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レナード・バーンスタイン - Wikipedia

レナード・バーンスタイン

アメリカの作曲さっきょく指揮しきしゃ

レナード・バーンスタインLeonard Bernstein1918ねん8がつ25にち - 1990ねん10月14にち)は、ユダヤけいアメリカじん指揮しきしゃ作曲さっきょくであり、ピアニストとしてもられている。アメリカがんだ最初さいしょ国際こくさいてきレベルの指揮しきしゃであり、ヘルベルト・フォン・カラヤンゲオルク・ショルティらとならんで、20世紀せいき後半こうはんクラシック音楽おんがくさかいをリードしてきた音楽家おんがくかだった。愛称あいしょうはレニー。つまは、チリ出身しゅっしん女優じょゆうピアニストの、フェリシア・モンテアレグレ。

レナード・バーンスタイン
Leonard Bernstein
1977ねん
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい Louis Bernstein
生誕せいたん (1918-08-25) 1918ねん8がつ25にち
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくマサチューセッツしゅうローレンス
死没しぼつ (1990-10-14) 1990ねん10月14にち(72さいぼつ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくニューヨーク
学歴がくれき カーティス音楽おんがくいん
ジャンル クラシック音楽おんがく
職業しょくぎょう 指揮しきしゃ
ピアニスト
作曲さっきょく
担当たんとう楽器がっき 指揮しき
ピアノ
活動かつどう期間きかん 1943ねん - 1990ねん
レーベル CBSレコード
ドイツ・グラモフォン
公式こうしきサイト http://www.leonardbernstein.com/

人物じんぶつ来歴らいれき 編集へんしゅう

バーンスタインは、ウクライナけいユダヤじん移民いみんの2せいとして、マサチューセッツしゅうローレンスまれる。まれた当初とうしょ名前なまえはルイス(のちにレナードに改名かいめいする)。父親ちちおやサミュエルは敬虔けいけんユダヤ教徒きょうとであった。家族かぞくには音楽おんがくてき環境かんきょうまったくなかったが、母親ははおやジェニーがっていた蓄音機ちくおんき音楽おんがくみみかたむけるのが大好だいすきなあかぼうだったという。理髪りはつてん経営けいえいした父親ちちおやつよ反対はんたいって、プロの音楽家おんがくかみちこころざした。

ボストン・ラテン・スクールて、ハーバード大学だいがくカーティス音楽おんがくいんまなぶ。かれ指揮しきしゃこころざしたのはディミトリ・ミトロプーロス刺激しげきだった。指揮しきではフリッツ・ライナーセルゲイ・クーセヴィツキー師事しじし、作曲さっきょくウォルター・ピストン師事しじした。ピアノはイサベラ・ヴェンゲーロワに師事しじしている。カーティス音楽おんがくいん卒業そつぎょう、しばらく仕事しごとられない時期じきがあったが、1943ねんなつアルトゥール・ロジンスキ指名しめいによりニューヨーク・フィルハーモニックの「ふく指揮しきしゃ」(Assistant Conductor)に就任しゅうにんした。

1943ねん11月14にち病気びょうきのため指揮しきできなくなっただい指揮しきしゃブルーノ・ワルター代役だいやくとしてニューヨーク・フィルハーモニー交響こうきょう楽団がくだんげんニューヨーク・フィルハーモニック)を指揮しき、こののコンサートはラジオでも放送ほうそうされていたこともありいちだいセンセーションをこす。このとき曲目きょくもく以下いかとおりである。

1958ねん、アメリカまれの指揮しきしゃとして史上しじょうはじめてニューヨーク・フィルハーモニー交響こうきょう楽団がくだん音楽おんがく監督かんとく就任しゅうにんする。バーンスタインとニューヨーク・フィルのコンビはだい成功せいこうおさめ、どうフィルの黄金おうごん時代じだいをもたらした。つく音楽おんがく魅力みりょくさくでおおらかな性格せいかく指揮しきしゃとしての情熱じょうねつてき指揮しきぶり(きょうると指揮しきだいじょうでジャンプすることもあった)などでファンを魅了みりょうし、スターせいそなえていた。CBSレコード録音ろくおん契約けいやくわしたさいには「かれ録音ろくおんさいしては、録音ろくおん曲目きょくもく決定けっていをほぼかれ一任いちにんする」待遇たいぐうけ、当時とうじとしては画期的かっきてきなレパートリーも数多かずおお録音ろくおんした。

