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河越重頼 - Wikipedia

かわこし 重頼しげより(かわごえ しげより)は、平安へいあん時代じだい末期まっき武蔵むさしこく入間いるまぐんかわえつかん武将ぶしょう新日吉しんひよししゃりょうであるかわえつそうそうかん

 
かわこし 重頼しげより
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき
生誕せいたん しょう
死没しぼつ 文治ぶんじ元年がんねん11月12にち1185ねん12月5にち
別名べつめい 太郎たろう
墓所はかしょ 埼玉さいたまけん川越かわごえ元町もとまち やしなえ寿ことぶきいん
氏族しぞく 桓武かんむたいら良文よしふみながれ秩父ちちぶかわこし
父母ちちはは ちち葛貫つづらぬきのうたかし
兄弟きょうだい 重頼しげより小林こばやし重弘しげひろ師岡もろおかしげるけい小代こしろ行平こうへいしつ
つま 比企ひき次女じじょかわこし
重房しげふさおもときじゅういんごう御前ごぜん下河辺しもこうべ政義まさよししつ
テンプレートを表示ひょうじ

桓武かんむたいらながれを秩父ちちぶ一族いちぞくぞくし、武蔵むさしこく最大さいだい勢力せいりょくであった。秩父ちちぶとう総領そうりょう代々だいだい祖父そふ秩父ちちぶ重隆しげたかにんじられた「武蔵むさしこく留守るすしょそう検校けんぎょうしょく」ににんじられた(武蔵むさしこく軍事ぐんじ統率とうそつけんゆうする)。

つまみなもと頼朝よりとも乳母うば比企ひき次女じじょかわこし)で、みなもとよりゆき乳母うば

みなもと頼朝よりとも命令めいれい源義経みなもとのよしつねむすめごう御前ごぜん)をとつがせた。しかし文治ぶんじ元年がんねん1185ねん)、みなもと兄弟きょうだい対立たいりつまれ誅殺ちゅうさつされた。鎌倉かまくら幕府ばくふよしみろく2ねん(1226ねん)、かわこし復権ふっけんみとめた(三男さんなんじゅういんすべ検校けんぎょうしょくにんじた)。

生涯しょうがい

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秩父ちちぶとう嫡流ちゃくりゅう

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久寿きゅうじゅ2ねん1155ねん8がつ16にち大蔵おおくら合戦かっせん祖父そふ秩父ちちぶ重隆しげたか源義賢みなもとのよしまさともみなもと義平よしひらたれる。よくもと元年がんねん1156ねん7がつ重頼しげよりおとうと師岡もろおかしげるけいとももとらん源義朝みなもとのよしともじんしたがった。『もと物語ものがたり』の白河しらかわ殿どのあさ夜討ようちする場面ばめんで、重頼しげよりじゅうけいは「高家こうか」としてほか武士ぶし区別くべつしてかれている。

 
入間川いりまがわ沿いにあるかわえつかんあと(2008ねん撮影さつえい

平治へいじ元年がんねん1159ねん12月平治へいじらんちょう平清盛たいらのきよもりやぶれ、 えいれき元年がんねん1160ねん3がつあさ嫡男ちゃくなんみなもと頼朝よりとも(14さい)は伊豆いずこく流罪るざいとなる。頼朝よりとも乳母うば比企ひきは、武蔵むさしこく比企ひきぐん代官だいかんとなったおっと掃部まことともきょうから領地りょうちくだり、うけたまわ4ねん1180ねん)のあきまで20年間ねんかん頼朝よりとも仕送しおくりをつづけた。比企ひき次女じじょめとった重頼しげよりは、おなじく比企ひき婿むこである安達あだち盛長もりなが伊東いとうゆうきよしとも頼朝よりとも援助えんじょしている。

えいれき元年がんねん(1160ねん)、かわこしのうたかしもしくは重頼しげより)は、所領しょりょうこう白河しらかわ上皇じょうこう寄進きしんそうかんとなる。上皇じょうこうはさらに京都きょうと新日吉しんひよし山王さんのうしゃ寄進きしんし、所領しょりょう新日吉しんひよし社領しゃりょうかわえつそうばれるようになった。このとし武蔵むさし国司こくし平知盛たいらのとももりであり、『平家ひらか物語ものがたり』「知章ともあき最期さいご」のあきらだんかれた一ノ谷いちのや合戦かっせん場面ばめんで、重頼しげより嫡男ちゃくなんかわこし重房しげふさもりがした名馬めいば井上いのうえくろかわえつくろ)をらえる逸話いつわえんうかがえる。

