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永井隆 (医学博士) - Wikipedia

永井ながいたかし (医学いがく博士はかせ)

日本にっぽん医師いし随筆ずいひつ

永井ながい たかし(ながい たかし、1908ねん明治めいじ41ねん2がつ3にち - 1951ねん昭和しょうわ25ねん5月1にち)は、日本にっぽん医学いがく博士はかせ随筆ずいひつ。『長崎ながさきかね』や『こののこしてとう著書ちょしょがある。

永井ながい たかし
1946ねん
生誕せいたん 1908ねん2がつ3にち
日本の旗 日本にっぽん
島根しまねけん松江まつえ
死没しぼつ (1951-05-01) 1951ねん5月1にち(43さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん
長崎ながさきけん長崎ながさき
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
研究けんきゅう機関きかん 長崎ながさき医科いか大学だいがく
出身しゅっしんこう 長崎ながさき医科いか大学だいがく
プロジェクト:人物じんぶつでん
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永井ながいたかし
教会きょうかい カトリック教会きょうかい
洗礼せんれいめい パウロ三木みき
受洗じゅせん 1934ねん6がつ
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生涯しょうがい

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1908ねん明治めいじ41ねん2がつ3にち島根しまねけん松江まつえにて、医師いしであったちちひろしはは・ツネの長男ちょうなん(5にんきょうだい)として誕生たんじょう。おさんときあたまおおきくて産道さんどうっかかったままだったので、医者いしゃ胎児たいじってそとそうとしたが、ははつよ反対はんたいして医者いしゃかえってからなんあいだかしてようやくまれた[1]漢方かんぽうであった祖父そふ文隆ふみたかより1さずかりたかし命名めいめい[2]同年どうねんあきにはちち医院いいん開業かいぎょうのため、一家いっか飯石いいしぐん飯石いいしむらげん雲南うんなん三刀屋みとやまち)にうつんだ[2]

1920ねん大正たいしょう9ねん飯石いいし小学校しょうがっこう優等ゆうとう卒業そつぎょうしてぐんちょうしょうをもらったが、島根しまね県立けんりつ松江まつえ中学校ちゅうがっこう補欠ほけつの3番目ばんめでようやく入学にゅうがくみとめられた[3]県立けんりつ松江まつえ中学校ちゅうがっこうでは5年生ねんせいとき級長きゅうちょうとなり、当時とうじ摂政せっしょうみやであった昭和しょうわ天皇てんのう全校ぜんこう生徒せいと先頭せんとうってむかえた[4]運動うんどう苦手にがてで、運動会うんどうかい徒競走ときょうそうはいつもビリから2番目ばんめだったと回想かいそうしている[5]

1925ねん大正たいしょう14ねん)、松江まつえ中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょうして松江まつえ高等こうとう学校がっこう理科りかおつるい入学にゅうがく当時とうじ高校こうこうドイツ教師きょうしであったフリッツ・カルシュからドイツ語どいつごまなんだ[6]高校こうこう卒業そつぎょうするころには唯物ゆいぶつろんしゃとなっていたが[7]の1947ねん昭和しょうわ22ねん)12月に高校こうこう恩師おんしである松原まつばら武夫たけおあてのはがきによれば、キリスト教徒きりすときょうとであるかれからはじめてイエス・キリストについてはなしいている[8]高校こうこうでは3年間ねんかんゆみ稽古けいこをしたが、上達じょうたつせずにめている[9]

長崎ながさき医科いか大学だいがく

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1928ねん昭和しょうわ3ねん)3がつ松江まつえ高校こうこう優等ゆうとう卒業そつぎょうし、長崎ながさき医科いか大学だいがくげん長崎大学ながさきだいがく医学部いがくぶ)に入学にゅうがく[10]大学だいがく入学にゅうがくまではスポーツの苦手にがて優等生ゆうとうせいであったが、身長しんちょう171センチ、体重たいじゅう70キロと当時とうじとしては大柄おおがら体格たいかく[11][ちゅう 1]であったことから長崎ながさき医大いだい篭球ろうきゅうさそわれ、メモきをおこたらない熱心ねっしんさで、明治めいじ神宮じんぐうおこなわれた全国ぜんこく大会たいかいで3とう西日本にしにほん選手権せんしゅけん制覇せいはなどに貢献こうけん[12]。この活動かつどう上海しゃんはい杭州こうしゅうにも遠征えんせいしている[5]。また、どう大学だいがくアララギ支社ししゃはいって、歌会うたかいにも参加さんかした[13]

高校こうこう以来いらい唯物ゆいぶつろんしゃであったが、ははが1931ねん昭和しょうわ6ねん)3がつ29にち脳溢血のういっけつ急逝きゅうせいしたのを霊魂れいこんがあるとしんじるようになる[14]。そのパスカルの『パンセ』を愛読あいどくし、カトリックにきつけられていった[15]浦上うらかみ天主堂てんしゅどうちかくでうし売買ばいばいいとなんでいたカトリック森山もりやま下宿げしゅくし、のちつまとなる一人娘ひとりむすめみどり洗礼せんれいめい:マリア)に出会であった。森山もりやま先祖せんぞかくれキリシタン信者しんじゃ指導しどうし、教会きょうかいれき伝承でんしょうするとばりかたであった。

