平沢 貞通
来歴 ・生涯
前 半生
- 1892
年 2月 18日 、東京 ・大手町 の帝国 陸軍 憲兵 隊 本部 官舎 で生 まれる。父 は憲兵 [3]。 - 1896
年 、北海道 の札幌 憲兵 隊 に転勤 した父 とともに、北海道 に移住 [3]。 - 1911
年 、日本 水彩 画 研究所 に入所 。 - 1912
年 、旧制 札幌 中学校 を経 て[4]、父 の小樽 への転勤 に伴 い(福島 ・中田 ・小木 2018[5],p.281)同 小樽 中学校 卒業 。 - 1913
年 、日本 水彩 画会 結成 に石井 柏亭 ・磯部 忠一 らとともに参画 。 - 1914
年 、二科展 ができ平沢 三味 二 (さみじ。当時 の雅号 )名義 で出品 して入選 。これが機縁 となり、横山 大観 の門 を叩 き、横山 から「大 暲」という雅号 をもらう[3]。交友 を深 めた作家 の有島 武郎 も、平沢 への手紙 の中 で画家 としての優 れた才能 を認 めた[6]。 - 1916
年 、結婚 [3]。平沢 は妻 とのあいだに二男 三 女 をもうけた。 - 1919
年 、第 1回 帝 展 に出品 。 - 1920
年 、東京 の板橋 区 中丸 町 に移住 [3]。 - 1921
年 、第 9回 光風 会 展 で今村 奨励 賞 を受賞 。 - 1925
年 、5月、板橋 の自宅 で飼 っていた愛犬 が狂犬病 にかかって処分 された。飼 い主 の平沢 は狂犬病 の予防 注射 を受 けた直後 、意識 不明 となって入院 し、8月 までの3ヶ月 間 、人事不省 となった(注射 の副作用 でコルサコフ症候群 にかかったとされる)。 - 1930
年 、日本 水彩 画家 会 委員 に就任 。 - 1945
年 、弟子 の女性 との長年 におよぶ不倫 [9]が原因 で、終戦 前 、疎開 先 の北海道 で妻子 と別居 [3]。 - 1947
年 、東京 ・中野 区 の焼 け野原 だった地域 に新居 を建 て、別居 していた妻子 と再 び同居 を再開 。妻 は子供 達 に平沢 を「となりのおじさん」と呼 ぶように命 じた[3]。
帝銀 事件 以後
家族
- 「
死刑 囚 平沢 貞通 の妻 」、『女性 自身 』1969年 9月 27日 号 、pp.50-58
当時 75歳 だった平沢 の妻 への長編 インタビュー記事 。
- 「
帝銀 死刑 囚 『平沢 貞通 』が遺 した十字架 」、『週刊 新潮 』1989年 1月 26日 号 、pp.129-130
米国 に渡 った三 女 も含 め、老境 に達 した平沢 の子供 たちの動静 を伝 える。
- 「
今 も『平沢 貞通 』の遺族 と名 乗 れない 『帝銀 事件 』60年 」、『週刊 新潮 』2008年 7月 17日 号 、pp.50-54
平沢 の子供 や嫁 、孫 、再審 請求 のため平沢 の養子 となった平沢 武彦 (森川 武彦 )へのインタビュー記事 。
がある。
エピソード
平沢 と同 じ小樽 中学 だった川本 不二雄 によると、当時 の「平沢 はきわ立 つて美 しく、肌 がぬけるやうに白 くて、男 ながら見 ほれるほどであつた。それに加 へて、十 七 才 にして時 の文展 に入選 したという、開校 以来 、まれに見 る絵画 の天才 」であったため、「多数 のうら若 い女性 の崇拝 者 や、花 のやうにあでやかな女 パトロンたちが、常 にときまとつてゐた」(川本 1948[22],p.15)という。平沢 は妻 と結婚 したあとも、多数 の女性 と不倫 関係 を持 ち続 けた(平沢 マサ1949[8])。関東大震災 の少 し前 から日蓮宗 の熱烈 な信者 になった。家 に多数 の信者 が出入 りしたり、遊 び盛 りの子供 達 に朝夕 の勤行 を強制 するなどして、信仰 心 がない妻子 を困 らせた(平沢 マサ1949[8],pp.29-31)。