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富山丸 - Wikipedia

富山とやままる

日本にっぽんふね

富山とやままる(とやままる)は、日本郵船にっぽんゆうせん運航うんこうしていた1915ねん大正たいしょう4ねん竣工しゅんこう貨物かもつせんTがた貨物かもつせんばれる7500そうトンきゅうの1せきで、太平洋戦争たいへいようせんそうなかの1944ねん昭和しょうわ19ねん)に沖縄おきなわへの増援ぞうえん部隊ぶたい輸送ゆそうちゅう撃沈げきちんされ、3500にん以上いじょう多数たすう戦死せんししゃした。沖縄おきなわせん関連かんれん戦没せんぼつせんかぞえられることがある。なお、日本郵船にっぽんゆうせん同名どうめいふねとして1968ねん昭和しょうわ43ねん)に就航しゅうこうさせた67,512トンの大型おおがたタンカーも保有ほゆうしたことがあり、1976ねん昭和しょうわ51ねん)にギリシャ企業きぎょう売却ばいきゃく[5]

富山とやままる
基本きほん情報じょうほう
ふねしゅ 貨物かもつせん
クラス Tがた貨物かもつせん
船籍せんせき 大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく
運用うんようしゃ 日本郵船にっぽんゆうせん
南洋なんよう海運かいうん
小野おの商事しょうじ
大洋たいよう興業こうぎょう
建造けんぞうしょ 三菱みつびし合資ごうし会社かいしゃ三菱みつびし造船ぞうせんしょ
母港ぼこう 東京とうきょうこう/東京とうきょう
姉妹しまいせん Tがた貨物かもつせん27せき
信号しんごう MSJK→JTXD
IMO番号ばんごう 18180(※船舶せんぱく番号ばんごう
建造けんぞう期間きかん 669にち
就航しゅうこう期間きかん 10,629にち
経歴けいれき
起工きこう 1913ねん8がつ4にち[1]
進水しんすい 1915ねん3がつ20日はつか[2]
竣工しゅんこう 1915ねん6月11にち[3]
就航しゅうこう 1917ねん8がつ[1]
最後さいご 1944ねん6月29にち かみなり沈没ちんぼつ
要目ようもく
総トン数そうとんすう 7,089トン[2]
じゅんトン数とんすう 4,385トン
載貨さいか重量じゅうりょう 10,795トン[2]
全長ぜんちょう 135.64m[2]
かたはば 17.68m[2]
かたふか 10.36m[2]
たか 29.56m(水面すいめんからマスト最上さいじょうはしまで)
15.54m(水面すいめんから煙突えんとつ最上さいじょうはしまで)
喫水きっすいそらせん平均へいきん)2.75m[2]
満載まんさい喫水きっすい平均へいきん)8.12 m[2]
ボイラー 石炭せきたんせんもえかん
しゅ機関きかん パーソンスしきいちだん減速げんそく装置そうちづけ蒸気じょうきタービン機関きかん 2[2]
推進すいしん 2じく[2]
最大さいだい出力しゅつりょく 6,315馬力ばりき[2]
最大さいだい速力そくりょく 14.5ノット[2]
航海こうかい速力そくりょく 10.0ノット[2]
航続こうぞく距離きょり 11ノットで18,000うみさと
乗組のりくみいん 63めい[2]
たかさはべい海軍かいぐん識別しきべつひょう[4]より(フィート表記ひょうき)。
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ふねれき

