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秋芳洞 - Wikipedia

秋芳しゅうほうほら

山口やまぐちけん美祢みねにある鍾乳洞しょうにゅうどう

秋芳しゅうほうほら(あきよしどう[1])は、山口やまぐちけん美祢みね東部とうぶ秋吉台あきよしだい地下ちか100-200mにある鍾乳洞しょうにゅうどうで、やく1kmの観光かんこうみちをもって公開こうかいされている。鍾乳洞しょうにゅうどうとしては日本にっぽん最大さいだい規模きぼほらおくきんふちより洞口ほらぐちまで、やく1kmにわたって地下ちかかわながくだっている。1990ねん前後ぜんこう洞窟どうくつ探検たんけんによるきんふちからおくへの潜水せんすい調査ちょうさ結果けっか東方とうほうやく2.5kmにあるかずらあなまで連結れんけつし、そう延長えんちょうは8,850mにたっした。

秋芳洞の位置(日本内)
秋芳洞
秋芳しゅうほうほら
秋芳しゅうほうほら入口いりくち
秋芳しゅうほうほらひゃくまいさら
秋芳しゅうほうほら黄金おうごんばしら

2016ねん7がつからの山口大学やまぐちだいがく洞穴どうけつ研究けんきゅうかい秋吉台あきよしだい科学かがく博物館はくぶつかんでつくる「秋吉台あきよしだいカルスト洞窟どうくつ学術がくじゅつ調査ちょうさたい」の測量そくりょう調査ちょうさによってそう延長えんちょうは10,300mにび、現在げんざい日本にっぽんだい3にランクされている[2]

