名称 めいしょう はラテン語 らてんご で「大 おお きな島 しま 」を意味 いみ するinsula maiorに由来 ゆらい し、後 のち に「大 おお きなほう」を意味 いみ するMaioricaとなった。さらにカタルーニャ語 ご でMaiorca、Mayorcaとなったが、イェイスム という発音 はつおん 現象 げんしょう によってMallorcaと綴 つづ りが変 か わって現在 げんざい に至 いた る[ 6] 。一方 いっぽう で、メノルカ島 とう の名称 めいしょう はマヨルカ島 とう と比較 ひかく して「小 ちい さなほう」を意味 いみ するMinorcaに由来 ゆらい する。英語 えいご ではMajorca(マジョルカ, または[ 7] )、イタリア語 ご ではMaiorca(マヨルカ)、フランス語 ふらんすご ではMajorque(マジョルク)。古称 こしょう はマヨール島 とう (Major)。
地形 ちけい 図 ず
マヨルカ島 とう は地中海 ちちゅうかい 西部 せいぶ のバレアレス海 うみ にあるバレアレス諸島 しょとう を構成 こうせい する島 しま であり、スペイン本土 ほんど から見 み て東側 ひがしがわ に位置 いち している[ 8] 。面積 めんせき は3,640.11km2 であり[ 8] 、バレアレス諸島 しょとう ではもっとも大 おお きく、日本 にっぽん の沖縄 おきなわ 本島 ほんとう の約 やく 3倍 ばい である[ 9] 。2012年 ねん の人口 じんこう は869,000人 にん である[ 10] 。地中海 ちちゅうかい の島嶼 とうしょ の中 なか では面積 めんせき は中規模 ちゅうきぼ であるとされるが、地中海 ちちゅうかい における面積 めんせき 第 だい 3位 い のキプロス島 とう に匹敵 ひってき する人口 じんこう を持 も つ。地中海 ちちゅうかい の主要 しゅよう な島嶼 とうしょ の中 なか ではひときわ人口 じんこう 密度 みつど が高 たか く、人口 じんこう 第 だい 1位 い のシチリア島 とう よりも高 たか い人口 じんこう 密度 みつど を有 ゆう する。
東西 とうざい 幅 はば は96km、南北 なんぼく 長 ちょう は78kmであり、海岸 かいがん 線 せん の長 なが さは554kmである[ 13] 。バルセロナ から見 み て約 やく 210km南 みなみ 、バレンシア から見 み て約 やく 240km東 ひがし にある[ 10] 。フランスのマルセイユ からパルマ・デ・マヨルカ までの距離 きょり は460km、アルジェリアのアルジェ からパルマまでの距離 きょり は340kmである。地理 ちり 学者 がくしゃ のオノフラ・ルリャン(Onofre Rullan)は、マヨルカ島 とう を山地 さんち と平地 ひらち 、内陸 ないりく 部 ぶ と沿岸 えんがん 部 ぶ 、パルマとパルマ外 がい という3つの軸 じく によって8つの地域 ちいき に分 わ けている。
マヨルカは
一 ひと つの
小型 こがた の
大陸 たいりく である。
無数 むすう の
浜 はま があり、
山脈 さんみゃく があり、
鉄道 てつどう があり、
耕 こう やされた
平野 ひらの 、
歴史 れきし 的 てき 大都市 だいとし (パルマ)、デパート、ブチク……があり、ミシュランの
星 ほし 印 しるし を
持 も つレストラン(
複数 ふくすう )では
王侯 おうこう 貴族 きぞく が
食事 しょくじ をする。
— アンドリュー・イーメス『Insight guides, Mallorca & Ibiza』
トラムンターナ山脈 さんみゃく
北西 ほくせい 部 ぶ のトラムンターナ山脈 さんみゃく と南東 なんとう 部 ぶ のリェバン山地 さんち という2本 ほん の山脈 さんみゃく がマヨルカ島内 とうない を走 はし っている。リェバン山地 さんち は標高 ひょうこう 約 やく 500mと比較的 ひかくてき 低 ひく い山地 さんち であり、美 うつく しい農村 のうそん 景観 けいかん を持 も つことからトレッキングに人気 にんき がある[ 16] [ 8] 。
トラムンターナ山脈 さんみゃく は南西 なんせい 岸 がん から北岸 ほくがん にかけて90kmに渡 わた って伸 の びており[ 16] 、1,067km2 の面積 めんせき を持 も つ[ 17] 。イベリア半島 はんとう 南東 なんとう 部 ぶ のベティコ山系 さんけい と連続 れんぞく 性 せい を持 も ち、北 きた にむかうほど急峻 きゅうしゅん になる[ 16] 。海 うみ に向 む かって劇的 げきてき に標高 ひょうこう が落 お ちるため、海岸 かいがん には崖 がけ が形成 けいせい されている[ 16] 。トラムンターナ山脈 さんみゃく にはマヨルカ島 とう 最高峰 さいこうほう のプッジ・マジョー (1445m)があるが[ 18] [ 13] [ 8] 、プッジ・マジョーの頂上 ちょうじょう は軍用 ぐんよう ゾーンとなっており、民間 みんかん 人 じん がアクセスできるマヨルカ島 とう の最高 さいこう 地点 ちてん はプッジ・ダ・マッサネーリャ (英語 えいご 版 ばん ) (1364m)である[ 8] 。
トラムンターナ山脈 さんみゃく 内 ない の道路 どうろ 状況 じょうきょう は貧弱 ひんじゃく であるが、山脈 さんみゃく 内 ない の村 むら から村 むら に渡 わた るための多 おお くのハイキングコースを持 も ち[ 16] 、その他 た には登山 とざん 、ノルディックウォーキング、急流 きゅうりゅう 下 くだ りなどのスポーツを行 おこな うことができる[ 13] 。山脈 さんみゃく 内 ない の多 おお くの地域 ちいき は保護 ほご 地域 ちいき となっており[ 16] 、2011年 ねん には「トラムンターナ山脈 さんみゃく の文化 ぶんか 的 てき 景観 けいかん 」がユネスコ の世界 せかい 遺産 いさん (文化 ぶんか 遺産 いさん )に登録 とうろく された[ 19] 。山脈 さんみゃく は石灰岩 せっかいがん で構成 こうせい されており、その浸食 しんしょく 作用 さよう によって洞窟 どうくつ 、湧 わ き水 みず 、急流 きゅうりゅう を形成 けいせい [ 13] 、約 やく 700の湧水 わきみず 場 じょう がある[ 17] 。
北岸 ほくがん にある入江 いりえ
マヨルカ島 とう 北東 ほくとう 部 ぶ にはポリェンサ 湾 わん とアルクーディア 湾 わん があり、南西 なんせい 部 ぶ にはパルマ湾 わん がある[ 8] 。ポリェンサ湾 わん はトラムンターナ山脈 さんみゃく の北端 ほくたん 部 ぶ に囲 かこ まれており、アルクーディア湾 わん はリェバン山地 さんち の北端 ほくたん 部 ぶ の先 さき にある[ 17] 。洞窟 どうくつ や小規模 しょうきぼ な入江 いりえ はマヨルカ島 とう の観光 かんこう 資源 しげん であり、それらは主 おも に東岸 とうがん に位置 いち している[ 8] [ 17] 。アルクーディア付近 ふきん のアルブフェラ・デ・マヨルカ自然 しぜん 公園 こうえん (スペイン語 ご 版 ばん ) はラムサール条約 じょうやく 登録 とうろく 地 ち である[ 20] 。
マヨルカ島 とう の中央 ちゅうおう 部 ぶ には肥沃 ひよく なマヨルカ平原 へいげん が広 ひろ がっており、動植物 どうしょくぶつ の豊 ゆた かさで知 し られている[ 13] 。典型 てんけい 的 てき な植物 しょくぶつ はマツ 、トキワガシ 、キャロブ などの樹木 じゅもく である[ 13] 。アーモンド やオリーブ の栽培 さいばい など、島 しま の農業 のうぎょう の大 だい 部分 ぶぶん はこの平原 へいげん で行 おこな われている[ 8] 。南岸 なんがん はマヨルカ島 とう の中 なか でも乾燥 かんそう して岩 いわ がちな地域 ちいき であり、エス・ミグジョルンと呼 よ ばれている[ 17] 。エス・ミグジョルンと2つの山地 さんち は島 しま の中央 ちゅうおう 部 ぶ にある肥沃 ひよく なマヨルカ平原 へいげん を取 と り囲 かこ んでいる[ 17] 。
マヨルカ島 とう の沖合 おきあい にあるすべての小島 こじま は行政 ぎょうせい 的 てき にパルマに属 ぞく している[ 13] 。東 ひがし 南岸 なんがん にある無人島 むじんとう のカブレラ島 とう はカブレラ群島 ぐんとう マリティメ=テレストリアル国立 こくりつ 公園 こうえん (英語 えいご 版 ばん ) に指定 してい されており、西岸 せいがん にある無人島 むじんとう のドラゴネーラ島 とう も保護 ほご 地域 ちいき となっている[ 13] 。マヨルカ島 とう にあるその他 た の特徴 とくちょう 的 てき な地形 ちけい には、アルファビア山地 さんち 、アス・クルナドルス、フルマントール岬 みさき などがある。
バレアレス海 うみ の範囲 はんい
イベリア半島 はんとう とバレアレス諸島 しょとう の間 あいだ の海域 かいいき はバレアレス海 うみ と呼 よ ばれ、その最大 さいだい 水深 すいしん は2,065mである。カステリョン・デ・ラ・プラナ の沖合 おきあい 約 やく 50km、バレアレス海南 かいなん 西部 せいぶ には無人島 むじんとう のコルンブレテス諸島 しょとう があるものの、その他 た に島 しま や浅瀬 あさせ は存在 そんざい しない。イベリア半島 はんとう の沿岸 えんがん 部 ぶ から20-65kmの範囲 はんい に大陸棚 たいりくだな が広 ひろ がり、水深 すいしん がもっとも深 ふか いのは中央 ちゅうおう 部 ぶ である。バレアレス海 うみ の主要 しゅよう な港湾 こうわん 都市 とし はスペイン本土 ほんど のバルセロナ やバレンシア 、マヨルカ島 とう のパルマなどである。
地中海 ちちゅうかい 西部 せいぶ には長 なが さ900km、幅 はば 200kmに渡 わた って平坦 へいたん な海底 かいてい があり、この平均 へいきん 水深 すいしん 2,000-3,000m、最大 さいだい 水深 すいしん 3,150mの海底 かいてい はバレアレス深海 しんかい 平原 へいげん と呼 よ ばれる。その東 ひがし 端 はし はフランスのコルシカ島 とう とイタリアのサルデーニャ島 とう 、南端 なんたん はアフリカ大陸 たいりく のアルジェリア 、北西 ほくせい 端 はし はスペインのバレアレス諸島 しょとう であり、フランス本土 ほんど の沖合 おきあい はバレアレス深海 しんかい 平原 へいげん には含 ふく まれない。フランスのローヌ川 がわ やアルジェリア北岸 ほくがん の海底 かいてい 谷 だに から多 おお くの堆積 たいせき 物 ぶつ が供給 きょうきゅう される。
マヨルカ島 とう の平原 へいげん や山地 さんち は主 おも に新 しん 第 だい 三紀 みき 後期 こうき (鮮新世 よ )に形成 けいせい されたとされ[ 22] 、バレアレス諸島 しょとう は150万 まん 年 ねん 前 まえ (更新 こうしん 世 よ )に形成 けいせい されたとされる[ 23] [ 10] 。この平原 へいげん や山地 さんち は南西 なんせい から北東 ほくとう 方向 ほうこう に連続 れんぞく 性 せい を持 も ち、イベリア半島 はんとう 南東 なんとう 部 ぶ のベティコ山系 さんけい と連続 れんぞく 性 せい を持 も つ[ 22] 。マヨルカ島 とう の地質 ちしつ はほぼ完全 かんぜん に石灰岩 せっかいがん からなり[ 24] 、石灰岩 せっかいがん は強力 きょうりょく な浸食 しんしょく 作用 さよう で峡谷 きょうこく や洞窟 どうくつ を形成 けいせい している[ 25] 。
もともと降水 こうすい 量 りょう に乏 とぼ しい地中海 ちちゅうかい 性 せい 気候 きこう に高 こう 透過 とうか 性 せい の石灰岩 せっかいがん が組 く み合 あ わさっているため、大半 たいはん の河川 かせん はすぐに水流 すいりゅう が途絶 とだ える[ 24] 。マヨルカ島内 とうない には一 いち 年 ねん を通 つう じて水 みず を湛 たた えている河川 かせん は存在 そんざい せず、淡水 たんすい 資源 しげん の大 だい 部分 ぶぶん は地下水 ちかすい が占 し めている。雨水 あまみず は石灰岩 せっかいがん を透過 とうか して地下水 ちかすい となるため、マヨルカ島 とう に池 いけ や湖 みずうみ は少 すく ない[ 25] 。地下水 ちかすい に極度 きょくど に依存 いぞん しているという点 てん で特筆 とくひつ すべき地中海 ちちゅうかい 地域 ちいき の島嶼 とうしょ であるとされる。
マヨルカ島 とう の気候 きこう は典型 てんけい 的 てき な地中海 ちちゅうかい 性 せい 気候 きこう であり[ 24] 、ケッペンの気候 きこう 区分 くぶん ではCsaに分類 ぶんるい される。特 とく に降水 こうすい は季 き 節 ぶし 性 せい が顕著 けんちょ である[ 26] 。冬季 とうき には低 てい 気圧 きあつ の中 なか 緯度 いど 偏西風 へんせいふう ベルトの影響 えいきょう で大雨 おおあめ が降 ふ ることもあり、偏西風 へんせいふう ベルトが高緯度 こういど に移動 いどう する夏季 かき には高気圧 こうきあつ の亜熱帯 あねったい ベルトの影響 えいきょう を強 つよ く受 う け、乾燥 かんそう した暑 あつ い気候 きこう となる[ 24] 。この結果 けっか 、年 とし 降水 こうすい 量 りょう の大半 たいはん は秋季 しゅうき と冬季 とうき に集中 しゅうちゅう し、もっとも降水 こうすい 量 りょう の多 おお い時期 じき は10月 がつ から12月 がつ である[ 24] [ 26] 。年 とし 降水 こうすい 量 りょう は地域 ちいき 的 てき な差異 さい が大 おお きく、南東 なんとう 部 ぶ ではわずか300mmであるのに対 たい して、そこから100kmも離 はな れていない北西 ほくせい 部 ぶ のトラムンターナ山脈 さんみゃく では1,200mmとなる[ 24] 。平原 へいげん は暑 あつ い夏季 かき と穏 おだ やかで涼 すず しい冬季 とうき を持 も つが、冬季 とうき のトラムンターナ山脈 さんみゃく は平原 へいげん より温度 おんど が低 ひく くなり、しばしば降雪 こうせつ も見 み られる[ 26] 。
平地 ひらち では年間 ねんかん 300日 にち 以上 いじょう が好 こう 天日 てんじつ とされており、古 ふる くから「地中海 ちちゅうかい の楽園 らくえん 」と呼 よ ばれる[ 9] 。冬季 とうき の日 にち 中 ちゅう の気温 きおん は摂氏 せっし 10-15度 ど と穏 おだ やかであるが、夜間 やかん には摂氏 せっし 10-5度 ど まで下 さ がる[ 27] 。夏季 かき の気温 きおん は摂氏 せっし 約 やく 27度 ど であり、最高 さいこう 気温 きおん は摂氏 せっし 30-32度 ど である[ 27] 。パルマの年 とし 平均 へいきん 気温 きおん (摂氏 せっし 17.9度 ど )は日本 にっぽん の鹿児島 かごしま 市 し とほぼ等 ひと しいが、年間 ねんかん の気温 きおん 較差 かくさ は鹿児島 かごしま 市 し と比較 ひかく して遥 はる かに少 すく ない。海水 かいすい の温度 おんど は夏季 かき の8月 がつ が摂氏 せっし 25度 ど 、冬季 とうき の1月 がつ ・2月 がつ が摂氏 せっし 16度 ど である。
冬季 とうき から春季 しゅんき には強風 きょうふう が吹 ふ く[ 23] 。南東 なんとう 風 ふう のシロッコ はアフリカ大陸 たいりく の砂漠 さばく からマヨルカ島 とう に赤 あか 砂 すな を運 はこ ぶ[ 23] 。トラムンターナ山脈 さんみゃく はマヨルカ島 とう を北風 きたかぜ から守 まも っており、マヨルカ島 とう の気候 きこう を決定 けってい づけている[ 29] 。
