マラウイで発掘 はっくつ されたヒト科 か 動物 どうぶつ の下 しも 顎 あご の化石 かせき
チョンゴニの岩 いわ 絵 え 地域 ちいき の壁画 へきが
人類 じんるい の祖先 そせん として現在 げんざい 知 し られている中 なか で最古 さいこ のものは、ケニア のトゥゲン丘陵 きゅうりょう で発見 はっけん されたおよそ600万 まん 年 ねん 前 まえ のオロリン・トゥーゲネンシスであるが[1] 、マラウイで発見 はっけん されたヒト科 か 動物 どうぶつ 遺骸 いがい と石器 せっき は、考古学 こうこがく 的 てき 調査 ちょうさ から100万 まん 年 ねん 以上 いじょう 昔 むかし のものであることが明 あき らかとなっている[2] 。また、およそ6万 まん 年 ねん から5万 まん 年 ねん 前 まえ の原始 げんし 人類 じんるい がマラウイ湖 こ 周辺 しゅうへん に住 す んでいたことが判明 はんめい している。さらに、紀元前 きげんぜん 8000年 ねん 頃 ごろ と推定 すいてい されたヒトの遺骸 いがい の身体 しんたい 的 てき 特徴 とくちょう は、現在 げんざい のアフリカの角 かく に暮 く らす人々 ひとびと と類似 るいじ していることが分 わ かったほか、別 べつ の地点 ちてん から発見 はっけん された紀元前 きげんぜん 1500年 ねん 頃 ごろ の遺骸 いがい は、サン人 じん に近 ちか い特徴 とくちょう が見 み られたことが報告 ほうこく されている[3] [4] 。
小柄 こがら な体躯 たいく と銅 どう 色 しょく の肌 はだ を持 も つサン人 じん は現在 げんざい いくつかのグループに分 わ かれているが、現在 げんざい のマラウイに住 す む彼 かれ らの子孫 しそん はトゥワ と呼 よ ばれる狩猟 しゅりょう 採集 さいしゅう 民族 みんぞく グループを形成 けいせい している[5] 。2006年 ねん に世界 せかい 遺産 いさん となった中部 ちゅうぶ 州 しゅう のデッザ 県 けん にあるチョンゴニの岩 いわ 絵 え 地域 ちいき の狩猟 しゅりょう 絵 え は、トゥワの祖先 そせん が描 えが いたものである[6] 。
17世紀 せいき 半 なか ばのマラビ帝国 ていこく の領土 りょうど
現在 げんざい のマラウイの国家 こっか 名 めい であるMalawi は、かつてこの地域 ちいき に存在 そんざい したマラビ帝国 ていこく (Maravi )の語 かたり に由来 ゆらい するものである[7] 。マラビ帝国 ていこく として知 し られるこの国家 こっか は、15世紀 せいき 終 お わりごろにバントゥー系 けい 民族 みんぞく のマラビ族 ぞく によって建国 けんこく された。現在 げんざい のチェワ族 ぞく の先祖 せんぞ として知 し られるマラビ族 ぞく は、現在 げんざい のコンゴ共和 きょうわ 国 こく がある地域 ちいき から、病気 びょうき や社会 しゃかい 的 てき 騒乱 そうらん から逃 のが れるためにマラウイ湖 こ の北側 きたがわ 地域 ちいき まで移住 いじゅう してきた[8] 。そのため、"Chewa"の語 かたり は"外国 がいこく 人 じん "を意味 いみ する単語 たんご であるとの説 せつ がある[9] 。移住 いじゅう した先 さき でマラビ族 ぞく は、統一 とういつ 的 てき な防衛 ぼうえい 組織 そしき を持 も たずに小規模 しょうきぼ な家族 かぞく のクラン を構成 こうせい して生活 せいかつ する先住民 せんじゅうみん 族 ぞく のトゥワ を攻撃 こうげき して追 お い詰 つ め、殲滅 せんめつ していった。なお、このマラビ帝国 ていこく の人々 ひとびと は、製鉄 せいてつ 業 ぎょう に携 たずさ わっていたことが知 し られている[10] 。また、マラビとは"光線 こうせん "を意味 いみ すると考 かんが えられ、この国名 こくめい は多 おお くの窯 かま が夜空 よぞら を照 て らす姿 すがた から由来 ゆらい した可能 かのう 性 せい がある。
マラウイ湖 こ の南西 なんせい 部 ぶ の海岸 かいがん で発足 ほっそく したマラビ帝国 ていこく は、最終 さいしゅう 的 てき にはマラウイのほかに現代 げんだい のモザンビーク やザンビア の一部 いちぶ を含 ふく む、広大 こうだい な領土 りょうど を持 も つ国家 こっか へと成長 せいちょう した。このマラビ帝国 ていこく が発展 はってん していた期間 きかん の支配 しはい 者 しゃ は、フィリ(Phiri)の氏族 しぞく に属 ぞく するカロンガ(Kalonga)の肩書 かたが きを持 も つものであり、自 みずか らの居住 きょじゅう 地 ち をマンチンバ(Manthimba)に置 お いた。カロンガの指揮 しき の下 した 、新 あら たな領土 りょうど を占有 せんゆう し、征服 せいふく するための下位 かい 首長 しゅちょう が任命 にんめい されていた。しかし、任命 にんめい を受 う けた下位 かい 首長 しゅちょう 同士 どうし の争 あらそ いや奴隷 どれい 貿易 ぼうえき の影響 えいきょう を受 う けてカロンガの権威 けんい は低下 ていか し、18世紀 せいき 初頭 しょとう の頃 ころ からマラビ帝国 ていこく は衰退 すいたい し始 はじ めた[9] 。
奴隷 どれい 船 せん の一 いち 例 れい
