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長崎医科大学 (旧制) - Wikipedia

長崎ながさき医科いか大学だいがく (旧制きゅうせい)

官立かんりつ旧制きゅうせい大学だいがく

旧制きゅうせい長崎ながさき医科いか大学だいがく(きゅうせいながさきいかだいがく)は、1923ねん大正たいしょう12ねん)4がつ長崎ながさき設立せつりつされた旧制きゅうせい官立かんりつ大学だいがく略称りゃくしょうは「長崎ながさき医大いだい」。

この項目こうもくでは長崎ながさき医学いがく専門せんもん学校がっこう長崎ながさきせん)などの源流げんりゅう前身ぜんしんしょこうについてもべる。

長崎ながさき医科いか大学だいがく
長崎ながさき医大いだい
創立そうりつ 1923ねん
所在地しょざいち 長崎ながさき
初代しょだい学長がくちょう 山田やまだはじめ
廃止はいし 1960ねん
後身こうしんこう 長崎大学ながさきだいがく
同窓会どうそうかい 長崎ながさき医学いがく同窓会どうそうかい
1930ねんごろ長崎ながさき医科いか大学だいがく

概要がいよう

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沿革えんかく

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だか医学部いがくぶ時代じだい(1887 - 1901ねん

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  • 1887ねん明治めいじ20ねん8がつ27にち - 長崎ながさきだい高等こうとう中学校ちゅうがっこう医学部いがくぶ設置せっちすることが決定けってい。その敷地しきち浦上うらかみ決定けってい
  • 1888ねん明治めいじ21ねん
    • 3月23にち - 長崎ながさき学校がっこう校長こうちょう吉田よしだ健康けんこうだい高等こうとう中学校ちゅうがっこう医学いがく部長ぶちょう任命にんめいする。
    • 3月31にち - 県立けんりつ長崎ながさき学校がっこう廃止はいしされ、小島こじま[1]校舎こうしゃ敷地しきちだい高等こうとう中学校ちゅうがっこう医学部いがくぶ移管いかん
      • 長崎ながさき医学いがく校内こうない獣医じゅうい長崎ながさき獣医じゅういこう改称かいしょう長崎ながさき区立くりつ長崎ながさき商業しょうぎょう学校がっこう[2]うち移転いてん
    • 4がつ10日とおか - 九州きゅうしゅうかく地区ちくもと医学いがく生徒せいと369めい入学にゅうがくさせ、かり開校かいこうしき挙行きょこう
    • 4がつ16にち - 授業じゅぎょう開始かいし
    • 9月 - 医学部いがくぶだい1かい入学にゅうがくしき挙行きょこう
    • 10月14にち - 開校かいこう
  • 1890ねん明治めいじ23ねん6月18にち - 薬学やくがく長崎大学ながさきだいがく 薬学部やくがくぶ前身ぜんしん)を設置せっち[3]
  • 1891ねん明治めいじ24ねん
    • 9月11にち - 西彼杵にしそのきぐん浦上うらかみさん山里やまざとむらげん 長崎ながさき山里やまざとまち)にしん校舎こうしゃ一部いちぶ完成かんせいし、医学部いがくぶ医学いがく薬学やくがく移転いてん小島こじま校舎こうしゃ分教場ぶんきょうじょうとし、おもに4年生ねんせい臨床りんしょう講義こうぎじょうとした。
    • 11月1にち - 寄宿舎きしゅくしゃ「習学寮がくりょう」をひらく。2年生ねんせい以上いじょう入寮にゅうりょう
  • 1892ねん明治めいじ25ねん
    • 3月7にち - 山里やまざとむらしん校舎こうしゃ完成かんせいし、だい3かい卒業そつぎょうしきねて、新築しんちく落成らくせいしき挙行きょこう同窓会どうそうかい研究けんきゅう団体だんたいとして「けんようかい」が発足ほっそく
  • 1894ねん明治めいじ27ねん

