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神倉神社 - Wikipedia

神倉かみくら神社じんじゃ

和歌山わかやまけん新宮しんぐう神社じんじゃ

神倉かみくら神社じんじゃ(かみくらじんじゃ、かんのくらじんじゃ)は和歌山わかやまけん新宮しんぐう神社じんじゃ熊野くまの三山さんざん一山ひとやまである熊野くまの速玉はやたま大社たいしゃ摂社せっしゃ境内けいだいくに史跡しせき熊野くまの三山さんざん」の一部いちぶ、および世界せかい遺産いさん紀伊きい山地さんち霊場れいじょう参詣さんけいどう」の一部いちぶである。

神倉かみくら神社じんじゃ

神体しんたい巨岩きょがん・ゴトビキがん拝殿はいでん
所在地しょざいち 和歌山わかやまけん新宮しんぐう神倉かみくら1-13-8
位置いち 北緯ほくい3343ふん20.1びょう 東経とうけい13558ふん58.2びょう / 北緯ほくい33.722250 東経とうけい135.982833 / 33.722250; 135.982833座標ざひょう: 北緯ほくい3343ふん20.1びょう 東経とうけい13558ふん58.2びょう / 北緯ほくい33.722250 東経とうけい135.982833 / 33.722250; 135.982833
主祭しゅさいしん てんあきら大神おおがみ高倉たかくら下命かめい
社格しゃかくひとし きゅう村社そんしゃ
創建そうけん 128ねんけいぎょう天皇てんのう58ねん
例祭れいさい 2がつ6にち御燈みあかしさい
地図ちず
神倉神社の位置(和歌山県内)
神倉神社
神倉かみくら神社じんじゃ
地図
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いわ信仰しんこうしゃ

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参道さんどうふもと鳥居とりい

神倉かみくら神社じんじゃは、熊野くまの速玉はやたま大社たいしゃ摂社せっしゃである。新宮しんぐう中心ちゅうしん市街地しがいち北西ほくせいにある千穂ちほみねささえピーク、神倉かみくらさん(かみくらさん、かんのくらやま、標高ひょうこう120メートル)に鎮座ちんざし、境内けいだい外縁がいえんただちに断崖絶壁だんがいぜっぺきになっている。山上さんじょうへは、みなもと頼朝よりとも寄進きしんしたとつたえられる、きゅう勾配こうばい鎌倉かまくら石段いしだん538だんのぼらなければならない。

山上さんじょうにはゴトビキがん(「きん引岩」とも。ゴトビキとはヒキガエルをあらわす新宮しんぐう方言ほうげん)とばれる巨岩きょがん神体しんたいとしてまつられている[1][2]。このいわ根元ねもとささえる袈裟けさがんといわれるいわ周辺しゅうへんには経塚きょうづか発見はっけんされており、平安へいあん時代じだいけいとう多数たすう発掘はっくつされ、そのさらに下層かそうからは銅鐸どうたくへん滑石かっせきせい模造もぞうひん出土しゅつどしていることから、神倉かみくら神社じんじゃ起源きげんいわ信仰しんこうからはっしたとかんがえられている[1]

神倉かみくら神社じんじゃ創建そうけん年代ねんだい128ねんころといわれているが、神話しんわ時代じだいにさかのぼるふるくからの伝承でんしょうがある。『古事記こじき』『日本書紀にほんしょき』によれば、神倉かみくらさんは、神武じんむ天皇てんのう東征とうせいさいのぼったてん磐盾いわたて(あまのいわたて[3]、あめのいわたて[4])のやまであるという[1][5]。このとき、てんあきら大神だいじん子孫しそん高倉たかくら下命かめい神武じんむ神剣しんけんたてまつげ、これを神武じんむは、てんあきら大神だいじんつかわしたはち咫烏道案内みちあんないぐんすすめ、熊野くまの大和やまと制圧せいあつしたとされている。しかし、「熊野くまの権現ごんげん垂迹すいじゃく縁起えんぎ」(『ちょうひろしかんぶん所収しょしゅう)には神剣しんけん神倉かみくらさんむすびつける記述きじゅつはないことから、てん磐盾いわたて神倉かみくらさんむすびつける所説しょせつ鎌倉かまくら時代ときよ以降いこうあらわれたものとかんがえられている[1]

