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二式飛行艇 - Wikipedia

川西かわにし H8K しき飛行ひこうてい

しき飛行ひこうてい(にしきひこうてい)は、大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん飛行ひこうていはつ飛行ひこう1941ねん昭和しょうわ16ねん)。りゃく符号ふごうは「H8K」。レシプロエンジン装備そうび飛行ひこうていとしては、当時とうじ世界せかい最高さいこう性能せいのうほこ傑作けっさくとされる[1]しき大型おおがた飛行ひこうていともばれ、しきだいてい(にしきだいてい、にしきたいてい)の通称つうしょうつ。なお、輸送ゆそうがたは「はれむなし(せいくう)」とばれていた。きゅうななしき飛行ひこうてい後継こうけいとして、おなじく川西かわにし航空機こうくうき生産せいさんされた。 連合れんごうぐんにおけるコードネームは「Emily(エミリー)」[2]

要求ようきゅう性能せいのう

編集へんしゅう

1930年代ねんだい日本にっぽん海軍かいぐんは、ワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやくロンドン条約じょうやくによってたいべい劣勢れっせい余儀よぎなくされた艦艇かんてい勢力せいりょくおぎなうため、陸上りくじょう基地きちから発進はっしんして洋上ようじょうてき艦隊かんたい捜索そうさく攻撃こうげきする長距離ちょうきょり攻撃こうげき雷撃らいげきばくげき)を装備そうびすることを構想こうそうし、中型ちゅうがた飛行ひこうていちゅうてい)/大型おおがた飛行ひこうていだいてい)、中型ちゅうがた陸上りくじょう攻撃こうげきなかおさむ)/大型おおがた陸上りくじょう攻撃こうげきだいおさむ)という、発動はつどう双発そうはつよんはつ、および発進はっしん基地きち水陸すいりくもうけた体系たいけい計画けいかくした。その一環いっかんとして最初さいしょ実用じつようされただいていきゅうななしき飛行ひこうていであり、最大さいだい速度そくどは385 km/h、魚雷ぎょらい2はつ搭載とうさいした攻撃こうげき荷重かじゅう状態じょうたいでの航続こうぞく距離きょりやく5,000 kmにたっした。きゅうななしき飛行ひこうてい更新こうしんよう機材きざいとすべく「じゅうさんためし大型おおがた飛行ひこうてい」として開発かいはつはじめられたしき飛行ひこうていは、攻撃こうげき飛行ひこうていとして、当時とうじしょ外国がいこく一般いっぱんてき飛行ひこうていもとめていた性能せいのう上回うわまわるものが要求ようきゅうされた。海軍かいぐん要求ようきゅう性能せいのう一部いちぶ列記れっきする。

開発かいはつ経緯けいい

編集へんしゅう

だいいち世界せかい大戦たいせんわると列強れっきょう各国かっこく軍縮ぐんしゅくてんじ、軍艦ぐんかん建造けんぞう自粛じしゅくする海軍かいぐん休日きゅうじつはいった。日本にっぽん海軍かいぐん仮想かそう敵国てきこくの1つであるアメリカ海軍かいぐんたいするすうてき劣勢れっせい航空こうくう戦力せんりょくおぎなうことを企図きとし、海軍かいぐん航空こうくう本部ほんぶ1937ねん昭和しょうわ12ねん7がつに「航空こうくう軍備ぐんびかんする研究けんきゅう」をまとめる[3]航続こうぞく距離きょりなが大型おおがた陸上りくじょう攻撃こうげき運用うんようすることを想定そうていしたが、日本にっぽんだいいち世界せかい大戦たいせん国際こくさい連盟れんめいから委任いにん統治とうちりょうとしてたくされた南洋なんよう諸島しょとう基地きち整備せいびむずかしく、大型おおがた飛行ひこうていによるアウトレンジ戦法せんぽう模索もさくするようになる[3]川西かわにし航空機こうくうき開発かいはつしたきゅうななしき飛行ひこうていは、この構想こうそう現実げんじつのものとした[4]

一方いっぽうで4はつエンジンを大型おおがた陸上りくじょう意見いけんつよく、1938ねん昭和しょうわ13ねん4がつ18にち海軍かいぐん航空こうくう本部ほんぶ技術ぎじゅつは「じゅうさん年度ねんど試製しせい飛行機ひこうき計画けいかく要求ようきゅうあん摘要てきよう」で『じゅうさんためし大型おおがた飛行ひこうてい』(川西かわにし)・中島なかじまじゅうさんためし大型おおがた陸上りくじょう攻撃こうげき深山ふかやま中島なかじま飛行機ひこうき)の計画けいかく要求ようきゅうあんをまとめた[5]中島なかじま深山みやまは、川西かわにししきだいていにとって文字通もじどおりライバルであった[6]じゅうさんためしだいてい正式せいしき試作しさく発令はつれい同年どうねん8がつ21にちである[7]

