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税所篤 - Wikipedia

税所さいしょあつし

日本にっぽん武士ぶし

税所さいしょ あつし(さいしょ あつし、文政ぶんせい10ねん11月5にち1827ねん12月22にち)- 明治めいじ43ねん1910ねん6月21にち)は、日本にっぽん武士ぶし薩摩さつま藩士はんし)、官僚かんりょう子爵ししゃく内国ないこく事務じむけん判事はんじ西日本にしにほん各地かくち県知事けんちじ県令けんれい元老げんろう院議いんぎかん宮中きゅうちゅう顧問こもんかん枢密すうみつ顧問こもんかんひとし歴任れきにんした。通称つうしょうさん左衛門さえもんようはち長蔵ちょうぞうごういわおしゃおおとりきたはつあつみつるのち篤信とくしんとも名乗なのった。剛直ごうちょくをもってられ、旧幕きゅうばく時代じだい王事おうじ奔走ほんそうし、一時いちじ西郷さいごう隆盛たかもり大久保おおくぼ利通としみちとも薩南のさんすぐるならしょうされた[1]薩摩さつまばつ重鎮じゅうちんである。

税所さいしょ あつし
生年月日せいねんがっぴ (1827-12-22) 1827ねん12月22にち
出生しゅっしょう 日本にっぽん薩摩さつまこく鹿児島かごしまぐん鹿児島かごしま近在きんざい荒田あらだむら
ぼつ年月日ねんがっぴ (1910-06-21) 1910ねん6月21にち(82さいぼつ
ぜんしょく 武士ぶし薩摩さつまはん
称号しょうごう せい
子爵ししゃく
勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう
旭日大綬章あさひだいじゅしょう
配偶はいぐうしゃ 椎原しいばはちじゅう

在任ざいにん期間きかん 1869ねん1がつ22にち - 7がつ17にち

在任ざいにん期間きかん 1869ねん7がつ17にち - 1870ねん8がつ19にち

だい2だい さかいけん知事ちじさかいけんれい
在任ざいにん期間きかん 1870ねん8がつ19にち - 1881ねん2がつ7にち

在任ざいにん期間きかん 1881ねん7がつ12にち - - 1887ねん11月9にち

在任ざいにん期間きかん 1887ねん11月9にち - 1889ねん12月26にち

その職歴しょくれき
日本における郵船商船規則の旗 元老げんろう院議いんぎかん再任さいにん
(1889ねん12月26にち - 1890ねん6月5にち
日本における郵船商船規則の旗 宮中きゅうちゅう顧問こもんかん
(1890ねん6月5にち - 1900ねん5月30にち
日本における郵船商船規則の旗 枢密すうみつ顧問こもんかん
(1905ねん4がつ28にち - 1910ねん6月21にち
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人物じんぶつ来歴らいれき

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幼年ようねん青年せいねん時代じだい

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薩摩さつま藩士はんし税所さいしょあつしりん次男じなんとしてまれる。幼少ようしょう生活せいかつまずしいものであったが、実兄じっけいあつきよしじょうねがい)が吉祥院きっしょういん住職じゅうしょくとして島津しまつ久光ひさみつちょうぐうけるにしたがい、税所さいしょらしぶりは好転こうてんした。

藩主はんしゅ島津しまつ斉彬なりあきらみとめられて勘定かんじょうしょぐんかたいで三島みしまかたぞうやくにんじられた。改革かいかくであるせいちゅうぐみ創設そうせつメンバーとして、幼少ようしょうからの親友しんゆう郷中ごうなか仲間なかまであった西郷さいごう隆盛たかもり大久保おおくぼ利通としみち吉井よしい友実ともみらと行動こうどうともにする。幕府ばくふがオランダ海軍かいぐん士官しかんまねいて長崎ながさき海軍かいぐん伝習でんしゅうしょをつくると斉彬なりあきら薩摩さつまはんからじゅうすうめい藩士はんし選抜せんばつして派遣はけんしているが、税所さいしょもそのうち一人ひとりえらばれている。おな薩摩さつまはんからは川村かわむらじゅんよし五代ごだいともあつしなども派遣はけんされていた。

