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松永浩美 - Wikipedia

松永まつなが浩美ひろみ

日本にっぽんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ指導しどうしゃ

松永まつなが 浩美ひろみ(まつなが ひろみ、1960ねん9月27にち - )は、福岡ふくおかけん八幡やはた現在げんざい北九州きたきゅうしゅう八幡東やはたひがし出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ内野ないやしゅ)。

松永まつなが 浩美ひろみ
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 福岡ふくおかけん八幡やはたげん北九州きたきゅうしゅう八幡東やはたひがし
生年月日せいねんがっぴ (1960-09-27) 1960ねん9月27にち(63さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
180 cm
78 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎなげりょう
ポジション 三塁手さんるいしゅ遊撃手ゆうげきしゅ
プロ 1978ねん ドラフトがい
はつ出場しゅつじょう 1981ねん5がつ10日とおか
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1997ねん5がつ4にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
コーチれき
松永まつなが 浩美ひろみ
公式こうしきサイト 松永まつなが浩美ひろみ公式こうしきHP
YouTube
チャンネル
活動かつどう期間きかん 2019ねん8がつ2にち -
ジャンル 野球やきゅう
登録とうろくしゃすう 8470にん
そう再生さいせい回数かいすう 750,081 かい
チャンネル登録とうろくしゃすうそう再生さいせい回数かいすう
2022ねん7がつ30にち時点じてん
テンプレートを表示ひょうじ

日本にっぽんプロ野球やきゅう(NPB)史上しじょう最高さいこうスイッチヒッターしょうされる[1]

経歴けいれき

編集へんしゅう

野球やきゅうはじめたのは中学ちゅうがく1ねん途中とちゅうからで、小学生しょうがくせい時代じだいには、地元じもとのサッカー少年しょうねんだんFWとして活躍かつやくしていた。当時とうじ地元じもとしん日本にっぽん製鐵せいてつ八幡はちまんサッカー所属しょぞくしていた宮本みやもとあきらメキシコオリンピック・サッカー競技きょうぎ日本にっぽん代表だいひょうチームはつどうメダル獲得かくとく貢献こうけんしたMF)にあこがれていて、少年しょうねんだん監督かんとくからはサッカーの強豪きょうごうこう大分おおいたけんなかこう一貫いっかんせい私立しりつ学校がっこう)への進学しんがくすすめられるほどの選手せんしゅだったが、中等ちゅうとうからの単身たんしん生活せいかつ両親りょうしん難色なんしょくしめした。結局けっきょく地元じもと中学校ちゅうがっこう進学しんがくしたものの、校内こうないにサッカーがなかったことからサッカーを断念だんねん活動かつどう自体じたい参加さんかしないまま知人ちじんさそいでソフトボール大会たいかい投手とうしゅとして登板とうばんしたところ、だれてなかったことから、周囲しゅういすすめで1年生ねんせい途中とちゅうから校内こうない軟式なんしき野球やきゅうはいった。当時とうじから1人ひとり野球やきゅう練習れんしゅうしていたが、本人ほんにんいわ言葉ことばくち)より身体しんたいうごかさないとしを判断はんだんできないタイプ」とのことで、日本にっぽんのプロ野球やきゅう(NPB)はいることまではかんがえていなかったという[2]

福岡ふくおか県立けんりつ小倉こくら工業こうぎょう高等こうとう学校がっこうへの進学しんがく校内こうない硬式こうしき野球やきゅう入部にゅうぶしてからは、投手とうしゅ外野がいやしゅ兼務けんむ。1学年がくねん先輩せんぱい田島たじま克彦かつひこ当時とうじ投手とうしゅ)がいた。入学にゅうがく当時とうじ監督かんとくだった本田ほんだただしには、1ねんあきから「おまえ将来しょうらいプロ(NPB)へける」とわれていて、松永まつなが本人ほんにん地元じもと社会しゃかいじん野球やきゅうチーム(門司もじ鉄道てつどう管理かんりきょく)をてのNPBりをおもえがいていたという[3]

その一方いっぽうで、小倉おぐら工業こうぎょう高校こうこうへの在学ざいがくちゅう久保くぼ康生やすお立花たちばなよし野田のだくもひらた清家きよいえ政和まさかずはやし正毅まさきなどをようする柳川やながわ商業しょうぎょう高等こうとう学校がっこう現在げんざい柳川やながわ高等こうとう学校がっこうたず、なつ全国ぜんこく高等こうとう学校がっこう野球やきゅう選手権せんしゅけん福岡ふくおか大会たいかいでは1ねん1976ねんから2ねんつづけて直接ちょくせつ対決たいけつ敗戦はいせん。2ねん1977ねん準々じゅんじゅん決勝けっしょう対戦たいせんしたさいには、田島たじま松永まつなが田島たじま継投けいとうむなしく、1 - 17という大差たいさで7かいコールドけをきっした。松永まつなが本人ほんにんは、大会たいかい結成けっせいされたしんチームで、本田ほんだから4ばん打者だしゃ田島たじま後継こうけいエース・主将しゅしょう任命にんめい。しかし、本田ほんだはその直後ちょくごに、前述ぜんじゅつ大敗たいはいこころよおもっていなかった硬式こうしき野球やきゅうのOBかいから監督かんとくしょく突如とつじょ更迭こうてつされた[3]

松永まつなが後任こうにん監督かんとくりがわないまま、高校こうこう2ねん(1977ねん)の10がつに、本田ほんだから紹介しょうかいされた山本やまもとこう当時とうじ阪急はんきゅうブレーブス九州きゅうしゅう地区ちく担当たんとうスカウト)とアルバイトさき喫茶店きっさてん面会めんかい[3]。そのせき阪急はんきゅうへの入団にゅうだん要請ようせいされたことから、よく1978ねん1がつ小倉こくら工業こうぎょう高校こうこう中退ちゅうたいしたうえで、外野がいやしゅとしてドラフトがいあつかいで入団にゅうだんした[4]松永まつなが後年こうねん述懐じゅっかいしたところによれば、田島たじま視察しさつしていた3にんのスカウトが、「実力じつりょく松永まつながほううえ」という評価ひょうか本田ほんだつたえていたという[3][ちゅう 1]高校こうこう中退ちゅうたいしゃのドラフトがい入団にゅうだんはNPBの野球やきゅう協約きょうやく抵触ていしょくする行為こういであったため、実際じっさいには球団きゅうだん職員しょくいんぐん用具ようぐがかりいで「練習れんしゅうせい」として入団にゅうだん入団にゅうだんさいしては、山本やまもとから定時ていじせい高校こうこうへの進学しんがくすすめられたものの、「プロにはいった以上いじょう学校がっこうかよっている場合ばあいではない」として進学しんがく見送みおくった[4]。ちなみに、スイッチヒッターへ転向てんこうしたのは入団にゅうだん3ねん1980ねん)からで、それまではみぎ打者だしゃだった。

