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宣銅烈 - Wikipedia

せんどうれつ

韓国かんこく出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ野球やきゅう指導しどうしゃ

せん どうれつ(ソン・ドンヨル、韓国かんこく:선동열、1963ねん1がつ10日とおか - )は、大韓民国だいかんみんこく全羅南道ぜんらなんどう光州こうしゅう広域こういき出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅ)、野球やきゅう指導しどうしゃ

せん どうれつ(ソン・ドンヨル)
Sun Dong-Yol
起亜きあタイガースでの監督かんとく時代じだい
(2014ねん3がつ28にち
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 大韓民国の旗 大韓民国だいかんみんこく
出身しゅっしん 全羅南道ぜんらなんどう光州こうしゅう広域こういき
生年月日せいねんがっぴ (1963-01-10) 1963ねん1がつ10日とおか(61さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
184 cm
90 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 投手とうしゅ
プロ 1985ねん KBO1ドラフト
はつ出場しゅつじょう KBO / 1985ねん7がつ2にち
NPB / 1996ねん4がつ5にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう KBO / 1995ねん10がつ
NPB / 1999ねん10がつ27にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
監督かんとく・コーチれき
ソン・ドンヨル
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル 선동열
漢字かんじ せんどうれつ
発音はつおん ソンドンニョル[1][2][3]
英語えいご表記ひょうき Sun Dong-Yol
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経歴けいれき 編集へんしゅう

韓国かんこく球界きゅうかい時代じだい 編集へんしゅう

光州こうしゅう第一高等学校だいちこうとうがっこうでは全国ぜんこく大会たいかい優勝ゆうしょう高麗こうらいだい学校がっこう1ねんときAAA世界せかい野球やきゅう選手権せんしゅけん大会たいかい優勝ゆうしょう経験けいけんし、実業じつぎょうだん野球やきゅう韓国かんこく化粧けしょうひん入団にゅうだん。そこでも1982ねんIBAF世界せかい野球やきゅう選手権せんしゅけん大会たいかい優勝ゆうしょう最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅえらばれた。1984ねんロサンゼルスオリンピック韓国かんこく代表だいひょうが4になったときのメンバーでもある。

実業じつぎょうだん選手せんしゅは2年間ねんかんはプロりができないとする規定きていがあったが、韓国かんこく野球やきゅう委員いいんかいから特例とくれいみとめられ(ただし前半ぜんはんせん出場しゅつじょう停止ていし処分しょぶんくだされた)、1985ねんのシーズン後半こうはんから韓国かんこくプロ野球やきゅうヘテ・タイガース試合しあい出場しゅつじょう同年どうねん25試合しあい登板とうばん[4]防御ぼうぎょりつ1.70で最優秀さいゆうしゅう防御ぼうぎょりつのタイトルを獲得かくとく

1986ねんには262かい2/3を[4]防御ぼうぎょりつは1てんる0.99で2ねん連続れんぞく防御ぼうぎょりつ1[4]、24かちげて最多さいたしょう獲得かくとくした[4]。また同年どうねんは214だつ三振さんしん最多さいただつ三振さんしん獲得かくとくし、投手とうしゅさんかんとなったほか、シーズン8完封かんぷうのKBO年間ねんかん記録きろく樹立じゅりつした。

当時とうじせんげたらてない」[4]、「せんどうれつ先発せんぱつ試合しあいなくても結果けっかがわかる」とわれるほど圧倒的あっとうてき存在そんざいかんせた。滅多めった本塁打ほんるいだたれず、かれとの対戦たいせん勝利しょうりはもとより本塁打ほんるいだつのすら奇跡きせきわれ、かれ本塁打ほんるいだたれたら翌朝よくあさのスポーツの1めんかざるのは当然とうぜんであったほどである。この傾向けいこうおさ転身てんしんしたのちはもっといちじるしくなり、かれがブルペンで投球とうきゅう練習れんしゅう開始かいしするのをただけで、リードされた相手あいて試合しあいあきらめたとまでわれている。

最高さいこう球速きゅうそく155 km/h速球そっきゅう1991ねんにちかんプロ野球やきゅうスーパーゲームだい2せん記録きろく)と、一見いっけんして速球そっきゅう区別くべつかない2種類しゅるい高速こうそくスライダー抜群ばつぐん制球せいきゅうりょく圧倒的あっとうてき成績せいせきおさめた。

1988ねん - 1991ねんには4ねん連続れんぞく最多さいただつ三振さんしん(200だつ三振さんしん・198だつ三振さんしん・189だつ三振さんしん・210だつ三振さんしん)を、1989ねん - 1991ねんには3ねん連続れんぞく最多さいたしょう(21しょう・22しょう・19しょう)をそれぞれ記録きろく[5]。プロりした1985ねんから1991ねんまで7ねん連続れんぞく最優秀さいゆうしゅう防御ぼうぎょりつ獲得かくとくしたため、1989ねん - 1991ねん投手とうしゅさんかん通算つうさん4かい)となった[5]

1992ねんにはあし故障こしょう低迷ていめい[5]、わずか11試合しあい登板とうばん投球とうきゅうかいは32イニング2/3)にわったが、2しょう0はい8セーブを記録きろくし、防御ぼうぎょりつも0.28だった[5]

しかしよく1993ねん以降いこう徐々じょじょ復調ふくちょう[5]同年どうねんはリーグ最多さいたの31セーブげ、防御ぼうぎょりつは0.78・WHIPも0.54と、ともに韓国かんこくプロ野球やきゅう歴代れきだい最高さいこう記録きろく樹立じゅりつ韓国かんこく最終さいしゅうねんとなった1995ねんも33セーブで、2度目どめ最多さいたセーブを記録きろくした。

韓国かんこくプロ野球やきゅう時代じだい11年間ねんかん(1985ねん - 1995ねん)の通算つうさん成績せいせきは367試合しあい登板とうばん・146しょう40はい132セーブ・1698だつ三振さんしんで、完封かんぷうすう(29)・防御ぼうぎょりつ(1.20)・WHIP(0.80)の通算つうさん記録きろくはいずれも韓国かんこくプロ野球やきゅう史上しじょう最高さいこうである。