1932ねん昭和しょうわ7ねん)5がつ大学だいがく卒業そつぎょうしき総代そうだいとして答辞とうじむことになっていたが、卒業そつぎょうしきの5にちまえのクラスかいかえりにあめれてそのままたために急性きゅうせい中耳炎ちゅうじえんにかかり[16]いのちとすか障害しょうがいしゃになるかという重症じゅうしょうおちいった[17]。このあいだ、カトリック信者しんじゃ老婆ろうば世話せわをしたが、永井ながいがうわごとで「天主てんしゅははせいマリア、われらのためにいのりたまえ」というのをいて「きっと信者しんじゃになる」とおもったという[17]

2ヶ月かげつにようやく健康けんこうもどしたが、みぎみみ不自由ふじゆうになったため、当初とうしょ志望しぼうしていた内科ないかあきらめて物理ぶつりてき療法りょうほう(レントゲン)にはいり、放射線ほうしゃせん医学いがく専攻せんこうすることとなった[18]。1932ねん昭和しょうわ7ねん)11月8にち助教授じょきょうじゅ就任しゅうにんした末次すえつぐ逸馬いつま[19]した助手じょしゅとして放射線ほうしゃせん物理ぶつり療法りょうほう研究けんきゅうんだ。

1933ねん昭和しょうわ8ねん2がつ1にち幹部かんぶ候補こうほせいとして広島ひろしま歩兵ほへい連隊れんたい入隊にゅうたいし、短期たんき軍医ぐんいとして満州まんしゅう事変じへん従軍じゅうぐん[20]。このあいだみどりからおくられたおおやけきょう要理ようりんでカトリックのおしえにたいする理解りかいふかめた[21]

1934ねん昭和しょうわ9ねん2がつ1にち出征しゅっせいより帰還きかんし、大学だいがく研究けんきゅうしつ助手じょしゅ復帰ふっき浦上うらかみ天主堂てんしゅどう守山もりやま松三郎まつさぶろう神父しんぷおとずれる。同年どうねん6がつ洗礼せんれいけ、洗礼せんれいめい日本にっぽんじゅうろく聖人せいじん1人ひとりであるパウロ三木みきちなんでパウロとした[22]同年どうねん8がつ森山もりやまみどり結婚けっこん洗礼せんれいまもなくつま仲介ちゅうかいによりカトリックの信徒しんと組織そしきであるせいヴィンセンシオ・ア・パウロかい英語えいごばん(ヴィンセンシオかい)に入会にゅうかい[23]無料むりょう診断しんだん無料むりょう奉仕ほうし活動かつどうなどをおこない、このころにつちかった奉仕ほうし精神せいしんが、晩年ばんねん行動こうどうへとむすびついてく。

1935ねん昭和しょうわ10ねん)2がつ急性きゅうせい咽頭いんとうえん蛋白たんぱく刺激しげき療法りょうほうそうとして雑菌ざっきん注射ちゅうしゃしたのちアナフィラキシー症状しょうじょうこして危篤きとくとなった。そのため、おわり秘蹟ひせきけた。大学だいがくけいうら内科ないか部長ぶちょうによりたすけられたが、それ以来いらい喘息ぜんそく持病じびょうとなった[23]

にちちゅう戦争せんそう

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1937ねん昭和しょうわ12ねん)、長崎ながさき医科いか大学だいがく講師こうし就任しゅうにん長女ちょうじょ郁子むべまれる。同年どうねん7がつにちちゅう戦争せんそう勃発ぼっぱつまもなくだい5師団しだん衛生えいせいたい隊長たいちょう軍医ぐんい中尉ちゅういとして出征しゅっせい[24]河北かわきた河中かわなか河南かなんけい72かい戦闘せんとう従軍じゅうぐんした[25]現地げんちでは日本にっぽんぐんのみならず、中国人ちゅうごくじんへの医療いりょうにも従事じゅうじし、現地げんち知事ちじから感謝かんしゃしるしとしてたいはばしょおくられた[26]。また、現地げんちでも長崎ながさきのヴィンセンシオかいから必要ひつよう物資ぶっしおくってもらい、現地げんちせいヴィンセンシオかいつうじて分配ぶんぱいした[25]

帰国きこく

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1940ねん昭和しょうわ15ねん)2がつ日本にっぽん帰国きこく[25]功績こうせきによりこうきゅう金鵄勲章きんしくんしょう受章じゅしょう[25]同年どうねん4がつ長崎ながさき医科いか大学だいがく助教授じょきょうじゅ物理ぶつりてき療法りょうほう部長ぶちょう就任しゅうにん[27]1944ねん昭和しょうわ19ねん3月3にち、『尿にょうせき微細びさい構造こうぞう』で医学いがく博士はかせごう授与じゅよされた。

戦時せんじちゅう結核けっかくXせん検診けんしん従事じゅうじしたが、フィルム不足ふそく透視とうしによる診断しんだんつづけたため、1945ねん昭和しょうわ20ねん)6がつには被曝ひばく散乱さんらん放射線ほうしゃせん被曝ひばく)による白血病はっけつびょう診断しんだんされ、余命よめい3ねん宣告せんこくけた。このとき白血球はっけっきゅうすう10まん8000、赤血球せっけっきゅうすう300まん正常せいじょう白血球はっけっきゅう7000程度ていど赤血球せっけっきゅう500まん程度ていど)であり、発病はつびょう1940ねん昭和しょうわ15ねん)と推定すいていされた[28]

