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マラウイの歴史 - Wikipedia

本稿ほんこうマラウイの歴史れきし(History of Malawi)は、現在げんざいマラウイ共和きょうわこく該当がいとうする地域ちいき歴史れきしについてあつかう。この地域ちいきはかつて、バントゥーけい民族みんぞくによりてられたマラビ帝国ていこく一部いちぶであった。19世紀せいきまつにイギリスの保護ほごりょうとなり、イギリス中央ちゅうおうアフリカ保護ほごりょうニヤサランドローデシア・ニヤサランド連邦れんぽうなどをのちに、1964ねんにマラウイとして独立どくりつした。

夜明よあけのそら水面すいめんうつマラウイ。マラウイの歴史れきしはマラウイ密接みっせつ関係かんけいにある。

有史ゆうし以前いぜん

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マラウイで発掘はっくつされたヒト動物どうぶつしもあご化石かせき
 
チョンゴニのいわ地域ちいき壁画へきが

人類じんるい祖先そせんとして現在げんざいられているなか最古さいこのものは、ケニアトゥゲン丘陵きゅうりょう発見はっけんされたおよそ600まんねんまえのオロリン・トゥーゲネンシスであるが[1]、マラウイで発見はっけんされたヒト動物どうぶつ遺骸いがい石器せっきは、考古学こうこがくてき調査ちょうさから100まんねん以上いじょうむかしのものであることがあきらかとなっている[2]。また、およそ6まんねんから5まんねんまえ原始げんし人類じんるいマラウイ周辺しゅうへんんでいたことが判明はんめいしている。さらに、紀元前きげんぜん8000ねんごろ推定すいていされたヒトの遺骸いがい身体しんたいてき特徴とくちょうは、現在げんざいアフリカのかくらす人々ひとびと類似るいじしていることがかったほか、べつ地点ちてんから発見はっけんされた紀元前きげんぜん1500ねんごろ遺骸いがいは、サンじんちか特徴とくちょうられたことが報告ほうこくされている[3][4]

小柄こがら体躯たいくどうしょくはだつサンじん現在げんざいいくつかのグループにかれているが、現在げんざいのマラウイにかれらの子孫しそんトゥワばれる狩猟しゅりょう採集さいしゅう民族みんぞくグループを形成けいせいしている[5]。2006ねん世界せかい遺産いさんとなった中部ちゅうぶしゅうデッザけんにあるチョンゴニのいわ地域ちいき狩猟しゅりょうは、トゥワの祖先そせんえがいたものである[6]

マラビ帝国ていこく

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17世紀せいきなかばのマラビ帝国ていこく領土りょうど

現在げんざいのマラウイの国家こっかめいであるMalawiは、かつてこの地域ちいき存在そんざいしたマラビ帝国ていこくMaravi )のかたり由来ゆらいするものである[7]。マラビ帝国ていこくとしてられるこの国家こっかは、15世紀せいきわりごろにバントゥーけい民族みんぞくマラビぞくによって建国けんこくされた。現在げんざいチェワぞく先祖せんぞとしてられるマラビぞくは、現在げんざいコンゴ共和きょうわこくがある地域ちいきから、病気びょうき社会しゃかいてき騒乱そうらんからのがれるためにマラウイ北側きたがわ地域ちいきまで移住いじゅうしてきた[8]。そのため、"Chewa"のかたりは"外国がいこくじん"を意味いみする単語たんごであるとのせつがある[9]移住いじゅうしたさきでマラビぞくは、統一とういつてき防衛ぼうえい組織そしきたずに小規模しょうきぼ家族かぞくクラン構成こうせいして生活せいかつする先住民せんじゅうみんぞくトゥワ攻撃こうげきしてめ、殲滅せんめつしていった。なお、このマラビ帝国ていこく人々ひとびとは、製鉄せいてつぎょうたずさわっていたことがられている[10]。また、マラビとは"光線こうせん"を意味いみするとかんがえられ、この国名こくめいおおくのかま夜空よぞららす姿すがたから由来ゆらいした可能かのうせいがある。

マラウイ南西なんせい海岸かいがん発足ほっそくしたマラビ帝国ていこくは、最終さいしゅうてきにはマラウイのほかに現代げんだいモザンビークザンビア一部いちぶふくむ、広大こうだい領土りょうど国家こっかへと成長せいちょうした。このマラビ帝国ていこく発展はってんしていた期間きかん支配しはいしゃは、フィリ(Phiri)の氏族しぞくぞくするカロンガ(Kalonga)の肩書かたがきをつものであり、みずからの居住きょじゅうをマンチンバ(Manthimba)にいた。カロンガの指揮しきしたあらたな領土りょうど占有せんゆうし、征服せいふくするための下位かい首長しゅちょう任命にんめいされていた。しかし、任命にんめいけた下位かい首長しゅちょう同士どうしあらそいや奴隷どれい貿易ぼうえき影響えいきょうけてカロンガの権威けんい低下ていかし、18世紀せいき初頭しょとうころからマラビ帝国ていこく衰退すいたいはじめた[9]