1969ねんにニューヨーク・フィルの音楽おんがく監督かんとく辞任じにんしたのち常任じょうにん指揮しきしゃとう特定とくていのポストにはかず、ウィーン・フィルイスラエル・フィルバイエルン放送ほうそう交響こうきょう楽団がくだんロンドン交響こうきょう楽団がくだんフランス国立こくりつ管弦楽かんげんがくだんなどに客演きゃくえんした。ことにおなじユダヤけい作曲さっきょくであるグスタフ・マーラー交響こうきょうきょく演奏えんそうみずから“自分じぶんいたようながしてくる”とうほどで、数々かずかず演奏えんそうのこした。音楽おんがく解説かいせつしゃ教育きょういくしゃとしてもおおきな業績ぎょうせきのこし、テレビ放送ほうそうでクラシック音楽おんがくジャズについての啓蒙けいもうてき解説かいせつ演奏えんそうまじえてった。マイケル・ティルソン・トーマス小澤おざわ征爾せいじ大植おおうえ英次えいじ佐渡さわたりひろしなどおおくの弟子でしおくしたことでもられる。

 
1985ねんイスラエル・フィルハーモニー管弦楽かんげんがくだんとの来日らいにち大阪おおさかフェスティバルホールにて。曲目きょくもくマーラー交響こうきょうきょくだい9ばん[1]

1985ねん8がつ広島ひろしまおとずれ、被爆ひばく40周年しゅうねんいたむための「広島ひろしま平和へいわコンサート」を開催かいさいした。1989ねんのクリスマスには、直前ちょくぜんきたベルリンのかべ崩壊ほうかいけ、ベルリン東西とうざいドイツ・アメリカ・ソ連それん・フランス・イギリスのかくオーケストラの混成こんせいメンバーでベートーヴェン交響こうきょうきょくだい9ばん指揮しき、このときだい4楽章がくしょうの「歓喜かんきうた」の“Freude”を“Freiheit(自由じゆう)”にして演奏えんそうし、東西とうざい冷戦れいせん終結しゅうけつ象徴しょうちょうする演奏えんそうかいとして記憶きおくされることとなった。またよく1990ねん6がつにも、民主みんしゅされたチェコスロバキアプラハのはる音楽おんがくさいどうきょく指揮しきした。

これらのように音楽家おんがくかとして社会しゃかいてきなメッセージを発信はっしんする活動かつどう数多かずおおったが、ときにはそうした行動こうどう物議ぶつぎかもすこともあった。

 
バーンスタインのはか

1990ねん6がつには札幌さっぽろみずか創設そうせつした国際こくさい教育きょういく音楽おんがくさいパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)を開始かいしし、後進こうしん育成いくせいにもちかられようとしていたが、すでにバーンスタインはやまいおかされていた。同年どうねん8がつ19にちタングルウッド音楽おんがくさいにおけるボストン交響こうきょう楽団がくだんとの演奏えんそうブリテン:「4つのうみ間奏かんそうきょく」、ベートーヴェン交響こうきょうきょくだい7ばん)が最後さいご舞台ぶたいとなり、10月9にち指揮しき活動かつどうからの引退いんたい表明ひょうめいする。それから5にち10月14にちに、肺癌はいがんのためニューヨーク市内しない自宅じたく逝去せいきょした。まん72さいぼつ。このとし高松宮たかまつのみや殿下でんか記念きねん世界せかい文化ぶんかしょう受賞じゅしょうしている。

バーンスタインは生涯しょうがいに7来日らいにちした。最初さいしょの4かい1961ねん1970ねん1974ねん1979ねん)はニューヨーク・フィルをひきいて。1985ねんには8がつ上旬じょうじゅん前述ぜんじゅつの「広島ひろしま平和へいわコンサート」を開催かいさいし、9月前半ぜんはんにはイスラエル・フィルをひきいて来日らいにち公演こうえんおこなった。最後さいご(1990ねん)はPMF(7がつ3にち)、それにつづいてロンドン交響こうきょう楽団がくだんひきい、東京とうきょうで2かい公演こうえんおこなった。逝去せいきょする3ヶ月かげつまえ、PMFのために札幌さっぽろ芸術げいじゅつもりおこなわれたリハーサルの模様もようさい晩年ばんねん様子ようすはNHK特集とくしゅう「バーンスタイン」に収録しゅうろくされ放映ほうえいされた。しかし、バーンスタインの病状びょうじょう悪化あっか周囲しゅういらされず、2かい東京とうきょう公演こうえん以降いこう予定よていされていた演奏えんそうかいをキャンセルし、途中とちゅうでアメリカに帰国きこくすることになる。このいちけんは、7がつ10日とおか演奏えんそうかい天皇てんのう明仁あきひと招待しょうたいされていたことや、自作じさく「ウェスト・サイド・ストーリー」よりシンフォニック・ダンス)を弟子でし大植おおうえ英次えいじ指揮しきさせたこともあり、観客かんきゃく一部いちぶ主催しゅさいしゃとのあいだにトラブルをこす事態じたいにまで発展はってんした。