パルマ・デ・マヨルカ(Satellite view ) の気候 きこう
月 つき
1月 がつ
2月 がつ
3月 がつ
4月 がつ
5月
6月 がつ
7月 がつ
8月 がつ
9月
10月
11月
12月
年 とし
平均 へいきん 最高 さいこう 気温 きおん °C (°F )
15.2 (59.4)
15.7 (60.3)
17.1 (62.8)
18.7 (65.7)
22.1 (71.8)
25.9 (78.6)
29.9 (85.8)
30.5 (86.9)
28.1 (82.6)
23.4 (74.1)
19.2 (66.6)
16.5 (61.7)
21.6 (70.9)
日 にち 平均 へいきん 気温 きおん °C (°F )
11.7 (53.1)
12.1 (53.8)
13.3 (55.9)
15.0 (59)
18.4 (65.1)
22.1 (71.8)
25.1 (77.2)
25.9 (78.6)
23.4 (74.1)
19.7 (67.5)
15.7 (60.3)
13.0 (55.4)
17.9 (64.2)
平均 へいきん 最低 さいてい 気温 きおん °C (°F )
8.3 (46.9)
8.5 (47.3)
9.5 (49.1)
11.3 (52.3)
14.7 (58.5)
18.4 (65.1)
21.3 (70.3)
22.2 (72)
19.8 (67.6)
16.1 (61)
12.1 (53.8)
9.7 (49.5)
14.3 (57.7)
降水 こうすい 量 りょう mm (inch)
43 (1.69)
34 (1.34)
26 (1.02)
43 (1.69)
30 (1.18)
11 (0.43)
5 (0.2)
17 (0.67)
39 (1.54)
68 (2.68)
58 (2.28)
45 (1.77)
427 (16.81)
平均 へいきん 降水 こうすい 日数 にっすう (≥1 mm)
5
5
4
6
4
2
1
1
4
7
6
6
52
平均 へいきん 月間 げっかん 日照 ひでり 時間 じかん
165
168
204
231
280
307
342
313
228
204
165
154
2,763
出典 しゅってん :スペイン国立 こくりつ 気象庁 きしょうちょう (スペイン語 ご 版 ばん ) [ 30]
1965年 ねん のマヨルカ島 とう の人口 じんこう は40万 まん 6000人 にん 、人口 じんこう 密度 みつど は112人 にん /km2 であり、スペインの中 なか でも人口 じんこう 密度 みつど の高 たか い地域 ちいき だった。マヨルカ島 とう を含 ふく むジムネジアス群島 ぐんとう は集 しゅう 居 きょ 人口 じんこう が多 おお く、イビサ島 とう などのピティウザス群島 ぐんとう は散 ち 居 きょ 人口 じんこう が多 おお かった。マヨルカ島 とう の2006年 ねん の人口 じんこう は790,763人 にん 、2012年 ねん の人口 じんこう は869,000人 にん であり、今日 きょう でも早 はや いペースで人口 じんこう が増加 ぞうか している[ 10] 。カナリア諸島 かなりあしょとう のテネリフェ島 とう とグラン・カナリア島 とう 、バレアレス諸島 しょとう のマヨルカ島 とう と、スペインには3つの規模 きぼ が大 おお きな島 しま があり、それぞれ80-90万 まん 人 にん の人口 じんこう を有 ゆう している。マヨルカ島 とう はバレアレス諸島 しょとう でもっとも人口 じんこう が多 おお い島 しま である[ 13] 。バレアレス諸島 しょとう 全体 ぜんたい の面積 めんせき は4,992km、2007年 ねん のバレアレス諸島 しょとう 全体 ぜんたい の人口 じんこう は103万 まん 人 にん であり、マヨルカ島 とう はその面積 めんせき で諸島 しょとう 全体 ぜんたい の72.5%を、人口 じんこう で諸島 しょとう 全体 ぜんたい の78.6%を占 し めている。
マヨルカ島内 とうない でもっとも人口 じんこう が多 おお い自治体 じちたい はパルマ・デ・マヨルカ であり、パルマに隣接 りんせつ するカルビア 、東部 とうぶ の中心 ちゅうしん 都市 とし であるマナコール がパルマに続 つづ いている[ 13] 。パルマ・デ・マヨルカ都市 とし 圏 けん (スペイン語 ご 版 ばん ) はパルマを中心 ちゅうしん とする9自治体 じちたい で構成 こうせい されており、マヨルカ島 とう の人口 じんこう の50%以上 いじょう がパルマ・デ・マヨルカ都市 とし 圏 けん に住 す んでいる[ 33] 。
マヨルカ島 とう の主 しゅ 都 と であるパルマ・デ・マヨルカ は、先史 せんし 時代 じだい の集落 しゅうらく の遺跡 いせき (タライオット (英語 えいご 版 ばん ) )の上 うえ にローマ人 じん が築 きず いた野営 やえい 地 ち が基礎 きそ になっている[ 23] [ 35] 。ローマ人 じん はその集落 しゅうらく を「パルマリア」と呼 よ んだ。西 にし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の崩壊 ほうかい 時 じ にはヴァンダル族 ぞく がパルマリアに何 なん 度 ど も略奪 りゃくだつ 行為 こうい を加 くわ えた。パルマリアの支配 しはい 者 しゃ はその後 ご 、ビザンツ帝国 ていこく 、後 こう ウマイヤ朝 あさ 、ムラービト朝 あさ 、ムワッヒド朝 あさ 、アラゴン王国 おうこく などと変遷 へんせん した[ 23] [ 35] 。スペインの民主 みんしゅ 化 か 後 ご の1983年 ねん にバレアレス諸島 しょとう 自治 じち 州 しゅう が設置 せっち されると、パルマが自治 じち 州都 しゅうと となった[ 4] 。マヨルカ島 とう の南東 なんとう 沖 おき にあるカブレラ島 とう (無人島 むじんとう )も行政 ぎょうせい 的 てき にはマヨルカ島 とう 評議 ひょうぎ 会 かい の一部 いちぶ であり、パルマの自治体 じちたい 域 いき に含 ふく まれている。
1857年 ねん 時点 じてん ではスペイン第 だい 9位 い の4.3万 まん 人 にん の人口 じんこう を有 ゆう していた。1887年 ねん には6.0万 まん 人 にん (11位 い )、1920年 ねん には7.7万 まん 人 にん (12位 い )、1950年 ねん には13.7万 まん 人 にん (13位 い )、1970年 ねん には23.4万 まん 人 にん (12位 い )と堅実 けんじつ な伸 の びを見 み せ、スペインの50県 けん 都 と の中 なか でも常 つね に上位 じょうい に位置 いち した。1991年 ねん には308,616人 にん 、2011年 ねん には405,318人 にん となっている。夏季 かき には各国 かっこく から観光 かんこう 客 きゃく が集 あつ まることから、「地中海 ちちゅうかい の夏 なつ の首都 しゅと 」と呼 よ ばれることもある。
2008年 ねん 時点 じてん ではパルマの人口 じんこう の19.5%に相当 そうとう する77,330人 にん がスペイン以外 いがい の国籍 こくせき であり、これはスペイン平均 へいきん よりも高 たか い比率 ひりつ である[ 38] 。国籍 こくせき 別 べつ の内訳 うちわけ は、アルゼンチンが5,682人 にん 、ボリビアが5,541人 にん 、ブルガリアが5,293人 にん 、コロンビアが5,200人 にん 、イタリアが5,142人 にん 、ドイツが4,724人 にん 、モロッコが3,397人 にん などだった[ 38] 。
マヨルカ島 とう にある先史 せんし 時代 じだい の集落 しゅうらく
マヨルカ島 とう には先史 せんし 時代 じだい の紀元前 きげんぜん 6000年 ねん -紀元前 きげんぜん 4000年 ねん 頃 ごろ に人類 じんるい が住 す んでいた痕跡 こんせき がある[ 35] 。青銅器 せいどうき 時代 じだい には巨石 きょせき 記念 きねん 物 ぶつ を含 ふく むタライオティック文化 ぶんか (英語 えいご 版 ばん ) が栄 さか え、タライオット (英語 えいご 版 ばん ) と呼 よ ばれる埋葬 まいそう 場 じょう や住居 じゅうきょ の痕跡 こんせき が発見 はっけん されている[ 39] 。
マヨルカ島 とう のタライオットの例 れい
カンポコルブ・ベイ : 現在 げんざい のリュックマジョール の自治体 じちたい 域 いき
ネクロポリ・ダ・ソン・レアル : 現在 げんざい のサンタ・マルガリーダ (英語 えいご 版 ばん ) の自治体 じちたい 域 いき
ヌベティフォルマ・アラマニー : 現在 げんざい のカルビア ・マガルフ海岸 かいがん
プブラット・タライオティック・ダ・シリョット : 現在 げんざい のサン・リュレンス・ダス・カルダサー の自治体 じちたい 域 いき
プブラット・タライオティック・ダ・ソン・フルネス : 現在 げんざい のムントゥイリ (英語 えいご 版 ばん ) の自治体 じちたい 域 いき
サ・カノーバ・ダ・ムレイ : 現在 げんざい のアルター の自治体 じちたい 域 いき
セス・パイッセス : 現在 げんざい のアルターの自治体 じちたい 域 いき
セス・タライアス・ダ・カン・ジョルディ : 現在 げんざい のサンタニー の自治体 じちたい 域 いき
ススピタレット・ベイ : 現在 げんざい のマナコール の自治体 じちたい 域 いき
ローマ時代 じだい の投石 とうせき 兵 へい
初 はじ めてマヨルカ島 とう に植民 しょくみん を行 おこな ったのは、紀元前 きげんぜん 8世紀 せいき 頃 ごろ にレバント (東部 とうぶ 地中海 ちちゅうかい 沿岸 えんがん 地方 ちほう )からやってきて多数 たすう のコロニーを築 きず いた航海 こうかい 民族 みんぞく のフェニキア 人 ひと であり、マヨルカ島 とう は主要 しゅよう なフェニキア都市 とし となっていた北 きた アフリカのカルタゴ の統制 とうせい 下 か に入 はい った。紀元前 きげんぜん 700年 ねん から紀元前 きげんぜん 145年 ねん のバレアレス諸島 しょとう はフェニキア人 じん によって支配 しはい され[ 40] 、マヨルカ島 とう にやってきたフェニキア人 じん は地中海 ちちゅうかい 西部 せいぶ で精力 せいりょく 的 てき に交易 こうえき 活動 かつどう を行 おこな った[ 23] 。フェニキア人 じん の時代 じだい にバレアレス諸島 しょとう の商業 しょうぎょう 中心 ちゅうしん 地 ち となったのはイビサ島 とう のエイビッサ であり、マヨルカ島 とう はわずかな役割 やくわり を果 は たしたに過 す ぎなかったが、ポエニ戦争 せんそう で投石 とうせき 手 しゅ としてカルタゴのために戦 たたか ったマヨルカ人 じん の存在 そんざい が文献 ぶんけん に記載 きさい されている[ 23] 。バレアレス諸島 しょとう の名称 めいしょう は「投石 とうせき 」を意味 いみ するギリシア語 ご の「ballerin」に由来 ゆらい すると指摘 してき する歴史 れきし 学者 がくしゃ もいる[ 41] 。侵略 しんりゃく 者 しゃ から領土 りょうど を守 まも る唯一 ゆいいつ の防衛 ぼうえい 手段 しゅだん が投石 とうせき だったため、マヨルカ人 じん 投石 とうせき 手 しゅ は優 すぐ れた投石 とうせき 技術 ぎじゅつ でよく知 し られている[ 41] 。
ローマ都市 とし ポリェンティアの遺跡 いせき
バレアレス諸島 しょとう 地域 ちいき からやってくる海賊 かいぞく との戦 たたか いに疲 つか れたローマ人 じん は、紀元前 きげんぜん 123年 ねん にクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・バリアリクス 率 ひき いる軍隊 ぐんたい を送 おく ってマヨルカ島 とう を征服 せいふく し、約 やく 550年 ねん に渡 わた るローマ時代 じだい が幕 まく を開 あ けた[ 42] [ 23] [ 35] 。バレアレス諸島 しょとう がキリスト教 きりすときょう 化 か されたのはこの2世紀 せいき のことである[ 40] 。ローマ時代 じだい には北岸 ほくがん のポリェンティア (英語 えいご 版 ばん ) (現在 げんざい のアルクーディア の近 ちか く)と南岸 なんがん のパルマリア(現 げん ・パルマ・デ・マヨルカ )という2つの都市 とし があったとされている[ 23] [ 35] 。加 くわ えて、建設 けんせつ がローマ以前 いぜん に遡 さかのぼ る北部 ほくぶ のボッチョリスの町 まち は、古代 こだい ローマの連合 れんごう 市 し となった[ 43] 。ローマ時代 じだい にはオリーブやブドウの栽培 さいばい 、岩塩 がんえん の採掘 さいくつ などがマヨルカ島 とう の経済 けいざい を支 ささ えていた[ 35] 。マヨルカ人 じん 兵士 へいし は投石 とうせき の技術 ぎじゅつ がロ ろ ーマ帝国 まていこく 内 ない で評価 ひょうか された[ 44] 。
455年 ねん のガイセリック の王国 おうこく (ヴァンダル王国 おうこく )の最大 さいだい 版図 はんと
古代 こだい ローマ文明 ぶんめい を終 お わらせた原因 げんいん については諸説 しょせつ あるが、5世紀 せいき の小 しょう 氷 こおり 期 き が引 ひ き金 がね になったという説 せつ がある[ 45] 。グンデリック (英語 えいご 版 ばん ) 王 おう が率 ひき いるヴァンダル族 ぞく は、406年 ねん に凍結 とうけつ したライン川 がわ を渡 わた り、409年 ねん にはピレネー山脈 さんみゃく を越 こ え、419年 ねん にはイベリア半島 はんとう 西部 せいぶ に国 くに を建 た てた[ 46] 。425年 ねん には当時 とうじ ヒスパリスと呼 よ ばれたセビージャとカルタゴの間 あいだ で、西 にし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の目 め を盗 ぬす んで密 みつ 貿易 ぼうえき を行 おこな い、427年 ねん にバレアレス諸島 しょとう を荒 あら 掠 かすめ した[ 46] 。グンデリックの息子 むすこ ゲイセリック は地中海 ちちゅうかい においてカルタゴ 、シチリア島 とう 、コルシカ島 とう 、サルデーニャ島 とう 、バレアレス諸島 しょとう に版図 はんと を築 きず き、イタリア半島 はんとう の沿岸 えんがん 集落 しゅうらく と密 みつ 貿易 ぼうえき したり海賊 かいぞく 行為 こうい をしたりする際 さい の基地 きち としてマヨルカ島 とう を利用 りよう した[ 47] [ 48] 。ヴァンダル族 ぞく はキリスト教徒 きりすときょうと を迫害 はくがい した[ 40] 。
ユスティニアヌス1世 せい 帝 みかど 期 き 、555年 ねん のビザンツ帝国 ていこく の版図 はんと
地中海 ちちゅうかい 世界 せかい の中世 ちゅうせい は、信仰 しんこう を統治 とうち 原理 げんり にした3勢力 せいりょく 、ギリシア正教 せいきょう ・カトリック ・イスラーム のめまぐるしい交替 こうたい 劇 げき に彩 いろど られる。マヨルカ島 とう もこの例 れい に漏 も れないが、少 すく なくとも中世 ちゅうせい の前半 ぜんはん 期 き は、いずれの勢力 せいりょく が支配 しはい した場合 ばあい であっても島 しま には半 はん 独立 どくりつ 的 てき な地位 ちい が認 みと められた[ 49] :32 。