交易こうえき襲来しゅうらい

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ポルトガルじん

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奴隷どれいせんいちれい

発足ほっそく当初とうしょころのマラビ帝国ていこく経済けいざいだい部分ぶぶん農業のうぎょう依存いぞんしており、雑穀ざっこくモロコシ生産せいさんしゅとしてっていた。ヨーロッパひととの接触せっしょくはじめてあったのはマラビ帝国ていこくせい16世紀せいきのことであり、そのいくかの接触せっしょくポルトガルひとによっておこなわれた記録きろくのこされている[3][11]。マラビ帝国ていこく領土りょうどは16世紀せいきなかばには現在げんざいのモザンビーク東部とうぶ海岸かいがんいきまでたっしており、マラビぞく象牙ぞうげてつ奴隷どれいなどを交易こうえきひんとしてポルトガルひとアラブひと貿易ぼうえきおこなっていた[11]。この貿易ぼうえきにより、マラビ帝国ていこく全土ぜんど共通きょうつうとしてチェワ普及ふきゅう一層いっそうすすんだとされる。

16世紀せいきになるとポルトガルじん現在げんざいのモザンビークのテテ経由けいゆしてマラビ帝国ていこく領土りょうどへと到達とうたつし、このくに人々ひとびとかんする文章ぶんしょう報告ほうこくをヨーロッパじんとしてはじめてった[11]。また、ポルトガルじんはこの地域ちいきはじめてトウモロコシみ、のちにトウモロコシはそれまでこの地域ちいき主食しゅしょくとされていたモロコシにわり、主食しゅしょく地位ちいめることとなった[12]。マラビぞくはまたポルトガルとのあいだ奴隷どれい貿易ぼうえきおこな[13]売却ばいきゃくされた奴隷どれいおもにポルトガルの植民しょくみんであったモザンビークやブラジルプランテーションでの労働ろうどう従事じゅうじさせられた。

 
ズールーじんおうシャカ・ズールー

ンゴニぞく

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マラビ帝国ていこく衰退すいたいは、2つの強大きょうだい民族みんぞく登場とうじょう関連かんれんしている。その一方いっぽうは、現在げんざいみなみアフリカ共和きょうわこくクワズール・ナタールしゅう該当がいとうする地域ちいきからマラビ帝国ていこくへやってきた、ズワンゲンダバen:Zwangendabaひきいるンゴニぞくである。このンゴニぞく移住いじゅうは、ズールーじんおうをめぐりシャカ・ズールーとズウィデがあらそい、ズウィデがやぶれたことに起因きいんする。ズウィデの配下はいかであったズワンゲンダバは、シャカ・ズールーとのたたかいをつづけたが一方いっぽうてきされつづけ、最終さいしゅうてきには北方ほっぽうのがれるためのムフェチャネ(en:mfecane)とばれるだい移動いどうおこなったのである[14]。このムフェチャネは、マラビ帝国ていこくふくめた南部なんぶアフリカ地域ちいき多大ただい影響えいきょうあたえた。シャカの軍勢ぐんぜい戦闘せんとうおこなっていた期間きかん、ンゴニぞく軍事ぐんじてき戦略せんりゃくとしてマラビ帝国ていこくたい度々どど攻撃こうげき占領せんりょうおこなった。その、ンゴニぞく岩山いわやま地帯ちたい定住ていじゅうすると、食料しょくりょう略奪りゃくだつ奴隷どれい獲得かくとく目的もくてきとして、マラビ帝国ていこく毎年まいとしむようになった。ンゴニぞくは、獲得かくとくした奴隷どれいだい部分ぶぶん軍隊ぐんたいやしなうための食料しょくりょう生産せいさん従事じゅうじさせ、子供こども場合ばあい戦士せんしとして養育よういくした。また、一部いちぶ奴隷どれい商人しょうにんへの売却ばいきゃくおこなった[15]

マラビ帝国ていこく衰退すいたい影響えいきょうあたえたもう一方いっぽう民族みんぞくが、周辺しゅうへん地域ちいきつよちからおよぼしていたヤオぞくである。ヤオぞくは、マクアぞくMakua tribe)との戦闘せんとう飢餓きがからのがれるために、モザンビークの北部ほくぶからマラビ帝国ていこくへと移住いじゅうしてきた民族みんぞくである[16]。マクアぞくは、ヤオぞくザンジバルのアラブじん商人しょうにんとの象牙ぞうげ奴隷どれい交易こうえきによってとみたくわえていたため[17]てきとして襲撃しゅうげきおこなうようになった。ヤオぞくはマラビ帝国ていこくへの移住いじゅうおこなったのちすぐに、マラビぞくとンゴニぞく双方そうほう襲撃しゅうげきして捕虜ほりょ獲得かくとくし、のち奴隷どれいとしてアラブじんやスワヒリじん売却ばいきゃくした[18]。なお、ヤオぞく民族みんぞくとの紛争ふんそうじゅう使用しようした[19]最初さいしょながらく唯一ゆいいつ民族みんぞくであった。1870ねんにヤオぞく支配しはいしゃ階級かいきゅう人々ひとびとは、伝統でんとうてきアニミズム信仰しんこうよりも、貿易ぼうえきのパートナーであるアラブじん宗教しゅうきょうであるイスラム教いすらむきょう信仰しんこうするようになった[20]。ヤオぞくイスラム教いすらむきょうへと改宗かいしゅうしたことによる利益りえきとして、きの教育きょういくモスク設立せつりつ協力きょうりょくおこなシャイフ指導しどうけることができた。また、アラブじん貿易ぼうえきしょうはヤオぞく稲作いなさく紹介しょうかいし、この影響えいきょう現在げんざいでもマラウイ南部なんぶいきでは稲作いなさく比較的ひかくてきさかんにおこなわれている。