安政あんせい5ねん1858ねん)11月、西郷さいごう隆盛たかもりそうつきあきらとも鹿児島湾かごしまわん入水じゅすいしたさい蘇生そせいした西郷さいごう意識いしきもどすまで、枕頭ちんとうにて看病かんびょうおこなう。その西郷さいごう奄美あまみ大島おおしまながされると、税所さいしょ手紙てがみつうじた情報じょうほう交換こうかん生活せいかつ物資ぶっし援助えんじょとうおこない、西郷さいごう奄美あまみ大島おおしま潜伏せんぷく生活せいかつ支援しえんつづけた。

つきあきらよんきゅうにち法要ほうよう吉祥院きっしょういんいとなまれ、以来いらいしばしば吉祥院きっしょういん有志ゆうしたちの密談みつだんしょとして利用りようされるようになった。江戸えど勤番きんばんつとめていたころ国学こくがくしゃ平田ひらた篤胤あつたねひらいた平田ひらたじゅく門下生もんかせいであった税所さいしょは、篤胤あつたね著書ちょしょ史伝しでん』を新刊しんかん刊行かんこうのたびに江戸えどより薩摩さつませていたが、このしょしらげちゅうぐみ同志どうしであった大久保おおくぼ利通としみち建白けんぱくしょせいちゅうぐみ名簿めいぼはさんだうえで、あにじょうねがいつうじて久光ひさみつ献上けんじょうした。これは大久保おおくぼかくひくく、はんただしにより久光ひさみつ謁見えっけんすることができなかったため、大久保おおくぼ存在そんざい久光ひさみつ紹介しょうかいするためのさくとしておこなわれたものであった。こうした税所さいしょ助力じょりょくつうじて大久保おおくぼ久光ひさみつ知遇ちぐうることとなり、以来いらいはん要職ようしょく抜擢ばってきされることとなる。万延まんえん元年がんねん1860ねん)には税所さいしょ自身じしん二之にのまる御用ごよう部屋へや久光ひさみつ居室きょしつ書役かきやく抜擢ばってきされ、久光ひさみつ側近そっきんとしてその信任しんにんもますますあつくなった。奄美あまみ大島おおしまながされていた西郷さいごう召還しょうかん実現じつげんしたのは、久光ひさみつ信任しんにんていた大久保おおくぼ税所さいしょらの進言しんげんところおおきい。

幕末ばくまつ

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禁門きんもんへんでは小松こまつきよしれん帯刀たいとうひきいる薩摩さつまぐん参謀さんぼうとしていちたいひきいて参戦さんせん、3はつ銃弾じゅうだんびる重傷じゅうしょういながらも、長州ちょうしゅうはんてきしょう国司こくしおやしょう部隊ぶたい退却たいきゃくさせるなど武功ぶこうげた[2]禁門きんもんへん以後いごは、西郷さいごう片腕かたうでとして活躍かつやくだいいち長州ちょうしゅう征伐せいばつさいには、薩摩さつまへの怨嗟えんさはげしかった長州ちょうしゅうへと西郷さいごう隆盛たかもり吉井よしい友実ともみともに3にんでおもむき、岩国いわくに長州ちょうしゅうかた代表だいひょう吉川よしかわけいみきかんぶつ)を説得せっとくして長州ちょうしゅうはんさん家老がろう処分しょぶんもうれるなど、長州ちょうしゅうはん降伏ごうぶくにおける処理しょりつとめたほか、交流こうりゅうのあった中岡なかおか慎太郎しんたろうらと協力きょうりょくし、きょう筑前ちくぜん遷移せんいたった。戊辰戦争ぼしんせんそうでは鳥羽とば伏見ふしみたたかにおいて、開戦かいせん慶応けいおう4ねん(1868ねん)1がつ3にちよる大坂おおさか薩摩さつま藩邸はんていきゅう幕府ばくふぐん包囲ほういされたさい、これを察知さっちした税所さいしょみずか藩邸はんていはなち、そのすき保管ほかんしてあったはんきんさんまんりょう留守居るすいやく木場きばつたえない薩摩さつま藩士はんし樺山かばやまゆうらとともいちまんりょうずつかかえて脱出だっしゅつ、そのまま奈良なら経由けいゆして京都きょうと西郷さいごうのもとにかった。京都きょうと到着とうちゃく、すでにきゅう幕府ばくふぐん首魁しゅかい徳川とくがわ慶喜よしのぶひがし奔したのちであった。税所さいしょさんまんりょうはんきん西郷さいごうあづけ、東征とうせいため軍資金ぐんしきんとした。その大坂おおさかにあってしん政府せいふぐん軍事ぐんじなどの財政ざいせい処理しょりつとめた。