頼朝よりともへの臣従しんじゅう

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うけたまわ4ねん(1180ねん8がつ17にち頼朝よりとも伊豆いずこくにて挙兵きょへい同年どうねん8がつ26にち重頼しげより平家ひらかかたいたおな秩父ちちぶ一族いちぞくである畠山はたけやま重忠しげただ要請ようせいおうじ、江戸えどじゅうちょう武蔵むさしこく武士ぶしだんすうせんひきいて衣笠きぬがさじょうめ、三浦みうら義明よしあきる(衣笠きぬがさじょう合戦かっせん)。しかし10月4にち勢力せいりょく回復かいふくして再挙さいきょした頼朝よりとも武蔵むさしこくはいると、畠山はたけやま重忠しげただ江戸えどじゅうちょうらととも傘下さんかはいる。以降いこう御家人ごけにんとしておももちいられる。

寿ことぶきひさし元年がんねん1182ねん8がつ12にち頼朝よりとも嫡男ちゃくなんみなもとよりゆき誕生たんじょう重頼しげよりつま産所さんじょである比企ひきのういん屋敷やしきばれ、乳母うばとして最初さいしょちちふくませる儀式ぎしきおこなう。おとうと師岡もろおかしげるけいつるやくになった。

寿ことぶきひさし3ねん1184ねん1がつ20日はつか源範頼みなもとののりより源義経みなもとのよしつね頼朝よりとも代官だいかんとする源義仲みなもとのよしなか追討ついとうぐん京都きょうとかう。重頼しげより嫡男ちゃくなん重房しげふさとも追討ついとうぐん参加さんかはいり、はんよりゆき義経よしつね重頼しげより重房しげふさすうこう白河しらかわ法皇ほうおう幽閉ゆうへいされていたろくじょう殿どのけつけ、仙洞せんとう御所ごしょ警護けいごにあたる。8がつ6にち一ノ谷いちのやたたかのち義経よしつね鎌倉かまくら許可きょか朝廷ちょうていから検非違使けびいし任官にんかんけ、頼朝よりともいかりをう。このとき重頼しげよりおとうとじゅうけいとも兵衛ひょうえじょう任官にんかんしており、頼朝よりともから罵倒ばとうされている。9月14にち頼朝よりともいのちにより、むすめごう御前ごぜん)がきょうのぼって義経よしつねとつぎ、しゅうととなる。

文治ぶんじ元年がんねん1185ねん)、頼朝よりとも義経よしつね対立たいりつし、義経よしつねこう白河しらかわ法皇ほうおうから頼朝よりとも追討ついとう院宣いんぜんけると、重頼しげより頼朝よりともから敵対てきたいされるようになった。11月12にち義経よしつね縁戚えんせきであることを理由りゆうに、所領しょりょうである伊勢いせこく香取かとりきょう没収ぼっしゅうされて大井おおいみのるはる給与きゅうよされ、重頼しげより老母ろうぼあずかりとなる。重頼しげよりむすめ婿むこである下河辺しもこうべ政義まさよし連座れんざして所領しょりょう没収ぼっしゅうされた。

こののち重頼しげより嫡男ちゃくなん重房しげふさとも誅殺ちゅうさつされ、武蔵むさしこく留守るすしょそう検校けんぎょうしょく畠山はたけやま重忠しげただうつされた。

重頼しげよりかわこし

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川越かわごえやしなえ寿ことぶきいん境内けいだいかわこし重頼しげよりはか

文治ぶんじ2ねん1186ねん8がつ5にち頼朝よりともかわえつそう年貢ねんぐ未済みさい処理しょりめいずるなど、かわえつ混乱こんらんうかがえる。文治ぶんじ3ねん1187ねん10月5にち頼朝よりとも重頼しげより誅殺ちゅうさつを「あわれである」として、かわこし本領ほんりょうであるかわえつそう後家ごけとなったかわこし安堵あんどし、地元じもと名主なぬし百姓ひゃくしょうらがしたがわなかったため、あま指示しじしたがうようめいじる。これについて木村きむら茂光しげみつ文治ぶんじ元年がんねん重頼しげより老母ろうぼかわえつそうあずかり幼少ようしょうまご地頭じとうとの支配しはい体制たいせい実現じつげんしたもののじつ効力こうりょくともなわなかったため、文治ぶんじ3ねん頼朝よりともかわこしそうつとむ雑務ざつむ一切いっさいまかせたと指摘してきしている[1]

重頼しげより次男じなんおもとき三男さんなんじゅういんについては『吾妻あづまきょう』において頼朝よりともだい将軍しょうぐんよりゆき時代じだいには記録きろくく、さんだい将軍しょうぐん源実朝みなもとのさねともだい元久もとひさ2ねん1205ねん6月22にちじょう畠山はたけやま重忠しげただらんにおける重忠しげただ討伐とうばつぐんなかはじめて確認かくにんされる。重忠しげただほろびたのち武蔵むさしこく北条ほうじょう国司こくしとなって代々だいだい配下はいかかれることになる。

よしみろく2ねん1226ねん4がつじゅういん鎌倉かまくら幕府ばくふより武蔵むさしこく留守るすしょそう検校けんぎょうしょくされ[2]かわこし復権ふっけん重頼しげより誅殺ちゅうさつから40ねんのことであった。

脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん作品さくひん

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