エピソード 編集へんしゅう

ヘビースモーカー 編集へんしゅう

ヘビースモーカーとして有名ゆうめいで、14さいとき煙草たばこおぼえたという。煙草たばこにまつわるエピソードもおおく、1986ねん(68さいとき)には米国べいこく新聞紙しんぶんしめんで「わたしは20さいだいなかばに肺気腫はいきしゅ兆候ちょうこうがあると診断しんだんされた。煙草たばこをやめなければ35さいまでにぬとわれた」とかたったことがある。著名ちょめいミュンヘン音楽おんがく評論ひょうろんであるヨアヒム・カイザー談話だんわによれば、かれは1にち煙草たばこを100ほん(5はこ)とウイスキー1ほんむことを日課にっかとしていたという。また、晩年ばんねんにアシスタントをつとめた佐渡さわたりひろし著書ちょしょによれば、しばしば「今日きょう禁煙きんえんするが、最後さいごに1ほんだけ」と煙草たばこをつけ、結局けっきょくやめたことはなかったという。

カラヤン 編集へんしゅう

 
ヘルベルト・フォン・カラヤン

バーンスタインがカラヤンはじめてったのは1948ねんかれがまだ30さいのときであった。音楽おんがくファンから“ライバル”とみなされてきた2人ふたりだけに、おびただしいかずおよ比較ひかくなどがおこなわれ、2人ふたり関連かんれんしてかたられるエピソードには脚色きゃくしょくおおい。

ウィーンでは、バーンスタインの演奏えんそうかい前後ぜんごにカラヤンの演奏えんそうかいひらかれることがよくあった。佐渡さわたりひろしはなしによれば、1988ねんあきのあるのこと、佐渡さわたりはバーンスタインの演奏えんそうかい翌日よくじつにあったカラヤンの演奏えんそうかい前売まえうけん購入こうにゅうした。自分じぶん演奏えんそうかい翌日よくじつにカラヤンの演奏えんそうかいがあることをったバーンスタインは佐渡さどに「明日あした(カラヤンの演奏えんそうかいに)くのか?」とたずね、佐渡さわたりが「きます」と告白こくはくしたところ「おれれてってくれよ」。佐渡さどとマネージャーが「あなたがけば、マスコミがスキャンダラスにてるから」とくことを断念だんねんするよう説得せっとくしたが、「おれはヤツの音楽おんがくきらいなんだけど、ヤツのかおたいんだ」。翌日よくじつ、おしのびでカラヤンの演奏えんそう会場かいじょう出現しゅつげんしたバーンスタインは、舞台裏ぶたいうらで“めでたく”カラヤンと対面たいめんしたという。

カラヤンの伝記でんき作者さくしゃリチャード・オズボーンによれば、カラヤンは1988ねん4がつ5にち、80さい誕生たんじょういわいのバースデー・カードをバーンスタインからったという。よく1989ねん7がつ16にちにカラヤンが死去しきょしたときパリ演奏えんそうかいでこのニュースにせっしたバーンスタインは、かれのために2分間ふんかん黙祷もくとうささげ、2ヶ月かげつ9月16にちにウィーン・フィルがひらいたカラヤン追悼ついとう演奏えんそうかいでは、ベートーヴェン弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい16ばん弦楽げんがく合奏がっそうはん指揮しきした。

とくわかころは、おたがいに相手あいて才能さいのうみとっていたと、オズボーンはしるしている。1958ねんにニューヨーク・フィルの客演きゃくえんにカラヤンを招聘しょうへいしたのもバーンスタインであった。カラヤンは11月13にちから23にちにかけて、合計ごうけい8かい演奏えんそうかい指揮しきしている。きょくモーツァルト交響こうきょうきょくだい40ばんリヒャルト・シュトラウスの「英雄えいゆう生涯しょうがい」など。

なお、カラヤンとバーンスタインのあいだ本当ほんとう確執かくしつがあったかどうかであるが、すくなくともバーンスタインは音楽おんがくジャーナリストのエンリーコ・カスティリォーネとの対談たいだんにおいてこれを完全かんぜん否定ひていしている。そればかりか、カラヤンのくなるすこまえ、そうしたうわさ一挙いっきょ払拭ふっしょくするためにおな演奏えんそうかい指揮しきだいうという合同ごうどう演奏えんそうかいはなしをカラヤンからちかけられたといい、バーンスタインはこれをすぐにれた。

これをけてカラヤンがバーンスタインに「ベルリン・フィル指揮しきしたいか」とたずねたところ、バーンスタインは「ベルリン・フィルの音楽家おんがくかあまやかされすぎて、最早もはやカラヤンを常任じょうにん指揮しきしゃとしてのぞまなくなっている」という理由りゆうからウィーン・フィルでの演奏えんそうかいのぞんだ。カラヤンはこの選択せんたく非常ひじょうよろこんだという。二人ふたりはこの演奏えんそうかい心待こころまちにしていたが、カラヤンのによってついにたされることはなかった。

カラヤンがぼっしたよくなつ札幌さっぽろでのパーティでバーンスタインに同席どうせきした音楽おんがく評論ひょうろんクラウス・ガイテルによれば、バーンスタインは、ウィーン・ムジークフェラインザールにカラヤンをたずねたときのことを、カラヤンへのふか尊敬そんけいねんとともにかたったという。

