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紀尾井坂の変 - Wikipedia

紀尾井きおいざかへん

1878ねん日本にっぽん発生はっせいした事件じけん

紀尾井きおいざかへん(きおいざかのへん)は、1878ねん明治めいじ11ねん5月14にちに、内務ないむきょう大久保おおくぼ利通としみち東京とうきょう麹町こうじまちこうじまち紀尾井町きおいちょう清水谷しみずだに現在げんざい東京とうきょう千代田ちよだ紀尾井町きおいちょう清水谷しみずだに)で、斬奸状ざんかんじょうをたずさえた士族しぞく6めいによって暗殺あんさつされた事件じけんである。襲撃しゅうげき現場げんば正確せいかくには紀尾井きおいざかではなく坂下さかした付近ふきん現在げんざい清水谷しみずだに公園こうえんまえ)に位置いちする[1]。「紀尾井町きおいちょう事件じけん」「紀尾井きおいざか事件じけん」「大久保おおくぼ利通としみち暗殺あんさつ事件じけん[2]ともいう。

紀尾井きおいざかへん
地図
あか襲撃しゅうげき現場げんばあお紀尾井きおいざか
場所ばしょ 東京とうきょう麹町こうじまちこうじまち紀尾井町きおいちょう清水谷しみずたに
座標ざひょう
北緯ほくい3540ふん51びょう 東経とうけい13944ふん8.2びょう / 北緯ほくい35.68083 東経とうけい139.735611 / 35.68083; 139.735611座標ざひょう: 北緯ほくい3540ふん51びょう 東経とうけい13944ふん8.2びょう / 北緯ほくい35.68083 東経とうけい139.735611 / 35.68083; 139.735611
標的ひょうてき 大久保おおくぼ利通としみち内務ないむきょう
日付ひづけ 1878ねん明治めいじ11ねん5月14にち
攻撃こうげき手段しゅだん 日本にっぽんがたな
攻撃こうげきがわ人数にんずう 6めい
死亡しぼうしゃ 大久保おおくぼ利通としみち
中村なかむら太郎たろう
犯人はんにん 島田しまだ一郎いちろう
ちょうれんごう
杉本すぎもとおつきく
脇田わきたたくみいち
杉村すぎむら文一ぶんいち
浅井あさい寿ことぶきあつし
関与かんよしゃ 松田まつだ秀彦ひでひこ
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暗殺あんさつはん動向どうこう

編集へんしゅう

実行じっこうはん石川いしかわけん士族しぞく島田しまだ一郎いちろうちょうれんごう杉本すぎもとおつきく脇田わきたたくみいち杉村すぎむら文一ぶんいちおよび島根しまねけん士族しぞく浅井あさい寿ことぶきあつしの6めいからる(脇田わきた暗殺あんさつにあたりつみいえにおよぶのをおそれて士族しぞくめて平民へいみんになった)。そのなかでもとく中心ちゅうしんてき存在そんざいであるのが島田しまだ一郎いちろうである。島田しまだ加賀かがはん足軽あしがるとしてだいいち長州ちょうしゅう征伐せいばつ戊辰戦争ぼしんせんそう参加さんかしており、明治維新めいじいしんこう軍人ぐんじんとしての経歴けいれきあゆんでいたが、せいかんろん共鳴きょうめいしており、明治めいじろくねん政変せいへん西郷さいごう隆盛たかもり下野げやしたことに憤激ふんげきして以後いご国事こくじ奔走ほんそうすることになる。

杉村すぎむらひろしただし杉村すぎむら文一ぶんいちあに)らもせいかんろんにあたり従軍じゅうぐんねがいをしている。さらに台湾たいわん出兵しゅっぺいにあたっては杉村すぎむらちょうらはふたた従軍じゅうぐんねがいをしており、台湾たいわん出兵しゅっぺい中止ちゅうしうわさたいする反対はんたい建白けんぱくしょ佐賀さがらん処理しょり批判ひはんする建白けんぱくしょには杉村すぎむらひろし)・島田しまだのち斬奸状ざんかんじょう起草きそうするりくよしなおりくきゅうさつき)がつらねている。しかし、これらの建白けんぱくしょ期待きたいした効果こうかまず、島田しまだらは実力じつりょく行使こうし路線ろせんることになる。1874ねん明治めいじ7ねん)に島田しまだちょう東京とうきょうい、意気投合いきとうごうしている。