飛行ひこうていは、陸上りくじょうくらべると水面すいめんからのはなれ着水ちゃくすいのために「ふね」と「飛行機ひこうき」の性質せいしつあわたねばならず、機体きたいおおきくなりがちでていそこ形状けいじょう空気くうき抵抗ていこうおおきく、速度そくどにおいて陸上りくじょうより不利ふりであった[4]海軍かいぐんがわ要求ようきゅうは、陸上りくじょうなみの攻撃こうげきりょくそなえ、だい航続力こうぞくりょくをもった、高速こうそくという、当時とうじ飛行ひこうてい水準すいじゅんをはるかにえる過酷かこくなものであった。製作せいさく担当たんとう川西かわにし航空機こうくうきは、きゅうななしき飛行ひこうてい設計せっけいしたきくはら静男しずお技師ぎし設計せっけい主務しゅむしゃ任命にんめいし、設計せっけい制作せいさくおこなった。きゅうななしき飛行ひこうてい自信じしんをつけていたきくばらは「よしきた」という気持きもちでったという[8]さい重点じゅうてん目標もくひょう航続こうぞく距離きょりであった[9]

1939ねん昭和しょうわ14ねん9月だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつ日本にっぽんイギリスやアメリカなどとの緊張きんちょうたかまるなか和田わだみさおそらわざしょうちょう1940ねん昭和しょうわ15ねんちゅうほん完成かんせいさせるよう厳命げんめいした[10]同年どうねん12月29にちじゅうさんためしだいてい川西かわにし鳴尾なるお工場こうじょう完成かんせいし、翌日よくじつ試験しけん飛行ひこうおこなった[10]不安定ふあんていだった方向ほうこうかじ問題もんだいはすぐに解消かいしょうされたが[11]荷重かじゅう重量じゅうりょう28tで離水りすいテストを実施じっししたところ、飛沫しぶきのためプロペラ先端せんたんがり離水りすい不能ふのうとなる問題もんだい発生はっせいした[12]。この問題もんだい度重たびかさなる水槽すいそう実験じっけん結果けっかていたいしょう改造かいぞうなみさえ装置そうち通称つうしょうかつおぶし)を装備そうびすること飛沫しぶきおさえることに成功せいこうした[13]1941ねん昭和しょうわ16ねん3月26にち試作しさく1号機ごうき領収りょうしゅうされ、1942ねん昭和しょうわ17ねん2がつ5にちに『しき飛行ひこうていいちいちがた H8K1』として制式せいしき採用さいよう決定けっていした[14]先行せんこうしていた本命ほんめいの「深山ふかやま」が失敗しっぱいさくとなるなかしきだいてい高性能こうせいのうよんはつ大型おおがた飛行ひこうていとして完成かんせいした[15]

きくばらは、「深山ふかやま」の不運ふうん失敗しっぱいであるアメリカのダグラス DC-4Eをベースにしたこととしたうえで、しき飛行ひこうていはゼロから基礎きそ設計せっけいおこなえたこと・重量じゅうりょう管理かんり統制とうせい成功せいこうしたことが両機りょうきになったと回想かいそうしている[16]

技術ぎじゅつてき特徴とくちょう

編集へんしゅう
 
往時おうじしき飛行ひこうてい
 
海上かいじょう自衛隊じえいたい鹿屋かのや航空こうくう基地きち史料しりょうかん展示てんじされているしき飛行ひこうてい
 
しき飛行ひこうてい前部ぜんぶ底面ていめん

しき飛行ひこうてい技術ぎじゅつてき特徴とくちょう列記れっきする。

  • エンジンには、当時とうじほまれ』がるまで日本にっぽん最高さいこう出力しゅつりょくだった三菱みつびし火星かせいシリーズをもちい、適切てきせつなプロペラ設計せっけいおこなった。
  • 細長ほそなが主翼しゅよくせま胴体どうたい主翼しゅよくアスペクト主翼しゅよく全幅ぜんぷくを2じょうして主翼しゅよく面積めんせきった数値すうち主翼しゅよくたてよこ比率ひりつ細長ほそながさをしめ指標しひょう)は9にたっ航続力こうぞくりょく速度そくど調和ちょうわはかった。一般いっぱん飛行ひこうてい胴体どうたいは、着水ちゃくすい安定あんていせい考慮こうりょ幅広はばひろつくられていたが、ほんでは空気くうき抵抗ていこうらすためスリムになり、きゅうななしき飛行ひこうていよりやく10%はばおさえた一方いっぽうたか独特どくとく形状けいじょうとなった。
  • 軽量けいりょう強度きょうど両立りょうりつするためなみばん構造こうぞうれいしき艦上かんじょう戦闘せんとうおなちょう々ジュラルミン採用さいよう
  • 速度そくど性能せいのうこうつばさめん荷重におも)とはなれ着水ちゃくすい性能せいのう両立りょうりつさせる親子おやこフラップの採用さいよう
  • 胴体どうたい前部ぜんぶ下面かめんなみ装置そうち通称つうしょうかつおぶし)の採用さいよう
    試作しさく水上すいじょう滑走かっそうちゅうたかなみ飛沫しぶきげ、プロペラや尾翼びよく損傷そんしょうしたことから採用さいようされ、滑走かっそうちゅうしょうじるなみ飛沫しぶきおさえることに成功せいこう