後年 、平沢 は帝銀 事件 で取 り調 べを受 けとき「昨晩 も亦 普賢菩薩 (日蓮宗 が重視 する菩薩 のひとり)が御 出 でになりました」云々 と供述 した(10月 1日 第 54回 調書 )。熱烈 な仏教徒 だった弁護士 の遠藤 誠 は「平沢 氏 普賢菩薩 説 」をとなえた(後述 )。強盗 に短刀 を突 きつけられたことがあったが、その強盗 を説得 し更生 させたことがある。その元 強盗 はその後 も真人間 として仕事 に励 み楽 に暮 らせるようになった。ある時 五 圓 を平沢 の自宅 に持 ってきたが、既 に自宅 はなくなっていた。平沢 は狂人 になっていたという。平沢 は狂犬 となった飼 い犬 を殺 した後 からおかしくなり、家 が火事 で焼 けた後 は石井 鶴三 に引 き取 られていた、と書 かれている[23]。香 を焚 いて座禅 を組 むのが好 きだった(鎌田 1950[9],p.86)。戦争 中 は、時局 に全 く無 関心 だった。空襲 が毎日 続 き、平沢 の息子 が兵隊 に取 られて出征 し、妻 が隣組 長 として多忙 を極 め、三 女 も学業 を捨 てて動員 される中 、平沢 は毎日 ラジオを聴 くのにばかり夢中 で、それ以外 は悠長 な義太夫 のレコードをかけて聞 いた。平沢 の妻 はあきれ、後年 の著書 の中 で夫 について「余 りにも時局 に対 して無感覚 です」「(出征 した息子 や動員 された娘 など)生命 を的 に働 いている、この子供 らに対 する支援 だけは欲 しいと思 いました」と述 べた(平沢 マサ1949[8],pp.86-87)。平沢 の愛人 も、平沢 が戦時 下 でも自分 とともに一 週間 ほど温泉 へスケッチ旅行 に行 くなど、戦争 に無 関心 だったことを述 べている(鎌田 1950[9],p.103)。平沢 が逮捕 されたあと、彼 の画業 を抹殺 する動 きが見 られた。師 の横山 大観 は、平沢 がかつて弟子 であったことを否定 した[3]。平沢 は、横山 からもらった雅号 を返上 し「光彩 」と改 めた。昭和 10年代 、平沢 が軍命 によって描 いた「松浦潟 のジャンク」は総理 大臣 官邸 に飾 られていたが、逮捕 後 は壁 から撤去 され人目 につかぬところに死蔵 された[24]。戦後 、平沢 は皇太子 (当時 )への献上 画 「春 遠 からじ」を北海道 で描 き、その下絵 を東京 に戻 って仕上 げるため船 に乗 り、そこで出会 った厚生 技官 ・松井 蔚(まついしげる)と名刺 を交換 した。この「松井 名刺 」が事件 後 の平沢 逮捕 につながった。宮内庁 を通 じて皇太子 に献上 された平沢 の絵 「春 遠 からじ」の所在 は事件 後 、不明 となった[24]。平沢 貞通 人権 記念 館 によると、2007年 の時点 で「私 たちは、逮捕 前 の作品 の行方 を探 したが、展覧 会 に出品 された作品 が10点 、帝 展 出品 作 にかぎれば、2点 のみが見 つかったにすぎない」[25]とのことである。平沢 が帝銀 事件 の直後 に預金 した金 の出所 について、「春画 」を描 いて得 た金 だったため画家 としての名声 を守 るため言 えなかった、と推測 する向 きもある。ただし事実 としては、大量 殺人 犯 の汚名 は春画 どころではなく、画家 としての名声 も抹殺 されてしまった。
平沢 は獄中 から無実 を主張 し続 け、看守 にもこう語 ったという。「担当 さん。私 は、死刑 になっても、運命 と諦 めることもできます。交通 事故 で死 ぬ人 だけでも、年間 一 万 人 もいるそうですし、言 われない理由 で殺 される人 も多数 いると聞 きます。こんな社会 ですから、これも自分 の運命 だと諦 められます。けれども、私 の妻 や私 の子供 や孫 は、彼 らが生 きている限 り、帝銀 事件 の犯人 の身内 として、社会 から迫害 され続 けていくのだと思 うと、どうしても我慢 できません。私 は国家 権力 と命 のある限 り戦 って、自分 の無実 を晴 らし、家族 を救 うつもりです」[26]。