ちょう1874ねん明治めいじ7ねん)6がつ台湾たいわん出兵しゅっぺいについて西郷さいごう桐野きりの利秋としあき見解けんかいきに杉村すぎむらひろし)、りく鹿児島かごしまりしている。半年はんとしほど鹿児島かごしま滞在たいざいし、わたし学校がっこう留学りゅうがくしている。1876ねん明治めいじ9ねん)にも鹿児島かごしまりして桐野きりのらと旧交きゅうこうあたためている。

ちょうけんした10がつにはかみ風連ふうれんらん秋月しゅうげつらんはぎらん士族しぞく反乱はんらん相次あいつぎ、島田しまだ金沢かなざわ挙兵きょへい計画けいかく奔走ほんそうするが失敗しっぱい。さらによく1877ねん明治めいじ10ねん)の西南せいなん戦争せんそうでは、島田しまだちょう協力きょうりょくして挙兵きょへい計画けいかく奔走ほんそうしたが、周囲しゅうい説得せっとく苦慮くりょしているあいだに、4がつ政府せいふぐん熊本くまもとじょう入城にゅうじょうしたとの情報じょうほうて、勝敗しょうはいけっしたと計画けいかく中止ちゅうしした。

こののち島田しまだらは高官こうかん暗殺あんさつ方針ほうしん変更へんこうする。杉本すぎもと脇田わきた杉村すぎむららもこの時期じき島田しまだ計画けいかくくわわっている。脇田わきたは10がつちょうは11月、杉村すぎむらは12月、島田しまだ杉本すぎもと翌年よくねん4がつ上京じょうきょうしている。唯一ゆいいつ島根しまねけんひとである浅井あさい西南せいなん戦争せんそう当時とうじ警視庁けいしちょう巡査じゅんさであり警視けいしたいぞくして従軍じゅうぐんし、1877ねん明治めいじ10ねん)8がつ東京とうきょう凱旋がいせんしていたが、禁令きんれいおかして1878ねん明治めいじ11ねん)2がつ免職めんしょくとなり、3月に島田しまだらの暗殺あんさつ計画けいかくって計画けいかくくわわった。

かれらの暗殺あんさつ計画けいかく複数ふくすうのルートをて、当時とうじ警察けいさつのトップであるだい警視けいし川路かわじ利良としよしみみにもはいっていたが川路かわじは「石川いしかわけんじんなにができるか」と相手あいてにしなかった[3]。また高島たかしま鞆之すけ同様どうようのことをはなしているが、その証拠しょうことして「(事件じけん直後ちょくごに)川路かわじ現場げんばんでて、手帳てちょうして人名じんめい指差ゆびさし、この6にん仕業しわざちがいない、と手帳てちょうたたいてなみだをこぼしていた」と証言しょうげんしている[4]。なお、川路かわじ大久保おおくぼ葬儀そうぎ翌日よくじつ大久保おおくぼ参議さんぎ事変じへんづけ進退伺しんたいうかがい」をし、却下きゃっかされている。

斬奸状ざんかんじょう

編集へんしゅう

島田しまだらが大久保おおくぼ暗殺あんさつ持参じさんしていた斬奸状ざんかんじょう(ざんかんじょう)は、1878ねん4がつ下旬げじゅん島田しまだから依頼いらいされてりく起草きそうしたものである。そこでは、有司ゆうし専制せんせいつみとして、以下いかの5ざいげている。

事件じけん数日すうじつまえ悪夢あくむ

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事件じけん数日すうじつまえ前島まえじまひそかは、大久保おおくぼから「西郷さいごう口論こうろんして、わたし西郷さいごうわれてたかがけからちた。自分じぶんのうくだけてピクピクうごいているのがアリアリとえた」という悪夢あくむた、といていた[5]