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日本郵船にっぽんゆうせん中古ちゅうこせん多数たすうめていた[6]貨物かもつ船隊せんたい改善かいぜんのために、1912ねん明治めいじ45ねん/大正たいしょう元年がんねん)から1913ねん大正たいしょう2ねん)にかけて、イギリスから貨物かもつせんけい4せき購入こうにゅうし、その運用うんよう実績じっせきまえて7,500そうトン、11ノットがた貨物かもつせん6せき建造けんぞうめる[7][8]。6せきのうち、「対馬つしままる」と「高田たかだまる[注釈ちゅうしゃく 1]はラッセル造船ぞうせんしょで、「豊橋とよはしまる[注釈ちゅうしゃく 2]と「徳山とくやままる[注釈ちゅうしゃく 3]川崎かわさき造船ぞうせんしょ建造けんぞうされた。そして「豊岡とよおかまる[注釈ちゅうしゃく 4]とともに三菱みつびし合資ごうし会社かいしゃ三菱みつびし造船ぞうせんしょ建造けんぞうされたのが「富山とやままる」である[8]。6せき1915ねん大正たいしょう4ねんちゅう完成かんせいして、だいいち世界せかい大戦たいせん只中ただなか欧州おうしゅう航路こうろなどに就航しゅうこうして、連合れんごうこくけの軍需ぐんじゅひん食糧しょくりょう輸送ゆそう成果せいかおさめた[8]対馬つしままる富山とやままるなどのだいいちじんつづいて建造けんぞうされた6せきわせ、ふねめい頭文字かしらもじがすべて「T」ではじまることから、Tがた貨物かもつせんという通称つうしょうばれることとなった[7]。Tがた貨物かもつせん成功せいこうにより他社たしゃもTがた貨物かもつせん同型どうけいせん導入どうにゅうすることとなり、日本にっぽんにおける貨物かもつせん国内こくない建造けんぞう先駆せんくとして特記とっきすべき存在そんざいとなった[7]。「富山とやままる」は、1924ねん大正たいしょう13ねん)から1930ねん昭和しょうわ5ねん)まではシアトル航路こうろ就航しゅうこう[9]1933ねん昭和しょうわ8ねん)からはボンベイ航路こうろてんじた[9]

そのころらんしるし方面ほうめん航路こうろ開設かいせつしていた日本にっぽんふね会社かいしゃひとつに南洋なんよう郵船ゆうせんという会社かいしゃがあった[10]南洋なんよう郵船ゆうせん神戸こうべスラバヤあいだ命令めいれい航路こうろ経営けいえいしていたが[11]日本にっぽん郵船ゆうせん大阪おおさか商船しょうせんなどのだい会社かいしゃらんしるし方面ほうめん進出しんしゅつしてはげしい運賃うんちん競争きょうそう展開てんかいされていた。しかし、日本郵船にっぽんゆうせん大阪おおさか商船しょうせん南洋なんよう郵船ゆうせんオランダふね会社かいしゃジャワ・チャイナ・ジャパン・ライン(JCJL)のよんしゃあいだ運賃うんちんかんするカルテル締結ていけつして競争きょうそう一旦いったんおさまった[12]昭和しょうわ時代じだいはいり、石原いしはら広一郎ひろいちろうひきいる石原産業いしはらさんぎょう海運かいうんらんしるし航路こうろ進出しんしゅつして競争きょうそうふたたはげしくなり[13]一旦いったん石原産業いしはらさんぎょう海運かいうんをカルテルないれて競争きょうそう鎮静ちんせいはかったが、石原産業いしはらさんぎょう海運かいうん独断どくだんしん造船ぞうせん[注釈ちゅうしゃく 5]建造けんぞうするなどみだ行為こういがカルテルをゆるがせ、国際こくさい問題もんだい発展はってんしてしまった[14]。そこで、日本にっぽん政府せいふ斡旋あっせんにより国策こくさく会社かいしゃである南洋なんよう海運かいうん設立せつりつし、日本郵船にっぽんゆうせん大阪おおさか商船しょうせん南洋なんよう郵船ゆうせんおよび石原産業いしはらさんぎょう海運かいうんから航路こうろ所有しょゆうせん現物げんぶつ出資しゅっしさせて事態じたい沈静ちんせいはかった[15]。「富山とやままる」は1935ねん昭和しょうわ10ねん)7がつ3にちづけ南洋なんよう海運かいうん出資しゅっしされ、らんしるし航路こうろ就航しゅうこうした[9]。しかし南洋なんよう海運かいうんせきいた期間きかんみじかく、1936ねん昭和しょうわ11ねん)12月には小野おの商事しょうじ売却ばいきゃくされ[1]日本郵船にっぽんゆうせん傭船ようせんによりボンベイ航路こうろ復帰ふっきする[9]。その1943ねん昭和しょうわ18ねん)8がつには合併がっぺいともな大洋たいよう興業こうぎょう移籍いせきした[9]

富山とやままる」は1941ねん昭和しょうわ16ねん)9がつ以降いこう陸軍りくぐんしるし傭船ようせんとして行動こうどう[9]ラモンわん上陸じょうりく作戦さくせん皮切かわきりに昭南しょうなん(シンガポール)ラバウルなど南方なんぽう各地かくちへの輸送ゆそう任務にんむふくする[9]軍隊ぐんたい輸送ゆそうせんとしては578つぼにわたる兵員へいいん収容しゅうよう区画くかく軍馬ぐんば300とうぶん収容しゅうよう能力のうりょくっていた[16]