中日ちゅうにち移籍いせき 編集へんしゅう

1995ねんのシーズン終了しゅうりょうには「海外かいがいでプレーしたい」とヘテ球団きゅうだんもうれ、NPB中日ちゅうにちドラゴンズセントラル・リーグ)をはじめ、読売よみうりジャイアンツ巨人きょじん、セ・リーグ)やオリックス・ブルーウェーブパシフィック・リーグ)、MLBボストン・レッドソックスせん争奪そうだつせんひろげた[6]せん移籍いせき表明ひょうめいからやく1かげつはんにわたり、移籍いせき問題もんだい韓国かんこくスポーツかい話題わだい独占どくせんしていた[5]。それまで韓国かんこくプロ球界きゅうかい自国じこくのプロ選手せんしゅ海外かいがい流出りゅうしゅつと、外国がいこく選手せんしゅれをかたくなにこばんでいたが[ちゅう 1]同年どうねん衛星えいせい放送ほうそうでNPBからMLBに移籍いせきした野茂のも英雄ひでお活躍かつやくにちかん両国りょうこくさかんにほうじられ、ヘテ球団きゅうだんおこなった世論せろん調査ちょうさでも、8わりせん海外かいがい進出しんしゅつ支持しじしたという結果けっかるなど、韓国かんこくないでも自国じこく選手せんしゅ海外かいがいでの活躍かつやく期待きたいする機運きうんたかまっていた[5]。かつてヘテで投手とうしゅコーチつとめ、当時とうじOBベアーズにちかんプロ野球やきゅうスーパーゲーム韓国かんこく選抜せんばつチームでそれぞれ監督かんとくつとめていた金寅植きんとうしゅや、サンバンウル・レイダース監督かんとく就任しゅうにんした金星かなぼしといったライバルチームの監督かんとくたちも、会田あいだ豊彦とよひこ取材しゅざいたいし、せん韓国かんこくよりレベルのたかいNPBやMLBで活躍かつやくすることにより、韓国かんこく球界きゅうかい好影響こうえいきょうをもたらすことを期待きたいするむねべていた[5]

一時いちじ巨人きょじん入団にゅうだん決定けっていし、あとは契約けいやくむすぶだけというむねほうじられたが[8]のち中日ちゅうにちがこれを上回うわまわるとされる条件じょうけん譲渡じょうときん3おくえん年俸ねんぽう1.5おくえん×2ねん)を提示ていじして攻勢こうせいをかけた[9]。ヘテはせん希望きぼうけ、獲得かくとく希望きぼうしたかく球団きゅうだん交渉こうしょうし、(親会社おやがいしゃ中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃが)にちかんプロ野球やきゅうスーパーゲームを主催しゅさいするなど両国りょうこく親善しんぜん寄与きよしていた中日ちゅうにち姿勢しせいたか評価ひょうかし、中日ちゅうにちりを希望きぼうしていた本人ほんにん意思いし考慮こうりょしたうえで、移籍いせきさき中日ちゅうにちめた[6]同年どうねん12がつ20日はつか、ヘテはせん中日ちゅうにち金銭きんせんトレードすることを発表はっぴょう[6]同月どうげつ23にちにはりょう球団きゅうだんあいだ移籍いせきかんする契約けいやくわされた[10]契約けいやく条件じょうけんは2ねん契約けいやく[ちゅう 2]移籍いせききん3おくえん契約けいやくきん5,000まんえん年俸ねんぽうは1おくえん(+最大さいだい5,000まんえん出来高できだかばら[ちゅう 3])である[10]韓国かんこくプロ野球やきゅう選手せんしゅ海外かいがい移籍いせきせんはつであった[5][11]

当時とうじ中日ちゅうにちおさ投手とうしゅ不在ふざい苦戦くせんいられていたことから、ヘテがわは「せん活躍かつやくするのにこれ以上いじょう環境かんきょうはない」とひょうしていた[10]。また中日ちゅうにちがわも「韓国かんこくみん英雄えいゆう」であるせん入団にゅうだんにより、どうシーズンにセ・リーグ5低迷ていめいした中日ちゅうにちよくシーズンの優勝ゆうしょう候補こうほ浮上ふじょうすることや、今後こんごにちかん友好ゆうこう推進すいしんにつながることを期待きたいしていた[10]背番号せばんごうは、かつて杉下すぎしたしげる権藤ごんどうひろし星野ほしのせんいち当時とうじ監督かんとく)といった主戦しゅせんかく投手とうしゅ背負せおい、小松こまつ辰雄たつお引退いんたいは「若手わかてにはマッチする選手せんしゅがいない」との理由りゆうから欠番けつばんとなっていた20決定けっていした[12]同年どうねんオフに監督かんとく復帰ふっきした星野ほしのはこのオフ、ドラフト会議かいぎ福留ふくとめ孝介こうすけ獲得かくとく失敗しっぱいしたり、おさ投手とうしゅ獲得かくとくうごいたトレードで球団きゅうだんとの争奪そうだつせんやぶれたりと[ちゅう 4]、それまであかるい話題わだいすくなかったなか巨人きょじんとの争奪そうだつせんせいしてせん獲得かくとく成功せいこうさせたことによろこびの態度たいどせていた[12]せん本人ほんにん当時とうじ聯合通信れんごうつうしん取材しゅざいたいし、「巨人きょじん選手せんしゅ一挙手一投足いっきょしゅいっとうそく注目ちゅうもくされ、試合しあいわったのち正装せいそう要求ようきゅうされるなど行動こうどう制約せいやくおおい。これにたいして、中日ちゅうにちのチームカラーはヘテのように自由じゆうで、自律じりつてき野球やきゅうをやっており、好感こうかんっていた」とかたったうえで、「韓国かんこくプロ野球やきゅう自尊心じそんしんまもるために最善さいぜん努力どりょくをします」「リリーフでいくなら30セーブぐらいは無難ぶなんにいけるとかんがえている」とつよ自信じしんしめしていた[5]