阪急はんきゅう・オリックス時代じだい

編集へんしゅう

NPBの公式こうしきせん出場しゅつじょうできない「練習れんしゅうせい」として1978ねん1がつ阪急はんきゅう入団にゅうだんしたため、入団にゅうだん翌月よくげつ(2がつ本来ほんらいなら高校こうこう2年生ねんせい)から高知こうちぐん春季しゅんきキャンプに参加さんか練習れんしゅう前後ぜんご用具ようぐがかりとしての仕事しごとのぞんでいたことから、キャンプの当初とうしょはユニフォームに背番号せばんごういていなかったが、途中とちゅうから背番号せばんごう87着用ちゃくようした。キャンプちゅう打撃だげき練習れんしゅう高知こうち市営しえい球場きゅうじょう場外じょうがいに17ほん連続れんぞく打球だきゅうばしたシーンを、ぐんキャンプを視察しさつちゅうだった一軍いちぐん監督かんとく上田うえだ利治としはる当時とうじ)が偶然ぐうぜん目撃もくげきしたことをきっかけに、上田うえだ方針ほうしん遊撃手ゆうげきしゅ転向てんこう[ちゅう 2]。レギュラーシーズンの開幕かいまくは、ぐん打撃だげき守備しゅび練習れんしゅうれながら、打撃だげき投手とうしゅなどで一軍いちぐん練習れんしゅう手伝てつだっていた[4]。なお、「チームないでは当時とうじから(出身しゅっしん福岡ふくおかけん玄界灘げんかいなだめんしていることや、苗字みょうじが『松永まつなが』であることにちなんで)玄海げんかいマツ』とばれていた」というはなし報道ほうどうなどでまことしやかにつたえられているが、本人ほんにんは『玄海げんかいマツ』とばれたことがないことを引退いんたい明言めいげんしている[5]

1979ねんには、公式こうしきせんへの出場しゅつじょう可能かのう支配しはい登録とうろく選手せんしゅ移行いこうするとともに、背番号せばんごう48変更へんこう。そのとしぐん秋季しゅうきキャンプから、住友すみともたいらぐん打撃だげきコーチ(当時とうじ)の方針ほうしんひだりちの練習れんしゅうはじめた。さらに、住友すみともとも広島東洋ひろしまとうようカープとの交流こうりゅうせん練習れんしゅう最後さいごひだりちでのスイングをためしたところ、練習れんしゅう居合いあわせた山本やまもと一義かずよし現役げんえき時代じだいひだり打者だしゃ当時とうじ広島ひろしま打撃だげきコーチ)がスイングの軌道きどううつくしさを絶賛ぜっさん松永まつながひだり打者だしゃ転向てんこうさせることを、住友すみともはじめとする阪急はんきゅうのコーチにすすめた[5]

一方いっぽう松永まつながは、「ひだりちの練習れんしゅうはじめたそもそもの目的もくてきは、みぎちの欠点けってん住友すみとも発案はつあん修正しゅうせいするためだったはず」との認識にんしきで、よく1980ねん春季しゅんきぐん高知こうちキャンプちゅうみぎ打席だせきだけで打撃だげき練習れんしゅうのぞんでいた。この時点じてんではひだりちでのスイングを山本やまもとたか評価ひょうかしていることをらされていなかったため、住友すみともから「なんで(なぜ)ひだり打席だせき)でたんのや」とわれても、納得なっとくがいかなかったという。それでも、住友すみともから「日本にっぽん当時とうじのNPB)のスイッチヒッターとえば高橋たかはし慶彦よしひこ山崎やまざき隆造りゅうぞう(いずれも当時とうじ広島東洋ひろしまとうようカープ在籍ざいせき)のように『ちょこっとててあし使つかう(けいるい俊足しゅんそくかす)』というタイプばかりだが、だいリーグ(MLB)のスイッチヒッターには、エディー・マレーみたいにみぎ打席だせきでもひだり打席だせきでも本塁打ほんるいだてるほどの長距離ちょうきょり打者だしゃがいる。(阪神はんしんタイガースひだりのエースとして君臨くんりんしてきた)江夏えなつゆたかが(南海なんかいホークスへの移籍いせきに)『野球やきゅうかい革命かくめいこさないか?』という野村のむら克也かつや監督かんとく一声いっせいストッパー転向てんこうしたように、マレーのようなスイッチヒッターになって革命かくめいこさないか」と説得せっとくされたことを一念いちねん発起ほっき。レギュラーシーズンが開幕かいまくしてから、ぐんウエスタン・リーグ公式こうしきせん63試合しあい出場しゅつじょうすると、打率だりつ.294、5本塁打ほんるいだ、24打点だてんという好成績こうせいせきのこした。シーズン終盤しゅうばん西宮にしのみや球場きゅうじょうで「親子おやこゲーム」がまれていたに、ぐんのデーゲームへ出場しゅつじょうしたのちにナイトゲームでの一軍いちぐんデビューを予定よていしていたが、デーゲームの打席だせき安打あんだはなって一塁いちるい直後ちょくご牽制けんせいだまかえりるいしたところ右手みぎてかぶと骨折こっせつ本人ほんにんいわく、このアクシデントで一軍いちぐんデビューの機会きかいぼうったことによって、怪我けがへかなり敏感びんかんになったという[6]

1981ねん一軍いちぐん公式こうしきせんへのデビューをたすと、三塁手さんるいしゅとして18試合しあい先発せんぱつ出場しゅつじょう打数だすうすくないものの打率だりつ.326を記録きろくする。

1982ねん遊撃手ゆうげきしゅね、チームの主軸しゅじくとして活躍かつやくし、はじめて規定きてい打席だせき(30打率だりつ.236)にも到達とうたつした。同年どうねん5がつ15にちたい日本にっぽんハムファイターズせんで、NPBの球団きゅうだん所属しょぞくする日本人にっぽんじん選手せんしゅとしてははじめて、公式こうしきせんでの1試合しあい左右さゆう打席だせき本塁打ほんるいだはなつ。その左右さゆう打席だせき本塁打ほんるいだを5かい記録きろくしたため、苗字みょうじ松永まつながにちなんで、「ビックリまつ」ともばれるようになった。通算つうさん6かい左右さゆう打席だせき本塁打ほんるいだは、自身じしん現役げんえき時代じだいにおけるNPB単独たんどく最多さいた記録きろく[ちゅう 3]である。

1983ねんには21本塁打ほんるいだ同年どうねん8がつ31にちロッテオリオンズせんでは中居なかい謹蔵から逆転ぎゃくてん満塁まんるい本塁打ほんるいだはなっている。

1984ねんには打率だりつ.310(リーグ6)とはじめてのさんわりえをたす。

1985ねんには自己じこ最高さいこうの26本塁打ほんるいだはなち、38盗塁とうるいパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の盗塁とうるいおう獲得かくとくした。もっとも、クリーンナップまかせられる試合しあいえるにつれて、単独たんどくでの盗塁とうるい企図きとすう成功せいこうすうともに減少げんしょうしている[7]