トスカニーニ 編集へんしゅう

バーンスタインのわかいころ、自宅じたくで「トスカニーニ指揮しきする」ベルリオーズの「ロメオとジュリエット」のレコードをいていたところ、ふと疑問ぎもんおも演奏えんそう箇所かしょがあったため、バーンスタインはそのことをくためにトスカニーニの自宅じたく訪問ほうもん面会めんかいした。しかし、レコードしつ管理かんりしていたトスカニーニの息子むすこ外出がいしゅつしており、「疑問ぎもんてんかんしてはのちほど手紙てがみこたえよう」ということになった。ところが、バーンスタインが帰宅きたくいていたレコードをよくると演奏えんそうしゃはトスカニーニではなくシャルル・ミュンシュであった。あわてたバーンスタインは早速さっそくおのれ勘違かんちがいを謝罪しゃざいする手紙てがみき、それをそうとしたところトスカニーニからの返事へんじとどいた。おそおそるその手紙てがみると、「きみ指摘してきけてレコードをなおしてみたが、わたし解釈かいしゃく間違まちがっていないとおもう。しかし、それが万全ばんぜんなものであるともかぎらないはずだ。貴重きちょう忠告ちゅうこくをありがとう」とつづられていた。

フルトヴェングラー 編集へんしゅう

1950ねんフルトヴェングラーアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽かんげんがくだん客演きゃくえんしたさい、ちょうどアムステルダムに仕事しごと滞在たいざいしていたバーンスタインはフルトヴェングラーの演奏えんそうかいきにいき、とくブラームス交響こうきょうきょくだい1ばん魅了みりょうされた。演奏えんそうかい終了しゅうりょう楽屋がくやたずねようとしたが、ナチス協力きょうりょくしゃとされているフルトヴェングラーをユダヤじんのバーンスタインが訪問ほうもんするというのは政治せいじてきにも非常ひじょう危険きけんなことだとかれのエージェントにめられたため(当日とうじつ演奏えんそう会場かいじょうそとでは、フルトヴェングラーがだい世界せかい大戦たいせんちゅうドイツにとどまったことを非難ひなんするデモがおこなわれていた)、断念だんねんせざるをえなかった。そしてついにこの二人ふたり天才てんさいてき芸術げいじゅつ個人こじんてき面識めんしきつチャンスは永遠えいえんうしなわれたのであった。フルトヴェングラーの死後しご、バーンスタインはフルトヴェングラーの日記にっき機会きかいがあり、アムステルダムでのフルトヴェングラーの演奏えんそうかい数日すうじつ、バーンスタインの演奏えんそうかいをフルトヴェングラーがきにいき、このわかいアメリカの指揮しきしゃ完全かんぜん魅了みりょうされた、とあった。演奏えんそうかいにバーンスタインにおうとしたが、やはり政治せいじてき問題もんだいもあり、自分じぶん人見知ひとみしりする性質せいしつなのであきらめたとかれていた。

ライナー 編集へんしゅう

くわしくは「フリッツ・ライナー#エピソード」を参照さんしょう

前述ぜんじゅつとおり、わかのバーンスタインはカーティス音楽おんがくいんでライナーに師事しじして指揮しきほうならっている。バーンスタインはライナーの指導しどうについてつぎのように述懐じゅっかいしている。「ライナーは専制せんせいてき残酷ざんこく辛辣しんらつ無慈悲むじひだったけれども、それは、なに問題もんだいかを理解りかいしていない相手あいてたいしてだけだった。かれ指導しどうは、まったくしんじられないような要求ようきゅう水準すいじゅんたかさをっていたが、しかしかれ自分じぶん自身じしんもとめる以上いじょうのことを学生がくせいもとめることはけっしてやらなかった。かれは、演奏えんそうするきょく完全かんぜんらないかぎり、オーケストラのまえてはいけないということをおしえてくれた。かれこそまさに天才てんさいだった。指揮しきわたしたか水準すいじゅんたっすることができたのは、ライナーの指導しどう賜物たまものである。だからこそわたしは、いまかれ崇拝すうはいしているのである」。また、ライナーもバーンスタインのことを「やつ天才てんさいだ」とひょうして指導しどうちからをいれ、卒業そつぎょうときには弟子でしにはけっしてあたえることがなかった最高さいこうランクの「A」評価ひょうかをつけた。

チェリビダッケ 編集へんしゅう

同業どうぎょう指揮しきしゃたいする辛辣しんらつ批判ひはんられるセルジュ・チェリビダッケ矛先ほこさきは、当然とうぜんバーンスタインにもけられていた。バーンスタインは「自分じぶん世界せかいとは無縁むえん」である、とかたった。しかし、バーンスタインが1990ねんくなったときちょうど来日らいにちしていたチェリビダッケは、バーンスタインについて「かれわたし長年ながねん書簡しょかんわしてきた。かれしん天才てんさいだった。かれくなるにはあまりにもはやすぎた」と、そのいたんだといわれている。