1926ねん以前いぜんたきあなたきほら)とばれていた。特別とくべつ天然記念物てんねんきねんぶつ秋吉台あきよしだい国定こくてい公園こうえんぞくする。

秋吉台あきよしだい国定こくてい公園こうえん秋芳しゅうほうほらえがいた切手きって(1959ねん

沿革えんかく

編集へんしゅう
  • 1354ねんだいかんばつさいして大洞おおほら寿ことぶきえん禅師ぜんじほらないあめ乞修ほうおこない、満願まんがんさんななにち豪雨ごううによる洪水こうずい入寂にゅうじゃくしたのが開山かいさんとされる[3]
  • 1729ねんえがかれた地下ちか上申じょうしん絵図えず秋吉あきよしむら)にたきこうひろたにたき稲川いながわられる。
  • 1830ねん、1843ねん旱魃かんばつさいして地元民じもとみん大挙たいきょしてほらおくさぐったといわれる。
  • 1844ねんごろ編纂へんさんされたぼうちょう風土ふうど注進ちゅうしんあんには、秋吉あきよしむら名所旧跡めいしょきゅうせきこうたきあななか千畳敷せんじょうじきこう桟敷さじきかたりられる。地元民じもとみん大勢おおぜいしておくまではいるともしるされている[4]。またながかわについて、「秋吉台あきよしだい上流じょうりゅうむらあきしていたいね大雨おおあめ流失りゅうしつし、ここへながた。そのため以前いぜん滝川たきかわんでいたが、いま稲川いながわという」との記述きじゅつがある。
  • 1843ねん、1847ねんはぎ医学いがくかんものすうめいいしやく鍾乳石しょうにゅうせき採取さいしゅのためにたきあな蝙蝠かわほりあなおとずれた[5]
  • 1862ねん刊行かんこうされた美祢みねぐん細見ほそみ絵図えずなかに、たきあなちゅうさんじゅうけいアリとの付記ふきがある[6]
  • 1898ねん内務ないむ大臣だいじんによる名勝めいしょう旧跡きゅうせきかんする調査ちょうさ指示しじおこなわれたが、保存ほぞんについては見込みこみなしとの報告ほうこくおこなわれた。
  • 1904~1905ねんごろ英国えいこく王立おうりつ地理ちり学会がっかいいんエドワード・ガントレット[7]により洞内ほらないわたぶね寄贈きぞうされた。
  • 1907ねん鉱山こうざん業者ぎょうしゃうめ原文げんぶんろう依頼いらいによってガントレット、広島ひろしま高等こうとう師範しはん学校がっこう教授きょうじゅ中目なかめさとしらが調査ちょうさした。当時とうじ地元じもとでは「水神すいじんのすみか」とつたえられており、だれちかづかなかった[8]
  • 1908ねん大阪おおさか時事新報じじしんぽういち記者きしゃはじめていま黒谷くろたにささえほらそこさぐり、また中目なかめさとしきんふちまでの全容ぜんようあきらかにした。
  • 1909ねん、ガントレットが英国えいこくヨークシャー紀行きこうたきあな概念的がいねんてき平面へいめん紹介しょうかいした。
  • 1909ねんうめ原文げんぶん次郎じろうにより観光かんこうほらとして開発かいはつされ、盛大せいだいひらきくつしきおこなわれた。
  • 1920ねん内務省ないむしょう天然記念物てんねんきねんぶつ調査ちょうさだんによりはじめて詳細しょうさい測量そくりょう作成さくせいされた。
  • 1922ねんくに天然記念物てんねんきねんぶつに、1952ねんどう特別とくべつ天然記念物てんねんきねんぶつに、1955ねんには国定こくてい公園こうえん指定してい
  • 1922ねん天然記念物てんねんきねんぶつ主務しゅむ大臣だいじんより秋吉あきよしむらによる管理かんりめいじられる。1923ねんには、秋吉あきよしむらによる管理かんり経営けいえい開始かいしした(それまでは広谷ひろたに部落ぶらくによる)。
  • 1925ねん電灯でんとうによる洞内ほらない照明しょうめい開始かいし
  • 1926ねん東宮とうぐう行啓ぎょうけい思召おぼしめしによりたきあなから秋芳しゅうほうほらへ、また洞内ほらないの6名所めいしょもあわせて改名かいめいされた。
  • 1951(or 1952)ねん長淵ながぶち桟橋さんばしができ、わたぶね廃止はいしされた。
  • 1956ねん、12月1にちだいじょうへの観光かんこうきゃく誘導ゆうどうのためエレベーターが運転うんてん開始かいしとなった[9]
  • 1960ねん水銀すいぎんとうとうによるだい規模きぼ洞内ほらない照明しょうめい開始かいし
  • 1962ねん、3月21にちと25にちほらおくきんふち太田おおた正道せいどう杉村すぎむら昭弘あきひろによる日本にっぽん最初さいしょ洞窟どうくつ潜水せんすい探検たんけんおこなわれた。
  • 1963ねん黒谷くろたにささえほらおくからあなドリーネへつうじる隧道すいどう竣工しゅんこうした。
  • 2005ねんの2つの鍾乳洞しょうにゅうどうけいきよしあな大正たいしょうほらとあわせ、秋吉台あきよしだい地下水ちかすいけいという名称めいしょうラムサール条約じょうやく登録とうろく湿地しっちとなった[10]
  • 2007ねん秋吉台あきよしだいとともに日本にっぽん地質ちしつひゃくせん選定せんていされた。
  • 2015ねん、「Mine秋吉台あきよしだい」として日本にっぽんジオパーク選定せんていされた。

名称めいしょうについて

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洞口ほらぐちたきがあるためにふるくから「たきあな」とばれていたが、1926ねん大正たいしょう15ねん5月30にち東宮とうぐう当時とうじ25さい大正天皇たいしょうてんのう皇太子こうたいし昭和しょうわ天皇てんのう)が行啓ぎょうけいおり、この鍾乳洞しょうにゅうどう一時いちじあいだかけて探勝たんしょう予定よていを40ふん超過ちょうか[11][12]昼食ちゅうしょく、「たきあな」の名称めいしょうについて話題わだいとなる[13]東宮とうぐう質問しつもんしたところ、とき山口やまぐち県知事けんちじ大森おおもり吉五郎きちごろうは、以前いぜんからとなつたえた名称めいしょうであり、その所在地しょざいちものがかくとなえていたと回答かいとう。するととき内大臣ないだいじん牧野まきのしんあきらから「たきあな」とはなんだか名実めいじつ相伴しょうばんしないかんがあるからなにとか名称めいしょうをつけかえたらよかろうとの提案ていあんがあった。これにたいして大森おおもりは、「天下てんかほこるべきこの鍾乳洞しょうにゅうどうにふさわしい殿下でんかからいただくことはおそおおいので牧野まきの内大臣ないだいじんから命名めいめいしていただきたい」とこたえたが、牧野ぼくやいわく「この「たきあな」の今回こんかい行啓ぎょうけい記念きねん殿下でんか思召おぼしめしによってちかあらためて一段いちだん光彩こうさいえることがよかろう」とのことだった。公式こうしきには大森おおもり県知事けんちじから侍従じじゅうちょう入江いりえためもりあらたな名称めいしょうせんじょう依頼いらいしたと記録きろくされている[13]