明治めいじ時代じだい

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右側みぎがわ大久保おおくぼ左側ひだりがわさかい県知事けんちじ時代じだい税所さいしょあつしおもわれる。大久保おおくぼ日記にっき明治めいじよんねんがつろくにちじょう)に「今日きょう税所さいしょ同行どうこう写真しゃしんしょとうこうまいり」とある。

しん政府せいふでは内国ないこく事務じむけん判事はんじいで河内かわうち兵庫ひょうごさかい奈良ならなど、大久保おおくぼ推薦すいせんけるかたちで、当時とうじまだ政情せいじょう不安定ふあんていであった西日本にしにほん各地かくち県令けんれい知事ちじ歴任れきにんする。さかい県知事けんちじ県令けんれい時代じだいには、けん師範しはん学校がっこう学校がっこう病院びょういんおんなべにじょう女学校じょがっこう)・さかいばん教科書きょうかしょ発行はっこうなど教育きょういく行政ぎょうせいや、さかい灯台とうだい建造けんぞうなど港湾こうわん改修かいしゅう紡績ぼうせきしょ・レンガ工場こうじょう建設けんせつさかい博覧はくらんかいなどしょう工業こうぎょう振興しんこうのほか、浜寺公園はまでらこうえん大浜おおはま公園こうえん奈良公園ならこうえん開設かいせつなど先進せんしんてきけんおこなった。さかいけんれいとしておおくの治績ちせきをあげ、能吏のうりとして評判ひょうばんたかかった[3]という。当時とうじさかいけん経済けいざい振興しんこう福利ふくり厚生こうせい充実じゅうじつぶりはけん模範もはんとされた。さかいけんれい在任ざいにんちゅうこった明治めいじろくねん政変せいへんさい帰郷ききょう途次とじであった西郷さいごう隆盛たかもり村田むらた新八しんぱちさかいけんにおいて面会めんかいしており、そのさいかれにん様子ようす大久保おおくぼ書簡しょかんにて詳細しょうさいつたえている、また、書簡しょかんちゅうには鹿児島かごしま間諜かんちょう(スパイ)をおくんだこと記載きさいされており、政変せいへん以降いこう基本きほんてき政府せいふがわ大久保おおくぼりのスタンスであったことうかがえる。明治めいじ9ねん1876ねん)12月、楠木くすのき正行まさゆきたいしておくしたがえさんさい勅使ちょくしつとめている。西南せいなん戦争せんそう勃発ぼっぱつした明治めいじ10ねん1877ねん)は、明治天皇めいじてんのう奈良なら行幸ぎょうこうにおける事務じむ吉野よしのみや造営ぞうえい建議けんぎなどをおこなっており、西南せいなん戦争せんそう関与かんよしておらずつみわれることはなかった(そもそも天皇てんのう奈良なら行幸ぎょうこうは、明治めいじ政府せいふ誕生たんじょう以来いらい最大さいだい危機ききである西南せいなん戦争せんそう最中さいちゅうに、わざわざ畝傍山うねびやま東北とうほくりょう神武じんむ天皇陵てんのうりょう)を天皇てんのう参拝さんぱいしてその存在そんざいをアピールするという一種いっしゅ示威じい行為こういでもあり、それを仕切しき立場たちば税所さいしょ完全かんぜん政府せいふがわであった)。明治めいじ13ねん1880ねん)3がつには東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでん南大門なんだいもん修繕しゅうぜん、6がつには畝傍山うねびやま東北とうほくりょう神武じんむ天皇てんのうりょう)の修復しゅうふくおこなわれたが、とも税所さいしょ建言けんげんもとづくものである。