ヴァンダル王国 おうこく を討 う った将軍 しょうぐん フラビオス・ベリサリオス は、配下 はいか のアッポロニオスをバレアレス諸島 しょとう に派遣 はけん し、534年 ねん 前後 ぜんこう にマヨルカ島 とう をビザンツ帝国 ていこく の版図 はんと に入 い れた(cf. ヴァンダル戦争 せんそう )[ 49] :32 。以後 いご 、10世紀 せいき 初頭 しょとう に至 いた るまでの500年間 ねんかん 弱 じゃく 、島 しま は名目 めいもく 上 じょう ビザンツ帝国 ていこく 領 りょう になったが、中核 ちゅうかく 的 てき な先住 せんじゅう 島民 とうみん へのギリシア正教 せいきょう の影響 えいきょう は限定 げんてい 的 てき であった[ 49] :35 。ビザンツ人 じん はバレアレス諸島 しょとう の各 かく 島 しま にギリシア正教 せいきょう の教会 きょうかい を建 た て、それぞれに司祭 しさい を派遣 はけん したが、先住 せんじゅう 島民 とうみん の教化 きょうか は非常 ひじょう にゆっくりしたものであったと見 み られる[ 49] :39 。マヨルカ島 とう と似 に たシチュエーションにあったコルシカ島 とう とサルデーニャ島 とう ではビザンチン時代 じだい の終 お わりごろでもまだ、伝統 でんとう 宗教 しゅうきょう (ペイガニズム )の信仰 しんこう が強 つよ く残 のこ っていた[ 49] :39 。20世紀 せいき 末 まつ から実施 じっし されるようになったビザンツ時代 じだい のギリシア正教 せいきょう の教会 きょうかい 址 し の考古学 こうこがく 的 てき 調査 ちょうさ によれば、タライオット集落 しゅうらく 、ローマ人 じん の植民 しょくみん 市 し 、ヴァンダル族 ぞく の集落 しゅうらく のいずれとも重 かさ ならない位置 いち に立地 りっち しており、先住 せんじゅう 島民 とうみん とのつながりが希薄 きはく であった可能 かのう 性 せい が示唆 しさ される[ 49] :39 。
マヨルカ島 とう のギリシア正教会 せいきょうかい 、ソン・ペレト教会 きょうかい (ドイツ語 ご 版 ばん ) の洗礼 せんれい 堂 どう 跡 あと
かつてマウレタニア と呼 よ ばれた北 きた アフリカのマグリブ で遊牧 ゆうぼく 生活 せいかつ を営 いとな んでいたベルベル人 じん は、8世紀 せいき より前 まえ はキリスト教 きりすときょう などを信仰 しんこう していたようであるが東方 とうほう から来 き たウマイヤ朝 あさ によるマグリブの征服 せいふく 後 ご 、イスラーム を受容 じゅよう した[ 50] :80-93 。イスラーム化 か 及 およ びアラブ化 か したベルベル人 じん であるムーア人 じん とウマイヤ朝 ちょう 軍 ぐん はイベリア半島 はんとう を征服 せいふく した[ 50] :80-93 。バレアレス諸島 しょとう にも707年 ねん にムスリム軍 ぐん が来襲 らいしゅう し、地元 じもと の首長 しゅちょう が何人 なんにん かダマスカス まで捕虜 ほりょ として連行 れんこう された[ 49] :33 。ムスリム軍 ぐん は一時期 いちじき 南仏 なんふつ まで攻 せ めたが、789年 ねん ごろにはフランク王 おう シャルルマーニュ にピレネー山脈 さんみゃく まで押 お し戻 もど された[ 51] 。フランク王国 おうこく の年代 ねんだい 記 き には、セプティマニア を手 て に入 い れたシャルルマーニュの宮廷 きゅうてい に、バレアレス諸島 しょとう が海賊 かいぞく の来襲 らいしゅう を受 う けているという知 し らせが入 はい ったと記 しる されている[ 49] :33 [ 51] 。798年 ねん にマヨルカ島 とう のキリスト教 きりすときょう の修道 しゅうどう 会 かい 士 し からもたらされたこの知 し らせにおいて、海賊 かいぞく は「サラセン人 じん とムーア人 じん 」であるとされている[ 51] 。
マヨルカ島 とう はムーア人 じん のイベリア半島 はんとう 征服 せいふく から150年 ねん ほど後 おく れた902年 ねん 、後 こう ウマイヤ朝 あさ のアミール、アブドゥッラー (英語 えいご 版 ばん ) の時代 じだい にコルドバに併合 へいごう される[ 23] [ 52] 。マヨルカ島 とう のコルドバへの併合 へいごう の経緯 けいい は、イサーム・ハウラーニー (スペイン語 ご 版 ばん ) という人物 じんぶつ が航海 こうかい の途中 とちゅう 、荒天 こうてん のためやむなく島 しま に寄港 きこう した際 さい 、島 しま の様子 ようす を見 み てこれを気 き に入 い り、バレアレス諸島 しょとう 全体 ぜんたい のコルドバへの編入 へんにゅう をアミールに具申 ぐしん し、アミールがこれを許 ゆる したとというものだったとされる[ 52] 。ハウラーニーの「コンキスタ」は小規模 しょうきぼ な小競 こぜ り合 あ いだけで終了 しゅうりょう した[ 52] 。ムスリムとの最初 さいしょ の接触 せっしょく があった707年 ねん から903年 ねん までを「ビザンツ=ムスリム時代 じだい 」と呼 よ ぶ研究 けんきゅう 者 しゃ もいる[ 49] :33 。この時代 じだい は外部 がいぶ のイスラーム勢力 せいりょく が散発 さんぱつ 的 てき に権益 けんえき を主張 しゅちょう する一方 いっぽう で、ビザンツ人 じん が優位 ゆうい を保 たも つ社会 しゃかい 構造 こうぞう が継続 けいぞく した[ 49] :33 。なお、マヨルカ島 とう はこの時代 じだい にゲルマン系 けい のノルマン人 じん による来寇 らいこう も経験 けいけん した(869年 ねん )[ 49] :33 。ノルマン人 じん はシチリア島 とう に王国 おうこく を建国 けんこく する 。
10世紀 せいき パルマに建設 けんせつ されたハンマーム(公共 こうきょう 浴場 よくじょう ) 跡 あと
ハウラーニー以後 いご のムーア人 じん の支配 しはい 者 しゃ は海賊 かいぞく 行為 こうい をよく取 と り締 し まり、島 しま の商 しょう 工業 こうぎょう を発展 はってん させた[ 35] [ 52] 。政治 せいじ 史上 しじょう は、後 こう ウマイヤ朝 あさ がその後 ご 、ターイファ(国 くに ) という小 しょう 王国 おうこく 群 ぐん に解体 かいたい ・分裂 ぶんれつ することになり[ 50] :80-93 、マヨルカ島 とう は1015年 ねん からデーニアのターイファ (英語 えいご 版 ばん ) 国 くに の一部 いちぶ 、1087年 ねん 以後 いご は分離 ぶんり してマヨルカのターイファ (英語 えいご 版 ばん ) 国 くに を形成 けいせい した[ 40] [ 35] 。しかし、経済 けいざい 上 じょう は、アフリカ大陸 たいりく 北岸 ほくがん 、イベリア半島 はんとう 、バレアレス諸島 しょとう がアラブ=イスラームの文化 ぶんか 、商 しょう 習慣 しゅうかん を共有 きょうゆう したので、マヨルカ島 とう では貿易 ぼうえき が盛 さか んになった[ 35] [ 41] 。ムーア人 じん はまた、灌漑 かんがい や有用 ゆうよう 作物 さくもつ を島 しま に導入 どうにゅう して農業 のうぎょう も発展 はってん させた(cf. アラブ農業 のうぎょう 革命 かくめい (英語 えいご 版 ばん ) )[ 35] [ 52] 。
ターイファ時代 じだい には、コルドバ出身 しゅっしん の博学 はくがく 者 しゃ 、イブン・ハズム がマヨルカ島 とう を訪 おとず れ、地誌 ちし を著 あらわ した[ 53] 。イブン・ハズムの『マヨルカ島 とう 地誌 ちし 』は、12世紀 せいき 頃 ごろ までのマヨルカ島 とう の歴史 れきし を知 し るための一 いち 級 きゅう の史料 しりょう になっている[ 52] 。レコンキスタ以後 いご は商 しょう 工業 こうぎょう が停滞 ていたい したので、マヨルカ島 とう の民俗 みんぞく ・言語 げんご ・食 しょく 文化 ぶんか などにはムーア人 じん が支配 しはい した時代 じだい の痕跡 こんせき がよく保存 ほぞん されている[ 35] [ 23] 。
マヨルカ島 とう に遠征 えんせい するカタルーニャ人 じん を描 えが いたゴシック調 ちょう の壁画 へきが 。アルモガバルス を描 えが いたものか?(バルセロナ歴史 れきし 博物館 はくぶつかん (スペイン語 ご 版 ばん ) 蔵 くら )
11世紀 せいき から14世紀 せいき にかけてのイベリア半島 はんとう の歴史 れきし は、宗教 しゅうきょう 的 てき 寛容 かんよう が失 うしな われ、カトリック/ムスリム/ユダヤ人 じん の共存 きょうぞん が崩壊 ほうかい していく過程 かてい でもある。マヨルカ島 とう はこの点 てん 、イベリア半島 はんとう とは少 すこ し異 こと なる歴史 れきし をたどった。ファナティックなムラービト朝 あさ もムワッヒド朝 あさ も半島 はんとう より遅 おく れてマヨルカ島 とう を支配 しはい 下 か に入 い れ、しかもその支配 しはい はずっと緩 ゆる やかであった。
マヨルカ島 とう が半島 はんとう より100年 ねん 遅 おく れで宗教 しゅうきょう 的 てき にファナティックなムラービト朝 あさ の支配 しはい 下 か に入 はい ったきっかけは、カトリック勢力 せいりょく の武力 ぶりょく 攻撃 こうげき である。マヨルカ島 とう の繁栄 はんえい は十字軍 じゅうじぐん の襲撃 しゅうげき をひきつけることにもつながった。1114年 ねん にバルセロナ伯 はく ラモン・バランゲー3世 せい を盟主 めいしゅ としたカタルーニャ君主 くんしゅ 国 こく 群 ぐん 、ピサ共和 きょうわ 国 こく 、聖 ひじり ヨハネ騎士 きし 団 だん (マルタ騎士 きし 団 だん )等 ひとし が連合 れんごう してマヨルカ島 とう への十字軍 じゅうじぐん 遠征 えんせい (カタルーニャ語 ご 版 ばん 、スペイン語 ご 版 ばん ) を行 おこな った[ 40] [ 35] 。カトリック連合 れんごう 軍 ぐん は、イビサ島 とう とマヨルカ島 とう の主 しゅ 都 と マディーナ・マユールカーを8箇月 かげつ 間 あいだ 包囲 ほうい した後 のち 、交渉 こうしょう の末 すえ 得 え た戦利 せんり 品 ひん に満足 まんぞく し、マヨルカ島 とう を占領 せんりょう することなく帰 かえ った[ 54] 。マヨルカのターイファはアンダルス の政権 せいけん ムラービト朝 あさ を頼 たよ り、マヨルカ島 とう は1116年 ねん にムラービト朝 あさ の勢力 せいりょく 圏内 けんない に入 はい った[ 52] 。
以後 いご の120年 ねん ほどの間 あいだ 、マヨルカ島 とう にはワーリー という地方 ちほう 代官 だいかん が置 お かれ、ワーリーによる半 はん 自律 じりつ 的 てき な統治 とうち が行 おこな われた[ 52] [ 55] 。ワーリーは、ムラービト朝 あさ を興 おこ したベルベル系 けい サンハージャ部族 ぶぞく (英語 えいご 版 ばん ) の一 いち 支族 しぞく 、バヌー・ガーニーヤ (ドイツ語 ご 版 ばん ) により世襲 せしゅう された。アンダルスとマグリブの政権 せいけん が1144年 ねん ごろムワッヒド朝 あさ に交替 こうたい した後 のち はバヌー・ガーニーヤが中央 ちゅうおう の支配 しはい を受 う けず自立 じりつ した[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 。ワーリー・イスハーク (ドイツ語 ご 版 ばん ) がマヨルカ島 とう を治 おさ めた1152年 ねん から1185年 ねん までの時代 じだい は特 とく に繁栄 はんえい の時代 じだい として知 し られている[ 52] 。
ムーア人 じん やアラブ人 じん にはアラビア語 ご でマディーナ・マユールカーと呼 よ ばれた島 しま の主 しゅ 都 と は、12世紀 せいき 終 お わりごろには人口 じんこう 35,000を数 かぞ えるようになり、人口 じんこう 規模 きぼ で見 み ると当時 とうじ のバルセロナやロンドンと同等 どうとう の、西 にし ヨーロッパ有数 ゆうすう の大都市 だいとし であった[ 52] 。マディーナは12の街 まち 区 く に分 わ けられ、地中海 ちちゅうかい によく見 み られる迷宮 めいきゅう 都市 とし の様相 ようそう を呈 てい した[ 52] 。また、ムーア人 じん の支配 しはい 者 しゃ は被 ひ 征服 せいふく 民 みん の信仰 しんこう については自由 じゆう に任 まか せたため(改宗 かいしゅう させると人頭 じんとう 税 ぜい を徴収 ちょうしゅう できないため)、マディーナには国際 こくさい 都市 とし の雰囲気 ふんいき が漂 ただよ った[ 52] 。なお、マヨルカ島 とう 繁栄 はんえい の時代 じだい (950年 ねん -1150年 ねん ごろ)は、西洋 せいよう 史学 しがく では中世 ちゅうせい 温暖 おんだん 期 き と呼 よ ばれている時代 じだい に合致 がっち する。
1229年 ねん のカタルーニャ軍 ぐん によるマヨルカ島 とう の征服 せいふく を描 えが いた壁画 へきが 。塔 とう の上 うえ でムーア人 じん を刺 さ し殺 ころ すカタルーニャ兵 へい 。
1208年 ねん から島 しま を治 おさ めたムワッヒド朝 あさ のアブー・ヤフヤー が最後 さいご のワーリーとなった[ 55] [ 56] 。マヨルカ島 とう は1229年 ねん にアラゴン王国 おうこく 軍 ぐん の侵略 しんりゃく を受 う け、マディーナ・マユールカーが9月から3箇月 かげつ 間 あいだ にわたり包囲 ほうい された後 のち 、開城 かいじょう 、マヨルカ島 とう の征服 せいふく (英語 えいご 版 ばん ) が完了 かんりょう した[ 23] [ 35] [ 57] 。マヨルカ島 とう の「レコンキスタ」を成 な し遂 と げたアラゴン王国 おうこく は、もともと内陸 ないりく のカトリック王国 おうこく であったが、12世紀 せいき 前半 ぜんはん にカタルーニャと連合 れんごう し強大 きょうだい 化 か した。西 にし ヨーロッパの中世 ちゅうせい 的 てき 封建 ほうけん 国家 こっか は常 つね に封 ふう 臣 しん に与 あた える封土 ほうど を必要 ひつよう としたから(cf. レーエン )、若 わか くして王国 おうこく を受 う け継 つ いだハイメ(ジャウマ)1世 せい は領土 りょうど 拡大 かくだい を企図 きと した(これに対 たい してムスリムのイクター制 せい においては土地 とち の所有 しょゆう 権 けん はすべて王 おう にあった)。バレンシア とバレアレス諸島 しょとう 、候補 こうほ は2箇所 かしょ あったが、貿易 ぼうえき をマヨルカ島 とう の商人 しょうにん に支配 しはい されていることに不満 ふまん を持 も つバルセロナの商人 しょうにん はバレアレス諸島 しょとう 侵攻 しんこう を支持 しじ した。