1926ねん大正たいしょう15ねん)6がつ17にちぼうちょう新聞しんぶんは「秋吉あきよしたきあな入江いりえ侍従じじゅうちょうから「秋芳しゅうほうほら」と命名めいめいされた」とほうじた。東京とうきょう滞在たいざいちゅう大森おおもり知事ちじから山口やまぐちけん電報でんぽう通達つうたつされたが、その電文でんぶんにはただ「あきよしどう」とあるのみで漢字かんじ説明せつめいがないので「秋吉あきよしほら」と命名めいめいされたと当初とうしょ解釈かいしゃくされた(現地げんちきゅうむらめいが「秋吉あきよしむら」でもあった)。しかしこのについて、ねんのため折返おりかえ知事ちじ照会しょうかいした結果けっか「よしのかおるなり」との返電へんでんがあったので「秋芳しゅうほうほら」とくことが判明はんめいした。こうして6がつ23にち大森おおもり知事ちじから村長そんちょうに「秋芳しゅうほうほら」の伝達でんたつされた[3][13]。7月14にち当時とうじ秋吉あきよしむら村長そんちょう根来ねごろ義興よしおき)は内務ないむ大臣だいじんたいし、「たきあな」を「秋芳しゅうほうほら」、洞窟どうくつない名称めいしょう一部いちぶ変更へんこうとど[13]

上述じょうじゅつのとおり、当初とうしょから「秋芳しゅうほうほら」は「あきよしどう」が正式せいしきかたであるが、「しゅうほうどう」のみも慣用かんようてき普及ふきゅうしており、1955ねん秋吉あきよしむらふくむ4箇村が合併がっぺいしたさいには町名ちょうめい秋芳しゅうほうまち(しゅうほうちょう)とした。その1963ねん山口やまぐち国体こくたい開催かいさいされたさい秋芳しゅうほうまち多数たすう観光かんこうきゃく来訪らいほう予期よきして宮内庁くないちょう秋芳しゅうほうほらかたさい確認かくにんし、「あきよしどう」であるとの回答かいとうたが、現在げんざいでも地元じもとでは、山口やまぐちけん公式こうしきサイトで秋芳しゅうほうほら観光かんこうセンターのことを「しゅうほうどうかんこうせんたー」と呼称こしょうしている[14]など「しゅうほうどう」のみも普及ふきゅうしている。

洞内ほらないおも名所めいしょ抜粋ばっすい

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  • 長淵ながぶちはばやく15m、ながさ100mの直線ちょくせんてき地下ちかかわ上方かみがたやく10mにすうまんねんまえかわあとしめいわだながある。
  • ひゃくまいさら世界せかいてきにもられているいちぐんあぜせきからなる石灰せっかいはなだん東宮とうぐう行啓ぎょうけいまえちぢみさら[13]
  • 洞内ほらない富士ふじ直径ちょっけいやく5mの巨大きょだい石柱せきちゅう下部かぶフローストーンすそひろがりとなり、富士山ふじさんのようなスロープをつくっている。
 
長淵ながぶち付近ふきん
  • 千畳敷せんじょうじきはば80m、ながさ175m、高低こうてい35mの、日本にっぽんだい2現存げんそんではだい1)の巨大きょだい洞内ほらない空間くうかん観光かんこうすうまんねんまえしょうじただい規模きぼ落盤らくばんそううえのぼっている。
  • かさづくし:むかしかさのように、天井てんじょうから沢山たくさん鍾乳石しょうにゅうせきかさのようにぶらがっている。改称かいしょうまえかさ[13]
  • 大黒柱だいこくばしら鍾乳石しょうにゅうせき石筍せきじゅんがつながって、天井てんじょうささえているかのような石柱せきちゅうをつくっている。
  • 黄金おうごんばしら(こがねばしら):たかやく15mの巨大きょだい石柱せきちゅうじょうフローストーン。秋芳しゅうほうほらのシンボル。むかしかねつりばしらきむはしらとも)とんだ[13]
  • 五月雨さみだれ御殿ごてん無数むすう鍾乳石しょうにゅうせき天井てんじょうからがっている大空おおぞらあいだ

