長崎 医科 大学 (旧制 )
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1960 | |
概要
第 一 次 世界 大戦 後 の高等 教育 拡充 計画 のもとで医学 専門 学校 から昇格 して設立 された官立 医科 大学 6校 のうちの一 つであり、その起源 は明治 初年 に設立 された長崎 (県 )医 学校 (ひいては幕末 期 、1857年 のポンペによる医学 伝習 所 )にまで遡 る(このため医大 の後身 である長崎大学 医学部 はポンペが講義 を開講 した日付 である11月12日 「開 学 記念 日 」とし、ポンペを「開 学 の祖 」としている。詳細 は長崎 養生 所 参照 )。修業 年限 4年 の医学部 のほか、附属 薬学 専門 部 (附属 薬 専 /修業 年限 3年 )・臨時 附属 医学 専門 部 (のち附属 医学 専門 部 (附属 医 専 ))を設置 した(1940年 時点 )。原爆 に被災 した世界 唯一 の医科 大学 である(同 じ被爆 地 の広島 では、原爆 被災 の時点 で医 専 (広島 県立 医 専 )は発足 していたものの、医科 大学 は存在 していなかった)。新制 長崎大学 に包括 され、医学部 ・薬学部 ・附属 病院 の構成 母体 となった。旧 官立 6医大 以来 の歴史 を持 つことから、長大 医学部 はいわゆる「旧 六 医科 大学 (旧 六 )」の一 つに数 えられている。同窓会 として「研 瑤 会 」(けんようかい)が結成 された。同 会 はのち浦 陵 会 への改称 を経 て、現在 は長崎大学 医学部 と共通 の同窓会 「長崎 医学 同窓会 」となっている。
沿革
五 高 医学部 時代 (1887 - 1901年 )
- 1887
年 (明治 20年 )8月 27日 -長崎 に第 五 高等 中学校 医学部 を設置 することが決定 。その後 、敷地 を浦上 と決定 。 - 1888
年 (明治 21年 ) - 1890
年 (明治 23年 )6月18日 -薬学 科 (長崎大学 薬学部 の前身 )を設置 。[3] - 1891
年 (明治 24年 ) - 1892
年 (明治 25年 )- 3月7
日 -山里 村 に新 校舎 が完成 し、第 3回 卒業 式 を兼 ねて、新築 落成 式 を挙行 。同窓会 ・研究 団体 として「研 瑤 会 」が発足 。
- 3月7
- 1894
年 (明治 27年 )
医 専 時代 (1901 - 23年 )
- 1901
年 (明治 34年 ) - 1902
年 (明治 35年 )4月 -県立 長崎 病院 の開院 式 を挙行 。 - 1903
年 (明治 36年 )10月 -県立 長崎 病院 に附属 看護 婦 養成 所 (養成 期間 1年間 [4])を設置 。 - 1917
年 (大正 6年 )12月18日 -斎藤 茂吉 が長崎 医 専 精神 科 教授 となり、単身 赴任 。(1921年 (大正 10年 )3月 16日 まで) - 1920
年 (大正 9年 )-大学 令 による医 専 の大学 昇格 が決定 。 - 1922
年 (大正 11年 )4月 1日 -県立 長崎 病院 が国 に移管 され、長崎 医学 専門 学校 附属 病院 と改称 し、附属 看護 婦 助産婦 養成 所 を設置 。 - 1923
年 (大正 12年 )3月31日 -長崎 医学 専門 学校 が廃止 。
医大 時代 (1923 - 1960年 )
- 1923
年 (大正 12年 )- 4
月 1日 -長崎 医科 大学 を設立 。初代 学長 -山田 基 併置 施設 -附属 医院 (看護 婦 助産婦 養成 所 )・附属 医学 専 門部 ・附属 薬学 専門 部 (医 専 薬 学科 を改称 )
医科 大 ・長崎 県 医師 会 の協力 により「長崎 医 学会 」が発足 。研 瑤 会 は同窓会 として再編 。
- 4
- 1925
年 (大正 14年 )附属 医院 、鉄筋 コンクリート造 の病棟 の新築 開始 。- 3月31
日 -附属 医 専 を廃止 。
- 1926
年 (大正 15年 )9月7日 -附属 図書館 を設置 。(長崎大学 附属 図書館 医学 部分 館 の前身 ) - 1927
年 (昭和 2年 )3月 -第 1回 卒業 式 を挙行 。 - 1929
