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平沢貞通 - Wikipedia

平沢ひらさわ貞通さだみち

日本にっぽん画家がか (1892-1987)

平沢ひらさわ 貞通さだみち(ひらさわ さだみち、1892ねん明治めいじ25ねん2がつ18にち - 1987ねん昭和しょうわ62ねん5がつ10日とおか)は、日本にっぽんテンペラ画家がか北海道ほっかいどう小樽おたる出身しゅっしん[1]東京とうきょうまれ)。雅号がごうだい(たいしょう)、のち光彩こうさい(こうさい)[2]

平沢ひらさわ貞通さだみち

戦後せんご混乱こんらん発生はっせいした大量たいりょう毒殺どくさつ事件じけんである帝銀ていぎん事件じけん犯人はんにんとして逮捕たいほされ、死刑しけい確定かくていする。だがけい執行しっこう釈放しゃくほうもされないまま、逮捕たいほからまでの39年間ねんかん獄中ごくちゅうごした。

来歴らいれき生涯しょうがい

編集へんしゅう
 
大正たいしょう石井いしい柏亭はくてい撮影さつえいした平沢ひらさわ肖像しょうぞう

ぜん半生はんせい

編集へんしゅう

平沢ひらさわ一流いちりゅう画家がかであった。二科展にかてんに3かい文展ぶんてんに16かい光風こうふうかいには毎年まいとし入選にゅうせんし、「みかどてん鑑査かんさ」(過去かこかがやかしい実績じっせき評価ひょうかされ審査しんさいん鑑査かんさなしに無条件むじょうけん出品しゅっぴんできること)であった[3]

  • 1892ねん2がつ18にち東京とうきょう大手町おおてまち帝国ていこく陸軍りくぐん憲兵けんぺいたい本部ほんぶ官舎かんしゃまれる。ちち憲兵けんぺい[3]
  • 1896ねん北海道ほっかいどう札幌さっぽろ憲兵けんぺいたい転勤てんきんしたちちとともに、北海道ほっかいどう移住いじゅう[3]
  • 1911ねん日本にっぽん水彩すいさい研究所けんきゅうじょ入所にゅうしょ
  • 1912ねん旧制きゅうせい札幌さっぽろ中学校ちゅうがっこう[4]ちち小樽おたるへの転勤てんきんともない(福島ふくしま中田なかた小木おぎ 2018[5],p.281)どう小樽おたる中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょう
  • 1913ねん日本にっぽん水彩すいさい画会がかい結成けっせい石井いしい柏亭はくてい磯部いそべ忠一ただかずらとともに参画さんかく
  • 1914ねん二科展にかてんができ平沢ひらさわ三味しゃみ(さみじ。当時とうじ雅号がごう名義めいぎ出品しゅっぴんして入選にゅうせん。これが機縁きえんとなり、横山よこやま大観たいかんもんはたき、横山よこやまから「だい暲」という雅号がごうをもらう[3]交友こうゆうふかめた作家さっか有島ありしま武郎たけおも、平沢ひらさわへの手紙てがみなか画家がかとしてのすぐれた才能さいのうみとめた[6]
  • 1916ねん結婚けっこん[3]平沢ひらさわつまとのあいだに二男じなんさんじょをもうけた。
  • 1919ねんだい1かいみかどてん出品しゅっぴん
  • 1920ねん東京とうきょう板橋いたばし中丸なかまるまち移住いじゅう[3]
  • 1921ねんだい9かい光風こうふうかいてん今村いまむら奨励しょうれいしょう受賞じゅしょう
    平沢ひらさわ画家がかとして成功せいこうし、収入しゅうにゅうは、コルサコフ症候群しょうこうぐんたおれるまえには、月額げつがく平均へいきん300えんはあった(福島ふくしま中田なかた小木おぎ 2018[5],p.283)。ちなみに当時とうじ大卒だいそつサラリーマンの初任しょにんきゅう(月給げっきゅう)は50えんないし60えん程度ていど職業しょくぎょう婦人ふじん平均へいきん月給げっきゅうはタイピストが40えん電話でんわ交換こうかんしゅが35えん事務じむいんが30えんだった[7]
  • 1925ねん、5月、板橋いたばし自宅じたくっていた愛犬あいけん狂犬病きょうけんびょうにかかって処分しょぶんされた。ぬし平沢ひらさわ狂犬病きょうけんびょう予防よぼう注射ちゅうしゃけた直後ちょくご意識いしき不明ふめいとなって入院にゅういんし、8がつまでの3ヶ月かげつあいだ人事不省じんじふせいとなった(注射ちゅうしゃ副作用ふくさようコルサコフ症候群しょうこうぐんにかかったとされる)。
    平沢ひらさわは、となりんでいた石井いしい鶴三つるぞう好意こういで、根岸ねぎしのう病院びょういん森田もりたただし(「森田もりた療法りょうほう」で有名ゆうめい)の診察しんさつけることができた。森田もりたは、平沢ひらさわ病名びょうめいコルサコフびょうという非常ひじょうめずらしい病気びょうきであると診断しんだんし、「回復かいふくはとても覚束おぼつかないが、生命せいめいには別状べつじょうはない」とべた。平沢ひらさわ意識いしきもどしたあと、強盗ごうとうおそわれた体験たいけん夜昼よるひるとなくフラッシュバックしてつまおそいかかったり、虚言きょげんしょうでとめどないうそばかりつくようになった(平沢ひらさわマサ1949[8],pp.42-45)。
    のちに、調子ちょうしすこしよくなったあとは画壇がだん復帰ふっきして「かがみ」「心眼しんがん」「明朗めいろう奉天ほうてんじょうがい」「すめらぎじょう大観たいかん」などの大作たいさく次々つぎつぎ完成かんせいした[3]
  • 1930ねん日本にっぽん水彩すいさい画家がかかい委員いいん就任しゅうにん
  • 1945ねん弟子でし女性じょせいとの長年ながねんにおよぶ不倫ふりん[9]原因げんいんで、終戦しゅうせんまえ疎開そかいさき北海道ほっかいどう妻子さいし別居べっきょ[3]
  • 1947ねん東京とうきょう中野なかの野原のはらだった地域ちいき新居しんきょて、別居べっきょしていた妻子さいしふたた同居どうきょ再開さいかいつま子供こどもたち平沢ひらさわを「となりのおじさん」とぶようにめいじた[3]