せん時代じだい(1901 - 23ねん

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  • 1901ねん明治めいじ34ねん
    • 4がつ1にち - だい高等こうとう学校がっこうから医学部いがくぶ独立どくりつし、長崎ながさき医学いがく専門せんもん学校がっこうとなる。初代しょだい校長こうちょう田代たしろただし本科ほんかのほか薬学やくがく設置せっち
    • 12月 - 山里やまざとむら本部ほんぶ薬局やっきょく診療しんりょうしょ完成かんせいし、県立けんりつ長崎ながさき病院びょういん移転いてん
  • 1902ねん明治めいじ35ねん)4がつ - 県立けんりつ長崎ながさき病院びょういん開院かいいんしき挙行きょこう
  • 1903ねん明治めいじ36ねん)10がつ - 県立けんりつ長崎ながさき病院びょういん附属ふぞく看護かんご養成ようせいしょ養成ようせい期間きかん1年間ねんかん[4])を設置せっち
  • 1917ねん大正たいしょう6ねん12月18にち - 斎藤さいとう茂吉しげよし長崎ながさきせん精神せいしん教授きょうじゅとなり、単身たんしん赴任ふにん。(1921ねん大正たいしょう10ねん)3がつ16にちまで)
  • 1920ねん大正たいしょう9ねん)- 大学だいがくれいによるせん大学だいがく昇格しょうかく決定けってい
  • 1922ねん大正たいしょう11ねん4がつ1にち - 県立けんりつ長崎ながさき病院びょういんくに移管いかんされ、長崎ながさき医学いがく専門せんもん学校がっこう附属ふぞく病院びょういん改称かいしょうし、附属ふぞく看護かんご助産婦じょさんぷ養成ようせいしょ設置せっち
  • 1923ねん大正たいしょう12ねん3月31にち- 長崎ながさき医学いがく専門せんもん学校がっこう廃止はいし