暗殺あんさつ当日とうじつ

編集へんしゅう

5月14にち早朝そうちょう大久保おおくぼ福島ふくしま県令けんれい山吉やまよし盛典せいてんけん挨拶あいさつけている。そのはなしは2間近まぢかくにおよび、山吉やまよし辞去じきょしようとしたときに大久保おおくぼさんじゅうねん計画けいかくについてべている。これは明治めいじ元年がんねんから30ねんまでを10ねんごとに3け、最初さいしょの10ねん創業そうぎょう時期じきとして戊辰戦争ぼしんせんそう士族しぞく反乱はんらんなどの兵事へいじついやした時期じきつぎの10ねんうち整理せいり殖産しょくさん興業こうぎょう時期じき最後さいごの10ねん後継こうけいしゃによる守成しゅせい時期じきとして、みずからはだい2までちからそそぎたいと抱負ほうふべた[注釈ちゅうしゃく 1]

午前ごぜん8ごろ、大久保おおくぼ麹町こうじまちさんねん町裏まちうら霞ヶ関かすみがせき自邸じてい出発しゅっぱつした。明治天皇めいじてんのう謁見えっけんするため、2とうての馬車ばしゃ赤坂あかさかかり皇居こうきょかった。同行どうこうしていたのは御者ぎょしゃ中村なかむら太郎たろう従者じゅうしゃ芳松よしまつであった。ところが、午前ごぜん830ふんごろに紀尾井町きおいちょう清水谷しみずだに現在げんざい参議院さんぎいん清水谷しみずだに議員ぎいん宿舎しゅくしゃまえ)において暗殺あんさつはん6めい大久保おおくぼ馬車ばしゃ襲撃しゅうげきした。まず芳松よしまつおそわれるが、なんとか逃亡とうぼうし、ちかくの北白川きたしらかわみやていたすけをもとめた。日本にっぽんがたなうまあしったのち馬車ばしゃからりてかった丸腰まるごし中村なかむら太郎たろう刺殺さしころした。馬車ばしゃなか書類しょるいとおしていた大久保おおくぼ異変いへん気付きづ馬車ばしゃからようとしたが、島田しまだらは両方りょうほうとびらふさぎ、大久保おおくぼ馬車ばしゃからきずりろした。大久保おおくぼ島田しまだらにたいして「無礼ぶれいしゃ」と一喝いっかつしたが、護身ごしんのための武装ぶそうをしていなかったことがかたきとなり、なすじゅつもなく斬殺ざんさつされた(享年きょうねん49〈かぞどし〉、みつる47さいぼつ)。介錯かいしゃくとしてくびきされたかたな地面じめんにまでたっしていた。『おく右大臣うだいじんせい大久保おおくぼ利通としみち葬送そうそう略記りゃっきいぬい』によると大久保おおくぼ全身ぜんしんに16箇所かしょきずけており、そのうちの半数はんすうにあたる8箇所かしょ頭部とうぶたいするものであった(頭部とうぶ右側みぎがわ頭部とうぶ1、後頭部こうとうぶ2、がく1、はな1、ひだりあご1、くびりょうよこかく1、その右肩みぎかた1、右腕うわん1、みぎ手甲てっこう2、左腕さわん1、ひだり手甲てっこう1、みぎこし1、左足ひだりあしひざ1)[6]事件じけん直後ちょくごけつけて大久保おおくぼ遺体いたい前島まえじまひそかが「にくこつくだけ、また頭蓋とうがいけてのうなお微動びどうするを」と表現ひょうげんしている。

島田しまだらはかたな大久保おおくぼ一礼いちれいをして撤収てっしゅうし、同日どうじつ大久保おおくぼつみこと政府せいふ高官こうかん木戸きど孝允たかよし岩倉いわくら具視ともみ大隈おおくま重信しげのぶ伊藤いとう博文ひろぶみ黒田くろだ清隆きよたか川路かわじ利良としよし)のつみげた斬奸状ざんかんじょう自首じしゅした。