発足 ほっそく 当初 とうしょ の頃 ころ のマラビ帝国 ていこく の経済 けいざい は大 だい 部分 ぶぶん を農業 のうぎょう に依存 いぞん しており、雑穀 ざっこく やモロコシ の生産 せいさん を主 しゅ として行 い っていた。ヨーロッパ 人 ひと との接触 せっしょく が初 はじ めてあったのはマラビ帝国 ていこく 治 ち 政 せい 下 か の16世紀 せいき のことであり、その後 ご 幾 いく 度 ど かの接触 せっしょく がポルトガル 人 ひと によって行 おこな われた記録 きろく が残 のこ されている[3] [11] 。マラビ帝国 ていこく の領土 りょうど は16世紀 せいき 半 なか ばには現在 げんざい のモザンビーク東部 とうぶ の海岸 かいがん 域 いき まで達 たっ しており、マラビ族 ぞく は象牙 ぞうげ や鉄 てつ 、奴隷 どれい などを交易 こうえき 品 ひん としてポルトガル 人 ひと やアラブ 人 ひと と貿易 ぼうえき を行 おこな っていた[11] 。この貿易 ぼうえき により、マラビ帝国 ていこく 全土 ぜんど の共通 きょうつう 語 ご としてチェワ語 ご の普及 ふきゅう が一層 いっそう 進 すす んだとされる。
16世紀 せいき になるとポルトガル人 じん は現在 げんざい のモザンビークのテテ 経由 けいゆ してマラビ帝国 ていこく の領土 りょうど へと到達 とうたつ し、この国 くに に住 す む人々 ひとびと に関 かん する文章 ぶんしょう 報告 ほうこく をヨーロッパ人 じん として初 はじ めて行 い った[11] 。また、ポルトガル人 じん はこの地域 ちいき に初 はじ めてトウモロコシ を持 も ち込 こ み、後 のち にトウモロコシはそれまでこの地域 ちいき で主食 しゅしょく とされていたモロコシに代 か わり、主食 しゅしょく の地位 ちい を占 し めることとなった[12] 。マラビ族 ぞく はまたポルトガルとの間 あいだ に奴隷 どれい 貿易 ぼうえき を行 おこな い[13] 、売却 ばいきゃく された奴隷 どれい は主 おも にポルトガルの植民 しょくみん 地 ち であったモザンビークやブラジル のプランテーション での労働 ろうどう に従事 じゅうじ させられた。
ズールー人 じん の王 おう 、シャカ・ズールー
マラビ帝国 ていこく の衰退 すいたい は、2つの強大 きょうだい な他 た 民族 みんぞく の登場 とうじょう と関連 かんれん している。その一方 いっぽう は、現在 げんざい の南 みなみ アフリカ共和 きょうわ 国 こく のクワズール・ナタール州 しゅう に該当 がいとう する地域 ちいき からマラビ帝国 ていこく へやってきた、ズワンゲンダバ (en:Zwangendaba )率 ひき いるンゴニ族 ぞく である。このンゴニ族 ぞく の移住 いじゅう は、ズールー人 じん の王 おう をめぐりシャカ・ズールー とズウィデが争 あらそ い、ズウィデが敗 やぶ れたことに起因 きいん する。ズウィデの配下 はいか であったズワンゲンダバは、シャカ・ズールーとの戦 たたか いを続 つづ けたが一方 いっぽう 的 てき に押 お され続 つづ け、最終 さいしゅう 的 てき には北方 ほっぽう へ逃 のが れるためのムフェチャネ(en:mfecane )と呼 よ ばれる大 だい 移動 いどう を行 おこな ったのである[14] 。このムフェチャネは、マラビ帝国 ていこく を含 ふく めた南部 なんぶ アフリカ地域 ちいき に多大 ただい な影響 えいきょう を与 あた えた。シャカの軍勢 ぐんぜい と戦闘 せんとう を行 おこな っていた期間 きかん 、ンゴニ族 ぞく は軍事 ぐんじ 的 てき 戦略 せんりゃく としてマラビ帝国 ていこく に対 たい し度々 どど の攻撃 こうげき や占領 せんりょう を行 おこな った。その後 ご 、ンゴニ族 ぞく は岩山 いわやま 地帯 ちたい に定住 ていじゅう すると、食料 しょくりょう の略奪 りゃくだつ や奴隷 どれい の獲得 かくとく を目的 もくてき として、マラビ帝国 ていこく へ毎年 まいとし 攻 せ め込 こ むようになった。ンゴニ族 ぞく は、獲得 かくとく した奴隷 どれい の大 だい 部分 ぶぶん を軍隊 ぐんたい を養 やしな うための食料 しょくりょう の生産 せいさん に従事 じゅうじ させ、子供 こども の場合 ばあい は戦士 せんし として養育 よういく した。また、一部 いちぶ は奴隷 どれい 商人 しょうにん への売却 ばいきゃく を行 おこな った[15] 。
マラビ帝国 ていこく の衰退 すいたい に影響 えいきょう を与 あた えたもう一方 いっぽう の民族 みんぞく が、周辺 しゅうへん 地域 ちいき に強 つよ い力 ちから を及 およ ぼしていたヤオ族 ぞく である。ヤオ族 ぞく は、マクア族 ぞく (Makua tribe )との戦闘 せんとう や飢餓 きが から逃 のが れるために、モザンビークの北部 ほくぶ からマラビ帝国 ていこく へと移住 いじゅう してきた民族 みんぞく である[16] 。マクア族 ぞく は、ヤオ族 ぞく がザンジバル のアラブ人 じん 商人 しょうにん との象牙 ぞうげ や奴隷 どれい の交易 こうえき によって富 とみ を蓄 たくわ えていたため[17] 、敵 てき として襲撃 しゅうげき を行 おこな うようになった。ヤオ族 ぞく はマラビ帝国 ていこく への移住 いじゅう を行 おこな った後 のち すぐに、マラビ族 ぞく とンゴニ族 ぞく の双方 そうほう を襲撃 しゅうげき して捕虜 ほりょ を獲得 かくとく し、後 のち に奴隷 どれい としてアラブ人 じん やスワヒリ人 じん へ売却 ばいきゃく した[18] 。なお、ヤオ族 ぞく は他 た 民族 みんぞく との紛争 ふんそう に銃 じゅう を使用 しよう した[19] 、最初 さいしょ 且 か つ長 なが らく唯一 ゆいいつ の民族 みんぞく であった。1870年 ねん にヤオ族 ぞく の支配 しはい 者 しゃ 階級 かいきゅう の人々 ひとびと は、伝統 でんとう 的 てき なアニミズム 信仰 しんこう よりも、貿易 ぼうえき のパートナーであるアラブ人 じん の宗教 しゅうきょう であるイスラム教 いすらむきょう を信仰 しんこう するようになった[20] 。ヤオ族 ぞく がイスラム教 いすらむきょう へと改宗 かいしゅう したことによる利益 りえき として、読 よ み書 か きの教育 きょういく やモスク 設立 せつりつ の協力 きょうりょく を行 おこな うシャイフ の指導 しどう を受 う けることができた。また、アラブ人 じん の貿易 ぼうえき 商 しょう はヤオ族 ぞく に稲作 いなさく を紹介 しょうかい し、この影響 えいきょう で現在 げんざい でもマラウイ湖 こ 南部 なんぶ 域 いき では稲作 いなさく が比較的 ひかくてき 盛 さか んに行 おこな われている。
