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没官 - Wikipedia

ぼつかん(もっかん/ぼっかん)とは、律令りつりょうほうにおいてされた付加ふかけいの1つで、人身じんしんまたは財物ざいぶつかん没収ぼっしゅうすること。

概要がいよう

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日本にっぽんにおいては律令制りつりょうせい以前いぜん段階だんかいから存在そんざいしたことがられ、『こころざし倭人わじんでん』や『ずいしょ』などの中国ちゅうごく歴史れきししょかれているだけではなく、天武天皇てんむてんのうもちいられた「赦書」にも登場とうじょうする(『日本書紀にほんしょき天武天皇てんむてんのう5ねん8がつみずのえじょう)など、慣習かんしゅうほうとして確立かくりつしていた。

人身じんしんぼつかんとしては、謀反むほん大逆だいぎゃくもの父子ふし家人かじん(ただし、80さい以上いじょうあるいはあつやまししゃ免除めんじょ)はぼつかんとなり、かんやつ配属はいぞくされてかん奴婢ぬひとなる(ぞくぬすめりつ)。また、家人かじんやつおもおよびその5親等しんとう以上いじょう親族しんぞく和姦わかんして子供こどもをなした場合ばあいぼつかんとされた(ただし、強姦ごうかん場合ばあい良人りょうじんあつかいをけるため、この規定きてい対象たいしょうがいとなる)。法的ほうてきには斬罪ざんざいよりはかるく、遠流おんるよりはおもいとかんがえられていた。

財物ざいぶつぼつかんとしては、謀反むほん大逆だいぎゃくしゃ財産ざいさん盗品とうひん賄賂わいろみつ貿易ぼうえきなどによる不法ふほう取得しゅとくぶつ(その範疇はんちゅう近代きんだい刑法けいほうてん贓物ぞうぶつよりはせまい)、はんきんもの民間みんかんでの所持しょじきんじられたもの)、ばい贓(盗品とうひんぬすんだものたいしてばいにしてつぐなばち)にたいしてされ、贓贖没収ぼっしゅうして兵器へいき兵庫ひょうごりょう財物ざいぶつ大蔵省おおくらしょう図書としょ図書としょりょうなどに分配ぶんぱいされ、一部いちぶは贓贖所管しょかんする刑部おさかべしょうのために獄舎ごくしゃ維持いじ囚人しゅうじん生活せいかつ物資ぶっしとしてもちいられた。のちには検非違使けびいしちょうのためにもちいられることもあり、なかには職員しょくいん個人こじんしょく付随ふずいする得分とくぶんとしてあたえられることもあった[1]

律令りつりょうほう衰微すいびした平安へいあん時代じだい後期こうき以後いごには、謀反むほん以外いがいにも重犯じゅうはんざい理由りゆうとして権門けんもんなどからの所領しょりょう財物ざいぶつ没収ぼっしゅうさかんにおこなわれるようになった。とくだい規模きぼ荘園しょうえん領主りょうしゅからぼつかんした荘園しょうえんなどが朝廷ちょうていにもおおきな収入しゅうにゅうをもたらす場合ばあいがあった。たとえば、もとらんにおいて謀反ぼうほんじん認定にんていされた藤原ふじわら忠実ちゅうじつよりゆきちょう膨大ぼうだい所領しょりょうぼつかんされた。のち摂関せっかん伝来でんらい所領しょりょう忠実ちゅうじつ所有しょゆう所領しょりょうおおくは藤原ふじわらただしどおり継承けいしょうすることを条件じょうけん返還へんかんされたが、よりゆきちょう所有しょゆう荘園しょうえんはこのらんころされた平忠正たいらのただまさ正弘まさひろなどの所領しょりょうとともにこういんりょう編入へんにゅうされて、こう白河しらかわ院政いんせいささえた。ぼつかん原則げんそくとして天皇てんのう宣旨せんじによっておこなわれていたが、うけたまわらんにおいて安徳天皇あんとくてんのう平家ひらか連行れんこうされた最中さいちゅうおこなわれた平家ひらかぼつかんりょうぼつかんこう白河しらかわ法皇ほうおう院宣いんぜんによって実施じっしされた。一方いっぽうこのころになると、荘園しょうえん領主りょうしゅなどが本所ほんじょほうによって殺人さつじんなどの重罪じゅうざいじん処刑しょけい追放ついほうあわせてぼつかんおこなわれた。また、うけたまわらんにおいては、みなもと頼朝よりともなどのはんたいら勢力せいりょく独自どくじ占領せんりょう平家ひらかりょうぼつかん宣言せんげんして御家人ごけにん配分はいぶんし、のち朝廷ちょうてい平家ひらか討伐とうばつ一環いっかんとして容認ようにんした。のち頼朝よりとも鎌倉かまくら幕府ばくふひらき、けんだんけん幕府ばくふ移行いこうするようになると幕府ばくふ権限けんげんぼつかんおこなって御家人ごけにんなどを地頭じとうにすることがひろおこなわれるようになった。室町むろまち時代ときよ以後いご朝廷ちょうてい土地とち支配しはいけん実質じっしつじょう消滅しょうめつすると、幕府ばくふのみがぼつかん権限けんげんゆうするようになり、たんに「没収ぼっしゅう」・「闕所」などのかたりもちいられるようになった。