医大いだい時代じだい(1923 - 1960ねん

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  • 1923ねん大正たいしょう12ねん
    • 4がつ1にち - 長崎ながさき医科いか大学だいがく設立せつりつ
      • 初代しょだい学長がくちょう - 山田やまだはじめ
      • 併置へいち施設しせつ - 附属ふぞく医院いいん看護かんご助産婦じょさんぷ養成ようせいしょ)・附属ふぞく医学いがくせん門部かとべ附属ふぞく薬学やくがく専門せんもんせんやく学科がっか改称かいしょう
    • 医科いかだい長崎ながさきけん医師いしかい協力きょうりょくにより「長崎ながさき学会がっかい」が発足ほっそくけんようかい同窓会どうそうかいとして再編さいへん
  • 1925ねん大正たいしょう14ねん
    • 附属ふぞく医院いいん鉄筋てっきんコンクリートづくり病棟びょうとう新築しんちく開始かいし
    • 3月31にち - 附属ふぞくせん廃止はいし
  • 1926ねん大正たいしょう15ねん9月7にち - 附属ふぞく図書館としょかん設置せっち。(長崎大学ながさきだいがく附属ふぞく図書館としょかん医学いがく部分ぶぶんかん前身ぜんしん
  • 1927ねん昭和しょうわ2ねん)3がつ - だい1かい卒業そつぎょうしき挙行きょこう
  • 1929ねん昭和しょうわ4ねん
    • 2がつ - 附属ふぞく医院いいん看護かんご助産婦じょさんぷ養成ようせいしょ産婆さんば看護かんご養成ようせいしょ改称かいしょう
    • 4がつ12にち - 野母のも臨海りんかい実験じっけんしょ設置せっち
  • 1933ねん昭和しょうわ8ねん)12月 - 学位がくい請求せいきゅう論文ろんぶん審査しんさかかわる附属ふぞく院長いんちょうしょうしんへの贈収賄ぞうしゅうわい事件じけん発覚はっかくかちら4教授きょうじゅ辞任じにんし、小室こむろ学長がくちょう更迭こうてつ高山たかやま学長がくちょう就任しゅうにんした。(詳細しょうさい科学かがくにおける不正ふせい行為こうい」の当該とうがい項目こうもく参照さんしょう
  • 1935ねん昭和しょうわ10ねん7がつ1にち - 雲仙うんぜん診療しんりょう施設しせつ開院かいいん毎年まいとし夏季かき2ヶ月かげつあいだのみひらかれ、太平洋戦争たいへいようせんそう開始かいしまえまで存続そんぞく
  • 1939ねん昭和しょうわ14ねん5月13にち - 戦時せんじ体制たいせいでの軍医ぐんい養成ようせいのため7みかどだいおよび官立かんりつ6医大いだいとともに臨時りんじ附属ふぞく医学いがくせん門部かとべ設置せっち
  • 1940ねん昭和しょうわ15ねん)- 大陸たいりく医学いがく研究所けんきゅうじょ病理びょうりのみ)を設置せっち
  • 1942ねん昭和しょうわ17ねん3月23にち - みことのりれいだい182ごうにより、大陸たいりく医学いがく研究所けんきゅうじょ拡充かくじゅう改組かいそし、東亜とうあ風土病ふうどびょう研究所けんきゅうじょ設置せっち
  • 1944ねん昭和しょうわ19ねん4がつ1にち - 臨時りんじ附属ふぞくせん附属ふぞく医学いがく専門せんもん改称かいしょう
  • 1945ねん昭和しょうわ20ねん
    • 6がつ - みことのりれいだい372ごうにより附属ふぞく医院いいん産婆さんば看護かんご養成ようせいしょ厚生こうせいおんな学部がくぶ改称かいしょう養成ようせい期間きかんを3ねん延長えんちょう産婆さんば設置せっち
    • 8がつ1にち - 白昼はくちゅうべい軍機ぐんきにより附属ふぞく医院いいんばくげき
    • 8がつ9にち - 原爆げんばく被災ひさいにより校舎こうしゃ施設しせつ壊滅かいめつ教職員きょうしょくいん学生がくせい看護かんごなど850めい犠牲ぎせいとなる。
    • 9月 - 大学だいがく再興さいこう決議けつぎ
    • 10月 - 講義こうぎ再開さいかい
  • 1946ねん昭和しょうわ21ねん4がつ1にち - みことのりれいだい206ごうにより東亜とうあ風土病ふうどびょう研究所けんきゅうじょ風土病ふうどびょう研究所けんきゅうじょ[5]改称かいしょう
  • 1947ねん昭和しょうわ22ねん
    • 5月14にち - 附属ふぞくせん廃止はいしし、長崎ながさき高等こうとう学校がっこう設立せつりつ
      • 戦災せんさいによる甚大じんだい被害ひがいが「再建さいけん支障ししょう」と判断はんだんされたもので、附属ふぞくせん廃止はいし全国ぜんこく唯一ゆいいつざい学生がくせい特設とくせつ高校こうこうおよびせん附属ふぞくせんへの転校てんこうをよぎなくされた。
    • 10月 - 家畜かちく医学いがく研究所けんきゅうじょ設置せっち1949ねん昭和しょうわ24ねん長崎ながさき医大いだい附置ふち研究所けんきゅうじょとなる)。
    • 11月 - 復帰ふっきしき挙行きょこう
  • 1948ねん昭和しょうわ23ねん)4がつ - 附属ふぞく医院いいん厚生こうせいおんな学部がくぶ甲種こうしゅ修業しゅうぎょう年限ねんげん3ねん)・乙種おつしゅどう2ねん)を設置せっち
  • 1949ねん昭和しょうわ24ねん5月31にち - 新制しんせい長崎大学ながさきだいがく発足ほっそくにともない包括ほうかつされ、長崎大学ながさきだいがく長崎ながさき医科いか大学だいがく改称かいしょう附属ふぞく医院いいん厚生こうせいおんな学部がくぶ医学部いがくぶ附属ふぞく厚生こうせいおんな学部がくぶ移行いこう
  • 1951ねん昭和しょうわ26ねん)3がつ - 附属ふぞくやくせん廃止はいし厚生こうせいおんな学部がくぶ乙種おつしゅ廃止はいし
  • 1954ねん昭和しょうわ29ねん)3がつ - 旧制きゅうせい医大いだい最後さいご卒業そつぎょうしき挙行きょこう
  • 1960ねん昭和しょうわ35ねん3月31にち - 長崎ながさき医科いか大学だいがく廃止はいし

歴代れきだい学長がくちょう

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だい高等こうとうなか学校がっこう医学いがく部長ぶちょう主事しゅじ

