ヘビースモーカーとして有名 ゆうめい で、14歳 さい の時 とき に煙草 たばこ を覚 おぼ えたという。煙草 たばこ にまつわるエピソードも多 おお く、1986年 ねん (68歳 さい の時 とき )には米国 べいこく の新聞紙 しんぶんし 面 めん で「私 わたし は20歳 さい 代 だい の半 なか ばに肺気腫 はいきしゅ の兆候 ちょうこう があると診断 しんだん された。煙草 たばこ をやめなければ35歳 さい までに死 し ぬと言 い われた」と語 かた ったことがある。著名 ちょめい なミュンヘン の音楽 おんがく 評論 ひょうろん 家 か であるヨアヒム・カイザー の談話 だんわ によれば、彼 かれ は1日 にち に煙草 たばこ を100本 ほん (5箱 はこ )とウイスキー 1本 ほん を飲 の むことを日課 にっか としていたという。また、晩年 ばんねん にアシスタントを務 つと めた佐渡 さわたり 裕 ひろし の著書 ちょしょ によれば、しばしば「今日 きょう で禁煙 きんえん するが、最後 さいご に1本 ほん だけ」と煙草 たばこ に火 ひ をつけ、結局 けっきょく やめたことはなかったという。
ヘルベルト・フォン・カラヤン
バーンスタインがカラヤン と初 はじ めて会 あ ったのは1948年 ねん 、彼 かれ がまだ30歳 さい のときであった。音楽 おんがく ファンから“ライバル”とみなされてきた2人 ふたり だけに、おびただしい数 かず に及 およ ぶ比較 ひかく などが行 おこな われ、2人 ふたり に関連 かんれん して語 かた られるエピソードには脚色 きゃくしょく が多 おお い。
ウィーンでは、バーンスタインの演奏 えんそう 会 かい の前後 ぜんご にカラヤンの演奏 えんそう 会 かい が開 ひら かれることがよくあった。佐渡 さわたり 裕 ひろし の話 はなし によれば、1988年 ねん 秋 あき のある日 ひ のこと、佐渡 さわたり はバーンスタインの演奏 えんそう 会 かい の翌日 よくじつ にあったカラヤンの演奏 えんそう 会 かい の前売 まえう り券 けん を購入 こうにゅう した。自分 じぶん の演奏 えんそう 会 かい の翌日 よくじつ にカラヤンの演奏 えんそう 会 かい があることを知 し ったバーンスタインは佐渡 さど に「明日 あした (カラヤンの演奏 えんそう 会 かい に)行 い くのか?」と尋 たず ね、佐渡 さわたり が「行 い きます」と告白 こくはく したところ「俺 おれ も連 つ れてってくれよ」。佐渡 さど とマネージャーが「あなたが行 い けば、マスコミがスキャンダラスに書 か き立 た てるから」と行 い くことを断念 だんねん するよう説得 せっとく したが、「俺 おれ はヤツの音楽 おんがく は嫌 きら いなんだけど、ヤツの顔 かお が見 み たいんだ」。翌日 よくじつ 、お忍 しの びでカラヤンの演奏 えんそう 会場 かいじょう に出現 しゅつげん したバーンスタインは、舞台裏 ぶたいうら で“めでたく”カラヤンと対面 たいめん したという。
カラヤンの伝記 でんき 作者 さくしゃ リチャード・オズボーンによれば、カラヤンは1988年 ねん 4月 がつ 5日 にち 、80歳 さい の誕生 たんじょう 日 び 祝 いわ いのバースデー・カードをバーンスタインから受 う け取 と ったという。翌 よく 1989年 ねん 7月 がつ 16日 にち にカラヤンが死去 しきょ した時 とき 、パリ の演奏 えんそう 会 かい でこのニュースに接 せっ したバーンスタインは、彼 かれ のために2分間 ふんかん の黙祷 もくとう を捧 ささ げ、2ヶ月 かげつ 後 ご の9月16日 にち にウィーン・フィルが開 ひら いたカラヤン追悼 ついとう 演奏 えんそう 会 かい では、ベートーヴェン の弦楽 げんがく 四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく 第 だい 16番 ばん の弦楽 げんがく 合奏 がっそう 版 はん を指揮 しき した。
特 とく に若 わか い頃 ころ は、お互 たが いに相手 あいて の才能 さいのう を認 みと め合 あ っていたと、オズボーンは記 しる している。1958年 ねん にニューヨーク・フィルの客演 きゃくえん にカラヤンを招聘 しょうへい したのもバーンスタインであった。カラヤンは11月13日 にち から23日 にち にかけて、合計 ごうけい 8回 かい の演奏 えんそう 会 かい を指揮 しき している。曲 きょく はモーツァルト の交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 40番 ばん 、リヒャルト・シュトラウス の「英雄 えいゆう の生涯 しょうがい 」など。