このほかの機内きない設備せつびとしては機体きたい前後ぜんご上部じょうぶ銃座じゅうざ大型おおがたの20 mm機銃きじゅうわせて動力どうりょく銃座じゅうざ採用さいよう胴体どうたい主翼しゅよく燃料ねんりょうタンク(ぜん14合計ごうけい17,080 ℓ)には防弾ぼうだんほどこし、索敵さくてき哨戒しょうかいでは24間近まぢか長距離ちょうきょり飛行ひこうおこなうことから便所べんじょ仮眠かみんようのベッド、食品しょくひん保管ほかんする冷蔵庫れいぞうこもうけられ、無線むせんしつ胴体どうたい前部ぜんぶ後部こうぶの2かしょそなえた。

なお、ほん胴体どうたい細長ほそなが設計せっけいしたことから水上すいじょう滑走かっそうちゅう機体きたいがるポーポイズ現象げんしょうこりやすく、対策たいさくとして機首きしゅピトーかんよこぼう(「カンザシ」とばれた)をけ、これと風防ふうぼうえがかれたほそ横線おうせん基準きじゅんにして機体きたい角度かくどたもったまま操縦そうじゅうすることで解決かいけつした[17]。ただし、川西かわにし製作せいさくした取扱とりあつかい説明せつめいしょ前線ぜんせん部隊ぶたいまったまれることはなく、事故じこ続発ぞくはつした。1944ねん昭和しょうわ19ねん2がつ-5月実験じっけん機体きたい改造かいぞうすることなく、操縦そうじゅう方法ほうほう改善かいぜんにより事故じこさえられることが判明はんめいした[18]防水ぼうすい塗料とりょう粗悪そあくさから水密すいみつせい不完全ふかんぜんで、事故じこ予防よぼうのためにもそこまったみずをバケツで作業さぎょうかせなかった[19]戦争せんそう終盤しゅうばんになると機体きたい疲労ひろうすすみ、みずれの傾向けいこう拍車はくしゃをかけている[20]

派生はせい

編集へんしゅう

仮称かしょうしき飛行ひこうていがた(H8K3)

編集へんしゅう

いちがた(H8K2)の機体きたい防弾ぼうだんほどこし、つばさはしフロートと後部こうぶ上方かみがた20 mm機銃きじゅうしきにして空気くうき抵抗ていこうらし、飛行ひこう性能せいのう向上こうじょうさせることを意図いとした機体きたい1943ねん昭和しょうわ18ねん2がつ13にち領収りょうしゅう飛行ひこう性能せいのう実験じっけんおこなったが、重量じゅうりょうは2トン増加ぞうかしていながら基本きほん性能せいのう原型げんけいまったわらないじょう水上みずかみ性能せいのう低下ていかしており、2試作しさくのみでわった[21]試作しさくの2だいはちいち航空こうくうたい実戦じっせん任務にんむにつき、たびたびB-24リベレーター爆撃ばくげき誤認ごにんされたという[21]1945ねん昭和しょうわ20ねん3がつに2とも夜間やかん索敵さくてき任務にんむにて帰還きかんとなった[22]

仮称かしょうはれそらさんがた(H8K2-L)

編集へんしゅう

海軍かいぐんじゅうさんためしだいてい開発かいはつちゅうから輸送ゆそうがた改造かいぞう計画けいかくしていた[23]。1942ねんはじめに海軍かいぐんから川西かわにし試作しさく指示しじがあり、じゅうさんためしだいてい試作しさく1号機ごうき輸送ゆそうがたH8K1-Lに改造かいぞう、1943ねん昭和しょうわ18ねん11月30にち納入のうにゅうした[24]仮称かしょうはれそらさんがた(H8K2-L)として、1943ねん昭和しょうわ18ねん)に11、1944ねん昭和しょうわ19ねん)に24完成かんせいした。1945ねん昭和しょうわ20ねん)にしき飛行ひこうていさんがた(H8K4)を改造かいぞうしたはれそらさんさんがた(H8K4-L)も試作しさくされたが、量産りょうさんされなかった[25]輸送ゆそうがたそう生産せいさんは36であった。

陸上りくじょう爆撃ばくげきがた

編集へんしゅう

しきだいてい開発かいはつ川西かわにし社内しゃないではつぎ機体きたい開発かいはつについて3あんがあり、強風きょうふう陸上りくじょうした戦闘せんとう開発かいはつ新型しんがた艦上かんじょう攻撃こうげき開発かいはつあんほん陸上りくじょうしたばくげき開発かいはつあんで、結局けっきょく戦闘せんとう開発かいはつ選択せんたくされた。

