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穀倉院 - Wikipedia

穀倉こくそういん(こくそういん)は、みんしょうぞくする畿内きない諸国しょこく調しらべぜに諸国しょこく無主むしゅ位田いでんしょくおよぼつかん大宰府だざいふいねとうしょそう物品ぶっぴんおさめる穀倉こくそうおよびそれを管理かんりする役所やくしょれいそとかんのひとつで、唐名とうみょうしょくらかん大内裏だいだいりうちだい学寮がくりょう西にし朱雀すざく大路おおじ西にしじょうみなみ所在しょざいした。

租庸調そようちょう正規せいき手続てつづがい納税のうぜいぶつおさめたものであり、供御くご不足ふそくおぎなったり、臨時りんじすくいにぎわいあるいは社寺しゃじようてるなど様々さまざま用途ようともちいられた。

設置せっち役割やくわり

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天平てんぴょうたから3ねん759ねん)にとう制度せいどをまねて平城京へいじょうきょうつねひらくら設置せっちされ、その存廃そんぱいかえしながら、大同だいどう3ねん808ねん)3がつ穀倉こくそういんとして建造けんぞうされた。ひろしひとし13ねん822ねん)3がつ近江おうみこくしょぐんこくじゅうまんせきはこ穀倉こくそういん建造けんぞう洛中らくちゅう建造けんぞうされたさい、もともとそのよう施設しせつ建造けんぞうすべきものではなかったが、近江おうみざいする延暦寺えんりゃくじ尊崇そんすうすることで、とくてさせた。よく14ねん823ねん)3がつ京師けいしにおいてべい高騰こうとうしたため、救貧きゅうひんさくとして、穀倉こくそういん米穀べいこくせんせき供出きょうしゅつし、貧民ひんみん安価あんかわたした。以降いこう同様どうよう救民きゅうみん施策しさくもちいた。

延喜えんぎしきには、以下いか事項じこうなどが制定せいていされている。

  • 無主むしゅ位田いでんしょく穀倉こくそういんうつし、地子じしおさめさせ、穀倉こくそういんおさめた米穀べいこくは、きょうしょくぜいちょうせてこれを申告しんこくさせる。
  • 畿内きない諸国しょこく納税のうぜいする調しらべぜには、調しらべぜに勘定かんじょうするぜにすう記録きろくし、穀倉こくそういん移送いそうしておさめさせる。
  • おさむぶんかんより発行はっこうされるのをってかんかいする。
  • 120ひき調しらべ綿めん200たむろは、毎年まいとし12がつかん申告しんこく穀倉こくそういんおさめる。

同院どういん長官ちょうかん別当べっとうしょくであるが摂政せっしょう関白かんぱくまたいちじょうしゅとして左大臣さだいじん)などが補任ほにんされる名誉めいよしょくてき公卿くぎょう別当べっとうべんかんまたは蔵人くろうどあたま補任ほにんされるよん別当べっとうしたがえよん)、左右さゆうだいだいそと主税しゅぜいあたま主計しゅけいあたまされる別当べっとうしたがえ)があり、あずか蔵人くろうど事務じむ処理しょりおこなった。なお、別当べっとうしょくは、後述こうじゅつする学問がくもんりょうとの関係かんけいか、初期しょき公卿くぎょう別当べっとうのぞ学問がくもん家系かけいものおお任命にんめいされており、賀茂かも保憲やすのり安倍晴明あべのせいめい任命にんめいされたほか、名目めいもくじょう役職やくしょくとなってからは、舟橋ふなばし清原きよはら)・押小路おしこうじ中原なかはら両家りょうけあかりけい博士はかせとともに世襲せしゅうされることとなった。

てんのべ3ねん975ねん)、石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう臨時りんじ祭日さいじつ献納けんのう畿内きない諸国しょこくわって穀倉こくそういんつとめさせるという文書ぶんしょ以降いこう史料しりょう記述きじゅつがないことから、このころ機能きのううしなったとられる。

なお、平安へいあん中期ちゅうき以降いこうも、しょつかさりょうである穀倉こくそういんりょう存在そんざいが、播磨はりまこく小犬丸こいぬまるをはじめとしてじゅうヵ所かしょ前後ぜんこう確認かくにんできる。また、室町むろまち戦国せんごく時代じだい穀倉こくそういんりょうのひとつである山城やましろこく山崎やまざきあぶら公用こうようりょうをめぐり、中原なかはら清原きよはらとのあいださいさんそうろんがあった。

穀倉こくそういん学問がくもんりょう

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だい学寮がくりょう紀伝きでんどう学生がくせいである文章ぶんしょうせいから選抜せんばつされて支給しきゅうされた奨学しょうがくきんである学問がくもんりょうは、勧学かんがくがくりょう)とばれる田地でんちからのみつぎ租によって学生がくせい寄宿きしゅくさせ、食事しょくじ給付きゅうふしていた。しかし、そのしゅたる面積めんせきめていた加賀かがこくきゅう大伴家持おおとものやかもちぼつかんりょうが、藤原ふじわらたねつぎ暗殺あんさつ事件じけん関係かんけいしゃ名誉めいよ回復かいふくともない、当時とうじ官界かんかい実力じつりょくしゃばん善男よしお要求ようきゅうばんきゅう大伴おおとも)に返還へんかんされることとなり、そのおうてんもんへんさだかん8ねん866ねん))によってばん善男よしお流罪るざいとなり、再度さいど当該とうがいぼつかんされたのちだい学寮がくりょうではなく、穀倉こくそういん編入へんにゅうされたことから経営けいえい基盤きばんうしなっただい学寮がくりょうあらたに当該とうがい穀倉こくそういんあいだ対立たいりつしょうじた。そこで、穀倉こくそういんから一部いちぶ学生がくせいへの学問がくもんりょう支給しきゅうおこなうことでだい学寮がくりょうがわからの不満ふまん緩和かんわつとめた、これを、穀倉こくそういん学問がくもんりょうという。

穀倉こくそういんは、このころには、律令制りつりょうせい弛緩しかんによって不足ふそくする内廷ないてい費用ひよう捻出ねんしゅつするための一種いっしゅの「裏金うらがね捻出ねんしゅつ役割やくわりになっており、穀倉こくそういんりょうとなったきゅう勧学かんがくだい学寮がくりょう返還へんかんすることは、財政ざいせい政策せいさくじょうるところではなかった。朝廷ちょうていはその代償だいしょうとして、穀倉こくそういんから学問がくもんりょう支給しきゅう開始かいししたとかんがえられている。

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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