名所めいしょめいなかには明治めいじまつうめ原文げんぶんろうによる開発かいはつとはわっているものもある。美祢みねぐん細見ほそみ絵図えずえがかれた江戸えど時代じだいまつの32けい不明ふめいであるが、日本にっぽん各地かくちめぐあるくことをたのしみとしていた地元じもとひと名付なづけたものという。

ひゃくまいさら旧名きゅうめいちぢみさら)、せん町田まちだ(〃ひゃく町田まちだ)、かさづくし(〃かさ)、黄金おうごんばしら(〃きむはしら)、岩谷いわたに観音かんのん(〃あな観音かんのん)、黒谷くろたに(〃地獄じごく)など6名称めいしょう東宮とうぐう行啓ぎょうけいほらめいとも入江いりえ東宮とうぐう侍従じじゅうちょうから改名かいめいされたもの[15][13]

洞窟どうくつ形成けいせい

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初期しょき形態けいたい誕生たんじょうした年代ねんだいへのかんがかたによって、形成けいせい前半ぜんはんにはA、Bとおりのせつがある[16]

 A.やく110まんねんまえ地下水ちかすいめんがた横穴よこあな誕生たんじょう山麓さんろくおおきないずみがあった)。

  1. 地下ちかかわ侵食しんしょくげ)につづいて、やく70まんねんまえ開口かいこう
  2. すうじゅうまんねんまえすうまんねんまえにかけて、地下ちかかわ上流じょうりゅうから大量たいりょう砂礫されきそう流入りゅうにゅう

 B.10すうまんねんまえ地下水ちかすいめんがた横穴よこあな誕生たんじょう山麓さんろくおおきないずみがあった)。

  1. 地下ちかかわ侵食しんしょくげ)につづいて、やく10まんねんまえ開口かいこう
  2. すうまんねんまえ地下ちかかわ上流じょうりゅうから大量たいりょう砂礫されきそう流入りゅうにゅう
    8〜9まんねんまえには阿蘇あそカルデラ噴火ふんかによって大量たいりょう火山灰かざんばい火砕流かさいりゅう)が秋吉台あきよしだいおおい、洞窟どうくつないにもてき流入りゅうにゅうした。以降いこう上記じょうきA、Bいずれかにかかわらず以下いかのようにかんがえられている。
  3. ほらないにおける巨大きょだい落盤らくばん
  4. 黄金おうごんばしらをはじめとするおおくの洞穴どうけつ生成せいせいぶつ発達はったつし、洞口ほらぐちたきしょうじた(ひゃくまいさらがもっともあたらしい時代じだいにできた洞窟どうくつ生成せいせいぶつひとつで、洞口ほらぐちたきをつくるいわもそうである)。

洞内ほらないもの

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洞内ほらないほろ気象きしょう

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洞窟どうくつない気温きおんはふつうそのとし平均へいきん気温きおんにほぼ一致いっちするとわれるが、秋芳しゅうほうほらでは洞口ほらぐちおおきいために外気がいき影響えいきょうつよけ、気温きおん湿度しつどぶし変化へんかられる。とし変化へんか洞口ほらぐちちかくで気温きおん5℃~18℃、湿度しつど80%~95%であるが、ほらおくでは年間ねんかんつうじてそれぞれ16℃、95%である[17]

ほらおく天井てんじょうには風穴かざあなばれるふかさ90mの縦穴たてあな地上ちじょうまでび、煙突えんとつ効果こうかによって冬季とうきには外気がいきくらべてあたたかいほらない空気くうきしろ水蒸気すいじょうきはしらをつくってげる。夏季かきにはぎゃく外気がいきくらべてつめたいほらない空気くうき洞口ほらぐちからながし、風穴かざあなから外気がいきむ。煙突えんとつ効果こうかによる空気くうきながれはエレベーターの縦坑たてこう黒谷くろたにささえほら出入口でいりぐち人工じんこう隧道すいどうによってもしょうじているため、その防止ぼうし処置しょちほどこされている。