このころは「この戦争せんそう是非ぜひたなければいけない。日本にっぽんこくのために、陛下へいかのために。」と口癖くちぐせのようにい、地域ちいき婦人ふじん竹槍たけやり指導しどうしたり、きもだめしょうしていたガーゼをくらくした部屋へやらし、骸骨がいこついたりして地域ちいき婦人ふじん部屋へやはしから出口でぐちまでとおらせることもした[29]

被爆ひばくおよび救護きゅうご活動かつどう

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1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ9にち長崎ながさき原子げんしばくだん投下とうかされ、ばく心地ごこちから700メートルの距離きょりにある長崎ながさき医大いだい診察しんさつしつにて被爆ひばく右側みぎがわあたま動脈どうみゃく切断せつだんという重傷じゅうしょううも、ぬのあたまくのみで救護きゅうご活動かつどうにあたった。投下とうかされたばくだん原子げんしばくだんであるとったのは、べいぐん翌日よくじつ投下とうかしたビラをんでからのことであった。

永井ながい先生せんせいはまたサッとられて、かおがもうさおになって、豆粒まめつぶのようなあせにじて「あー、これが原子げんしばくだんであったか」先生せんせい放射能ほうしゃのう専門せんもんですからね。「アメリカが原子げんしばくだん研究けんきゅうをしているということはっておった。しかしこんなにはやくに使つかえるまでになってるとは、らなかったー」とそれだけおっしゃった[29]

3にち8がつ11にち学長がくちょう代理だいりとして指揮しきをとっていた古屋こや教授きょうじゅ許可きょか帰宅きたく[30]台所だいどころあとからほねへんだけの状態じょうたいとなったみどり遺骸いがい発見はっけんし、そのほねへんひろ埋葬まいそうした[31]8がつ12にち子供こども義母ぎぼ疎開そかいしていたさんやま市内しない西浦上にしうらかみ)にき、そこに救護きゅうご本部ほんぶ設置せっちして被爆ひばくしゃ救護きゅうごにあたった[32]

9がつ10日とおかごろ、昏睡こんすい状態じょうたいおちいる。直前ちょくぜん辞世じせいとして「ひかりつつ 秋空あきぞらたかえにけり」をえいじた。9がつ20日はつか傷口きずぐちからの出血しゅっけつまらずふたた昏睡こんすい状態じょうたいおちいる。このため救護班きゅうごはん解散かいさんマリアかい田川たがわ神父しんぷ告解こっかいをしておわり秘蹟ひせきけた。その出血しゅっけつ奇跡きせきてきまった。本人ほんにんによると、本河内ほんごうちルルドみずみ、「神父しんぷ(かつて診察しんさつしたことがあった[33])の取次とりつぎぎをねがえ」というこえこえたようなので、それにしたがったという。

10月15にち三山さんやま救護きゅうごしょ救護きゅうご活動かつどう合間あいまに「原子げんしばくだん救護きゅうご報告ほうこくしょ」(だい11医療いりょうたい)を執筆しっぴつし、長崎ながさき医大いだい提出ていしゅつ[34]。その25年間ねんかん所在しょざい不明ふめいだったが、長崎放送ながさきほうそう田川たがわひろし記者きしゃによって1970ねん昭和しょうわ45ねん)に発見はっけんされた[35]

1946ねん昭和しょうわ21ねん1がつ28にち長崎ながさき医科いか大学だいがく教授きょうじゅ就任しゅうにんしたが、同年どうねん7がつには長崎ながさきえきちかくでたおれ、その病床びょうしょうすこととなった。11月17にち長崎ながさき学会がっかいにて「原子病げんしびょう原子げんし医学いがく」をテーマに研究けんきゅう発表はっぴょうおこなった。

 
永井ながいたかしまでの3ねんあまりの日々ひびごした如己どう長崎ながさきけん長崎ながさき

1948ねん昭和しょうわ23ねん)には荒野あらのとなった浦上うらかみはなかせようと、さくら苗木なえぎ1000ほん浦上うらかみ天主堂てんしゅどうをはじめとする各所かくしょ寄贈きぞう。これらのさくらは「永井ながい千本せんぼんさくら」とばれた。3月、浦上うらかみひとたちやカトリック教会きょうかい協力きょうりょくにより、永井ながい療養りょうようおこなうためのあん完成かんせいする。「おのれごとじんあいせよ」の言葉ことばから、あん名前なまえを「如己どう(にょこどう)」と名付なづけた。8月、大学だいがく休職きゅうしょく療養りょうよう専念せんねん。ニュース映画えいが日本にっぽんニュース」の取材しゅざいに、「ろうそくがもうれかけてるようなもんですけれどね、最後さいごまでやっぱりひかりになって、ばーっとひかることができるとおもいます。」とかた[36]

10月18にち来日らいにちちゅうヘレン・ケラー見舞みまいにおとずれる。予告よこくなしの不意ふい訪問ほうもんであった[37]1949ねん昭和しょうわ24ねん5月27にち昭和しょうわ天皇てんのう拝謁はいえつ5月30にち浦上うらかみ公民館こうみんかん日本にっぽんはこばれていたフランシスコ・ザビエルせいうで接吻せっぷんし、ローマ教皇きょうこう特使とくしとしてギルロイ枢機卿すうききょう見舞みまいけた[38]当初とうしょせいうで特使とくしが如己どうることになっていたが、永井ながいはそれを辞退じたいして公民館こうみんかんまで出向でむいた[38]

