浅利慶太や石原慎太郎らは、かねてから東急グループ総帥の五島昇に劇場の建設話を持ちかけていた。当初は渋谷の東急系映画館を改装するという程度の話だったが、同じころ、日本生命保険が創業70周年を迎えたことを記念して劇場を作りたいとの構想を、弘世現社長が五島に打ち明けると、五島は弘世に浅利らを紹介した。こうして、若い芸術家たちの野心と、スポンサーとしての弘世の並々ならぬ尽力により生まれたのが、日生劇場である。
こけら落しは、1963年10月20日にベルリン・ドイツ・オペラを招いて行われた[1]。その後は現代劇や歌舞伎、そしてオペラやミュージカルの公演などに使用された。1970年5月からは、経営難を理由に自主制作から貸小屋方式に変更され、翌1971年には五島昇社長、浅利慶太・石原慎太郎両重役が退陣した[2]。劇団四季が常設劇場をもつ前には当劇場での公演が多かったほか、越路吹雪が1970年代当時、日本で最もチケットの入手が困難なステージのひとつともいわれた「ロングリサイタル」を長年にわたって行った。また、沢田研二がソロデビューの翌月1971年12月に初のリサイタルを開催したのも当劇場である。しかし、その卓越した音響効果は「良すぎて」クラシック音楽には向かないと言われており、実際、近年では著名オーケストラによる公演は行われていない。
客席の中では、中2階に相当する「グランドサークル席」の人気が高く、早く売り切れることが多い。
『すぐれた舞台芸術を提供するとともにその向上をはかり、わが国の芸術文化の振興に寄与する』ことを事業目的[3]とし、日生劇場を拠点として運営者の「公益財団法人ニッセイ文化振興財団」が様々な活動を行っている。
- 1964年より、日本生命保険と共催で、劇団四季出演によるミュージカルに都内の小学生を学校単位で無料で招待する、「ニッセイ名作劇場」を毎年実施している。
- 1979年より、中学・高校生を対象に本格的なオペラを鑑賞できる機会を安価で提供する「日生劇場オペラ教室」 を開催し、学校単位でこれを行っている。
- 1993年より、親子で本格的な舞台芸術に安価で触れられるようにと「日生劇場国際ファミリーフェスティヴァル」を毎年夏休み期間に行っている。
- 日本生命保険相互会社編『日本生命九十年史』日本生命保険相互会社、1980年。