一方いっぽう、ヘテ球団きゅうだん団長だんちょう相国しょうこくはこの移籍いせきげきをめぐり、いったん巨人きょじん入団にゅうだんつよ示唆しさして物議ぶつぎかもしていた[15]。また巨人きょじんもヘテから「せん投手とうしゅ名門めいもん巨人きょじんぐん活躍かつやくさせたい」とのさそいがあったことから交渉こうしょうしていたため、中日ちゅうにち入団にゅうだんまったことをけて巨人きょじん球団きゅうだん代表だいひょう保科ほしな明彦あきひこは「どんな内部ないぶ事情じじょうがあったのか、理解りかいしかねる」という談話だんわ発表はっぴょうした[5]入団にゅうだん決定けってい同月どうげつ26にち、ヘテ球団きゅうだん親会社おやがいしゃであるヘテグループはヘテ球団きゅうだん球団きゅうだん社長しゃちょうはしら琯と球団きゅうだん団長だんちょう相国しょうこくりょう幹部かんぶ同時どうじ更迭こうてつしたが、この異例いれい人事じんじ巨人きょじん入団にゅうだん示唆しさしたことへの責任せきにんらせたものではないかとほうじられた[15]

中日ちゅうにち時代じだい 編集へんしゅう

せん本人ほんにん1996ねん1がつ上旬じょうじゅん来日らいにちし、同年どうねん2がつ1にちからの沖縄おきなわ春季しゅんきキャンプ参加さんかした[10]同年どうねん4がつ5にち広島東洋ひろしまとうようカープとの開幕かいまくせんで1てんリードの9かいうら来日らいにちはつ登板とうばんたすが、ルイス・ロペス同点どうてんび、いきなりセーブ失敗しっぱい。4月16にちたい巨人きょじんせんでは3てんリードの8かいうら登板とうばんするも、3ばんシェーン・マックと5ばん落合おちあい博満ひろみつ本塁打ほんるいだび、セーブ失敗しっぱい(ただし、直後ちょくごの9かいひょう打線だせんしたために来日らいにちはつ勝利しょうりをあげている)。このように、なにとしても結果けっかのこさなければならないというプレッシャーから、ムキになってあまはいったボールをやめされるというパターンのかえしで、ぐんちもあじわうなど来日らいにち1ねん期待きたいはずれの結果けっかわった。

しかし、オフ返上へんじょうなど背水はいすいじんのぞんだ2ねん1997ねんだい変身へんしんせまナゴヤ球場きゅうじょうからひろナゴヤドームうつったことで「インコースにおもいっきりいける」投球とうきゅうはまり、おさえのふだとしてセーブをげていった[16]同年どうねんのオールスターゲーム出場しゅつじょう同年どうねん当時とうじ日本にっぽん記録きろくとなる38セーブをげ、佐々木ささき主浩おもひろ横浜よこはまベイスターズ)ととも最多さいたセーブ投手とうしゅ[17]かがやく。同年どうねんせん記録きろくした38セーブの1個いっこは、横浜よこはまとの開幕かいまくせんで、ナゴヤドームはつ公式こうしきせん。ナゴヤドームではじめてセーブを記録きろくした投手とうしゅである。このとしはチームが最下位さいかい低迷ていめいするなか最多さいたかち獲得かくとくした山本やまもとあきらとともに奮闘ふんとうした。

1998ねん前年ぜんねんはチームが低迷ていめいしたがこのとし横浜よこはまとの熾烈しれつ優勝ゆうしょうあらそいをひろげ、せんもストッパーとしてこのとしけたセーブをげた投手とうしゅなかでは唯一ゆいいつ0はいき、チーム2貢献こうけんした。

1999ねん開幕かいまくせん9かい登板とうばんしたさいにふくらはぎの違和感いわかん緊急きんきゅう降板こうばんするなど高齢こうれい勤続きんぞく疲労ひろうによるコンディション不良ふりょうかさなり、6がつに3連続れんぞく救援きゅうえん失敗しっぱいし、さい調整ちょうせいぐんちした。そのあいだ岩瀬いわせサムソン落合おちあい日替ひがわりストッパーとうでやりくりしている。復帰ふっき首脳しゅのうじんらいから最後さいごの1アウトや2アウトでの登板とうばん調子ちょうしかえし、このとしおさえのふだとして28セーブを中日ちゅうにちの11ねんぶりのリーグ優勝ゆうしょう貢献こうけんした。しかし結局けっきょくはこのコンディション不良ふりょうにより全般ぜんぱんてき安定あんていかんうすらいだことなどから、このとしのシーズンかぎりでの現役げんえき引退いんたい表明ひょうめい。シーズン終了しゅうりょうの11月22にちおこなわれた引退いんたい会見かいけんでは、3連続れんぞく救援きゅうえん失敗しっぱいした6がつ時点じてん引退いんたいもうれたものの、当時とうじ監督かんとくであった星野ほしのせんいちから慰留いりゅうされていたことや、一方いっぽう年齢ねんれいによるおとろえでおさやくから中継なかつぎにまわっても名誉めいよまもることができるとかんが選手せんしゅ兼任けんにんコーチとして契約けいやくする球団きゅうだんがわ提案ていあん打診だしんされたが、選手せんしゅ生活せいかつため来日らいにちしたこと理由りゆうみずか固辞こじしたこともあきらかにしており、「それをえて優勝ゆうしょう貢献こうけんできたが、このあたりでやめたほうがファンにいいイメージをのこしたまま選手せんしゅ生活せいかつえられると決意けついした」とかたっている[18]中日ちゅうにちのリーグ優勝ゆうしょうさい胴上どうあ投手とうしゅとなり、ダイエーとの日本にっぽんシリーズだい4せんでも登板とうばんするなど、華々はなばなしい引退いんたいとなった。