アラブじんとスワヒリじん連合れんごう

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ヤオぞくあるいチェワじん[21])とのつよいパートナーシップを背景はいけいとして、アラブじん貿易ぼうえきしょうはマラウイ沿岸えんがん地域ちいきなん箇所かしょかの交易こうえきしょ設立せつりつした。これらのうち最大さいだいのものは1840ねんにアラブじん貿易ぼうえきしょうのジュンベ(スワヒリ首長しゅちょうJumbe, Salim Bin Abdalla )によりコタコタ建設けんせつされたものである[22]。ジュンベは、毎年まいとし5000にんから20000にん奴隷どれいをコタコタへあつめ、コタコタからはキャラバンんでいちに500にん程度ていど奴隷どれい輸送ゆそうし、現在げんざいのタンザニアのリンディしゅうキルワけん海岸かいがんおきにあるキルワとういちはこんだ。この効率こうりつてき奴隷どれいあつめの手法しゅほう確立かくりつしたことで、奴隷どれい貿易ぼうえき主体しゅたいはモザンビークのポルトガルじんからザンジバルのアラブじんへとうつっていった。

ヤオぞくとンゴニぞくたがいに幾度いくどあらそいをかえしたものの、いずれの民族みんぞく決定的けっていてき勝利しょうりおさめることは出来できなかった。マラビ帝国ていこくむその民族みんぞくは、そのほとんどがりょう民族みんぞくからの攻撃こうげきにより壊滅かいめつした。マラビぞく首長しゅちょうのうちのいくにんかは、アラブの奴隷どれい商人しょうにん同盟どうめいむすんだスワヒリじん同士どうし同盟どうめいむすび、みずからの部族ぶぞくまもった。

ヨーロッパじん探検たんけん宣教師せんきょうし貿易ぼうえきしょう

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デイヴィッド・リヴィングストン肖像しょうぞう

ポルトガルひとは16世紀せいきちゅうにマラビ帝国ていこく接触せっしょくしていたものの、マラビぞく指導しどうしゃそうまでばすことが出来できなかった。その結果けっか、ヨーロッパじんとしてはじめてマラウイいたり、かれらと歴史れきしじょう重要じゅうよう接触せっしょくおこなったのは、イギリスの探検たんけん宣教師せんきょうしデイヴィッド・リヴィングストンとなった。リヴィングストンがザンベジかわ蒸気じょうきせんさかのぼり、マラウイとその周辺しゅうへん探検たんけんしたのは1859ねんのことであった[23]。この探検たんけんにおいてマラウイをヨーロッパじんとしてはじめて発見はっけんしたリヴィングストンは、ヤオぞく言語げんごであるヤオみずうみ意味いみするNyasa から、ニヤサ命名めいめいしている[24]。なお、奴隷どれい貿易ぼうえき反対はんたいしていたリヴィングストンは、奴隷どれい商人しょうにんによる探検たんけん妨害ぼうがいけたほか、探検たんけん途中とちゅういくにんかの従者じゅうしゃ見放みはなされて虚偽きょぎ死亡しぼうせつ報告ほうこくされたり、1867ねんのクリスマスには医療いりょうようカバンをぬすまれたりした[25]。その、リヴィングストンは1873ねんにマラリアでぼっした。かれ生前せいぜん功績こうせきとなえ、1876ねんには出身しゅっしんブランタイアにちなんだブランタイヤまち設立せつりつされたほか、1894ねんにはかれにちなんだリビングストニアまちスコットランド自由じゆう教会きょうかい宣教師せんきょうしにより設立せつりつされている[26]

 
ひじりミカエル及諸天使てんし教会きょうかい

リヴィングストンの探検たんけん以降いこうスコットランド長老ちょうろう教会きょうかいが、1876ねんブランタイヤひじりミカエル及諸天使てんし教会きょうかいen:St Michael and All Angels Church, Blantyre, Malawi設立せつりつおこなったほか、せい公会こうかい宣教師せんきょうしリコマとう教会きょうかい設立せつりつおこなった。これらのイギリスじん宣教師せんきょうしたち目的もくてきのひとつには、19世紀せいきまつまでつづくこととなるペルシアわんにおける奴隷どれい貿易ぼうえきわらせることがあった。イギリス本国ほんごくではすでに1834ねんまでに奴隷どれい貿易ぼうえき廃止はいし決定けっていしており[27]、アフリカ沿岸えんがん地域ちいきにおいて他国たこく奴隷どれい貿易ぼうえき取締とりしまりをおこなっていたのである。1878ねんには、おもグラスゴー出身しゅっしん貿易ぼうえきしょう中心ちゅうしんとして、宣教師せんきょうしたちへの商品しょうひん供給きょうきゅう援助えんじょ目的もくてきとしたアフリカン・レイクen:African Lakes Company)が設立せつりつされた[28]。このうごきにたいし、その宣教師せんきょうし貿易ぼうえきしょう猟師りょうし農園のうえんぬしなどもこれに追随ついずいしていった。