これが真情 なら、なぜ平沢 は取 り調 べのとき大金 の出所 を明 かさなかったのか、と「春画 説 」を疑 う意見 もある(中村 正明 『科学 捜査 論文 「帝銀 事件 」―法医学 、精神 分析 学 、脳 科学 、化学 からの推理 』2008年 )。平沢 に死刑 を宣告 した第 一 審 判決 書 (昭和 25年 8月 31日 )には、妻 と2人 の愛人 の実名 が書 いてある。愛人 の1人 ・鎌田 りよ(判決 書 では鎌田 リヨ)は、判決 がくだる直前 に出版 した手記 『生命 ある限 り』(8月 10日 印刷 、8月 20日 発行 )の中 で、平沢 との長年 の不倫 関係 と自分 の娘 らへの思 いを包 み隠 さず明 かしたうえ「私 は、敢 えて平沢 さんのために、弁明 も弁解 もいたしません」「三 十 年 近 くの、永 い間 私 が愛 し、私 が尊敬 してきた、私 の平沢 さんは、やはりその頃 の姿 のまゝで胸奥 にいらしてくださいます」云々 と、自分 は死 ぬまで平沢 を愛 し続 けることを述 べた(鎌田 1950[9],p.141)。平沢 の妻 は、諸般 の事情 で1962年 に平沢 と協議 離婚 したが、亡 くなるまで獄中 の平沢 を気 に掛 け、1979年 2月 11日 に85歳 で亡 くなった[27]。- 「
救 う会 」の事務 局長 を務 めた森川 哲郎 の長男 武彦 は、平沢 が獄死 しても再審 請求 を続 けるため、平沢 の養子 に入 った[28]。平沢 獄死 後 も「救 う会 」の活動 を続 けていたが、2013年 10月1日 、自宅 で死亡 していたところを知人 [29]と警視庁 杉並 警察 署 署員 によって発見 された。知人 が武彦 と数 週間 連絡 が取 れなかったため杉並 警察 署 に相談 していた。事件 性 はなく、9月 中 に病死 したものと見 られる[30]。 収監 中 の1967年 10月13日 、第 2次 佐藤 内閣 で法務大臣 を勤 めていた田中 伊 三 次 は、島 秋 人 を含 む23人 分 の死刑 執行 命令 書 に署名 [31][32]したが、この中 で平沢 の名 を見付 けた際 、「これ(平沢 )は冤罪 だろ」として執行 対象 から外 している。平沢 は入獄 後 光彩 (こうさい)と雅号 を変 え、獄中 の画家 として1300点 を超 える作品 を描 いた。宮城 刑務所 時代 は特別 にアトリエを与 えられて画 作 に取 り組 み、支援 者 の手 により国内外 でしばしば個展 を開 いていた。絵 の材料 は支援 者 らが差 し入 れていたが、画用紙 は神田 の文 房 堂 のものをと、注文 をつけていた[2]。平沢 は東京 拘置 所 (死刑 囚 なので刑務所 ではなく拘置 所 に収監 )でも嘘 ばかり言 ったので、同 じ東京 拘置 所 にいたカ ービン銃 ギャング事件 の主犯 K・Oや、三鷹 事件 の竹内 景 助 被告人 も怒 って、平沢 と犬猿 の仲 になった[33]。平沢 は短期間 だけ獄中 から出 たことがあった。1974年 (昭和 49年 )、82歳 の平沢 は、日光 中宮祠 事件 の犯人 の死刑 が執行 されたことにショックを受 け、心臓 発作 で危篤 状態 に陥 り、東北大学 附属 病院 へ移送 された。26年 ぶりの出獄 だった。平沢 は一命 をとりとめ、驚異 的 な快復 を示 し、1カ月 半 後 に宮城 刑務所 仙台 拘置 支所 に戻 った。「病院 は拘置 所 より悪 い。自由 に絵 をかかせてくれない。絵 をかきたいから戻 ってきたのだ」と語 った[6]。獄中 の平沢 はいつも温厚 だったが、激怒 したことが1回 だけあった。1975年 (昭和 50年 )6月 、平塚 八兵衛 は『週刊 新潮 』の連載 記事 「八兵衛 捕物 帖 」で帝銀 事件 の回想 を書 いた。平沢 は支援 者 に頼 み、その雑誌 を送 ってもらい、獄中 で読 んだ。そして「平塚 八兵衛 は恥 兵衛 ・・・・・・嘘 兵衛 だ!」