8がつ1にち長崎ながさき市長しちょうから表彰ひょうしょうける。9月30にち長崎ながさき医科いか大学だいがく教授きょうじゅ退官たいかん12月3にち長崎ながさき名誉めいよ市民しみん称号しょうごうける。

1950ねん昭和しょうわ25ねん5月14にち、ローマ教皇きょうこう特使とくしとして大司教だいしきょうフルステンベルクオランダばん英語えいごばん見舞みまいにおとずれ、ロザリオ下賜かしされる。11月29にち永井ながいルハンの聖母せいぼぞうしがっているのをったアルゼンチン大統領だいとうりょう夫人ふじんエヴァ・ペロンにより、長崎ながさきおくられたルハンの聖母せいぼぞう長崎ながさき到着とうちゃく[39]聖母せいぼぞう大小だいしょう2たいで、おおきいものはペロン夫人ふじんから長崎ながさきちいさいものはブラジル在留ざいりゅう日本人にっぽんじんから永井ながい個人こじんおくられた[40]

1951ねん昭和しょうわ26ねん)2がつには白血球はっけっきゅうすうが39まんえて危険きけん状態じょうたいとなる[41]4がつ1にち浦上うらかみよんばんくず石見いわみこく津和野つわのはんげん島根しまねけん鹿足かのあしぐん津和野つわのまち)に配流はいるされたキリシタン守山もりやま三郎さぶろうひとし中心ちゅうしんとした『乙女峠おとめとうげ』の原稿げんこうはじめ、4がつ22にちだつ稿こうした。この原稿げんこう誤字ごじがあまりにもおおかったため、永井ながい本人ほんにんおどろほどであった[42]。3にち4がつ25にちには右肩みぎかたない出血しゅっけつにより執筆しっぴつ不能ふのうとなり、これが絶筆ぜっぴつとなった。

まえ医学いがくせい白血病はっけつびょう最終さいしゅう段階だんかいせて、病気びょうきへの知識ちしきふかめるのに役立やくだてたいという永井ながい希望きぼうにより、5月1にち長崎大学ながさきだいがく付属ふぞく病院びょういん緊急きんきゅう入院にゅういん。このまで入院にゅういんばしたのはイタリア医師いしかいからおくられた聖母せいぼぞうつためであった[43]当初とうしょ容態ようだい意外いがいかったので、家族かぞくゆういのりののちいちげた[44]午後ごご940ふんになってまいをうったえ、一時いちじ意識いしき不明ふめいになったのち午後ごご950ふん意識いしきもどし、「イエズス、マリア、ヨゼフ、わがたましいをみしゅまかたてまつる」といのり、けつけた息子むすこ誠一せいいちから十字架じゅうじかると「いのってください」とさけんだ直後ちょくごいきった[45]享年きょうねん43。

遺言ゆいごんにより、翌日よくじつ5月2にち午後ごご1時半じはんから5時半じはんまで松岡まつおかはやし教授きょうじゅにより遺体いたい解剖かいぼうおこなわれ[46]死因しいん白血病はっけつびょうによる心不全しんふぜんであると判明はんめいした[47]脾臓ひぞうは3410g(正常せいじょう:94g)、肝臓かんぞうは5035g(正常せいじょう:1400g)腎臓じんぞうひだり350g、みぎ355g(正常せいじょう左右さゆう140g)と肥大ひだいしており[46]心臓しんぞう白血病はっけつびょうによる筋肉きんにく組織そしき破壊はかいすではじまっていた。腹水ふくすいは3100ccもあった[48]

 
坂本さかもと国際こくさい墓地ぼちにある永井ながいたかし博士はかせはか

5月3にち浦上うらかみ天主堂てんしゅどう山口やまぐち愛次郎あいじろう司教しきょう司式ししきによる死者ししゃミサがささげられた。同日どうじつ長崎ながさき公葬こうそうおこなうことをめ、5月14にち9から浦上うらかみ天主堂てんしゅどう公葬こうそうおこなわれて2まんにん参列さんれつした[48]田川たがわつとむ長崎ながさき市長しちょう総理そうり大臣だいじん吉田よしだしげるとう300つう弔電ちょうでんを1あいだはんにわたってげた。正午しょうご浦上うらかみ天主堂てんしゅどうかねると全市ぜんし寺院じいん工場こうじょう船舶せんぱく汽笛きてき一斉いっせいひびき、市民しみんは1分間ふんかん黙祷もくとうささげた[49]。その亡骸なきがら長崎ながさき坂本さかもとまちにある国際こくさい外人がいじん墓地ぼちに「長崎ながさき名誉めいよ市民しみん永井ながい隆之たかゆきはか」としてみどり夫人ふじんともほうむられた[50][51]

ちょうさい次第しだい

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  1. ミサ - 山口やまぐち愛次郎あいじろう司教しきょう
  2. 赦祷しき

天主堂てんしゅどう広場ひろばでは以下いか次第しだい一般いっぱん告別こくべつしき公葬こうそう)がおこなわれ、終了しゅうりょう葬送そうそう行列ぎょうれつをなし墓地ぼちまですすんだ。