ヤオ族 ぞく (或 あるい はチェワ人 じん [21] )との強 つよ いパートナーシップを背景 はいけい として、アラブ人 じん の貿易 ぼうえき 商 しょう はマラウイ湖 こ の沿岸 えんがん 地域 ちいき に何 なん 箇所 かしょ かの交易 こうえき 所 しょ を設立 せつりつ した。これらのうち最大 さいだい のものは1840年 ねん にアラブ人 じん 貿易 ぼうえき 商 しょう のジュンベ(スワヒリ語 ご で首長 しゅちょう 、Jumbe, Salim Bin Abdalla )によりコタコタ に建設 けんせつ されたものである[22] 。ジュンベは、毎年 まいとし 5000人 にん から20000人 にん の奴隷 どれい をコタコタへ集 あつ め、コタコタからはキャラバン を組 く んで一 いち 度 ど に500人 にん 程度 ていど の奴隷 どれい を輸送 ゆそう し、現在 げんざい のタンザニアのリンディ州 しゅう キルワ県 けん の海岸 かいがん 沖 おき にあるキルワ島 とう へ一 いち 度 ど 運 はこ び込 こ んだ。この効率 こうりつ 的 てき な奴隷 どれい 集 あつ めの手法 しゅほう が確立 かくりつ したことで、奴隷 どれい 貿易 ぼうえき の主体 しゅたい はモザンビークのポルトガル人 じん からザンジバル のアラブ人 じん へと移 うつ っていった。
ヤオ族 ぞく とンゴニ族 ぞく は互 たが いに幾度 いくど も争 あらそ いを繰 く り返 かえ したものの、いずれの民族 みんぞく も決定的 けっていてき な勝利 しょうり を収 おさ めることは出来 でき なかった。マラビ帝国 ていこく に住 す むその他 た の民族 みんぞく は、そのほとんどが両 りょう 民族 みんぞく からの攻撃 こうげき により壊滅 かいめつ した。マラビ族 ぞく の首長 しゅちょう のうちの幾 いく 人 にん かは、アラブの奴隷 どれい 商人 しょうにん と同盟 どうめい を結 むす んだスワヒリ人 じん 同士 どうし で同盟 どうめい を結 むす び、自 みずか らの部族 ぶぞく の身 み を守 まも った。
ヨーロッパ人 じん の探検 たんけん 家 か 、宣教師 せんきょうし 、貿易 ぼうえき 商 しょう
編集 へんしゅう
デイヴィッド・リヴィングストン の肖像 しょうぞう
ポルトガル 人 ひと は16世紀 せいき 中 ちゅう にマラビ帝国 ていこく と接触 せっしょく していたものの、マラビ族 ぞく の指導 しどう 者 しゃ 層 そう まで手 て を伸 の ばすことが出来 でき なかった。その結果 けっか 、ヨーロッパ人 じん として初 はじ めてマラウイ湖 こ へ至 いた り、彼 かれ らと歴史 れきし 上 じょう 重要 じゅうよう な接触 せっしょく を行 おこな ったのは、イギリスの探検 たんけん 家 か で宣教師 せんきょうし のデイヴィッド・リヴィングストン となった。リヴィングストンがザンベジ川 かわ を蒸気 じょうき 船 せん で遡 さかのぼ り、マラウイ湖 こ とその周辺 しゅうへん を探検 たんけん したのは1859年 ねん のことであった[23] 。この探検 たんけん においてマラウイ湖 こ をヨーロッパ人 じん として初 はじ めて発見 はっけん したリヴィングストンは、ヤオ族 ぞく の言語 げんご であるヤオ語 ご で湖 みずうみ を意味 いみ するNyasa から、ニヤサ湖 こ と命名 めいめい している[24] 。なお、奴隷 どれい 貿易 ぼうえき に反対 はんたい していたリヴィングストンは、奴隷 どれい 商人 しょうにん による探検 たんけん の妨害 ぼうがい を受 う けたほか、探検 たんけん の途中 とちゅう に幾 いく 人 にん かの従者 じゅうしゃ に見放 みはな されて虚偽 きょぎ の死亡 しぼう 説 せつ を報告 ほうこく されたり、1867年 ねん のクリスマスには医療 いりょう 用 よう カバンを盗 ぬす まれたりした[25] 。その後 ご 、リヴィングストンは1873年 ねん にマラリアで没 ぼっ した。彼 かれ の生前 せいぜん の功績 こうせき を称 とな え、1876年 ねん には出身 しゅっしん 地 ち のブランタイア にちなんだブランタイヤ の町 まち が設立 せつりつ されたほか、1894年 ねん には彼 かれ の名 な にちなんだリビングストニア の町 まち がスコットランド自由 じゆう 教会 きょうかい の宣教師 せんきょうし により設立 せつりつ されている[26] 。
聖 ひじり ミカエル及諸天使 てんし 教会 きょうかい
リヴィングストンの探検 たんけん 以降 いこう 、スコットランド 長老 ちょうろう 派 は 教会 きょうかい が、1876年 ねん にブランタイヤ へ聖 ひじり ミカエル及諸天使 てんし 教会 きょうかい (en:St Michael and All Angels Church, Blantyre, Malawi )設立 せつりつ を行 おこな ったほか、聖 せい 公会 こうかい の宣教師 せんきょうし がリコマ島 とう へ教会 きょうかい の設立 せつりつ を行 おこな った。これらのイギリス人 じん 宣教師 せんきょうし 達 たち の目的 もくてき のひとつには、19世紀 せいき 末 まつ まで続 つづ くこととなるペルシア湾 わん における奴隷 どれい 貿易 ぼうえき を終 お わらせることがあった。イギリス本国 ほんごく では既 すで に1834年 ねん までに奴隷 どれい 貿易 ぼうえき の廃止 はいし を決定 けってい しており[27] 、アフリカ沿岸 えんがん 地域 ちいき において他国 たこく の奴隷 どれい 貿易 ぼうえき の取締 とりしま りを行 おこな っていたのである。1878年 ねん には、主 おも にグラスゴー 出身 しゅっしん の貿易 ぼうえき 商 しょう を中心 ちゅうしん として、宣教師 せんきょうし 達 たち への商品 しょうひん の供給 きょうきゅう や援助 えんじょ を目的 もくてき としたアフリカン・レイク (en:African Lakes Company )が設立 せつりつ された[28] 。この動 うご きに対 たい し、その他 た の宣教師 せんきょうし 、貿易 ぼうえき 商 しょう 、猟師 りょうし 、農園 のうえん 主 ぬし などもこれに追随 ついずい していった。