二十歳 はたち そこそこの王 おう による治世 ちせい はその後 ご 、50年 ねん 近 ちか く続 つづ いた。パルマ大 だい 聖堂 せいどう の建設 けんせつ や大学 だいがく 設立 せつりつ の準備 じゅんび はこの間 あいだ に行 おこな われた[ 41] 。ハイメ1世 せい はマヨルカ島 とう にバルセロナ慣習 かんしゅう 法 ほう を導入 どうにゅう し、バルセロナ人 じん 商人 しょうにん に商業 しょうぎょう 特権 とっけん を与 あた えた。「カタルーニャ語 ご の父 ちち 」とも呼 よ ばれる哲学 てつがく 者 しゃ のラモン・リュイ は、このレコンキスタ後 ご にマヨルカ島 とう に生 う まれて、13世紀 せいき 後半 こうはん から14世紀 せいき 初頭 しょとう に生 い きた人物 じんぶつ である[ 40] 。
ハイメ1世 せい が1276年 ねん に亡 な くなるとその領地 りょうち は2人 ふたり の息子 むすこ が分割 ぶんかつ 相続 そうぞく した。アラゴン王位 おうい は兄 あに ペドロ が継 つ ぎ、バレアレス諸島 しょとう とセプティマニアを弟 おとうと のハイメ(ジャウマ) が相続 そうぞく した。弟 おとうと ハイメは、マヨルカ王位 おうい に就 つ いて、自 みずか らの相続 そうぞく した国 くに を独立 どくりつ したマヨルカ王国 おうこく として成立 せいりつ させた[ 40] [ 35] 。アラゴン王位 おうい がペドロ3世 せい の息子 むすこ アルフォンソ3世 せい の代 だい になるとマヨルカの武力 ぶりょく によるアラゴンへの再 さい 統合 とうごう が試 こころ みられたり(1285年 ねん 。ローマ教皇 きょうこう の介入 かいにゅう で失敗 しっぱい )、メノルカ島 とう が征服 せいふく されたりした(1287年 ねん )が、アルフォンソの次 つぎ にアラゴン王 おう を継 つ いだハイメ2世 せい は、1291年 ねん にメノルカ島 とう をマヨルカ王 おう ハイメ2世 せい へ返還 へんかん した[ 40] 。
マヨルカ島 とう の地図 ちず 製作 せいさく 学派 がくは (英語 えいご 版 ばん ) の一人 ひとり 、アブラハム・クレスカスによる『カタルーニャ地図 ちず (英語 えいご 版 ばん ) 』(14世紀 せいき )
ハイメ2世 せい の治世 ちせい は短期間 たんきかん だったものの、歴史 れきし 学者 がくしゃ はこの時代 じだい をマヨルカ島 とう の「黄金 おうごん 期 き 」と呼 よ んでいる[ 23] 。ハイメ2世 せい の下 した で農業 のうぎょう 、工業 こうぎょう 、海上 かいじょう 交易 こうえき が発達 はったつ し、新 あたら しい村 むら が数多 かずおお く築 きず かれた[ 23] 。1309年 ねん にはパルマ港 こう を見下 みお ろす丘 おか の上 うえ にベルベル城 じょう が築 きず かれた。アルムダイナは立派 りっぱ なゴシック様式 ようしき の宮殿 きゅうでん に変 か えられ、サン・フランセセ修道院 しゅうどういん の建設 けんせつ が始 はじ まったのもこの時代 じだい だった[ 23] 。
マヨルカ王 おう ジャウメ2世 せい の息子 むすこ であるサンス (英語 えいご 版 ばん ) 王 おう の治世 ちせい (1312年 ねん -1324年 ねん )を経 へ て、1324年 ねん から1344年 ねん のマヨルカ王 おう ジャウメ3世 せい (英語 えいご 版 ばん ) の治世 ちせい には経済 けいざい 的 てき な繁栄 はんえい の時代 じだい を迎 むか え、パルマは地中海 ちちゅうかい 地域 ちいき 有数 ゆうすう の豊 ゆた かな都市 とし となった[ 40] 。1344年 ねん にはアラゴン王 おう ペドロ4世 せい 軍 ぐん がバレアレス諸島 しょとう を侵略 しんりゃく し、3つの島 しま を再度 さいど アラゴン王国 おうこく に組 く み込 こ んだ[ 40] [ 35] 。1349年 ねん にはジャウメ3世 せい がマヨルカ王国 おうこく の復活 ふっかつ を試 こころ みたが、リュックマジョールの戦 たたか いで戦死 せんし した[ 40] 。
このようにレコンキスタ後 ご もマヨルカ島 とう はイベリア半島 はんとう 側 がわ の政権 せいけん に完全 かんぜん には組 く み込 こ まれない時期 じき が存在 そんざい し、アラゴン十字軍 じゅうじぐん 、異端 いたん 審問 しんもん の盛行 せいこう 、ユダヤ人 ひと やモサラベ の迫害 はくがい といったイベリア半島 はんとう の情勢 じょうせい と距離 きょり があった。コルシカ島 とう 、サルデーニャ島 とう 、シチリア島 とう へと領土 りょうど を拡張 かくちょう していったアラゴン王国 おうこく は地中海 ちちゅうかい の海図 かいず を必要 ひつよう とし、マヨルカ島 とう のコスモポリタニズム がこれに応 こた えた。13世紀 せいき から15世紀 せいき ごろまで「マヨルカ島 とう の地図 ちず 製作 せいさく 学派 がくは (英語 えいご 版 ばん ) 」というユダヤ人 じん の職人 しょくにん 集団 しゅうだん が、その幅広 はばひろ い国際 こくさい 的 てき ネットワークを生 い かして、西方 せいほう 教会 きょうかい 圏 けん の西 にし ヨーロッパの知識 ちしき のみならず、東方 とうほう 教会 きょうかい 圏 けん のアナトリア半島 はんとう や、イスラーム圏 けん の北 きた アフリカやサハラ以南 いなん のアフリカの知識 ちしき をも取 と り込 こ んだ、当時 とうじ としては詳細 しょうさい な装飾 そうしょく 地図 ちず を作成 さくせい した[ 60] 。これらはカタルーニャ語 ご で書 か かれ、『カタルーニャ地図 ちず (英語 えいご 版 ばん ) 』と呼 よ ばれる[ 60] 。
1601年 ねん に完成 かんせい したパルマ大 だい 聖堂 せいどう
1479年 ねん にはアラゴン王国 おうこく とカスティーリャ王国 おうこく が統合 とうごう することでスペイン王国 おうこく が成立 せいりつ した[ 40] 。バレアレス諸島 しょとう はたびたび北 きた アフリカからやってくるバルバリア海賊 かいぞく に攻撃 こうげき されたため、諸島 しょとう の住民 じゅうみん は沿岸 えんがん 部 ぶ に監視 かんし 塔 とう や要塞 ようさい 教会 きょうかい を建設 けんせつ した。16世紀 せいき のマヨルカ島 とう では何 なん 度 ど か暴動 ぼうどう が起 お こり、ユダヤ人 じん の異端 いたん 尋問 じんもん が行 おこな われ、オスマン帝国 ていこく の脅威 きょうい にさらされた[ 41] 。このような情勢 じょうせい を受 う けて1570年 ねん には、スペイン王 おう フェリペ2世 せい とその助言 じょげん 者 しゃ がバレアレス諸島 しょとう 住民 じゅうみん の完全 かんぜん な疎開 そかい を検討 けんとう している[ 61] 。17世紀 せいき にも交易 こうえき 活動 かつどう が復興 ふっこう することはなく、疫病 えきびょう によって数 すう 千 せん 人 にん が亡 な くなった[ 41] 。中世 ちゅうせい からルネサンス期 き のマヨルカ島 とう は地中海 ちちゅうかい 貿易 ぼうえき の中継 ちゅうけい 地 ち となった。バレンシア から輸出 ゆしゅつ されたムーア人様 ひとさま 式 しき の陶器 とうき の影響 えいきょう を受 う けてイタリア各地 かくち で作 つく られるようになった「マヨリカ焼 や き 」の語源 ごげん はマヨルカ島 とう であるとされることもある[ 62] 。
カリフォルニアで布教 ふきょう したフニペロ・セラ神父 しんぷ
18世紀 せいき 初頭 しょとう のスペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう はスペイン・ブルボン朝 あさ が確立 かくりつ した戦争 せんそう である。この戦争 せんそう の最終 さいしゅう 局面 きょくめん ではマヨルカ島 とう の征服 せいふく が行 おこな われ、1715年 ねん 7月 がつ 2日 にち にはブルボン艦隊 かんたい がマヨルカ島 とう に到着 とうちゃく してマヨルカ島 とう は降伏 ごうぶく した。1716年 ねん のヌエバ・プランタ王 おう 令 れい (英語 えいご 版 ばん ) によってマヨルカ島 とう はバレアレス県 けん の一部 いちぶ となり[ 35] 、1718年 ねん にはマヨルカ島 とう 一般 いっぱん 議会 ぎかい が解散 かいさん させられている[ 40] 。ブルボン朝 あさ の下 した で公的 こうてき な言語 げんご がカタルーニャ語 ご からスペイン語 ご に置 お き換 か えられ、さらには飢饉 ききん 、干 かん ばつ、疫病 えきびょう がマヨルカ島 とう の住民 じゅうみん を苦 くる しめた[ 41] 。18世紀 せいき に生 い きたマヨルカ島 とう 出身 しゅっしん 人物 じんぶつ としてフランシスコ会 かい 修道 しゅうどう 士 し のフニペロ・セラ がおり、セラ神父 しんぷ はアメリカ大陸 あめりかたいりく のアルタ・カリフォルニア での布教 ふきょう に大 おお きく貢献 こうけん した[ 40] 。
1808年 ねん から1813年 ねん のスペイン独立 どくりつ 戦争 せんそう 時 とき には、フランスに近 ちか いカタルーニャ地方 ちほう からマヨルカ島 とう に難民 なんみん が流入 りゅうにゅう し、社会 しゃかい 的 てき ・政治 せいじ 的 てき な緊張 きんちょう 状態 じょうたい が高 たか まった[ 40] 。1820年 ねん から1822年 ねん には北 きた アフリカのアルジェリアや南 みなみ アメリカに大 だい 規模 きぼ な移民 いみん が行 おこな われた[ 40] 。1837年 ねん にはマヨルカ島 とう とイベリア半島 はんとう の間 あいだ に初 はじ めて定期 ていき 船 せん (蒸気 じょうき 船 せん )が就航 しゅうこう した[ 40] 。19世紀 せいき にはマヨルカ島 とう にもブルジョアが誕生 たんじょう し、社会 しゃかい 変革 へんかく のうねりが起 お こった[ 23] 。パルマ近 ちか くの湿地 しっち 帯 たい は干拓 かんたく され、新 あら たに造成 ぞうせい された土地 とち は農地 のうち となった。カタルーニャ語 ご の復権 ふっけん を試 こころ みる地域 ちいき 主義 しゅぎ が芽生 めば えた[ 23] 。
1857年 ねん から1887年 ねん の期間 きかん には農業 のうぎょう と工業 こうぎょう が発展 はってん したために人口 じんこう が急増 きゅうぞう したが、その後 ご の10年間 ねんかん にはバレアレス諸島 しょとう 全体 ぜんたい で経済 けいざい が低迷 ていめい して人口 じんこう が減少 げんしょう した。害虫 がいちゅう フィロキセラ の流行 りゅうこう によって成長 せいちょう 著 いちじる しいワイン産業 さんぎょう が大 おお きな打撃 だげき を受 う けた[ 40] 。さらに1898年 ねん の米 べい 西 にし 戦争 せんそう でスペインが植民 しょくみん 地 ち を喪失 そうしつ したことで、マヨルカ島 とう では造船 ぞうせん 業 ぎょう も打撃 だげき を受 う けた[ 23] 。繁栄 はんえい の時代 じだい は終 お わりを迎 むか え、この時期 じき にはマヨルカ島 とう の住民 じゅうみん の多 おお くがイベリア半島 はんとう 本土 ほんど やアメリカ大陸 あめりかたいりく に移住 いじゅう した[ 23] 。
パルマの人口 じんこう 変動 へんどう (1900–2005)
1936年 ねん 7月 がつ のスペイン内戦 ないせん 開始 かいし 時 じ にマヨルカ島 とう はナショナリスト派 は の牙城 がじょう だったが、8月 がつ 16日 にち には共和 きょうわ 国 こく 派 は がナショナリスト派 は を駆逐 くちく して島 しま を救 すく うことを目的 もくてき とした上陸 じょうりく 作戦 さくせん の対象 たいしょう 地 ち となった。共和 きょうわ 国軍 こくぐん はナショナリスト軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) を圧倒 あっとう して12km内陸 ないりく まで押 お し込 こ んだが、空軍 くうぐん 力 りょく に優 すぐ れたナショナリスト派 は は主 おも にイタリア空軍 くうぐん をマヨルカ島 とう に派遣 はけん し(イタリアのマヨルカ占領 せんりょう (英語 えいご 版 ばん ) )、共和 きょうわ 国軍 こくぐん は退却 たいきゃく と9月 がつ 12日 にち の完全 かんぜん 撤退 てったい を余儀 よぎ なくされた。この出来事 できごと はマヨルカの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) として知 し られている[ 63] 。フランコ体制 たいせい 下 か のマヨルカ島 とう の政治 せいじ 的 てき 状況 じょうきょう はイベリア半島 はんとう 本土 ほんど と変 か わらなかった[ 23] 。
1960年代 ねんだい には観光 かんこう ブームが起 お こり、数 すう 多 おお くのホテル、マンション、ショッピングセンターが建設 けんせつ された[ 35] 。20世紀 せいき の観光 かんこう ブームは、スペイン本土 ほんど 、ヨーロッパ、南 みなみ アメリカ、アフリカからやってきた移民 いみん による人口 じんこう 増加 ぞうか が要因 よういん であるとされている[ 33] 。スペイン1978年 ねん 憲法 けんぽう が制定 せいてい されて「自治 じち 州 しゅう 」設置 せっち の扉 とびら が開 ひら かれると、1983年 ねん にはバレアレス諸島 しょとう 自治 じち 憲章 けんしょう が制定 せいてい されてバレアレス諸島 しょとう 州 しゅう が発足 ほっそく し、バレアレス諸島 しょとう 州 しゅう にある3つの島 しま 評議 ひょうぎ 会 かい のひとつとしてマヨルカ島 とう 評議 ひょうぎ 会 かい が設立 せつりつ された[ 40] [ 64] 。21世紀 せいき にはミラー計画 けいかく と呼 よ ばれる都市 とし 再 さい 開発 かいはつ の下 もと で、欧州 おうしゅう 連合 れんごう (EU)外 そと の特 とく にアフリカと南 みなみ アメリカから移民 いみん 労働 ろうどう 者 しゃ を引 ひ き寄 よ せた[ 65] 。今日 きょう のマヨルカ島 とう 住民 じゅうみん は概 がい して高 たか い生活 せいかつ 水準 すいじゅん にある[ 33] 。
リェバン半島 はんとう 自然 しぜん 公園 こうえん
海水 かいすい 面 めん が低下 ていか した氷河期 ひょうがき にはマヨルカ島 とう とメノルカ島 とう が陸続 りくつづ きだったため、動植物 どうしょくぶつ 相 しょう にはメノルカ島 とう との類似 るいじ 性 せい が見 み られる。一方 いっぽう で、マヨルカ島 とう などのジムネジアス群島 ぐんとう と、イビサ島 とう などのピティウザス群島 ぐんとう が陸続 りくつづ きだったことはない。もっとも小 ちい さな野生 やせい の哺乳類 ほにゅうるい はハツカネズミ やトガリネズミ であり、もっとも大 おお きな哺乳類 ほにゅうるい はジャコウネコ である[ 23] [ 66] 。鳥類 ちょうるい は哺乳類 ほにゅうるい よりも豊富 ほうふ であり、2,000種 しゅ 以上 いじょう が生息 せいそく または渡 わた りの際 さい にマヨルカ島 とう を使用 しよう している[ 23] [ 66] 。特 とく に島 しま の北部 ほくぶ でバードウォッチング が流行 りゅうこう している[ 66] 。