事件じけん出来事できごと

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事件じけん前後ぜんこう伊藤いとう博文ひろぶみ

伊藤いとう博文ひろぶみは 「大久保おおくぼから手紙てがみた『いまからわたし参朝さんちょうするから貴君きくんください』とうん文意ぶんいである。なんでもあさころされるわずすうふんまえかれたものだ。(中略ちゅうりゃく赤坂あかさかほうから参内さんだいする。こうふは紀尾井きおいざかよりくだりつた。赤坂あかさか内閣ないかくると「凶変きょうへんつてるか。こん大久保おおくぼこうころされた』とうんふとぢや。じつ意外いがいなことでまこと残念ざんねんせんまん次第しだいであつた。すなわち此のときおおやけ我輩わがはいおくられた手紙てがみ大久保おおくぼこう絶筆ぜっぴつである」とかたっている[7]

大久保おおくぼ葬儀そうぎ

事件じけん翌日よくじつ5月15にち大久保おおくぼせい右大臣うだいじん追贈ついぞうされ、大久保おおくぼおよび御者ぎょしゃ中村なかむら慰霊いれいしきおこなわれ、17にち両者りょうしゃ葬儀そうぎおこなわれた。大久保おおくぼ葬儀そうぎ大久保おおくぼていかいするもの1,200めいちかく、費用ひようは4,500えんあまりという近代きんだい日本にっぽん史上しじょう最初さいしょ国葬こくそうきゅう葬儀そうぎとなった。

 
紀尾井きおいざかへん石碑せきひ
会津あいづじん反応はんのう

会津あいづはん出身しゅっしん軍人ぐんじんであるしば五郎ごろうは、当時とうじまだ18さいであったが大久保おおくぼ非業ひごういて、西郷さいごう非業ひごうとあわせて「両雄りょうゆう非業ひごう最期さいごげたるを当然とうぜん帰結きけつでなりとだんじてべり」といている[注釈ちゅうしゃく 2]

石川いしかわけんじん反応はんのう

石川いしかわけんじんなかには、事件じけんいて快哉かいさい手紙てがみ故郷こきょうおくったひとがいたという。

内村うちむら鑑三かんぞう反応はんのう

内村うちむら鑑三かんぞうは『内村うちむら鑑三かんぞう日記にっき』にその感想かんそうしるした。

高官こうかん護衛ごえい強化きょうか

この事件じけんに、政府せいふ高官こうかん移動いどうさいは、すうにん近衛このえへいらによる護衛ごえいくようになった[8]

事件じけん捜査そうさ

警察けいさつ捜査そうさ厳重げんじゅうきわめ、斬奸状ざんかんじょう起草きそうしたりくや、島田しまだたのまれ斬奸状ざんかんじょうかく新聞しんぶんしゃ投稿とうこうしたもの(しかし各紙かくし黙殺もくさつされて掲載けいさいされなかった。「朝野あさの新聞しんぶん」は5月15にち要旨ようしみじか紹介しょうかいした[9]即日そくじつ、7日間にちかん発行はっこう停止ていしめいじられた)、事件じけんいて快哉かいさいさけんだ手紙てがみ国許くにもとおくっただけの石川いしかわけんじんなど30めい逮捕たいほされた。