奈良ならけんとのかかわり

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明治めいじ9ねん(1876ねん)4がつ18にち奈良ならけんさかいけん編入へんにゅうされ、明治めいじ14ねん1881ねん)2がつ7にちさかいけん大阪おおさか編入へんにゅうされたが、地元じもと有志ゆうしらにより大阪おおさかからの分離ぶんり独立どくりつもとめる奈良ならけんぶんおけ運動うんどうがおこると、当時とうじ元老げんろう院議いんぎかんであった税所さいしょは、この運動うんどうたい好意こうい理解りかいしめし(元々もともと税所さいしょ大阪おおさかへの併合へいごう反対はんたいであった、そのむねはすでに大久保おおくぼ書簡しょかん記述きじゅつしている)、運動うんどう推進すいしんしゃらに助言じょげんあたえ、かれらのんで長州ちょうしゅうばつ政府せいふ高官こうかん上申じょうしんするなど、奈良ならけん成立せいりつふかかかわった。明治めいじ20ねん1887ねん)12月1にち新生しんせい奈良ならけん発足ほっそくすると、新任しんにんぐんちょう平田ひらたよしみ寄付きふきん公募こうぼによる公園こうえん整備せいびすすめるとともに県知事けんちじ税所さいしょあつし奈良公園ならこうえん拡張かくちょう上申じょうしんした(ただ、発案はつあんしゃ税所さいしょ本人ほんにんであり、平田ひらたからの上申じょうしん形式けいしきてきなものであった)。これをれた税所さいしょ明治めいじ21ねん(1888ねん)、公園こうえん拡張かくちょう政府せいふ申請しんせい内務ないむ大臣だいじん山縣やまがた有朋ありとものう商務しょうむ大臣だいじん井上いのうえかおる連名れんめい認可にんかされた。この結果けっか公園こうえん拡張かくちょうおこなわれ、明治めいじ13ねん1880ねんで14ヘクタールであった公園こうえん面積めんせきは、明治めいじ22ねん1889ねん)には、東大寺とうだいじ境内けいだい春日しゅんじつ若草山わかくさやまなどの山間さんかん編入へんにゅうし、面積めんせきは535ヘクタールとなり、これが今日きょう奈良公園ならこうえんのアウトラインとなった(税所さいしょ自身じしん所有しょゆうしていた山林さんりん雑司ぞうしむらりょう惣持そうじいんやま寄付きふしている)。奈良なら県知事けんちじ時代じだいにおけるその事績じせきとしては、神武じんむ天皇てんのうまつるために橿原神宮かしはらじんぐう造営ぞうえい奏請そうせい私費しひとうじての吉野山よしのやまへのだい規模きぼさくらの栽植、廃仏毀釈はいぶつきしゃくにより破壊はかいされた興福寺こうふくじ再興さいこう十津川とつかわだい水害すいがい被災ひさいみんらの北海道ほっかいどう入植にゅうしょく事業じぎょうなどがある(北海道ほっかいどう新十津川しんとつかわまちでは毎年まいとし6がつ20日はつかひらきまち記念きねん式典しきてんひらかれているが、十津川とつかわむらからの移住いじゅうさい知事ちじであった税所さいしょからおくられた告諭こくゆむのがならわしとなっている[4])。政治せいじとしての税所さいしょ一貫いっかんして、天皇てんのう権威けんい高揚こうようおよび京都きょうと奈良ならとうにおける伝統でんとう文化ぶんか保護ほご育成いくせい重点じゅうてんいていた。税所さいしょ古物ふるもの美術びじゅつひん精通せいつうしており文人もんと知識ちしきじんとの交流こうりゅうさかんで、さかいけんれい時代じだいには大鳥おおとり大社たいしゃだい宮司ぐうじ富岡とみおか鉄斎てっさい推薦すいせん[5]し、奈良なら県知事けんちじ時代じだいの1888ねん6がつには法隆寺ほうりゅうじ宝物ほうもつ調査ちょうさ途次とじであったアーネスト・フェノロサ淨教寺じょうきょうじ本堂ほんどうまねいて講演こうえん依頼いらい演題えんだい奈良なら諸君しょくんつげグ』)するなど、文化ぶんか振興しんこうてき政策せいさく活動かつどう非常ひじょう熱心ねっしんであった。

のちに宮中きゅうちゅう顧問こもんかん枢密すうみつ顧問こもんかんつとめた。明治めいじ20ねん1887ねん)5がつ24にち維新いしんこうにより子爵ししゃくさづけられる[6]明治めいじ43ねん(1910ねん)6がつ21にち死去しきょ享年きょうねん84。

