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関宿 - Wikipedia

関宿せきやど

東海道とうかいどうじゅうさんの47番目ばんめ宿場しゅくば

関宿せきやど(せきじゅく、せきしゅく)は、江戸えど時代じだい日本にっぽん東海道とうかいどう宿場しゅくばのひとつ。きゅう伊勢いせこく現在げんざい三重みえけん亀山かめやませきまちにある。くに重要じゅうよう伝統でんとうてき建造けんぞうぶつぐん保存ほぞん地区ちく選定せんていされており、往時おうじ街並まちなみがたもたれている。「日本にっぽんみち100せん」にも入選にゅうせんしている。

歌川うたがわ広重ひろしげ東海道とうかいどうじゅうさんせき
きょう京都きょうと方向ほうこう鈴鹿すずか山系さんけい山並やまなみがえる。
江戸えど東京とうきょう方向ほうこう
ひがし追分おいわけ鳥居とりいひだり江戸えどみぎきょう鳥居とりいをくぐったさき伊勢神宮いせじんぐうかう伊勢いせべつ街道かいどう
百五銀行ひゃくごぎんこうせき支店してんげん亀山かめやま支店してん せきプラザ出張所しゅっちょうしょ
地蔵じぞういん
会津屋あいづや
保全ほぜんされているふる街並まちな

概要がいよう

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東海道とうかいどうじゅうさんの47番目ばんめ宿場しゅくばである。三重みえけん北西ほくせいはし鈴鹿山脈すずかさんみゃく山裾やますそ位置いちしており[1]2005ねん1がつ11にち亀山かめやまとの合併がっぺい以前いぜんせきまちであった。

古代こだいからの交通こうつう要衝ようしょうで、みずのえさるらんころ古代こだい三関みつせきひとつ「伊勢いせ鈴鹿すずかせき」がかれた。江戸えど時代じだいも、ひがし追分おいわけからは伊勢いせべつ街道かいどう西にし追分おいわけからは大和やまと街道かいどう分岐ぶんきする活気かっきある宿場しゅくばまちであった。ひがし追分おいわけから西にし追分おいわけまでのやく1.8キロメートルにわたり、伝統でんとうてき町家まちやが200むね以上いじょう現存げんそんするなど、町並まちなみがよく保存ほぞんされ、重要じゅうよう伝統でんとうてき建造けんぞうぶつぐん保存ほぞん地区ちく昭和しょうわ59ねん)と日本にっぽんみち100せん昭和しょうわ61ねん)に選定せんていされている[1][2]

宿場しゅくばは、あいはつせき越前えちぜんこく)・不破ふわせき美濃みのこく)とともに「日本にっぽん三関みつせき」にかぞえられ、670ねんころ軍事ぐんじじょう目的もくてき設置せっちされた「鈴鹿すずかせき」に由来ゆらいする[1]みずのえさるらん672ねん)に大海人皇子おおあまのおうじ天武天皇てんむてんのう)が、鈴鹿すずかせきざしたことは有名ゆうめいである[1]

現在げんざいつづ関宿せきやど町並まちなみは、天正てんしょう年間ねんかん(16世紀せいきまつ)に伊勢いせこく領主りょうしゅ戦国せんごく武将ぶしょうであったせきもりしんが、領内りょうない道路どうろ改修かいしゅうしたことにはじまり、慶長けいちょう6ねん1601ねん)に徳川とくがわ家康いえやすおこなった宿駅しゅくえき制度せいどによって、東海道とうかいどう47番目ばんめ宿場しゅくばとなってから本格ほんかくてき整備せいびされた[1]ひがし追分おいわけ伊勢いせべつ街道かいどう分岐ぶんきし、西にし追分おいわけ大和やまと街道かいどうかれる立地りっち条件じょうけんから、旅人たびびと通行つうこう頻繁ひんぱんになり、江戸えど時代じだい宿場しゅくばとして大変たいへんにぎわったといわれる[1]

戦後せんごきゅう東海道とうかいどう宿場しゅくば大半たいはん旧態きゅうたいをとどめないなかで、関宿せきやど江戸えど時代じだい当時とうじ宿場しゅくばにぎわいを彷彿ほうふつさせる街並まちなみがのこされていたことから、町並まちな保存ほぞん機運きうん次第しだいたかまり、1980ねん昭和しょうわ55ねん)2がつ地元じもと有志ゆうし中心ちゅうしんに「町並まちな保存ほぞんかい」が結成けっせいされ、同年どうねん6がつにはせきまちにおいて「せきまち関宿せきやど伝統でんとうてき建造けんぞうぶつぐん保存ほぞん条例じょうれい」を制定せいていした[1]条例じょうれい制定せいてい以降いこうは、おおくの町家まちや伝統でんとうてき建造けんぞうぶつとして保存ほぞん修復しゅうふくがなされ、1984ねん昭和しょうわ59ねん)12月には、関宿せきやど面積めんせき25ヘクタールにおよぶ地区ちく対象たいしょうに、全国ぜんこくで20番目ばんめ三重みえけんでははつとなるくにの「重要じゅうよう伝統でんとうてき建造けんぞうぶつ保存ほぞん地区ちく」に選定せんていされた[1]。さらに、1986ねん昭和しょうわ61ねん8がつ10日とおか歴史れきしせい親愛しんあいせい基準きじゅんに、「東海道とうかいどう宿場しゅくばまち関宿せきやど」としてきゅう建設省けんせつしょうと「みち実行じっこう委員いいんかいにより制定せいていされた「日本にっぽんみち100せん」にもえらばれている[3]