イギリス中央 ちゅうおう アフリカ保護 ほご 領 りょう の紋章 もんしょう
1883年 ねん 、イギリス の領事 りょうじ は"Kings and Chiefs of Central Africa"を任命 にんめい され、1891年 ねん にはポルトガルとの間 あいだ に英 えい 葡危機 き (Anglo-Portuguese Crisis)を経 へ た後 のち 、同年 どうねん 中 ちゅう にシーレ高地 こうち 保護 ほご 領 りょう を宣言 せんげん 、1893年 ねん にはイギリス中央 ちゅうおう アフリカ保護 ほご 領 りょう を設立 せつりつ した[29] 。このイギリス中央 ちゅうおう アフリカ保護 ほご 領 りょう は1893年 ねん から1907年 ねん まで続 つづ いたが、この期間 きかん に施行 しこう された法律 ほうりつ や行政 ぎょうせい 手続 てつづ きにより、入植 にゅうしょく した白人 はくじん の優遇 ゆうぐう 政策 せいさく のほか、先住民 せんじゅうみん 族 ぞく の所有 しょゆう する土地 とち の奪取 だっしゅ や権限 けんげん の削減 さくげん などが行 おこな われていった。また、この期間 きかん にコーヒー の栽培 さいばい が始 はじ められており、現在 げんざい でもマラウイの有力 ゆうりょく な換金 かんきん 作物 さくもつ の1つとなっている。
なお、このイギリスによる保護 ほご 領 りょう 時代 じだい は1963年 ねん 末 まつ まで続 つづ くこととなる。
1907年 ねん 10月 がつ 、イギリス中央 ちゅうおう アフリカ保護 ほご 領 りょう はニヤサランド もしくはニヤサランド保護 ほご 領 りょう と改名 かいめい された。なお、ニヤサ (Nyasa )とは、ヤオ族 ぞく の言葉 ことば で湖 みずうみ を指 さ す[24] 。
? ニヤサランドの国旗 こっき
1914年 ねん に第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が始 はじ まると、アフリカ大陸 たいりく 各地 かくち でも中央 ちゅうおう 同盟 どうめい 国 こく 側 がわ であったドイツの各 かく 植民 しょくみん 地 ち と、連合 れんごう 国 こく 側 がわ であったイギリス、フランス、ポルトガルなどの植民 しょくみん 地 ち との間 あいだ で戦闘 せんとう が発生 はっせい した(詳 くわ しくはアフリカ戦線 せんせん (第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ) を参照 さんしょう のこと)。ニヤサランドもドイツ領 りょう 東 ひがし アフリカ との間 あいだ に戦闘 せんとう を行 おこな い、黒人 こくじん 兵 へい や民間 みんかん 人 じん にも多 おお くの犠牲 ぎせい を出 だ した。
また、マラウイにおいて独立 どくりつ 運動 うんどう の先駆 さきが けとなる叛乱 はんらん が、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう の1915年 ねん に起 お きている。この叛乱 はんらん を率 ひき いたジョン・チレンブウェ は、アメリカのヴァージニア神学校 しんがっこう (Virginia Theological College )で学 まな んだ後 のち にニヤサランドへ帰国 きこく し、牧師 ぼくし を務 つと めていた人物 じんぶつ である。本来 ほんらい はヨーロッパ人 じん 同士 どうし の争 あらそ いである第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん へアフリカ人 じん が巻 ま き込 こ まれることに疑問 ぎもん を抱 だ いたチレンブウェは、部族 ぶぞく の壁 かべ を越 こ えてヨーロッパ人 じん への叛乱 はんらん を行 おこな った。1915年 ねん 1月 がつ 23日 にち に始 はじ まったこの叛乱 はんらん は、翌月 よくげつ の2月 がつ 4日 にち にチレンブウェがアフリカ人 じん 兵士 へいし に射殺 しゃさつ されたことで終 お わりを迎 むか えた[30] 。
当初 とうしょ 、白人 はくじん 入植 にゅうしょく 者 しゃ に搾取 さくしゅ される一 いち 方 ぽう であった黒人 こくじん たちであったが、チレンブウェのようにヨーロッパ やアメリカ で教育 きょういく を受 う けたアフリカ人 じん のエリート 達 いたる が段々 だんだん と、アフリカ人 じん として主張 しゅちょう し、政治 せいじ 的 てき 活動 かつどう を行 おこな うようになっていった。そして、1944年 ねん には初 はつ の政治 せいじ 組織 そしき であるニヤサランドアフリカ人 じん 会議 かいぎ (NAC) が結成 けっせい され、後 ご のマラウイ会議 かいぎ 党 とう となり、1964年 ねん にマラウイを独立 どくりつ させる原動力 げんどうりょく となった[31]