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長崎ながさき病院びょういんちょう兼任けんにん以下いかおなじ)。
1893ねん10がつまでだい高等こうとう中学校ちゅうがっこう医学いがく部長ぶちょう
1893ねん10月 - 1894ねん9がつ11にち同上どうじょう主事しゅじ
1894ねん9月11にち - 1897ねん9がつ3にちだい高等こうとう学校がっこう医学部いがくぶ主事しゅじ
1897ねん9月3にち - 9月11にち主事しゅじ心得こころえ栗本くりもと東明とうめい

長崎ながさき医学いがく専門せんもんがく校長こうちょう

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長崎ながさき病院びょういんちょう兼任けんにん1922ねん4がつ1にちまで以下いか同様どうよう)。
1901ねん4がつ1にち - 6月5にち校長こうちょう心得こころえ
1917ねん5がつ10日とおか - 12月8にち事務じむ取扱とりあつかい村上むらかみ安蔵あぞう
1917ねん12月8にち - 1919ねん12月24にち事務じむ取扱とりあつかい
1920ねん4がつ16にち - 8がつ12にち事務じむ取扱とりあつかい国友くにともかなえ

長崎ながさき医科いかだい学長がくちょう

編集へんしゅう
1924ねん5がつ20日はつか - 1925ねん1がつ24にち学長がくちょう留学りゅうがくによる事務じむ代理だいり国友くにともかなえ
1927ねん12月27にち - 1929ねん7がつ3にち学長がくちょう留学りゅうがくによる事務じむ代理だいり浅沼あさぬま武夫たけお
1942ねん5月4にち以降いこう東亜とうあ風土病ふうどびょう研究所けんきゅうじょちょう兼任けんにん被爆ひばく
1945ねん8がつ22にち - 12月22にち[6]事務じむ取扱とりあつかい
東亜とうあ風土病ふうどびょう研究所けんきゅうじょちょう兼任けんにん1946ねん4がつ1にち以降いこう風土病ふうどびょう研究所けんきゅうじょちょう
1948ねん1がつ23にち - 1948ねん12月5にち事務じむ取扱とりあつかい。 
風土病ふうどびょう研究所けんきゅうじょちょう兼任けんにん
1949ねん5月31にち - 7がつ29にち長崎大学ながさきだいがく医学いがく部長ぶちょう兼任けんにん
1949ねん7がつ29にち - 1951ねん10月1にち長崎大学ながさきだいがく医学いがく部長ぶちょう兼任けんにん
1958ねん11月18にちまで長崎大学ながさきだいがく医学いがく部長ぶちょう兼任けんにん

附属ふぞく専門せんもん部長ぶちょう

編集へんしゅう
附属ふぞく医学いがく専門せんもん部長ぶちょう
臨時りんじ附属ふぞく医学いがく専門せんもん部長ぶちょう学長がくちょう兼任けんにん
これ以降いこう附属ふぞく医学いがく専門せんもん部長ぶちょう被爆ひばく
学長がくちょう兼任けんにん
附属ふぞく薬学やくがくせん門部かとべ主事しゅじ部長ぶちょう
  • 加藤かとう静雄しずお1923ねん4がつ - 1925ねん4がつ
附属ふぞく薬学やくがくせん門部かとべ主事しゅじ以下いか1944ねん4がつまでおなじ)
1944ねん4がつ以降いこう附属ふぞく薬学やくがく専門せんもん部長ぶちょう
1947ねん3月 - 1948ねん11月:一番いちばんせらしょう部長ぶちょう代理だいり
1949ねん5月より長崎大学ながさきだいがく薬学部やくがくぶちょう

