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北条宗方 - Wikipedia

北条ほうじょう宗方むなかた

鎌倉かまくら時代じだい後期こうき武士ぶし

北条ほうじょう 宗方むなかた(ほうじょう むねかた)は鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき北条ほうじょう一門いちもん長門ながと探題たんだい北条ほうじょうそうよりゆき次男じなん鎌倉かまくら幕府ばくふ8だい執権しっけん北条ほうじょう時宗じしゅうおいにあたり、その猶子ゆうしとなる。

 
北条ほうじょう宗方むなかた
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき
生誕せいたん 弘安ひろやす元年がんねん1278ねん
死没しぼつ よしみもと3ねん5月4にち1305ねん5月27にち
官位かんい 左衛門尉さえもんのじょうしたがえしたみぎ近衛このえすすむかん
したがえじょう若狭わかさ守護しゅご駿河するがもり
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ ろく探題たんだい北方ほっぽう
評定ひょうじょうしゅ引付ひきつけあたまじん越訴えっそあたまじん
主君しゅくん 久明ひさあき親王しんのう
氏族しぞく 北条ほうじょう
父母ちちはは 北条ほうじょうそうよりゆき大友おおともよりゆきやすしむすめ養父ようふ北条ほうじょう時宗じしゅう
兄弟きょうだい けんとき宗方むなかた
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生涯しょうがい

編集へんしゅう

誕生たんじょう翌年よくねんちちそうよりゆき長門ながとこく死去しきょする。えいひとし5ねん1297ねん)に20さいろく探題たんだい北方ほっぽう正安まさやす2ねん1300ねん)に鎌倉かまくらもど評定ひょうじょうしゅ正安まさやす3ねん1301ねん)には引付ひきつけあたまじんから越訴えっそあたまじん就任しゅうにんとなる。

への叙爵じょしゃくは17さいだが、このときえいひとし2ねん1294ねん))まだあにけん存命ぞんめいであり、それでもあによりは2さいはやい。評定ひょうじょうしゅとなったとしは23さいであり、北条ほうじょう貞時さだときのち執権しっけんとなった従兄弟いとこ北条ほうじょう(19さい)よりは若干じゃっかんおそいが、それでもえいひとし3ねん1295ねん)にぼっしたあにけんの32さいよりもずっとはやい。また北条ほうじょう庶流の名門めいもん貞時さだとき執権しっけん連署れんしょ大仏だいぶつ北条ほうじょうせん嫡子ちゃくしで、よしみもとらん宗方むなかたった大仏だいぶつ北条ほうじょうはじめせん評定ひょうじょうしゅとなったのは29さい赤橋あかばし北条ほうじょうひさときは27さいである。これは兄弟きょうだいない北条ほうじょう貞時さだとき成人せいじんしてから、もっともちか血縁けつえんとしての従兄弟いとこ、かつちち時宗じしゅう猶子ゆうしとして義兄弟ぎきょうだいともなるけん宗方むなかた官位かんい昇進しょうしんはやめたものと推測すいそくされ、貞時さだときには庶流というよりとくむねいえ一員いちいんとしてあつかわれていたとおもわれる。

よしみもと2ねん1304ねん)12月、ひら禅門ぜんもんらん以降いこう人事じんじ迷走めいそうしたとくむねいえ執事しつじうち管領かんりょうともいわれる)に北条ほうじょう一門いちもんとしてはじめて就任しゅうにんする。同時どうじ幕府ばくふさむらいしょ所司しょし就任しゅうにん。このとき27さい

れきあいだ』によれば執権しっけんしょくへの野心やしんいて挙兵きょへいし、よしみもと3ねん(1305ねん)4がつ貞時さだとき有力ゆうりょく重臣じゅうしん連署れんしょつとめていた北条ほうじょうむら殺害さつがい。さらに殺害さつがい目論もくろんだが、同年どうねん5がつ4にち貞時さだときいのちけた北条ほうじょうはじめせんひきいる追討ついとうぐんによってころされたとされる(よしみもとらん)。ただし『れきあいだ』の記述きじゅつは、霜月しもづき騒動そうどうひら禅門ぜんもんらん原因げんいんについてもあまり信憑しんぴょうせいはなく、よしみもとらんについても、きょう公家くげ日記にっきとうわせると如何いかにも不自然ふしぜんであり疑問ぎもんされている。うごかしがたいのは以下いか範囲はんいである。

  • 4がつ22にちすで執権しっけんしょく退しりぞきながらも実権じっけんにぎっていた北条ほうじょう貞時さだとき屋敷やしき火災かさいがあり、貞時さだとき従兄弟いとこ執権しっけんであった北条ほうじょう屋敷やしきうつる。
  • 4がつ23にち貞時さだときの「おおせ」とするとくむね被官ひかん御家人ごけにん当時とうじ連署れんしょであった北条ほうじょうむら屋敷やしきおそ殺害さつがい屋敷やしき一帯いったいほのおつつまれた。
  • 5月2にちどきむら討手うってもの12にんうち逐電ちくでんした和田わだ茂明しげあきのぞく11めいくびられた。
  • 5月4にち連署れんしょ地位ちいにあった一番引付頭人北条宗宣らが貞時さだとき従兄弟いとことく宗家そうけ執事しつじ越訴えっそあたまじん幕府ばくふさむらいしょ所司しょし北条ほうじょう宗方むなかたつ。宗方むなかた佐々木ささききよし相討あいうちとなり、二階堂にかいどう大路おおじ薬師堂やくしどう谷口たにぐち現在げんざい鎌倉かまくらみや左側ひだりがわあたりか)にあった宗方むなかた屋敷やしきにはをかけられ宗方むなかたおおくの郎党ろうとう戦死せんしした。

らんのち幕府ばくふらえられた宗方むなかた遺児いじは、武蔵むさしこく六浦むつうらうみかごれられてしずめられた。

経歴けいれき

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日付ひづけ旧暦きゅうれき

  • 1292ねんせいおう5)12月18にち 左衛門尉さえもんのじょう
  • 1294ねんえいひとし2)2がつ5にち したがえ叙爵じょしゃくみぎ近衛このえすすむかん
  • 1297ねんえいひとし5)6がつ23にちろく探題たんだい北方ほっぽうとして赴任ふにん
  • 1299ねんせい安元やすもと)3がつ1にち したがえじょう同年どうねんよりよしみもとらんに致るまで若狭わかさこく守護しゅご
  • 1300ねん正安まさやす2)11月25にち ろく探題たんだい退任たいにん鎌倉かまくらもどり、12月に評定ひょうじょうしゅ
  • 1301ねん正安まさやす3)正月しょうがつ よんばん引付ひきつけあたまじん同年どうねん8がつ20日はつか駿河するがまもる転任てんにん北条ほうじょう貞時さだとき執権しっけんしょく辞職じしょくともな同月どうげつ25にち引付ひきつけあたまじん辞職じしょく越訴えっそあたまじん就任しゅうにん
  • 1302ねんいぬい元元もともと越訴えっそあたまじんのままよんばん引付ひきつけあたまじんふくす。
  • 1304ねんよしみもと2)12がつ引付ひきつけあたまじんし、とく宗家そうけ執事しつじうち管領かんりょう)、幕府ばくふさむらいしょ所司しょし就任しゅうにん
  • 1305ねんよしみもと3)4がつ - 5月4にちよしみもとらん死亡しぼう。このとき28さいとく宗家そうけ執事しつじ幕府ばくふさむらいしょ所司しょし越訴えっそあたまじん寄合よりあいしゅう一員いちいんであったと推定すいていされる。

参考さんこう文献ぶんけん

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