栄典えいてん

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位階いかい
勲章くんしょうとう
  • 文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)に、奄美あまみ大島おおしま流罪るざい西郷さいごう召還しょうかん大久保おおくぼとともに島津しまつ久光ひさみつ嘆願たんがんしている。
  • さかいけんれい時代じだい浜寺公園はまでらこうえんうちまつ伐採ばっさいして開発かいはつしようとするが、大久保おおくぼ反対はんたいするうたまれて断念だんねんした。
  • 秋山あきやま好古よしふる大阪おおさか師範しはん学校がっこう受験じゅけんのためさかいけんおとずれたさい県令けんれいとして対面たいめんしている。このさい秋山あきやま税所さいしょ何者なにものかがわからずまわりのものあたまげるなか一人ひとり棒立ぼうだちしていた。
  • さかいけんれい時代じだい大仙だいせんりょう清掃せいそう政府せいふからめいじられたさいりょうない小屋こやつくり、1年間ねんかん作業さぎょうしていたが、政府せいふあやしまれ、小屋こや撤去てっきょめいじられる。のちに米国べいこくボストン美術館びじゅつかん大仙だいせんりょう発掘はっくつとされる装飾そうしょくひんなどが保存ほぞんされていることから、これがりょうからたものとするならば、県令けんれいみずか盗掘とうくつをしていたのではないかと、考古学こうこがくじょう風説ふうせつになっている。ただしこれは税所さいしょ没後ぼつご藩閥はんばつ政治せいじたい批判ひはんてきなスタンスだったことられる佐竹さたけたけし座談ざだんかいでの発言はつげん昭和しょうわ2ねん(1927ねん)、文芸春秋ぶんげいしゅんじゅう7がつごう掲載けいさいされた「柳田やなぎだ国男くにお佐竹さたけたけし座談ざだんかい」)がその根拠こんきょとなっており、明確めいかく物証ぶっしょう存在そんざいしているわけではない。また、佐竹さたけせんもん歴史れきし学者がくしゃではなく、かれ歴史れきし関係かんけい著作ちょさくについては、その根拠こんきょ脆弱ぜいじゃくさを作家さっか松本まつもと清張せいちょう痛烈つうれつ批判ひはんしている。また江戸えど時代じだいからすでに古墳こふん盗掘とうくつひろおこなわれていたことにも留意りゅういする必要ひつようがある。また、仁徳にんとく天皇陵てんのうりょうは5世紀せいきちゅうごろにつくられたものだが、2011ねんおこなわれた宮内庁くないちょうしょりょう調査ちょうさで、ボストン美術館びじゅつかん所蔵しょぞう出土しゅつどひんが6世紀せいきだい1四半期しはんきものであることが判明はんめいしている。
  • 大久保おおくぼ利通としみちからは全幅ぜんぷく信頼しんらいけており、生涯しょうがいつうじて公私こうしとも密接みっせつ関係かんけいにあった。税所さいしょてられた大久保おおくぼ書簡しょかんからは、大久保おおくぼ税所さいしょたいつよ敬意けいい親愛しんあいをもってせっしていたことが、使用しようされている敬称けいしょうなどからうかがえる(大久保おおくぼから西郷さいごう隆盛たかもり吉井よしい友実ともみてられた書簡しょかんには「〜さま」「〜殿どの」という敬称けいしょうおおいのにたいし、税所さいしょたいしては「税所さいしょ雅兄がけい」、「税所さいしょ老兄ろうけい」、「税所さいしょあつしけい閣下かっか」といったふうに「あに」という表現ひょうげん多用たようしている)。大久保おおくぼ内務ないむきょう時代じだい税所さいしょ体調たいちょう不良ふりょう地方ちほうかん会議かいぎ欠席けっせきしたことがあったが、このさい大久保おおくぼ税所さいしょ持病じびょう気遣きづか書簡しょかんおくり、激務げきむ内務ないむきょう立場たちばにありながら、わざわざ休暇きゅうかつくって税所さいしょ熱海あたみでの湯治とうじ旅行りょこうさそうなど、その気遣きづかいぶりは顕著けんちょであった。
  • 大久保おおくぼ霞ヶ関かすみがせき私邸していてたさい税所さいしょから3せんえん借用しゃくようしているが、このかね大久保おおくぼもとめにおうじて税所さいしょ五代ごだいともあつしからけたものである。税所さいしょさかいけんれいという立場たちばもあり、薩摩さつまはん出身しゅっしん政商せいしょうであるだいとはとく関係かんけいふかかった。
  • 美術びじゅつ鑑定かんてい得意とくいとしていたことから、せいくらいん御物ぎょもつ整理せいりかけ就任しゅうにんしている。
  • わかころ税所さいしょあつしした書生しょせいをしていた村上むらかみ浪六なみろく自伝じでんわがじゅうねん』によると、「身体しんたいしゃくらずして精悍せいかん無比むひ顔面がんめん備前焼びぜんやき羅漢らかんるいして一種いっしゅ異様いよう鬼気ききび、いわゆる薩摩さつまびんハゲ以外いがいその頭上ずじょうてき散弾さんだんけしがためうすくしてしょうぜず、左足ひだりあし関節かんせつまた弾丸だんがんのために屈伸くっしん自由じゆうならず、からだちゅう刀痕とうこんすう箇所かしょ」といった風貌ふうぼうであったという、また同書どうしょにはさかいけんれい時代じだい税所さいしょ剛直ごうちょく人柄ひとがらこまかに描写びょうしゃされている。
  • 一般いっぱんてき美術びじゅつひん収集しゅうしゅうとしてられるぜいしょだが、村上むらかみによると元来がんらいはそのような人物じんぶつではなく、紀尾井きおいざかへんでの大久保おおくぼをきっかけに、書画しょが骨董こっとう刀剣とうけん収集しゅうしゅう没頭ぼっとうするようになり、終日しゅうじつ書斎しょさいにこもり読書どくしょをしてごすことおおくなったという。村上むらかみはその様子ようすを「ほとんこころざしてるがく」と形容けいようし「竹馬たけうまともにして死生しせいあいだに携へきたり、しかも維新いしん以後いごさらに肝胆かんたんしょうらせし大久保おおくぼ利通としみちそのひとうしなひしは、税所さいしょ前途ぜんと生涯しょうがい他人たにんかいざるふかこく一線いっせん横断おうだんせり」とべており、大久保おおくぼ税所さいしょあたえた影響えいきょうおおきかったことがうかがえる。『きのえひがし逸話いつわ』にも「税所さいしょ遭難そうなん(紀尾井きおいざかへん)のことをいてき、慟哭どうこくあまほとんらんとして僅に蘇生そせいした。」といった記述きじゅつがあり、両者りょうしゃ関係かんけいつよさがうかがえる。
  • 元老げんろう一人ひとり松方まつかた正義まさよしおな荒田あらだむら出身しゅっしん後輩こうはいにあたる。松方まつかた晩年ばんねんぜいしょてた書簡しょかんちゅう税所さいしょたいし「閣下かっか」という敬称けいしょうもちいており、元老げんろう栄達えいたつしたのち先輩せんぱいたいするれいをもってせっしていたことがうかがえる。税所さいしょあつし西郷さいごう隆盛たかもり大久保おおくぼ利通としみちともに薩南のさんすぐるひょうされていたという[14]