イギリス中央ちゅうおうアフリカ保護ほごりょう

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イギリス中央ちゅうおうアフリカ保護ほごりょう紋章もんしょう

1883ねんイギリス領事りょうじは"Kings and Chiefs of Central Africa"を任命にんめいされ、1891ねんにはポルトガルとのあいだえい葡危(Anglo-Portuguese Crisis)をのち同年どうねんちゅうにシーレ高地こうち保護ほごりょう宣言せんげん、1893ねんにはイギリス中央ちゅうおうアフリカ保護ほごりょう設立せつりつした[29]。このイギリス中央ちゅうおうアフリカ保護ほごりょうは1893ねんから1907ねんまでつづいたが、この期間きかん施行しこうされた法律ほうりつ行政ぎょうせい手続てつづきにより、入植にゅうしょくした白人はくじん優遇ゆうぐう政策せいさくのほか、先住民せんじゅうみんぞく所有しょゆうする土地とち奪取だっしゅ権限けんげん削減さくげんなどがおこなわれていった。また、この期間きかんコーヒー栽培さいばいはじめられており、現在げんざいでもマラウイの有力ゆうりょく換金かんきん作物さくもつの1つとなっている。

なお、このイギリスによる保護ほごりょう時代じだいは1963ねんまつまでつづくこととなる。

ニヤサランド

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1907ねん10がつ、イギリス中央ちゅうおうアフリカ保護ほごりょうニヤサランドもしくはニヤサランド保護ほごりょう改名かいめいされた。なお、ニヤサNyasa )とは、ヤオぞく言葉ことばみずうみ[24]

 
 ?ニヤサランドの国旗こっき

1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせんはじまると、アフリカ大陸たいりく各地かくちでも中央ちゅうおう同盟どうめいこくがわであったドイツのかく植民しょくみんと、連合れんごうこくがわであったイギリス、フランス、ポルトガルなどの植民しょくみんとのあいだ戦闘せんとう発生はっせいした(くわしくはアフリカ戦線せんせん (だいいち世界せかい大戦たいせん)参照さんしょうのこと)。ニヤサランドもドイツりょうひがしアフリカとのあいだ戦闘せんとうおこない、黒人こくじんへい民間みんかんじんにもおおくの犠牲ぎせいした。

また、マラウイにおいて独立どくりつ運動うんどう先駆さきがけとなる叛乱はんらんが、だいいち世界せかい大戦たいせんちゅうの1915ねんきている。この叛乱はんらんひきいたジョン・チレンブウェは、アメリカのヴァージニア神学校しんがっこうVirginia Theological College )でまなんだのちにニヤサランドへ帰国きこくし、牧師ぼくしつとめていた人物じんぶつである。本来ほんらいはヨーロッパじん同士どうしあらそいであるだいいち世界せかい大戦たいせんへアフリカじんまれることに疑問ぎもんいたチレンブウェは、部族ぶぞくかべえてヨーロッパじんへの叛乱はんらんおこなった。1915ねん1がつ23にちはじまったこの叛乱はんらんは、翌月よくげつの2がつ4にちにチレンブウェがアフリカじん兵士へいし射殺しゃさつされたことでわりをむかえた[30]

当初とうしょ白人はくじん入植にゅうしょくしゃ搾取さくしゅされるいちぽうであった黒人こくじんたちであったが、チレンブウェのようにヨーロッパアメリカ教育きょういくけたアフリカじんエリートいたる段々だんだんと、アフリカじんとして主張しゅちょうし、政治せいじてき活動かつどうおこなうようになっていった。そして、1944ねんにははつ政治せいじ組織そしきであるニヤサランドアフリカじん会議かいぎ (NAC) が結成けっせいされ、マラウイ会議かいぎとうとなり、1964ねんにマラウイを独立どくりつさせる原動力げんどうりょくとなった[31]

なお、チレンブウェのから50ねんの1965ねん、マラウイが独立どくりつをとげた翌年よくねんたるこのとしにはヘイスティングズ・カムズ・バンダ大統領だいとうりょうにより、マラウイ独立どくりつ運動うんどう先駆せんくしゃとしてチレンブウェの肖像しょうぞうせた切手きって発行はっこうされた。その毎年まいとし1がつ15にちは"ジョン・チレンブウェの"(John Chilembwe Day )としてマラウイの祝日しゅくじつとなったほか[32]現行げんこうのマラウイ紙幣しへいにもチレンブウェの肖像しょうぞうせられている。

ローデシア・ニヤサランド連邦れんぽう

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ローデシア・ニヤサランド連邦れんぽうくにあきら
 
 ?ローデシア・ニヤサランド連邦れんぽう国旗こっき

1940年代ねんだい後半こうはん飛躍ひやくてき経済けいざい発展はってんげたみなみローデシアは、きたローデシア資源しげんとニヤサランドの黒人こくじん労働ろうどうりょく獲得かくとく、および、アフリカじん民族みんぞく主義しゅぎ阻害そがいする目的もくてきで、これら3つのイギリスりょうによる連邦れんぽうせい構築こうちく主張しゅちょうし、これをけて1953ねん8がつ1にちにローデシア・ニヤサランド連邦れんぽう成立せいりつした[33]。しかし、成立せいりつした連邦れんぽうではみなみローデシアの白人はくじん入植にゅうしょくしゃ優遇ゆうぐうする政策せいさくおおく、人口じんこうの99%以上いじょう黒人こくじんめるニヤサランドには連邦れんぽうせいのメリットがすくなかったことや、アフリカ諸国しょこく独立どくりつへの機運きうんたかまっていたことがあり、1959ねんにはニヤサランドない叛乱はんらん発生はっせいすることとなった[34]