ぼつかんぼつかんりょう

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ぼつかん(もっかんでん)とは、ぼつかん処分しょぶんによってかん没収ぼっしゅうされた田地たじのことである。のち荘園しょうえんなどの所領しょりょう単位たんいでの没収ぼっしゅうおこなわれるようになるとぼつかんりょう(もっかんりょう)という呼称こしょうもちいられるようになった。

延喜えんぎしき』によれば、ぼつかん輸地として経営けいえいされたが、ときには賞賜しょうし寺社じしゃへのほどこせいれなどの対象たいしょうもちいられることがおおかった。

橘奈良麻呂たちばなのならまろらんさい田地でんちぼつかんおこなわれたことがられ(「えつ中国ちゅうごく礪波となみぐんせきあわむらかんほどこせ入田にゅうた地図ちず」)、『ぞく日本にっぽん』にも神護かんごけいくも元年がんねん767ねん)にぼつかん四天王寺してんのうじほどこせいれしたことがしるされている。のち藤原ふじわらたねつぎ暗殺あんさつ事件じけんによってぼつかんされたゆえ大伴家持おおとものやかもち田地でんちだい学寮がくりょうあたえられて勧学かんがくとされたが、のち家持いえもち無罪むざいうったえたばん大伴おおとも宗家そうけばん善男よしお返還へんかん強引ごういん実現じつげんさせた。ところがおうてんもんへん今度こんど善男ぜんなん所有しょゆうした財産ざいさんぼつかんされ、平安京へいあんきょう道路どうろ整備せいび財源ざいげんなどにもちいられた(『さんだい実録じつろく』)。ぼつかんされた善男ぜんなん財産ざいさん墾田こんでん陸田りくでんなどの田地でんち山林さんりんしょういね製塩せいえん必要ひつよう塩浜しおはまおよ塩釜しおがまなどによって構成こうせいされていたが、そのなかふくまれていたきゅう勧学かんがく穀倉こくそういんあたえられたため、だい学寮がくりょう穀倉こくそういんあいだ紛争ふんそうき、学問がくもんりょう設置せっちのきっかけとなった。

平安へいあん時代じだい後期こうきには謀反むほん大逆だいぎゃく以外いがいにも重大じゅうだい犯罪はんざい理由りゆうとしたぼつかん処分しょぶんによって荘園しょうえんなどの所領しょりょう没収ぼっしゅうされ、「ぼつかんりょう」という呼称こしょうもちいられるようになる。また、ぼつかんりょう朝廷ちょうていおよびその機関きかんのみならず、ぼつかん対象たいしょうしゃ追討ついとう活躍かつやくしたものへの恩賞おんしょうとなる場合ばあいもあった。もとらんさい藤原ふじわらよりゆきちょう平忠正たいらのただまさらのぼつかんりょう40ヶ所かしょこういんりょうとなり、源平げんぺい合戦かっせん平家へいけぼつかんりょう500ヶ所かしょ当初とうしょ源義仲みなもとのよしなかあたえられその没落ぼつらくみなもと頼朝よりともあたえられた。承久じょうきゅうらんのちには後鳥羽上皇ごとばじょうこうおよかれらにつかえた貴族きぞく武士ぶしらのぼつかんりょう5000ヶ所かしょ合戦かっせん参加さんかした御家人ごけにんらにあたえられ、地頭じとうとして派遣はけんされた(しん地頭じとう)。

もっとも、ぼつかんりょう実態じったいぼつかんされたものっていたところしょく荘園しょうえんない役職やくしょくとそれに付随ふずいするしょ権利けんり)であるため、おなぼつかんりょうでもほん家職かしょくから下司げす公文こうぶんまで様々さまざま内容ないようゆうしていた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ たとえば、中世ちゅうせい後期こうきたからきょうてらりょうとなったことからたからきょうてら文書ぶんしょ所収しょしゅうされることになった「一条富小路家地売券案」のなかぼう事件じけん欠字けつじ)に関連かんれんしてぼう僧都そうず所属しょぞく寺院じいん部分ぶぶん欠字けつじ)より検非違使けびいし没収ぼっしゅうした当該とうがい養和ようわ元年がんねん1181ねん)にひだりとくちょう個人こじん所有しょゆうになったことがられている。なお、年次ねんじとそれまでのつてりょう経路けいろより、ぼう事件じけん以仁王もちひとおう挙兵きょへいぼう僧都そうずどう事件じけん追討ついとうされた園城寺おんじょうじそうとみられている(渡邉わたなべしゅん使つかいちょうぼつかんりょう-〈たからきょうてら文書ぶんしょ所収しょしゅううりけんあん考察こうさつ-」『中世ちゅうせい社会しゃかい刑罰けいばつほう観念かんねん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2011ねんISBN 978-4-642-02899-8はら論文ろんぶんは2005ねん))。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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