なお、この二式大艇陸上機化案に「海軍かいぐんでG9Kの記号きごうあたえた」とするせつがあるようだが、こうしたプランは公式こうしきのものではなく、海軍かいぐん実用じつよう試製しせい計画けいかくにもげられていない。またりゃく符号ふごう基準きじゅんからても、機種きしゅ変更へんこう場合ばあい末尾まつび変更へんこう機種きしゅしめをあてる形式けいしきになっておらず、俗説ぞくせつぎない。実用じつよう試製しせい計画けいかく「K-100」があたえられていたのは、まもるエンジンを18気筒きとうした「まもるあらため双発そうはつじゅうななためし陸上りくじょう攻撃こうげきだった。

活躍かつやく

編集へんしゅう
 
マキンとう破壊はかいされたしき飛行ひこうてい

大型おおがた高速こうそく充分じゅうぶん防御ぼうぎょ火器かき装備そうびしたほん連合れんごうこくパイロットから「フォーミダブルおそれるべき)」機体きたいばれた(英国えいこく航空こうくう評論ひょうろんウィリアム・グリーン)。制式せいしき採用さいよう直後ちょくご1942ねん昭和しょうわ17ねん3月4にちには、だい航続力こうぞくりょくかして2真珠湾しんじゅわんさい空襲くうしゅうした(K作戦さくせん)。だが3月7にちミッドウェーとう長距離ちょうきょり偵察ていさつで、K作戦さくせんだいていたい指揮しきかん橋爪はしづめ寿雄よしお大尉たいいべいぐん戦闘せんとう迎撃げいげき撃墜げきついされ、しきだいてい最初さいしょ戦闘せんとう喪失そうしつとなった[26]ミッドウェー作戦さくせんではほん長距離ちょうきょり偵察ていさつおこな計画けいかくであったが、べいぐん妨害ぼうがい天候てんこうのため実施じっしされなかった[27]。その高速こうそく航続力こうぞくりょくかしてエスピリッツサントとうオーストラリア本土ほんどセイロンとうカルカッタといった長距離ちょうきょり偵察ていさつばくげき活躍かつやくした。ソロモン諸島しょとう方面ほうめん投入とうにゅうされただいはち航空こうくうたいほんは、水上すいじょう母艦ぼかん秋津あきつしゅう」の支援しえんけて活動かつどうしている[28]

1943ねん昭和しょうわ18ねん11月には、アメリカぐんP-38ライトニング双発そうはつ戦闘せんとう3と40ふん交戦こうせんした玉利たまり義男よしお大尉たいいが1撃退げきたいし、もエンジン2停止ていしと230箇所かしょ被弾ひだん乗員じょういん1めい負傷ふしょうという状態じょうたい帰還きかん、その日本にっぽん本土ほんどもどされた[29]。さらに1944ねん昭和しょうわ19ねん以降いこう日本にっぽんぐん多発たはつなかにあって、防御ぼうぎょよわかった一式いっしきりくおさむなどにくらべるとはるかに連合れんごうぐんにとって危険きけん相手あいてだった。B-25ミッチェルB-17といったアメリカぐん大型おおがた陸上りくじょう積極せっきょくてき追撃ついげきして撃墜げきついした記録きろくもある。その攻撃こうげきりょくから「そら戦艦せんかん」などともばれた。

このように頑丈がんじょうほんであったが、1945ねんはいると太平洋たいへいよう戦線せんせんにおいては連合れんごう国軍こくぐんたいして戦況せんきょう悪化あっかして制空権せいくうけんうばわれ、てき戦闘せんとう攻撃こうげきえるとあしおそさにくわじゅう防御ぼうぎょれず、消耗しょうもうしていった[30]機体きたい短時間たんじかん退避たいひ隠蔽いんぺいさせることもむずかしく、基地きち水上すいじょうかれたまま連合れんごうこく軍機ぐんき空襲くうしゅう破壊はかいされたものもあった。さらに川西かわにし航空機こうくうき生産せいさんりょく局地きょくち戦闘せんとう紫電しでんあらため集中しゅうちゅうしたこともあって1943ねんまつ時点じてん生産せいさんすう低下ていか、1944ねんしきだいていいちがた33輸送ゆそうがたはれそら」24、1945ねんはわずか2生産せいさんであった[31]製造せいぞう大量たいりょう資材しざい使つかい、航空こうくう燃料ねんりょう消費しょうひおおかったことも、生産せいさんりの一因いちいんとされる[32]