なお、チレンブウェの死 し から50年 ねん 後 ご の1965年 ねん 、マラウイが独立 どくりつ をとげた翌年 よくねん に当 あ たるこの年 とし にはヘイスティングズ・カムズ・バンダ 大統領 だいとうりょう により、マラウイ独立 どくりつ 運動 うんどう の先駆 せんく 者 しゃ としてチレンブウェの肖像 しょうぞう 画 が を載 の せた切手 きって が発行 はっこう された。その後 ご 、毎年 まいとし 1月 がつ 15日 にち は"ジョン・チレンブウェの日 ひ "(John Chilembwe Day )としてマラウイの祝日 しゅくじつ となったほか[32] 、現行 げんこう のマラウイ紙幣 しへい にもチレンブウェの肖像 しょうぞう 画 が が載 の せられている。
ローデシア・ニヤサランド連邦 れんぽう の国 くに 章 あきら
? ローデシア・ニヤサランド連邦 れんぽう の国旗 こっき
1940年代 ねんだい 後半 こうはん 、飛躍 ひやく 的 てき な経済 けいざい 発展 はってん を遂 と げた南 みなみ ローデシア は、北 きた ローデシア の資源 しげん とニヤサランドの黒人 こくじん の労働 ろうどう 力 りょく の獲得 かくとく 、および、アフリカ人 じん の民族 みんぞく 主義 しゅぎ を阻害 そがい する目的 もくてき で、これら3つのイギリス領 りょう による連邦 れんぽう 制 せい の構築 こうちく を主張 しゅちょう し、これを受 う けて1953年 ねん 8月 がつ 1日 にち にローデシア・ニヤサランド連邦 れんぽう が成立 せいりつ した[33] 。しかし、成立 せいりつ した連邦 れんぽう では南 みなみ ローデシアの白人 はくじん 入植 にゅうしょく 者 しゃ を優遇 ゆうぐう する政策 せいさく が多 おお く、人口 じんこう の99%以上 いじょう を黒人 こくじん が占 し めるニヤサランドには連邦 れんぽう 制 せい のメリットが少 すく なかったことや、アフリカ諸国 しょこく で独立 どくりつ への機運 きうん が高 たか まっていたことがあり、1959年 ねん にはニヤサランド内 ない で叛乱 はんらん が発生 はっせい することとなった[34] 。
また、その前年 ぜんねん の1958年 ねん 7月 がつ 29日 にち には、アメリカ テネシー州 しゅう のナッシュビル にあるメハリー医科 いか 大学 だいがく (en:Meharry Medical College )で1937年 ねん に学位 がくい を取得 しゅとく し、イギリスとガーナ で診療 しんりょう 所 しょ を開 ひら いていたヘイスティングズ・カムズ・バンダ がニヤサランドへ帰国 きこく [35] 。その後 ご すぐにニヤサランドアフリカ人 じん 会議 かいぎ の指導 しどう 者 しゃ へと就任 しゅうにん した[33] 。同 どう 会議 かいぎ は翌年 よくねん にバンダを含 ふく む主要 しゅよう メンバーの逮捕 たいほ により瓦解 がかい しかけるが、逮捕 たいほ されなかった残 のこ りのメンバーによりマラウイ会議 かいぎ 党 とう (MCP) が結成 けっせい された。バンダは北 きた ローデシアのグウェロ 刑務所 けいむしょ (Gwelo Prison)へ送 おく られたものの、翌 よく 1960年 ねん には出所 しゅっしょ してマラウイ会議 かいぎ 党 とう の指導 しどう 者 しゃ に就任 しゅうにん [33] するとともに、ロンドン で行 おこな われた連邦 れんぽう の憲法 けんぽう に関 かん する協議 きょうぎ 会 かい に出席 しゅっせき した。
1961年 ねん 4月 がつ 15日 にち 、バンダ率 ひき いるマラウイ会議 かいぎ 党 とう は、新 あら たに制定 せいてい された憲法 けんぽう の下 した で行 おこな われた1961年 ねん ニヤサランド立法 りっぽう 議会 ぎかい 選挙 せんきょ に圧勝 あっしょう した[36] 。バンダは立法 りっぽう 議会 ぎかい で重要 じゅうよう な役割 やくわり を得 え て、1年 ねん 後 ご の1962年 ねん には実質 じっしつ 的 てき なニヤサランドの統治 とうち 者 しゃ となっていた。また、1962年 ねん 11月にロンドンで第 だい 2回 かい 目 め の憲法 けんぽう 協議 きょうぎ 会 かい が行 おこな われ、イギリス政府 せいふ は翌 よく 1963年 ねん からニヤサランドに、自治 じち 権 けん を与 あた えることに同意 どうい した。
1963年 ねん 2月 がつ 1日 にち に、ヘイスティングズ・カムズ・バンダは首相 しゅしょう へと就任 しゅうにん したが、イギリスは依然 いぜん としてニヤサランドの経済 けいざい 、国防 こくぼう 、司法 しほう などをコントロールしたままであった。完全 かんぜん な自治 じち 権 けん を獲得 かくとく するために、ニヤサランド自治領 じちりょう 政府 せいふ は1963年 ねん 5月 がつ に、新 あら たな憲法 けんぽう を発布 はっぷ した。また、1963年 ねん には連邦 れんぽう 離脱 りだつ 権 けん をイギリスから獲得 かくとく し、ローデシア 連邦 れんぽう とニヤサランドは1963年 ねん 12月31日 にち に分離 ぶんり した[33] 。
マラウイ共和 きょうわ 国 こく の国旗 こっき
1964年 ねん 7月 がつ 6日 にち 、マラウイはイギリス連邦 れんぽう 内 うち の英 えい 連邦 れんぽう 王国 おうこく として独立 どくりつ を果 は たした。なお、独立 どくりつ の直前 ちょくぜん に行 おこな われた1964年 ねん マラウイ総 そう 選挙 せんきょ では、全 ぜん 選挙 せんきょ 地区 ちく においてマラウイ会議 かいぎ 党 とう の候補 こうほ 以外 いがい の出馬 しゅつば が無 な かったため、マラウイは独立 どくりつ 時点 じてん から一 いち 党 とう 制 せい の政治 せいじ が行 おこな われることとなった[37] [38] 。なお、それから2年 ねん 後 ご の1966年 ねん に、憲法 けんぽう でマラウイ会議 かいぎ 党 とう 以外 いがい の政党 せいとう 結成 けっせい が禁止 きんし され、一 いち 党 とう 制 せい 体制 たいせい が法的 ほうてき に確立 かくりつ された。また、1966年 ねん にマラウイは共和 きょうわ 制 せい を採用 さいよう して現在 げんざい のマラウイ共和 きょうわ 国 こく となり、バンダは首相 しゅしょう から大統領 だいとうりょう へと就任 しゅうにん した[39] 。