沈没ちんぼつ

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マリアナおき海戦かいせん敗北はいぼく、それにつづサイパンのたたかなどの敗勢はいせいけて、大本営だいほんえい南西諸島なんせいしょとう防備ぼうび強化きょうかいそいだ。この影響えいきょう沖縄おきなわ本島ほんとうへの増援ぞうえん必要ひつようとなり、本船ほんせん独立どくりつ混成こんせいだい44旅団りょだん歩兵ほへいたい将兵しょうへいみなみ九州きゅうしゅう出身しゅっしんしゃにより構成こうせい)、独立どくりつ混成こんせいだい45旅団りょだん一部いちぶ将兵しょうへい四国しこく出身しゅっしんしゃにより構成こうせい)、およ重火器じゅうかきトラックなどの装備そうびおくこととなった。「富山とやままる」はどくこんだい44旅団りょだんおよびどくこんだい45旅団りょだん将兵しょうへい4,600めい[17]ちゅう甲板かんぱんせるが[9]、そのした甲板かんぱんにはガソリン搭載とうさいしたドラム缶どらむかん1,500ほんならべられていた[9]

 
アメリカ潜水せんすいかん「スタージョン」

1944ねん昭和しょうわ19ねん)6がつ27にち、「富山とやままる」をふくめた12せき船舶せんぱく総計そうけい23,777トン[18]はカタ412船団せんだん構成こうせいし、鹿児島湾かごしまわん出港しゅっこうする[18]よく28にち船団せんだんのうち貨客船かきゃくせんくつもんまる」(大阪おおさか商船しょうせん、784トン)[注釈ちゅうしゃく 6]と「開城かいじょうまる」(大阪おおさか商船しょうせん、2,025トン)[注釈ちゅうしゃく 7]名瀬なぜこう寄港きこうし、「富山とやままる」をふくめたほか船舶せんぱくは17古仁屋こにや入港にゅうこうした[19]翌朝よくあさ船団せんだん名瀬なぜ古仁屋こにやからそれぞれ出港しゅっこうして那覇なはかう。そのころ、アメリカ潜水せんすいかんスタージョン」は徳之島とくのしまひがし浮上ふじょう哨戒しょうかいおこなっており、433ふん潜航せんこう哨戒しょうかい開始かいしした[20]。529ふん、「スタージョン」は北緯ほくい2742ふん 東経とうけい12909ふん / 北緯ほくい27.700 東経とうけい129.150 / 27.700; 129.150地点ちてん船舶せんぱくからはっせられるけむり確認かくにんする[20]。さらに観測かんそくつづけ、相手あいては1せき大型おおがた輸送ゆそうせん、4せき中型ちゅうがたないし小型こがた輸送ゆそうせん、1せき兵員へいいん輸送ゆそうせんなんせきかの小型こがたせんおよび1せき小型こがたタンカーからなる輸送ゆそう船団せんだんであり、漁船ぎょせんかた護衛ごえいていがついているのを確認かくにんする[20]。カタ412船団せんだん針路しんろ220航行こうこうちゅう判断はんだんされ、「スタージョン」は「あんひろしまる[注釈ちゅうしゃく 8]きゅう」こと「富山とやままる」に照準しょうじゅんさだめる[20]。725ふん、「スタージョン」はかんくび発射はっしゃかんから「富山とやままる」にけて魚雷ぎょらいを4ほん発射はっしゃした[20]。4ほんのうち3ほんが「富山とやままる」の左舷さげん船首せんしゅばん船倉ふなぐらおよびよんばん船倉ふなぐら機関きかんしつなかあいだ命中めいちゅう[9]左舷さげん船首せんしゅばん船倉ふなぐら命中めいちゅうした魚雷ぎょらい衝撃しょうげきでガソリンが船内せんないおよび海上かいじょう発火はっかして炎上えんじょうした。めをしたのはよんばん船倉ふなぐら機関きかんしつなかあいだ命中めいちゅうした魚雷ぎょらいで、「富山とやままる」は船体せんたいふたつにって北緯ほくい2743ふん 東経とうけい12906ふん / 北緯ほくい27.717 東経とうけい129.100 / 27.717; 129.100[17]徳之島とくのしま南東なんとう12キロの地点ちてん轟沈ごうちんした[9]