また1945ねん3がつだい作戦さくせん銀河ぎんがによる長距離ちょうきょり特攻とっこう作戦さくせん)に代表だいひょうされる長距離ちょうきょり索敵さくてき誘導ゆうどう任務にんむトラックラバウルといった孤立こりつした基地きちへの強行きょうこう輸送ゆそう搭乗とうじょういん救出きゅうしゅつなどをおこなったこともあって、成果せいかげると同時どうじ損害そんがいしている。補充ほじゅうのぞめないなかだい航空こうくう艦隊かんたい宇垣うがきまとい司令しれい長官ちょうかん所属しょぞくしきだいていレーダー搭載とうさいして夜間やかん索敵さくてき活躍かつやくしたが、アメリカぐんやイギリスぐんらの夜間やかん戦闘せんとう哨戒しょうかい迎撃げいげきによりすくなからず被害ひがいしている[33]

たとえば前述ぜんじゅつ作戦さくせんあずさたい特攻とっこう誘導ゆうどうしたしきだいてい3のうち、生田いくた中尉ちゅうい生還せいかん杉田すぎた中尉ちゅういPB4Y-2プライヴァティア哨戒しょうかい(B-24の発展はってんけい哨戒しょうかいがた)に撃墜げきついされ[34]長峯ながみね曹長そうちょうメレヨンとう不時着ふじちゃくして水没すいぼつ処理しょりされ搭乗とうじょういん潜水せんすいかん帰投きとうした[35]こうかんしきだいていたいは、2がつ10日とおかから終戦しゅうせんまで27やく250めいうしなった[36]終戦しゅうせん完全かんぜん状態じょうたいのこっていたのはしきだいてい5はれそら6のわずか11であり、うち8終戦しゅうせんから数日すうじつ処分しょぶん、もしくは移動いどうちゅう事故じこうしなわれたため、進駐しんちゅうしてきた連合れんごう国軍こくぐんから機体きたいわたしが通達つうたつされたときは詫間たくま基地きちのこされた3のこすのみとなっていた。

また、海軍かいぐんかぶと事件じけん戦死せんしした山本やまもと五十六いそろくのあとをいで連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんとなった古賀こがみねいち海軍かいぐん大将たいしょう移動いどうちゅう遭難そうなん殉職じゅんしょくしたときにはしき飛行ひこうてい輸送ゆそうがたはれそら」にっていた(海軍かいぐんおつ事件じけん)。古賀こが長官ちょうかんの1ばん燃料ねんりょう7わり福留ふくとめしげる連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうちょうの2ばん燃料ねんりょう8わり時点じてん空襲くうしゅう警報けいほうがあったため離陸りりく熱帯ねったいてい気圧きあつ遭遇そうぐうして墜落ついらくしたのである[37]。なお、空襲くうしゅう警報けいほう誤報ごほうであった。通信つうしん暗号あんごう気象きしょう関係かんけいいん搭乗とうじょうした3ばん無事ぶじ到着とうちゃくした[38]

しょもと

編集へんしゅう
 
三面さんめんがた
正式せいしき名称めいしょう しき飛行ひこうていいちがた
りゃく符号ふごう H8K2
全幅ぜんぷく 38.00 m
全長ぜんちょう 28.13 m
ぜんこう 9.15 m
つばさ面積めんせき 160 m²
自重じちょう 18,400 kg
正規せいき全備ぜんび重量じゅうりょう 24,500 kg
最大さいだい重量じゅうりょう 32,500 kg
発動はつどう 三菱みつびし火星かせいがたはなれのぼり1,850馬力ばりき
最高さいこう速度そくど 465 km/h=M0.38(高度こうど5,000 m)
いちいちがた433 km/h
いちがた470 km/h
航続こうぞく距離きょり 7,153 km(偵察ていさつ
いちがた8,223 km(どう
武装ぶそう 20mm旋回せんかいじゅう5もん、7.7 mm旋回せんかいじゅう4もん(3もん予備よび)
ばくそう ばくだん最大さいだい2t(60 kg×16または250 kg×8または800 kg×2)
または航空こうくう魚雷ぎょらい×2
乗員じょういん 10 - 13めい