このマラウイ会議 かいぎ 党 とう による一 いち 党 とう 体制 たいせい は、1993年 ねん の国民 こくみん 投票 とうひょう の結果 けっか 、多党 たとう 制 せい が導入 どうにゅう されるまでの30年 ねん 近 ちか くに渡 わた って維持 いじ されることとなる。
マラウイの初代 しょだい 大統領 だいとうりょう 、ヘイスティングズ・カムズ・バンダ の像 ぞう 。
1970年 ねん にバンダはマラウイ会議 かいぎ 党 とう の終身 しゅうしん 党首 とうしゅ となり、翌 よく 1971年 ねん には国会 こっかい でバンダを終身 しゅうしん 大統領 だいとうりょう とすることが議決 ぎけつ された。また、マラウイ会議 かいぎ 党 とう 下 か の民兵 みんぺい 組織 そしき であるYoung Pioneers を結成 けっせい し、1990年代 ねんだい まで国家 こっか のコントロールを権威 けんい 主義 しゅぎ 的 てき に行 い った。
バンダは、常 つね に自身 じしん を"終身 しゅうしん 大統領 だいとうりょう ングワジ・ヘイスティングズ・カムズ・バンダ博士 はかせ 閣下 かっか "[40] と呼称 こしょう させる独裁 どくさい 者 しゃ であった。バンダへの忠誠 ちゅうせい はあらゆる場面 ばめん で要求 ようきゅう された。全 すべ ての商業 しょうぎょう ビルにはバンダの公式 こうしき 写真 しゃしん を壁 かべ に掛 か けることが要求 ようきゅう され、その他 た のポスター や時計 とけい 、絵画 かいが など一切 いっさい のものを、バンダの写真 しゃしん より上部 じょうぶ に設置 せっち することが禁止 きんし された。また、映画 えいが や演劇 えんげき 、学校 がっこう の集会 しゅうかい など、ほぼ全 すべ ての催 もよお し物 もの の前 まえ には国歌 こっか が演奏 えんそう されたほか、映画 えいが 館 かん においては国歌 こっか の演奏 えんそう 中 ちゅう はスクリーンにバンダ大統領 だいとうりょう が国民 こくみん に手 て を振 ふ るシーンが流 なが されていた。バンダが町 まち を訪 おとず れる際 さい には、地域 ちいき の女性 じょせい らが空港 くうこう へ迎 むか えに上 あ がってダンスを行 おこな う必要 ひつよう があり、その折 おり には、特別 とくべつ な服装 ふくそう とバンダの公式 こうしき 写真 しゃしん の掲揚 けいよう を行 おこな うことが要求 ようきゅう された。さらに、国 くに で唯一 ゆいいつ のラジオ 放送 ほうそう は、大統領 だいとうりょう のスピーチと政府 せいふ のプロパガンダ を放送 ほうそう していた。
また、バンダは女性 じょせい がズボン を履 は くことと、膝 ひざ が露出 ろしゅつ するようなスカート を履 は くことを法律 ほうりつ により禁止 きんし した[41] 。また、男性 だんせい の場合 ばあい は髪 かみ の毛 け を襟首 えりくび より下 した に伸 の ばすことが禁 きん じられていた[42] 。教会 きょうかい の認可 にんか は政府 せいふ が行 おこな い、エホバの証人 しょうにん のような特定 とくてい の宗教 しゅうきょう 団体 だんたい に所属 しょぞく する人物 じんぶつ は迫害 はくがい され、周辺 しゅうへん の国 くに へと追 お い出 だ された。また、全 すべ てのインド 系 けい のマラウイ市民 しみん は、家 いえ や職場 しょくば から強制 きょうせい 的 てき に立 た ち退 たい かされ、大 おお きな都市 とし のインド人 じん 居住 きょじゅう 区 く へと移住 いじゅう させられた。さらに、移住 いじゅう を行 おこな うことのほか、個人 こじん 資産 しさん を海外 かいがい へ持 も ち出 だ すことや、他国 たこく の通貨 つうか を持 も ち込 こ むことは法律 ほうりつ で禁 きん じられていた。そのため、資産 しさん や収入 しゅうにゅう を手放 てばな さなければ、マラウイを去 さ ることができなかった上 うえ 、ほとんど全 すべ ての財産 ざいさん を手放 てばな し、海外 かいがい でやり直 なお したいと考 かんが えた人々 ひとびと にすら、海外 かいがい 渡航 とこう ビザ はめったに下 お りなかった。なお、全 すべ ての旅行 りょこう 者 しゃ は飛行機 ひこうき での出入国 しゅつにゅうこく に際 さい して手荷物 てにもつ の検査 けんさ を受 う けた。
全 すべ ての映画 えいが は映画 えいが 館 かん で上映 じょうえい されるより前 まえ に、マラウイ検閲 けんえつ 委員 いいん 会 かい によるチェックが行 おこな われていた。ヌード や政治 せいじ 的 てき な題材 だいざい など、検閲 けんえつ 委員 いいん 会 かい により不適切 ふてきせつ と考 かんが えられた作品 さくひん は当該 とうがい 場面 ばめん の編集 へんしゅう を受 う けた。また、手紙 てがみ も検閲 けんえつ 委員 いいん 会 かい によって監 かん 視 し されていた。海外 かいがい との手紙 てがみ のやり取 と りの場合 ばあい 、開封 かいふう され、読 よ まれたうえ、時 とき には編集 へんしゅう を受 う けていた。ビデオテープ についても、検閲 けんえつ 官 かん によるチェックを受 う けるために、検閲 けんえつ 委員 いいん 会 かい へ郵送 ゆうそう する必要 ひつよう があった。検閲 けんえつ を受 う けたビデオテープには、検閲 けんえつ 済 ず みのステッカーが付与 ふよ されて、所有 しょゆう 者 しゃ へと送 おく り返 かえ された。さらに、電話 でんわ は傍受 ぼうじゅ されており、会話 かいわ 中 ちゅう に政治 せいじ 批判 ひはん を行 おこな った際 さい には通信 つうしん が切断 せつだん された。書店 しょてん で販売 はんばい される書物 しょもつ も検閲 けんえつ を受 う けており、ニューズウィーク やタイム のような雑誌 ざっし はページ丸 まる ごとあるいはページの一部分 いちぶぶん が切 き り取 と られていた。