熊野くまの信仰しんこうさかんになると、熊野くまの権現ごんげん諸国しょこく遍歴へんれきすえに、熊野くまの最初さいしょ降臨こうりんした場所ばしょであるとかれるようになった(「熊野くまの権現ごんげん垂迹すいじゃく縁起えんぎ」)。このせつしたがえば、熊野くまのさんしょ大神おおがみがどこよりも最初さいしょ降臨こうりんしたのはこのであり[6]、そのことから熊野くまの根本ねもと神蔵かみくら権現ごんげんあるいは熊野くまの速玉はやたま大社たいしゃおくいんしょうされた[5]平安へいあん時代じだい以降いこうには、神倉かみくらさん拠点きょてんとして修行しゅぎょうする修験しゅげんしゃつどうようになり、熊野くまの参詣さんけいにもいくかその登場とうじょうする。『平家ひらか物語ものがたりまき10の平維盛たいらのこれもり熊野くまの参詣さんけい記事きじ登場とうじょうするほか、おうひさし34ねん1427ねん)には、足利あしかが義満よしみつ側室そくしつ北野きたの殿どの参詣さんけいに「かみくら参詣さんけい記述きじゅつられる[5]

鎌倉かまくら時代じだいけんちょう3ねん1251ねん)2がつ14にちには火災かさいにより焼失しょうしつしたが、執権しっけん北条ほうじょうよりゆきより助成じょせいあたえられて再建さいけんされた。中世ちゅうせい神倉かみくら神社じんじゃは、神倉かみくらひじりしょうされるしゃそうのほか、その下役したやくざんぼう妙心寺みょうしんじみょうこころ尼寺あまでら)・華厳けごんいん宝積ほうしゃくいんさん学院がくいん神倉かみくら本願ほんがんよんてら運営うんえいにあたり(『紀伊きいぞく風土記ふどき』)、なか地蔵堂じぞうどう参道さんどう曼荼羅まんだらどうなどの維持いじ管理かんりにあたった[5]南北なんぼくあさ時代じだい動乱どうらんによる荒廃こうはいのちはもっぱらみょうしん尼寺あまでら勧進かんじんけん掌握しょうあくした。とおるろく4ねん1531ねんづけ記録きろく神倉かみくらさいみやつこ由緒ゆいしょ」によると、神倉かみくらさん神社じんじゃ仏閣ぶっかくもちすべ天皇てんのう時代じだいはだかぎょう上人しょうにんにより建立こんりゅうされたが、その荒廃こうはいしたため、延徳えんとく元年がんねん1489ねん)にみょうしん尼寺あまでらみょうじゅんあま神倉かみくら神社じんじゃ再興さいこうのための勧進かんじんおこない、さらにだいひさし年間ねんかん1521ねん-1528ねん)からとおるろく4ねんまで弟子でしゆうちんあまらとともに諸国しょこくめぐって奉加ほうがつのり、これによって再興さいこうげた(『妙心寺みょうしんじ文書ぶんしょ』)[7]戦国せんごく時代じだいから近世きんせい初期しょきにかけても度々たびたび災害さいがい見舞みまわれているが、なかでも天正てんしょう16ねん1588ねん)には、豊臣とよとみ秀長ひでなが木材もくざい奉行ぶぎょうによって放火ほうかされ、境内けいだいがことごとく焼失しょうしつした。翌年よくねんにはゆうこころあまのほか、金蔵きんぞうぼう祐信すけのぶ当山とうざん)および熊野くまの新宮しんぐうらくきよしぼうゆきみつる本山ほんざん)の2人ふたり修験しゅげんしゃ協力きょうりょく西国さいこく9かこく勧進かんじんおもむいている[8]

近世きんせい以降いこうは、紀州きしゅう徳川とくがわや、新宮しんぐう領主りょうしゅ浅野あさの水野みずの崇敬すうけいをあつめた。慶長けいちょう7ねん(1602ねん)には浅野あさのより社領しゃりょうとして63いしあたえられたほか、正保まさやす2ねん1645ねん)にはいちねん祈祷きとうりょうとして、べい3せき6燈明とうみょうりょうまい1せき8あたえられた[9]との記録きろくえる。

 
拝殿はいでん

紀伊きいぞく風土記ふどき』がつたえるところによると、近世きんせい境内けいだいには社殿しゃでんなみみやのほか、がけじょうかかづく拝殿はいでんがあり、大黒天だいこくてんまつ御供所ごくしょ末社まっしゃとして満山まんざんしゃ子安こやすしゃなか地蔵堂じぞうどうなどがあったが、明治めいじ3ねん1870ねん)の台風たいふう倒壊とうかい[9]、その荒廃こうはいしたため、1907ねん明治めいじ40ねん)には熊野くまの速玉はやたま大社たいしゃ合祀ごうしされた。しかし、1918ねん大正たいしょう7ねん)、岩下いわしたほこら再建さいけんしたのを手始てはじめに、昭和しょうわ社務しゃむしょ鳥居とりいなどが再建さいけんされた[1]現在げんざい社務しゃむしょ常駐じょうちゅう神職しんしょくらず、熊野くまの速玉はやたま大社たいしゃさかいがいしゃあつかいである。朱印しゅいん御札おさつなどは熊野くまの速玉はやたま大社たいしゃ社務しゃむしょあつかっている。御朱印ごしゅいんには「熊野くまの三山さんざん元宮もとみや」と記載きさいされている。