引退いんたい 編集へんしゅう

引退いんたい韓国かんこく野球やきゅう委員いいんかい活動かつどうしていたが、2003ねんには自費じひ中日ちゅうにちコーチ留学りゅうがくぐんコーチとして研修けんしゅうけた。

2004ねんにはサムスン・ライオンズ首席しゅせきコーチとして韓国かんこくプロ球界きゅうかい復帰ふっき

2005ねん監督かんとく就任しゅうにんし、サムスンをリーグ制覇せいはみちびき、2005ねんのアジアシリーズ出場しゅつじょうした。背番号せばんごう18は起亜きあタイガースの永久えいきゅう欠番けつばん

2006ねん開幕かいまくまえの3がつ開催かいさいされただい1かいワールド・ベースボール・クラシック(WBC)韓国かんこく代表だいひょう投手とうしゅコーチをつとめた。だい1ラウンドAぐみでの日本にっぽんせんで、裵英洙イチロー死球しきゅうてたことについて、「あそこからながれがわったので内心ないしんうれしかった」と『朝鮮日報ちょうせんにっぽう』にかたっているが「内心ないしんうれしかった」の部分ぶぶんだけ報道ほうどうされている(韓国かんこくではイチローの発言はつげんげて報道ほうどうされていたため、誤解ごかいまれ、イチローにたいしていかりをおぼえていたためとおもわれる。くわしくはイチローの「30ねん発言はつげん参照さんしょう[19]。シーズンではサムスンは韓国かんこくリーグを制覇せいはふたた2006ねんのアジアシリーズ韓国かんこく代表だいひょうとして来日らいにちした(結果けっかは1しょう2はい予選よせんリーグ敗退はいたい)。

2008ねん1がつ2にち北京ぺきんオリンピック韓国かんこく代表だいひょうチーフコーチを辞任じにんしたことが発表はっぴょうされた。理由りゆう精神せいしんてきなストレスとのこと。メンバー提出ていしゅつ大幅おおはばなスタメン変更へんこうなど起用きようほうなどで嫌気いやけがさしていたものとおもわれている。

2009ねん9月29にちにサムスンとあらたな5ねん契約けいやくむすび、2010ねん以降いこう監督かんとく続投ぞくとうまったが、契約けいやく期間きかんを4ねんのこして突如とつじょ2010ねん12月30にち辞任じにんした[20]

2011ねん10月18にちに2012ねんシーズンより起亜きあタイガース監督かんとく就任しゅうにんすることが発表はっぴょうされた。起亜きあ前身ぜんしんヘテから通算つうさんすると、1995ねん以来いらい17ねんぶりの古巣ふるす復帰ふっきとなる。背番号せばんごうはサムスン監督かんとく時代じだいおなじ『90』。

2012ねんは5だった。

2013ねん2014ねんと2ねん連続れんぞく8成績せいせき低迷ていめいした。10月19にち契約けいやく期間きかん2ねんさい契約けいやくしたものの、10月25にち前述ぜんじゅつ成績せいせき不振ふしん理由りゆう辞任じにんした。

2015ねん11月に開催かいさいされただい1かいWBSCプレミア12韓国かんこく代表だいひょう投手とうしゅコーチに就任しゅうにんし、優勝ゆうしょう貢献こうけんした。

2017ねん3がつ開催かいさいされただい4かいWBC韓国かんこく代表だいひょう投手とうしゅコーチをつとめた。 7月24にち2018ねんジャカルタ・パレンバンアジア競技きょうぎ大会たいかい2019ねんだい2かいWBSCプレミア122020ねん東京とうきょうオリンピックまでの契約けいやく韓国かんこく代表だいひょうとしてははつとなる専任せんにん監督かんとく就任しゅうにんし、11月に開催かいさいされるだい1かいアジア プロ野球やきゅうチャンピオンシップ韓国かんこく代表だいひょうはじめて指揮しきをとる[21]どう大会たいかいでは日本にっぽんとの決勝けっしょうやぶじゅん優勝ゆうしょうだった。

2018ねんジャカルタ・パレンバンアジア競技きょうぎ大会たいかいでは韓国かんこく代表だいひょう大会たいかい3連覇れんぱみちびいた。しかし大会たいかいぐん入隊にゅうたいしていない選手せんしゅたちを優先ゆうせんしたと批判ひはんされたアジア競技きょうぎ大会たいかいでの選手せんしゅ選考せんこうけん混乱こんらんをもたらしたため、同年どうねん11がつ14にち韓国かんこく代表だいひょう監督かんとく辞任じにんした[22]

人物じんぶつ 編集へんしゅう

最速さいそく155km/hのストレートとするど横滑よこすべりする高速こうそくスライダーおよびたてのスライダーを使つかいこなし、また制球せいきゅうりょくすぐ精神せいしんめんでもつよかったとわれる[23]。ストレートのにぎりのさいにボールにゆびててげるのが特徴とくちょうで、それを当時とうじ新人しんじん岩瀬いわせ仁紀ひとのりおどろいたことをのちかたってる[24]

韓国かんこく史上しじょう最高さいこう投手とうしゅわれ、出身しゅっしんちかくにあるやまにちなんでとうやま英語えいご: Mudeungsanばくげき(ムドゥンサンポッキョッキ・무등산 폭격기)、または韓国かんこく至宝しほう(한국의 보물)、国宝こくほうきゅう投手とうしゅ(국보급 투수)との異名いみょうち、中日ちゅうにち時代じだい名古屋なごや太陽たいようばれた。[25] [26] [27]

中日ちゅうにちではしょうくん鍾範わせて3にん韓国かんこくじん選手せんしゅ在籍ざいせきしたことから韓国かんこくさんじゅうばれた。

韓国かんこくのエースとばれながら尊大そんだいなところがなく、チームメイトとの関係かんけい良好りょうこうだった。中日ちゅうにち時代じだいせい捕手ほしゅ中村なかむら武志たけしには絶大ぜつだい信頼しんらいせており、中村なかむらのサインにくびることはなかった。また、サムスンの監督かんとくとなってからも中日ちゅうにち時代じだいのチームメイトであった落合おちあい英二えいじ種田たねたひとしをサムスンのコーチに招聘しょうへいしている。