  1. 市長しちょう祭文さいぶん
  2. 弔辞ちょうじ弔文ちょうぶん弔電ちょうでん披露ひろう
  3. 聖水せいすいてっすい - 遺族いぞくおよび市長しちょう
  4. 黙祷もくとう - 正午しょうごのサイレンを合図あいずにした
  5. しろばらのうた合唱がっしょう - じゅんしん学生がくせい
  6. 市長しちょう挨拶あいさつ

受賞じゅしょうれきなど

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  • 生命せいめいかわ原子病げんしびょうはなし』では、ヒトラーがドイツ民族みんぞく純潔じゅんけつたもつとしたために、原子力げんしりょく利用りようほうかんがえていた科学かがくしゃのほとんどがアメリカにあつまり、原子げんしばくだん案外あんがいはや出来上できあがって、日本にっぽん戦争せんそうにとびこんで、長崎ながさき市民しみんもとめられたといている[52]

原子力げんしりょくについて

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1945ねん8がつ-10月の救護きゅうご活動かつどうをまとめた『原子げんしばくだん救護きゅうご報告ほうこくしょ』の結語けつごで、永井ながい原子力げんしりょく利用りようたいして肯定こうていてきかんがえをべている。

すべてはおわった。祖国そこくやぶれた。われ大学だいがく消滅しょうめつわれ教室きょうしつ烏有うゆうかえした。とうまたおっときずつたおれた。むべきいえけ、ものうしなわれ、家族かぞく死傷ししょうした。今更いまさらなにわんやである。ただねがところはかかる悲劇ひげきふたた人類じんるいえんじたくない。原子げんしばくだん原理げんり利用りようし、これを動力どうりょくげんとして、文化ぶんか貢献こうけん出来できごとさら一層いっそう研究けんきゅうすすめたい。てんためぶく世界せかい文明ぶんめい形態けいたい原子げんしエネルギーの利用りようにより一変いっぺんするにきまっている。そうしてあたらしい幸福こうふく世界せかいつくられるならば、多数たすう犠牲ぎせいしゃれいまたなぐさめられるであろう[53]

また、『聖母せいぼ騎士きし』1947ねん2がつごうには原子力げんしりょく利用りようされる時代じだい以下いかのようにえがいている。

  • いね大敵たいてきひゃくじゅうにち大風おおかぜは(中略ちゅうりゃく太平洋たいへいようなかおおきな原子げんし爆発ばくはつこして気圧きあつ変動へんどうつくり、それによって大風おおふう進路しんろえて、日本にっぽん列島れっとうからそらしてしまえばいい[54]
  • そのころにはさかなるのにも、はりったりあみですくったりはしないで、音波おんぱちょう音波おんぱ、あるいは電波でんぱ電流でんりゅう原子げんし爆発ばくはつという物理ぶつりてき漁業ぎょぎょうさかんになっている[54]
  • 飛行機ひこうき汽船きせん汽車きしゃ自動車じどうしゃ。そんな交通こうつう機関きかんはみんな原子力げんしりょくうごくから、とてもはやく、かたおおきくなり、かずし、世界中せかいじゅう物資ぶっしあまったところかららないところへすぐにまわされるし、ひと自由じゆう簡単かんたん旅行りょこう出来できて、地球ちきゅうが、ひとつのいえみたいになる[55]
  • 山林さんりんはたけ学校がっこうまちもある文化ぶんか施設しせつととのった大船おおぶねが、太平洋たいへいようかんで、原子力げんしりょくきなところうつって[55]
  • まちむらちかくのやまなか原子力げんしりょく採取さいしゅじょうがあって、ここで大量たいりょうねつられ、ねつ伝導でんどうせんつうじて工場こうじょうかく家庭かていおくられる[55]
  • また原子力げんしりょく利用りようした発電はつでんから電気でんきであらゆる部門ぶもん電化でんか実現じつげんし、家庭かてい生活せいかつ能率のうりつがり、主婦しゅふ家事かじあさからばんまではたらかねばならぬ現在げんざいとはすっかり様子ようすわる[55]
  • 原子げんし薬品やくひん利用りよう難病なんびょうもすみやかになお[56]

原子力げんしりょく委員いいんかい委員いいんちょうつとめたふじ洋一よういちは、2004ねん講演こうえんで『原子げんしばくだん救護きゅうご報告ほうこくしょ』のむすびを「祖国そこくやぶれた。大学だいがく灰燼かいじんかえした。しかし原爆げんばく理屈りくつ核分裂かくぶんれつ反応はんのう)はこれから使つかわねばいけない。この原子力げんしりょくのエネルギーが人類じんるい文化ぶんか発展はってん貢献こうけんするようになったときはじめて原爆げんばく被害ひがいしゃしんやすらぎをおぼえるであろう」とはなし、原子力げんしりょく本質ほんしつ見事みごととらえていると評価ひょうかした[57]