こう変遷へんせん継承けいしょう

編集へんしゅう

被爆ひばく以前いぜん浦上うらかみこう

編集へんしゅう

だい高等こうとう中学校ちゅうがっこう医学部いがくぶ設立せつりつ当時とうじこうは、長崎ながさき養生ようじょうしょ以来いらい小島こじまさと稲荷いなりだけこう小島こじまこう,げん長崎ながさき市立しりつ佐古さこ小学校しょうがっこうこう)を継承けいしょうしていたが、1891ねん9月11にち県下けんか西彼杵にしそのきぐんうら上山里かみやまさとむら里郷さとごう1920ねん10月長崎ながさき編入へんにゅう合併がっぺい / げん坂本さかもとまち)にしん校舎こうしゃ建設けんせつされて移転いてんし、在来ざいらい小島こじまこう分教場ぶんきょうじょうとされた。以後いご浦上うらかみこうせん医大いだい継承けいしょうされ、医大いだい原爆げんばく被災ひさいまで存続そんぞくした。また正門せいもん現在げんざい長崎大学ながさきだいがく医学部いがくぶ裏門うらもん)をはいって右手みぎておくにあるおかは、「おそれひとそうみちおかりゃくして「グビロがおか」とばれ、おかうえ広場ひろばには学校がっこう当時とうじ木造もくぞう2かいての洋館ようかん小島こじまから移築いちくされた(1930ねん7がつ暴風雨ぼうふうう倒壊とうかいした)こともあり、このおかしんこうのシンボルとなった。

原爆げんばく被災ひさいから浦上うらかみこう復帰ふっきまで

編集へんしゅう

1945ねん8がつ原爆げんばく被災ひさい浦上うらかみこうぜん校舎こうしゃ病院びょういん施設しせつ壊滅かいめつ使用しよう不能ふのうとなったため、その直後ちょくごから大学だいがく本部ほんぶかたふち長崎ながさき商工しょうこう会議かいぎしょ長崎ながさき経済けいざい専門せんもん学校がっこういでしん興善こうぜん国民こくみん学校がっこう移転いてんされ、どう国民こくみん学校がっこう臨時りんじ附属ふぞく医院いいんとして膨大ぼうだいかず被爆ひばくしゃ診療しんりょうおこなった(新興しんこうぜん校舎こうしゃ)。同年どうねん9がつには大村おおむらきゅう海軍かいぐん病院びょういん診療しんりょう講義こうぎ開始かいし大村おおむら校舎こうしゃ)、よく46ねんにこれが諫早いさはやきゅう佐世保させぼ海軍かいぐん病院びょういんぶんいん移転いてんした(諫早いさはや校舎こうしゃ)。ついで1947ねんには浦上うらかみ附属ふぞく医院いいん外来がいらい本館ほんかん修理しゅうりはじまり、大学だいがく本部ほんぶ一部いちぶ基礎きそ医学いがく教室きょうしつ同館どうかん復帰ふっきした。しかし諫早いさはや新興しんこうぜんのこ臨床りんしょうかく教室きょうしつ各科かっか)が浦上うらかみ復帰ふっきし、附属ふぞく病院びょういん附属ふぞく医院いいん改称かいしょう)が完全かんぜん復旧ふっきゅうしたのは新制しんせい長崎大学ながさきだいがく発足ほっそく1950ねんである。以後いご浦上うらかみこう長崎大学ながさきだいがく医学部いがくぶ(および歯学部しがくぶ)キャンパス(坂本さかもとまちキャンパス)として継承けいしょうされ、現在げんざいいたっている。

原爆げんばくによる被害ひがい

編集へんしゅう
 
原爆げんばく投下とうかまえうえ)・した)の航空こうくう写真しゃしん。17(画面がめんみぎはしのやや上側うわがわ)が長崎ながさき医科いか大学だいがく、20(大学だいがく南側みなみがわ)が附属ふぞく医院いいん同心円どうしんえん数字すうじ単位たんいフィート