処罰しょばつ

政府せいふ暗殺あんさつはん刑法けいほううえ規定きていがない「国事犯こくじはん」として処理しょりし、大審院だいしんいんに「臨時りんじ裁判所さいばんしょ」を開設かいせつして裁判さいばんおこなった。臨時りんじ裁判所さいばんしょ形式けいしきじょう大審院だいしんいんなか存在そんざいするが、実際じっさいは、太政官だじょうかん決裁けっさいにより開設かいせつし、太政官だじょうかんから司法省しほうしょう委任いにんされた権限けんげんもとづいて判決はんけつくだ事実じじつじょう行政ぎょうせい裁判所さいばんしょであった。司法しほうきょうによって任命にんめいされた玉乃たまの世履せいり判事はんじらは同年どうねん7がつ5にち判決はんけつあん作成さくせい司法省しほうしょううかがいをて、司法省しほうしょうでは、これをけて7がつ17にち太政官だじょうかんに伺書を提出ていしゅつした。太政官だじょうかんは7がつ25にち決裁けっさいし、7がつ27にちに6めい判決はんけつをいいわたされ、即日そくじつ斬罪ざんざいとなった。斬奸状ざんかんじょう起草きそうしたりく終身しゅうしん禁錮きんこけいしょせられたが、1889ねん明治めいじ22ねん)に大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう発布はっぷにより特赦とくしゃけて釈放しゃくほうされた。

大久保おおくぼのこした借金しゃっきん補填ほてん

斬奸状ざんかんじょうには大久保おおくぼ公金こうきん私財しざいやしにしたと指摘してき言葉ことばがあったが、実際じっさいせい反対はんたい本来ほんらい公費こうひにて実施じっしすべき必要ひつよう公共こうきょう事業じぎょう自身じしん私財しざいおこなうなど、金銭きんせんについては潔白けっぱく政治せいじだった。そのため、死後しごは8,000えんもの借金しゃっきんのこったという[注釈ちゅうしゃく 3]政府せいふは、このまま維新いしんさんすぐるである大久保おおくぼ遺族いぞく路頭ろとうまようのはしのびないという配慮はいりょから、協議きょうぎうえ大久保おおくぼ生前せいぜん鹿児島かごしま県庁けんちょう学校がっこうとして寄付きふした8,000えん回収かいしゅうし、さらに8,000えん募金ぼきんあつめて、この1まん6,000えん遺族いぞくやしなうことにした。

明治めいじ政府せいふ石川いしかわけんたいする分割ぶんかつ処置しょち

実行じっこうはん島田しまだらの出身しゅっしんである石川いしかわけん事件じけん発生はっせい当時とうじきゅうえつ中国ちゅうごく全域ぜんいきおよびきゅう越前えちぜんこく大半たいはんふくめただいけんであったが、とう事件じけんをきっかけに、明治めいじ政府せいふ石川いしかわけんだいけんかつ不平ふへい士族しぞくおおゆえ難治なんじけん警戒けいかいするようになり、石川いしかわちから削減さくげんするために、(事件じけんからおよそ3ねんの)1881ねんきゅう越前えちぜんこく福井ふくいけんに、1883ねんきゅうえつ中国ちゅうごく富山とやまけんにそれぞれぶんけんさせることにつながった[10]

おく右大臣うだいじん大久保おおくぼこう哀悼あいとう

事件じけんから10ねん1888ねん明治めいじ21ねん)5がつ西村にしむら捨三すてぞう金井かないきょう奈良原ならはらしげるらによって「おく右大臣うだいじん大久保おおくぼこう哀悼あいとう」がてられた。

暗殺あんさつ一味いちみ松田まつだ秀彦ひでひこのその

暗殺あんさつ計画けいかく関与かんよした松田まつだ秀彦ひでひこ鳥取とっとりけん出身しゅっしん島根しまねけん士族しぞく)は事件じけん連座れんざして服役ふくえきし、出獄しゅつごくだい日本にっぽん武徳ぶとくかい武道ぶどうとして有名ゆうめいになった。