帝銀ていぎん事件じけん以後いご

編集へんしゅう

実力じつりょく画家がかとしての地位ちい確立かくりつしていた平沢ひらさわは、1948ねん1がつ26にち帝国ていこく銀行ぎんこう三井みつい銀行ぎんこう現在げんざい三井住友銀行みついすみともぎんこう椎名しいなまち支店してんおとこ行員こういんらに毒物どくぶつませ12にん死亡しぼうさせた事件じけん帝銀ていぎん事件じけん)の犯人はんにんとして同年どうねん8がつ21にち突如とつじょ警視庁けいしちょう逮捕たいほされた。類似るいじ事件じけん使用しようされた名刺めいしっていたがっていなかったこと(平沢ひらさわ財布さいふごとスリにあったと主張しゅちょう)、過去かこ銀行ぎんこう相手あいて詐欺さぎ事件じけんを4かいこしていたり、出所しゅっしょ不明ふめい現金げんきんっていたのがともいわれる。この現金げんきんについては松本まつもと清張せいちょうらが、当時とうじ画家がかとしてれていたものとしては不名誉ふめいよ副業ふくぎょう春画しゅんが作成さくせいなど)でたものと推理すいりしている。

平沢ひらさわ取調とりしらべで自白じはくをしたが、公判こうはん無実むじつ主張しゅちょう。しかし、裁判さいばんでは1955ねん死刑しけい確定かくていした。平沢ひらさわは、虚言きょげんへき記憶きおく障害しょうがい判断はんだんりょく低下ていかをもたらすコルサコフ症候群しょうこうぐん狂犬病きょうけんびょう予防よぼう接種せっしゅ副作用ふくさよう)にかかっており、過去かこ銀行ぎんこう詐欺さぎ事件じけん帝銀ていぎん事件じけん自白じはくもコルサコフ症候群しょうこうぐんによる虚言きょげんではないかと指摘してきする意見いけんがある。

平沢ひらさわ自白じはく以外いがいとなる物証ぶっしょうとぼしいことや、捜査そうさ当初とうしょきゅう陸軍りくぐん関係かんけいしゃ犯人はんにんとして推測すいそくされたことなどもあって、平沢ひらさわ真犯人しんはんにんとした確定かくてい判決はんけつ疑問ぎもんひとすくなくなく、「平沢ひらさわ貞通さだみちすくかい[10]」が結成けっせいされたほか、自民党じみんとう大野おおの伴睦ばんぼく日本にっぽん社会党しゃかいとう英夫ひでお[11]をはじめとする超党派ちょうとうは国会こっかい議員ぎいんのほか、作家さっか松本まつもと清張せいちょうといった文化ぶんかじん法曹ほうそう関係かんけいしゃらが、死刑しけい執行しっこう停止ていし再審さいしん恩赦おんしゃ救援きゅうえん活動かつどう展開てんかいした。こうしたうごきや平沢ひらさわ高齢こうれい配慮はいりょして、歴代れきだい法務大臣ほうむだいじん死刑しけい執行しっこう見送みおくったことから、平沢ひらさわ処刑しょけいされることはなかった。

平沢ひらさわは、死刑しけい確定かくていしてから1カ月かげつはんの1955ねん6がつだい1請求せいきゅう以来いらいけい17かい平沢ひらさわ死後しご養子ようしらがおこなったものをくわえればけい19かい)におよ再審さいしん請求せいきゅうおこなったものの、いずれも棄却ききゃくされた。恩赦おんしゃ出願しゅつがん1962ねんから5かいおこなったが、法務省ほうむしょう設置せっちされた中央ちゅうおう更生こうせい保護ほご審査しんさかいはいずれも「恩赦おんしゃ相当そうとう」の議決ぎけつをしている。また、死刑しけい確定かくていしてから30ねん経過けいかした1985ねんには「死刑しけい時効じこう成立せいりつする」として、身柄みがら釈放しゃくほうもとめる人身じんしん保護ほご請求せいきゅう裁判さいばんこしたが、「拘置こうちちゅう死刑しけいしゅうには時効じこう進行しんこうしない」として棄却ききゃくされた。その直後ちょくご平沢ひらさわは、「心神喪失しんしんそうしつじゅんずるあつかいをすべきだ」と死刑しけい執行しっこう停止ていしもとめたが、法務省ほうむしょう拒否きょひ回答かいとうをした。重体じゅうたいおちいったのち1987ねん3がつまつには、「死刑しけい執行しっこうという目的もくてきうしなった拘置こうち違法いほうだ」として、釈放しゃくほうもとめる人身じんしん保護ほご請求せいきゅう裁判さいばんあらためてこしている[12]

長年ながねん宮城みやぎ刑務所けいむしょ収監しゅうかんされていたが、その高齢こうれいのため体調たいちょうくずし、1987ねん5がつ10にち午前ごぜん845ふん八王子はちおうじ医療いりょう刑務所けいむしょ肺炎はいえんわずら獄中ごくちゅう病死びょうしした。95さいぼつ。39年間ねんかんわた獄中ごくちゅう生活せいかつは1まん4142にちかぞえ、確定かくてい死刑しけいしゅうとしての収監しゅうかん期間きかん32ねん当時とうじ世界せかい最長さいちょう記録きろくであった[13]ほん通夜つや養子ようし平沢ひらさわ武彦たけひこ喪主もしゅ[14]として、5月12にちひる平沢ひらさわ帝銀ていぎん事件じけん発生はっせいまで家族かぞくらしていた場所ばしょちか宝仙寺ほうせんじで、事実じじつじょう密葬みっそうとしておこなわれた。告別こくべつしきは5月24にち青山あおやま葬儀そうぎしょでおこなわれた[15]