また、その前年ぜんねんの1958ねん7がつ29にちには、アメリカテネシーしゅうナッシュビルにあるメハリー医科いか大学だいがくen:Meharry Medical College)で1937ねん学位がくい取得しゅとくし、イギリスとガーナ診療しんりょうしょひらいていたヘイスティングズ・カムズ・バンダがニヤサランドへ帰国きこく[35]。そのすぐにニヤサランドアフリカじん会議かいぎ指導しどうしゃへと就任しゅうにんした[33]どう会議かいぎ翌年よくねんにバンダをふく主要しゅようメンバーの逮捕たいほにより瓦解がかいしかけるが、逮捕たいほされなかったのこりのメンバーによりマラウイ会議かいぎとう (MCP) が結成けっせいされた。バンダはきたローデシアのグウェロ刑務所けいむしょ(Gwelo Prison)へおくられたものの、よく1960ねんには出所しゅっしょしてマラウイ会議かいぎとう指導しどうしゃ就任しゅうにん[33]するとともに、ロンドンおこなわれた連邦れんぽう憲法けんぽうかんする協議きょうぎかい出席しゅっせきした。

1961ねん4がつ15にち、バンダひきいるマラウイ会議かいぎとうは、あらたに制定せいていされた憲法けんぽうしたおこなわれた1961ねんニヤサランド立法りっぽう議会ぎかい選挙せんきょ圧勝あっしょうした[36]。バンダは立法りっぽう議会ぎかい重要じゅうよう役割やくわりて、1ねんの1962ねんには実質じっしつてきなニヤサランドの統治とうちしゃとなっていた。また、1962ねん11月にロンドンでだい2かい憲法けんぽう協議きょうぎかいおこなわれ、イギリス政府せいふよく1963ねんからニヤサランドに、自治じちけんあたえることに同意どういした。

自治領じちりょうニヤサランド

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1963ねん2がつ1にちに、ヘイスティングズ・カムズ・バンダは首相しゅしょうへと就任しゅうにんしたが、イギリスは依然いぜんとしてニヤサランドの経済けいざい国防こくぼう司法しほうなどをコントロールしたままであった。完全かんぜん自治じちけん獲得かくとくするために、ニヤサランド自治領じちりょう政府せいふは1963ねん5がつに、あらたな憲法けんぽう発布はっぷした。また、1963ねんには連邦れんぽう離脱りだつけんをイギリスから獲得かくとくし、ローデシア連邦れんぽうとニヤサランドは1963ねん12月31にち分離ぶんりした[33]

マラウイとして独立どくりつ

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マラウイ共和きょうわこく国旗こっき

1964ねん7がつ6にち、マラウイはイギリス連邦れんぽううちえい連邦れんぽう王国おうこくとして独立どくりつたした。なお、独立どくりつ直前ちょくぜんおこなわれた1964ねんマラウイそう選挙せんきょでは、ぜん選挙せんきょ地区ちくにおいてマラウイ会議かいぎとう候補こうほ以外いがい出馬しゅつばかったため、マラウイは独立どくりつ時点じてんからいちとうせい政治せいじおこなわれることとなった[37][38]。なお、それから2ねんの1966ねんに、憲法けんぽうでマラウイ会議かいぎとう以外いがい政党せいとう結成けっせい禁止きんしされ、いちとうせい体制たいせい法的ほうてき確立かくりつされた。また、1966ねんにマラウイは共和きょうわせい採用さいようして現在げんざいのマラウイ共和きょうわこくとなり、バンダは首相しゅしょうから大統領だいとうりょうへと就任しゅうにんした[39]

このマラウイ会議かいぎとうによるいちとう体制たいせいは、1993ねん国民こくみん投票とうひょう結果けっか多党たとうせい導入どうにゅうされるまでの30ねんちかくにわたって維持いじされることとなる。

いちとうせい時代じだい

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マラウイの初代しょだい大統領だいとうりょうヘイスティングズ・カムズ・バンダぞう

1970ねんにバンダはマラウイ会議かいぎとう終身しゅうしん党首とうしゅとなり、よく1971ねんには国会こっかいでバンダを終身しゅうしん大統領だいとうりょうとすることが議決ぎけつされた。また、マラウイ会議かいぎとう民兵みんぺい組織そしきであるYoung Pioneers結成けっせいし、1990年代ねんだいまで国家こっかのコントロールを権威けんい主義しゅぎてきった。