2006年 ねん に開館 かいかん したバンダの霊廟 れいびょう 、リロングウェ にて。
なお、バンダ自身 じしん は不正 ふせい 財 ざい 蓄により非常 ひじょう に裕福 ゆうふく であった一方 いっぽう 、バンダの統治 とうち 期間 きかん 中 ちゅう のマラウイは、その大 だい 部分 ぶぶん が世界 せかい で10指 ゆび に入 はい る最貧 さいひん 国 こく の1つであった。バンダは、数 すう 軒 けん の大 だい 邸宅 ていたく や企業 きぎょう 、個人 こじん 用 よう ヘリコプター、自動車 じどうしゃ 、その他 た の贅沢 ぜいたく 品 ひん を所有 しょゆう していた。またバンダ大統領 だいとうりょう を非難 ひなん する発言 はつげん は厳 きび しく禁 きん じられ、これを破 やぶ ったものは多 おお くが追放 ついほう や投獄 とうごく されたほか、マラウイ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ 同盟 どうめい の指導 しどう 者 しゃ であったアッタチ・ムパカチ のように暗殺 あんさつ された者 もの すらいた。これらの行為 こうい により、バンダとマラウイ政府 せいふ は、ヒューマン・ライツ・ウォッチ とアムネスティ・インターナショナル から人権 じんけん 侵害 しんがい 行為 こうい を非難 ひなん された。なお、1994年 ねん に大統領 だいとうりょう を引退 いんたい した後 のち 、バンダは殺人 さつじん と証拠 しょうこ 隠滅 いんめつ の容疑 ようぎ で起訴 きそ された。その後 ご 、バンダは1997年 ねん 11月に南 みなみ アフリカ共和 きょうわ 国 こく の病院 びょういん において101歳 さい で病没 びょうぼつ した。
また、バンダはアパルトヘイト を行 おこな う南 みなみ アフリカ共和 きょうわ 国 こく と外交 がいこう 関係 かんけい を維持 いじ した、植民 しょくみん 地 ち 独立 どくりつ 後 ご の数少 かずすく ない指導 しどう 者 しゃ であった[43] 。
バンダによる独裁 どくさい 政治 せいじ が長 なが らく維持 いじ されていたマラウイであったが、1991年 ねん に南 みなみ アフリカ共和 きょうわ 国 こく 大統領 だいとうりょう であったフレデリック・ウィレム・デクラーク がアパルトヘイト の法的 ほうてき 廃止 はいし を決定 けってい して以降 いこう 、マラウイ国内 こくない の教会 きょうかい 、および国際 こくさい 世論 せろん からの圧力 あつりょく 増加 ぞうか と国内 こくない の民主 みんしゅ 化 か 要求 ようきゅう が高 たか まってきた。この結果 けっか 、翌 よく 1992年 ねん にバンダは、複数 ふくすう 政党 せいとう 制 せい を新 あら たに導入 どうにゅう するか、一 いち 党 とう 制 せい をこのまま維持 いじ するかを国民 こくみん 投票 とうひょう により決 き めることを発表 はっぴょう した。そして1993年 ねん 6月 がつ 14日 にち 、マラウイ建国 けんこく 以来 いらい 初 はつ の国民 こくみん 投票 とうひょう が無事 ぶじ 行 おこな われ、国民 こくみん の3分 ぶん の2近 ちか い得票 とくひょう を得 え て多党 たとう 制 せい 導入 どうにゅう が決定 けってい された[44] [45] 。その翌年 よくねん の1994年 ねん 5月 がつ 17日 にち 、マラウイ初 はつ の民主 みんしゅ 的 てき 且 か つ公平 こうへい な選挙 せんきょ となる1994年 ねん マラウイ総 そう 選挙 せんきょ が暫定 ざんてい 的 てき な憲法 けんぽう 規定 きてい の元 もと に行 おこな われた。なお、この新 あら たな憲法 けんぽう では、以前 いぜん に憲法 けんぽう に規定 きてい されていたマラウイ会議 かいぎ 党 とう に対 たい する特別 とくべつ 権限 けんげん が除 のぞ かれているものであり、1995年 ねん に正式 せいしき 施行 しこう された。
選挙 せんきょ の結果 けっか 、統一 とういつ 民主 みんしゅ 戦線 せんせん (UDF) の指導 しどう 者 しゃ であるバキリ・ムルジ が、バンダを下 くだ して大統領 だいとうりょう へ当選 とうせん した[46] 。また、所属 しょぞく 党 とう の統一 とういつ 民主 みんしゅ 戦線 せんせん は、177議席 ぎせき 中 ちゅう の82議席 ぎせき を獲得 かくとく して第 だい 一 いち 党 とう となったものの単独 たんどく 過半数 かはんすう には届 とど かなかったため、 民主 みんしゅ 同盟 どうめい (AFORD) との連立 れんりつ 与党 よとう を形成 けいせい した[47] 。なお、1996年 ねん にこの連立 れんりつ は解消 かいしょう されたが、政府 せいふ 閣僚 かくりょう のポストを得 え ていた民主 みんしゅ 同盟 どうめい 所属 しょぞく の数 すう 人 にん の議員 ぎいん は、民主 みんしゅ 同盟 どうめい 所属 しょぞく を離党 りとう して閣僚 かくりょう として残留 ざんりゅう した[48] 。なお、大統領 だいとうりょう となったムルジは、1995年 ねん にミズーリ・リンカーン大学 だいがく (:en:Lincoln University )から名誉 めいよ 学位 がくい を授与 じゅよ された。
ムルジの出身 しゅっしん 部族 ぶぞく であるヤオ族 ぞく における、少年 しょうねん 達 たち の成人 せいじん の儀式 ぎしき