なお、カラヤンとバーンスタインの間 あいだ に本当 ほんとう に確執 かくしつ があったかどうかであるが、少 すく なくともバーンスタインは音楽 おんがく ジャーナリストのエンリーコ・カスティリォーネとの対談 たいだん においてこれを完全 かんぜん に否定 ひてい している。そればかりか、カラヤンの亡 な くなる少 すこ し前 まえ 、そうした噂 うわさ を一挙 いっきょ に払拭 ふっしょく するために同 おな じ演奏 えんそう 会 かい で指揮 しき 台 だい を分 わ け合 あ うという合同 ごうどう 演奏 えんそう 会 かい の話 はなし をカラヤンから持 も ちかけられたといい、バーンスタインはこれをすぐに受 う け入 い れた。
これを受 う けてカラヤンがバーンスタインに「ベルリン・フィル を指揮 しき したいか」と尋 たず ねたところ、バーンスタインは「ベルリン・フィルの音楽家 おんがくか は甘 あま やかされすぎて、最早 もはや カラヤンを常任 じょうにん 指揮 しき 者 しゃ として望 のぞ まなくなっている」という理由 りゆう からウィーン・フィルでの演奏 えんそう 会 かい を望 のぞ んだ。カラヤンはこの選択 せんたく を非常 ひじょう に喜 よろこ んだという。二人 ふたり はこの演奏 えんそう 会 かい を心待 こころま ちにしていたが、カラヤンの死 し によってついに果 は たされることはなかった。
カラヤンが没 ぼっ した翌 よく 夏 なつ 、札幌 さっぽろ でのパーティでバーンスタインに同席 どうせき した音楽 おんがく 評論 ひょうろん 家 か クラウス・ガイテルによれば、バーンスタインは、ウィーン・ムジークフェラインザール にカラヤンを訪 たず ねたときのことを、カラヤンへの深 ふか い尊敬 そんけい の念 ねん とともに語 かた ったという。
バーンスタインの若 わか いころ、自宅 じたく で「トスカニーニ の指揮 しき する」ベルリオーズ の「ロメオとジュリエット 」のレコードを聴 き いていたところ、ふと疑問 ぎもん に思 おも う演奏 えんそう 箇所 かしょ があったため、バーンスタインはそのことを聞 き くためにトスカニーニの自宅 じたく を訪問 ほうもん し面会 めんかい した。しかし、レコード室 しつ を管理 かんり していたトスカニーニの息子 むすこ が外出 がいしゅつ しており、「疑問 ぎもん 点 てん に関 かん しては後 のち ほど手紙 てがみ で答 こた えよう」ということになった。ところが、バーンスタインが帰宅 きたく 後 ご 、聴 き いていたレコードをよく見 み ると演奏 えんそう 者 しゃ はトスカニーニではなくシャルル・ミュンシュ であった。慌 あわ てたバーンスタインは早速 さっそく 己 おのれ の勘違 かんちが いを謝罪 しゃざい する手紙 てがみ を書 か き、それを出 だ そうとしたところトスカニーニからの返事 へんじ が届 とど いた。恐 おそ る恐 おそ るその手紙 てがみ を見 み ると、「君 きみ の指摘 してき を受 う けてレコードを聴 き き直 なお してみたが、私 わたし の解釈 かいしゃく は間違 まちが っていないと思 おも う。しかし、それが万全 ばんぜん なものであるとも限 かぎ らないはずだ。貴重 きちょう な忠告 ちゅうこく をありがとう」と綴 つづ られていた。
1950年 ねん 、フルトヴェングラー がアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽 かんげんがく 団 だん に客演 きゃくえん した際 さい 、ちょうどアムステルダムに仕事 しごと で滞在 たいざい していたバーンスタインはフルトヴェングラーの演奏 えんそう 会 かい を聴 き きにいき、特 とく にブラームス の交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 1番 ばん に魅了 みりょう された。演奏 えんそう 会 かい 終了 しゅうりょう 後 ご 、楽屋 がくや を訪 たず ねようとしたが、ナチス の協力 きょうりょく 者 しゃ とされているフルトヴェングラーをユダヤ人 じん のバーンスタインが訪問 ほうもん するというのは政治 せいじ 的 てき にも非常 ひじょう に危険 きけん なことだと彼 かれ のエージェントに止 と められたため(当日 とうじつ 演奏 えんそう 会場 かいじょう の外 そと では、フルトヴェングラーが第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう ドイツに留 とど まったことを非難 ひなん するデモが行 おこな われていた)、断念 だんねん せざるをえなかった。