概観がいかん

編集へんしゅう

官立かんりつ医科いか大学だいがく所在地しょざいちである長崎ながさきでは、戦災せんさいには医大いだい救援きゅうえん活動かつどう中心ちゅうしんてき役割やくわりになうことが期待きたいされていた。しかし皮肉ひにくにも原爆げんばく長崎ながさき医大いだいそのものを直撃ちょくげきすることになった。すなわち、1945ねん8がつ9にち午前ごぜん112ふんばく心地ごこち市内しない松山まつやままち)より600 - 800mの至近しきん距離きょり位置いちしていた長崎ながさき医大いだいは、基礎きそ教室きょうしつ臨床りんしょう教室きょうしつ附属ふぞく医院いいん)・附属ふぞくせん附属ふぞくやくせん東亜とうあ風土病ふうどびょう研究所けんきゅうじょ看護かんご寄宿舎きしゅくしゃなどすべての校舎こうしゃ施設しせつ一瞬いっしゅんのうちに倒壊とうかい炎上えんじょうし、この時点じてん講義こうぎ診察しんさつちゅうであった教官きょうかん学生がくせい看護かんご事務じむ職員しょくいん合計ごうけい896めい犠牲ぎせいとなった。これにくわ多数たすう入院にゅういん外来がいらい患者かんじゃ犠牲ぎせいとなり、(直前ちょくぜんの8がつ1にち空襲くうしゅう附属ふぞく医院いいん爆撃ばくげきされていたため、入院にゅういん患者かんじゃおおくは退院たいいん外来がいらい患者かんじゃ制限せいげんされていたものの)そのかずやく200めいとされるが実数じっすう把握はあくできない。とく木造もくぞう基礎きそ教室きょうしつばく心地ごこちよりやく550m)で受講じゅこうしていた医大いだいせい附属ふぞくせんせい400めいあまりは、大半たいはん爆風ばくふう倒壊とうかいした校舎こうしゃ下敷したじきになり火災かさいにより焼死しょうし教官きょうかん学生がくせい講義こうぎとき位置いちそのままで白骨はっこつしていた教室きょうしつもあった)、うん校舎こうしゃから脱出だっしゅつできたものも被爆ひばく1ヶ月かげつ以内いない死亡しぼうしたため全滅ぜんめつとなった。これにたいし、RCづくり堅固けんご建物たてものであった臨床りんしょう教室きょうしつばく心地ごこちよりやく700m)で卒業そつぎょう試験しけんのため出席しゅっせきしていた医科いかだい4年生ねんせい附属ふぞくせん3年生ねんせいなかには、被爆ひばく場所ばしょによっては九死きゅうし一生いっしょうたケースもあった。

すみ学長がくちょう死去しきょ

編集へんしゅう

すみすすむ学長がくちょうは、被爆ひばく直前ちょくぜん東京とうきょう出張しゅっちょうからの帰途きと8がつ7にち被爆ひばく翌日よくじつ広島ひろしまあるいて惨状さんじょうたりにし、よく8にち医大いだい帰任きにんしてその詳細しょうさい学生がくせい教職員きょうしょくいん報告ほうこくしていた。長崎ながさきでの被爆ひばくにはかく学長がくちょう内科ないか病棟びょうとう診察しんさつちゅうであったが、ばく心地ごこち方面ほうめんちか北側きたがわまどから爆風ばくふう直撃ちょくげき重傷じゅうしょうい、8がつ22にち避難ひなんさき防空壕ぼうくうごう死去しきょした。かく学長がくちょうのほかには附属ふぞく医院いいんちょう内藤ないとう勝利かつとし教授きょうじゅ圧死あっし附属ふぞくせん部長ぶちょう高木たかぎじゅん五郎ごろう教授きょうじゅ重度じゅうど急性きゅうせい原爆げんばくしょうおかされほどなくして死去しきょした[7]おなじく勤務きんむちゅう被爆ひばくしたものの比較的ひかくてき軽傷けいしょうかくから後事こうじたくされた古屋こやひろしたいら調しらべじょりょう教授きょうじゅは、それぞれ学長がくちょう事務じむ取扱とりあつかい附属ふぞく院長いんちょうとなり、大学だいがく再建さいけんおよび被爆ひばくしゃ治療ちりょうすすめられた。とくに放射線ほうしゃせん永井ながいたかし助教授じょきょうじゅみずからも重傷じゅうしょういながら8がつ12にち以降いこう救護班きゅうごはん」を組織そしきしてきずついた市民しみんたいする医療いりょう活動かつどうすすめ、9がつ20日はつかかれ自身じしん一時いちじ昏睡こんすい状態じょうたいおちい解散かいさんをよぎなくされるまで活動かつどうつづけた。この活動かつどう記録きろくは10がつ危機ききだっした永井ながいにより『原子げんしばくだん救護きゅうご報告ほうこくしょ』にまとめられて医大いだい提出ていしゅつされ、被爆ひばく直後ちょくご実態じったい初期しょき医療いりょう活動かつどうるための貴重きちょう資料しりょうとなっている。