1988ねんには、シーズンをつうじて高沢たかさわ秀昭ひであき(ロッテ)とのあいだ首位しゅい打者だしゃあらそいを展開てんかい勝負しょうぶ行方ゆくえは、10月22にちから23にちにかけて本拠地ほんきょち阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょうまれていたロッテとの3連戦れんせん(23にちダブルヘッダーとして開催かいさい)にまでされた。ブレーブスの経営けいえいけん保有ほゆうしていた阪急電鉄はんきゅうでんてつは、ロッテ3連戦れんせん直前ちょくぜん(10がつ19にち)に経営けいえいけんオリエント・リース(現在げんざいのオリックス)売却ばいきゃくすることを発表はっぴょうしていたため、23にちだい2試合しあいは「阪急はんきゅうブレーブス」としてのぞ最後さいご公式こうしきせんであった。高沢たかさわは21にちまでに打率だりつ.3271を記録きろくしていたが、ロッテ首脳しゅのうじん方針ほうしんで、阪急はんきゅうとの3連戦れんせんをすべて欠場けつじょう高沢たかさわ立場たちば松永まつながは、22にち試合しあいだい1打席だせきからの2打席だせき連続れんぞく安打あんだによって、打率だりつを.3263にまでげた。だい2打席だせきえた時点じてん松永まつなが打率だりつ高沢たかさわ上回うわまわ可能かのうせいたかまったことから、ロッテの首脳しゅのうじんは、松永まつながへの敬遠けいえんめをだい3打席だせきから投手とうしゅじん指示しじ松永まつながべ3試合しあいで11打席だせき連続れんぞく四球しきゅう・10打席だせき連続れんぞく敬遠けいえん四球しきゅう、23にちのダブルヘッダーで1試合しあい4敬遠けいえん四球しきゅうだい1・だい2試合しあいつうじて8打席だせき連続れんぞく敬遠けいえん四球しきゅう)のNPB公式こうしき戦記せんきろく樹立じゅりつする羽目はめおちいったあげく、だい2試合しあい最終さいしゅう打席だせき三振さんしん記録きろくしたことによって打率だりつ.3255でぜん日程にっていえたため、わずか1りん高沢たかさわられた。ちなみに、最終さいしゅう打席だせき三振さんしんは、「バットが到底とうていとどかないコースへげられたボールにかってバットをげる」という行為こういを3かえしたことによる。以上いじょう行為こういについては、「ロッテバッテリーが勝負しょうぶしないことにたいする無言むごん抗議こうぎ」との解釈かいしゃく報道ほうどうなどでひろまっているが、松永まつなが自身じしん引退いんたいのインタビューでこの解釈かいしゃく否定ひてい。「阪急はんきゅう最後さいご試合しあい」で、ロッテの選手せんしゅ首脳しゅのうじんかって一部いちぶ観客かんきゃくがブーイングをばしつづけたことへの抗議こうぎとして、ブーイングをしずめるつもりでバットをげたことをかしている。松永まつながによれば、「シーズン最後さいごの3連戦れんせん打率だりつ2むかえた時点じてんで『高沢たかさわさんにけた』と自覚じかくしていたので、3連戦れんせんちゅう敬遠けいえんめをめぐって、ロッテ(の関係かんけいしゃ)をうらんだことはいちもない」とのことで、観客かんきゃくからはバットをげるたびに「松永まつなが、いいぞ!」という歓声かんせいがったという[8]

球団きゅうだんめいが「オリックス・ブレーブス」へ変更へんこうされた1989ねん以降いこうも、上田うえだ指揮しきで「ブルーサンダー打線だせん」のトップバッター(1ばん打者だしゃ)として活躍かつやく

1990ねんにはパ・リーグの三塁手さんるいしゅ部門ぶもんベストナインえらばれていたが、球団きゅうだんめいを「オリックス・ブルーウェーブ」にあらためた1991ねん読売よみうりジャイアンツ巨人きょじん)OBで地元じもと兵庫ひょうごけん出身しゅっしん土井どい正三しょうさん監督かんとく就任しゅうにんしてから様相ようそう一変いっぺんする。

巨人きょじん選手せんしゅ時代じだい経験けいけんしたV9野球やきゅう絶対ぜったい自信じしんっていた土井どいは、「ブルーサンダー打線だせん」に象徴しょうちょうされるチームを守備しゅびりょく中心ちゅうしんのチームへ改造かいぞうすべく、監督かんとく就任しゅうにん直後ちょくご秋季しゅうきキャンプで守備しゅび練習れんしゅう重視じゅうしする方針ほうしん公言こうげん[9]。1991ねんのレギュラーシーズンにはいってからは、長距離ちょうきょり打者だしゃ高橋たかはしさとしをクリーンアップ候補こうほそだてるべく、高橋たかはしたいしてるいじょう走者そうしゃ犠打ぎだおくらせそうな局面きょくめんでもあえてヒッティングのサインをしていた。松永まつながはこのような方針ほうしん理解りかいしめしていて、方針ほうしん反発はんぱつするナインをなだめることすらあったという。しかし、一軍いちぐんのAクラスりがかっていたシーズン終盤しゅうばんに、土井どい高橋たかはし犠打ぎだのサインをすようになったことでナインから孤立こりつ[10]松永まつなが自身じしん平井ひらいひかりおや(ロッテ)とのあいだ首位しゅい打者だしゃあらそっていたが、.3140を記録きろくしながらわずか.0004平井ひらい打率だりつ.3144)に首位しゅい打者だしゃのタイトルをさらわれた。このような経緯けいいから、よく1992ねん以降いこう首位しゅい打者だしゃ獲得かくとく目標もくひょう打撃だげき練習れんしゅう時間じかんくことを土井どい要望ようぼうした[7]が、土井どいみとめなかったことで土井どいとのみぞふかまった。その一方いっぽうで、シーズン終了しゅうりょうには、推定すいてい年俸ねんぽう1おくえんという条件じょうけん契約けいやく更改こうかいしている。

1992ねんには、シーズン最多さいた安打あんだ首位しゅい打者だしゃのタイトル獲得かくとく目標もくひょうに、「松永まつなが福祉ふくし基金ききん」を発足ほっそくすることを1がつ発表はっぴょう前年ぜんねんの3がつ実母じつぼのう梗塞こうそくくしたことから、パ・リーグ公式こうしきせんでのシーズン通算つうさん安打あんだすうに1まんえんじょうじた金額きんがくを、実母じつぼ晩年ばんねん療養りょうようしていた北九州きたきゅうしゅう市内しない高齢こうれいしゃ医療いりょう施設しせつ寄付きふする意向いこうしめしていた。これにたいして、オリックス本社ほんしゃから出向しゅっこうしてきた球団きゅうだん幹部かんぶが、寄付きふさき本拠地ほんきょち神戸こうべ市内しない病院びょういん変更へんこうすることを打診だしん球団きゅうだんからも寄付きふきんすことまでけたが、松永まつながが「基金ききん趣旨しゅしわない」として打診だしんことわったこと[10]によって、球団きゅうだんとのあいだにも確執かくしつしょうじた[7]。シーズンちゅうには、「1ばん三塁手さんるいしゅ」として3わりちか打率だりつ(.298)や、リーグ最多さいたの34二塁打にるいだをマーク。シーズン終了しゅうりょうには契約けいやく更改こうかい日取ひどりがまらないまま、12月中旬ちゅうじゅん球団きゅうだん代表だいひょう箟重けいから突如とつじょされたあげく、阪神はんしんタイガースへのトレードを通告つうこくされた。松永まつなが引退いんたいかしたところによれば、阪神はんしん主力しゅりょく投手とうしゅだった野田のだ浩司こうじとの交換こうかんトレードであったため、「(トレード通告つうこくを)ことわれば野田のだが(阪神はんしんに)づらくなるので、(通告つうこくを)けるしかない」とかんがえたすえにトレードを受諾じゅだくしたとのことである[10][11]