福島ふくしまだいいち原子力げんしりょく発電はつでんしょ事故じこのち福島ふくしまけん放射線ほうしゃせん健康けんこうリスク管理かんりアドバイザーつとめた、長崎大学ながさきだいがく福島県立医科大学ふくしまけんりついかだいがくふく学長がくちょう山下やました俊一しゅんいちはその著作ちょさく放射線ほうしゃせんリスクコミュニケーション』に「原子力げんしりょく問題もんだいたときには、昭和しょうわ20ねんの10がつかれた永井ながいたかし原爆げんばく救護きゅうご報告ほうこくしょ最後さいご一文いちぶんべるようにしています(中略ちゅうりゃく原子力げんしりょくという科学かがくひかりちから利用りようしてより世界せかいつくってくべきだ、ということをかれはその当時とうじすでいているのです」と[58]、『原子力げんしりょく文化ぶんか』2012ねん1がつごう作家さっかもりふくとの対談たいだんでは、それを「わが祖国そこくやぶれた。すべてが灰燼かいじんかえした。しかし、このわざわいてんじてわがくに原子力げんしりょく平和へいわ利用りようによって、くなった方々かたがたたいつみをあがなわなくてはいけない。その結果けっか、わがくにはきっと復興ふっこうする」といいかえている[59]

日本にっぽんエネルギー会議かいぎ発起人ほっきにん工学こうがくしゃ澤田さわだ哲生てつおは「原爆げんばく原発げんぱつではない。両者りょうしゃ区分くわけするのが人間にんげん叡智えいちであり、それを実現じつげんするのがエンジニアリングです。そこに永井ながいたかし博士はかせねがいがありました」[60]かたっている。

永井ながい原子力げんしりょく平和へいわ利用りよう期待きたいをかけたが、一方いっぽう原子力げんしりょくよりさき学問がくもんがあるというかんがえをっていた。

このたびの戦争せんそうで、原子げんしがくをはじめ、たくさんの進歩しんぽがありましたが、同時どうじ世界中せかいじゅう死者ししゃせんひゃくろくまん傷者しょうしゃさんせんよんひゃくよんじゅうまん財産ざいさん損害そんがいさんせんさんひゃくおくドル。ぜん参加さんかこく戦費せんぴいちちょういちせんひゃくろくじゅうきゅうおくいちせんひゃくよんじゅうろくまんさんせんはちじゅうよんドル、という損害そんがいています。これだけのひといのちと、おかねとを平和へいわ文化ぶんかほう使つかったら、原子力げんしりょくよりもっとさき学問がくもんが、すでにわたくしたちのなかはいっていたでしょう[61]

永井ながいは『いとしよ』のなか日本国にっぽんこく憲法けんぽうについてふれ、自分じぶん子供こども戦争せんそう放棄ほうき条項じょうこうまもってほしいといている。

わたしたち日本にっぽん国民こくみんは、憲法けんぽうにおいて戦争せんそうをしないことにめた。(中略ちゅうりゃく憲法けんぽうめるだけなら、どんなことでもめられる。憲法けんぽうはその条文じょうぶんどおり実行じっこうしなければならぬから、日本人にっぽんじんとしてなかなかむずかしいところがあるのだ。どんなにむずかしくても、これは憲法けんぽうだから、実行じっこうせねばならぬ。自分じぶん実行じっこうするだけでなく、これをやぶろうとするちからふせがねばならぬ。

これこそ、戦争せんそう惨禍さんか目覚めざめたほんとうの日本人にっぽんじんこえなのだよ。しかし理屈りくつはなんとでもつき、世論せろんはどちらへでもなびくものである。日本にっぽんをめぐる国際こくさい情勢じょうせい次第しだいでは、日本人にっぽんじんなかから、憲法けんぽうあらためて戦争せんそう放棄ほうき条項じょうこうけずれ、とさけものないともかぎらない。そしてそのさけびが、いかにももっともらしい理屈りくつをつけて、世論せろん日本にっぽんさい武装ぶそうきつけるかもしれない。

そのときこそ、……誠一せいいちよ、カヤノよ、たとい最後さいご二人ふたりとなっても、どんなののしりや暴力ぼうりょくけても、きっぱりと「戦争せんそう絶対ぜったい反対はんたい」をさけつづけ、さけどおしておくれ! たとい卑怯ひきょうしゃとさげすまされ、裏切者うらぎりものとたたかれても「戦争せんそう絶対ぜったい反対はんたい」のさけびをまもっておくれ!

中略ちゅうりゃく)……あいされるものはほろぼされないのだよ。あいかため、こくかため、あい人類じんるいにぎってこそ、平和へいわうつくしい世界せかいまれてくるのだよ。

いとしよ。

てきあいしなさい。いといといとしぬいて、こちらをにくむすきがないほどあいしなさい。あいすればあいされる。あいされたら、ほろぼされない。あい世界せかいてきはない。てきがなければ戦争せんそうおこらないのだよ[62]

つまみどりじゅんしん高等こうとう女学校じょがっこう家庭かてい教員きょういんをしていた。

永井ながい夫妻ふさいは1なん3じょ長男ちょうなん誠一せいいち(まこと)、長女ちょうじょ郁子むべ(いくこ)、次女じじょかや乃(かやの)とさんじょささ乃(ささの)の子供こどもをもうけたが、長女ちょうじょさんじょはいずれも夭折ようせつした。

長男ちょうなん誠一せいいち時事通信じじつうしん入社にゅうしゃ記者きしゃ)し定年ていねん退職たいしょくまで同社どうしゃ勤務きんむ退社たいしゃとなる1998ねん平成へいせい10ねん)5がつから長崎ながさき市立しりつ永井ながいたかし記念きねんかん館長かんちょうつとめ、ちち伝記でんき永井ながいたかし[63]あらわしたが、2001ねん4がつ4にち肺炎はいえんくなった[64]