夏季かき洞口ほらぐちちかくの洞内ほらないでは、下層かそうほらおくからながつめたい空気くうき上層じょうそう洞口ほらぐちから流入りゅうにゅうするあたたかい外気がいき不連続ふれんぞくそうをつくり、洞内ほらないきりがしばしば発生はっせいする。

 
秋芳しゅうほうほら観光かんこうセンター みぎ後方こうほうがバスセンター
 
秋芳しゅうほうほらまえとおりには石材せきざいけい土産みやげなら

洞窟どうくつおおきさ

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  • そう延長えんちょう測量そくりょう基線きせん):8850m(秋芳しゅうほうほら風穴かざあなかずらあな
  • 最大さいだい高低こうてい:137m(秋芳しゅうほうほら風穴かざあな
  • 最大さいだいホール:ながさ175m×はば80m×たかさ35m(千畳敷せんじょうじき
  • 最大さいだい地底ちていみずうみながさ60m×はば15m×ふかさ3m(きんふち

交通こうつう手段しゅだん

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秋芳しゅうほうほらエレベーターこう

秋芳しゅうほうほら観光かんこうセンター」にバスターミナルが併設へいせつされている。

秋芳しゅうほうほら観光かんこうセンター周辺しゅうへん有料ゆうりょう市営しえい駐車ちゅうしゃじょうがある。

秋芳しゅうほうほら観光かんこうセンターから徒歩とほ400mで秋芳しゅうほうほら正面しょうめん入口いりくち秋芳しゅうほうほら案内あんないしょ)にく。

洞内ほらない観光かんこうコース終点しゅうてんからは人工じんこう隧道すいどうをへて、秋吉台あきよしだいじょう巨大きょだい凹地(あな)のそこ、そこに黒谷くろたに案内あんないしょ黒谷くろたにこう)がある。秋吉台あきよしだいじょうには「秋吉台あきよしだい案内あんないしょ」(エレベーターこう)があり、たいじょうから洞内ほらない黄金おうごんばしらちかくにアクセスできる。

秋芳しゅうほうほら観光かんこうセンター〜エレベーターこう黒谷くろたにこう展望てんぼうだいの4箇所かしょ、および長者ちょうじゃもり大正たいしょうほらけいきよしあな、サファリランドなどがあるおく秋吉台あきよしだい方面ほうめん巡回じゅんかいする交通こうつう手段しゅだんとして、平日へいじつ乗合のりあいタクシー(かるすとタクシー)、土曜どよう休日きゅうじつ巡回じゅんかいバス(中国ちゅうごくジェイアールバス)が運行うんこうされている。