平沢ひらさわは、つまとのあいだに二男じなんさんじょをもうけた。平沢ひらさわ長年ながねん不倫ふりんにより、事件じけんまえからつまとは戸籍こせきじょうだけの夫婦ふうふとなっていた。平沢ひらさわ逮捕たいほ家族かぞく世間せけん迫害はくがいのがれるため、それぞれ平沢ひらさわせいて、素性すじょうかくしてきることを余儀よぎなくされた。除籍じょせきした時期じき以下いかのとおり[16]

つま 昭和しょうわ37ねん(1962ねん)9がつ20日はつか協議きょうぎ離婚りこん昭和しょうわ54ねん(1979ねん)12月11にち、86さい死去しきょ
長女ちょうじょ 昭和しょうわ11ねん(1936ねん)10がつ16にち婚姻こんいんにより除籍じょせき事件じけんまえ
長男ちょうなん 昭和しょうわ23ねん(1948ねん)12月18にち除籍じょせき妻子さいしてて失踪しっそう
次女じじょ 昭和しょうわ19ねん(1944ねん)11月25にち婚姻こんいんにより除籍じょせき事件じけんまえ
次男じなん 昭和しょうわ23ねん(1948ねん)11月15にち除籍じょせき
さんじょ 昭和しょうわ24ねん(1949ねん)2がつ4にち除籍じょせき

つま離婚りこん平沢ひらさわ完全かんぜん絶縁ぜつえんしたわけではなく、子供こどもたちから1まんえん仕送しおくりをけて、自分じぶんは7せんえん生活せいかつし、3せんえん仙台せんだい刑務所けいむしょ平沢ひらさわおくった[17]
平沢ひらさわさんじょ米国べいこくじん結婚けっこん米国べいこくわたったが、1980年代ねんだい前半ぜんはん米国べいこくから獄中ごくちゅうちち手紙てがみせ、自分じぶんちちのことをおもっており元気げんきでいてほしい、自分じぶんはアメリカでの生活せいかつ満喫まんきつしている、とつたえてきた。返信へんしんようのアドレスはしるされていなかった[18]
平沢ひらさわ家族かぞくたち(もと家族かぞくたち)の「その」については、なん雑誌ざっし報道ほうどうされた。おも記事きじとして、

  • 死刑しけいしゅう 平沢ひらさわ貞通さだみちつま」、『女性じょせい自身じしん』1969ねん9がつ27にちごう、pp.50-58
当時とうじ75さいだった平沢ひらさわつまへの長編ちょうへんインタビュー記事きじ
  • 帝銀ていぎん死刑しけいしゅう平沢ひらさわ貞通さだみち』がのこした十字架じゅうじか」、『週刊しゅうかん新潮しんちょう』1989ねん1がつ26にちごう、pp.129-130
米国べいこくわたったさんじょふくめ、老境ろうきょうたっした平沢ひらさわ子供こどもたちの動静どうせいつたえる。
  • いまも『平沢ひらさわ貞通さだみち』の遺族いぞくれない 『帝銀ていぎん事件じけん』60ねん」、『週刊しゅうかん新潮しんちょう』2008ねん7がつ17にちごう、pp.50-54
平沢ひらさわ子供こどもよめまご再審さいしん請求せいきゅうのため平沢ひらさわ養子ようしとなった平沢ひらさわ武彦たけひこ森川もりかわ武彦たけひこ)へのインタビュー記事きじ

がある。
平沢ひらさわ養子ようし平沢ひらさわ武彦たけひこは、「平沢ひらさわ貞通さだみちすくかい事務じむ局長きょくちょう森川もりかわ哲郎てつろう実子じっしであったが、1981ねん1がつ24にち平沢ひらさわとの養子ようし縁組えんぐみ成立せいりつした。養子ようし縁組えんぐみ理由りゆうは、当時とうじ平沢ひらさわ肉親にくしんには平沢ひらさわ死後しご再審さいしん請求せいきゅうきつぐ意思いしがなかったためである(法律ほうりつでは、本人ほんにん死後しごも、直系ちょっけい子孫しそん配偶はいぐうしゃ兄弟きょうだい姉妹しまいならば再審さいしん請求せいきゅうぐことができる)。養子ようし縁組えんぐみの直後ちょくご森川もりかわ哲郎てつろうなみだながらに「平沢ひらさわ釈放しゃくほう実現じつげんしたいとねがうあまり、自分じぶん息子むすこ犠牲ぎせいにしてしまった」と家族かぞくにわび、その翌年よくねんすえ、58さいわかさでくなった[19]武彦たけひこは、平沢ひらさわ貞通さだみち死後しご再審さいしん請求せいきゅうつづけたが、困窮こんきゅう精神病せいしんびょう、そして平沢ひらさわ家族かぞくからうとんじられたことに苦悩くのうしつつ、2013ねん孤独こどくしているのを発見はっけんされた[20]

平沢ひらさわには複数ふくすう愛人あいじんがいた。芸能げいのうプロデューサーの酒井さかい政利まさとし実母じつぼは、平沢ひらさわのモデルをしたことがあり、1970年代ねんだいにある女性じょせい週刊しゅうかんで、酒井さかい母親ははおや平沢ひらさわ愛人あいじん1人ひとり酒井さかい平沢ひらさわ息子むすこであるとセンセーショナルにてられたことがあった[21]