と激怒 し、記事 の余白 に赤 いボールペンで反論 をびっしり書 き込 んだ。支援 者 はそれを『週刊 新潮 』編集 部 に送 ったが、返事 は全 くなかった[34]八王子 医療 刑務所 に移 ってからは、老衰 と白内障 による視力 障害 などのため、ほとんど絵筆 をとらなかった。養子 の武彦 らが面会 するたびに「無実 だから早 く出 たい。小樽 の両親 の墓参 りをしたい」などと語 り、好 きな日本酒 を味 わうのを楽 しみにしていたという[12]。面会 室 の金網 ごしに弁護士 の遠藤 誠 とかわした約束 「遠藤 先生 、釈放 になったら、蔵出 しの『白 鶴 』を、一緒 に飲 みたいねえ」[35]はかなわなかった。晩年 の平沢 と会 ってその人柄 に心酔 した遠藤 誠 は「仏界 におられる普賢菩薩 が、近頃 の人類 の行 きかたを憂慮 され(中略 )みずから無実 の死刑 囚 に化身 されたのかもしれない」「昭和 二 十 三 年 当時 の平沢 さんは、ただの一介 の人間 にすぎなかったのだが、その後 、どこかの時点 から普賢菩薩 が乗 り移 ってしまわれたということか」「今 の私 は、『平沢 氏 普賢菩薩 説 』を信 じている者 である」と述 べた[36]。平沢 の釈放 後 に備 えて、「救 う会 」では東京 都 杉並 区 今川 のマンションの一室 を用意 していた。そこには後 に平沢 の遺体 が安置 された[12]。北海道放送 が2003年 に制作 ・放送 したドキュメンタリー番組 では、生前 の平沢 の獄中 での音声 (隠 し撮 り)や、平沢 の長女 へのインタビュー(顔 は映 っていない)なども収録 されている[6]。自分 の子供 を世間 の迫害 から守 るため、ずっと平沢 の娘 であることを隠 してきた長女 は、獄死 した父 について「あんなね、環境 の悪 いね、条件 の悪 いとこでね、よくあの歳 まで生 きてたと思 うんですよね。・・・・・・やっぱり、出 たい一 心 で頑張 ったんでしょうかね」「シロにしろクロにしろね、あんだけ世間 を騒 がしたんですからね、やっぱり誰 だっていい思 いはしてませんよね」と語 った。元 東京 高検 検事 長 の藤永 幸治 は、「死刑 廃止 国際 条約 の批准 を求 めるフォーラム '90」で講演 し、法務省 刑事 局 で平沢 の死刑 に関 する局 議 が何 回 か開 かれ、判決 の事実 認定 に問題 があるとされたため、死刑 執行 が見送 られたことを明 らかにした[37]、という言説 がまことしやかに伝 えられている。法務省 刑事 局長 (当時 )の原田 明夫 が行 った国会 答弁 によると、これは誤報 で、実際 には法務省 内 で「平沢 の死刑 判決 にあたり事実 認定 に問題 があった」という議論 は一 度 も行 われておらず、藤永 自身 も自分 の発言 を明確 に否定 したという[38]。
著書
画集
- 『
帝銀 事件 ・平沢 貞通 画集 下獄 9700日 のいかり』平沢 貞通 氏 を救 う会 1975 - 『
痛恨 の画布 平沢 貞通 ・獄中 画 と書簡 集 』平沢 貞通 画集 刊行 会 1982 - 『
祈 りの画集 獄中 37年 、生 と死 のはざまより』平沢 武彦 編著 (ダイナミックセラーズ)1985 - 『
平沢 貞通 画集 』(アオイコーポレーション)1992
著書
平沢 貞通 を演 じた俳優
参考 文献
細川 次郎 「高校生 の見 た最 晩年 の平沢 貞通 老 -宮城 刑務所 での面会 に通 う-」『明治大学 平和 教育 登戸 研究所 資料 館 館 報 』第 5号 、明治大学 平和 教育 登戸 研究所 資料 館 、2019年 9月 、79-101頁 、ISSN 2423-9151、NAID 120006768531。
脚注
- ^ 「20
世紀 日本人 名 事典 」日外 アソシエーツ、2004年 - ^ a b 「