年 (昭和 4年 )- 2
月 -附属 医院 の看護 婦 助産婦 養成 所 を産婆 看護 婦 養成 所 と改称 。 - 4
月 12日 -野母 臨海 実験 所 を設置 。
- 2
- 1933
年 (昭和 8年 )12月 -学位 請求 論文 の審査 に関 わる附属 医 院長 ・勝 矢 信 司 への贈収賄 事件 が発覚 。勝 矢 ら4教授 は辞任 し、小室 学長 も更迭 ・高山 学長 が就任 した。(詳細 は「科学 における不正 行為 」の当該 項目 を参照 ) - 1935
年 (昭和 10年 )7月 1日 -雲仙 診療 施設 を開院 。毎年 夏季 2ヶ月 間 のみ開 かれ、太平洋戦争 開始 前 まで存続 。 - 1939
年 (昭和 14年 )5月13日 -戦時 体制 下 での軍医 養成 のため7帝 大 および他 の官立 6医大 とともに臨時 附属 医学 専 門部 を設置 。 - 1940
年 (昭和 15年 )-大陸 医学 研究所 (病理 部 のみ)を設置 。 - 1942
年 (昭和 17年 )3月23日 -勅 令 第 182号 により、大陸 医学 研究所 を拡充 改組 し、東亜 風土病 研究所 を設置 。 - 1944
年 (昭和 19年 )4月 1日 -臨時 附属 医 専 を附属 医学 専門 部 と改称 。 - 1945
年 (昭和 20年 ) - 1946
年 (昭和 21年 )4月 1日 -勅 令 第 206号 により東亜 風土病 研究所 を風土病 研究所 [5]と改称 。 - 1947
年 (昭和 22年 ) - 1948
年 (昭和 23年 )4月 -附属 医院 厚生 女 学部 に甲種 (修業 年限 3年 )・乙種 (同 2年 )を設置 。 - 1949
年 (昭和 24年 )5月31日 -新制 長崎大学 発足 にともない包括 され、長崎大学 長崎 医科 大学 と改称 。附属 医院 厚生 女 学部 は医学部 附属 厚生 女 学部 に移行 。 - 1951
年 (昭和 26年 )3月 -附属 薬 専 を廃止 。厚生 女 学部 乙種 を廃止 。 - 1954
年 (昭和 29年 )3月 -旧制 医大 最後 の卒業 式 を挙行 。 - 1960
年 (昭和 35年 )3月31日 -長崎 医科 大学 を廃止 。
歴代 学長
第 五 高等 (中 )学校 医学 部長 (主事 )
長崎 病院 長 と兼任 (以下 同 じ)。- 1893
年 10月 まで第 五 高等 中学校 医学 部長 。 - 1893
年 10月 - 1894年 9月 11日 :同上 主事 。 - 1894
年 9月11日 - 1897年 9月 3日 :第 五 高等 学校 医学部 主事 。 - 1897
年 9月3日 - 9月11日 :主事 心得 ・栗本 東明 。
長崎 医学 専門 学 校長
長崎 医科 大 学長
- 1942
年 5月4日 以降 、東亜 風土病 研究所 長 を兼任 。被爆 死 。
附属 専門 部長
附属 医学 専門 部長
臨時 附属 医学 専門 部長 。学長 と兼任 。
- これ
以降 附属 医学 専門 部長 。被爆 死 。
学長 と兼任 。
附属 薬学 専 門部 主事 ・部長
加藤 静雄 (1923年 4月 - 1925年 4月 )
附属 薬学 専 門部 主事 (以下 1944年 4月 まで同 じ)
川上 登 喜二 (1925年 4月 - 1927年 12月 )高畠 清 (1927年 12月 - 1932年 4月 )川上 登 喜二 (1932年 4月 - 1936年 3月 )大倉 東一 (1936年 3月 - 1939年 3月 )植田 高三 (1939年 3月 - 1942年 3月 )江口 虎三 郎 (1942年 3月 - 1947年 3月 )
- 1949
年 5月より長崎大学 薬学部 長 。
校 地 の変遷 と継承
被爆 以前 の浦上 校 地
-
明治 期 の長崎 医学 専門 学校 (浦上 校 地 ) -
大正 期 の長崎 医学 専門 学校 附属 医院
原爆 被災 から浦上 校 地 復帰 まで
1945
原爆 による被害
概観
(
角 尾 学長 の死去
大学 の機能 移転
慰霊 碑 の建立
かろうじて
-
旧 長崎 医大 正門 -
左側 の門柱 正面 -
左側 の門柱 側面 -
右側 の門柱 -
長崎大学 医学部 ゲストハウス(被爆 時 は長崎 医大 配電 室 )