  • 平沢ひらさわおな小樽おたる中学ちゅうがくだった川本かわもと不二雄ふじおによると、当時とうじの「平沢ひらさわはきわつてうつくしく、はだがぬけるやうにしろくて、おとこながらほれるほどであつた。それにへて、じゅうななさいにしてとき文展ぶんてん入選にゅうせんしたという、開校かいこう以来いらい、まれに絵画かいが天才てんさい」であったため、「多数たすうのうらわか女性じょせい崇拝すうはいしゃや、はなのやうにあでやかなおんなパトロンたちが、つねにときまとつてゐた」(川本かわもと1948[22],p.15)という。平沢ひらさわつま結婚けっこんしたあとも、多数たすう女性じょせい不倫ふりん関係かんけいつづけた(平沢ひらさわマサ1949[8])。
  • 関東大震災かんとうだいしんさいすこまえから日蓮宗にちれんしゅう熱烈ねつれつ信者しんじゃになった。いえ多数たすう信者しんじゃ出入でいりしたり、あそざかりの子供こどもたち朝夕あさゆう勤行ごんぎょう強制きょうせいするなどして、信仰しんこうしんがない妻子さいしこまらせた(平沢ひらさわマサ1949[8],pp.29-31)。後年こうねん平沢ひらさわ帝銀ていぎん事件じけん調しらべをけとき「昨晩さくばんまた普賢菩薩ふげんぼさつ日蓮宗にちれんしゅう重視じゅうしする菩薩ぼさつのひとり)がだしでになりました」云々うんぬん供述きょうじゅつした(10がつ1にちだい54かい調書ちょうしょ)。熱烈ねつれつ仏教徒ぶっきょうとだった弁護士べんごし遠藤えんどうまことは「平沢ひらさわ普賢菩薩ふげんぼさつせつ」をとなえた(後述こうじゅつ)。
  • 強盗ごうとう短刀たんとうきつけられたことがあったが、その強盗ごうとう説得せっとく更生こうせいさせたことがある。そのもと強盗ごうとうはその真人間まにんげんとして仕事しごとはげらくらせるようになった。あるときえん平沢ひらさわ自宅じたくってきたが、すで自宅じたくはなくなっていた。平沢ひらさわ狂人きょうじんになっていたという。平沢ひらさわ狂犬きょうけんとなったいぬころしたのちからおかしくなり、いえ火事かじけたのち石井いしい鶴三つるぞうられていた、とかれている[23]
  • こういて座禅ざぜんむのがきだった(鎌田かまた1950[9],p.86)。
  • 戦争せんそうちゅうは、時局じきょくまった関心かんしんだった。空襲くうしゅう毎日まいにちつづき、平沢ひらさわ息子むすこ兵隊へいたいられて出征しゅっせいし、つま隣組となりぐみちょうとして多忙たぼうきわめ、さんじょ学業がくぎょうてて動員どういんされるなか平沢ひらさわ毎日まいにちラジオをくのにばかり夢中むちゅうで、それ以外いがい悠長ゆうちょう義太夫ぎだゆうのレコードをかけていた。平沢ひらさわつまはあきれ、後年こうねん著書ちょしょなかおっとについて「あまりにも時局じきょくたいして無感覚むかんかくです」「(出征しゅっせいした息子むすこ動員どういんされたむすめなど)生命せいめいてきはたらいている、この子供こどもらにたいする支援しえんだけはしいとおもいました」とべた(平沢ひらさわマサ1949[8],pp.86-87)。平沢ひらさわ愛人あいじんも、平沢ひらさわ戦時せんじでも自分じぶんとともにいち週間しゅうかんほど温泉おんせんへスケッチ旅行りょこうくなど、戦争せんそう関心かんしんだったことをべている(鎌田かまた1950[9],p.103)。
  • 平沢ひらさわ逮捕たいほされたあと、かれ画業がぎょう抹殺まっさつするうごきがられた。
    横山よこやま大観たいかんは、平沢ひらさわがかつて弟子でしであったことを否定ひていした[3]平沢ひらさわは、横山よこやまからもらった雅号がごう返上へんじょうし「光彩こうさい」とあらためた。
    昭和しょうわ10年代ねんだい平沢ひらさわ軍命ぐんめいによってえがいた「松浦潟まつうらがたのジャンク」は総理そうり大臣だいじん官邸かんていかざられていたが、逮捕たいほかべから撤去てっきょされ人目ひとめにつかぬところに死蔵しぞうされた[24]
    戦後せんご平沢ひらさわ皇太子こうたいし当時とうじ)への献上けんじょうはるとおからじ」を北海道ほっかいどうえがき、その下絵したえ東京とうきょうもどって仕上しあげるためふねり、そこで出会であった厚生こうせい技官ぎかん松井まつい蔚(まついしげる)と名刺めいし交換こうかんした。この「松井まつい名刺めいし」が事件じけん平沢ひらさわ逮捕たいほにつながった。宮内庁くないちょうつうじて皇太子こうたいし献上けんじょうされた平沢ひらさわはるとおからじ」の所在しょざい事件じけん不明ふめいとなった[24]
    平沢ひらさわ貞通さだみち人権じんけん記念きねんかんによると、2007ねん時点じてんで「わたしたちは、逮捕たいほまえ作品さくひん行方ゆくえさがしたが、展覧てんらんかい出品しゅっぴんされた作品さくひんが10てんみかどてん出品しゅっぴんさくにかぎれば、2てんのみがつかったにすぎない」[25]とのことである。
    平沢ひらさわ帝銀ていぎん事件じけん直後ちょくご預金よきんしたかね出所しゅっしょについて、「春画しゅんが」をえがいてかねだったため画家がかとしての名声めいせいまもるためえなかった、と推測すいそくするきもある。ただし事実じじつとしては、大量たいりょう殺人さつじんはん汚名おめい春画しゅんがどころではなく、画家がかとしての名声めいせい抹殺まっさつされてしまった。
  • 平沢ひらさわ獄中ごくちゅうから無実むじつ主張しゅちょうつづけ、看守かんしゅにもこうかたったという。「担当たんとうさん。わたしは、死刑しけいになっても、運命うんめいあきらめることもできます。交通こうつう事故じこひとだけでも、年間ねんかんいちまんにんもいるそうですし、われない理由りゆうころされるひと多数たすういるときます。こんな社会しゃかいですから、これも自分じぶん運命うんめいだとあきらめられます。けれども、わたしつまわたし子供こどもまごは、かれらがきているかぎり、帝銀ていぎん事件じけん犯人はんにん身内みうちとして、社会しゃかいから迫害はくがいされつづけていくのだとおもうと、どうしても我慢がまんできません。わたし国家こっか権力けんりょくいのちのあるかぎたたかって、自分じぶん無実むじつらし、家族かぞくすくうつもりです」[26]。これが真情しんじょうなら、なぜ平沢ひらさわ調しらべのとき大金たいきん出所しゅっしょかさなかったのか、と「春画しゅんがせつ」をうたが意見いけんもある(中村なかむら正明まさあき科学かがく捜査そうさ論文ろんぶん帝銀ていぎん事件じけん」―法医学ほういがく精神せいしん分析ぶんせきがくのう科学かがく化学かがくからの推理すいり』2008ねん)。
  • 平沢ひらさわ死刑しけい宣告せんこくしただいいちしん判決はんけつしょ昭和しょうわ25ねん8がつ31にち)には、つま2人ふたり愛人あいじん実名じつめいいてある。愛人あいじん1人ひとり鎌田かまたりよ(判決はんけつしょでは鎌田かまたリヨ)は、判決はんけつがくだる直前ちょくぜん出版しゅっぱんした手記しゅき生命せいめいあるかぎり』(8がつ10日とおか印刷いんさつ、8がつ20日はつか発行はっこう)のなかで、平沢ひらさわとの長年ながねん不倫ふりん関係かんけい自分じぶんむすめらへのおもいをつつかくさずかしたうえ「わたしは、えて平沢ひらさわさんのために、弁明べんめい弁解べんかいもいたしません」「さんじゅうねんちかくの、ながあいだわたしあいし、わたし尊敬そんけいしてきた、わたし平沢ひらさわさんは、やはりそのころ姿すがたのまゝで胸奥きょうおうにいらしてくださいます」云々うんぬんと、自分じぶんぬまで平沢ひらさわあいつづけることをべた(鎌田かまた1950[9],p.141)。