なお、オリックス時代じだいには選手せんしゅ会長かいちょう歴任れきにん在任ざいにんちゅうには、1976ねんからメジャーリーグベースボール (MLB)導入どうにゅうされているフリーエージェント(FA)制度せいどをNPBでも採用さいようすることを、日本にっぽんプロ野球やきゅう選手せんしゅかい総会そうかい提案ていあんした。提案ていあんさいしては、(1989ねんから福岡ふくおかダイエーホークス本拠地ほんきょちかまえていた)地元じもと福岡ふくおかでのプレーも視野しやいていたとのことで、NPBで1993ねんにFA制度せいど導入どうにゅうされると最初さいしょにFAけん行使こうししている(詳細しょうさい後述こうじゅつ)。

阪神はんしん時代じだい

編集へんしゅう

オリックスからの移籍いせき当初とうしょは、監督かんとく中村なかむら勝広かつひろから「これ以上いじょうないたのもしい選手せんしゅ球団きゅうだん悲願ひがんであるセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝ゆうしょうけて活躍かつやく期待きたいする」という賛辞さんじおくられていて、背番号せばんごう2着用ちゃくよう松永まつなが本人ほんにんも「優勝ゆうしょうのために全力ぜんりょくくす」と宣言せんげんしていた[11]

1993ねんには、4がつ10日とおか中日ちゅうにちドラゴンズとのレギュラーシーズン開幕かいまくせんで「3ばん三塁手さんるいしゅ」としてスタメンに起用きようされると、5打数だすう5安打あんだ2打点だてんをマーク。よく11にちどうカードだい1打席だせきまで、6打席だせき連続れんぞく安打あんだ記録きろくした[12]。しかし、開幕かいまく3せんであった4がつ13にちたいヤクルトスワローズたたかえ阪神はんしん甲子園こうしえん球場きゅうじょう)で試合しあいちゅう故障こしょう。5月にいったん復帰ふっきしたものの、1かげつから2度目どめ長期ちょうき離脱りだつ余儀よぎなくされた。このように故障こしょう相次あいついだことや、自身じしんおなじスイッチヒッターで1991ねんから阪神はんしん背番号せばんごう2をけていた高橋たかはし慶彦よしひこ故障こしょうによって前年ぜんねん(1992ねん)に現役げんえき引退いんたいしていたことから、松永まつながは「背番号せばんごう2では縁起えんぎわるい」として背番号せばんごう変更へんこう検討けんとう。「自分じぶんおに(オニ=02)のようにつよくしたい」との理由りゆうで、シーズンの途中とちゅうから背番号せばんごう02変更へんこうした。NPBの公式こうしきせん出場しゅつじょうした選手せんしゅのうち、0ばんと00ばん以外いがいに0ではじまる背番号せばんごう登録とうろくされた選手せんしゅは、現在げんざいまで松永まつながだけである[ちゅう 4]オールスターゲーム直後ちょくごから戦線せんせんふたたもどると、8がつ後半こうはんには3試合しあい連続れんぞく先頭せんとう打者だしゃ本塁打ほんるいだ世界せかいプロ野球やきゅう公式こうしき戦記せんきろく樹立じゅりつ一軍いちぐん公式こうしきせん通算つうさんでは、80試合しあい出場しゅつじょうで3わりちか打率だりつ(.294)を記録きろくした。本塁打ほんるいだは8ほん[11]どまりで、阪急はんきゅう一軍いちぐんへのデビューをたした1981ねん以来いらい12ねんりに、一軍いちぐん公式こうしきせんでのシーズン最終さいしゅう規定きてい打席だせき到達とうたつできなかった。前年ぜんねんにヤクルトとの熾烈しれつ優勝ゆうしょうあらそいのすえに2はいっていたチームも、ヤクルトのリーグ2連覇れんぱゆるしたばかりか、4でシーズンをえている。

その一方いっぽうで、ぐんウエスタン・リーグ)で調整ちょうせいしていた夏場なつばには、前年ぜんねんドラフト1入団にゅうだんしたばかりの萩原はぎはらまことたいして「おれはもう来年らいねん阪神はんしんに)いないから、おまえはしっかり三塁さんるい練習れんしゅうしておけよ」といいのこしていたという[13]結局けっきょく、シーズン終了しゅうりょうの11月に、自身じしん提案ていあんからNPBへ導入どうにゅうされたばかりのFAけん行使こうしすることを宣言せんげん。そのさいに、シーズンちゅう阪神はんしん甲子園こうしえん球場きゅうじょうのグラウンドキーパーとわしたやりりが、一部いちぶのメディアで「甲子園こうしえん幼稚園ようちえん砂場すなば』との暴言ぼうげんいていた」とほうじられたことで物議ぶつぎかもした。松永まつなが自身じしんは、「グラウンドキーパーが内野ないやグラウンドの整備せいびかんする要望ようぼういてきたさいに、『内野ないや幼稚園ようちえん砂場すなばくらいにやわらかくしたほういか?』と質問しつもんされたことが、自分じぶん関知かんちしないところであやまってひろまった」として、報道ほうどう内容ないようこうから否定ひていしている(詳細しょうさい後述こうじゅつ)。

実際じっさいには、NPBがさだめるFAけん行使こうし宣言せんげん期間きかんちゅうに、阪神球団はんしんきゅうだんとのあいだ残留ざんりゅうけて交渉こうしょう。その一方いっぽうで、西武せいぶライオンズからの獲得かくとく交渉こうしょうのぞんでいたほか、球団きゅうだんからも獲得かくとく打診だしんされていた。11月28にち福岡ふくおかダイエーホークスからの獲得かくとく交渉こうしょうのぞんだところ、同席どうせきしていた根本ねもと陸夫むつお監督かんとく当時とうじ)からの熱心ねっしんうったえかけにおうじる格好かっこう入団にゅうだん即答そくとう。NPB史上しじょうはじめて、FAけん行使こうしによる球団きゅうだんへの移籍いせきいたった[14]

福岡ふくおかダイエー時代じだい

編集へんしゅう

移籍いせき直後ちょくごからチームリーダーをつと[15]移籍いせき初年度しょねんど1994ねん2がつ高知こうち春季しゅんきキャンプでは根本こんぽん監督かんとくから「チームの現状げんじょう正直しょうじきってほしい」とわれ、「このチームのキャンプはあそびだ。つことをかんがえていないし、ミスすることを前提ぜんていにプレーしている」と指摘してき[ちゅう 5]した[17]。また、そく戦力せんりょくとして期待きたいされていた新人しんじん小久保こくぼ裕紀ゆうき[ちゅう 6]にも「このチームはあまい。もとからいる選手せんしゅたちの気質きしつまったらけるぞ。つよくなければてない」とつたえていた[18]。7月16にち西武せいぶせんでは新谷しんたにひろしからサヨナラ本塁打ほんるいだはなった。どうシーズンは打率だりつ.314(パ・リーグ4)・OPS.813と結果けっかのこし、秋山あきやま幸二こうじ[ちゅう 7]とともにわかいチームを牽引けんいんした[7]松永まつなが本人ほんにん同年どうねんかえり、「いろいろな意味いみ達成たっせいかんがあり、自分じぶん野球やきゅう人生じんせい一番いちばん充実じゅうじつしていたとしだった。『これでこのチームがいきおいにってくれたらいいな』というおもいはあった。自分じぶんを(ダイエーに)さそった根本ねもとさんとの歴史れきしあさかったが、もっとおもい」と回顧かいこしている[19]