バンダは、つね自身じしんを"終身しゅうしん大統領だいとうりょうングワジ・ヘイスティングズ・カムズ・バンダ博士はかせ閣下かっか"[40]呼称こしょうさせる独裁どくさいしゃであった。バンダへの忠誠ちゅうせいはあらゆる場面ばめん要求ようきゅうされた。すべての商業しょうぎょうビルにはバンダの公式こうしき写真しゃしんかべけることが要求ようきゅうされ、そのポスター時計とけい絵画かいがなど一切いっさいのものを、バンダの写真しゃしんより上部じょうぶ設置せっちすることが禁止きんしされた。また、映画えいが演劇えんげき学校がっこう集会しゅうかいなど、ほぼすべてのもよおものまえには国歌こっか演奏えんそうされたほか、映画えいがかんにおいては国歌こっか演奏えんそうちゅうはスクリーンにバンダ大統領だいとうりょう国民こくみんるシーンがながされていた。バンダがまちおとずれるさいには、地域ちいき女性じょせいらが空港くうこうむかえにがってダンスをおこな必要ひつようがあり、そのおりには、特別とくべつ服装ふくそうとバンダの公式こうしき写真しゃしん掲揚けいようおこなうことが要求ようきゅうされた。さらに、くに唯一ゆいいつラジオ放送ほうそうは、大統領だいとうりょうのスピーチと政府せいふプロパガンダ放送ほうそうしていた。

また、バンダは女性じょせいズボンくことと、ひざ露出ろしゅつするようなスカートくことを法律ほうりつにより禁止きんしした[41]。また、男性だんせい場合ばあいかみ襟首えりくびよりしたばすことがきんじられていた[42]教会きょうかい認可にんか政府せいふおこない、エホバの証人しょうにんのような特定とくてい宗教しゅうきょう団体だんたい所属しょぞくする人物じんぶつ迫害はくがいされ、周辺しゅうへんくにへとされた。また、すべてのインドけいのマラウイ市民しみんは、いえ職場しょくばから強制きょうせいてき退たいかされ、おおきな都市としのインドじん居住きょじゅうへと移住いじゅうさせられた。さらに、移住いじゅうおこなうことのほか、個人こじん資産しさん海外かいがいすことや、他国たこく通貨つうかむことは法律ほうりつきんじられていた。そのため、資産しさん収入しゅうにゅう手放てばなさなければ、マラウイをることができなかったうえ、ほとんどすべての財産ざいさん手放てばなし、海外かいがいでやりなおしたいとかんがえた人々ひとびとにすら、海外かいがい渡航とこうビザはめったにりなかった。なお、すべての旅行りょこうしゃ飛行機ひこうきでの出入国しゅつにゅうこくさいして手荷物てにもつ検査けんさけた。

すべての映画えいが映画えいがかん上映じょうえいされるよりまえに、マラウイ検閲けんえつ委員いいんかいによるチェックがおこなわれていた。ヌード政治せいじてき題材だいざいなど、検閲けんえつ委員いいんかいにより不適切ふてきせつかんがえられた作品さくひん当該とうがい場面ばめん編集へんしゅうけた。また、手紙てがみ検閲けんえつ委員いいんかいによってかんされていた。海外かいがいとの手紙てがみのやりりの場合ばあい開封かいふうされ、まれたうえ、ときには編集へんしゅうけていた。ビデオテープについても、検閲けんえつかんによるチェックをけるために、検閲けんえつ委員いいんかい郵送ゆうそうする必要ひつようがあった。検閲けんえつけたビデオテープには、検閲けんえつみのステッカーが付与ふよされて、所有しょゆうしゃへとおくかえされた。さらに、電話でんわ傍受ぼうじゅされており、会話かいわちゅう政治せいじ批判ひはんおこなったさいには通信つうしん切断せつだんされた。書店しょてん販売はんばいされる書物しょもつ検閲けんえつけており、ニューズウィークタイムのような雑誌ざっしはページまるごとあるいはページの一部分いちぶぶんられていた。

 
2006ねん開館かいかんしたバンダの霊廟れいびょうリロングウェにて。

なお、バンダ自身じしん不正ふせいざい蓄により非常ひじょう裕福ゆうふくであった一方いっぽう、バンダの統治とうち期間きかんちゅうのマラウイは、そのだい部分ぶぶん世界せかいで10ゆびはい最貧さいひんこくの1つであった。バンダは、すうけんだい邸宅ていたく企業きぎょう個人こじんようヘリコプター、自動車じどうしゃ、その贅沢ぜいたくひん所有しょゆうしていた。またバンダ大統領だいとうりょう非難ひなんする発言はつげんきびしくきんじられ、これをやぶったものはおおくが追放ついほう投獄とうごくされたほか、マラウイ社会しゃかい主義しゅぎしゃ同盟どうめい指導しどうしゃであったアッタチ・ムパカチのように暗殺あんさつされたものすらいた。これらの行為こういにより、バンダとマラウイ政府せいふは、ヒューマン・ライツ・ウォッチアムネスティ・インターナショナルから人権じんけん侵害しんがい行為こうい非難ひなんされた。なお、1994ねん大統領だいとうりょう引退いんたいしたのち、バンダは殺人さつじん証拠しょうこ隠滅いんめつ容疑ようぎ起訴きそされた。その、バンダは1997ねん11月にみなみアフリカ共和きょうわこく病院びょういんにおいて101さい病没びょうぼつした。

また、バンダはアパルトヘイトおこなみなみアフリカ共和きょうわこく外交がいこう関係かんけい維持いじした、植民しょくみん独立どくりつ数少かずすくない指導しどうしゃであった[43]