次女じじょかや乃は作家さっかとして「むすめよ、ここが長崎ながさきです―永井ながいたかし遺児いじかや乃の平和へいわへのいのり」を刊行かんこうしている。晩年ばんねんには信者しんじゃとしてカトリック枚方ひらかた教会きょうかい売店ばいてん受付うけつけをするかたわら[65]ちちのことにかんする活動かつどうにもかかわっていたが、2008ねん2がつ2にち永井ながいたかし生誕せいたんひゃく周年しゅうねん前日ぜんじつかん細胞さいぼうがんでくなった[66]ちがや乃は純心女子高等学校じゅんしんじょしこうとうがっこう卒業生そつぎょうせいでもある。

1950ねん昭和しょうわ25ねん)に永井ながい私財しざいつくった子供こどものための図書としょしつ『うちらの本箱ほんばこ』を前身ぜんしんとした長崎ながさき市立しりつ永井ながい図書館としょかん1952ねん昭和しょうわ27ねん)に完成かんせいし、1969ねんには市立しりつ永井ながいたかし記念きねんかん改称かいしょう[67]1970ねん[68]

著作ちょさくぶつ

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おもなもの

著作ちょさく

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  • 永井ながいたかし『ロザリオのくさり』ロマンスしゃ、1948ねん6がつNCID BN11461248全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:46027804 
  • 永井ながいたかし『こののこして』だい日本にっぽん雄辯ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1948ねん9がつdoi:10.11501/1155671NCID BN05055038全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:48007982 
  • 永井ながいたかし生命せいめいかわ原子病げんしびょうはなし日比谷ひびや出版しゅっぱんしゃ、1948ねん11月。 NCID BA46558107全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:48007047 
再刊さいかんは、以下いかののものなど複数ふくすうある。
  • 永井ながいたかし生命せいめいかわ原子病げんしびょうはなし』サンパウロ〈アルバ文庫ぶんこ〉、2008ねんISBN 4805648228 
再刊さいかんは、以下いかのものなど複数ふくすうある。
  • 永井ながいたかし『いとしよ』サンパウロ〈アルバ文庫ぶんこ〉、1995ねんISBN 4805604484 

全集ぜんしゅう

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編著へんちょ

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翻訳ほんやく

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映画えいが・ドラマ

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  • 1950ねん昭和しょうわ25ねん)、大庭おおば秀雄ひでお監督かんとくによる『長崎ながさきかね』が公開こうかいされた。
  • 1983ねん昭和しょうわ58ねん)、木下きのしためぐみかい監督かんとくによる『こののこして』が公開こうかいされた。
  • 2012ねん平成へいせい25ねん)、イギリスのメジャー・オーク・エンターテイメントは、永井ながい生涯しょうがい題材だいざいとした『All That Remains:The Story of Takashi Nagai(のこりしもの:永井ながいたかし物語ものがたり)』を製作せいさく、2016ねん公開こうかいされた[69]。ロンドン在住ざいじゅう俳優はいゆう、レオ芦澤あしざわ、ユナ・シン、メグ久保田くぼたかじおか潤一じゅんいちらが出演しゅつえんしている。

えんじた人物じんぶつ

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関連かんれん施設しせつ

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  • 如己どう永井ながいたかし記念きねんかん長崎ながさきけん長崎ながさき
  • 浦上うらかみ天主堂てんしゅどう長崎ながさきけん長崎ながさき) - 著書ちょしょ長崎ながさきかね」の舞台ぶたい
  • 永井ながいたかし博士はかせ記念きねんかん島根しまねけん雲南うんなん
  • 長崎ながさき市立しりつ山里やまざと小学校しょうがっこう あのらのいしぶみ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 文部もんぶ科学かがくしょう学校がっこう保健ほけん統計とうけい調査ちょうさ / 年次ねんじ統計とうけいによれば、1927年度ねんどの17さい平均へいきん身長しんちょう160.7cm、平均へいきん体重たいじゅう52.5kg(参考さんこう:2018年度ねんど平均へいきん身長しんちょう170.6cm、平均へいきん体重たいじゅう62.4kg)。