遺品いひんとなった懐中かいちゅう手紙てがみ暗殺あんさつ馬車ばしゃ刀剣とうけん行方ゆくえ

大久保おおくぼ家族かぞくにも秘密ひみつで、生前せいぜん西郷さいごうからおくられた手紙てがみれたふくろあるき、暗殺あんさつされたときにも西郷さいごうからの手紙てがみを2つうふところれていた。なお、事件じけん大山おおやまいわお血染ちぞめになったそれを所持しょじしたとされている[11]。また暗殺あんさつ所持しょじしていたため血痕けっこんいた明治めいじ11ねんがつ13にちづけ楠本くすもと正隆まさたかからの書簡しょかんは「大久保おおくぼ利通としみち関係かんけい資料しりょう」のひとつとして重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされ、国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん所蔵しょぞう大久保おおくぼ暗殺あんさつっていた血染ちぞめの英国えいこくせい馬車ばしゃくるまちょう340cm、くるまはば165cm、くるまだか185cm)は大久保おおくぼ高輪たかなわ別邸べってい東京とうきょうしば二本榎にほんえのき西にしまちないほこら保存ほぞんされていたが、1941ねん昭和しょうわ16ねん)、大久保おおくぼ三男さんなん侯爵こうしゃく大久おおひさ保利ほりたけし永代えいたい供養くようのため岡山おかやまけん倉敷くらしきりゅうみことたきいん流会りゅうかいかん奉納ほうのうされ現存げんそん高輪たかなわ別邸べっていほこら規模きぼ縮小しゅくしょうし、現在げんざいもマンション「高輪たかなわハウス」の敷地しきち東南とうなんかくに「大久保おおくぼ利通としみちおおやけまつほこら」としてたたずんでいる。島田しまだ一郎いちろう大久保おおくぼ惨殺ざんさつした日本にっぽんがたなさや警視庁けいしちょう押収おうしゅうされ、警視庁けいしちょう本庁ほんちょう2かい警察けいさつ参考さんこうしつ一般いっぱん公開こうかいされている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ これをのちに「済世さいせい遺言ゆいごん」としょうした。正確せいかくには遺言ゆいごんとしてかたられた文言もんごんではなく、最後さいご談話だんわ内容ないようたる。勝田かつたまごわたるきのえひがし逸話いつわ冨山とやまぼう、1928ねん附録ふろくpp.1-8
  2. ^ しば会津あいづ戦争せんそうさい祖母そぼはは兄嫁あによめ姉妹しまいいちくしていて、薩摩さつまじんたいするうらみがふかかった。
  3. ^ ただ、のこった借金しゃっきん返済へんさい遺族いぞくもとめる債権さいけんしゃはいなかった。

出典しゅってん

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  1. ^ 襲撃しゅうげき場所ばしょ紀尾井きおいざかではありません株式会社かぶしきがいしゃゼンリン公式こうしきtwitter 2021ねん10がつ31にち
  2. ^ 大久保おおくぼ利通としみち暗殺あんさつ事件じけん[リンク]
  3. ^ 遠矢とおや浩規ひろのり利通としみち暗殺あんさつ行人こうじんしゃ、1986ねん、p77
  4. ^ 佐々木ささきかつ監修かんしゅう大久保おおくぼ利通としみち講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、2004ねん、p186(1910ねんから1911ねんにかけて報知ほうち新聞しんぶん掲載けいさいされた大久保おおくぼについての談話だんわしゅう
  5. ^ このことが事件じけん直後ちょくご印象いんしょうにつながっている。
  6. ^ おく右大臣うだいじんせい大久保おおくぼ利通としみち葬送そうそう略記りゃっきいぬい』(国立こくりつ公文書こうぶんしょかんデジタルアーカイブ)”. 2024ねん7がつ18にち閲覧えつらん
  7. ^ 伊藤いとうこう,井上いのうえはく,山県やまがたこう元勲げんくんだん近代きんだいデジタルライブラリー
  8. ^ イザベラ・バード日本にっぽん旅行りょこう』より。
  9. ^ 島田しまだ一郎いちろうかんじょう」1878ねん5がつ15にち朝野ちょうや新聞しんぶん新聞しんぶん集成しゅうせい明治めいじ編年史へんねんし. だいさんかん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん近代きんだいデジタルライブラリー)
  10. ^ 富山とやま新聞しんぶん』2020ねん1がつ21にちづけ28めん『おとなりさん17 だい2しょう かれる・7 ふんけんみとめた政府せいふ』より。
  11. ^ 東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん明治めいじ11ねん5がつ27にちづけ

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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士族しぞく反乱はんらん