そしてついにこの二人 ふたり の天才 てんさい 的 てき な芸術 げいじゅつ 家 か が個人 こじん 的 てき な面識 めんしき を持 も つチャンスは永遠 えいえん に失 うしな われたのであった。フルトヴェングラーの死後 しご 、バーンスタインはフルトヴェングラーの日記 にっき を読 よ む機会 きかい があり、アムステルダムでのフルトヴェングラーの演奏 えんそう 会 かい の数日 すうじつ 後 ご 、バーンスタインの演奏 えんそう 会 かい をフルトヴェングラーが聴 き きにいき、この若 わか いアメリカの指揮 しき 者 しゃ に完全 かんぜん に魅了 みりょう された、とあった。演奏 えんそう 会 かい 後 ご にバーンスタインに会 あ おうとしたが、やはり政治 せいじ 的 てき な問題 もんだい もあり、自分 じぶん は人見知 ひとみし りする性質 せいしつ なので諦 あきら めたと書 か かれていた。
詳 くわ しくは「フリッツ・ライナー#エピソード 」を参照 さんしょう 。
前述 ぜんじゅつ の通 とお り、若 わか き日 ひ のバーンスタインはカーティス音楽 おんがく 院 いん でライナーに師事 しじ して指揮 しき 法 ほう を習 なら っている。バーンスタインはライナーの指導 しどう について次 つぎ のように述懐 じゅっかい している。「ライナーは専制 せんせい 的 てき で残酷 ざんこく 、辛辣 しんらつ 、無慈悲 むじひ だったけれども、それは、何 なに が問題 もんだい かを理解 りかい していない相手 あいて に対 たい してだけだった。彼 かれ の指導 しどう は、まったく信 しん じられないような要求 ようきゅう 水準 すいじゅん の高 たか さを持 も っていたが、しかし彼 かれ は自分 じぶん 自身 じしん に求 もと める以上 いじょう のことを学生 がくせい に求 もと めることは決 けっ してやらなかった。彼 かれ は、演奏 えんそう する曲 きょく を完全 かんぜん に知 し らない限 かぎ り、オーケストラの前 まえ に出 で てはいけないということを教 おし えてくれた。彼 かれ こそまさに天才 てんさい だった。指揮 しき で私 わたし が高 たか い水準 すいじゅん に達 たっ することができたのは、ライナーの指導 しどう の賜物 たまもの である。だからこそ私 わたし は、今 いま も彼 かれ を崇拝 すうはい しているのである」。また、ライナーもバーンスタインのことを「奴 やつ は天才 てんさい だ」と評 ひょう して指導 しどう に力 ちから をいれ、卒業 そつぎょう の時 とき には他 た の弟子 でし には決 けっ して与 あた えることがなかった最高 さいこう ランクの「A」評価 ひょうか をつけた。
同業 どうぎょう の指揮 しき 者 しゃ に対 たい する辛辣 しんらつ な批判 ひはん で知 し られるセルジュ・チェリビダッケ の矛先 ほこさき は、当然 とうぜん バーンスタインにも向 む けられていた。バーンスタインは「自分 じぶん の世界 せかい とは無縁 むえん 」である、と語 かた った。しかし、バーンスタインが1990年 ねん に亡 な くなったときちょうど来日 らいにち していたチェリビダッケは、バーンスタインについて「彼 かれ と私 わたし は長年 ながねん 書簡 しょかん を交 か わしてきた。彼 かれ は真 しん の天才 てんさい だった。彼 かれ は亡 な くなるにはあまりにも早 はや すぎた」と、その死 し を悼 いた んだといわれている。
12歳 さい 下 か であるカルロス・クライバー をバーンスタインは深 ふか く尊敬 そんけい しており、クライバーの指揮 しき したプッチーニ の「ラ・ボエーム 」を「最 もっと も美 うつく しい聴体験 たいけん の一 ひと つ」と語 かた っているほどであった。クライバーは、1992年 ねん 1月 がつ 1日 にち にバーンスタインが果 は たせなかったウィーン・フィルとのニューイヤーコンサート の指揮 しき を代行 だいこう している。しかし、同年 どうねん 3月 がつ のウィーン・フィル創立 そうりつ 150周年 しゅうねん 記念 きねん 来日 らいにち 公演 こうえん はクライバーの急病 きゅうびょう によりキャンセルされ、ジュゼッペ・シノーポリ が来日 らいにち した。
共産 きょうさん 主義 しゅぎ への傾倒 けいとう
編集 へんしゅう
バーンスタインに限 かぎ らず、当時 とうじ のアメリカの多 おお くの芸術 げいじゅつ 家 か は政治 せいじ 的 てき 傾向 けいこう として共産 きょうさん 主義 しゅぎ に傾倒 けいとう していた。バーンスタインは熱心 ねっしん な民主党 みんしゅとう 支持 しじ 者 しゃ であり、ジョン・F・ケネディ 大統領 だいとうりょう を理想 りそう の政治 せいじ 家 か として尊敬 そんけい していた。