平沢 貞通 、燃 えつきた執念 最後 まで『シャバで一 杯 』」朝日新聞 1987年 5月 11日 朝刊 - ^ a b c d e f g h i j
遠藤 誠 『帝銀 事件 の全貌 と平沢 貞通 』(現代書館 、2000年 )「第 一 章 平沢 貞通 さんの半生 」 ISBN 4-7684-6779-2 - ^ 「われ、
死 すとも瞑目 せず」、203頁 。 - ^ a b
福島 章 ・中田 修 ・小木 貞 孝 編 『日本 の精神 鑑定 :重要 事件 25の鑑定 書 と解説 1936-1994』(増補 新版 、みすず書房 、2018年 )。同書 p.267-p.332の内村 祐之 ・吉益 脩 夫 「帝銀 事件 」は、内村 祐之 ・吉益 脩 夫 「脱 髄 脳炎 後 の空想 虚言 症 とその刑事 責任 能力 について」(『精神 神経 学 雑誌 』59巻 5号 、昭和 32年 =1957年 ) https://cir.nii.ac.jp/crid/1524232505434007680 の主要 部分 を転載 したものである。 - ^ a b c 「
誤判 の生贄 ~魂 の画家 死刑 囚 ・平沢 貞通 ~」(北海道放送 、プロデューサー:五十嵐 浩二 )日本 民間 放送 連盟 賞 2003年 テレビ報道 ・優秀 賞 受賞 - ^
出典 「今 から100年 前 「大正 時代 」はどんな時代 だった?物価 は?初任 給 は?」 https://www.jibunbank.co.jp/column/article/00251/ 2021年 6月 27日 閲覧 - ^ a b c d
平沢 マサ『愛憎 を越 えて―宿命 の妻 ・平沢 マサの手記 』(都 書房 、1949年 3月 30日 発行 ) - ^ a b c d
鎌田 りよ『生命 ある限 り』(公論 社 、昭和 25年 8月刊 ) - ^
平沢 貞通 氏 を救 う会 について公式 サイト - ^
田 は共同通信社 の記者 時代 に帝銀 事件 を手 がけていた。 - ^ a b c 「
帝銀 事件 の平沢 貞通 死亡 95歳 死刑 囚 、獄中 に39年 」朝日新聞 1987年 5月 11日 朝刊 - ^
後 に袴田 事件 ・マルヨ無線 事件 ・名張 毒 ぶどう酒 事件 ・ピアノ騒音 殺人 事件 の死刑 囚 が記録 を更新 している - ^
平沢 武彦 は「平沢 が95歳 、獄死 し、葬儀 の際 、平沢 の親族 は一人 もこなく、寂 しい思 いで参列 者 に頭 をさげていたが(下略 )」(「帝銀 事件 活動 日誌 ・音楽 プロジューサーの酒井 政利 さんとの再会 -平沢 武彦 」2000年 12月15日 の書 き込 み)と書 いている。 - ^ 『
明治大学 平和 教育 登戸 研究所 資料 館 館 報 第 5号 2019年度 』p.96 - ^ 『
財界 人 』2007年 8月 号 、p.80 - ^ 「
第 43回 国会 衆議院 法務 委員 会 第 18号 昭和 38年 5月 31日 」015赤松 勇 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/104305206X01819630531/15 - ^ ウイリアム・トリプレット(
著 )、西岡 公 (訳 )『帝銀 事件 の真実 ―平沢 は真犯人 か?』(講談社 、1987年 )、p.221 - ^ ウイリアム・トリプレット(
著 )、西岡 公 (訳 )『帝銀 事件 の真実 ―平沢 は真犯人 か?』(講談社 、1987年 )p.96-p.97 - ^ 「
第 19次 再審 請求 の最中 に孤独 死 していた『平沢 貞通 』養子 」、『週刊 新潮 』2013年 10月 17日 号 、pp.39-40 - ^
清野 由美 「プロデューサー酒井 政利 (現代 の肖像 )」『アエラ』1998年 4月 13日 号 、p.53。および、「帝銀 事件 平沢 貞通 の隠 し子 は、あの酒井 政利 ? (総力 特集 私 だけが知 る時代 の主役 60人 今 こそ本当 の話 をしよう)」『週刊文春 』2001年 新年 号 、pp.29-30、2001年 1月 4日 - ^