1999年 ねん 6月 がつ 15日 にち 、マラウィは、2回 かい 目 め の民主 みんしゅ 的 てき な選挙 せんきょ となる1999年 ねん マラウイ総 そう 選挙 せんきょ を実施 じっし した。ムルジは大統領 だいとうりょう 二 に 期 き 目 め の就任 しゅうにん を目指 めざ して出馬 しゅつば したが、この選挙 せんきょ では民主 みんしゅ 同盟 どうめい がマラウイ会議 かいぎ 党 とう と選挙 せんきょ 協力 きょうりょく を行 おこな い、対立 たいりつ 関係 かんけい となった。選挙 せんきょ の結果 けっか 、ムルジが過半数 かはんすう の票 ひょう を獲得 かくとく して2004年 ねん までの任期 にんき で大統領 だいとうりょう の二 に 期 き 目 め を務 つと めることとなった[49] 。
この1999年 ねん の選挙 せんきょ は、マラウイ国内 こくない に内戦 ないせん の瀬戸際 せとぎわ 間近 まぢか の争 あらそ いを生 しょう じる結果 けっか となった。トゥンブカ族 ぞく やンゴニ族 ぞく 、ンコンデ族 ぞく といった北部 ほくぶ で優勢 ゆうせい なキリスト教徒 きりすときょうと の部族 ぶぞく は、南部 なんぶ 出身 しゅっしん でイスラム教徒 きょうと のムルジが大統領 だいとうりょう へ再任 さいにん されたことに対 たい し、強 つよ い不満 ふまん を持 も った。その結果 けっか 、ムルジの出身 しゅっしん 部族 ぶぞく であり、イスラム教徒 きょうと であるヤオ族 ぞく へのテロ運動 うんどう が行 おこな われ、数 すう 百 ひゃく 万 まん ドル相当 そうとう のヤオ族 ぞく の資産 しさん が盗 ぬす まれたり破壊 はかい されたりしたほか、200箇所 かしょ 近 ちか いモスクが放火 ほうか の被害 ひがい を受 う けた[50] 。
2001年 ねん には、統一 とういつ 民主 みんしゅ 戦線 せんせん の議席 ぎせき 数 すう は96議席 ぎせき である一方 いっぽう 、民主 みんしゅ 同盟 どうめい が30議席 ぎせき 、マラウイ会議 かいぎ 党 とう が61議席 ぎせき で、残 のこ りの6議席 ぎせき は無所属 むしょぞく となっていた。ただし、公的 こうてき な政党 せいとう としては認 みと められていなかったものの、この無所属 むしょぞく 議員 ぎいん 6人 にん は国家 こっか 民主 みんしゅ 同盟 どうめい (NDA) を結成 けっせい しており、野党 やとう のポジションに属 ぞく していたため、ムルジは少数 しょうすう 与党 よとう による運営 うんえい を強 し いられた。なお、国会 こっかい の193議席 ぎせき 中 ちゅう に占 し める女性 じょせい 議員 ぎいん 数 すう は、代理人 だいりにん 1人 にん も含 ふく めると計 けい 17人 にん であった。
ビング・ワ・ムタリカ 現 げん マラウイ大統領 だいとうりょう
2004年 ねん 5月 がつ に行 おこな われた2004年 ねん マラウイ総 そう 選挙 せんきょ では、マラウイの憲法 けんぽう 規定 きてい によってムルジは出馬 しゅつば できなかったため、統一 とういつ 民主 みんしゅ 戦線 せんせん からはムルジの支援 しえん を受 う けたビング・ワ・ムタリカ が出馬 しゅつば した。ムタリカは、野党 やとう により支持 しじ されたジョン・テンボ とグアンダ・チャクアンバ に選挙 せんきょ で勝利 しょうり し、大統領 だいとうりょう へと就任 しゅうにん した[51] 。しかしながら、ムルジの所属 しょぞく する統一 とういつ 民主 みんしゅ 戦線 せんせん は、1994年 ねん や1999年 ねん よりも議席 ぎせき 数 すう を大幅 おおはば に減 へ らして、マラウイ会議 かいぎ 党 とう に次 つ ぐ第 だい 二 に 党 とう となった。そのままでは国会 こっかい 運営 うんえい に差 さ し障 さわ るため、いくつかの野党 やとう グループと連立 れんりつ を組 く み、過半数 かはんすう を確保 かくほ した。しかしその後 ご 、ムタリカは汚職 おしょく や政治 せいじ 腐敗 ふはい をめぐって党 とう 本部 ほんぶ やムルジと対立 たいりつ した結果 けっか 、2005年 ねん 2月 がつ 5日 にち に統一 とういつ 民主 みんしゅ 戦線 せんせん を離党 りとう し、新 あら たに民主進歩党 みんしゅしんぽとう を結成 けっせい した。なお、この政党 せいとう は少数 しょうすう 与党 よとう であったために、ムタリカは厳 きび しい国会 こっかい 運営 うんえい を強 し いられた。
『風 かぜ を操 あやつ った少年 しょうねん 』ことウィリアム・カムクワンバ
その後 ご 、2009年 ねん マラウイ総 そう 選挙 せんきょ にてムタリカは3分 ぶん の2近 ちか い支持 しじ を得 え て大統領 だいとうりょう に再任 さいにん され[52] 、所属 しょぞく する民主進歩党 みんしゅしんぽとう も過半数 かはんすう を単独 たんどく で獲得 かくとく し[53] 、安定 あんてい 政権 せいけん となった。
その他 た 、ウィリアム・カムクワンバ はマラウイの人物 じんぶつ として近年 きんねん 、世界 せかい 的 てき に知 し られた人物 じんぶつ である。カムクワンバは2002年 ねん 、14歳 さい のときに授業 じゅぎょう 料 りょう が支払 しはら えずにセカンダリースクール を中退 ちゅうたい したが、図書館 としょかん で独学 どくがく を続 つづ けた末 すえ に、廃品 はいひん を用 もち いて自力 じりき で風力 ふうりょく 発電 はつでん 用 よう の風車 かざぐるま を建築 けんちく し、カスング 県 けん のマシタラ村 むら の自宅 じたく でいくらかの電気 でんき を使 つか えるようにしたことで名声 めいせい を得 え た。カムクワンバの業績 ぎょうせき は、各国 かっこく の環境 かんきょう 団体 だんたい から高 たか い評価 ひょうか を受 う けている[54] 。
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