多党たとうせい導入どうにゅう

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バンダによる独裁どくさい政治せいじながらく維持いじされていたマラウイであったが、1991ねんみなみアフリカ共和きょうわこく大統領だいとうりょうであったフレデリック・ウィレム・デクラークアパルトヘイト法的ほうてき廃止はいし決定けっていして以降いこう、マラウイ国内こくない教会きょうかい、および国際こくさい世論せろんからの圧力あつりょく増加ぞうか国内こくない民主みんしゅ要求ようきゅうたかまってきた。この結果けっかよく1992ねんにバンダは、複数ふくすう政党せいとうせいあらたに導入どうにゅうするか、いちとうせいをこのまま維持いじするかを国民こくみん投票とうひょうによりめることを発表はっぴょうした。そして1993ねん6がつ14にちマラウイ建国けんこく以来いらいはつ国民こくみん投票とうひょう無事ぶじおこなわれ、国民こくみんの3ぶんの2ちか得票とくひょう多党たとうせい導入どうにゅう決定けっていされた[44][45]。その翌年よくねんの1994ねん5がつ17にち、マラウイはつ民主みんしゅてき公平こうへい選挙せんきょとなる1994ねんマラウイそう選挙せんきょ暫定ざんていてき憲法けんぽう規定きていもとおこなわれた。なお、このあらたな憲法けんぽうでは、以前いぜん憲法けんぽう規定きていされていたマラウイ会議かいぎとうたいする特別とくべつ権限けんげんのぞかれているものであり、1995ねん正式せいしき施行しこうされた。

選挙せんきょ結果けっか統一とういつ民主みんしゅ戦線せんせん (UDF) の指導しどうしゃであるバキリ・ムルジが、バンダをくだして大統領だいとうりょう当選とうせんした[46]。また、所属しょぞくとう統一とういつ民主みんしゅ戦線せんせんは、177議席ぎせきちゅうの82議席ぎせき獲得かくとくしてだいいちとうとなったものの単独たんどく過半数かはんすうにはとどかなかったため、 民主みんしゅ同盟どうめい (AFORD) との連立れんりつ与党よとう形成けいせいした[47]。なお、1996ねんにこの連立れんりつ解消かいしょうされたが、政府せいふ閣僚かくりょうのポストをていた民主みんしゅ同盟どうめい所属しょぞくすうにん議員ぎいんは、民主みんしゅ同盟どうめい所属しょぞく離党りとうして閣僚かくりょうとして残留ざんりゅうした[48]。なお、大統領だいとうりょうとなったムルジは、1995ねんミズーリ・リンカーン大学だいがく:en:Lincoln University)から名誉めいよ学位がくい授与じゅよされた。

 
ムルジの出身しゅっしん部族ぶぞくであるヤオぞくにおける、少年しょうねんたち成人せいじん儀式ぎしき

1999ねん6がつ15にち、マラウィは、2かい民主みんしゅてき選挙せんきょとなる1999ねんマラウイそう選挙せんきょ実施じっしした。ムルジは大統領だいとうりょう就任しゅうにん目指めざして出馬しゅつばしたが、この選挙せんきょでは民主みんしゅ同盟どうめいがマラウイ会議かいぎとう選挙せんきょ協力きょうりょくおこない、対立たいりつ関係かんけいとなった。選挙せんきょ結果けっか、ムルジが過半数かはんすうひょう獲得かくとくして2004ねんまでの任期にんき大統領だいとうりょうつとめることとなった[49]

この1999ねん選挙せんきょは、マラウイ国内こくない内戦ないせん瀬戸際せとぎわ間近まぢかあらそいをしょうじる結果けっかとなった。トゥンブカぞくンゴニぞくンコンデぞくといった北部ほくぶ優勢ゆうせいキリスト教徒きりすときょうと部族ぶぞくは、南部なんぶ出身しゅっしんイスラム教徒きょうとのムルジが大統領だいとうりょう再任さいにんされたことにたいし、つよ不満ふまんった。その結果けっか、ムルジの出身しゅっしん部族ぶぞくであり、イスラム教徒きょうとであるヤオぞくへのテロ運動うんどうおこなわれ、すうひゃくまんドル相当そうとうのヤオぞく資産しさんぬすまれたり破壊はかいされたりしたほか、200箇所かしょちかいモスクが放火ほうか被害ひがいけた[50]

21世紀せいき以降いこう

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2001ねんには、統一とういつ民主みんしゅ戦線せんせん議席ぎせきすうは96議席ぎせきである一方いっぽう民主みんしゅ同盟どうめいが30議席ぎせき、マラウイ会議かいぎとうが61議席ぎせきで、のこりの6議席ぎせき無所属むしょぞくとなっていた。ただし、公的こうてき政党せいとうとしてはみとめられていなかったものの、この無所属むしょぞく議員ぎいん6にん国家こっか民主みんしゅ同盟どうめい (NDA) を結成けっせいしており、野党やとうのポジションにぞくしていたため、ムルジは少数しょうすう与党よとうによる運営うんえいいられた。なお、国会こっかいの193議席ぎせきちゅうめる女性じょせい議員ぎいんすうは、代理人だいりにん1にんふくめるとけい17にんであった。