文化財ぶんかざい

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くに指定してい史跡しせき

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神倉かみくら神社じんじゃ境内けいだいは、熊野くまの速玉はやたま大社たいしゃ境内けいだい一部いちぶ神倉かみくらさん 石段いしだん下馬げばしるべせき)としてくに史跡しせき熊野くまの三山さんざん[10]ふくまれる[11]史跡しせき熊野くまの三山さんざん」は世界せかい遺産いさん紀伊きい山地さんち霊場れいじょう参詣さんけいどう」(2004ねん平成へいせい16ねん〉7がつ登録とうろく)の構成こうせい資産しさん一部いちぶ[12]

和歌山わかやまけん指定してい史跡しせき

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御燈みあかしさいでは、大勢おおぜいおとこたちがこの荒々あらあらしい石段いしだんりる

神倉かみくらさん石段いしだん 下馬げばしるべせきは、神倉かみくらさん山麓さんろくから山上さんじょう境内けいだいつづ石段いしだん、および神倉かみくら神社じんじゃ入口いりくちにかかる太鼓橋たいこばしかたわらにしるべせきである。

石段いしだんは538だんさんし、自然しぜんせき花崗岩かこうがん)をわせてきずかれたもので、はば平均へいきんやく4メートル、たかさと奥行おくゆきは一定いっていではないが、おおよそたかさ25センチメートル、奥行おくゆきは30から40センチメートルである[13]一般いっぱんにはたてひさ4ねん1193ねん)にみなもと頼朝よりとも寄進きしんしたとつたえられるが、わずかに『熊野くまの年代ねんだい』の記事きじがそのむねつたえるにぎない。

下馬げばしるべせき寛文ひろふみ12ねんめいのあるもので、くろ雲母うんも花崗みかげまだらがんせいたかさ1.59メートル、はば43センチメートル、あつさ17センチ、おな材質ざいしつ地上ちじょうだか26センチメートル、はば80センチメートルのたいせきじょうっている[14]こくめいによれば、奥州おうしゅう南部なんぶ志和しわぐん人物じんぶつが、子孫しそん繁栄はんえい祈念きねんして熊野くまの参詣さんけい7達成たっせいしたことを記念きねんしたものとあり、奥州おうしゅう熊野くまの信仰しんこう今日きょうつたえている[14]

新宮しんぐう指定してい有形ゆうけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい

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境内けいだいにはそのほかに、新宮しんぐう指定してい有形ゆうけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい3けんがあり、1989ねん平成へいせい元年がんねん)3がつ25にち指定していされた[15]神倉かみくら神社じんじゃ手水ちょうずはち1は、しん宮城みやぎだい2だい城主じょうしゅ水野みずの重良しげよしから寄進きしんされたもので、はば1.9メートル、奥行おくゆき91.0センチメートル、たかさ60.0センチメートル、くろ雲母うんも花崗みかげまだらがん巨大きょだい一枚岩いちまいいわきざんで仕上しあげた江戸えど時代じだいのもので、寛永かんえい8ねん2がつめいがある。神倉かみくら神社じんじゃ手水ちょうずせん1は、1956ねん昭和しょうわ31ねん)からの山上さんじょう境内けいだいにおける鳥居とりい玉垣たまがき補修ほしゅう工事こうじさい発掘はっくつされたもので、はば88.8センチメートル、奥行おくゆき53.0センチメートル、たかさ34.0センチメートル、南北なんぼくあさ時代じだい作成さくせいされた砂岩さがんせい舟形ふながた手水ちょうずばちで、現在げんざい熊野くまの速玉はやたま大社たいしゃ境内けいだい移設いせつされている。えんさんぽうなみがた一方いっぽうだけが直線ちょくせんという形状けいじょうで、慶安けいあん4ねんほどこせにゅうめいがある。たてまつはち参詣さんけい久慈くじ八日ようかまち岩手いわてけん久慈くじ)の住人じゅうにん吉田よしだ金右衛門きんえもんなる人物じんぶつが、熊野くまのまい8かいげた記念きねんとして、宝永ほうえい5ねん1708ねん)に奉納ほうのうしたもので、困難こんなんをおして参詣さんけいげた奥州おうしゅうじん熊野くまの信仰しんこう記念きねんである。

 
御燈みあかしさい(おとうまつり)

御燈みあかしさい

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熊野くまのはるおとこまつりとして毎年まいとし2がつ6にちよるときぎょうされる。やく2600ねんまえ神武じんむ天皇てんのう東征とうせいさい祭神さいじん高倉たかくら下命かめい(たかくらじのみこと)が松明たいまつって案内あんないしたことに由来ゆらいするとの故事こじもあるが、起源きげんは『熊野くまの年代ねんだい』にさとしたち天皇てんのうさんねん(574ねん)とされる[16]