バーンスタインは師匠 ししょう のミトロプーロス と同 おな じく、同性愛 どうせいあい 傾向 けいこう も有 ゆう していた。彼 かれ は1951年 ねん に結婚 けっこん したフェリシア夫人 ふじん との間 あいだ に3児 じ をもうけ、病床 びょうしょう に伏 ふ した夫人 ふじん が癌 がん だと判明 はんめい すると献身 けんしん 的 てき に看護 かんご するなど(フェリシアは1978年 ねん に死去 しきょ 。晩年 ばんねん のバーンスタインには大 おお きな精神 せいしん 的 てき 打撃 だげき を与 あた えたことを彼 かれ の周囲 しゅうい の人々 ひとびと は回想 かいそう している)、妻 つま を深 ふか く愛 あい していたが、その一方 いっぽう で自 みずか らの同性愛 どうせいあい 傾向 けいこう を隠 かく さなかったのも事実 じじつ であり、男性 だんせい と必要 ひつよう 以上 いじょう に親密 しんみつ にふるまうことも多 おお かった。たまりかねたフェリシアが「もう男 おとこ といちゃつくのはやめて!」と訴 うった えると、バーンスタイン自身 じしん は平然 へいぜん と「なに言 い っているんだい? 芸術 げいじゅつ 家 か ってのはホミンテルン (ホモ +コミンテルン )なんだぜ」と答 こた えたという。また、ファーリー・グレンジャー は2007年 ねん に出版 しゅっぱん した自伝 じでん のなかで、バーンスタインとの恋愛 れんあい 関係 かんけい について告白 こくはく している。
この節 ふし は検証 けんしょう 可能 かのう な参考 さんこう 文献 ぶんけん や出典 しゅってん が全 まった く示 しめ されていないか、不十分 ふじゅうぶん です。 出典 しゅってん を追加 ついか して記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく ください。(このテンプレートの使 つか い方 かた ) 出典 しゅってん 検索 けんさく ? : "レナード・バーンスタイン" – ニュース · 書籍 しょせき · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2011年 ねん 12月 )
最後 さいご の指揮 しき となったボストンでのコンサートは体力 たいりょく の消耗 しょうもう が激 はげ しく、最初 さいしょ の「ピーター・グライムズ 4つの海 うみ の間奏 かんそう 曲 きょく 」は何 なに とか終 お えたものの、最後 さいご のベートーヴェンの交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 7番 ばん になると目 め に見 み えて動 うご きが悪 わる くなった。第 だい 3楽章 がくしょう では腕 うで が上 あ がらなくなったが、コンサートマスターとアイコンタクトをとりながら体力 たいりょく を蓄 たくわ え、第 だい 4楽章 がくしょう までを終 お えた。その後 ご 打 う ち上 あ げのパーテイーもそこそこに、ニューヨークに飛 と んで帰 がえ り、すべてのコンサートをキャンセルして引退 いんたい 宣言 せんげん を行 おこな った。
( 中川 なかがわ 右 みぎ 介 かい 『巨匠 きょしょう たちのラストコンサート』文春 ぶんしゅん 新書 しんしょ 636)
小惑星 しょうわくせい (4476) Bernstein はバーンスタインの名前 なまえ にちなんで命名 めいめい された[2] 。
2023年 ねん 、バーンスタインと妻 つま フェリシアが歩 あゆ んだ紆余曲折 うよきょくせつ に満 み ちた愛 あい と葛藤 かっとう の人生 じんせい を描 えが いた映画 えいが 『マエストロ: その音楽 おんがく と愛 あい と 』が制作 せいさく された。ブラッドリー・クーパー (兼 けん 監督 かんとく ・脚本 きゃくほん ・製作 せいさく )がバーンスタインを演 えん じた[3] 。
レナード・バーンスタイン(1945年 ねん )
ニューヨーク・フィルを指揮 しき するバーンスタイン(1958年 ねん )
レナード・バーンスタイン(1971年 ねん )
レナード・バーンスタインの指揮 しき 活動 かつどう は、大 おお きく分 わ けて3つの時期 じき に大別 たいべつ することができる。