  • エレベータこう黒谷くろたにこう展望てんぼうだいちかくにはそれぞれ駐車ちゅうしゃじょう整備せいびされている(秋芳しゅうほうほら観光かんこうセンターからくるますうふん)。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 「しゅうほうどう」のみは正式せいしきなものではない。詳細しょうさい#名称めいしょうについて参照さんしょう
  2. ^ 棚橋たなはしさきがつ (2017ねん7がつ14にち). “秋芳しゅうほうほらそう延長えんちょう、3に 10.3キロ、しん空間くうかんも”. 朝日新聞あさひしんぶん (朝日新聞社あさひしんぶんしゃ): p. 朝刊ちょうかん 山口やまぐちばん 
  3. ^ a b 秋芳しゅうほうまち, 1963
  4. ^ 山口やまぐちけん文書ぶんしょかんへん, 1962. ぼうちょう風土ふうど注進ちゅうしんあん美祢みねおさむばん復刻ふっこくばん).山口やまぐち県立けんりつ山口やまぐち図書館としょかん発行はっこう
  5. ^ 秋芳しゅうほうまち地方ちほう文化ぶんか研究けんきゅう, no.46, 2010
  6. ^ 山口やまぐちケイビングクラブ会報かいほう, no.30, 1995. 秋吉台あきよしだい科学かがく博物館はくぶつかん
  7. ^ ぼうちょう新聞しんぶん, no.8249-8257, 1912.
  8. ^ (2009ねん1がつ13にち西日本にしにほん新聞しんぶん)『「秋芳しゅうほうほらひらきほら100周年しゅうねん ライトアップ、新聞しんぶん切手きって発行はっこう写真しゃしんてん… 観光かんこうきゃくぞうへ 準備じゅんび着々ちゃくちゃく
  9. ^ 岩窟がんくつないのエレベーター 秋芳しゅうほうほら秋吉台あきよしだいすうふんむすぶ」『交通こうつう新聞しんぶん交通こうつう協力きょうりょくかい、1956ねん12月14にち、2めん
  10. ^ a b c Akiyoshidai Groundwater System | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (2005ねん11月8にち). 2023ねん4がつ10日とおか閲覧えつらん
  11. ^ #昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろくだいよんかん486-487ぺーじ(秋吉あきよしむら/たきあな)
  12. ^ 大正たいしょう15ねん6がつ1にち官報かんぽうだい4130ごう国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション コマ7『◎東宮とうぐう行啓ぎょうけい 皇太子こうたいし殿下でんか去月きょげつじゅう九日午前十時山口御泊所御出門別格官幣社豊榮神社、どう野田のだ神社じんじゃ参拝さんぱい歩兵ほへいだいよんじゅう聯隊れんたい将校しょうこう集會しゅうかいしょ山口やまぐち地方裁判所ちほうさいばんしょ亀山かめやま公園こうえん縣立けんりつ教育きょういく博物館はくぶつかん行啓ぎょうけい午後ごごいちじゅうふんさいもん山口やまぐち高等こうとう商業しょうぎょう學校がっこう親閲しんえつじょう(山口やまぐち高等こうとう商業しょうぎょう學校がっこう運動うんどうじょう)、山口やまぐちけん師範しはん學校がっこう山口高等学校やまぐちこうとうがっこう行啓ぎょうけいどうさんよん十分じゅうぶんはくしょ還啓かんけいアラセラレ、どうさん十日午前八時山口御泊所御出門たきあな行啓ぎょうけい午後ごごれいさん十分萩御泊所公爵毛利元照別邸ヘやすばしアラセラレ午後ごご一時三十分萩御泊所御出門萩城址、親閲しんえつじょう(山口やまぐち縣立けんりつ萩中はぎなか學校がっこう運動うんどうじょう)、明倫めいりんかん吉田よしだ松陰しょういん史蹟しせき伊藤いとう博文ひろぶみきゅうやしき展望てんぼうしょ(吉田よしだ松陰しょういん誕生たんじょう)ヘ行啓ぎょうけいどうさんじゅうはちふんはぎはくしょ還啓かんけいどうさんよん十分じゅうぶんさいもん明神池みょうじんいけ行啓ぎょうけいどうじゅうふんはぎはくしょ還啓かんけいアラセラレタリ』
  13. ^ a b c d e f g h #昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろくだいよんかん489-490ぺーじ(秋芳しゅうほうほら命名めいめい)
  14. ^ 秋芳しゅうほうほら観光かんこうセンター やまぐち安心あんしんおでかけ福祉ふくしマップ 山口やまぐちけん
  15. ^ 岩根いわね又重またしげ, 1927. 天下てんか奇勝きしょう秋芳しゅうほうほらぼうちょう郷土きょうど研究けんきゅう資料しりょう発行はっこうしょ
  16. ^ 秋芳しゅうほうまち地方ちほう文化ぶんか研究けんきゅう, 44ごう, 2008
  17. ^ 秋芳しゅうほうほら自然しぜん観察かんさつ, 1991. 秋吉台あきよしだい科学かがく博物館はくぶつかん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 宮内庁くないちょう へん昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろく だいよん 自大じだいせいじゅうさんねんいたり昭和しょうわねん東京書籍とうきょうしょせき株式会社かぶしきがいしゃ、2015ねん3がつISBN 9784487744046 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい3413ふん40びょう 東経とうけい13118ふん14びょう / 北緯ほくい34.22778 東経とうけい131.30389 / 34.22778; 131.30389