  • 平沢ひらさわつまは、諸般しょはん事情じじょうで1962ねん平沢ひらさわ協議きょうぎ離婚りこんしたが、くなるまで獄中ごくちゅう平沢ひらさわけ、1979ねん2がつ11にちに85さいくなった[27]
  • すくかい」の事務じむ局長きょくちょうつとめた森川もりかわ哲郎てつろう長男ちょうなん武彦たけひこは、平沢ひらさわ獄死ごくししても再審さいしん請求せいきゅうつづけるため、平沢ひらさわ養子ようしはいった[28]平沢ひらさわ獄死ごくしも「すくかい」の活動かつどうつづけていたが、2013ねん10月1にち自宅じたく死亡しぼうしていたところを知人ちじん[29]警視庁けいしちょう杉並すぎなみ警察けいさつしょ署員しょいんによって発見はっけんされた。知人ちじん武彦たけひこすう週間しゅうかん連絡れんらくれなかったため杉並すぎなみ警察けいさつしょ相談そうだんしていた。事件じけんせいはなく、9がつちゅう病死びょうししたものとられる[30]
  • 収監しゅうかんちゅう1967ねん10月13にちだい2佐藤さとう内閣ないかく法務大臣ほうむだいじんつとめていた田中たなかさんは、しまあきじんふくむ23にんぶん死刑しけい執行しっこう命令めいれいしょ署名しょめい[31][32]したが、このなか平沢ひらさわ見付みつけたさい、「これ(平沢ひらさわ)は冤罪えんざいだろ」として執行しっこう対象たいしょうからはずしている。
  • 平沢ひらさわ入獄にゅうごく光彩こうさい(こうさい)と雅号がごうえ、獄中ごくちゅう画家がかとして1300てんえる作品さくひんえがいた。宮城みやぎ刑務所けいむしょ時代じだい特別とくべつアトリエあたえられてさくみ、支援しえんしゃにより国内外こくないがいでしばしば個展こてんひらいていた。材料ざいりょう支援しえんしゃらがれていたが、画用紙がようし神田かんだぶんぼうどうのものをと、注文ちゅうもんをつけていた[2]
  • 平沢ひらさわ東京とうきょう拘置こうちしょ死刑しけいしゅうなので刑務所けいむしょではなく拘置こうちしょ収監しゅうかん)でもうそばかりったので、おな東京とうきょう拘置こうちしょにいたビン銃びんじゅうギャング事件じけん主犯しゅはんK・Oや、三鷹みたか事件じけん竹内たけうちけいじょ被告人ひこくにんおこって、平沢ひらさわ犬猿けんえんなかになった[33]
  • 平沢ひらさわ短期間たんきかんだけ獄中ごくちゅうからたことがあった。1974ねん昭和しょうわ49ねん)、82さい平沢ひらさわは、日光にっこう中宮祠ちゅうぐうし事件じけん犯人はんにん死刑しけい執行しっこうされたことにショックをけ、心臓しんぞう発作ほっさ危篤きとく状態じょうたいおちいり、東北大学とうほくだいがく附属ふぞく病院びょういん移送いそうされた。26ねんぶりの出獄しゅつごくだった。平沢ひらさわ一命いちめいをとりとめ、驚異きょういてき快復かいふくしめし、1カ月かげつはん宮城みやぎ刑務所けいむしょ仙台せんだい拘置こうち支所ししょもどった。「病院びょういん拘置こうちしょよりわるい。自由じゆうをかかせてくれない。をかきたいからもどってきたのだ」とかたった[6]
  • 獄中ごくちゅう平沢ひらさわはいつも温厚おんこうだったが、激怒げきどしたことが1かいだけあった。1975ねん昭和しょうわ50ねん)6がつ平塚ひらつか八兵衛はちべえは『週刊しゅうかん新潮しんちょう』の連載れんさい記事きじ八兵衛はちべえ捕物とりものじょう」で帝銀ていぎん事件じけん回想かいそういた。平沢ひらさわ支援しえんしゃたのみ、その雑誌ざっしおくってもらい、獄中ごくちゅうんだ。そして「平塚ひらつか八兵衛はちべえはじ兵衛ひょうえ・・・・・・うそ兵衛ひょうえだ!」と激怒げきどし、記事きじ余白よはくあかいボールペンで反論はんろんをびっしりんだ。支援しえんしゃはそれを『週刊しゅうかん新潮しんちょう編集へんしゅうおくったが、返事へんじまったくなかった[34]
  • 八王子はちおうじ医療いりょう刑務所けいむしょうつってからは、老衰ろうすい白内障はくないしょうによる視力しりょく障害しょうがいなどのため、ほとんど絵筆えふでをとらなかった。養子ようし武彦たけひこらが面会めんかいするたびに「無実むじつだからはやたい。小樽おたる両親りょうしん墓参はかまいりをしたい」などとかたり、きな日本酒にほんしゅあじわうのをたのしみにしていたという[12]面会めんかいしつ金網かなあみごしに弁護士べんごし遠藤えんどうまこととかわした約束やくそく遠藤えんどう先生せんせい釈放しゃくほうになったら、蔵出くらだしの『しろづる』を、一緒いっしょみたいねえ」[35]はかなわなかった。
  • 晩年ばんねん平沢ひらさわってその人柄ひとがら心酔しんすいした遠藤えんどうまことは「仏界ぶっかいにおられる普賢菩薩ふげんぼさつが、近頃ちかごろ人類じんるいきかたを憂慮ゆうりょされ(中略ちゅうりゃく)みずから無実むじつ死刑しけいしゅう化身けしんされたのかもしれない」「昭和しょうわじゅうさんねん当時とうじ平沢ひらさわさんは、ただの一介いっかい人間にんげんにすぎなかったのだが、その、どこかの時点じてんから普賢菩薩ふげんぼさつうつってしまわれたということか」「いまわたしは、『平沢ひらさわ普賢菩薩ふげんぼさつせつ』をしんじているものである」とべた[36]
  • 平沢ひらさわ釈放しゃくほうそなえて、「すくかい」では東京とうきょう杉並すぎなみ今川いまがわマンション一室いっしつ用意よういしていた。そこにはのち平沢ひらさわ遺体いたい安置あんちされた[12]
  • 北海道放送ほっかいどうほうそうが2003ねん制作せいさく放送ほうそうしたドキュメンタリー番組ばんぐみでは、生前せいぜん平沢ひらさわ獄中ごくちゅうでの音声おんせいかくり)や、平沢ひらさわ長女ちょうじょへのインタビュー(かおうつっていない)なども収録しゅうろくされている[6]自分じぶん子供こども世間せけん迫害はくがいからまもるため、ずっと平沢ひらさわむすめであることをかくしてきた長女ちょうじょは、獄死ごくししたちちについて「あんなね、環境かんきょうわるいね、条件じょうけんわるいとこでね、よくあのとしまできてたとおもうんですよね。・・・・・・やっぱり、しゅったいいちしん頑張がんばったんでしょうかね」「シロにしろクロにしろね、あんだけ世間せけんさわがしたんですからね、やっぱりだれだっていいおもいはしてませんよね」とかたった。
  • もと東京とうきょう高検こうけん検事けんじちょう藤永ふじなが幸治こうじは、「死刑しけい廃止はいし国際こくさい条約じょうやく批准ひじゅんもとめるフォーラム '90」で講演こうえんし、法務省ほうむしょう刑事けいじきょく平沢ひらさわ死刑しけいかんするきょくなんかいひらかれ、判決はんけつ事実じじつ認定にんてい問題もんだいがあるとされたため、死刑しけい執行しっこう見送みおくられたことをあきらかにした[37]、という言説げんせつがまことしやかにつたえられている。法務省ほうむしょう刑事けいじ局長きょくちょう当時とうじ)の原田はらだ明夫あきおおこなった国会こっかい答弁とうべんによると、これは誤報ごほうで、実際じっさいには法務省ほうむしょうないで「平沢ひらさわ死刑しけい判決はんけつにあたり事実じじつ認定にんてい問題もんだいがあった」という議論ぎろんいちおこなわれておらず、藤永ふじなが自身じしん自分じぶん発言はつげん明確めいかく否定ひていしたという[38]