来日らいにち初年度しょねんど不振ふしん原因げんいんひとつに「言語げんごちがいによるコミュニケーション不全ふぜん」があるとかんがえたせんはそのオフから日本語にほんごまなはじめ、翌年よくねんには日常にちじょう会話かいわをこなせるまでになり(現在げんざいでも韓国かんこくないでの日本にっぽんのTV取材しゅざいにはだいたい韓国かんこくおうじているが日本語にほんごでも対応たいおうできる)、シーズンちゅう頻繁ひんぱん松坂屋まつざかやかけてものをしたり、シーズンオフには山本やまもとあきらをはじめチームメートとオーバーホールくほどんでいた。日本語にほんご散歩さんぽ途中とちゅうからない看板かんばん文字もじをメモして自宅じたくもどって辞書じしょ調しらべたり、カラオケや麻雀まーじゃんをするなかおぼえたという。かつての中日ちゅうにち時代じだいのチームメートで、のち韓国かんこく球界きゅうかいりした門倉かどくらけんとはいまでも親交しんこうがあり、2010ねん韓国かんこくオールスターせん出場しゅつじょうしたさいに、門倉かどくらおなじくアゴが特徴とくちょうチームの選手せんしゅ2にんならんで「アゴさん兄弟きょうだい」としておおくのフラッシュをびていた門倉かどくらに「アゴ、まだわかいなあ」と日本語にほんごこえけている。

うけたまわ物入ものいりで来日らいにち千葉ちばロッテマリーンズ入団にゅうだんしながら不振ふしんわった2004ねんのシーズンオフ、「通訳つうやくかいしてチームメイトとはなしている」といて「仲間なかまとはできるだけ直接ちょくせつはなすように」と日本語にほんご学習がくしゅうすすめた。そして、にちかん通算つうさん400ごう本塁打ほんるいだ達成たっせいしたさいには「ややかな視線しせんにもえた。もはや韓国かんこく英雄えいゆう」とかたり、「韓国かんこくじん最初さいしょだれでも日本にっぽんではややかな視線しせん体験たいけんする。わたしるわないときはストライクゾーンがせまかった。みとめられることがむずかしいものの、日本にっぽん野球やきゅうみとめられればらくになる。イ・スンヨプも今年ことしその軌道きどうった」とった。また、自身じしんが97ねん日本にっぽん救援きゅうえん登板とうばんのプロ野球やきゅう記録きろくをめぐり競争きょうそうするレベルにいたると、ややかだったチームの同僚どうりょう職員しょくいん丁寧ていねいにあいさつしはじめ、審判しんぱんのストライクゾーンもひろくなった、と回顧かいこし「スンヨプは45本塁打ほんるいだをこえるだろう。打率だりつも3わり3ふんだいせたし、韓国かんこくではほぼ4わり打者だしゃ同然どうぜん」とし「これからだれもスンヨプをみとめないわけにはいかない。わたしかんがえでは、読売よみうりが5〜6おくえん以上いじょうのおかねわたしてスンヨプをキープしようとするだろう」とかたった。[28]

非常ひじょう研究けんきゅう熱心ねっしん人物じんぶつであり、2006ねんのキャンプにサムスンの監督かんとくとして北海道ほっかいどう日本にっぽんハムファイターズ練習れんしゅう試合しあいおこなったとき、かつて対戦たいせんしたことのある新庄しんじょう剛志たけし特徴とくちょうなどをしっかりとおぼえていた。

実家じっか旅館りょかん経営けいえい。1980ねん5がつ18にち発生はっせいした光州こうしゅう事件じけん当時とうじせん高校こうこう3年生ねんせいで、全国ぜんこく大会たいかい目前もくぜんひかえて合宿がっしゅくちゅうだった[29]光州こうしゅういちだか野球やきゅう選手せんしゅだん遠征えんせいちゅう釜山ぷさんにいたが、事件じけん発生はっせい光州こうしゅう市内しない戒厳かいげんれい宣言せんげんされたため、直接ちょくせつ光州こうしゅうはいることができず、麗水れいすい迂回うかいして市内しないもどった。その実家じっか旅館りょかん宿泊しゅくはくしていたぼう水源すいげんなど、地域ちいきから光州こうしゅうていた選手せんしゅたちとともに、掃討そうとう作戦さくせんおこな兵士へいしらに遭遇そうぐうし、ぼう銃剣じゅうけんきつけられた。さいわ高校こうこう野球やきゅうのファンだった戒厳かいげんぐん将校しょうこうせんっており、部下ぶからを撤収てっしゅうさせた[30]。そのは「市内しないにいると危険きけん」という判断はんだんから、せん父親ちちおやがオートバイの荷台にだい監督かんとく選手せんしゅ一人ひとりひとりせ、郊外こうがい実家じっかまで避難ひなんさせた[29]。この光州こうしゅう事件じけん原因げんいんせん全国ぜんこく大会たいかい出場しゅつじょうゆめついえたが、せんしんきずきずっていた光州こうしゅう市民しみん希望きぼうゆめあたつづけたことから、市民しみんの「おおきなほこり」とばれるようになった[29]。。