監督かんとくおう貞治さだはる交代こうたいしたよく1995ねん[19]前年ぜんねんつづき2ねん連続れんぞくオールスターゲーム出場しゅつじょう。しかし同年どうねん以降いこう急激きゅうげき成績せいせき低下ていか[7]1996ねん契約けいやく更改こうかいではみずから6500まんダウンをもうれた。1997ねん自由じゆう契約けいやくもうれ、球団きゅうだんがわ戦力せんりょくがい判断はんだんしたことから容認ようにんされた。このときには「解説かいせつしゃ仕事しごと空席くうせきた」と、引退いんたい仕事しごと保証ほしょうするはなしたが、その解説かいせつしゃ前任ぜんにん杉浦すぎうらただしであることをり「球界きゅうかい功労こうろうしゃ定年ていねん逆手さかてるような不実ふじつはできない」と固辞こじしている[7]

プロでは打率だりつ3わり通算つうさん7かいサイクル安打あんだ通算つうさん2かい記録きろくした[7]。1996ねん4がつ27にち西武せいぶ3回戦かいせん西武せいぶ球場きゅうじょう)で新谷しんたにひろしから通算つうさん200本塁打ほんるいだ(プロ野球やきゅう史上しじょう66にん)。同時どうじぜん打順だじゅん本塁打ほんるいだ達成たっせいしている(史上しじょう2にん)。

ダイエーからの退団たいだんも、MLBでの現役げんえき続行ぞっこう目標もくひょうに、オークランド・アスレチックス入団にゅうだんテストへ参加さんか。プレシーズンゲームに出場しゅつじょうするが、27打席だせき安打あんだるわなかったことから、現役げんえきからの引退いんたいめた。この入団にゅうだんテスト受験じゅけん当時とうじこそ本気ほんきだったが、後年こうねんには「現役げんえき生活せいかつ見切みきりをつけるためのセレモニー」と発言はつげんしている[7]

現役げんえき引退いんたい

編集へんしゅう

2006ねん6がつ埼玉さいたまけん三郷みさとに「松永まつなが浩美ひろみベースボールアカデミー」を設立せつりつした。阪神はんしん時代じだい後輩こうはいにあたる鮎川あいかわ義文よしふみ[ちゅう 8]と、もとヤクルト投手とうしゅ矢野やの和哉かずやともに、小・中学生しょうちゅうがくせい対象たいしょうとした指導しどう開始かいしした。別冊べっさつ宝島たからじまのインタビューで本人ほんにんは「プロの選手せんしゅ完成かんせいされているから、興味きょうみがない。プロとしてのプライドもあるだろうし。それよりも無限むげん可能かのうせいのある少年しょうねんほうがいい」とべた。

松永まつなが現役げんえき1,904ほんのヒットをはなち、2,000ほん安打あんだ達成たっせい目前もくぜんでの引退いんたいとなった。名球会めいきゅうかいへの入会にゅうかい資格しかくたっしていなかったが、プロ野球やきゅうマスターズリーグおこなわれていた2007ねんまでは、マスターズリーグでの記録きろくがNPB通算つうさん記録きろく合算がっさんされ、入会にゅうかい資格しかくれば「名誉めいよ会員かいいん」として会員かいいんじゅんずるあつかいをされると規定きていされていた。実際じっさい、マスターズリーグで99安打あんだ記録きろくしNPBと合算がっさんして通算つうさん2,003安打あんだとなった松永まつなが浩美ひろみ2006ねん名誉めいよ会員かいいんとして表彰ひょうしょうされ、この当時とうじ名球会めいきゅうかい入会にゅうかいとされていたが、2009ねんのマスターズリーグ中断ちゅうだんや、名球会めいきゅうかい改組かいそとうによりのちにこの規定きてい松永まつなが入会にゅうかい有耶無耶うやむやになっており、現在げんざい松永まつなが名球会めいきゅうかい名誉めいよ会員かいいんおよ名球会めいきゅうかい加入かにゅうは、名球会めいきゅうかい公式こうしきホームページじょううたわれていない。

2010ねん12月7にち野球やきゅう殿堂でんどうはい候補者こうほしゃ名簿めいぼ・プレーヤー部門ぶもん掲載けいさいされた。

2014ねんよりBCリーグ群馬ぐんまダイヤモンドペガサス野手やしゅ総合そうごう特別とくべつコーチに就任しゅうにん2015ねん2がつ任期にんき満了まんりょうともな退団たいだんしたのちは、ゆめグループ川越かわごえ主催しゅさいする野球やきゅうじゅく塾長じゅくちょうとして、鮎川あゆかわなどととも小中学生しょうちゅうがくせい対象たいしょうとした後進こうしん指導しどうたっていた。

2018ねん6がつからは、つまや3にんどもととも鹿児島かごしま県内けんない移住いじゅう移住いじゅうは、みなみ九州きゅうしゅう拠点きょてん野球やきゅう教室きょうしつでの指導しどうつづけるかたわら、文部もんぶ科学かがくしょうからの要請ようせい教育きょういく現場げんばでの特別とくべつ講師こうしつとめる。また、ブログTwitterInstagramつうじて、情報じょうほうやメッセージを積極せっきょくてき発信はっしん2019ねん2がつ23にちには、58さいにして4にんども(女児じょじ)をさずかった。

2019ねん8がつYouTubeチャンネル『松永まつなが浩美ひろみ野球やきゅうじゅくおし37にん甲子園こうしえん出場しゅつじょう』を開設かいせつYouTuberデビューをたした[20]

2019ねん11月、鹿児島かごしま社会しゃかいじん硬式こうしき野球やきゅうクラブチーム「薩摩さつまライジング」チームアドバイザーに就任しゅうにん

「FA騒動そうどう」の経緯けいい

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概要がいよう

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松永まつながは、阪神はんしんへのトレードが決定けっていしたさい記者きしゃ会見かいけんでは、「トレードを意気いきかんじている」、「中村なかむら勝広かつひろ監督かんとくおとこにしてみせる。おれ義理堅ぎりがたおとこだよ」などとあつ口調くちょう決意けついべ、その姿すがたに、強力きょうりょくな3ばんバッターをのぞ阪神はんしんファンの期待きたいたかまる一方いっぽうであった。開幕かいまくまえ過熱かねつりはまさに「松永まつながフィーバー」ともうべきがりをせ、関連かんれんグッズの数量すうりょう選手せんしゅをはるかにえるもので、開幕かいまくせんで5打数だすう5安打あんだ記録きろくすると、その過熱かねつぶりは頂点ちょうてんたっした。しかし、開幕かいまく3せん故障こしょう離脱りだつとなり、結果けっかてき前年ぜんねんシーズンと同等どうとう成績せいせきおさめたが、シーズンオフにFAけん行使こうししてダイエーへ移籍いせきした。松永まつながのFA宣言せんげん日本にっぽん球界きゅうかいはつのものでもあり、全国ぜんこくてき注目ちゅうもくあつめる話題わだいとなった。

FA宣言せんげんしたのち、11月後半こうはん球団きゅうだん先立さきだって阪神はんしん残留ざんりゅう交渉こうしょうおこなったが、FA交渉こうしょうにもかかわらず球団きゅうだんがわから600まんえんのダウン提示ていじと「松永まつながくん、キミとはえんかったんだよ」と阪神はんしんがわから松永まつながはな発言はつげんがあり、そのダイエーと交渉こうしょう移籍いせきいたった[21]