カルロス・クライバー 編集へんしゅう

12さいであるカルロス・クライバーをバーンスタインはふか尊敬そんけいしており、クライバーの指揮しきしたプッチーニの「ラ・ボエーム」を「もっとうつくしい聴体験たいけんひとつ」とかたっているほどであった。クライバーは、1992ねん1がつ1にちにバーンスタインがたせなかったウィーン・フィルとのニューイヤーコンサート指揮しき代行だいこうしている。しかし、同年どうねん3がつのウィーン・フィル創立そうりつ150周年しゅうねん記念きねん来日らいにち公演こうえんはクライバーの急病きゅうびょうによりキャンセルされ、ジュゼッペ・シノーポリ来日らいにちした。

共産きょうさん主義しゅぎへの傾倒けいとう 編集へんしゅう

バーンスタインにかぎらず、当時とうじのアメリカのおおくの芸術げいじゅつ政治せいじてき傾向けいこうとして共産きょうさん主義しゅぎ傾倒けいとうしていた。バーンスタインは熱心ねっしん民主党みんしゅとう支持しじしゃであり、ジョン・F・ケネディ大統領だいとうりょう理想りそう政治せいじとして尊敬そんけいしていた。

同性愛どうせいあい 編集へんしゅう

バーンスタインは師匠ししょうミトロプーロスおなじく、同性愛どうせいあい傾向けいこうゆうしていた。かれは1951ねん結婚けっこんしたフェリシア夫人ふじんとのあいだに3をもうけ、病床びょうしょうした夫人ふじんがんだと判明はんめいすると献身けんしんてき看護かんごするなど(フェリシアは1978ねん死去しきょ晩年ばんねんのバーンスタインにはおおきな精神せいしんてき打撃だげきあたえたことをかれ周囲しゅうい人々ひとびと回想かいそうしている)、つまふかあいしていたが、その一方いっぽうみずからの同性愛どうせいあい傾向けいこうかくさなかったのも事実じじつであり、男性だんせい必要ひつよう以上いじょう親密しんみつにふるまうこともおおかった。たまりかねたフェリシアが「もうおとこといちゃつくのはやめて!」とうったえると、バーンスタイン自身じしん平然へいぜんと「なにっているんだい? 芸術げいじゅつってのはホミンテルンホモコミンテルン)なんだぜ」とこたえたという。また、ファーリー・グレンジャー2007ねん出版しゅっぱんした自伝じでんのなかで、バーンスタインとの恋愛れんあい関係かんけいについて告白こくはくしている。

最後さいごのコンサート 編集へんしゅう

最後さいご指揮しきとなったボストンでのコンサートは体力たいりょく消耗しょうもうはげしく、最初さいしょの「ピーター・グライムズ 4つのうみ間奏かんそうきょく」はなにとかえたものの、最後さいごのベートーヴェンの交響こうきょうきょくだい7ばんになるとえてうごきがわるくなった。だい3楽章がくしょうではうでがらなくなったが、コンサートマスターとアイコンタクトをとりながら体力たいりょくたくわえ、だい4楽章がくしょうまでをえた。そのげのパーテイーもそこそこに、ニューヨークにんでがえり、すべてのコンサートをキャンセルして引退いんたい宣言せんげんおこなった。 ( 中川なかがわみぎかい巨匠きょしょうたちのラストコンサート』文春ぶんしゅん新書しんしょ 636)

その 編集へんしゅう

小惑星しょうわくせい(4476) Bernsteinはバーンスタインの名前なまえにちなんで命名めいめいされた[2]

2023ねん、バーンスタインとつまフェリシアがあゆんだ紆余曲折うよきょくせつちたあい葛藤かっとう人生じんせいえがいた映画えいがマエストロ: その音楽おんがくあい』が制作せいさくされた。ブラッドリー・クーパーけん監督かんとく脚本きゃくほん製作せいさく)がバーンスタインをえんじた[3]

指揮しき活動かつどう 編集へんしゅう

 
レナード・バーンスタイン(1945ねん
 
ニューヨーク・フィルを指揮しきするバーンスタイン(1958ねん
 
レナード・バーンスタイン(1971ねん

レナード・バーンスタインの指揮しき活動かつどうは、おおきくけて3つの時期じき大別たいべつすることができる。

バーンスタインが25さい指揮しき活動かつどうはじめた時期じきアメリカ国内こくない活動かつどうしていた指揮しきしゃはほとんどが他国たこくから移住いじゅうしてきたものたち(トスカニーニ、ワルターモントゥーオーマンディなど)であり、ブルーノ・ワルターのようにだい世界せかい大戦たいせんなんのがれてきたものおおかった。「アメリカまれ・アメリカそだち」の指揮しきしゃはほとんどいなかったため、バーンスタインはすぐにアメリカ・クラシック音楽おんがくかい期待きたいほしとなる。当時とうじ録音ろくおん技術ぎじゅつもモノラルしかなかったため、バーンスタインの最初さいしょ録音ろくおん比較的ひかくてきすくないが、かれはやくから幅広はばひろいレパートリーを手中しゅちゅうおさめていたことがかる。1953ねん12月、35さいのバーンスタインはアメリカじん指揮しきしゃとしてはじめてミラノスカラ座すからざ客演きゃくえん指揮しきまねかれ、ケルビーニのオペラ『メデア』を指揮しきした。1950年代ねんだい前半ぜんはん時期じき若手わかて指揮しきしゃとしてもっと目覚めざましい躍進やくしんせていたのが、バーンスタインとイタリアグィド・カンテルリ2人ふたりだった。