親日しんにちとしてもられ、また高校こうこう野球やきゅうのファンでもある。また、プロ野球やきゅうマスターズリーグにも参加さんかしたことがある。親日しんにちのエピソードとして、鍾範が「日本にっぽんでは韓国かんこくじんだという理由りゆう待遇たいぐうわるかった」など起用きようほう不満ふまんらしたところ、「実力じつりょく不足ふそくをいいわけするな!」と一蹴いっしゅうしている。帰国きこくしたさいに「日本人にっぽんじんからなにかしらの差別さべつけはしなかったか?」とかれ「い。差別さべつかった。差別さべつ差別さべつさわぐのは、実力じつりょく努力どりょくりなかった人間にんげんのいいわけだ」や「日本にっぽん野球やきゅう日本人にっぽんじん素晴すばらしかった」と周囲しゅういかたっていた。さらに、そのにちかん代表だいひょうせんにて韓国かんこく代表だいひょう日本にっぽん代表だいひょうったとき韓国かんこくのマスコミに「1かいや2かいったからとって、韓国かんこく野球やきゅう日本にっぽん野球やきゅうをこえたことにはならない。日本にっぽん代表だいひょうレベルのチームをいくつもつくれるが、韓国かんこくは1チームしかつくれない。そうあつさに、まだまだがある」と冷静れいせい戦力せんりょく分析ぶんせきしていた。だが、こうした発言はつげんから「親日しんにち発言はつげんばかりする売国奴ばいこくど」として、反日はんにち実家じっか旅館りょかん放火ほうかされたこともある。北京ぺきんオリンピックアジア予選よせんたい日本にっぽんせんにおいて、韓国かんこくチームがメンバーひょう提出ていしゅつ露骨ろこつなスタメン変更へんこうをしたため、中日ちゅうにち時代じだい監督かんとくでもあった日本にっぽん代表だいひょう監督かんとく星野ほしのせんいちみずか直接ちょくせつ謝罪しゃざいしている[31]

なお、中日ちゅうにち入団にゅうだん韓国かんこく航空こうくう会社かいしゃアシアナ航空こうくうから名古屋なごや名古屋なごや飛行場ひこうじょう中部ちゅうぶ国際こくさい空港くうこう) - ソウル(金浦このうら国際こくさい空港くうこう仁川にがわ国際こくさい空港くうこうあいだ航空機こうくうき永久えいきゅう無償むしょう利用りようけん授与じゅよされている。また、名古屋なごやからも「なごや観光かんこう大使たいし」に任命にんめいされている。

にちかん両国りょうこくで100セーブポイント(セーブではない)を達成たっせいしたはつ投手とうしゅである。

2011ねん12月21にち、かつてのライバルであるちぇ東原ひがしはらとのたたかいを映画えいがした「パーフェクトゲーム朝鮮ちょうせんばん」が公開こうかいされた。せんどうれつやくヤン・ドングンえんじた。

詳細しょうさい情報じょうほう 編集へんしゅう

年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき 編集へんしゅう

とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

やす

ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
1985 ヘテ 25 3 1 0 -- 7 4 8 -- .636 424 111.0 74 2 20 4 3 103 3 0 30 21 1.70 0.85
1986 39 22 19 8 -- 24 6 6 -- .800 972 262.2 153 2 52 5 7 214 3 2 38 29 0.99 0.78
1987 31 11 7 4 -- 14 2 6 -- .875 604 162.0 89 2 47 1 3 144 1 1 21 16 0.89 0.84
1988 31 12 9 1 -- 16 5 10 -- .762 674 178.1 116 3 35 0 7 200 0 1 29 24 1.21 0.85
1989 36 12 8 6 -- 21 3 8 -- .875 618 169.0 82 2 48 0 7 198 4 1 27 22 1.17 0.77
1990 35 16 8 6 -- 22 6 4 -- .786 724 190.1 121 1 50 1 8 189 5 0 35 24 1.13 0.90
1991 35 22 12 3 -- 19 4 6 -- .826 761 203.0 135 8 25 0 8 210 1 1 42 35 1.55 0.79
1992 11 2 1 1 -- 2 0 8 -- 1.000 119 32.2 20 0 10 0 2 42 1 0 1 1 0.28 0.92
1993 49 1 0 0 -- 10 3 31 -- .769 433 126.1 48 2 20 0 6 164 0 0 11 11 0.78 0.54
1994 27 8 3 0 -- 6 4 12 -- .600 404 102.1 81 5 21 0 8 94 3 2 31 31 2.73 1.00
1995 48 0 0 0 -- 5 3 33 -- .625 381 109.1 49 1 14 3 3 140 6 0 9 6 0.49 0.58
1996 中日ちゅうにち 38 1 0 0 0 5 1 3 -- .833 248 54.0 62 4 22 3 3 67 1 0 35 33 5.50 1.56
1997 43 0 0 0 0 1 1 38 -- .500 232 63.1 36 0 12 0 1 69 0 1 9 9 1.28 0.76
1998 42 0 0 0 0 3 0 29 -- 1.000 187 48.2 31 4 11 0 0 58 1 0 8 8 1.48 0.86
1999 39 0 0 0 0 1 2 28 -- .333 131 31.0 31 1 10 1 0 34 4 0 9 9 2.61 1.32
KBO:11ねん 367 109 68 29 -- 146 40 132 -- .785 6114 1647.0 968 28 342 14 62 1698 27 8 274 220 1.20 0.80
NPB:4ねん 162 1 0 0 0 10 4 98 -- .714 798 197.0 160 9 55 4 4 228 6 1 61 59 2.70 1.09
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこうあか太字ふとじはKBOにおける歴代れきだい最高さいこう

年度ねんどべつ監督かんとく成績せいせき 編集へんしゅう

レギュラーシーズン
年度ねんど 球団きゅうだん 順位じゅんい 公式こうしきせん順位じゅんい 試合しあい 勝利しょうり 敗戦はいせん 引分ひきわけ 勝率しょうりつ ゲーム
2005 サムスン 1 1 126 74 48 4 .607 -
2006 1 1 126 73 50 3 .593 -
2007 4 4 126 62 60 4 .508 11.5
2008 4 4 126 65 61 0 .516 18.0
2009 5 5 133 64 69 0 .481 17.0
2010 2 2 133 79 52 2 .594 5.0
2012 起亜きあ 5 5 133 62 65 6 .488 16.0
2013 8 8 128 51 74 3 .408 23.5
通算つうさん:8ねん 1031 530 479 22 .525
ポストシーズン
年度ねんど 球団きゅうだん ステージ 対戦たいせん相手あいて 結果けっか 星取表ほしとりひょう
2005 サムスン 韓国かんこくシリーズ 斗山とさん 4しょう ○○○○
2006 ハンファ 4しょう1はい1 ○●○○△○
2007 じゅんプレーオフ 1しょう2はい ●○●
2008 じゅんプレーオフ ロッテ 3しょう ○○○
プレーオフ 斗山とさん 2しょう4はい ●○○●●●
2010 プレーオフ 斗山とさん 3しょう2はい ○●●○○
韓国かんこくシリーズ SKワイバーンズ 4はい ●●●●
  • ステージの太字ふとじ勝利しょうりしたシリーズ