轟沈ごうちん海上かいじょう流出りゅうしゅつして引火いんかしたガソリンのため、将兵しょうへい4,600めい脱出だっしゅつする余裕よゆうはほとんどなかった[21]。この沈没ちんぼつで、りょう旅団りょだん将兵しょうへいのうち3,627めい[21]ないし3,724めい船員せんいんふねほう隊員たいいんほか53めい[21]ないし150めい合計ごうけい3,680めい[21]ないし3,874めい死亡しぼうした。この死亡しぼうしゃすうは、いちせきふねによるものとしては「タイタニック」や、翌年よくねん戦艦せんかん大和やまと」の沈没ちんぼつよりもおお当時とうじとしてはだいいちきゅう惨事さんじであったが、おおくの船舶せんぱく沈没ちんぼつ実態じったい同様どうよう大本営だいほんえいにより秘匿ひとくされた。「富山とやままる轟沈ごうちん、「スタージョン」は護衛ごえい敷設ふせつてい新井あらい」などから爆雷ばくらい攻撃こうげきけ、「スタージョン」に被害ひがいがなかった[22]にもかかわらず、「撃沈げきちん確実かくじつ」がほうじられた[17]

当時とうじどくこんだい44旅団りょだんをはじめとして、沖縄おきなわ現地げんち部隊ぶたい統括とうかつするだい32ぐん大本営だいほんえいより飛行場ひこうじょう急速きゅうそく造成ぞうせい指令しれいされていたが、本船ほんせん沈没ちんぼつによって旅団りょだんのこりはやく700めい、そのうち活動かつどうできるものやく500めいとなり、トラックなどもうしなわれた。完成かんせい期日きじつの7がつまつになっても、だい32ぐん担当たんとうした飛行場ひこうじょう建設けんせつすすまなかった。本船ほんせんうみぼつによる損害そんがいは、設営せつえい遅延ちえん原因げんいんひとつとなった[23]

1964ねん昭和しょうわ39ねん)6がつ29にちには徳之島とくのしま亀徳かめとく慰霊いれいとう建立こんりゅうされ、1985ねん昭和しょうわ60ねん)6がつ30にちには古仁屋こにや供養くようとう建立こんりゅうされた。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1916ねん大正たいしょう5ねん)2がつ1にちにアメリカせん衝突しょうとつして、よく2にち沈没ちんぼつ#郵船ゆうせん100ねんp.164)
  2. ^ 1942ねん昭和しょうわ17ねん)6がつ4にちプーケットとうおきでイギリス潜水せんすいかんトラスティ」の雷撃らいげきにより沈没ちんぼつChapter IV: 1942#郵船ゆうせん100ねんp.165)
  3. ^ 1918ねん大正たいしょう7ねん)8がつ2にちアメリカ東海岸ひがしかいがんおきUボート雷撃らいげきにより沈没ちんぼつ#郵船ゆうせん100ねんp.166)
  4. ^ 1940ねん昭和しょうわ15ねん)に鏑木かぶらき汽船きせん売却ばいきゃく昭和しょうわ19ねん9がつ9にちバシー海峡かいきょうでアメリカ潜水せんすいかんクイーンフィッシュ」の雷撃らいげきにより沈没ちんぼつ#郵船ゆうせん100ねんp.163)
  5. ^ きよしたから縷丸かた貨客船かきゃくせん#松井まついp.173)
  6. ^ 1945ねん昭和しょうわ20ねん)5がつ25にち対馬つしまおきPB4Y-2 プライバティア爆撃ばくげきにより沈没ちんぼつ#野間のまp.548)
  7. ^ 昭和しょうわ20ねん3がつ24にちカナ304船団せんだん加入かにゅうちゅう東シナ海ひがししなかいだい58任務にんむ部隊ぶたい爆撃ばくげきにより沈没ちんぼつ#野間のまp.521)
  8. ^ 東洋とうよう汽船きせん日本にっぽん郵船ゆうせん南洋なんよう海運かいうん貨客船かきゃくせん。9,419トン。昭和しょうわ20ねん1がつ8にち台湾たいわん海峡かいきょうでアメリカ潜水せんすいかんバーブ」の雷撃らいげきにより沈没ちんぼつ#郵船ゆうせん100ねんp.199)

