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藤原兼茂 - Wikipedia

藤原ふじわらけんしげる

平安へいあん時代じだい前期ぜんき公卿くぎょう歌人かじん藤原ふじわらきたりょう門流もんりゅう藤原ふじわらとしもとよんなんしたがえよん参議さんぎみぎ兵衛ひょうえとく藤原ふじわらそんちゅうみぎしょうまこと)、兵衛ひょうえ命婦みょうぶこう撰集せんしゅう作者さくしゃ

藤原ふじわら けんしげる(ふじわら の かねもり/かねもち)は、平安へいあん時代じだい前期ぜんき公卿くぎょう歌人かじん藤原ふじわらきたりょうもんながれみぎ近衛このえ中将ちゅうじょう藤原ふじわらとしもとよんなん官位かんいしたがえよん参議さんぎ

 
藤原ふじわらけんしげる
時代じだい 平安へいあん時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん しょう
死没しぼつ 延喜えんぎ23ねん3月7にち923ねん3月26にち
官位かんい したがえよん参議さんぎ
主君しゅくん 醍醐天皇だいごてんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらきたりょう門流もんりゅう
父母ちちはは ちち藤原ふじわらとしもとはは当麻とうままつ咸のむすめ
兄弟きょうだい しゅうけんせい忠彦ただひこけんしげるおもんみ彦、けん
つま しょう
そんちゅう兵衛ひょうえ命婦みょうぶ
テンプレートを表示ひょうじ

経歴けいれき

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寛平かんぺい9ねん897ねんけんしげ自身じしん外戚がいせきにあたる醍醐天皇だいごてんのう即位そくいともなろく蔵人くろうどになると、よく寛平かんぺい10ねん898ねん左衛門さえもん少尉しょういにんぜられる。あきらやすし2ねん899ねんしたがえ叙爵じょしゃくして、つづ昇殿しょうでんゆるされるが、あきらたいへん発生はっせいした翌年よくねん延喜えんぎ2ねん902ねんしたがえじょう播磨はりまかい叙任じょにんされ地方ちほうかんてんじる。

延喜えんぎ9ねん909ねんあきらたいへん以降いこう執政しっせいにあった左大臣さだいじん藤原ふじわらひらたぼっすると、よく延喜えんぎ10ねん910ねんけんしげるひだり近衛このえ少将しょうしょうとしてきょうかん復帰ふっきする。のちひだり近衛このえけん中将ちゅうじょうひだり近衛このえ中将ちゅうじょうひだり兵衛ひょうえとく武官ぶかん歴任れきにんするかたわら、延喜えんぎ14ねん914ねんせい延喜えんぎ17ねん917ねんしたがえよん昇進しょうしんかさねた。

延喜えんぎ23ねん923ねん正月しょうがつ参議さんぎにんぜられ公卿くぎょうれっすが、同年どうねん2がつじんにおいて中風ちゅうぶたおれ、3月7にち卒去そっきょ最終さいしゅう官位かんい参議さんぎしたがえよんけんひだり兵衛ひょうえとく

人物じんぶつ

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勅撰ちょくせん歌人かじんとして、和歌わか作品さくひんが『古今ここん和歌集わかしゅう』に2しゅ、『こうせん和歌集わかしゅう』に1しゅ採録さいろくされている[1]。『古今ここん和歌集わかしゅう』によると、みなもとみのる筑紫つくし湯浴ゆあみにかうのに同伴どうはんし、山城やましろこく摂津せっつこくさかいである山崎やまざきうた贈答ぞうとうした。

延喜えんぎ11ねん911ねん)に宇多うた上皇じょうこう主催しゅさいちんいんひらかれたさけ合戦かっせん酒豪しゅごうとして招聘しょうへいされ参加さんか[2]

かんれき

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公卿くぎょう補任ほにん』による。

尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』による。

  • ちち藤原ふじわらとしもと
  • はは当麻とうままつ咸のむすめ
  • つましょう
  • 生母せいぼ不明ふめい子女しじょ
    • 男子だんし藤原ふじわらそんちゅう
    • 女子じょし兵衛ひょうえ命婦みょうぶ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 勅撰ちょくせん作者さくしゃ部類ぶるい
  2. ^ 藤原明衡ふじわらのあきひらせん本朝ほんちょうぶんいきちゅうきの長谷ながたにつよしちんいんたまものいん
  3. ^ あるいはあきらたい2ねん

出典しゅってん

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  • 公卿くぎょう補任ほにん だいいちへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1982ねん
  • 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく だいへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1987ねん
ぐんしょく
先代せんだい
藤原ふじわら仲平なかひら
みぎ兵衛ひょうえとく
919 - 923
次代じだい
みなもとただししげる