マツ 、クロウメモドキ科 か 、ローズマリー 、野生 やせい のオリーブ 、Pistacia lentiscus (マスティック)、Chamaerops humilis (シュロ の一種 いっしゅ )などがマヨルカ島 とう の主要 しゅよう な植生 しょくせい である[ 67] 。山地 さんち ではハンニチバナ科 か やラベンダー が卓越 たくえつ しており、山地 さんち の高 こう 降水 こうすい 量 りょう 地域 ちいき ではコルクガシ が残 のこ っている[ 67] 。海岸 かいがん 部 ぶ の砂丘 さきゅう にはオオハマガヤ属 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) が生 は えている[ 67] 。人間 にんげん によって導入 どうにゅう されていない植物 しょくぶつ で衰退 すいたい 傾向 けいこう にないのはマツのみであり、それは人間 にんげん の手 て が加 くわ わっているためである[ 67] [ 23] 。
マヨルカ島 とう は降水 こうすい 量 りょう が少 すく なく、一 いち 年 ねん を通 つう じて水 みず を湛 たた える河川 かせん が存在 そんざい しない。さらには20世紀 せいき 後半 こうはん の灌漑 かんがい 農業 のうぎょう や観光 かんこう 開発 かいはつ などで水 みず 需要 じゅよう が増大 ぞうだい した結果 けっか 、水 みず 資源 しげん の逼迫 ひっぱく が取 と りざたされている。1972年 ねん にはトラムンターナ山脈 さんみゃく の南 みなみ 麓 ふもと にゴルク・ブラウ貯水池 ちょすいち とクバ貯水池 ちょすいち が建設 けんせつ されたが、1994年 ねん と1997年 ねん の渇水 かっすい 時 じ にはそれぞれ700万 まん m2 の真水 まみず がスペイン本土 ほんど からマヨルカ島 とう に海路 かいろ で輸送 ゆそう された。1999年 ねん にはパルマ海水 かいすい 淡水 たんすい 化 か 施設 しせつ が稼働 かどう を開始 かいし したが、高 たか い環境 かんきょう 負荷 ふか などが批判 ひはん の対象 たいしょう となっている。2001年 ねん にはバレアレス諸島 しょとう 水利 すいり 計画 けいかく (1996年 ねん 策定 さくてい )が発効 はっこう され、長期 ちょうき 的 てき な水 みず 資源 しげん 開発 かいはつ ・利用 りよう 計画 けいかく に取 と り組 く んでいる。水質 すいしつ 汚染 おせん 問題 もんだい の例 れい として、環境 かんきょう 的 てき に「死 し んだ」サンタ・ポンサ湾 わん が挙 あ げられる[ 70] 。
ショパンとサンド
音楽家 おんがくか のフレデリック・ショパン はマヨルカ島 とう とかかわりが深 ふか い。1838年 ねん から1839年 ねん の冬 ふゆ 、ショパンとフランス人 じん 作家 さっか のジョルジュ・サンド はマヨルカ島 とう のバルデモーサ に滞在 たいざい した[ 71] 。ショパンは結核 けっかく が悪化 あっか しており、乾燥 かんそう していて太陽 たいよう も多 おお いバレアレス諸島 しょとう で療養 りょうよう するよう医者 いしゃ に勧 すす められたためだとされる[ 72] [ 73] 。
マヨルカ島 とう での冬 ふゆ はショパンにとって生産 せいさん 的 てき な期間 きかん であり、1835年 ねん に書 か きはじめていた「雨 あま だれのプレリュード 」を完成 かんせい させた[ 74] のはマヨルカ島 とう で過 す ごしていた1839年 ねん 1月 がつ のことだった。また、マヨルカ島 とう では「バラード第 だい 2番 ばん 」、「2つのポロネーズ」、「スケルツォ第 だい 3番 ばん 」に着手 ちゃくしゅ した[ 75] 。バルデモーサ修道院 しゅうどういん にはショパンの記念 きねん 館 かん があり、スコアや原稿 げんこう などが展示 てんじ されている[ 71] 。1855年 ねん 、サンドはマヨルカ島 とう での経験 けいけん を小説 しょうせつ 『マヨルカの冬 ふゆ (英語 えいご 版 ばん ) 』に書 か いた[ 74] 。
マヨルカ島 とう にあるサルヴァドールの銅像 どうぞう
オーストリア大公 たいこう ルートヴィヒ・サルヴァドール (英語 えいご 版 ばん ) はバレアレス諸島 しょとう 観光 かんこう の先駆 せんく 者 しゃ だった。サルヴァドールはノイエンドルフ (Neuendorf) 伯 はく だった1869年 ねん に初 はじ めてバレアレス諸島 しょとう を訪 おとず れると、マヨルカ島 とう を愛 あい してマヨルカ島 とう 住民 じゅうみん からも愛 あい された。マヨルカ島 とう 出身 しゅっしん の女性 じょせい と結婚 けっこん し、マヨルカ島 とう で22年間 ねんかん 暮 く らした。自然 しぜん 保護 ほご や娯楽 ごらく を目的 もくてき として自然 しぜん 地域 ちいき を購入 こうにゅう しており、今日 きょう ではいくつかのトレッキングルートにサルヴァドールの名 な が冠 かん されている[ 77] 。サルヴァドールはカタルーニャ語 ご を学 まな び、動植物 どうしょくぶつ 、歴史 れきし 、文化 ぶんか の研究 けんきゅう を行 おこな うと、バレアレス諸島 しょとう に関 かん する極 きわ めて包括 ほうかつ 的 てき なコレクションである『Die Balearen』全 ぜん 7巻 かん を発表 はっぴょう した[ 78] 。
イギリス人 じん 小説 しょうせつ 家 か のアガサ・クリスティ は20世紀 せいき 初頭 しょとう にマヨルカ島 とう を訪 おとず れ、パルマとポリェンサ港 こう に滞在 たいざい した[ 79] 。彼女 かのじょ が1939年 ねん に著 あらわ した『黄色 きいろ いアイリス 』の中 なか には短編 たんぺん 『ポリェンサ海岸 かいがん の事件 じけん 』が含 ふく まれている。アルゼンチン人 じん 作家 さっか のホルヘ・ルイス・ボルヘス は、家族 かぞく とともに2度 ど マヨルカ島 とう を訪 おとず れ[ 80] 、コミュニティ誌 し 『バレアレス』に「エストレーリャ」(1920年 ねん )と「大 だい 聖堂 せいどう 」(1921年 ねん )という2編 へん の詩 し を寄稿 きこう した[ 81] 。「大 だい 聖堂 せいどう 」はパルマ大 だい 聖堂 せいどう への称賛 しょうさん を表 あらわ した詩 し である[ 82] 。ニカラグア人 じん 詩人 しじん のルベン・ダリオ は小説 しょうせつ 『El oro de Mallorca』(マヨルカ島 とう の金 かね )や『La isla de oro』(金 かね の島 しま )と呼 よ ばれる何 なん 編 へん かの詩 し を書 か いた[ 83] 。
ピラール・イ・ミロ財団 ざいだん 美術館 びじゅつかん
カタルーニャ人 じん 画家 がか のジョアン・ミロ は生涯 しょうがい を通 つう じてマヨルカ島 とう と密接 みっせつ に関係 かんけい している。ミロ自身 じしん はバルセロナ出身 しゅっしん だが、ミロの母親 ははおや はマヨルカ島 とう 出身 しゅっしん である。さらに、1929年 ねん にはパルマでマヨルカ島 とう 出身 しゅっしん のピラール・フンコーサと結婚 けっこん し、1954年 ねん にはマヨルカ島 とう に定住 ていじゅう した[ 84] 。ピラール・イ・ミロ財団 ざいだん 美術館 びじゅつかん はかつてミロが住 す んでいた家 いえ であり、マヨルカ島 とう でもっとも入館 にゅうかん 者 しゃ 数 すう の多 おお い博物館 はくぶつかん である[ 85] 。多 おお くの絵画 かいが や彫刻 ちょうこく が展示 てんじ されているほかに、ミロの制作 せいさく 風景 ふうけい を模 も したアトリエもある。近年 きんねん にはパルマにアス・バルアード近 きん 現代 げんだい 美術館 びじゅつかん が開館 かいかん し、幅広 はばひろ く興味深 きょうみぶか いコレクションを有 ゆう している[ 85] 。アルクーディア 周辺 しゅうへん には、ポリェンサ・モノグラフ博物館 はくぶつかん 、教会 きょうかい 博物館 はくぶつかん 、ヤニック・イ・ベン・ジャコバー財団 ざいだん 美術館 びじゅつかん という、3つの美術館 びじゅつかん ・博物館 はくぶつかん がある[ 85] 。ポリェンサ 、ベニサール、アングラーダ・カマラサ、ティト・シタディーニ、アダン・ディレ、ソローリャには美術 びじゅつ 学校 がっこう がある[ 74] 。現代 げんだい スペイン美術 びじゅつ 界 かい でもっとも有名 ゆうめい なマヨルカ島 とう 出身 しゅっしん 者 しゃ はミケル・バルサロー であり、バルサローは2003年 ねん にアストゥリアス皇太子 こうたいし 賞 しょう 芸術 げいじゅつ 部門 ぶもん を受賞 じゅしょう した[ 74] 。
デイアにあるグレーヴスの自宅 じたく
トラムンターナ山脈 さんみゃく は芸術 げいじゅつ 家 か に人気 にんき がある地域 ちいき であり、長 なが くデイア に住 す んだロバート・グレーヴス はパブロ・ピカソ やアレック・ギネス など多 おお くの友人 ゆうじん を招待 しょうたい した[ 74] 。ピーター・ユスティノフ はマヨルカ島 とう 北部 ほくぶ に恋 こい し、毎年 まいとし オテル・フルマントールに滞在 たいざい した[ 74] 。イタリアの未来 みらい 派 は 画家 がか ・彫刻 ちょうこく 家 か であるアリギ・サッス (英語 えいご 版 ばん ) は1963年 ねん にポリェンサ近郊 きんこう の村 むら に移 うつ り住 す み、2000年 ねん にポリェンサで死去 しきょ した[ 74] 。アルクーディアのロータリーにはサッスが制作 せいさく した巨大 きょだい な馬 うま の彫刻 ちょうこく が設置 せっち されている[ 74] 。
2011年 ねん にはマヨルカ発展 はってん 国際 こくさい 映画 えいが 祭 さい が創設 そうせつ された。毎年 まいとし 11月 がつ に世界 せかい 各国 かっこく から映画 えいが 製作 せいさく 者 しゃ ・プロデューサー・監督 かんとく などを集 あつ め、パルマのプリンシパル劇場 げきじょう が主 しゅ 会場 かいじょう となる[ 86] 。
エジプト人 じん 、フェニキア人 じん 、ローマ人 じん 、ムーア人 じん 、ユダヤ人 じん 、カタルーニャ人 じん と、マヨルカ島 とう には歴史 れきし 的 てき に異 こと なる文化 ぶんか を持 も つ民族 みんぞく が住 す んでいたため、異 こと なる背景 はいけい を持 も つ文化 ぶんか 行事 ぎょうじ が行 おこな われる[ 87] 。マヨルカ島 とう の住民 じゅうみん の99%はカトリック である[ 88] 。マヨルカ島 とう の全 ぜん 地域 ちいき では12月25日 にち にクリスマス が祝 いわ われ、クリスマスイブ には教会 きょうかい でイエスの誕生 たんじょう が祝福 しゅくふく される[ 87] 。1月6日 にち には東方 とうほう の三 さん 博士 はかせ の行列 ぎょうれつ が行 おこな われ、1月 がつ 17日 にち には聖 ひじり アントニオの祭礼 さいれい が開催 かいさい される[ 87] 。聖 せい 週間 しゅうかん には馬車 ばしゃ のパレードが開催 かいさい され、この日 ひ のためにエンパナーデスと呼 よ ばれるペイストリーが作 つく られる[ 87] 。6月29日 にち は漁師 りょうし が存在 そんざい するほぼすべての沿岸 えんがん 自治体 じちたい で、漁師 りょうし の守護 しゅご 聖人 せいじん である聖 せい ペドロとカルメルの聖母 せいぼ の祭礼 さいれい が行 おこな われる[ 87] 。特 とく にクリスマスイブでのシビュラ による聖歌 せいか の詠唱 えいしょう は2010年 ねん にユネスコの無形 むけい 文化 ぶんか 遺産 いさん に登録 とうろく された[ 89] 。
マヨルカ島 とう にはバイ・デ・ボットまたはバイ・デ・パジェスと呼 よ ばれる伝統 でんとう 的 てき な舞踊 ぶよう があり、この舞踊 ぶよう は男性 だんせい ではなく女性 じょせい がリードする[ 87] 。
アイアンマン・マヨルカ
オープンウォータースイミング の国際 こくさい 大会 たいかい 、トライアスロン の国際 こくさい 大会 たいかい (アイアンマン・マヨルカ)、国際 こくさい エアロビ&フィットネス会議 かいぎ などのスポーツ大会 たいかい がマヨルカ島 とう で開催 かいさい される[ 90] 。9月に開催 かいさい されるオープンウォーターズスイミング大会 たいかい は島 しま 北部 ほくぶ が舞台 ぶたい であり、約 やく 7kmのポリェンサ湾 わん を泳 およ ぎきる必要 ひつよう がある[ 90] 。ダビド・メカやシャビ・トーレスなどの著名 ちょめい な水泳 すいえい 選手 せんしゅ が出場 しゅつじょう したこともある[ 90] 。アイアンマン・マヨルカはプッジ・マジョーをも舞台 ぶたい (自転車 じてんしゃ )とするトライアスロン大会 たいかい である[ 91] 。
マヨルカ島 とう は冬 ふゆ でも温暖 おんだん であり、尚 なお 且 か つ高地 こうち トレーニングができるだけの山岳 さんがく 地帯 ちたい も有 ゆう するという自転車 じてんしゃ 競技 きょうぎ に理想 りそう 的 てき な条件 じょうけん を持 も っている。このことから冬季 とうき にはヨーロッパを代表 だいひょう する自転車 じてんしゃ 競技 きょうぎ チームがトレーニングのために訪 おとず れる[ 91] 。 また、2月 がつ には「全 ぜん 4ステージのステージレース」ではなくあくまでも「ワンデーレースが4日 にち 連続 れんぞく で行 おこな われる」として扱 あつか われることで知 し られるチャレンジ・シクリスタ・マヨルカ が開催 かいさい される。
マヨルカ島 とう には19のゴルフコースがあり、マイケル・ダグラス 、ジャック・ニコルソン 、ジョン・トシャック 、ヨハン・クライフ 、ブリジッタ (英語 えいご 版 ばん ) などが島内 とうない のゴルフコースを回 まわ った[ 92] 。マヨルカ島 とう はスペインで闘牛 とうぎゅう が盛 さか んな地域 ちいき ではないが、豊 ゆた かな闘牛 とうぎゅう の伝統 でんとう と多 おお くの支持 しじ 者 しゃ を持 も っている[ 93] 。マヨルカ島 とう にはパルマ、ムーロ、ファラニチュ、インカ、アルクーディアに闘牛 とうぎゅう 場 じょう が存在 そんざい し、夏季 かき には全土 ぜんど で闘牛 とうぎゅう が開催 かいさい される[ 93] 。
マヨルカ風 ふう 野菜 やさい の煮込 にこ み
バレアレス諸島 しょとう やマヨルカ島 とう の料理 りょうり は地中海 ちちゅうかい 料理 りょうり に含 ふく まれ、伝統 でんとう 的 てき にオリーブオイル とラード によって味付 あじつ けがなされている[ 94] 。ラードは伝統 でんとう 的 てき なブタの屠殺 とさつ 方法 ほうほう を用 もち いて生産 せいさん され、豚肉 ぶたにく も部位 ぶい ごとに様々 さまざま な料理 りょうり に使用 しよう されている[ 94] 。特徴 とくちょう 的 てき なマヨルカ料理 りょうり のひとつに、細 こま かく刻 きざ んだパン、肉 にく の切 き れ端 はし 、野菜 やさい などが入 はい っているソパ・マヨルキーナ (スペイン語 ご 版 ばん ) (マヨルカ風 ふう 野菜 やさい の煮込 にこ み)が挙 あ げられる[ 94] 。
バレアレス諸島 しょとう のソブラサーダ
マヨルカ島 とう を象徴 しょうちょう する食材 しょくざい としてオリーブとアーモンド がある。伝統 でんとう 的 てき な食後 しょくご の軽食 けいしょく としてゼリーやジャムを塗 ぬ ったブレッドスティックがあり、ゼリーとジャムの輸入 ゆにゅう 量 りょう が多 おお い。マヨルカ料理 りょうり には豚肉 ぶたにく のソーセージであるソブラサーダ (英語 えいご 版 ばん ) (チョリソ の一種 いっしゅ )、アロス・ブルット(鶏肉 とりにく ・豚肉 ぶたにく ・野菜 やさい を加 くわ えたサフランライス)などがある。