バーンスタインが25歳 さい で指揮 しき 活動 かつどう を始 はじ めた時期 じき 、アメリカ 国内 こくない で活動 かつどう していた指揮 しき 者 しゃ はほとんどが他国 たこく から移住 いじゅう してきた者 もの たち(トスカニーニ、ワルター 、モントゥー 、オーマンディ など)であり、ブルーノ・ワルター のように第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の難 なん を逃 のが れてきた者 もの も多 おお かった。「アメリカ生 う まれ・アメリカ育 そだ ち」の指揮 しき 者 しゃ はほとんどいなかったため、バーンスタインはすぐにアメリカ・クラシック音楽 おんがく 界 かい の期待 きたい の星 ほし となる。当時 とうじ は録音 ろくおん 技術 ぎじゅつ もモノラルしかなかったため、バーンスタインの最初 さいしょ 期 き 録音 ろくおん は比較的 ひかくてき 少 すく ないが、彼 かれ は早 はや くから幅広 はばひろ いレパートリーを手中 しゅちゅう に収 おさ めていたことが分 わ かる。1953年 ねん 12月、35歳 さい のバーンスタインはアメリカ人 じん 指揮 しき 者 しゃ として初 はじ めてミラノ ・スカラ座 すからざ の客演 きゃくえん 指揮 しき に招 まね かれ、ケルビーニ のオペラ『メデア 』を指揮 しき した。1950年代 ねんだい 前半 ぜんはん の時期 じき 、若手 わかて 指揮 しき 者 しゃ として最 もっと も目覚 めざ ましい躍進 やくしん を見 み せていたのが、バーンスタインとイタリア のグィド・カンテルリ の2人 ふたり だった。
1954年 ねん 11月18日 にち 、バーンスタインはCBS のテレビ・ドキュメンタリー・シリーズ「オムニバス」に出演 しゅつえん し、ベートーヴェン の交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 5番 ばん の解説 かいせつ を行 おこな った。これが一連 いちれん の教育 きょういく 番組 ばんぐみ 『青少年 せいしょうねん コンサート』 (Young People’s Concert)の出発 しゅっぱつ 点 てん となる。ニューヨーク・フィルの常任 じょうにん 指揮 しき 者 しゃ 就任 しゅうにん の前年 ぜんねん 、39歳 さい だった1957年 ねん に代表 だいひょう 作 さく 『ウエスト・サイド物語 ものがたり 』が生 う み出 だ された。
ニューヨーク・フィルハーモニックの常任 じょうにん 指揮 しき 者 しゃ 時代 じだい 、バーンスタインの主要 しゅよう レパートリーはCBSレコード (現在 げんざい のソニー・ミュージックエンタテインメント )が独占 どくせん 契約 けいやく で録音 ろくおん していた。『青少年 せいしょうねん コンサート』もこの時期 じき の活動 かつどう で大 おお きな位置 いち を占 し めている。同 どう オーケストラの常任 じょうにん 指揮 しき 者 しゃ の職務 しょくむ にあった時期 じき 、バーンスタインは自 みずか らの「補助 ほじょ 指揮 しき 者 しゃ 」の育成 いくせい にも尽力 じんりょく した。ここから小澤 おざわ 征爾 せいじ 、クラウディオ・アバド 、ズデニェク・コシュラー などの指揮 しき 者 しゃ が育 そだ っていった。しかし、この時期 じき は作曲 さっきょく にあてる時間 じかん がほとんど取 と れず、主 おも な作品 さくひん は1963年 ねん 作曲 さっきょく の交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 3番 ばん 『カディッシュ』と1965年 ねん 作曲 さっきょく の宗教 しゅうきょう 合唱 がっしょう 曲 きょく 『チチェスター詩篇 しへん 』ぐらいしかない。わざわざ「作曲 さっきょく の時間 じかん を取 と るため」1964年 ねん -1965年 ねん のシーズンは休 やす みを取 と ったほどである。1966年 ねん にバーンスタインは初 はじ めてウィーン・フィルハーモニー管弦楽 かんげんがく 団 だん の客演 きゃくえん 指揮 しき に招 まね かれ、このオーケストラとの良好 りょうこう な関係 かんけい は終生 しゅうせい にわたって続 つづ いた。