松永まつながはFA移籍いせきについて「たんなる通過つうかてんぎない」「阪神はんしんとはえんかったということ」などと、阪神はんしんファンはな発言はつげんこたえたほか、自宅じたくまえ報道陣ほうどうじんに「阪神はんしんファンへのメッセージはないのか?」とわれ、これに反発はんぱつした様子ようすで「なにもないね!」とこたえており、そのような姿すがたフジテレビの『プロ野球やきゅうニュース』をはじめ、各局かくきょくのニュース映像えいぞうながされた。これにたいし、シーズンでの松永まつなが活躍かつやく期待きたいしていた阪神はんしんファンから、球団きゅうだん関係かんけいマスコミにその真意しんいもとめるわせや批判ひはん殺到さっとうすることとなった。さらにこの過熱かねつ報道ほうどう渦中かちゅうに、「松永まつながが『甲子園こうしえん幼稚園ようちえん砂場すなば』と発言はつげんした」との報道ほうどうながれた。

そもそもFA制度せいど日本にっぽん球界きゅうかい導入どうにゅうされたのは、選手せんしゅかいにおいて松永まつなが提案ていあんしたことがはじまり。松永まつなが自身じしんへのインタビュー[22]によると、そのきっかけは1988ねんのドラフト最大さいだい目玉めだまだった慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく志村しむらあきら指名しめい拒否きょひ騒動そうどうだったという。ドラフトがいから入団にゅうだんし、練習れんしゅうせいからがった松永まつながにとって、ドラフト指名しめい拒否きょひするもの登場とうじょう衝撃しょうげきてきで「そこまでプロ野球やきゅうゆめがなくなってしまったのか」という危機ききかんから、当時とうじ労働ろうどう組合くみあい事務じむ局長きょくちょう相談そうだんうえ選手せんしゅかい総会そうかいにてFA制度せいど導入どうにゅう提案ていあんしたという。同時どうじに「出身しゅっしんである福岡ふくおかでプレーすることもあたまにあった」ともかたっている。

砂場すなば発言はつげん

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松永まつなが自身じしんは、「『甲子園こうしえん幼稚園ようちえん砂場すなば』という暴言ぼうげんいた」とされる報道ほうどうを、以下いか経緯けいいからかえ批判ひはんしている。

松永まつなが移籍いせきした時期じき(1990年代ねんだい前半ぜんはん)の阪神はんしんには、盗塁とうるい得意とくい野手やしゅや、長打ちょうだりょくすぐれた野手やしゅすくなかった。さらに、投手とうしゅじん防御ぼうぎょりつ全般ぜんぱんわるかったため、対戦たいせん相手あいてのチームの攻撃こうげきりょくぐことに腐心ふしん本拠地ほんきょち阪神はんしん甲子園こうしえん球場きゅうじょうでは、かつてのせい遊撃手ゆうげきしゅだった平田ひらた勝男かつおからの要望ようぼうで、内野ないやのフェアグラウンドに使用しようしているやわらかくなるように整備せいびしていた。

阪神はんしんでは、このような整備せいびつうじて、相手あいて打者だしゃはなった安打あんだせい打球だきゅういきおいをよわめることや、相手あいて走者そうしゃのダッシュがかないようにすることを目論もくろんでいたとされている。これにたいして、阪急はんきゅう・オリックス時代じだいのパ・リーグ公式こうしきせんでシーズン2けた盗塁とうるい常連じょうれんだった松永まつながは、まえ俊足しゅんそくかしやすいかためのこのんでいた。阪神はんしんへの移籍いせき甲子園こうしえん球場きゅうじょうやわらかいことをると、平田ひらたからせい遊撃手ゆうげきしゅいだばかりの久慈くじあきらよしみ相談そうだん安打あんだなどで一塁いちるい機会きかいおおいことを背景はいけいに、阪神はんしん園芸えんげいのグラウンドキーパーにたいして、「一塁いちるいベースからのランニングエリアのかたくしてしい」との要望ようぼうした。グラウンドキーパーが「平田ひらたからの要望ようぼうやわらかくしている」とこたえたことから、松永まつながは「試合しあいないひとすでにレギュラーからはずれていたベテランの平田ひらた)の要望ようぼういてどうするの? やわらかすぎてすべるんだよ」とつたえたところ、グラウンドキーパーが「幼稚園ようちえん砂場すなばくらい(にやわらかくすればい)か?」と松永まつなが質問しつもん松永まつながによれば、自分じぶんはこの質問しつもんたいして「いや、そんなには(やわらかくしなくてもい)」とこたえただけで、砂場すなば云々うんぬんとまではっていない」という。

ところが、松永まつなががFAけん行使こうし宣言せんげんした直後ちょくごに、以上いじょうのやりりが「『甲子園こうしえん幼稚園ようちえん砂場すなば』と発言はつげんした」として一部いちぶ報道ほうどう松永まつながのパブリックイメージをさらにそこなうとともに、阪急はんきゅう時代じだいからいていたスポーツメディアへの不信ふしんかんすことにつながった[23]松永まつながによれば、この報道ほうどう前後ぜんごにもおぼえのないコメントが「滞在たいざいさきのホテルで記者きしゃからの質問しつもんこたえた」としてスポーツ連日れんじつ掲載けいさいされていたため、「これはどういうことなんだ?」との疑問ぎもんとともにスポーツメディアへの恐怖きょうふかんおぼえていたという[23][22]前述ぜんじゅつしたように、当時とうじ阪神はんしんファンをはなすかのような発言はつげんでファンの反感はんかんっていたため、友人ゆうじんから「阪神はんしんファン(の心情しんじょう)を逆撫さかなでするようなことを(おおやけで)わないほうがいい」とのアドバイスをけていた。さらに、つま実家じっかかえらせたうえで、自身じしんは1ヶ月かげつにわたってホテルへ宿泊しゅくはく。そのあいだに、記者きしゃまったわなかったことを引退いんたい断言だんげんしている。

ちなみに、甲子園こうしえん球場きゅうじょう内野ないやグラウンドのは、松永まつなが上回うわまわ俊足しゅんそくぬしであった赤星あかほしけんひろ阪神はんしん入団にゅうだんした2001ねんごろからかために整備せいびされている。また、松永まつなが自身じしん引退いんたいに、新聞しんぶん雑誌ざっし中心ちゅうしん各種かくしゅメディアの単独たんどくインタビューへたびたび登場とうじょう現役げんえき時代じだい報道ほうどうたいする弁明べんめい否定ひていかえ一方いっぽうで、「自分じぶんには言葉ことば説明せつめいりないところがある」と自覚じかくしていることや、現役げんえき時代じだい本当ほんとう自分じぶんと「プロ野球やきゅう選手せんしゅ松永まつなが浩美ひろみ」とのあいだ一線いっせんいたうえで「みんながおもっている『松永まつなが浩美ひろみ』」をえんじていたことなどをかしている。本人ほんにんによれば、「引退いんたいしてから取材しゅざいするひとはみんな、『(いたいことを物怖ものおじせずにいいき[7]現役げんえき時代じだいのパブリック)イメージと全然ぜんぜんちがう』とっている」とのことである[24]