交通こうつう機関きかん

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JR紀勢本線きせいほんせん新宮しんぐうえき下車げしゃ

熊野くまの交通こうつう路線ろせんバスで「裁判所さいばんしょまえ下車げしゃ、または徒歩とほ15ふん

  1. ^ a b c d e 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん編纂へんさん委員いいんかいへん[1985: 294]
  2. ^ 南紀なんき熊野くまのジオパーク”. 南紀なんき熊野くまのジオパーク推進すいしん協議きょうぎかい. 2022ねん8がつ25にち閲覧えつらん
  3. ^ 宇治谷うじたにはじめ わけ日本書紀にほんしょきうえぜん現代げんだいやく講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、1988ねん、94ぺーじISBN 4-06-158833-8 
  4. ^ 和田わだへん へん熊野くまの権現ごんげん筑摩書房ちくましょぼう、1988ねん、7・163ぺーじぺーじISBN 4-480-85421-5 
  5. ^ a b c d 平凡社へいぼんしゃへん[1997: 191]
  6. ^ 宮家みやけ[1992: 2]
  7. ^ 新宮しんぐう[1984: 971]
  8. ^ 新宮しんぐう[1984: 972]
  9. ^ a b 平凡社へいぼんしゃへん[1997: 192]
  10. ^ 熊野くまの三山さんざん2000ねん平成へいせい12ねん〉11月2にち指定してい2002ねん平成へいせい14ねん〉12月19にち分離ぶんり追加ついか指定してい名称めいしょう変更へんこう史跡しせき)、くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース文化庁ぶんかちょう) 2010ねん6がつ12にち閲覧えつらん
  11. ^ 熊野くまの三山さんざん熊野くまの速玉はやたま大社たいしゃ境内けいだい神倉かみくらさん”. わかやま文化財ぶんかざいガイド. 和歌山わかやまけん. 2013ねん1がつ29にち閲覧えつらん
  12. ^ 世界せかい遺産いさん登録とうろく推進すいしんさんけん協議きょうぎかい、2005、『世界せかい遺産いさん 紀伊きい山地さんち霊場れいじょう参詣さんけいどう』、世界せかい遺産いさん登録とうろく推進すいしんさんけん協議きょうぎかい和歌山わかやまけん奈良ならけん三重みえけん、pp.39,75
  13. ^ 新宮しんぐう教育きょういく委員いいんかい新宮しんぐう文化財ぶんかざい審議しんぎかいへん[1990: 30]
  14. ^ a b 新宮しんぐう教育きょういく委員いいんかい新宮しんぐう文化財ぶんかざい審議しんぎかいへん[1990: 33]
  15. ^ このふし有形ゆうけい民俗みんぞく文化財ぶんかざいふし新宮しんぐう教育きょういく委員いいんかい新宮しんぐう文化財ぶんかざい審議しんぎかいへん[1990: 100-101、112]による。
  16. ^ 中上なかがみ健次けんじまつり』――映画えいがから小説しょうせつ守安もりやす敏久としひさ宇都宮大学うつのみやだいがく教育きょういく学部がくぶ紀要きようだい61ごう だい1 別刷べつづり平成へいせい23ねん(2011)3がつ

文献ぶんけん

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  • 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん編纂へんさん委員いいんかいへん、1985、『和歌山わかやまけん』、角川書店かどかわしょてん角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん30〉 ISBN 404001300X
  • らい じゅう、1976、「吉野よしの熊野くまの修験しゅげんどう成立せいりつ展開てんかい」、らいへん)『吉野よしの熊野くまの信仰しんこう研究けんきゅう』、名著めいちょ出版しゅっぱん山岳さんがく宗教しゅうきょう研究けんきゅう叢書そうしょ4〉 pp. 13-46
  • 新宮しんぐうへん、1984、『新宮しんぐう』、新興しんこう出版しゅっぱんしゃ
  • 新宮しんぐう教育きょういく委員いいんかい新宮しんぐう文化財ぶんかざい審議しんぎかいへん、1990、『新宮しんぐう文化財ぶんかざい』、新宮しんぐう教育きょういく委員いいんかい
  • 平凡社へいぼんしゃへん、1997、『大和やまと紀伊きい寺院じいん神社じんじゃだい事典じてん』、平凡社へいぼんしゃ ISBN 4582134025
  • 宮家みやけ なずらえ、1992、『熊野くまの修験しゅげん』、吉川弘文館よしかわこうぶんかん日本にっぽん歴史れきし叢書そうしょ〉 ISBN 4642066497

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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