1969年 ねん を最後 さいご にバーンスタインがニューヨーク・フィル常任 じょうにん 指揮 しき 者 しゃ のポスト辞任 じにん を希望 きぼう した理由 りゆう は「作曲 さっきょく の時間 じかん を取 と るため」だった。作曲 さっきょく の分野 ぶんや では『ウエスト・サイド物語 ものがたり 』を上回 うわまわ る作品 さくひん を生 う み出 だ したいという願 ねが いは満 み たされなかったが、バーンスタインは“世界一 せかいいち の客演 きゃくえん 指揮 しき 者 しゃ ”として高 たか い人気 にんき を集 あつ めた。1970年代 ねんだい 半 なか ばにはCBSレコード との独占 どくせん 録音 ろくおん 契約 けいやく を離 はな れ、ドイツ・グラモフォン およびEMI と録音 ろくおん 契約 けいやく を交 か わして、かつて録音 ろくおん していたレパートリーの再 さい 録音 ろくおん を中心 ちゅうしん に、ヨーロッパとアメリカのさまざまなオーケストラとの多彩 たさい な録音 ろくおん に着手 ちゃくしゅ した。このうちEMIとの契約 けいやく は短期 たんき に終了 しゅうりょう したが、グラモフォンとの関係 かんけい はその後 ご 専属 せんぞく となり、バーンスタイン最後 さいご のコンサートのライブ録音 ろくおん まで続 つづ くことになる。CBSレコード 時代 じだい の旧 きゅう 録音 ろくおん と、EMI・グラモフォン時代 じだい の新 しん 録音 ろくおん の間 あいだ では、溌剌 はつらつ とした前者 ぜんしゃ を好 この む者 もの 、後者 こうしゃ に指揮 しき 者 しゃ としての円熟 えんじゅく を感 かん じる者 もの など、当然 とうぜん のことながら評価 ひょうか は人 ひと により、また曲 きょく によりまちまちである。
グラモフォンでの録音 ろくおん の多 おお くが、当初 とうしょ から商品 しょうひん 化 か を想定 そうてい したライブ・レコーディングで行 おこな われたのも、当時 とうじ としては画期的 かっきてき であった。同時 どうじ にユニテル や放送 ほうそう 局 きょく による映像 えいぞう 収録 しゅうろく も積極 せっきょく 的 てき に行 おこな われるようになる。1979年 ねん から1981年 ねん に発表 はっぴょう されたベートーヴェン の交響曲 こうきょうきょく 全集 ぜんしゅう と序曲 じょきょく 集 しゅう ・弦楽 げんがく 四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく 第 だい 14番 ばん (弦楽 げんがく 合奏 がっそう 版 ばん )および『ミサ・ソレムニス 』は、マクシミリアン・シェル とバーンスタインによる楽曲 がっきょく 解説 かいせつ を含 ふく むオーストリア放送 ほうそう 協会 きょうかい ら制作 せいさく のTVミニシリーズ『ベートーヴェン/バーンスタイン』と並行 へいこう して録音 ろくおん されたものである。
この時期 じき 、1979年 ねん 10月4日 にち ・5日 にち にベルリン・フィルハーモニー管弦楽 かんげんがく 団 だん と1度 ど 限 かぎ りの共演 きょうえん が行 おこな われた。曲目 きょくもく は、マーラー の交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 9番 ばん で、バーンスタインの没後 ぼつご 1992年 ねん に、放送 ほうそう 用 よう のライブ録音 ろくおん 音源 おんげん から商品 しょうひん としてリリースされた。これをバーンスタインの代表 だいひょう 作 さく とする熱心 ねっしん なき手 きて が今 いま なお多 おお い。
若 わか い頃 ころ には情熱 じょうねつ 的 てき できびきびした音楽 おんがく 作 づく りが魅力 みりょく でもあったバーンスタインは、晩年 ばんねん にはゆったりとした重厚 じゅうこう な表現 ひょうげん を好 この むようになる。時 とき には極 きわ めて主観 しゅかん 的 てき な演奏 えんそう を展開 てんかい し、楽譜 がくふ から表現 ひょうげん しうる限界 げんかい といえるほどの感情 かんじょう 移入 いにゅう も厭 いと わなかった。彼 かれ が最 もっと も愛 あい した3つのオーケストラはニューヨーク・フィル、ウィーン・フィル、そしてイスラエル・フィルハーモニー管弦楽 かんげんがく 団 だん であった。
2000年 ねん 10月、バーンスタインの没後 ぼつご 10年 ねん 目 め にニューヨーク・フィルの「自主 じしゅ 制作 せいさく 盤 ばん 」として「バーンスタイン・ライブ」(Bernstein Live)という10枚 まい 組 ぐみ のCDが発売 はつばい された。なかには正規 せいき の録音 ろくおん が残 のこ されなかった珍 めずら しいレパートリーも見出 みいだ され(ワーグナー 『神 かみ 々の黄昏 たそがれ 』、ブルックナー の交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 6番 ばん など)、ヴィルヘルム・ケンプ (ピアノ )とのベートーヴェン のピアノ協奏曲 きょうそうきょく 第 だい 3番 ばん 、ジャクリーヌ・デュ・プレ (チェロ )とのシューマン のチェロ協奏曲 きょうそうきょく などの珍 めずら しい共演 きょうえん も正式 せいしき な録音 ろくおん として発売 はつばい された。