現存げんそんする機体きたい

編集へんしゅう
 
展示てんじされるしき飛行ひこうてい鹿屋かのや航空こうくう基地きち史料しりょうかん
 
展示てんじされるしき飛行ひこうていふね科学かがくかん当時とうじ

終戦しゅうせんしきだいてい可動かどうは4のみだったが、1詫間たくま基地きちへの移動いどうちゅう不時着ふじちゃくして島根しまねけん中海なかうみうみぼつ処理しょりされた[39]。そのため8がつ22にち時点じてん詫間たくま基地きちのこされていたのは3[40]であった。その進駐しんちゅうしてきたアメリカはしきだいてい興味きょうみしめし、性能せいのうをテストすべく9がつ詫間たくま基地きち残存ざんそんするしきだいていを、飛行ひこう可能かのう状態じょうたいとなるまで整備せいびするよう命令めいれいした。残存ざんそんするしきだいてい放置ほうちされていたため飛行ひこう不能ふのう状態じょうたいとなっていた。そこでもっと良好りょうこうな1をベースに2からりないパーツをおぎなかたち修復しゅうふくすすめられた。3うちもっと状態じょうたいかっただい426号機ごうき表記ひょうき1943ねん昭和しょうわ18ねん)3がつ製造せいぞうだい26号機ごうき/推察すいさつ)「詫間たくま31号機ごうき」をベースに修復しゅうふく開始かいしされ、同年どうねん10がつまつ完了かんりょうした。11月上旬じょうじゅん機体きたいにアメリカぐんマークをることと、11月11にち詫間たくま基地きちから横浜よこはままで空輸くうゆすること、操縦そうじゅうめることがつたえられた。操縦そうじゅう詫間たくま海軍かいぐん航空こうくうたい隊長たいちょうにちつじ常雄つねおまかされた。11月10にちしきだいてい先導せんどうのため、PBY詫間たくま基地きち飛来ひらいした。11にちにカタリナを先導せんどうしきだいてい詫間たくま基地きちはなれ、やく2あいだ横浜よこはま到着とうちゃくした。着水ちゃくすいなみれているなかにちつじ常雄つねお少佐しょうさ華麗かれい着水ちゃくすいしてみせた。しきだいていはアメリカぐんわたされ、12月にノーフォーク海軍かいぐん基地きち到着とうちゃくし、基地きち到着とうちゃくはメンテナンスをおこない、翌年よくねん1946ねん5がつ23にち飛行ひこうテストをおこなった。この飛行ひこうしきだいてい最後さいご飛行ひこうとなった。性能せいのうテストでは圧倒的あっとうてき高性能こうせいのう発揮はっきしてアメリカがわおどろかせている[41]

指揮しきかんけん操縦そうじゅうしゃつじ常雄つねお少佐しょうさほんりにきたアメリカぐんクルーのPBY カタリナ操縦そうじゅうし、しきだいていくら離水りすい簡単かんたんだが飛行ひこう性能せいのう圧倒的あっとうてきおとり、アメリカぐん指揮しきかんも「飛行ひこうてい技術ぎじゅつでは日本にっぽん世界せかい勝利しょうりした」と賞賛しょうさんした[42]。その一方いっぽう着水ちゃくすいしたしきだいてい新聞しんぶん記者きしゃ殺到さっとうしたさいにちつじ気化きかガソリンのためていない禁煙きんえんであることを説明せつめいしなければならず、性能せいのうおとるとはいえガソリンれの心配しんぱいがないPBYとの実感じっかんしている[43]。アメリカぐんPB2Y コロネド飛行ひこうていしきだいていどう規模きぼ)と比較ひかくしてしきだいていほうがはるかに優秀ゆうしゅうとしつつ、ポーポイズ現象げんしょう機体きたい強度きょうど問題もんだいがあると指摘してきしたが、これは両国りょうこく両機りょうき設計せっけい思想しそうちがいによるものであった[44]

同年どうねん1946ねん8がつ水上すいじょう滑走かっそう実施じっしし、翌年よくねん1947ねん再度さいど飛行ひこうテストを実施じっししようとしたがエンジン故障こしょうにより中止ちゅうし再度さいど飛行ひこうできるように修復しゅうふくされることはなかった。そのため鹵獲ろかく同様どうよう、スクラップにされる予定よていだったが、関係かんけいしゃ反対はんたいによりノーフォーク海軍かいぐん基地きち倉庫そうこ主翼しゅよくはずされ、保護ほご樹脂じゅしのコクーンを機体きたい全体ぜんたいけられて厳重げんじゅう保管ほかんされていた[45]1959ねん昭和しょうわ34ねん)、きくげん技師ぎし海軍かいぐん基地きちしきだいてい見学けんがくして返還へんかん交渉こうしょうおこなったが、日本にっぽんへの輸送ゆそう手段しゅだんつからず、3ねんべい海軍かいぐん合衆国がっしゅうこくない永久えいきゅう保存ほぞん方針ほうしんつたえた[46]。その斎藤さいとうしげるふとしらが中心ちゅうしんとなって返還へんかん運動うんどうこすなか1978ねん昭和しょうわ53ねん)6がつアメリカ海軍かいぐん経費けいひ削減さくげん保管ほかん終了しゅうりょう決定けってい、「日本にっぽんる」もしくは「スクラップ」を日本にっぽんがわ選択せんたくすることになった[47]。その結果けっかふね科学かがくかんにてりを表明ひょうめい1979ねん昭和しょうわ54ねん11月13にち日本にっぽん到着とうちゃくする[48]整備せいび1980ねん昭和しょうわ55ねん)7がつから東京とうきょうの「ふね科学かがくかん」にながらく野外やがい展示てんじされていた。2004ねん平成へいせい16ねん)4がつまつからは鹿児島かごしまけん鹿屋かのやにある海上かいじょう自衛隊じえいたい鹿屋かのや航空こうくう基地きち史料しりょうかん保管ほかん野外やがい展示てんじ)されている。