バレアレス諸島 しょとう 産 さん のチーズはイスラーム支配 しはい 時代 じだい でも尊重 そんちょう されたが、イギリス支配 しはい 時代 じだい に生産 せいさん 量 りょう が拡大 かくだい した[ 95] 。牛乳 ぎゅうにゅう を用 もち いた箱 はこ 型 がた のチーズであり、保存 ほぞん のために皮 かわ が黄色 きいろ または橙色 だいだいいろ をしている[ 95] 。隣接 りんせつ するメノルカ島 とう のマオー・チーズ (英語 えいご 版 ばん ) はバレアレス諸島 しょとう でもっとも人気 にんき のあるチーズであり、1985年 ねん に原産地 げんさんち 呼称 こしょう (DO)に認定 にんてい された[ 95] 。
ローマ人 じん がマヨルカ島 とう にブドウの苗 なえ を持 も ちこんだことで、マヨルカ島 とう のワイン 生産 せいさん の伝統 でんとう が始 はじ まった[ 96] 。今日 きょう では数 すう 百 ひゃく ヘクタールのブドウ畑 はたけ があり、白 しろ ブドウ品種 ひんしゅ ではモイ種 しゅ 、マカベオ 種 たね 、パレリャーダ (英語 えいご 版 ばん ) 種 たね 、黒 くろ ブドウ品種 ひんしゅ ではマント・ネグロ (英語 えいご 版 ばん ) 種 たね 、カリェット種 しゅ 、テンプラニーリョ 種 たね 、モナストレル 種 たね などが栽培 さいばい されている[ 96] 。
マヨルカ島 とう でもっとも著名 ちょめい なワイン産地 さんち は中央 ちゅうおう 部 ぶ のビニサレム である[ 96] 。500年 ねん 前 まえ から優 すぐ れたワインを生産 せいさん しており、20世紀 せいき 後半 こうはん におけるマヨルカワインの復活 ふっかつ はビニサレムで起 お こった[ 96] 。1990年代 ねんだい 初頭 しょとう には原産地 げんさんち 呼称 こしょう 産地 さんち (DO)に指定 してい された[ 96] 。ビニサレムの他 ほか の産地 さんち としてはプラ・イ・リェバンなどがあり、マヨルカ島 とう 中央 ちゅうおう 部 ぶ から東部 とうぶ にかけての18自治体 じちたい で伝統 でんとう 的 てき 手法 しゅほう によるワインを生産 せいさん している[ 96] 。近年 きんねん になってアルクーディア周辺 しゅうへん でもブドウ栽培 さいばい が再開 さいかい され、マヨルカ島 とう 北東 ほくとう 岸 がん の17村 むら で産地 さんち を形成 けいせい している[ 96] 。今日 きょう ではビニサレム (DO) とプラ・イ・リェバン (DO) (英語 えいご 版 ばん ) の2つの産地 さんち がスペインの原産地 げんさんち 呼称 こしょう 制度 せいど であるデノミナシオン・デ・オリヘン (DO)に指定 してい されている[ 9] 。
エンサイマダ
マヨルカ島 とう ではエンサイマダ と呼 よ ばれるペイストリー の伝統 でんとう があり、ジュゼップ・プラは「この国 くに (スペイン)の菓子 かし の中 なか でもっとも軽 かる く、もっとも繊細 せんさい で、もっとも優美 ゆうび なもの」と称 とな えた[ 97] 。エンサイマダの起源 きげん は不明 ふめい だが、イスラーム支配 しはい 時代 じだい やマヨルカ島 とう のユダヤ人 じん に関連 かんれん しているとされることもある[ 97] 。初 はじ めて文献 ぶんけん に登場 とうじょう するのは17世紀 せいき に遡 さかのぼ り、長年 ながねん に渡 わた ってこの島 しま で食 しょく されている[ 97] 。
エンサイマダは小麦粉 こむぎこ 、水 みず 、砂糖 さとう 、卵 たまご 、スターター生地 きじ 、ラードを主 おも 材料 ざいりょう とし、発酵 はっこう と焼成 しょうせい 後 ご に粉 こな 砂糖 さとう が振 ふ り掛 か けられる[ 97] 。近年 きんねん にはパンプキンジャム、クリーム、アーモンド、チョコレート、果物 くだもの などがトッピングされることもある[ 97] 。大 おお きさや重 おも さは多様 たよう であり、大 だい 家族 かぞく が集 あつ まった時 とき にはデザートとして巨大 きょだい なエンサイマダが食 た べられる[ 97] 。アルクーディアではほぼすべてのバル やカフェでエンサイマダを注文 ちゅうもん することができ、それぞれのバルやカフェは自前 じまえ のオーブンで焼 や いている[ 97] 。1996年 ねん には「マヨルカ島 とう のエンサイマダ」という名前 なまえ の使用 しよう が保護 ほご され、2003年 ねん 4月 がつ にはバレアレス諸島 しょとう 州 しゅう 政府 せいふ が地理 ちり 的 てき 表示 ひょうじ (GI)を承認 しょうにん した[ 97] 。
パム・ボリ
パム・ボリ(パ・アム・トゥマカット )はパンにトマトを塗 ぬ り付 つ けた簡素 かんそ なカタルーニャ料理 りょうり であり、マヨルカ島 とう ではラマリェット種 しゅ と呼 よ ばれる果皮 かひ の薄 うす い地元 じもと 品種 ひんしゅ が使用 しよう される[ 95] 。トマト以外 いがい にはたっぷりのオリーブオイルとひとつまみの塩 しお を振 ふ りかけ、トーストしたりニンニクを塗 ぬ ったりすることもある[ 95] 。しばしばソーセージやチーズも乗 の せて食 た べられる[ 95] 。
マヨルカ島 とう はオリーブの栽培 さいばい の長 なが い歴史 れきし を持 も っており、オリーブオイル の生産 せいさん とその消費 しょうひ の歴史 れきし も長 なが い[ 29] 。オリーブの木 き は主 おも にトラムンターナ山脈 さんみゃく の南 みなみ 斜面 しゃめん で栽培 さいばい され、強 つよ い風味 ふうみ を持 も つのが特徴 とくちょう である[ 94] [ 29] 。マヨルカ島 とう 産 さん のオリーブオイルの認知 にんち 度 ど は諸島 しょとう の内外 ないがい で高 たか く、17世紀 せいき から19世紀 せいき には経済 けいざい 面 めん で重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たした[ 29] 。1888年 ねん のバルセロナ万国博覧会 ばんこくはくらんかい ではマヨルカ島 とう 産 さん のオリーブオイルが二 に 等 とう 賞 しょう を受賞 じゅしょう し、諸島 しょとう 外 がい で認知 にんち されるようになった[ 29] 。2002年 ねん には原産地 げんさんち 呼称 こしょう (DO)に認定 にんてい されている[ 29] 。収穫 しゅうかく 期 き の早 はや い段階 だんかい で摘 つま むことで果実 かじつ 味 あじ を強調 きょうちょう したタイプ、完熟 かんじゅく させたオリーブを使用 しよう することで黄金 おうごん 色 しょく や甘 あま さを強調 きょうちょう したタイプの2種類 しゅるい がある[ 29] 。
マヨルカ島 とう 評議 ひょうぎ 会 かい の紋章 もんしょう
1983年 ねん にはスペインに17ある自治 じち 州 しゅう のひとつとしてバレアレス諸島 しょとう 自治 じち 州 しゅう が発足 ほっそく し、マヨルカ島 とう はその一部 いちぶ となった。バレアレス諸島 しょとう 州 しゅう は州 しゅう 議会 ぎかい 、州 しゅう 政府 せいふ 、州 しゅう 首相 しゅしょう 、州立 しゅうりつ 高等 こうとう 裁判所 さいばんしょ を有 ゆう している[ 98] 。
バレアレス諸島 しょとう 州 しゅう はマヨルカ島 とう 評議 ひょうぎ 会 かい 、メノルカ島 とう 評議 ひょうぎ 会 かい 、イビサ島 とう 評議 ひょうぎ 会 かい 、フォルメンテーラ島 とう 評議 ひょうぎ 会 かい の4評議 ひょうぎ 会 かい の集合 しゅうごう 体 たい であり、マヨルカ島 とう 評議 ひょうぎ 会 かい はマヨルカ島 とう とカブレラ島 とう を管轄 かんかつ している。マヨルカ島 とう 評議 ひょうぎ 会 かい はマヨルカ島内 とうない の文化 ぶんか 、道路 どうろ 、鉄道 てつどう 、市政 しせい などを担当 たんとう している。マヨルカ島 とう にある各 かく 自治体 じちたい は独自 どくじ の自治体 じちたい 議会 ぎかい を有 ゆう している[ 98] 。マヨルカ島 とう の歌 うた はラ・バランゲーラ (英語 えいご 版 ばん ) である。
マヨルカ島 とう 評議 ひょうぎ 会 かい
マヨルカ島 とう 評議 ひょうぎ 会 かい 代表 だいひょう
代 だい
名前 なまえ
就任 しゅうにん
退任 たいにん
政党 せいとう
1.
ジェロニ・アルベルティ
1979年 ねん 7月 がつ 24日 にち
1982年 ねん 9月 がつ 27日 にち
民主 みんしゅ 中道 ちゅうどう 連合 れんごう (UCD)
2.
マキシミリアーノ・モラーレス
1982年 ねん 9月 がつ 27日 にち
1983年 ねん 6月 がつ 23日 にち
民主 みんしゅ 中道 ちゅうどう 連合 れんごう (UCD)
3.
ジェロニ・アルベルティ
1983年 ねん 6月 がつ 23日 にち
1987年 ねん 6月 がつ 29日 にち
マヨルカ連合 れんごう (UM)
4.
ジョアン・ベルジェル
1987年 ねん 6月 がつ 29日 にち
1995年 ねん 7月 がつ 7日 にち
国民党 こくみんとう (PP)
5.
マリーア・アントーニア・ムナル
1995年 ねん 7月 がつ 7日 にち
2007年 ねん 6月 がつ 29日 にち
マヨルカ連合 れんごう (UM)
6.
フランシーナ・アルメンゴル
2007年 ねん 7月 がつ 7日 にち
2011年 ねん 6月 がつ 14日 にち
スペイン社会労働党 しゃかいろうどうとう (PSOE)
7.
マリーア・サロン
2011年 ねん 6月 がつ 14日 にち
2015年 ねん 7月 がつ 4日 にち
国民党 こくみんとう (PP)
8.
ミケル・エンセニャット
2015年 ねん 7月 がつ 4日 にち
現職 げんしょく
メス・ペル・マヨルカ (スペイン語 ご 版 ばん ) (Més)
パルマにはスペイン王室 おうしつ の夏 なつ の離宮 りきゅう であるマリベント宮殿 きゅうでん があり[ 99] 、国王 こくおう 一家 いっか は夏季 かき 休暇 きゅうか をマヨルカ島 とう で過 す ごす[ 100] 。王室 おうしつ の住居 じゅうきょ の多 おお くは国家 こっか 遺産 いさん 局 きょく (英語 えいご 版 ばん ) が管理 かんり しているが、マリベント宮殿 きゅうでん はバレアレス諸島 しょとう 州 しゅう 政府 せいふ の管理 かんり の下 した にある。スペイン王室 おうしつ は全員 ぜんいん がセーリング 競技 きょうぎ 経験 けいけん 者 しゃ であるため、全員 ぜんいん が集 あつ まるとセーリングを楽 たの しむことがある[ 101] 。
マリベント宮殿 きゅうでん は私邸 してい であり、公務 こうむ に使用 しよう されることは稀 まれ であるが、非公式 ひこうしき の活動 かつどう に使用 しよう されることもある。2007年 ねん 11月にはスペイン国王 こくおう フアン・カルロス1世 せい がイベロアメリカ首脳 しゅのう 会議 かいぎ 中 なか に、ベネズエラのウゴ・チャベス 大統領 だいとうりょう に対 たい して「¿Por qué no te callas? 」(黙 だま ったらどうかね?)と発言 はつげん したことが国際 こくさい 問題 もんだい に発展 はってん したが[ 102] 、2008年 ねん にはスペイン=ベネズエラ両国 りょうこく の関係 かんけい 修復 しゅうふく と国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か のために[ 103] 、チャベス大統領 だいとうりょう がマリベント宮殿 きゅうでん に滞在 たいざい した[ 104] 。
1980年代 ねんだい にはスペイン王室 おうしつ の招待 しょうたい で、イギリス王室 おうしつ のチャールズ3世 せい (当時 とうじ 皇太子 こうたいし )とダイアナ の夫妻 ふさい がしばしばマヨルカ島 とう を訪 おとず れている。1988年 ねん にはエリザベス2世 せい 女王 じょおう とフィリップ の夫妻 ふさい がイギリス王室 おうしつ ヨットのブリタニア号 ごう でマヨルカ島 とう を訪 おとず れた。1994年 ねん 10月 がつ には日本 にっぽん の明仁 あきひと 天皇 てんのう ・皇后 こうごう 美智子 みちこ がスペイン国王 こくおう 夫妻 ふさい とともにアルムデナ離宮 りきゅう に滞在 たいざい した。
マヨルカ島 とう はオリーブ、ブドウ、オレンジなどの農産物 のうさんぶつ や、ワインやブランデーなどの酒類 しゅるい 、大理石 だいりせき 、鉄 てつ ・鉛 なまり 、羊毛 ようもう 、陶器 とうき などを産出 さんしゅつ する。農業 のうぎょう と観光 かんこう 業 ぎょう における女性 じょせい の就業 しゅうぎょう 者 しゃ 数 すう が多 おお いため、スペインの他 た 地域 ちいき に比 くら べてバレアレス諸島 しょとう では有 ゆう 業 ぎょう 人口 じんこう 比率 ひりつ が高 たか い。
カプデペーラのカーラ・アギリャ
バレアレス諸島 しょとう 経済 けいざい の主要 しゅよう な原動力 げんどうりょく となっている2つの部門 ぶもん は、工業 こうぎょう と農業 のうぎょう を押 お しのけて観光 かんこう 業 ぎょう と建設 けんせつ 業 ぎょう である[ 13] 。マヨルカ島 とう には世界 せかい 有数 ゆうすう のホテル企業 きぎょう がある[ 13] 。マヨルカ島 とう の沿岸 えんがん はほぼ全域 ぜんいき が観光 かんこう 地 ち となっているが、観光 かんこう 客 きゃく の大半 たいはん は南岸 なんがん のパルマとカルビア、さらに北岸 ほくがん のポリェンサ湾 わん とアルクーディア湾 わん に集中 しゅうちゅう している[ 13] 。数 かず 多 おお くの美 うつく しい砂浜 すなはま やビーチ・リゾートが島内 とうない に点在 てんざい しており、マヨルカ島 とう にあるビーチの数 かず は139か所 しょ に上 のぼ る。特 とく にバカンス の季 き 節 ぶし になるとビーチは海水浴 かいすいよく を楽 たの しむ観光 かんこう 客 きゃく でごった返 がえ す。ビーチ以外 いがい にも、北部 ほくぶ には海 うみ へと切 き り立 た つ断崖絶壁 だんがいぜっぺき やその間 あいだ に点在 てんざい する村 むら 々、また東部 とうぶ のポルト・クリスト (英語 えいご 版 ばん ) にはドラック洞窟 どうくつ など多数 たすう の巨大 きょだい な鍾乳洞 しょうにゅうどう がある。
アンドラッチ港 みなと
今日 きょう でもマスツーリズム観光 かんこう 客 きゃく は「太陽 たいよう と砂浜 すなはま 」を求 もと めてマヨルカ島 とう にやってくる。旅行 りょこう 会社 かいしゃ のイメージ戦略 せんりゃく によって5S (Sea 、Sand 、Sun 、Sangría 、Sex )を目的 もくてき とした夏季 かき の観光 かんこう 客 きゃく が多 おお く、特 とく に浜辺 はまべ での飲酒 いんしゅ と性行為 せいこうい を目的 もくてき とする若者 わかもの による騒音 そうおん 問題 もんだい やモラルの低下 ていか は社会 しゃかい 問題 もんだい にもなっている。2011年 ねん の国 くに 別 べつ 観光 かんこう 客数 きゃくすう はドイツが37%、イギリスが21%、スペインが13%だった。平均 へいきん 滞在 たいざい 日数 にっすう は8.5日間 にちかん だった。