バーンスタインはまた、積極 せっきょく 的 てき に現代 げんだい 曲 きょく の演奏 えんそう にも取 と り組 く んだ。自身 じしん の曲 きょく に加 くわ えて、ショスタコーヴィチ 、ストラヴィンスキー 、コープランド 、アイヴズ 等 ひとし の作品 さくひん を積極 せっきょく 的 てき に紹介 しょうかい した。現代 げんだい 音楽 おんがく の分野 ぶんや においても、代表 だいひょう 的 てき には、メシアン の『トゥーランガリラ交響曲 こうきょうきょく 』の世界 せかい 初演 しょえん を担 にな った他 ほか 、ニューヨーク・フィル等 とう と共 とも に、ヴァレーズ の『インテグラル』と『アルカナ』、デニソフ の『クレッシェンドとディミヌェンド』、ブーレーズ の『プリ・スロン・プリ 』より「マラルメによる即興 そっきょう 第 だい 1」、フェルドマン 『最後 さいご の作品 さくひん 』から、ケージ の『黄道 こうどう の地図 ちず 』、カーター の『管弦楽 かんげんがく のための協奏曲 きょうそうきょく 』、メシアンの『神 かみ の現存 げんそん についての3つの小 しょう 典礼 てんれい 』、リゲティ の『アトモスフェール 』、クセナキス の『ヒトプラクタ』、ダッラピッコラ の『タルティニアーナ』、ガンサー・シュラー の『トリプラム』など様々 さまざま な録音 ろくおん を残 のこ している。そのほかにも、とりわけアメリカの現代 げんだい 作曲 さっきょく 家 か の作品 さくひん を中心 ちゅうしん に多 おお くの現代 げんだい 曲 きょく を振 ふ っている。また、日本人 にっぽんじん 作曲 さっきょく 家 か では黛 まゆずみ 敏郎 としお の『饗宴 きょうえん 』を好 この んで指揮 しき したという。
また、バーンスタインはテレビ向 む けにシェーンベルク の解説 かいせつ をしてことはあるが、シェーンベルクの録音 ろくおん は残 のこ していない。一方 いっぽう で同 おな じ新 しん ウィーン楽 らく 派 は に属 ぞく するヴェーベルン やベルク の作品 さくひん は録音 ろくおん している。
バーンスタインがニューヨーク・フィルで振 ふ った多 おお くの曲 きょく のスコアは、バーンスタインの書 か き込 こ みが入 はい った形 かたち のまま、ニューヨーク・フィルのデジタル・アーカイヴで検索 けんさく ・閲覧 えつらん することができる[1] 。
バーンスタインの作品 さくひん の特徴 とくちょう
編集 へんしゅう
ウェスト・サイド物語 ものがたり
初期 しょき はブロードウェイ・ミュージカルで音楽 おんがく 活動 かつどう の基盤 きばん を築 きず き、その分野 ぶんや では早 はや くから人気 にんき 作曲 さっきょく 家 か になっていた。
いっぽうでシリアス・ミュージックの作曲 さっきょく 家 か としては、交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 1番 ばん 『エレミア』、交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 3番 ばん 『カディッシュ』など、ユダヤ教 きょう の影響 えいきょう を受 う けた宗教 しゅうきょう 的 てき 作品 さくひん を数多 かずおお く残 のこ している。それらは宗教 しゅうきょう 的 てき なメッセージをはらみながら決 けっ して難解 なんかい ではなく、むしろ時 とき に啓蒙 けいもう 的 てき な作風 さくふう であるのが特徴 とくちょう といえる。現代 げんだい の「信仰 しんこう の危機 きき 」というテーマを、ローマ・カトリックの典礼 てんれい 文 ぶん を下敷 したじ きに、ミュージカルシアター作品 さくひん として書 か き上 あ げた『ミサ』は、大衆 たいしゅう 性 せい と宗教 しゅうきょう 的 てき モティーフとの両面 りょうめん を統合 とうごう した点 てん で、作曲 さっきょく 家 か バーンスタインを象徴 しょうちょう する作品 さくひん である。