著書ちょしょ

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画集がしゅう
  • 帝銀ていぎん事件じけん平沢ひらさわ貞通さだみち画集がしゅう 下獄げごく9700にちのいかり』平沢ひらさわ貞通さだみちすくかい 1975
  • 痛恨つうこん画布がふ 平沢ひらさわ貞通さだみち獄中ごくちゅう書簡しょかんしゅう平沢ひらさわ貞通さだみち画集がしゅう刊行かんこうかい 1982
  • いのりの画集がしゅう 獄中ごくちゅう37ねんなまのはざまより』平沢ひらさわ武彦たけひこ編著へんちょ(ダイナミックセラーズ)1985
  • 平沢ひらさわ貞通さだみち画集がしゅう』(アオイコーポレーション)1992
著書ちょしょ
  • 帝銀ていぎん死刑しけいしゅう ろうてんぺら画家がか獄中ごくちゅう縄野なわの純三じゅんぞうへん 現代げんだいしゃ 1959
  • 遺書いしょ 帝銀ていぎん事件じけん わがきあとに人権じんけんよみがええれ』森川もりかわ哲郎てつろう解説かいせつ現代げんだい出版しゅっぱんかい)1979
  • 『われ、すとも瞑目めいもくせず 平沢ひらさわ貞通さだみち獄中ごくちゅう平沢ひらさわ武彦たけひこへん毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ)1988

平沢ひらさわ貞通さだみちえんじた俳優はいゆう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 細川ほそかわ次郎じろう高校生こうこうせいさい晩年ばんねん平沢ひらさわ貞通さだみちろう -宮城みやぎ刑務所けいむしょでの面会めんかいかよう-」『明治大学めいじだいがく平和へいわ教育きょういく登戸のぼりと研究所けんきゅうじょ資料しりょうかんかんほうだい5ごう明治大学めいじだいがく平和へいわ教育きょういく登戸のぼりと研究所けんきゅうじょ資料しりょうかん、2019ねん9がつ、79-101ぺーじISSN 2423-9151NAID 120006768531 