サイパンとうきん海中かいちゅうにはしきだいてい残骸ざんがいがあり、その場所ばしょはダイビングスポットになっている。また、ミクロネシア連邦れんぽうチュークしゅうきゅう島名しまなトラック諸島しょとう)の海底かいていにもおなじようにしきだいていがあり、こちらもダイビングスポットとして間近まぢかことができる。

設計せっけい主務しゅむしゃについて

編集へんしゅう

設計せっけい主務しゅむしゃであるきくはら静男しずお技師ぎしは、その海軍かいぐん局地きょくち戦闘せんとう紫電しでん」「紫電しでんあらため」の設計せっけい担当たんとう終戦しゅうせん川西かわにし航空機こうくうき後身こうしんである新明和工業しんめいわこうぎょうで、再度さいど国産こくさん飛行ひこうていPS-1制作せいさくたずさわった。

登場とうじょう作品さくひん

編集へんしゅう
 
トラック諸島しょとうしずむ、しきだいてい

漫画まんが・アニメ

編集へんしゅう
ジパング
漫画まんがばん日本にっぽん海軍かいぐん登場とうじょう
ストライクウィッチーズ2
扶桑ふそう皇国こうこく海軍かいぐん飛行ひこうていとして登場とうじょうだい1だい2にて坂本さかもと美緒みお少佐しょうさ宮藤くどうかおるけい曹長そうちょう欧州おうしゅうかうさい使用しようした。また、ストライカーユニット積載せきさい空中くうちゅう発進はっしん可能かのうとなっている。
戦場せんじょうまんがシリーズ
シリーズのいちへんだいていふたたかえらず」にて登場とうじょうする。B-17 フライングフォートレスとのいちちシーンがある。
逮捕たいほしちゃうぞ
1994ねんOVAだい1当時とうじふね科学かがくかん展示てんじされていたものがカーチェイスの目的もくてきとして登場とうじょう(ヒントとしてH8KやEmilyの発言はつげんもある)。
翡翠かわせみかいたん
秘密ひみつ兵器へいき日本にっぽん海軍かいぐん試作しさく飛行ひこうていとして登場とうじょう。ただし、舞台ぶたい1935ねんなので時代じだい考証こうしょうてきには間違まちがい。
Battlestations: Pacific
プレイヤーが使用しよう可能かのう日本にっぽんぐん兵器へいきとして飛行場ひこうじょうまたは一部いちぶ造船ぞうせんしょから出撃しゅつげき可能かのう。2はつの250kgばくだんか4はつ爆雷ばくらい、または4はつ魚雷ぎょらい搭載とうさいできる。
War Thunder
プレイヤーの操縦そうじゅう機体きたいとして、いちがたがた登場とうじょうする。
艦隊かんたいこれくしょん -かんこれ-
しきだいてい」の名称めいしょう登場とうじょうかんむすめには「秋津あきつしゅう」「神威かもい」「日進にっしん」の3せき以外いがいには装備そうび不可ふかとなっており、装備そうびするとスロットの配備はいびすうかかわらず、いちしか搭載とうさいできない特殊とくしゅ仕様しようをしている。戦闘せんとう行動こうどう半径はんけいぜん航空機こうくうき装備そうびちゅう最高さいこうで、基地きち航空こうくうたい配備はいびすると所属しょぞく航空こうくうたい戦闘せんとう行動こうどう半径はんけい延伸えんしんできる。

しき飛行ひこうていかんするほん

編集へんしゅう
  • 長峯ながみね五郎ごろう 『二式大艇空戦記—海軍かいぐんはち〇一空搭乗員の死闘しとう
  • いかり義朗よしろう最後さいごしきだいてい
  • にちつじ常雄つねお最後さいご飛行ひこうてい
  • 木下きのした悦郎えつろうほか 『ほのおつばさしきだいてい」にきる』
  • 城山しろやま三郎さぶろう 『れいからの栄光えいこう
  • まるメカニック
    • No.19『しき飛行ひこうてい
    • No.24『しきだいてい426』
    • 別冊べっさつ決定けっていばん しきだいてい
  • 世界せかい傑作けっさくNo.49 『2しき飛行ひこうてい
  • 歴史れきしぐんぞうシリーズ 『2しきだいてい飛行ひこうてい
  • 北出きたいでだいふとし奇蹟きせき飛行ひこうてい大空おおぞらきた勇者ゆうしゃ記録きろく
  • みなみほり 英二えいじ『テストパイロット―一等いっとう飛行機ひこうき操縦そうじゅう森川もりかわいさお生涯しょうがい
  • 吉村よしむらあきら海軍かいぐんおつ事件じけん」(『海軍かいぐんおつ事件じけん』に収録しゅうろく