大学だいがく機能きのう移転いてん

編集へんしゅう

大学だいがく建物たてもの倒壊とうかいしたことから、大学だいがく本部ほんぶ長崎ながさき経済けいざい専門せんもん学校がっこうへ、教室きょうしつ大村おおむら海軍かいぐん病院びょういんへ、付属ふぞくやくせん佐賀さがに、附属ふぞく病院びょういん長崎新ながさきしん興善こうぜん国民こくみん学校がっこうへと機能きのう分散ぶんさんおこなわれた。大学だいがく大村おおむら海軍かいぐん病院びょういん医大いだい転用てんようするよう佐世保させぼ鎮守ちんじゅたい要請ようせいおこなったが、「目下めした日本にっぽん情勢じょうせいでは大学だいがく教育きょういく必要ひつようとしない」「南方なんぽうからげてくる傷痍軍人しょういぐんじん病院びょういんとしてのこさねばならない」として却下きゃっかされた[8]

慰霊いれい建立こんりゅう

編集へんしゅう

かろうじて即死そくしまぬかれたおおくの重傷じゅうしょうしゃげのび、いのちとした構内こうない「グビロがおか」(先述せんじゅつ)では、敗戦はいせんの10がつから11がつにかけてすうおおくの学生がくせいたちの遺体いたい収集しゅうしゅう埋葬まいそうされた。これによりグビロがおか原爆げんばく惨劇さんげき象徴しょうちょうする聖地せいちとして位置いちづけられるようになり、1947ねんにはこのおかに、だい講堂こうどう玄関げんかんもちいられていた花崗岩かこうがんもちいて慰霊いれい建立こんりゅうされた(現在げんざいいしぶみ1955ねんてられたもの)。きゅう医大いだいこうげん長崎大ながさきだい医学部いがくぶキャンパス)ないで、このほかに原爆げんばく被災ひさい記念きねんするモニュメントとしては、すみすすむ学長がくちょう銅像どうぞうばくふうによりまえに9cmずれかたむ台座だいざとのあいだ隙間すきまいたまま現場げんば保存ほぞんされているきゅう医大いだい正門せいもん門柱もんちゅうげん医学部いがくぶ裏門うらもん)がある。

著名ちょめい出身しゅっしんしゃ教員きょういん

編集へんしゅう
出身しゅっしんしゃ


教員きょういん出身しゅっしんしゃのぞく)

東亜とうあ風土病ふうどびょう研究所けんきゅうじょ

編集へんしゅう

にちちゅう戦争せんそう全面ぜんめんすると、中国ちゅうごく大陸たいりくからの感染かんせんしょう侵入しんにゅう防止ぼうしする研究けんきゅう需要じゅようたかまり、1940ねんあき長崎ながさき医大いだいには病理びょうりがく教室きょうしつ細菌さいきんがく教室きょうしつ母体ぼたいにした大陸たいりく医学いがく研究けんきゅうはん設置せっちされた。翌年よくねんどうはん大陸たいりく医学いがく研究所けんきゅうじょ病理びょうり改称かいしょう病理びょうり細菌さいきん2学科がっか設置せっちし、1942ねん3がつにはこれを拡充かくじゅうして東亜とうあ風土病ふうどびょう研究所けんきゅうじょ開設かいせつされるにいたった。

東亜とうあ風土病ふうどびょう研究所けんきゅうじょ九州きゅうしゅう南部なんぶ風土病ふうどびょう調査ちょうさなどをおこな一方いっぽうで、中国ちゅうごく大陸たいりく日本にっぽんぐん占領せんりょう医療いりょう衛生えいせい行政ぎょうせいになっていた同仁会どうじんかい提携ていけいし、かんこうなどで野外やがい調査ちょうさすすめた。また当時とうじ長崎ながさきだい流行りゅうこうをみたデング熱でんぐねつ調査ちょうさおこなった(このときのデータは原爆げんばく被災ひさいまぬか現在げんざい保存ほぞんされている)。

1945ねん8がつ9にち原爆げんばく被災ひさいにより、研究所けんきゅうじょ研究けんきゅう資料しりょうとともに一瞬いっしゅんのうちに焼失しょうしつし、金子かねこただし教授きょうじゅ病理びょうりがく)をはじめとしておおくの所員しょいんばくするなどおおきな打撃だげきけ、研究けんきゅう活動かつどう一時いちじ頓挫とんざした。だい世界せかい大戦たいせんの1946ねん4がつ研究所けんきゅうじょ名称めいしょうから「東亜とうあ」を削除さくじょして「風土病ふうどびょう研究所けんきゅうじょ」と改称かいしょうよく5がつには諫早いさはや移転いてんして研究けんきゅう活動かつどう再開さいかいした。