1954ねん11月18にち、バーンスタインはCBSのテレビ・ドキュメンタリー・シリーズ「オムニバス」に出演しゅつえんし、ベートーヴェン交響こうきょうきょくだい5ばん解説かいせつおこなった。これが一連いちれん教育きょういく番組ばんぐみ青少年せいしょうねんコンサート』(Young People’s Concert)の出発しゅっぱつてんとなる。ニューヨーク・フィルの常任じょうにん指揮しきしゃ就任しゅうにん前年ぜんねん、39さいだった1957ねん代表だいひょうさくウエスト・サイド物語ものがたり』がされた。

ニューヨーク・フィルハーモニックの常任じょうにん指揮しきしゃ時代じだい、バーンスタインの主要しゅようレパートリーはCBSレコード現在げんざいソニー・ミュージックエンタテインメント)が独占どくせん契約けいやく録音ろくおんしていた。『青少年せいしょうねんコンサート』もこの時期じき活動かつどうおおきな位置いちめている。どうオーケストラの常任じょうにん指揮しきしゃ職務しょくむにあった時期じき、バーンスタインはみずからの「補助ほじょ指揮しきしゃ」の育成いくせいにも尽力じんりょくした。ここから小澤おざわ征爾せいじクラウディオ・アバドズデニェク・コシュラーなどの指揮しきしゃそだっていった。しかし、この時期じき作曲さっきょくにあてる時間じかんがほとんどれず、おも作品さくひん1963ねん作曲さっきょく交響こうきょうきょくだい3ばん『カディッシュ』と1965ねん作曲さっきょく宗教しゅうきょう合唱がっしょうきょく『チチェスター詩篇しへん』ぐらいしかない。わざわざ「作曲さっきょく時間じかんるため」1964ねん-1965ねんのシーズンはやすみをったほどである。1966ねんにバーンスタインははじめてウィーン・フィルハーモニー管弦楽かんげんがくだん客演きゃくえん指揮しきまねかれ、このオーケストラとの良好りょうこう関係かんけい終生しゅうせいにわたってつづいた。

1969ねん最後さいごにバーンスタインがニューヨーク・フィル常任じょうにん指揮しきしゃのポスト辞任じにん希望きぼうした理由りゆうは「作曲さっきょく時間じかんるため」だった。作曲さっきょく分野ぶんやでは『ウエスト・サイド物語ものがたり』を上回うわまわ作品さくひんしたいというねがいはたされなかったが、バーンスタインは“世界一せかいいち客演きゃくえん指揮しきしゃ”としてたか人気にんきあつめた。1970年代ねんだいなかばにはCBSレコードとの独占どくせん録音ろくおん契約けいやくはなれ、ドイツ・グラモフォンおよびEMI録音ろくおん契約けいやくわして、かつて録音ろくおんしていたレパートリーのさい録音ろくおん中心ちゅうしんに、ヨーロッパとアメリカのさまざまなオーケストラとの多彩たさい録音ろくおん着手ちゃくしゅした。このうちEMIとの契約けいやく短期たんき終了しゅうりょうしたが、グラモフォンとの関係かんけいはその専属せんぞくとなり、バーンスタイン最後さいごのコンサートのライブ録音ろくおんまでつづくことになる。CBSレコード時代じだいきゅう録音ろくおんと、EMI・グラモフォン時代じだいしん録音ろくおんあいだでは、溌剌はつらつとした前者ぜんしゃこのもの後者こうしゃ指揮しきしゃとしての円熟えんじゅくかんじるものなど、当然とうぜんのことながら評価ひょうかひとにより、またきょくによりまちまちである。

グラモフォンでの録音ろくおんおおくが、当初とうしょから商品しょうひん想定そうていしたライブ・レコーディングでおこなわれたのも、当時とうじとしては画期的かっきてきであった。同時どうじユニテル放送ほうそうきょくによる映像えいぞう収録しゅうろく積極せっきょくてきおこなわれるようになる。1979ねんから1981ねん発表はっぴょうされたベートーヴェン交響曲こうきょうきょく全集ぜんしゅう序曲じょきょくしゅう弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい14ばん弦楽げんがく合奏がっそうばん)および『ミサ・ソレムニス』は、マクシミリアン・シェルとバーンスタインによる楽曲がっきょく解説かいせつふくオーストリア放送ほうそう協会きょうかい制作せいさくのTVミニシリーズ『ベートーヴェン/バーンスタイン』と並行へいこうして録音ろくおんされたものである。