著名 な出身 者 ・教員
出身 者
永井 隆 - キリスト者 ・医学 博士 (放射線 医学 専攻 )。医大 卒業 後 、助手 となり講師 ・助教授 を経 て教授 。被爆 後 、『長崎 の鐘 』『この子 を残 して』などを著 し貧窮 のうちに死去 。亀谷 了 -医学 博士 (寄生虫 学 専攻 )。目黒 寄生虫 館 を設立 。村上 吉作 -日本 資本 主義 論争 では講座 派 に属 し農業 問題 研究 で知 られた(当時 の筆名 は野村 耕作 )。転向 後 医大 に入学 し、仮 卒業生 として附属 医院 で診療 に従事 していたが被爆 死 。林 京子 -作家 。附属 厚生 女 学部 専 科 中退 。長崎 高等 女学校 (長崎 東 高 ・長崎 西高 の前身 校 )在学 中 の被爆 体験 をテーマに小説 『祭 りの場 』を著 し芥川賞 受賞 。下村 脩 -有機 化学 者 ・海洋 生物 学者 。附属 薬学 専 門部 卒 。緑色 蛍光 タンパク質 (GFP)の発見 とその開発 で、2008年 ノーベル化学 賞 受賞 。
教員 (出身 者 は除 く)
東亜 風土病 研究所
1945
脚注
- ^ 「こしま」と
読 む。 - ^
長崎 市立 長崎 商業 高等 学校 の前身 - ^
現在 6月 18日 は長崎大学 薬学部 の創立 記念 日 となっている。 - ^ 1913
年 (大正 2年 )4月 の改 則 により2年 に延長 。1915年 (大正 4年 )6月 、内務省 認可 を得 る。 - ^
長崎大学 発足 の際 、附置 研究所 となり、熱帯 医学 研究所 (1967年 (昭和 42年 )6月 設置 )の前身 となった。 - ^ 『
官報 』第 5696号 、昭和 21年 1月 11日 。 - ^
小路 敏彦 『長崎 医科 大学 壊滅 の日 』中央公論 事業 出版 、1995年 、pp.49-50、77-80。 - ^
大村 海軍 病院 の非情 、原爆 重症 患者 退院 させる(昭和 20年 10月 30日 毎日新聞 (東京 )『昭和 ニュース辞典 第 8巻 昭和 17年 /昭和 20年 』p652毎日 コミュニケーションズ刊 1994年
関連 書籍
長崎大学 医学部 『長崎 医学 百 年 史 』1961年 長崎 医科 大学 原爆 記録 集 編集 委員 会 『原爆 復興 50周年 記念 長崎 医科 大学 原爆 記録 集 』(全 3巻 )長崎大学 原爆 復興 五 十 周年 医学 同窓 記念 事業 会 、1995年 - 『
忘 れえぬ日 :長崎 医科 大学 被爆 50周年 記念 誌 』長崎大学 医学部 原爆 復興 五 十 周年 医学 同窓 記念 事業 会 、1995年 小路 敏彦 『長崎 医科 大学 壊滅 の日 :救 いがたい選択 "原爆 投下 "』丸 の内 出版 、1996年 ISBN 4895141098村上 吉作 (野村 耕作 )『日本 における地主 的 土地 所有 の危機 』(中村 福治 :編集 解説 )文理 閣 、1988年 ISBN 9784892591334飯島 渉 『マラリアと帝国 :植民 地 医学 と東 アジアの広域 秩序 』東京大学 出版 会 、2005年 ISBN 4130262106
外部 リンク
長崎大学 医学部 長崎大学 医学部 医学 科 - 「沿革 」「概要 」参照 。長崎大学 医学部 保健 学科 - 「保健 学科 の紹介 」参照 長崎 の原子 爆 弾 被害 に関 する科学 的 データ
長崎大学 薬学部 - 「総合 案内 」⇒「沿革 」「歴代 学 部長 ・研究 科 長 」参照 。長崎大学 学術 研究 成果 リポジトリ -中西 啓 『長崎 医学 の百 年 』(源流 ・前身 校 からの通史 )がDL可能 。- ここは、
長崎 ん町 「長崎 医科 大学 跡 と正門 門柱 (旧 長崎 醫科 大学 )」
関連 項目
旧制 大学 -医科 大学 旧制 専門 学校 -旧制 医学 専門 学校 長崎大学 病院 -附属 医院 の後身 機関 。長崎 市 への原子 爆 弾 投下 母 と暮 せば -山田 洋次 監督 の映画 作品 で、ヒロイン・伸子 の息子 で被爆 死 した浩二 が在学 していたという設定 。広島 文理 科 大学 (旧制 )・広島 高等 師範 学校 ・広島 高等 工業 学校 ・広島 高等 学校 (旧制 ) -広島 原爆 に被災 した大学 ・学校 。