出典しゅってん

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  1. ^ 片岡かたおか, pp. 10–11.
  2. ^ a b 片岡かたおか, p. 14.
  3. ^ 片岡かたおか, p. 19.
  4. ^ 片岡かたおか, p. 29.
  5. ^ a b 片岡かたおか, p. 26.
  6. ^ カルシュ先生せんせいおもいで 投稿とうこう:2009ねん2がつ10日とおか)、奥谷おくたにタイムトンネル
  7. ^ パウロ・アロイジウス・グリン 1991, p. 28.
  8. ^ 永井ながいたかし博士はかせ旧制きゅうせい松江まつえ高校こうこう時代じだい恩師おんしにあてた直筆じきひつハガキを展示てんじ 2011ねん12月12にち島根大学しまねだいがく
  9. ^ 片岡かたおか, p. 25.
  10. ^ 片岡かたおか, p. 33.
  11. ^ 片岡かたおか, p. 21.
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  19. ^ 長崎大学ながさきだいがく放射線ほうしゃせん医学いがく教室きょうしつ沿革えんかく 長崎大学ながさきだいがく病院びょういん 放射線ほうしゃせん
  20. ^ 片岡かたおか, p. 62.
  21. ^ パウロ・アロイジウス・グリン 1991, pp. 133–134.
  22. ^ パウロ・アロイジウス・グリン 1991, pp. 156–157.
  23. ^ a b 片岡かたおか, pp. 63–64.
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  29. ^ a b 永井ながいたかし記念きねん国際こくさいヒバクシャ医療いりょうセンター 名誉めいよセンターちょう 久松ひさまつシソノ先生せんせい
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  33. ^ 永井ながいたかし 1989, pp. 90–91.
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  35. ^ 県内けんない墓碑銘ぼひめい(2012ねん12月25にち更新こうしん長崎ながさき新聞しんぶん
  36. ^ 日本にっぽんニュース戦後せんごへんだい135ごう|NHK戦争せんそう証言しょうげんアーカイブス
  37. ^ 片岡かたおか, p. 243.
  38. ^ a b 片岡かたおか, p. 246.
  39. ^ 片岡かたおか, pp. 309–310.
  40. ^ 片岡かたおか, p. 311.
  41. ^ 片岡かたおか, p. 339.
  42. ^ 片岡かたおか, p. 341.
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  44. ^ 片岡かたおか, p. 349.
  45. ^ 片岡かたおか, pp. 349–350.
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  50. ^ いしぶみうったえる, p. 131.
  51. ^ 中井なかいしゅんやめ 2007.
  52. ^ 永井ながいたかし 2008, pp. 215–216.
  53. ^ 原子げんしばくだん救護きゅうご報告ほうこくしょ永井ながいたかし. 原子げんしばくだん救護きゅうご報告ほうこくしょ永井ながい たかし
  54. ^ a b 永井ながいたかし 1989, p. 18.
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  56. ^ 永井ながいたかし 1989, p. 20.
  57. ^ L 特別とくべつ講演こうえん原子力げんしりょく利用りよう現状げんじょう見通みとおし」
  58. ^ 放射線ほうしゃせんのリスク・コミュニケーションと合意ごうい形成けいせいはなぜうまくいかないのか?(8) ――山下やました俊一しゅんいちはリスコミをどう理解りかいしてきたのか? しまそのすすむ宗教しゅうきょうがくとその周辺しゅうへん
  59. ^ 原子力げんしりょく文化ぶんか 2012ねん1がつごう 新春しんしゅん対談たいだん 福島ふくしまのいま、そして明日あした-地域ちいき住民じゅうみん参加さんかがた健康けんこう管理かんり必要ひつように-
  60. ^ [enercon.jp/pdf/008_sawada_denkijouho.pdf 澤田さわだ哲生てつお だつ原発げんぱつ較調にぶれてはならない原子力げんしりょく研究けんきゅう - 電気でんき情報じょうほう2011ねん11がつごう- 日本にっぽんエネルギー会議かいぎ]
  61. ^ 永井ながいたかし 1950.
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  65. ^ 筒井つついちがや乃さんをしのぶ、カトリック枚方ひらかた教会きょうかい
  66. ^ 筒井つついちがや乃さんが死去しきょ ちち永井ながい博士はかせ遺志いし継承けいしょう 47NEWS
  67. ^ 永井ながいたかし記念きねんかん
  68. ^ 韓国かんこく「如己愛人あいじんしょうけた中高生ちゅうこうせい追悼ついとう行事ぎょうじ参加さんかへ 8にちさき 2010ねん8がつ4にち 長崎ながさき新聞しんぶん
  69. ^ allthatremains - Major Oak Entertainment

参考さんこう資料しりょう

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  • 長崎ながさき永井ながいたかし記念きねんかん資料しりょう
  • 片岡かたおか弥吉やきち永井ながいたかし生涯しょうがい中央ちゅうおう出版しゅっぱんしゃ、1952ねん4がつNCID BA35467203全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:52011011 
    • 改訂かいていばん片岡かたおか弥吉やきち永井ながいたかし生涯しょうがい』サンパウロ、1961ねん4がつ25にちISBN 4805664002 新版しんぱん1985ねん
  • 長崎ながさき国際こくさい文化ぶんか会館かいかんいしぶみうったえる 被爆ひばく40周年しゅうねん記念きねん長崎ながさき、1986ねん3がつ、176ぺーじ 
  • パウロ・アロイジウス・グリン ちょ大和やまと幸子さちこ へん長崎ながさきうた』マリストかい、1991ねん全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:93011639 
    • 原著げんちょPaul Aloisius Glynn (1989). A song for Nagasaki. Marist Fathers Books. ISBN 0731635914 
    • 著者ちょしゃ;パウロ・アロイジウス・グリン(Paul Aloisius Glynn)(Glynn, Paul, 1928- - Web NDL Authorities 参照さんしょう
  • 永井ながい誠一せいいち永井ながいたかし長崎ながさき原爆げんばく直撃ちょくげきされた放射線ほうしゃせん専門せんもん医師いし』サンパウロ、2000ねん5がつ1にちISBN 480566407X 
  • 中井なかいしゅんやめ永井ながいたかし平和へいわいのあいきた医師いし童心どうしんしゃ、2007ねん6がつ25にちISBN 4494022381 

動画どうが音声おんせい

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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