この時期じき1979ねん10月4にち5にちベルリン・フィルハーモニー管弦楽かんげんがくだんと1かぎりの共演きょうえんおこなわれた。曲目きょくもくは、マーラー交響こうきょうきょくだい9ばんで、バーンスタインの没後ぼつご1992ねんに、放送ほうそうようのライブ録音ろくおん音源おんげんから商品しょうひんとしてリリースされた。これをバーンスタインの代表だいひょうさくとする熱心ねっしんなききていまなおおおい。

わかころには情熱じょうねつてきできびきびした音楽おんがくづくりが魅力みりょくでもあったバーンスタインは、晩年ばんねんにはゆったりとした重厚じゅうこう表現ひょうげんこのむようになる。ときにはきわめて主観しゅかんてき演奏えんそう展開てんかいし、楽譜がくふから表現ひょうげんしうる限界げんかいといえるほどの感情かんじょう移入いにゅういとわなかった。かれもっとあいした3つのオーケストラはニューヨーク・フィル、ウィーン・フィル、そしてイスラエル・フィルハーモニー管弦楽かんげんがくだんであった。

2000ねん10月、バーンスタインの没後ぼつご10ねんにニューヨーク・フィルの「自主じしゅ制作せいさくばん」として「バーンスタイン・ライブ」(Bernstein Live)という10まいぐみのCDが発売はつばいされた。なかには正規せいき録音ろくおんのこされなかっためずらしいレパートリーも見出みいだされ(ワーグナーかみ々の黄昏たそがれ』、ブルックナー交響こうきょうきょくだい6ばんなど)、ヴィルヘルム・ケンプピアノ)とのベートーヴェンピアノ協奏曲きょうそうきょくだい3ばんジャクリーヌ・デュ・プレチェロ)とのシューマンチェロ協奏曲きょうそうきょくなどのめずらしい共演きょうえん正式せいしき録音ろくおんとして発売はつばいされた。

バーンスタインはまた、積極せっきょくてき現代げんだいきょく演奏えんそうにもんだ。自身じしんきょくくわえて、ショスタコーヴィチストラヴィンスキーコープランドアイヴズひとし作品さくひん積極せっきょくてき紹介しょうかいした。現代げんだい音楽おんがく分野ぶんやにおいても、代表だいひょうてきには、メシアンの『トゥーランガリラ交響曲こうきょうきょく』の世界せかい初演しょえんになったほか、ニューヨーク・フィルとうともに、ヴァレーズの『インテグラル』と『アルカナ』、デニソフの『クレッシェンドとディミヌェンド』、ブーレーズの『プリ・スロン・プリ』より「マラルメによる即興そっきょうだい1」、フェルドマン最後さいご作品さくひん』から、ケージの『黄道こうどう地図ちず』、カーターの『管弦楽かんげんがくのための協奏曲きょうそうきょく』、メシアンの『かみ現存げんそんについての3つのしょう典礼てんれい』、リゲティの『アトモスフェール』、クセナキスの『ヒトプラクタ』、ダッラピッコラの『タルティニアーナ』、ガンサー・シュラーの『トリプラム』など様々さまざま録音ろくおんのこしている。そのほかにも、とりわけアメリカの現代げんだい作曲さっきょく作品さくひん中心ちゅうしんおおくの現代げんだいきょくっている。また、日本人にっぽんじん作曲さっきょくではまゆずみ敏郎としおの『饗宴きょうえん』をこのんで指揮しきしたという。 また、バーンスタインはテレビけにシェーンベルク解説かいせつをしてことはあるが、シェーンベルクの録音ろくおんのこしていない。一方いっぽうおなしんウィーンらくぞくするヴェーベルンベルク作品さくひん録音ろくおんしている。

バーンスタインがニューヨーク・フィルでったおおくのきょくのスコアは、バーンスタインのみがはいったかたちのまま、ニューヨーク・フィルのデジタル・アーカイヴで検索けんさく閲覧えつらんすることができる[1]

主要しゅよう作品さくひん 編集へんしゅう

バーンスタインの作品さくひん特徴とくちょう 編集へんしゅう

 
ウェスト・サイド物語ものがたり

初期しょきはブロードウェイ・ミュージカルで音楽おんがく活動かつどう基盤きばんきずき、その分野ぶんやでははやくから人気にんき作曲さっきょくになっていた。

いっぽうでシリアス・ミュージックの作曲さっきょくとしては、交響こうきょうきょくだい1ばん『エレミア』、交響こうきょうきょくだい3ばん『カディッシュ』など、ユダヤきょう影響えいきょうけた宗教しゅうきょうてき作品さくひん数多かずおおのこしている。それらは宗教しゅうきょうてきなメッセージをはらみながらけっして難解なんかいではなく、むしろとき啓蒙けいもうてき作風さくふうであるのが特徴とくちょうといえる。現代げんだいの「信仰しんこう危機きき」というテーマを、ローマ・カトリックの典礼てんれいぶん下敷したじきに、ミュージカルシアター作品さくひんとしてげた『ミサ』は、大衆たいしゅうせい宗教しゅうきょうてきモティーフとの両面りょうめん統合とうごうしたてんで、作曲さっきょくバーンスタインを象徴しょうちょうする作品さくひんである。