 
ビング・ワ・ムタリカげんマラウイ大統領だいとうりょう

2004ねん5がつおこなわれた2004ねんマラウイそう選挙せんきょでは、マラウイの憲法けんぽう規定きていによってムルジは出馬しゅつばできなかったため、統一とういつ民主みんしゅ戦線せんせんからはムルジの支援しえんけたビング・ワ・ムタリカ出馬しゅつばした。ムタリカは、野党やとうにより支持しじされたジョン・テンボグアンダ・チャクアンバ選挙せんきょ勝利しょうりし、大統領だいとうりょうへと就任しゅうにんした[51]。しかしながら、ムルジの所属しょぞくする統一とういつ民主みんしゅ戦線せんせんは、1994ねんや1999ねんよりも議席ぎせきすう大幅おおはばらして、マラウイ会議かいぎとうだいとうとなった。そのままでは国会こっかい運営うんえいさわるため、いくつかの野党やとうグループと連立れんりつみ、過半数かはんすう確保かくほした。しかしその、ムタリカは汚職おしょく政治せいじ腐敗ふはいをめぐってとう本部ほんぶやムルジと対立たいりつした結果けっか、2005ねん2がつ5にち統一とういつ民主みんしゅ戦線せんせん離党りとうし、あらたに民主進歩党みんしゅしんぽとう結成けっせいした。なお、この政党せいとう少数しょうすう与党よとうであったために、ムタリカはきびしい国会こっかい運営うんえいいられた。

 
かぜあやつった少年しょうねん』ことウィリアム・カムクワンバ

その2009ねんマラウイそう選挙せんきょにてムタリカは3ぶんの2ちか支持しじ大統領だいとうりょう再任さいにんされ[52]所属しょぞくする民主進歩党みんしゅしんぽとう過半数かはんすう単独たんどく獲得かくとく[53]安定あんてい政権せいけんとなった。

そのウィリアム・カムクワンバはマラウイの人物じんぶつとして近年きんねん世界せかいてきられた人物じんぶつである。カムクワンバは2002ねん、14さいのときに授業じゅぎょうりょう支払しはらえずにセカンダリースクール中退ちゅうたいしたが、図書館としょかん独学どくがくつづけたすえに、廃品はいひんもちいて自力じりき風力ふうりょく発電はつでんよう風車かざぐるま建築けんちくし、カスングけんのマシタラむら自宅じたくでいくらかの電気でんき使つかえるようにしたことで名声めいせいた。カムクワンバの業績ぎょうせきは、各国かっこく環境かんきょう団体だんたいからたか評価ひょうかけている[54]

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 京都大きょうとだい学理がくりがく研究けんきゅう ヒト誕生たんじょう初期しょき進化しんか 1ページ
  2. ^ 京都大きょうとだい学理がくりがく研究けんきゅう ヒト誕生たんじょう初期しょき進化しんか 8ページ
  3. ^ a b アメリカ国務省こくむしょう Background Note: Malawi
  4. ^ History of Malawi
  5. ^ 山口大学やまぐちだいがく 共通きょうつう教育きょういく 社会しゃかい科学かがく系列けいれつ 文化ぶんか人類じんるいがく だいいちしょう 狩猟しゅりょう採集さいしゅうみんアカとは?
  6. ^ ユネスコ Chongoni Rock Art Area (Malawi)
  7. ^ Book Aid International "Malawi"
  8. ^ Strategy Leader Resource Kit "People Profile The Maravi (Nyanja) of Malawi"
  9. ^ a b UCLA Humanities Web Portal Home Page "HISTORY OF THE ACHEWA"
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  11. ^ a b c University of Cumbria "Chewa Religion" Archived 2005ねん8がつ28にち, at the Wayback Machine.
  12. ^ うちはやし 政夫まさお, “コロンブス以前いぜんきゅう世界せかいにあったトウモロコシ─回想かいそう”, 薬学やくがく雑誌ざっし, Vol. 126, 423-427 (2006) .
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  23. ^ Steven Otfinoski, 『David Livingstone: Deep in the Heart of Africa』, 41 page, Macmillan, 1892
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  33. ^ a b c d Guy Arnold, 『A guide to African political & economic development』, 83 page, Taylor & Francis, 2001
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  41. ^ 日本にっぽんマラウイ協会きょうかい機関きかん Kwacha だいごう
  42. ^ Japan International Cooperation Agency マラウイ生活せいかつ情報じょうほう P28
  43. ^ 日本国にっぽんこく外務省がいむしょう マラウイ共和きょうわこく 外交がいこう国防こくぼう
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  47. ^ http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/2003_04_15_04.pdf アジア経済けいざい研究所けんきゅうじょ マラウイとガーナの民主みんしゅ過程かてい P110-113 Archived 2013ねん1がつ21にち, at the Wayback Machine.
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  49. ^ AFRICAN ELECTIONS DATABASE 15 June 1999 Presidential Election
  50. ^ http://www.islamonline.net/servlet/Satellite?c=Article_C&cid=1235628763190&pagename=Zone-English-News/NWELayout
  51. ^ AFRICAN ELECTIONS DATABASE 2004 Presidential Election
  52. ^ mec.org.mw
  53. ^ IPU
  54. ^ BBC WORLD NEWS 風車かざぐるまをつくった少年しょうねんおおきなつばさ――アフリカ・マラウイ Malawi windmill boy with big fans”. BBC. 2010ねん1がつ21にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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