家族かぞく親族しんぞく

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  • つまはちじゅう(1845年生ねんせい)は京都きょうと平民へいみん服部はっとりゆかり兵衞ひょうえ長女ちょうじょ[15]
  • あついちしげるとう陸軍りくぐん工兵こうへい中佐ちゅうさ河野こうのとおるなり夫人ふじん河野こうのもととも表記ひょうき)、篤三とくぞう岩佐いわさナミとうがいる。なお、あついち次女じじょ・サワは大久保おおくぼろくなん駿しゅんぐまとつぐ。
  • 実兄じっけいあつきよし鹿児島かごしまじょうした吉祥院きっしょういん南泉みないずみいんいん)の住職じゅうしょくであるじょうねがいうみ)で、囲碁いごつうじて大久保おおくぼ島津しまつ久光ひさみつ紹介しょうかいしたことでられる。
  • まご あつしげる あついち貴族きぞくいん子爵ししゃく議員ぎいんつとめた[16]
  • 曾孫そうそんあつみつるは、黒田くろだけいじゅ明仁あきひと上皇じょうこう女婿じょせい)のおばつまとしている。
  • バングラデシュやルワンダで教育きょういく革命かくめいこしている「e-Education プロジェクト」代表だいひょう税所さいしょあつしかい直系ちょっけい子孫しそんである。
  • 鹿児島かごしま出身しゅっしん画家がか橋口はしぐち五葉ごようとは縁戚えんせき関係かんけいにあった、よう東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこうげん東京藝術大学とうきょうげいじゅつだいがく)にかよっていた学生がくせい時代じだい税所さいしょあつし長女ちょうじょにあたる河野こうのもとしたしく親戚しんせきいをしており、彼女かのじょからは税所さいしょあつし肖像しょうぞう制作せいさく依頼いらいされている。また、よう長兄ちょうけいにあたる橋口はしぐちみつぐ次兄じけい橋口はしぐち半次郎はんじろうてた手紙てがみなかでは、税所さいしょをさして「日本にっぽん美術びじゅつあさからぬ関係かんけい老人ろうじん」とべており、当時とうじから美術びじゅつひん界隈かいわいられていたことをうかがわせる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく出典しゅってん