作風さくふう折衷せっちゅうてき様式ようしきかれたものがおおい。1つの作品さくひんなかでジャズやクラシックなどのさまざまな音楽おんがく要素ようそたくみにぜることは、かれ生前せいぜんには批判ひはんおおかったてんの1つだった。しかし現代げんだいにあっては、むしろ多様たよう表現ひょうげん様式ようしき融合ゆうごう音楽おんがく潮流ちょうりゅうともなっており、「ウェスト・サイド物語ものがたり」「キャンディード」といったもともとミュージカルシアターのためにかれた作品さくひんがミラノ・スカラ座すからざをはじめトップクラスの歌劇かげきじょう上演じょうえんされるようになったのも、バーンスタインの作品さくひんへのさい評価ひょうかうごきのあらわれである。

受賞じゅしょうれき 編集へんしゅう

アカデミーしょう 編集へんしゅう

ノミネート
1955ねん アカデミードラマ・コメディ音楽おんがくしょう:『波止場はとば

バーンスタイン自身じしん著書ちょしょ 編集へんしゅう

  • 音楽おんがくのよろこび』(The Joy of Music, 1959ねん
  • 青少年せいしょうねんコンサート』(Leonard Bernstein's Young People's Concerts, 1962ねん
    • 青少年せいしょうねんコンサート 音楽おんがく鑑賞かんしょうあたらしいこころみ』、岡野おかのべんやく全音楽譜出版社ぜんおんがくふしゅっぱんしゃ、1976ねん
  • 音楽おんがく無限むげん多様たようせい』(The Infinite Variery of Music, 1966ねん
  • こたえのない質問しつもん』(The Unanswered Question, 1976ねん) 当時とうじ初版しょはんには、画期的かっきてきなサンプル・レコードばんがついていた。
  • 発見はっけん』(Findings, 1982ねん
    • 『バーンスタイン わが音楽おんがくてき人生じんせい』、岡野おかのべんやく作品社さくひんしゃ、2012ねん

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

参考さんこう文献ぶんけん 編集へんしゅう

  • ハンフリー・バートン『バーンスタインの生涯しょうがい』、棚橋たなはしこころざしぎょうやく福武書店ふくたけしょてんうえした)、1994ねん
    • 新版しんぱん青土おうづちしゃうえした)、2018ねん上巻じょうかんISBN 479177065X下巻げかんISBN 4791770668没後ぼつごはじめての本格ほんかくてき伝記でんき
  • CDジャーナル・ムック「対決たいけつ! カラヤン vs. バーンスタイン」音楽おんがく出版しゅっぱんしゃへん、1997ねんISBN 4900340065
  • 写真しゃしんしゅう レナード・バーンスタイン」(原題げんだい Bernstein Remembered)、アルファベータしゃ、1996ねんISBN 4871984982
  • ウィリアム・ウェストブルック・バートンへん『バーンスタインのおも』、山田やまだ治生はるおやく音楽之友社おんがくのともしゃ、1997ねんISBN 4276217229
  • ジョナサン・コット『レナード・バーンスタイン ザ・ラスト・ロング・インタビュー』
    山田やまだ治生はるおやく、アルファベータ・ブックス、2013ねんISBN 4871985806
  • バートン・バーンスタイン『バーンスタイン その音楽おんがく家族かぞく』、須加すか葉子ようこやく新潮社しんちょうしゃ、1986ねんISBN 4105193015実弟じってい著書ちょしょ
  • レナード・バーンスタイン/エンリーコ・カスティリォーネ『バーンスタイン 音楽おんがくきる』
    西本にしもと晃二こうじ監訳かんやくかさ映子えいこやく青土おうづちしゃ、1999ねん新版しんぱん2018ねんISBN 4791770676
  • Peter Gradenwitz: Leonard Bernstein: 1918–1990; unendliche Vielfalt eines Musikers. Atlantis, Zürich 1995, ISBN 3-254-00174-5
  • Joan Peyser: Leonard Bernstein: die Biographie eines Musikgenies. Heyne, München 1991, ISBN 3-453-04626-9
  • Barry Seldes: Leonard Bernstein : the political life of an American musician Berkeley, Calif. [u.a.] : Univ. of California Press, 2009, ISBN 978-0-520-25764-1
  • Klaus Geitel: Die Kunst, Leonard Bernstein zu sein. from Booklet of Leonard Bernstein The Symphony Edition. Sony Music 2010

外部がいぶリンク 編集へんしゅう