詳細しょうさい情報じょうほう

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年度ねんどべつ打撃だげき成績せいせき

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とし

たま

だん
ためし

ごう


せき


かず
とく

てん
やす


るい
さん
るい
ほん
るい
るい



てん
ぬすめ

るい
ぬすめ
るい




よん

たま
けい

とお


たま
さん


ころせ


りつ

るい
りつ
なが

りつ
O
P
S
1981 阪急はんきゅう
オリックス
73 105 92 15 30 1 1 2 39 15 4 3 1 0 8 0 4 10 4 .326 .404 .424 .828
1982 128 451 398 58 94 13 4 12 151 44 21 6 11 1 37 2 4 57 9 .236 .307 .379 .686
1983 122 493 427 58 120 23 7 21 220 74 20 13 5 5 49 1 7 40 9 .281 .361 .515 .876
1984 125 525 458 84 142 24 6 19 235 70 21 5 4 3 55 3 5 57 10 .310 .388 .513 .901
1985 130 572 481 94 154 26 1 26 260 87 38 12 1 3 81 6 6 70 8 .320 .422 .541 .963
1986 130 567 492 80 148 31 3 19 242 75 20 9 1 1 70 7 3 88 15 .301 .390 .492 .882
1987 114 444 393 59 114 22 2 11 173 45 9 4 2 1 45 1 3 64 12 .290 .367 .440 .807
1988 130 551 473 78 154 27 3 16 235 77 11 4 0 5 72 16 1 52 13 .326 .412 .497 .909
1989 124 573 470 106 145 30 3 17 232 60 14 6 2 0 96 12 5 78 8 .309 .431 .494 .924
1990 128 602 518 103 147 26 4 21 244 70 26 8 1 2 78 8 3 120 10 .284 .379 .471 .850
1991 130 568 484 74 152 22 10 13 233 76 20 4 1 6 75 4 2 81 11 .314 .404 .481 .885
1992 118 540 473 72 141 34 4 3 192 39 15 6 2 2 62 7 1 70 3 .298 .379 .406 .785
1993 阪神はんしん 80 340 303 51 89 16 0 8 129 31 3 2 0 4 31 2 1 70 5 .294 .357 .426 .783
1994 ダイエー 116 541 477 74 150 20 4 8 202 55 8 7 2 2 60 2 0 73 5 .314 .390 .423 .813
1995 87 363 320 28 76 13 2 3 102 21 5 3 3 1 38 0 1 61 6 .238 .319 .319 .638
1996 66 236 207 19 45 12 1 3 68 13 3 1 5 2 21 0 1 48 3 .217 .290 .329 .619
1997 15 34 24 6 3 1 0 1 7 3 1 1 2 0 8 0 0 7 0 .125 .344 .292 .635
通算つうさん:17ねん 1816 7505 6490 1059 1904 341 55 203 2964 855 239 94 43 38 886 71 47 1046 131 .293 .380 .457 .837
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう
  • 阪急はんきゅう阪急はんきゅうブレーブス)は、1989ねんにオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団きゅうだんめい変更へんこう

表彰ひょうしょう

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はつ記録きろく
節目ふしめ記録きろく
その記録きろく
  • サイクル安打あんだ:2かい
    1. 1982ねん10がつ8にちたい南海なんかいホークス後期こうき13回戦かいせん阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう
    2. 1991ねん5がつ24にちたいロッテオリオンズ6回戦かいせんグリぐりンスタジアム神戸んすたじあむこうべ
  • 3試合しあい連続れんぞく初回しょかい先頭せんとう打者だしゃ本塁打ほんるいだ:1993ねん8がつ20日はつか - 8がつ22にち史上しじょう最長さいちょう
  • 11打席だせき連続れんぞく四球しきゅう:1988ねん10がつ22にち - 10月23にち史上しじょう最長さいちょう[25]
  • 13打席だせき連続れんぞく出塁しゅつるい:1988ねん10がつ22にち - 10月23にち[25]
  • ぜん打順だじゅん本塁打ほんるいだ:1996ねん4がつ27にちたい西武せいぶライオンズ3回戦かいせん西武せいぶライオンズ球場きゅうじょう)、8かいひょう新谷しんたにひろしから ※史上しじょう2にん[26]
  • 左右さゆう打席だせき本塁打ほんるいだ史上しじょう6にん日本人にっぽんじん選手せんしゅはつ)、6歴代れきだい2(1フェルナンド・セギノールの9
  日付ひづけ 対戦たいせん球団きゅうだん 球場きゅうじょう かい 打席だせき 相手あいて投手とうしゅ かい 打席だせき 相手あいて投手とうしゅ
1 1982ねん5がつ15にち 日本にほんハム前期ぜんき5回戦かいせん 阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう 6かいうら ひだり 工藤くどう幹夫みきお 9かいうら みぎ 江夏えなつゆたか
2 1983ねん9がつ23にち 南海なんかい21回戦かいせん 阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう 3かいうら みぎ 竹口たけぐちあきらはん 5かいうら ひだり 矢野やのみのる
3 1985ねん4がつ13にち 近鉄きんてつ1回戦かいせん 藤井寺ふじいでら球場きゅうじょう 2かいひょう みぎ 村田むらた辰美たつみ 8かいひょう ひだり 高橋たかはし里志さとし
4 1987ねん10がつ15にち 日本にほんハム25回戦かいせん 阪急はんきゅう西宮にしのみや球場きゅうじょう 2かいうら みぎ 河野こうの博文ひろぶみ 9かいうら ひだり 松浦まつうら宏明ひろあき
5 1990ねん5がつ9にち ロッテオリオンズ3回戦かいせん 川崎球場かわさききゅうじょう 2かいひょう ひだり 平沼ひらぬまじょうはれ 9かいひょう みぎ 今野こんの隆裕たかひろ
6 1990ねん8がつ12にち 福岡ふくおかダイエー20回戦かいせん 山形やまがたけん野球やきゅうじょう 1かいうら みぎ 濱中はまなか英次えいじ 5かいうら ひだり 高島たかしまさとし
  • オールスターゲーム出場しゅつじょう:11かい(1983ねん - 1986ねん、1988ねん - 1992ねん、1994ねん、1995ねん

背番号せばんごう

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  • 87(1978ねん
  • 48(1979ねん - 1982ねん
  • 8(1983ねん - 1992ねん
  • 2(1993ねん - 同年どうねん6がつ28にち
  • 02(1993ねん6がつ29にち - 同年どうねん終了しゅうりょう
  • 3(1994ねん - 1997ねん
  • 87(2014ねん