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 「20世紀せいき日本人にっぽんじんめい事典じてん日外にちがいアソシエーツ、2004ねん
  2. ^ a b 平沢ひらさわ貞通さだみちえつきた執念しゅうねん 最後さいごまで『シャバでいちはい』」 朝日新聞あさひしんぶん1987ねん5がつ11にち朝刊ちょうかん
  3. ^ a b c d e f g h i j 遠藤えんどうまこと帝銀ていぎん事件じけん全貌ぜんぼう平沢ひらさわ貞通さだみち』(現代書館げんだいしょかん、2000ねん)「だいいちしょう 平沢ひらさわ貞通さだみちさんの半生はんせいISBN 4-7684-6779-2
  4. ^ 「われ、すとも瞑目めいもくせず」、203ぺーじ
  5. ^ a b 福島ふくしまあきら中田なかたおさむ小木おぎさだこうへん日本にっぽん精神せいしん鑑定かんてい : 重要じゅうよう事件じけん25の鑑定かんていしょ解説かいせつ1936-1994』(増補ぞうほ新版しんぱん、みすず書房しょぼう、2018ねん)。同書どうしょp.267-p.332の内村うちむら祐之ひろゆき吉益よしますおさむおっと帝銀ていぎん事件じけん」は、内村うちむら祐之ひろゆき吉益よしますおさむおっとだつずい脳炎のうえん空想くうそう虚言きょげんしょうとその刑事けいじ責任せきにん能力のうりょくについて」(『精神せいしん神経しんけいがく雑誌ざっし』59かん5ごう昭和しょうわ32ねん=1957ねん) https://cir.nii.ac.jp/crid/1524232505434007680主要しゅよう部分ぶぶん転載てんさいしたものである。
  6. ^ a b c 誤判ごはん生贄いけにえだましい画家がか 死刑しけいしゅう平沢ひらさわ貞通さだみち~」(北海道放送ほっかいどうほうそう、プロデューサー:五十嵐いがらし浩二こうじ)日本にっぽん民間みんかん放送ほうそう連盟れんめいしょう 2003ねん テレビ報道ほうどう優秀ゆうしゅうしょう受賞じゅしょう
  7. ^ 出典しゅってんいまから100ねんまえ大正たいしょう時代じだい」はどんな時代じだいだった?物価ぶっかは?初任しょにんきゅうは?」 https://www.jibunbank.co.jp/column/article/00251/ 2021ねん6がつ27にち閲覧えつらん
  8. ^ a b c d 平沢ひらさわマサ『愛憎あいぞうえて―宿命しゅくめいつま平沢ひらさわマサの手記しゅき』(書房しょぼう、1949ねん3がつ30にち発行はっこう)
  9. ^ a b c d 鎌田かまたりよ『生命せいめいあるかぎり』(公論こうろんしゃ昭和しょうわ25ねん8月刊げっかん)
  10. ^ 平沢ひらさわ貞通さだみちすくかいについて 公式こうしきサイト
  11. ^ 共同通信社きょうどうつうしんしゃ記者きしゃ時代じだい帝銀ていぎん事件じけんがけていた。
  12. ^ a b c 帝銀ていぎん事件じけん平沢ひらさわ貞通さだみち死亡しぼう 95さい死刑しけいしゅう獄中ごくちゅうに39ねん朝日新聞あさひしんぶん1987ねん5がつ11にち朝刊ちょうかん
  13. ^ のち袴田はかまだ事件じけんマルヨ無線むせん事件じけん名張なばりどくぶどうしゅ事件じけんピアノ騒音そうおん殺人さつじん事件じけん死刑しけいしゅう記録きろく更新こうしんしている
  14. ^ 平沢ひらさわ武彦たけひこは「平沢ひらさわが95さい獄死ごくしし、葬儀そうぎさい平沢ひらさわ親族しんぞく一人ひとりもこなく、さびしいおもいで参列さんれつしゃあたまをさげていたが(下略げりゃく)」(「帝銀ていぎん事件じけん活動かつどう日誌にっし音楽おんがくプロジューサーの酒井さかい政利まさとしさんとの再会さいかい平沢ひらさわ武彦たけひこ」2000ねん12月15にちみ)といている。
  15. ^ 明治大学めいじだいがく平和へいわ教育きょういく登戸のぼりと研究所けんきゅうじょ資料しりょうかん かんほう だい5ごう 2019年度ねんど』p.96
  16. ^ 財界ざいかいじん』2007ねん8がつごう、p.80
  17. ^ だい43かい国会こっかい 衆議院しゅうぎいん 法務ほうむ委員いいんかい だい18ごう 昭和しょうわ38ねん5がつ31にち」015 赤松あかまついさむ https://kokkai.ndl.go.jp/txt/104305206X01819630531/15
  18. ^ ウイリアム・トリプレット(ちょ)、西岡にしおかこうわけ)『帝銀ていぎん事件じけん真実しんじつ平沢ひらさわ真犯人しんはんにんか?』(講談社こうだんしゃ、1987ねん)、p.221
  19. ^ ウイリアム・トリプレット(ちょ)、西岡にしおかこうわけ)『帝銀ていぎん事件じけん真実しんじつ平沢ひらさわ真犯人しんはんにんか?』(講談社こうだんしゃ、1987ねん)p.96-p.97
  20. ^ だい19再審さいしん請求せいきゅう最中さいちゅう孤独こどくしていた『平沢ひらさわ貞通さだみち養子ようし」、『週刊しゅうかん新潮しんちょう』2013ねん10がつ17にちごう、pp.39-40
  21. ^ 清野きよの由美ゆみ「プロデューサー 酒井さかい政利まさとし現代げんだい肖像しょうぞう)」『アエラ』1998ねん4がつ13にちごう、p.53。および、「帝銀ていぎん事件じけん平沢ひらさわ貞通さだみちかくは、あの酒井さかい政利まさとし? (総力そうりょく特集とくしゅう わたしだけが時代じだい主役しゅやく60にん いまこそ本当ほんとうはなしをしよう)」『週刊文春しゅうかんぶんしゅん』2001ねん新年しんねんごう、pp.29-30、2001ねん1がつ4にち