川本 不二雄 『未完 の告白 ―平沢 貞通 懺悔 録 』(蜂 書房 、1948年 11月15日 発行 ) - ^ 「
改心 させられた強盗 が捜 す紳士 は今 は発狂 」東京 朝日新聞 大正 15年 4月 2日 - ^ a b 「
報道 特集 「もうひとつの再審 請求 帝銀 事件 ・絵探 しの旅 」放映 決定 2007年 12月2日 (日 )午後 5時半 より TBS系列 局 」2021年 3月 31日 閲覧 - ^ 2007
年 10月 3日 (水) ~10月 8日 (月) に開催 された「北海道 小樽 平沢 貞通 没 後 20年 「絵探 しの旅 展 」開催 のお知 らせ―半 世紀 の間 、闇 に葬 られてきた平沢 の絵 に光 を―」の説明 より。2021年 3月 31日 閲覧 - ^
中村 正明 『科学 捜査 論文 「帝銀 事件 」―法医学 、精神 分析 学 、脳 科学 、化学 からの推理 』2008年刊 による。(細川 次郎 2019, p. 79-101)では、字句 はやや違 うものの、同 じ言葉 を載 せている。それによると、東京 拘置 所 の看守 ・M(原典 では実名 表記 )は平沢 貞通 の1周忌 の席 で「平沢 さんが私 にこう話 したことがある。『自分 が帝銀 事件 の犯人 の汚名 を着 せられて死刑 にされること自体 は、交通 事故 で毎年 1万 人 以上 の人 が命 を落 としていることを考 えれば、まだ諦 めがつく。けれども、俺 の子 や孫 が、帝銀 事件 の平沢 の子 だ!、孫 だ!と言 われて、世間 から痛 めつけられていることを思 うと、俺 は死 んでも死 に切 れない。何 としても再審 で無罪 を勝 ち取 らなきゃならないんだ』。それを聞 いた時 、私 は涙 が出 そうになりました」と明 かしたという。 - ^ コラム
帝銀 事件 とは何 だったのか-50 Vol.50原 渕 勝仁 さん - ^ 「(ひと)
平沢 武彦 さん獄死 した平沢 貞通 の養子 」朝日新聞 1987年 5月 22日 朝刊 - ^ 「コラム
帝銀 事件 とは何 だったのか-35 Vol.35原 渕 勝仁 さん」に「再審 請求 人 の平沢 武彦 氏 は2013年 10月 1日 、一人暮 らしの自宅 で孤独 死 しているのを発見 されている。発見 したのは、このわたくしである」とある。2021年 3月 31日 閲覧 - ^
帝銀 事件 ・平沢 元 死刑 囚 の養子 ?死亡 東京 の自宅 で朝日新聞 デジタル 2013年 10月 2日 - ^
勢 藤 修三 『死刑 の考現学 』三省堂 、1983年 - ^
俵 孝太郎 『政治 家 の風景 』学習研究社 、1994年 - ^
細川 次郎 2019, p. 88. - ^
石井 敏夫 『平沢 貞通 と一 店主 の半生 ―改 めて、再審 を訴 える』(つげ書房 新 社 、1997年 )pp.105-110 - ^
遠藤 誠 『帝銀 事件 の全貌 と平沢 貞通 』現代書館 、2000年 、p.16 ISBN 4-7684-6779-2 - ^
遠藤 誠 『帝銀 事件 の全貌 と平沢 貞通 』p.129およびp.135より引用 。ISBN 978-4768467794 - ^
大河内 秀明 著 『無実 でも死刑 判決 、真犯人 はどこに』1998年 、現代 企画 室 。349ページ。 - ^
国会 会議 録 検索 システム「第 140回 国会 参議院 予算 委員 会 第 10号 平成 9年 3月 14日 465原田 明夫 」によると、藤永 は自身 の発言 について「そのような趣旨 で発言 したものではない」と明確 に否定 した。新聞 社 の記者 たちも、あらためて幅広 く取材 をした結果 「法務省 内 でそのようなこの事件 について事実 認定 に問題 があるというような観点 から論議 のあったことはなかったということについてはぼ確信 に近 いものを持 った」。