨルカとうには、しゅう政府せいふ運営うんえいするマヨルカ鉄道てつどう民間みんかん企業きぎょうソーリェル鉄道てつどうという2つの鉄道てつどう会社かいしゃがある[132]

マヨルカ鉄道てつどう郊外こうがい路線ろせん3系統けいとうパルマ・メトロ英語えいごばん地下鉄ちかてつ)2系統けいとう運行うんこうしている。郊外こうがい路線ろせんはパルマから北東ほくとうかってび、パルマと島内とうない地域ちいきむすんでこう頻度ひんど運行うんこうおこなっている[132]。1号線ごうせんはパルマと島中しまなかひさしのインカをむす路線ろせんである[132]。インカからは2号線ごうせん北部ほくぶのサ・ポブラに、3号線ごうせん東部とうぶのマナコールに分岐ぶんきしている[132]。2号線ごうせんアルクーディアまで、3号線ごうせんはカラ・ラトゥハダまで延伸えんしんする計画けいかくがある[132]。2007ねんにはパルマ・デ・マヨルカでパルマ・メトロ1号線ごうせん開業かいぎょうし、市内しない中心ちゅうしんのスペイン広場ひろばえきバレアレス諸島しょとう大学だいがく(UIB)最寄もよりのUIBえきむすんだ。2013ねんにはメトロ2号線ごうせん開業かいぎょうし、スペイン広場ひろばえき市街地しがいち北東ほくとうのマラチえきむすんだ。

ソーリェル鉄道てつどうは1912ねんからパルマとトラムンターナ山脈さんみゃくないにあるソーリェルむすんでおり、保存ほぞん状態じょうたい木製もくせい列車れっしゃおおくの観光かんこうきゃくはこんでいる[132]。ソーリェルえきは1606ねん建築けんちくぶつである[132]。ソーリェルにはソーリェル鉄道てつどうほかに1913ねん10がつ開業かいぎょうしたソーリェル路面ろめん電車でんしゃ英語えいごばんもあり、ソーリェル市街地しがいち憲法けんぽう広場ひろばとソーリェルこうむすんでいる[132]

海上かいじょう交通こうつう

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パルマこう停泊ていはくちゅうのクルーズせん

パルマ・デ・マヨルカのパルマこうはバレアレス諸島しょとう最大さいだいさいじゅう要港ようこうであり、海運かいうんぎょう漁業ぎょぎょう、クルーズ、旅客りょかく輸送ゆそう軍事ぐんじ輸送ゆそう使用しようされている[133]。スペイン本土ほんどバルセロナみなとバレンシアみなとデニアみなとからパルマこうけて毎日まいにち定期ていき便びん運航うんこうされている[133]一般いっぱんてきなフェリーの場合ばあいはそれぞれのみなとからやく5あいだかけてマヨルカとう到着とうちゃくする[133]。クルーズ会社かいしゃすうしゃがパルマみなとよせこうこうとして使用しようし、海運かいうん会社かいしゃすうしゃがパルマみなと本拠地ほんきょちとして使用しようしている[133]

夏季かきにはバレアリア英語えいごばんしゃによってバルセロナと北岸ほくがんアルクーディア直接ちょくせつむすぶフェリーが運航うんこうされている。がいしてフェリーの運賃うんちん航空機こうくうき使用しようするよりも安価あんかである。北東ほくとうがんにあるアルクーディアみなとからはメノルカとうシウタデリャ・デ・メノルカマオー=マオンかう定期ていき便びんがあり、やく90ふん両島りょうしまむすんでいる[133]。パルマこうとアルクーディアこう利用りようしゃすう合計ごうけいすると、年間ねんかんやく80まんにんがフェリーでマヨルカとう入島にゅうじましている[133]アクシオナしゃ、バレアリアしゃイスコマール英語えいごばんしゃ、インテリリェスしゃなどがパルマみなと入港にゅうこうする定期ていき便びんゆうしている[133]。さらにパルマとイビサとうエイビッサむすぶフェリーが毎日まいにち運航うんこうされている[130]

関連かんれん人物じんぶつ

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「カタルーニャちちラモン・リュイ
 
テニス選手せんしゅラファエル・ナダル

出身しゅっしんしゃ

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居住きょじゅうしゃなど

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ マヨルカのだい2ターイファこくともばれる。

出典しゅってん

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外部がいぶリンク

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