パルマにあるオテル・メディテラネの宿泊 しゅくはく 者 しゃ 名簿 めいぼ には、エヴァ・ガードナー (アメリカの女優 じょゆう )、リチャード・ニクソン (アメリカ大統領 だいとうりょう )、イラン国王 こくおう 、エロール・フリン (オーストラリアの俳優 はいゆう )、アガサ・クリスティ (イギリスの作家 さっか )などの名前 なまえ がみられ、オテル・ソン・ビダが開業 かいぎょう した際 さい の主賓 しゅひん はモナコ大公 たいこう レーニエ3世 せい とグレース・ケリー 妃 ひ だった。ポリェンサ にあるオテル・フルマントールの宿泊 しゅくはく 者 しゃ 名簿 めいぼ には、ウィンストン・チャーチル (イギリス首相 しゅしょう )、ダグラス・フェアバンクス (アメリカの俳優 はいゆう )、チャーリー・チャップリン (アメリカの俳優 はいゆう )、クリストファー・プラマー (アメリカの俳優 はいゆう )、ウェールズ公 こう チャールズ(チャールズ3世 せい )、モナコ大公 たいこう レーニエ3世 せい とグレース・ケリー妃 ひ 、スペイン国王 こくおう フアン・カルロス1世 せい とソフィア 妃 ひ などの名前 なまえ が書 か かれており、ジャクリーン・ケネディ・オナシス (アメリカのファーストレディ)やその夫 おっと アリストテレス・オナシス (実業 じつぎょう 家 か )もこのホテルを起点 きてん にヨットで地中海 ちちゅうかい を巡航 じゅんこう した。
サンタ・ポンサのホテル群 ぐん
ギリシャのケルキラ島 とう などとともに、マヨルカ島 とう では地中海 ちちゅうかい の島嶼 とうしょ の中 なか では早 はや くから観光 かんこう 発展 はってん が始 はじ まった。19世紀 せいき にフランス人 じん 貴族 きぞく がやってきて、主 おも にパルマに滞在 たいざい しながら島内 とうない の自然 しぜん 景観 けいかん や文化 ぶんか 的 てき 景観 けいかん を楽 たの しんだのが観光 かんこう 業 ぎょう の創始 そうし である。イギリス人 じん やドイツ人 じん は、特 とく に冬季 とうき の避寒 ひかん 地 ち にマヨルカ島 とう を選 えら んだ。19世紀 せいき 中頃 なかごろ までの観光 かんこう 客数 きゃくすう は年間 ねんかん 数 すう 千 せん 人 にん にすぎなかったが、20世紀 せいき に入 はい ると観光 かんこう 客数 きゃくすう が急増 きゅうぞう し、1920年代 ねんだい には地中海 ちちゅうかい クルーズの目的 もくてき 地 ち 、またスペイン人 じん にとっての新婚 しんこん 旅行 りょこう の目的 もくてき 地 ち となった。イギリス人 じん によって始 はじ められたハイキングをスペイン人 じん も楽 たの しむようになり、ドイツ人 じん は高地 こうち にある歴史 れきし 的 てき な町 まち を目指 めざ すハイキングをブームに導 みちび いた。1930年代 ねんだい にはアメリカから海水浴 かいすいよく と日光浴 にっこうよく がもたらされ、ヨーロッパ人 じん にとっては珍 めずら しかった肌 はだ を露出 ろしゅつ させた装 よそお いも、ファッションとして定着 ていちゃく した。
作家 さっか やミュージシャンに愛 あい されるデイアの町 まち
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご のヨーロッパでは島嶼 とうしょ 観光 かんこう がブームとなり、マヨルカ島 とう のマスツーリズム は1950年代 ねんだい 末 まつ に始 はじ まったとされる。1950年 ねん の観光 かんこう 客数 きゃくすう は10万 まん 人 にん だったが、1951年 ねん には20万 まん 人 にん となり、1955年 ねん にイギリスで海外 かいがい 旅行 りょこう の規制 きせい が緩和 かんわ されるとイギリス人 じん 観光 かんこう 客 きゃく が急増 きゅうぞう した。アメリカ人 じん が冷戦 れいせん 下 した のヨーロッパ政策 せいさく としてインフラ整備 せいび を開始 かいし し、イギリス人 じん がホテル建設 けんせつ やリゾート開発 かいはつ などを行 おこな った。1960年代 ねんだい 初頭 しょとう にはパッケージツアー が始 はじ まり、1964年 ねん にスペイン政府 せいふ が外国 がいこく 人 じん 観光 かんこう 客 きゃく の増加 ぞうか を目指 めざ す観光 かんこう 政策 せいさく を実施 じっし したことで、さらに国外 こくがい からの投資 とうし や観光 かんこう 発展 はってん が進 すす んだ。1964年 ねん 末 まつ 時点 じてん では918軒 けん のホテル またはペンション があり、総 そう ベッド数 すう は40,908床 しょう に達 たっ した。ピーク時 じ には2日 にち に1軒 けん のペースで宿泊 しゅくはく 施設 しせつ が開業 かいぎょう したとされる。
1970年代 ねんだい から1980年代 ねんだい には、イギリスだけでなくドイツの旅行 りょこう 会社 かいしゃ によるパッケージツアーが増加 ぞうか し、イギリス人 じん 観光 かんこう 客 きゃく とドイツ人 じん 観光 かんこう 客 きゃく の目的 もくてき 地 ち は分 わ かれた。マガルフ やサレナルなどでは英語 えいご 表記 ひょうき の看板 かんばん 、プラヤ・デ・パルマやアルクーディア などではドイツ語 ご 表記 ひょうき の看板 かんばん を多 おお く見 み ることができる。1960年代 ねんだい から観光 かんこう 客 きゃく は一貫 いっかん して増加 ぞうか 傾向 けいこう にあり、1960年代 ねんだい 末 まつ から1970年代 ねんだい が最初 さいしょ のブーム期 き であるとされる。
1977年 ねん 時点 じてん ではスペインの宿泊 しゅくはく 施設 しせつ 数 すう は9,542軒 けん だったが、バレアレス諸島 しょとう には県 けん 別 べつ でスペイン最多 さいた の1,467軒 けん があった。うち290軒 けん は3つ星 ほし 以上 いじょう のホテルであり、宿泊 しゅくはく 施設 しせつ の充実 じゅうじつ 度 ど は当時 とうじ から際立 きわだ っていた。1990年代 ねんだい は衰退 すいたい 期 き であり、カルビアでは競合 きょうごう 相手 あいて の増加 ぞうか による観光 かんこう 客 きゃく の減少 げんしょう 、マスツーリズムではない個人 こじん 旅行 りょこう の増加 ぞうか 、乱 らん 開発 かいはつ や環境 かんきょう 問題 もんだい などが起 お こったものの、マスツーリズムからサステイナブルツーリズム への移行 いこう がうまくいった結果 けっか 、1997年 ねん 以降 いこう には数 すう 多 おお くの観光 かんこう 関連 かんれん の賞 しょう を受賞 じゅしょう するようになった。
1950年代 ねんだい には落 お ち着 つ いた内陸 ないりく 部 ぶ や山間 さんかん 部 ぶ への別荘 べっそう の開発 かいはつ が始 はじ まり、1980年代 ねんだい には夏季 かき の別荘 べっそう 滞在 たいざい や退職 たいしょく 者 しゃ の長期 ちょうき 滞在 たいざい が増加 ぞうか した。2000年 ねん には貸 かし 別荘 べっそう が39,000戸 こ に達 たっ している。また、農場 のうじょう 家屋 かおく を宿泊 しゅくはく 施設 しせつ として利用 りよう するアグリツーリズム が盛 さか んとなり、2010年 ねん 時点 じてん で175軒 けん の農場 のうじょう 家屋 かおく がドイツ人 じん の富裕 ふゆう 層 そう などに利用 りよう されている。
2000年 ねん 時点 じてん で、バレアレス諸島 しょとう では域内 いきない 総 そう 生産 せいさん (GRP)の60%以上 いじょう を観光 かんこう 業 ぎょう が占 し めていた[ 24] 。1986年 ねん 時点 じてん では島 しま 全体 ぜんたい にリゾートが4つあったが、2000年 ねん には13に増加 ぞうか し、これらのリゾートは大量 たいりょう の真水 まみず を必要 ひつよう としている[ 24] 。2000年 ねん 春季 しゅんき には水不足 みずぶそく と水 みず 供給 きょうきゅう の問題 もんだい が重 かさ なったことで、ドイツからの観光 かんこう 客 きゃく が通常 つうじょう 期 き の1/3にまで減少 げんしょう した[ 24] 。2013年 ねん には950万 まん 人 にん がマヨルカ島 とう を訪 おとず れ、バレアレス諸島 しょとう 全体 ぜんたい には1300万 まん 人 にん が訪 おとず れた[ 111] 。
国 くに ・地域 ちいき 別 べつ の観光 かんこう 客数 きゃくすう [ 112]
順位 じゅんい
国 くに ・地域 ちいき
2014
2013
2012
2011
2010
1
ドイツ
3,731,458
3,710,313
3,450,687
3,308,604
2,224,709
2
イギリス
2,165,774
2,105,981
1,986,354
1,898,838
1,324,294
3
スペイン
1,088,973
985,557
1,192,033
1,195,822
759,825
4
北欧 ほくおう 諸国 しょこく
758,940
758,637
668,328
572,041
387,875
5
ベネルクス 三 さん 国 こく
366,130
363,911
360,973
368,930
284,845
6
スイス
334,871
312,491
292,226
280,401
188,826
7
フランス
328,681
337,891
349,712
316,124
187,589
8
オーストリア
175,530
160,890
138,287
181,993
107,991
9
イタリア
165,473
154,227
173,680
200,851
135,535
10
アイルランド
100,059
104,827
115,164
158,646
68,456
マヨルカ島 とう のアーモンド畑 はたけ
マヨルカ島 とう は地中海 ちちゅうかい 地域 ちいき の島 しま としては珍 めずら しく肥沃 ひよく で緑 みどり 豊 ゆた かである[ 10] 。マヨルカ島 とう の急斜面 きゅうしゃめん には耕作 こうさく が困難 こんなん な場所 ばしょ もあるが、一部 いちぶ では人間 にんげん が段々畑 だんだんばたけ を築 きず いてオリーブやブドウを栽培 さいばい している[ 67] 。マヨルカ島 とう の主要 しゅよう な2つの作物 さくもつ はオリーブ とブドウ であり、その他 た には柑橘類 かんきつるい (特 とく にオレンジ )、アーモンド 、穀物 こくもつ 、野菜 やさい を栽培 さいばい している[ 67] 。とはいえ、農業 のうぎょう がマヨルカ島 とう の域内 いきない 総 そう 生産 せいさん (GRP)に占 し める割合 わりあい は1.1%、農業 のうぎょう 従事 じゅうじ 者 しゃ が労働 ろうどう 力 りょく 人口 じんこう に占 し める割合 わりあい は2%と低 ひく い。全 ぜん 耕地 こうち 面積 めんせき の約 やく 半分 はんぶん はアーモンド、オリーブ、イナゴマメ などの樹木 じゅもく 栽培 さいばい である。零細 れいさい 土地 とち 所有 しょゆう が卓越 たくえつ しており、1979年 ねん 時点 じてん で中規模 ちゅうきぼ 土地 とち 所有 しょゆう 者 しゃ は農業 のうぎょう 人口 じんこう の約 やく 27%・農地 のうち 面積 めんせき の35%に過 す ぎず、残 のこ りは5ヘクタール以下 いか の小規模 しょうきぼ 土地 とち 所有 しょゆう 者 しゃ である。石灰 せっかい 質 しつ のやせた赤土 あかつち の農地 のうち が多 おお く、パルマ周辺 しゅうへん を除 のぞ けば灌漑 かんがい 農地 のうち は少 すく ない。農業 のうぎょう 機械 きかい の導入 どうにゅう は遅 おそ く、農業 のうぎょう 従事 じゅうじ 者 しゃ の所得 しょとく 水準 すいじゅん は低 ひく い。
ローマ人 じん がマヨルカ島 とう にオリーブを持 も ち込 こ み[ 115] 、13世紀 せいき にはすでにオリーブオイルを生産 せいさん していた記録 きろく が残 のこ っている[ 116] 。19世紀 せいき にはマヨルカ島 とう からの輸出 ゆしゅつ 品 ひん の90%を占 し めており、観光 かんこう 業 ぎょう が発展 はってん するまでの主 しゅ 産物 さんぶつ だった[ 116] 。その後 ご いったんは衰退 すいたい したものの、今日 きょう には復活 ふっかつ して年間 ねんかん 10万 まん リットル強 きょう を生産 せいさん している[ 116] 。マヨルカ島 とう には55,000ヘクタールの土地 とち に500万 まん 本 ほん のアーモンドが植 う えられているとされる[ 117] 。気候 きこう などが影響 えいきょう して、マヨルカ島 とう のアーモンドは水分 すいぶん 含有 がんゆう 量 りょう が低 ひく く脂肪 しぼう 含有 がんゆう 量 りょう が高 たか い[ 117] 。一般 いっぱん 的 てき にアーモンドの開花 かいか 時期 じき は2月 がつ であり、収穫 しゅうかく 時期 じき は8月 がつ である[ 117] 。
マヨルカ島 とう 南東 なんとう 部 ぶ にあるコロニア・サン・ジョルディ塩水 えんすい 湖 みずうみ からは年間 ねんかん 約 やく 15,000トンの海 うみ 塩 しお (英語 えいご 版 ばん ) が収穫 しゅうかく される[ 118] 。この塩水 えんすい 湖 みずうみ は海水 かいすい をポンプで汲 く み上 あ げて造成 ぞうせい された人造湖 じんぞうこ であり、マヨルカ島 とう の海 うみ 塩 しお はマグネシウム 、カリウム 、カルシウム などを豊富 ほうふ に含 ふく んでいる[ 118] 。マヨルカ島 とう は四方 しほう を海 うみ に囲 かこ まれているものの、漁業 ぎょぎょう は長 なが い低迷 ていめい 期 き にあり、マヨルカ島 とう で販売 はんばい されている魚類 ぎょるい の大 だい 部分 ぶぶん はイベリア半島 はんとう の漁港 ぎょこう から輸入 ゆにゅう したものである[ 119] 。
カンペールのストア
カンペール 、ファルチュ(Farrutx)、ヤンコ(Yanko)などはいずれもマヨルカ島 とう に工場 こうじょう を持 も つ皮革 ひかく 製品 せいひん メーカーであり、いずれもスペイン国内外 こくないがい で知 し られた存在 そんざい である[ 120] 。この中 なか でもっとも著名 ちょめい な靴 くつ メーカーのカンペールは、「皮革 ひかく の町 まち 」と呼 よ ばれるインカ が発祥 はっしょう の地 ち であり、マヨルカ島 とう の中心 ちゅうしん 部 ぶ に位置 いち するインカは皮革 ひかく 製品 せいひん の製造 せいぞう に特 とく 化 か した多 おお くの工場 こうじょう や工房 こうぼう を有 ゆう している[ 120] 。ファルチュ、ヤンコ、ロトゥセ(Lottusse)は靴 くつ 、バッグ、コート、手袋 てぶくろ など高 こう 品質 ひんしつ の皮革 ひかく 製品 せいひん を製造 せいぞう している[ 120] 。