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  1. ^ 手紙てがみつうじて』 - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション
  2. ^ 小松こまつ帯刀たてわき書簡しょかん大久保おおくぼいちぞうあて、7 がつ 20 にち、『玉里たまり』3、史料しりょう番号ばんごう 1095 - 1、458 〜 459 ぺーじ)「大島おおしま西郷さいごう隆盛たかもり)・いちゝ・吉井よしい内田うちだせいふうとう格別かくべつはたらけ御座ぎょざこう大島おおしまあし銃丸じゅうがんあたこうへとも、すこことニ而、今日きょう天龍寺てんりゅうじ出張しゅっちょうしょうなり仕合じあい御座ぎょざこう税所さいしょちょうあつし)も余程よほどあいはたらけさるこうしょう銃丸じゅうがんさんツ受、手負ておい御座ぎょざこう
  3. ^ しょう高根たかね太郎たろう富岡とみおか鉄斎てっさい』109ぺーじ吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ」、新装しんそうばん1985ねん 
  4. ^ むらほうとつかわ2010ねん7がつごう (PDF) - 十津川とつかわむら役場やくば(p.5を参照さんしょう
  5. ^ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん出版しゅっぱん しょう高根たかね太郎たろうちょ人物じんぶつ叢書そうしょ 新装しんそうばん 富岡とみおか鉄斎てっさい』1985ねん 109ぺーじ
  6. ^ 官報かんぽうだい1169ごう明治めいじ20ねん5がつ25にち
  7. ^ 官報かんぽうだい994ごう叙任じょにん及辞れい」1886ねん10がつ21にち
  8. ^ 官報かんぽうだい3301ごう叙任じょにん及辞れい」1894ねん7がつ2にち
  9. ^ 官報かんぽうだい8099ごう叙任じょにん及辞れい」1910ねん6がつ22にち
  10. ^ 官報かんぽうだい1324ごう叙任じょにん及辞れい」1887ねん11月26にち
  11. ^ 官報かんぽうだい1929ごう叙任じょにん及辞れい」1889ねん12月2にち
  12. ^ 官報かんぽうだい6148ごう叙任じょにん及辞れい」1903ねん12月28にち
  13. ^ 官報かんぽうだい7194ごう叙任じょにん及辞れい」1907ねん6がつ24にち
  14. ^ 宛名あてなおおとりきたとあるはおなじ薩州の税所さいしょあつし子爵ししゃく)のことであつた。税所さいしょたいしては松方まつかたこうかくとかいてゐるくらいいずれかとうんへば松方まつかたこうとうよりは先輩せんぱいすうふべきひと西郷さいごう大久保おおくぼともに薩南のさんすぐるうんはれた人物じんぶつであつた。維新いしんかく府縣ふけん知事ちじ歴任れきにん最後さいご枢密すうみつ顧問こもんかんおわりつたが、大臣だいじんにはなつてゐなかつたから其後のひとにはわすれられちであるが、剛直ごうちょくもっ精神せいしんてき感化かんかおおかつた人傑じんけつであつた。松方まつかたこうなぞもにはつね一目いちもくき其栄たち先輩せんぱいたいするれいもってした。文面ぶんめんてものどことなく慇懃いんぎんところがうかがはれるのである。」(時事新報じじしんぽうしゃ政治せいじ へん手紙てがみつうじて』1929ねん 169ぺーじより抜粋ばっすい
  15. ^ 税所さいしょあつし人事じんじ興信録こうしんろく初版しょはん [明治めいじ36(1903)ねん4がつ]
  16. ^ 平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい上巻じょうかん、626ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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公職こうしょく
先代せんだい
小河おがわ一敏かずとし
さかい県知事けんちじ県令けんれい
1871ねん11月22にちより県令けんれい
官選かんせんだい2だい:1870ねん8がつ19にち - 1881ねん2がつ7にち
次代じだい
廃止はいし
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
子爵ししゃく
税所さいしょあつし初代しょだい
1887ねん - 1910ねん
次代じだい
税所さいしょあつしいち