作風 さくふう は折衷 せっちゅう 的 てき な様式 ようしき で書 か かれたものが多 おお い。1つの作品 さくひん の中 なか でジャズやクラシックなどのさまざまな音楽 おんがく の要素 ようそ を巧 たく みに織 お り交 ま ぜることは、彼 かれ の生前 せいぜん には批判 ひはん が多 おお かった点 てん の1つだった。しかし現代 げんだい にあっては、むしろ多様 たよう な表現 ひょうげん 様式 ようしき の融合 ゆうごう は音楽 おんがく の潮流 ちょうりゅう ともなっており、「ウェスト・サイド物語 ものがたり 」「キャンディード」といったもともとミュージカルシアターのために書 か かれた作品 さくひん がミラノ・スカラ座 すからざ をはじめトップクラスの歌劇 かげき 場 じょう で上演 じょうえん されるようになったのも、バーンスタインの作品 さくひん への再 さい 評価 ひょうか の動 うご きの表 あらわ れである。
バーンスタイン自身 じしん の著書 ちょしょ
編集 へんしゅう
『音楽 おんがく のよろこび』(The Joy of Music , 1959年 ねん )
『青少年 せいしょうねん コンサート』(Leonard Bernstein's Young People's Concerts , 1962年 ねん )
『青少年 せいしょうねん コンサート 音楽 おんがく 鑑賞 かんしょう の新 あたら しい試 こころ み』、岡野 おかの 弁 べん 訳 やく 、全音楽譜出版社 ぜんおんがくふしゅっぱんしゃ 、1976年 ねん
『音楽 おんがく の無限 むげん の多様 たよう 性 せい 』(The Infinite Variery of Music , 1966年 ねん )
『答 こた えのない質問 しつもん 』(The Unanswered Question , 1976年 ねん ) 当時 とうじ の初版 しょはん には、画期的 かっきてき なサンプル・レコード盤 ばん がついていた。
『発見 はっけん 』(Findings , 1982年 ねん )
『バーンスタイン わが音楽 おんがく 的 てき 人生 じんせい 』、岡野 おかの 弁 べん 訳 やく 、作品社 さくひんしゃ 、2012年 ねん
ハンフリー・バートン『バーンスタインの生涯 しょうがい 』、棚橋 たなはし 志 こころざし 行 ぎょう 訳 やく 、福武書店 ふくたけしょてん (上 うえ ・下 した )、1994年 ねん
CDジャーナル・ムック「対決 たいけつ ! カラヤン vs. バーンスタイン」音楽 おんがく 出版 しゅっぱん 社 しゃ 編 へん 、1997年 ねん 、ISBN 4900340065
「写真 しゃしん 集 しゅう レナード・バーンスタイン」(原題 げんだい Bernstein Remembered )、アルファベータ社 しゃ 、1996年 ねん 、ISBN 4871984982
ウィリアム・ウェストブルック・バートン編 へん 『バーンスタインの思 おも い出 で 』、山田 やまだ 治生 はるお 訳 やく 、音楽之友社 おんがくのともしゃ 、1997年 ねん 、ISBN 4276217229
ジョナサン・コット『レナード・バーンスタイン ザ・ラスト・ロング・インタビュー』
山田 やまだ 治生 はるお 訳 やく 、アルファベータ・ブックス、2013年 ねん 、ISBN 4871985806
バートン・バーンスタイン『バーンスタイン その音楽 おんがく と家族 かぞく 』、須加 すか 葉子 ようこ 訳 やく 、新潮社 しんちょうしゃ 、1986年 ねん 、ISBN 4105193015 、実弟 じってい の著書 ちょしょ 。
レナード・バーンスタイン/エンリーコ・カスティリォーネ『バーンスタイン 音楽 おんがく を生 い きる』
西本 にしもと 晃二 こうじ 監訳 かんやく 、笠 かさ 羽 わ 映子 えいこ 訳 やく 、青土 おうづち 社 しゃ 、1999年 ねん 、新版 しんぱん 2018年 ねん 、ISBN 4791770676
Peter Gradenwitz: Leonard Bernstein: 1918–1990; unendliche Vielfalt eines Musikers. Atlantis, Zürich 1995, ISBN 3-254-00174-5
Joan Peyser: Leonard Bernstein: die Biographie eines Musikgenies. Heyne, München 1991, ISBN 3-453-04626-9
Barry Seldes: Leonard Bernstein : the political life of an American musician Berkeley, Calif. [u.a.] : Univ. of California Press, 2009, ISBN 978-0-520-25764-1
Klaus Geitel: Die Kunst, Leonard Bernstein zu sein. from Booklet of Leonard Bernstein The Symphony Edition. Sony Music 2010