出演しゅつえん

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  • ダイヤモンド(ライツキューブ、2013ねん8がつ3にち公開こうかい[27]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 田島たじまも、卒業そつぎょう門司もじ鉄道てつどう管理かんりきょくて、1981ねんのドラフト会議かいぎ6指名しめい外野がいやしゅとして阪急はんきゅう入団にゅうだん。1982ねんから松永まつながふたたびチームメイトになったが、一軍いちぐん公式こうしきせん3試合しあい出場しゅつじょうしただけで1988ねん現役げんえき引退いんたいした。
  2. ^ 上田うえだは、一軍いちぐんのレギュラーだった大橋おおはしみのる遊撃手ゆうげきしゅ)・島谷しまたに金二きんじ三塁手さんるいしゅ)とも30さいぎていたことを背景はいけいに、次代じだい内野ないやじんになえる若手わかて選手せんしゅ台頭たいとうもとめていた。松永まつながには高校こうこう時代じだいまで内野ないやまもった経験けいけんがなかったため、春季しゅんきキャンプの後半こうはんには、一軍いちぐん内野ないや守備しゅびコーチ(当時とうじ)の山本やまもと忠男ただおぐん松永まつなが守備しゅび指導しどうたらせている。
  3. ^ 現役げんえき引退いんたいの2007ねんフェルナンド・セギノール日本にほんハム)が通算つうさん7かい左右さゆう打席だせき本塁打ほんるいだ(NPB最多さいた記録きろく)を達成たっせいしたものの、日本人にっぽんじんのスイッチヒッターとしては、2020ねんシーズン終了しゅうりょう時点じてん松永まつなが最多さいた記録きろく保持ほじしている。
  4. ^ ただし、オレステス・デストラーデが、ユニフォームをわすれてチームスタッフの背番号せばんごう05のユニフォームをりて試合しあいたことはある。また、広島東洋ひろしまとうようカープではカープアカデミーから支配しはい登録とうろくした選手せんしゅが、練習れんしゅうせい時代じだいからの100番台ばんだい背番号せばんごうのまま出場しゅつじょうした事例じれいがあるほか、シーズンちゅう支配しはい登録とうろく変更へんこうされた育成いくせい契約けいやく選手せんしゅが、ユニフォームの準備じゅんびわないため、3けた背番号せばんごうのまま1ぐん公式こうしきせん出場しゅつじょうたした事例じれいほかにも複数ふくすうあるが(読売よみうりジャイアンツ田中たなか豊樹とよき東京とうきょうヤクルトスワローズ小澤おざわれい福岡ふくおかソフトバンクホークス黒瀬くろせ健太けんたなど)、原則げんそくてき支配しはい登録とうろく選手せんしゅは00・0 - 99ばん以外いがい背番号せばんごう着用ちゃくようできない。
  5. ^ 1993ねんのダイエーぜん監督かんとく田淵たぶち幸一こういち解任かいにんされ(前年度ぜんねんどは4)、根本こんぽん監督かんとく就任しゅうにんしたが、前年ぜんねんとほとんど戦力せんりょくえずにのぞんだシーズンは借金しゃっきん35・しょうりつ.360と低迷ていめい優勝ゆうしょうした西武せいぶと28ゲーム)し、15ねん連続れんぞくBクラスとなる最下位さいかい低迷ていめいしていたため、オフに秋山あきやま小久保こくぼなど大幅おおはば戦力せんりょく補強ほきょうおこなった[16]根本こんぽん秋山あきやま松永まつながといったベテラン選手せんしゅ球団きゅうだんから補強ほきょうした背景はいけいには、選手せんしゅたちの意識いしきえるためパ・リーグの強豪きょうごう球団きゅうだんだった阪急はんきゅう西武せいぶ野球やきゅうれる意図いとがあった[15]
  6. ^ 1993年度ねんどのドラフト会議かいぎ青山学院大学あおやまがくいんだいがく硬式こうしき野球やきゅうから2指名しめいいれだん[16]
  7. ^ 1993ねんオフに渡辺わたなべ智男ともお内山うちやま智之としゆきとともに、佐々木ささきまこと村田むらた勝喜かつよし橋本はしもと武広たけひろとの3たい3のトレードで西武せいぶライオンズから移籍いせき[16]
  8. ^ 鮎川あいかわは1993ねん怪我けが離脱りだつしていた松永まつながわり三塁手さんるいしゅおもまもっていた。

出典しゅってん

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  1. ^ 阪急はんきゅうブレーブス黄金おうごん歴史れきし [永久えいきゅう保存ほぞんばん] よみがえる勇者ゆうしゃ記憶きおく 1936-1988、スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、2011ねん、P78
  2. ^ おれたちのパシフィック・リーグ 阪急はんきゅうブレーブス80'S』(スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、2021ねん6がつ)「『10・23の衝撃しょうげき』の真実しんじつ 松永まつなが浩美ひろみ」p.74
  3. ^ a b c d スポーツニッポン』2020ねん12月7にちづけ連載れんさい記事きじみち 松永まつなが浩美ひろみだい7かい)」より
  4. ^ a b c スポーツニッポン』2020ねん12月9にちづけ連載れんさい記事きじみち 松永まつなが浩美ひろみだい9かい)」より
  5. ^ a b 「『10・23の衝撃しょうげき』の真実しんじつ 松永まつなが浩美ひろみ」p.76
  6. ^ スポーツニッポン』2020ねん12月11にちづけ連載れんさい記事きじみち 松永まつなが浩美ひろみだい11かい)」より
  7. ^ a b c d e f g h i 美山みやま 2009, p. 21.
  8. ^ 「『10・23の衝撃しょうげき』の真実しんじつ 松永まつなが浩美ひろみ」p.77
  9. ^ 美山みやま 2009, pp. 20–21.
  10. ^ a b c スポーツニッポン』2020ねん12月25にちづけ連載れんさい記事きじみち 松永まつなが浩美ひろみだい24かい)」より
  11. ^ a b c 【トレード物語ものがたり20】阪神はんしん大損おおそんしたトレード【1992ねん」『週刊しゅうかんベースボールスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、2017ねん11月30にち2020ねん8がつ15にち閲覧えつらんオリジナルの2020ねん8がつ15にち時点じてんにおけるアーカイブ。
  12. ^ 上田うえだ雅昭まさあき編集へんしゅう委員いいん)「平成へいせいとらかられいとらへ】阪神はんしんの「暗黒あんこく時代じだい」は「平成へいせい」とともにはじまった(4/4ページ)」『SANSPO.COM産業経済新聞社さんぎょうけいざいしんぶんしゃ、2019ねん4がつ2にち、4めん2020ねん8がつ15にち閲覧えつらんオリジナルの2020ねん8がつ15にち時点じてんにおけるアーカイブ。
  13. ^ 美山みやま 2009, p. 20.
  14. ^ 高橋たかはし安幸やすゆき松永まつなが浩美ひろみから小久保こくぼ裕紀ゆうき内川うちかわ聖一せいいちへ。 根本ねもと陸夫むつお仕組しくんだリーダー継承けいしょう」『Sportiva集英社しゅうえいしゃ、2020ねん6がつ9にち、1めん2020ねん8がつ15にち閲覧えつらんオリジナルの2020ねん8がつ15にち時点じてんにおけるアーカイブ。
  15. ^ a b 高橋たかはし安幸やすゆき松永まつなが浩美ひろみから小久保こくぼ裕紀ゆうき内川うちかわ聖一せいいちへ。 根本ねもと陸夫むつお仕組しくんだリーダー継承けいしょう」『Sportiva』集英社しゅうえいしゃ、2020ねん6がつ9にち、4めん2020ねん8がつ15にち閲覧えつらんオリジナルの2020ねん8がつ15にち時点じてんにおけるアーカイブ。
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 「プロ野球やきゅう 最後さいごのサムライ」(斉藤さいとう直隆なおたかコアマガジン、2005ねん ISBN 4877348190
  • 美山みやま和也かずや ちょ「FILE.01 松永まつなが浩美ひろみ阪神はんしん福岡ふくおかダイエー】 史上しじょう最強さいきょうのスイッチヒッターの本心ほんしんは?」、梨本なしもとたかしほう へん『プロ野球やきゅう FA宣言せんげん天国てんごく地獄じごく」』(発行はっこうよういずみしゃよういずみしゃMOOK〉、2009ねん12月24にち、20-21ぺーじISBN 978-4862484888 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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