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ #巨人きょじん列伝れつでん67ぺーじ#ほのおつばさ341ぺーじ
  2. ^ #最後さいごしきだいてい260ぺーじ
  3. ^ a b #最後さいごしきだいてい103ぺーじ
  4. ^ a b #最後さいごしきだいてい104ぺーじ
  5. ^ #巨人きょじん列伝れつでん67ぺーじ
  6. ^ #最後さいごしきだいてい109ぺーじ
  7. ^ #巨人きょじん列伝れつでん70ぺーじ
  8. ^ #最後さいごしきだいてい105ぺーじ
  9. ^ #最後さいごしきだいてい281ぺーじ
  10. ^ a b #最後さいごしきだいてい117ぺーじ
  11. ^ #最後さいごしきだいてい120ぺーじ#巨人きょじん列伝れつでん75ぺーじ
  12. ^ #最後さいごしきだいてい122ぺーじ#巨人きょじん列伝れつでん76ぺーじ
  13. ^ #最後さいごしきだいてい124-125ぺーじ#巨人きょじん列伝れつでん78ぺーじ
  14. ^ #巨人きょじん列伝れつでん79ぺーじ
  15. ^ #最後さいごしきだいてい126ぺーじ
  16. ^ #最後さいごしきだいてい132-133.292ぺーじ
  17. ^ #最後さいごしきだいてい291ぺーじ
  18. ^ #最後さいごしきだいてい213-214ぺーじ#巨人きょじん列伝れつでん81ぺーじ
  19. ^ #最後さいごしきだいてい205-206ぺーじ
  20. ^ #ほのおつばさ276ぺーじ
  21. ^ a b #最後さいごしきだいてい215ぺーじ
  22. ^ #日本にっぽん飛行ひこうてい112ぺーじ
  23. ^ #巨人きょじん列伝れつでん91ぺーじ
  24. ^ #最後さいごしきだいてい229ぺーじ#巨人きょじん列伝れつでん91ぺーじ
  25. ^ #最後さいごしきだいてい230ぺーじ
  26. ^ #最後さいごしきだいてい169ぺーじ
  27. ^ #最後さいごしきだいてい176ぺーじ
  28. ^ #日本にっぽん飛行ひこうてい104-105ぺーじ
  29. ^ #最後さいごしきだいてい249-250ぺーじ
  30. ^ #最後さいごしきだいてい251ぺーじ
  31. ^ #最後さいごしきだいてい252ぺーじ
  32. ^ #最後さいご飛行ひこうてい184-185ぺーじ
  33. ^ #最後さいごしきだいてい253-254ぺーじ
  34. ^ #二式大艇空戦記361ぺーじ
  35. ^ #二式大艇空戦記295ぺーじ
  36. ^ #最後さいご飛行ひこうてい186ぺーじ
  37. ^ #最後さいごしきだいてい196ぺーじ
  38. ^ #最後さいごしきだいてい197ぺーじ
  39. ^ #かえってきたしきだいてい8ぺーじ#最後さいご飛行ひこうてい235ぺーじ
  40. ^ #最後さいごしきだいてい12ぺーじ
  41. ^ #かえってきたしきだいてい18ぺーじ#巨人きょじん列伝れつでん90ぺーじ
  42. ^ #最後さいごしきだいてい16-17ぺーじ#ほのおつばさ142ぺーじ
  43. ^ #最後さいごしきだいてい18ぺーじ
  44. ^ #最後さいご飛行ひこうてい244-245ぺーじ
  45. ^ #最後さいごしきだいてい265ぺーじ
  46. ^ #最後さいごしきだいてい266ぺーじ
  47. ^ #かえってきたしきだいてい19ぺーじ
  48. ^ #かえってきたしきだいてい20ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • にちつじ常雄つねお最後さいご飛行ひこうてい 海軍かいぐん飛行ひこうてい栄光えいこう記録きろく光人みつひとしゃ、1988ねん9がつISBN 4-87565-133-3 
  • 木下きのした悦郎えつろうほか『リバイバル戦記せんきコレクション9 ほのおつばさしきだいてい」にきる』光人みつひとしゃ、1990ねん10がつISBN 4-7698-0532-2 
  • 長嶺ながみね五郎ごろう『二式大艇空戦記 海軍かいぐんはち〇一空搭乗員の死闘しとう光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ、1998ねん11月。ISBN 4-7698-2215-4 
  • いかり義朗よしろう最後さいごしきだいてい 海軍かいぐん飛行ひこうてい記録きろく光人みつひとしゃ、2001ねん3がつISBN 4-7698-0997-2 
  • 秋本あきもとみのる巨人きょじん列伝れつでん られざる日本にっぽん空中くうちゅう要塞ようさい光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ、2002ねん10がつISBN 4-7698-2359-2 
  • いかり義朗よしろうかえってきたしきだいてい 海上かいじょう自衛隊じえいたい飛行ひこうてい開発かいはつ物語ものがたり光人みつひとしゃ、2004ねん1がつISBN 4-7698-1170-5 
  • 野原のはらしげる日本にっぽん飛行ひこうてい光人みつひとしゃ、2007ねん9がつISBN 978-4-7698-1363-7 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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