  22. ^ 川本かわもと不二雄ふじお未完みかん告白こくはく平沢ひらさわ貞通さだみち懺悔ざんげろく』(はち書房しょぼう、1948ねん11月15にち発行はっこう)
  23. ^ 改心かいしんさせられた強盗ごうとうさが紳士しんしいま発狂はっきょう東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん 大正たいしょう15ねん4がつ2にち
  24. ^ a b 報道ほうどう特集とくしゅう「もうひとつの再審さいしん請求せいきゅう 帝銀ていぎん事件じけん絵探えさがしのたび放映ほうえい決定けってい2007ねん12月2にち午後ごご5時半じはんより TBS系列けいれつきょく」2021ねん3がつ31にち閲覧えつらん
  25. ^ 2007ねん10がつ3にち(水)すい~10がつ8にち(月)げつ開催かいさいされた「北海道ほっかいどう小樽おたる 平沢ひらさわ貞通さだみちぼつ20ねん絵探えさがしのたびてん開催かいさいのおらせ―はん世紀せいきあいだやみほうむられてきた平沢ひらさわひかりを―」の説明せつめいより。2021ねん3がつ31にち閲覧えつらん
  26. ^ 中村なかむら正明まさあき科学かがく捜査そうさ論文ろんぶん帝銀ていぎん事件じけん」―法医学ほういがく精神せいしん分析ぶんせきがくのう科学かがく化学かがくからの推理すいり』2008年刊ねんかんによる。(細川ほそかわ次郎じろう 2019, p. 79-101)では、字句じくはややちがうものの、おな言葉ことばせている。それによると、東京とうきょう拘置こうちしょ看守かんしゅ・M(原典げんてんでは実名じつめい表記ひょうき)は平沢ひらさわ貞通さだみちの1周忌しゅうきせきで「平沢ひらさわさんがわたしにこうしたことがある。『自分じぶん帝銀ていぎん事件じけん犯人はんにん汚名おめいせられて死刑しけいにされること自体じたいは、交通こうつう事故じこ毎年まいとし1まんにん以上いじょうひといのちとしていることをかんがえれば、まだあきらめがつく。けれども、おれまごが、帝銀ていぎん事件じけん平沢ひらさわだ!、まごだ!とわれて、世間せけんからいためつけられていることをおもうと、おれんでもれない。なにとしても再審さいしん無罪むざいらなきゃならないんだ』。それをいたときわたしなみだしゅっそうになりました」とかしたという。
  27. ^ コラム 帝銀ていぎん事件じけんとはなにだったのか-50 Vol.50 げんふち 勝仁かつひとさん
  28. ^ 「(ひと)平沢ひらさわ武彦たけひこさん 獄死ごくしした平沢ひらさわ貞通さだみち養子ようし朝日新聞あさひしんぶん1987ねん5がつ22にち朝刊ちょうかん
  29. ^ コラム 帝銀ていぎん事件じけんとはなにだったのか-35 Vol.35 げんふち 勝仁かつひとさん」に「再審さいしん請求せいきゅうじん平沢ひらさわ武彦たけひこは2013ねん10がつ1にち一人暮ひとりぐらしの自宅じたく孤独こどくしているのを発見はっけんされている。発見はっけんしたのは、このわたくしである」とある。2021ねん3がつ31にち閲覧えつらん
  30. ^ 帝銀ていぎん事件じけん平沢ひらさわもと死刑しけいしゅう養子ようし死亡しぼう 東京とうきょう自宅じたく朝日新聞あさひしんぶんデジタル 2013ねん10がつ2にち
  31. ^ いきおいふじ修三しゅうぞう死刑しけい考現学こうげんがく三省堂さんせいどう、1983ねん
  32. ^ たわら孝太郎こうたろう政治せいじ風景ふうけい学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、1994ねん
  33. ^ 細川ほそかわ次郎じろう 2019, p. 88.
  34. ^ 石井いしい敏夫としお平沢ひらさわ貞通さだみちいち店主てんしゅ半生はんせいあらためて、再審さいしんうったえる』(つげ書房しょぼうしんしゃ、1997ねん)pp.105-110
  35. ^ 遠藤えんどうまこと帝銀ていぎん事件じけん全貌ぜんぼう平沢ひらさわ貞通さだみち現代書館げんだいしょかん、2000ねん、p.16 ISBN 4-7684-6779-2
  36. ^ 遠藤えんどうまこと帝銀ていぎん事件じけん全貌ぜんぼう平沢ひらさわ貞通さだみち』p.129およびp.135より引用いんようISBN 978-4768467794
  37. ^ 大河内おおこうち秀明ひであき ちょ無実むじつでも死刑しけい判決はんけつ真犯人しんはんにんはどこに』1998ねん現代げんだい企画きかくしつ。349ページ。
  38. ^ 国会こっかい会議かいぎろく検索けんさくシステム「だい140かい国会こっかい 参議院さんぎいん 予算よさん委員いいんかい だい10ごう 平成へいせい9ねん3がつ14にち 465 原田はらだ明夫あきお」によると、藤永ふじなが自身じしん発言はつげんについて「そのような趣旨しゅし発言はつげんしたものではない」と明確めいかく否定ひていした。新聞しんぶんしゃ記者きしゃたちも、あらためて幅広はばひろ取材しゅざいをした結果けっか法務省ほうむしょうないでそのようなこの事件じけんについて事実じじつ認定にんてい問題もんだいがあるというような観点かんてんから論議ろんぎのあったことはなかったということについてはぼ確信かくしんちかいものをった」。

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外部がいぶリンク

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