タイトル 編集へんしゅう

KBO
  • 投手とうしゅ三冠王さんかんおう:4かい (1986ねん、1989ねん - 1991ねん
  • 最優秀さいゆうしゅう防御ぼうぎょりつ:8かい (1985ねん - 1991ねん、1993ねん
  • 最多さいたしょう:4かい (1986ねん、1989ねん - 1991ねん
  • 最多さいただつ三振さんしん:5かい (1986ねん、1988ねん - 1991ねん
  • 最多さいたセーブ:2かい (1993ねん、1995ねん
NPB
  • 最多さいたセーブ:1かい (1997ねん

表彰ひょうしょう 編集へんしゅう

KBO
NPB

記録きろく 編集へんしゅう

NPBはつ記録きろく
NPBその記録きろく

背番号せばんごう 編集へんしゅう

  • 18 (1985ねん - 1995ねん現在げんざい起亜きあ永久えいきゅう欠番けつばん
  • 20 (1996ねん - 1999ねん
  • 93 (2003ねん
  • 82 (2004ねん
  • 90 (2005ねん - 2010ねん、2012ねん - 2014ねん、2017ねん - 2018ねん

関連かんれん情報じょうほう 編集へんしゅう

うた 編集へんしゅう

応援おうえん 編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく 編集へんしゅう

  1. ^ 1998ねんからは外国がいこくじん選手せんしゅれるようになった[7]
  2. ^ それ以降いこう契約けいやくについては、中日ちゅうにち・ヘテのりょう球団きゅうだん協議きょうぎして決定けっていすることとされた[10]
  3. ^ 出来高できだかセーブポイントかず設定せっていされ、30セーブポイント以上いじょうで3,000まんえん、40セーブポイント以上いじょうで5,000まんえん年俸ねんぽう加算かさんする契約けいやくだった[10]
  4. ^ 中日ちゅうにち同年どうねんオフの11月、おさ投手とうしゅ候補こうほとして武田たけだ一浩かずひろ日本にっぽんハムファイターズ)の獲得かくとくねらっていたが[13]武田たけだ下柳しもやなぎつよしらとの2たい2の交換こうかんトレードにより福岡ふくおかダイエーホークス移籍いせきした[14]