13世紀 せいき から15世紀 せいき のマヨルカ島 とう では地図 ちず (航海 こうかい 図 ず )製作 せいさく 技術 ぎじゅつ が花開 はなひら き、中世 ちゅうせい 後期 こうき には世界 せかい でもっとも重要 じゅうよう な地図 ちず 製作 せいさく 拠点 きょてん のひとつだった[ 121] 。この時期 じき に活躍 かつやく した地図 ちず 製作 せいさく 者 しゃ を総称 そうしょう して「マヨルカ地図 ちず 製作 せいさく 学校 がっこう (英語 えいご 版 ばん ) 」と呼 よ ぶことがある[ 121] 。実際 じっさい に地図 ちず 製作 せいさく を学 まな ぶための学校 がっこう が設置 せっち されていたわけではないが、バレアレス諸島 しょとう からは優 すぐ れた地図 ちず 製作 せいさく 者 しゃ が数多 かずおお く生 う まれた。この時代 じだい の地図 ちず には地中海 ちちゅうかい ばかりではなく、紅海 こうかい 、黒海 こっかい 、バルト海 ばるとかい 、大西 おおにし 洋 ひろし 沿岸 えんがん も描 えが かれ、カタルーニャ語 ご 以外 いがい にはラテン語 らてんご も用 もち いられた[ 121] 。主要 しゅよう な地図 ちず 製作 せいさく 者 しゃ にはアンジェリ・ドゥセルト(Angelí Ducert)、ギリェム・ソレール(Guillem Soler)、ガブリエル・デ・バルセカ(Gabriel de Vallseca)などがいる[ 121] 。この時代 じだい の地図 ちず 製作 せいさく 者 しゃ の多 おお くは、後 のち にカトリック両 りょう 王 おう によってスペインから追放 ついほう されることになるユダヤ人 じん だった[ 121] 。
カタルーニャ語 ご の方言 ほうげん 分布 ぶんぷ 図 ず
スペインは全土 ぜんど でスペイン語 ご を公用 こうよう 語 ご としており、マヨルカ島 とう を含 ふく むバレアレス諸島 しょとう 州 しゅう はスペイン語 ご 以外 いがい にカタルーニャ語 ご も公用 こうよう 語 ご としている[ 122] [ 88] 。バレアレス諸島 しょとう 州 しゅう 自治 じち 憲章 けんしょう でカタルーニャ語 ご は「私 わたし たちの言語 げんご 」(llengua propia)とされている[ 122] 。島民 とうみん によって話 はな されるカタルーニャ語 ご マヨルカ方言 ほうげん はマヨルキ(Mallorqui)とも呼 よ ばれ、集落 しゅうらく ごとに発音 はつおん がわずかに異 こと なる。
地域 ちいき 言語 げんご に厳 きび しい政策 せいさく を取 と ったフランコ体制 たいせい は1930年代 ねんだい 末 まつ から35年 ねん 以上 いじょう 続 つづ いたため、マヨルカ島 とう 生 う まれの住民 じゅうみん はほぼ全員 ぜんいん がスペイン語 ご を話 はな すことができる[ 23] 。フランコ体制 たいせい 下 か で教育 きょういく を受 う けた住民 じゅうみん はカタルーニャ語 ご を読 よ んだり書 か いたりすることが困難 こんなん であるし、マヨルカ島 とう にある5つの日刊 にっかん 紙 し の中 なか にカタルーニャ語 ご で書 か かれている日刊 にっかん 紙 し は存在 そんざい しない[ 23] 。2012年 ねん 、バレアレス諸島 しょとう 州 しゅう 政府 せいふ の政権 せいけん 党 とう である国民党 こくみんとう (PP)は学校 がっこう でカタルーニャ語 ご を優先 ゆうせん 的 てき に扱 あつか うことを終了 しゅうりょう し、公用 こうよう 語 ご 二 に 言語 げんご を同格 どうかく に扱 あつか う意思 いし を発表 はっぴょう した。この発表 はっぴょう でかなり近 ちか い将来 しょうらい に「マヨルカ系 けい カタルーニャ人 じん 」は消滅 しょうめつ するだろうとされている[ 123] 。
かなりの数 かず の観光 かんこう 客 きゃく は英語 えいご の母語 ぼご 話者 わしゃ であり、観光 かんこう 客 きゃく の多 おお くはイギリスとアイルランドから、またアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく とカナダから来 く る。また、ドイツ語 ご 圏 けん からの観光 かんこう 客 きゃく も多 おお く、「マヨルカ島 とう はドイツの17番目 ばんめ の連邦 れんぽう 州 しゅう である」というジョークもある[ 124] [ 125] 。マヨルカ島 とう で発行 はっこう されている地元 じもと 紙 し のいくつかは、ドイツ語 ご 圏 けん や英語 えいご 圏 けん に関 かん するドイツ語 ご や英語 えいご の情報 じょうほう を含 ふく んでいる[ 126] 。新聞 しんぶん 販売 はんばい 店 てん やホテルなどでは国際 こくさい 的 てき な新聞 しんぶん を容易 ようい に得 え ることができ、本国 ほんごく からわずか数時間 すうじかん の遅 おく れでドイツ語 どいつご 紙 し や英語 えいご 紙 し を読 よ むことができる[ 126] 。
カタルーニャ語 ご の言語 げんご 政策 せいさく という観点 かんてん で、マヨルカ島 とう の住民 じゅうみん は親 おや カタルーニャ語 ご 派 は 、反 はん カタルーニャ語 ご 派 は 、無 む 関心 かんしん 派 は の3つに分類 ぶんるい されるが、もっとも多 おお いのは無 む 関心 かんしん 派 は である[ 127] 。親 おや カタルーニャ語 ご 派 は の中 なか にはフランコ体制 たいせい 下 か で投獄 とうごく されたり亡命 ぼうめい していた者 もの も多 おお い[ 127] 。カタルーニャ語 ご のテレビ番組 ばんぐみ の増加 ぞうか などを主張 しゅちょう し、カタルーニャ語 ご やカタルーニャ文化 ぶんか の促進 そくしん のためのイベントに資金 しきん を提供 ていきょう している[ 127] 。反 はん カタルーニャ語 ご 派 は は少数 しょうすう 派 は であるものの、カタルーニャ語 ご の看板 かんばん を破壊 はかい したり、カタルーニャ語 ご の放送 ほうそう 局 きょく であるTV3 (英語 えいご 版 ばん ) の受信 じゅしん 局 きょく を爆破 ばくは する事件 じけん を起 お こしている[ 127] 。
パルマ・デ・マヨルカ空港 くうこう
マヨルカ島 とう 初 はつ の民間 みんかん 飛行場 ひこうじょう はソン・ボネー飛行場 ひこうじょう (英語 えいご 版 ばん ) であり、1927年 ねん に初 はつ の商業 しょうぎょう 飛行 ひこう が行 おこな われた。1960年 ねん にパルマ・デ・マヨルカ空港 くうこう が開港 かいこう し、主要 しゅよう 空港 くうこう の座 ざ がソン・ボネー飛行場 ひこうじょう から移 うつ った。パルマ・デ・マヨルカ空港 くうこう はマドリード=バラハス空港 くうこう 、バルセロナ=エル・プラット空港 くうこう に次 つ いでスペインで3番目 ばんめ に旅客 りょかく 数 すう の多 おお い空港 くうこう であり[ 128] 、2014年 ねん の旅客 りょかく 数 すう は2310万 まん 人 にん だった[ 129] 。スペイン本土 ほんど やヨーロッパの主要 しゅよう 都市 とし との間 あいだ に定期 ていき 便 びん が就航 しゅうこう しており[ 13] 、イギリスのロンドン の諸 しょ 空港 くうこう や、ドイツのフランクフルト空港 くうこう から約 やく 2時 じ 間 あいだ 半 はん の距離 きょり にある。夏季 かき の数 すう か月 げつ 間 あいだ はヨーロッパでもっとも混雑 こんざつ する空港 くうこう のひとつであり、「夏季 かき にはパリ=オルリー空港 くうこう よりも発着 はっちゃく 便数 びんすう が多 おお い」と喧伝 けんでん されたこともある。国際 こくさい 便 びん には主 おも に大型 おおがた ジェット機 じぇっとき が使用 しよう される[ 130] 。
パルマ空港 くうこう から中心 ちゅうしん 市街地 しがいち までの距離 きょり はわずか10kmであり、高速 こうそく 道路 どうろ とバス路線 ろせん が通 つう じている[ 128] 。パルマ・デ・マヨルカ空港 くうこう の発着 はっちゃく 便数 びんすう の70%は定期 ていき 便 びん 以外 いがい のチャ ちゃ ータ た ー便 びん であるとされる。2007年 ねん 時点 じてん で、パルマ・デ・マヨルカ空港 くうこう には526便 びん /日 にち の定期 ていき 便 びん が設定 せってい されており、うち41便 びん はバルセロナ=エル・プラット空港 くうこう 行 い き、36便 びん はマドリード=バラハス空港 くうこう 行 い き、11便 びん はイビサ空港 くうこう 行 い き、7便 びん はメノルカ空港 くうこう 行 い きだった。バレアレス諸島 しょとう 内 ない の島 しま よりもバルセロナやマドリードとの結 むす びつきを志向 しこう しており、バレアレス諸島 しょとう 内 ない では主 おも に50人 にん 乗 の りの小型 こがた 機 き が運航 うんこう されているに過 す ぎない。イベリア航空 こうくう 、エア・ヨーロッパ などが小規模 しょうきぼ なターボプロップ 機 き を運航 うんこう し、パルマ・デ・マヨルカ空港 くうこう とバレアレス諸島 しょとう の各 かく 空港 くうこう を結 むす んでいる[ 130] 。
マヨルカ島 とう の鉄道 てつどう 網 もう
1875年 ねん 2月 がつ にはパルマとインカ を結 むす ぶマヨルカ島 とう 初 はつ の鉄道 てつどう が開業 かいぎょう した[ 131] 。軌間 きかん は914mm(狭軌 きょうき )であり、入手 にゅうしゅ が容易 ようい なイギリス製 せい の蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ や車両 しゃりょう を使用 しよう して投資 とうし 額 がく が抑 おさ えられた[ 131] 。アルター 、マナコール 、サ・ポブラ 、ファラニチュ 、サンタニー などの主要 しゅよう な町 まち にも鉄道 てつどう が通 つう じ、近代 きんだい 化 か の過程 かてい でメーターゲージへの変更 へんこう や気動車 きどうしゃ の導入 どうにゅう などがなされた[ 131] 。1960年代 ねんだい 末 まつ 以降 いこう には相次 あいつ いで路線 ろせん が廃止 はいし され、ソーリェル方面 ほうめん の路線 ろせん を除 のぞ けばインカ以外 いがい の主要 しゅよう な町 まち から鉄道 てつどう が失 うしな われたが、2000年代 ねんだい になって運行 うんこう 再開 さいかい が進 すす んでいる。今日 きょう のマヨルカ島 とう には、州 しゅう 政府 せいふ が運営 うんえい するマヨルカ鉄道 てつどう と民間 みんかん 企業 きぎょう のソーリェル鉄道 てつどう という2つの鉄道 てつどう 会社 かいしゃ がある[ 132] 。
マヨルカ鉄道 てつどう は郊外 こうがい 路線 ろせん 3系統 けいとう とパルマ・メトロ (英語 えいご 版 ばん ) (地下鉄 ちかてつ )2系統 けいとう を運行 うんこう している。郊外 こうがい 路線 ろせん はパルマから北東 ほくとう に向 む かって伸 の び、パルマと島内 とうない の他 た 地域 ちいき を結 むす んで高 こう 頻度 ひんど の運行 うんこう を行 おこな っている[ 132] 。1号線 ごうせん はパルマと島中 しまなか 央 ひさし 部 ぶ のインカを結 むす ぶ路線 ろせん である[ 132] 。インカからは2号線 ごうせん が北部 ほくぶ のサ・ポブラに、3号線 ごうせん が東部 とうぶ のマナコールに分岐 ぶんき している[ 132] 。2号線 ごうせん はアルクーディア まで、3号線 ごうせん はカラ・ラトゥハダまで延伸 えんしん する計画 けいかく がある[ 132] 。2007年 ねん にはパルマ・デ・マヨルカでパルマ・メトロ1号線 ごうせん が開業 かいぎょう し、市内 しない 中心 ちゅうしん 部 ぶ のスペイン広場 ひろば 駅 えき とバレアレス諸島 しょとう 大学 だいがく (UIB)最寄 もよ りのUIB駅 えき を結 むす んだ。2013年 ねん にはメトロ2号線 ごうせん が開業 かいぎょう し、スペイン広場 ひろば 駅 えき と市街地 しがいち 北東 ほくとう 部 ぶ のマラチ駅 えき を結 むす んだ。
ソーリェル鉄道 てつどう は1912年 ねん からパルマとトラムンターナ山脈 さんみゃく 内 ない にあるソーリェル を結 むす んでおり、保存 ほぞん 状態 じょうたい の良 よ い木製 もくせい の列車 れっしゃ が多 おお くの観光 かんこう 客 きゃく を運 はこ んでいる[ 132] 。ソーリェル駅 えき は1606年 ねん の建築 けんちく 物 ぶつ である[ 132] 。ソーリェルにはソーリェル鉄道 てつどう の他 ほか に1913年 ねん 10月 がつ に開業 かいぎょう したソーリェル路面 ろめん 電車 でんしゃ (英語 えいご 版 ばん ) もあり、ソーリェル市街地 しがいち の憲法 けんぽう 広場 ひろば とソーリェル港 こう を結 むす んでいる[ 132] 。
パルマ港 こう に停泊 ていはく 中 ちゅう のクルーズ船 せん
パルマ・デ・マヨルカのパルマ港 こう はバレアレス諸島 しょとう の最大 さいだい ・最 さい 重 じゅう 要港 ようこう であり、海運 かいうん 業 ぎょう 、漁業 ぎょぎょう 、クルーズ、旅客 りょかく 輸送 ゆそう 、軍事 ぐんじ 輸送 ゆそう に使用 しよう されている[ 133] 。スペイン本土 ほんど のバルセロナ 港 みなと 、バレンシア 港 みなと 、デニア 港 みなと からパルマ港 こう に向 む けて毎日 まいにち 定期 ていき 便 びん が運航 うんこう されている[ 133] 。一般 いっぱん 的 てき なフェリーの場合 ばあい はそれぞれの港 みなと から約 やく 5時 じ 間 あいだ かけてマヨルカ島 とう に到着 とうちゃく する[ 133] 。クルーズ会社 かいしゃ 数 すう 社 しゃ がパルマ港 みなと を寄 よせ 航 こう 港 こう として使用 しよう し、海運 かいうん 会社 かいしゃ 数 すう 社 しゃ がパルマ港 みなと を本拠地 ほんきょち として使用 しよう している[ 133] 。
夏季 かき にはバレアリア (英語 えいご 版 ばん ) 社 しゃ によってバルセロナと北岸 ほくがん のアルクーディア を直接 ちょくせつ 結 むす ぶフェリーが運航 うんこう されている。概 がい してフェリーの運賃 うんちん は航空機 こうくうき を使用 しよう するよりも安価 あんか である。北東 ほくとう 岸 がん にあるアルクーディア港 みなと からはメノルカ島 とう のシウタデリャ・デ・メノルカ とマオー=マオン に向 む かう定期 ていき 便 びん があり、約 やく 90分 ふん で両島 りょうしま を結 むす んでいる[ 133] 。パルマ港 こう とアルクーディア港 こう の利用 りよう 者 しゃ 数 すう を合計 ごうけい すると、年間 ねんかん 約 やく 80万 まん 人 にん がフェリーでマヨルカ島 とう に入島 にゅうじま している[ 133] 。アクシオナ 社 しゃ 、バレアリア社 しゃ 、イスコマール (英語 えいご 版 ばん ) 社 しゃ 、インテリリェス社 しゃ などがパルマ港 みなと に入港 にゅうこう する定期 ていき 便 びん を有 ゆう している[ 133] 。さらにパルマとイビサ島 とう のエイビッサ を結 むす ぶフェリーが毎日 まいにち 運航 うんこう されている[ 130] 。
ベルベル城 じょう
マヨルカ
島 とう 最高峰 さいこうほう である
プッジ・マジョー
ポリェンサのフルマントール岬 みさき 周辺 しゅうへん
ソーリェル港 こう
アンドラッチ城 じょう
バルデモーサにあるショパンのピアノ
ロブスターの煮込 にこ み
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