出典しゅってん

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関連かんれん文献ぶんけん・ウェブサイト

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  • (Issuu) SS-187, USS STURGEON. Historic Naval Ships Association. https://issuu.com/hnsa/docs/ss-187_sturgeon 
  • アジア歴史れきし資料しりょうセンター(公式こうしき防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ
    • Ref.C08050083300『昭和しょうわじゅうはち年度ねんどばん 日本にっぽん汽船きせん名簿めいぼ 内地ないち 朝鮮ちょうせん 台湾たいわん 関東かんとうしゅう 其一』、p .9ぺーじ 
    • Ref.C08030143900『昭和しょうわじゅうきゅうねんろくがついちにちいたり昭和しょうわじゅうきゅうねんろくがつさんじゅうにち だい四海上護衛隊沖縄方面根拠地隊戦時日誌』、pp .45-60ぺーじ 
    • Ref.C08030438500『昭和しょうわじゅうきゅうねんろくがついちにちいたり昭和しょうわじゅうきゅうねんろくがつさんじゅうにち 大島おおしま防備ぼうびたい戦時せんじ日誌にっし』、pp .45-60ぺーじ 
  • 日本郵船にっぽんゆうせん戦時せんじふね編纂へんさん委員いいんかい日本郵船にっぽんゆうせん戦時せんじふねじょう日本郵船にっぽんゆうせん、1971ねん 
  • 山高やまたか五郎ごろう図説ずせつ まる船隊せんたい史話しわ(図説ずせつ日本にっぽん海事かいじ史話しわ叢書そうしょ4)』至誠しせいどう、1981ねん 
  • 木津きづ重俊しげとしへん)『世界せかい艦船かんせん別冊べっさつ 日本郵船にっぽんゆうせん船舶せんぱく100ねん海人あましゃ、1984ねんISBN 4-905551-19-6 
  • 野間のまひさし商船しょうせんかた太平洋戦争たいへいようせんそう 商船しょうせん三井みつい戦時せんじふね野間のまひさし私家版しかばん)、2004ねん 
  • 松井まつい邦夫くにお日本にっぽん商船しょうせんふねめいこう海文堂かいぶんどう出版しゅっぱん、2006ねんISBN 4-303-12330-7 
  • 戦前せんぜん船舶せんぱく研究けんきゅうかい戦前せんぜん船舶せんぱく資料集しりょうしゅう だい113ごう戦前せんぜん船舶せんぱく研究けんきゅうかい、2007ねん 
  • 財団ざいだん法人ほうじん海上かいじょう労働ろうどう協会きょうかいへん)『復刻ふっこくばん 日本にっぽん商船しょうせんたい戦時せんじ遭難そうなん財団ざいだん法人ほうじん海上かいじょう労働ろうどう協会きょうかい/成山なりやまどう書店しょてん、2007ねん原著げんちょ1962ねん)。ISBN 978-4-425-30336-6 
  • 福地ふくち曠昭(へん)『えるうみ-輸送ゆそうせん富山とやままる悲劇ひげき海風かいふうしゃ 1989ねん9がつ ISBN 978-4876161928
  • 大内おおうち建二けんじだい21しょう軍隊ぐんたい輸送ゆそうせん富山とやままる轟沈ごうちん」『商船しょうせん戦記せんき光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ 2004ねん11月 ISBN 4-7698-2439-4
  • 長澤ながさわ文雄ふみお三菱みつびし合資ごうし会社かいしゃ長崎造船所なかざきぞうせんじょがた 6せき T Class (1914 - 1920) - ウェイバックマシン(2004ねん7がつ8にちアーカイブぶん)『なつかしい日本にっぽん汽船きせんない
  • 田中たなか祐三ゆうぞう富山とやままる」『戦時せんじうしなわれた日本にっぽん商船しょうせんない
  • 大西おおにし正明まさあき富山とやままる慰霊いれい 57ねんなつ四国しこく新聞しんぶん2001ねん8がつ6にち掲載けいさい
  • 谷本たにもとあきらけん岩部いわべ芳樹よしき富山とやままる戦没せんぼつ60周年しゅうねん慰霊いれいたび四国しこく新聞しんぶん2004ねん7がつ4にち掲載けいさい