出典しゅってん 編集へんしゅう

  1. ^ せんどうれつコーチ「台湾たいわんせんかなら勝利しょうりする」 北京ぺきん五輪ごりんアジア予選よせん 東亜日報とうあにっぽう 2007ねん11月29にち
  2. ^ 최혜원(ちぇめぐみひめ) 이름, 바로 쓰고 바로 부르기 国立こくりつ国語こくごいん
  3. ^ 야구부장의 크보 핵인싸 '양키스 선동열' 통했을까? スポーツ朝鮮ちょうせん
  4. ^ a b c d e ベースボールマガジン、2011ねん11がつごう P90-P91
  5. ^ a b c d e f g h i j k 中日新聞ちゅうにちしんぶん』1995ねん12月21にち朝刊ちょうかんだい12はん運動うんどうめん28ぺーじりゅうとう スーパー守護神しゅごじん せんどうれつ中日ちゅうにちり プロ野球やきゅう国際こくさい風穴かざあな 野茂のも活躍かつやく、バネ」「せん投手とうしゅいちもんいちとう 中日ちゅうにち好感こうかん 30セーブ自信じしん」「ごうだまおさせんに“よんたから背筋せすじ どおとう調整ちょうせい 漢方薬かんぽうやく 光州こうしゅうたましい 中日ちゅうにちいきお復活ふっかつか」(橋本はしもと和男かずお)「英雄えいゆうから名将めいしょう韓国かんこく球界きゅうかいゆめたくす」(会田あいだ豊彦とよひこ)「『つのつらかった』球団きゅうだん社長しゃちょう きょじん理解りかいしかねる』」「【ソウル20にち末次すえつぐ秀行ひでゆき】ファクスで発表はっぴょう」(中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ) - 縮刷しゅくさつばん872ぺーじ
  6. ^ a b c 中日新聞ちゅうにちしんぶん』1995ねん12月20にち夕刊ゆうかんEばんだい社会しゃかいめん12ぺーじ「【ソウル20にち末次すえつぐ秀行ひでゆきせん投手とうしゅ 中日ちゅうにち発表はっぴょう」(中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ) - 縮刷しゅくさつばん844ぺーじ
  7. ^ 中日新聞ちゅうにちしんぶん』1997ねん4がつ25にち朝刊ちょうかんだい外電がいでんめん7ぺーじしん世界せかい事情じじょう ひろがる白球はっきゅう版図はんと 韓国かんこく 実力じつりょく自信じしん 純血じゅんけつ決別けつべつ」(中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ ソウル・武田たけだ安弘やすひろ
  8. ^ スポーツニッポン』1995ねん12月16にち 3めんない記事きじ
  9. ^ 『スポーツニッポン』1995ねん12がつ20日はつか3めんない記事きじ
  10. ^ a b c d e f g 中日新聞ちゅうにちしんぶん』1995ねん12月24にち朝刊ちょうかんだい12はん運動うんどうめん22ぺーじ「【ソウル23にち末次すえつぐ秀行ひでゆき中日ちゅうにち、ヘテとせん移籍いせき契約けいやく 年俸ねんぽう1おく 契約けいやくきん5000まん 1がつ上旬じょうじゅん来日らいにち キャンプ2がつ参加さんか」(中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ) - 縮刷しゅくさつばん986ぺーじ
  11. ^ 中日新聞ちゅうにちしんぶん』1995ねん12月21にち朝刊ちょうかんだい12はんいちめん1ぺーじ「【ソウル20にち末次すえつぐ秀行ひでゆきせん投手とうしゅ 中日ちゅうにち決定けってい 韓国かんこく球界きゅうかいスター 年俸ねんぽうなど4おく5000まんえん」(中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ) - 縮刷しゅくさつばん847ぺーじ
  12. ^ a b 中日新聞ちゅうにちしんぶん』1995ねん12月21にち朝刊ちょうかんだい12はんだいいち社会しゃかいめん29ぺーじせん投手とうしゅ背番号せばんごう「20ばんおく星野ほしの監督かんとくごきげん」「Vの使者ししゃよろこぶドラファン」(中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ) - 縮刷しゅくさつばん875ぺーじ
  13. ^ 中日ちゅうにちスポーツ』1995ねん11月15にちだい5はん1ぺーじ武田たけだり ダイエー参戦さんせん 星野ほしの監督かんとくおう監督かんとく激突げきとつ絶対ぜったいあきらめん』出血しゅっけつ覚悟かくごだい勝負しょうぶに」(中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ
  14. ^ 中日ちゅうにちスポーツ』1995ねん11月17にちだい5はん3ぺーじ武田たけだ念願ねんがん中日ちゅうにちりならず 星野ほしの監督かんとくはげまされた 新天地しんてんち頑張がんば機会きかいあったら一緒いっしょにやろう」(中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ
  15. ^ a b 中日新聞ちゅうにちしんぶん』1995ねん12月27にち朝刊ちょうかんだい12はん運動うんどうめん18ぺーじ「【ソウル26にち時事じじ】ヘテ球団きゅうだん幹部かんぶ更迭こうてつ せん巨人きょじん入団にゅうだん示唆しさ引責いんせきか」(中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ) - 縮刷しゅくさつばん1092ぺーじ
  16. ^ どんぞこから復活ふっかつ星野ほしの中日ちゅうにち11ねんぶりVに貢献こうけんした韓国かんこく至宝しほうせんどうれつ野球やきゅう人生じんせい平成へいせいすけ賛歌さんか【プロ野球やきゅう死亡しぼう遊戯ゆうぎ
  17. ^ 当時とうじ最多さいたセーブポイントかず最優秀さいゆうしゅう救援きゅうえん投手とうしゅ表彰ひょうしょうしていたため、タイトル獲得かくとく佐々木ささき(41SP)のみ。
  18. ^ 中日ちゅうにちせん投手とうしゅ引退いんたい
  19. ^ 【WBC】イチローにぶつけた裴英洙が「烈士れっしあつかい?[リンク]
  20. ^ 野球やきゅう三星みつぼしせんどうれつ監督かんとく電撃でんげき辞任じにん - 2010ねん12月30にち
  21. ^ KBO, 국가대표팀 전임감독에 선동열 전 WBC대표팀 투수코치 선임 - 2017ねん7がつ24にち
  22. ^ [사진]선동열 감독,"야구대표팀 감독직에서 사퇴하겠습니다" - 2018ねん11月14にち
  23. ^ 落合おちあい博満ひろみつが「すごい投手とうしゅた」と脱帽だつぼう韓国かんこく至宝しほう」とばれた親日しんにち剛腕ごうわん”. 週刊しゅうかんベースボールONLINE. 2020ねん12月6にち閲覧えつらん
  24. ^ 通算つうさん755試合しあい登板とうばん 鉄腕てつわんリリーバー鹿取かとり義隆よしたか 天性てんせいやわらかさがんだ投球とうきゅうじゅつ 【ピッチャーズバイブル】 フルタの方程式ほうていしき古田ふるたあつし公式こうしきチャンネル】
  25. ^ 野球やきゅうとと政治せいじ衝突しょうとつ…「名古屋なごや太陽たいようせんどうれつ国政こくせい監査かんさ証人しょうにんに(1)”. 中央日報ちゅうおうにっぽう. 2019ねん8がつ28にち閲覧えつらん
  26. ^ 韓国かんこく代表だいひょう せんどうれつ監督かんとくOAわく使つかわず もと中日ちゅうにちかねはん息子むすこ注目ちゅうもく”. スポニチ. 2019ねん8がつ28にち閲覧えつらん
  27. ^ 日本にっぽんれるな!阪神はんしんしん守護神しゅごじんのぼる桓、157キロ「いし直球ちょっきゅう熟成じゅくせい集中しゅうちゅうせよ”. サンスポ. 2019ねん8がつ28にち閲覧えつらん
  28. ^ せんどうれつややかさにえたうけたまわ燁」中央日報ちゅうおうにっぽう
  29. ^ a b c 中日新聞ちゅうにちしんぶん』1995ねん12月23にち朝刊ちょうかんだい12はん運動うんどうめん19ぺーじ「'95回顧かいこ取材しゅざい余話よわ せんどうれつ故郷こきょう 軍靴ぐんかなみだ 反骨はんこつ光州こうしゅう」(中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ 末次すえつぐ秀行ひでゆき) - 縮刷しゅくさつばん957ぺーじ
  30. ^ 배지헌 (2015ねん5がつ18にち). “5.18 그때 광주에는 선동열이 있었다” (朝鮮ちょうせん). www.pressian.com. 2023ねん1がつ25にち閲覧えつらん
  31. ^ http://beijing2008.nikkansports.com/baseball/asia/p-bb-tp0-20071205-291562.html
  32. ^ まる蔵人くろうど『アジオン・ラヴァーズ』、1996ねん12月、大村おおむら書店しょてん、P170

関連かんれん項目こうもく 編集へんしゅう

外部がいぶリンク 編集へんしゅう