新制しんせい長崎大学ながさきだいがく発足ほっそくにより風土病ふうどびょう研究所けんきゅうじょどう大学だいがく附置ふち研究所けんきゅうじょとなり、1960ねんにはきゅう所在地しょざいちである坂本さかもとまちキャンパスへの復帰ふっき実現じつげん、さらに1967ねんには国立こくりつ学校がっこう設置せっちほう一部いちぶ改正かいせいにより「熱帯ねったい医学いがく研究所けんきゅうじょ」と改称かいしょう現在げんざいいたっている(以後いご沿革えんかく当該とうがい項目こうもく参照さんしょう)。

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ 「こしま」とむ。
  2. ^ 長崎ながさき市立しりつ長崎ながさき商業しょうぎょう高等こうとう学校がっこう前身ぜんしん
  3. ^ 現在げんざい6がつ18にち長崎大学ながさきだいがく薬学部やくがくぶ創立そうりつ記念きねんとなっている。
  4. ^ 1913ねん大正たいしょう2ねん)4がつあらためそくにより2ねん延長えんちょう1915ねん大正たいしょう4ねん)6がつ内務省ないむしょう認可にんかる。
  5. ^ 長崎大学ながさきだいがく発足ほっそくさい附置ふち研究所けんきゅうじょとなり、熱帯ねったい医学いがく研究所けんきゅうじょ1967ねん昭和しょうわ42ねん)6がつ設置せっち)の前身ぜんしんとなった。
  6. ^ 官報かんぽうだい5696ごう昭和しょうわ21ねん1がつ11にち
  7. ^ 小路しょうじ敏彦としひこ長崎ながさき医科いか大学だいがく壊滅かいめつ中央公論ちゅうおうこうろん事業じぎょう出版しゅっぱん1995ねん、pp.49-50、77-80。
  8. ^ 大村おおむら海軍かいぐん病院びょういん非情ひじょう原爆げんばく重症じゅうしょう患者かんじゃ退院たいいんさせる(昭和しょうわ20ねん10がつ30にち 毎日新聞まいにちしんぶん東京とうきょう)『昭和しょうわニュース辞典じてんだい8かん 昭和しょうわ17ねん/昭和しょうわ20ねん』p652 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん

関連かんれん書籍しょせき

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  • 長崎大学ながさきだいがく医学部いがくぶ長崎ながさき医学いがくひゃくねん1961ねん
  • 長崎ながさき医科いか大学だいがく原爆げんばく記録きろくしゅう編集へんしゅう委員いいんかい原爆げんばく復興ふっこう50周年しゅうねん記念きねん長崎ながさき医科いか大学だいがく原爆げんばく記録きろくしゅう』(ぜん3かん長崎大学ながさきだいがく原爆げんばく復興ふっこうじゅう周年しゅうねん医学いがく同窓どうそう記念きねん事業じぎょうかい1995ねん
  • わすれえぬ長崎ながさき医科いか大学だいがく被爆ひばく50周年しゅうねん記念きねん長崎大学ながさきだいがく医学部いがくぶ原爆げんばく復興ふっこうじゅう周年しゅうねん医学いがく同窓どうそう記念きねん事業じぎょうかい1995ねん
  • 小路しょうじ敏彦としひこ長崎ながさき医科いか大学だいがく壊滅かいめつすくいがたい選択せんたく"原爆げんばく投下とうか"』まるうち出版しゅっぱん1996ねん ISBN 4895141098
  • 村上むらかみ吉作よしづくり野村のむら耕作こうさく)『日本にっぽんにおける地主じぬしてき土地とち所有しょゆう危機きき』(中村なかむら福治ふくはる編集へんしゅう解説かいせつ文理ぶんりかく1988ねん ISBN 9784892591334
  • 飯島いいじまわたる『マラリアと帝国ていこく植民しょくみん医学いがくひがしアジアの広域こういき秩序ちつじょ東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい2005ねん ISBN 4130262106

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