史跡しせき・みどころ

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  • せきまちなみ資料しりょうかん[2]
    • 江戸えど末期まっき町家まちや公開こうかい土蔵どぞうでは関宿せきやど歴史れきし展示てんじする。入館にゅうかんりょうは「旅籠はたご玉屋たまや歴史れきし資料しりょうかん」とセットで、300えん
  • 鶴屋つるや脇本わきもとじんあと波田野はたの
  • 川北かわきた本陣ほんじんあと
  • ひゃくろくさとにわ
  • 伊藤いとう本陣ほんじんあと
  • 旅籠はたご玉屋たまや歴史れきし資料しりょうかん
    • せきまるなら鶴屋つるや玉屋たまや》とうたわれた関宿せきやど代表だいひょうする旅籠はたご建築けんちく公開こうかいする資料しりょうかん
  • 深川ふかがわ
    • せき」は350ねんまえからの伝統でんとう銘菓めいか
  • 地蔵じぞういん
    • 日本にっぽん最古さいこ地蔵じぞう菩薩ぼさつ本尊ほんぞんとする地蔵じぞういん[2]てらでんによれば741ねん天平てんぺい13ねん)のひらきそう本堂ほんどう愛染あいぞめどう鐘楼しゅろうくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。「せき地蔵じぞういん」ともばれる[2]
  • 会津屋あいづや
  • 百五銀行ひゃくごぎんこう 亀山かめやま支店してん せきプラザ出張所しゅっちょうしょきゅうせき支店してん
    • 外観がいかんは、宿場しゅくばまち関宿せきやど町並まちなみの景観けいかん配慮はいりょした建物たてもので、ATMコーナーには「現金げんきん自動じどう取扱とりあつかいしょ」の表示ひょうじがされている。
さか下宿げしゅくまでの史跡しせき・みどころ

位置いち情報じょうほう

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北緯ほくい3451ふん5.99びょう 東経とうけい13624ふん1.27びょう / 北緯ほくい34.8516639 東経とうけい136.4003528 / 34.8516639; 136.4003528

交通こうつうアクセス

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鉄道てつどう
JR関西本線かんさいほんせん せきえきからきた徒歩とほやく5ふん
自動車じどうしゃ
めいばん国道こくどう国道こくどう25ごうせきインターチェンジからやく5ふん関宿せきやど観光かんこう駐車ちゅうしゃじょうあり[2]

ゆかりのある人々ひとびと

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  • 一休宗純いっきゅうそうじゅん - 地蔵じぞういん本尊ほんぞん開眼かいがん供養くようにユニークな伝説でんせつのこ[4]
  • せきしょうまん -久留米くるめ藩士はんしまき藤左衛門とうざえもんむすめ。そのつま身重みおもながら敵討かたきうちのたびて、旅籠はたご山田やまだげん会津屋あいづや)で、しょうまんんだのちに客死かくしした。しょうまん山田やまだやしなわれ、東海道とうかいどう亀山かめやま道場どうじょうとおったという。最後さいご見事みごとははこころざしをついで、ちちかたきった[5][4]
せきやま
関宿せきやどなつまつりにやま関東かんとう山車だし)が立派りっぱであったことから、「これ以上いじょうのものはない」という意味いみ使つかわれるようになった[6]。また、山車だし街道かいどうすじ建物たてもの屋根やねぎりぎりを通過つうかする様子ようすから、これがいちはいという意味いみ語源ごげんとするせつもある。

重要じゅうよう伝統でんとうてき建造けんぞうぶつぐん保存ほぞん地区ちくデータ

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以下いか文化庁ぶんかちょうのデータを参照さんしょう[7]

  • 地区ちく名称めいしょう亀山かめやま関宿せきやど伝統でんとうてき建造けんぞうぶつぐん保存ほぞん地区ちく選定せんてい当初とうしょは「せきまち関宿せきやど伝統でんとうてき建造けんぞうぶつぐん保存ほぞん地区ちく」であった。)。
  • 種別しゅべつ宿場しゅくばまち
  • 選定せんてい年月日ねんがっぴ1984ねん昭和しょうわ59ねん)12がつ10日とおか
  • 選定せんてい基準きじゅん伝統でんとうてき建造けんぞうぶつぐんおよびその周囲しゅうい環境かんきょう地域ちいきてき特色とくしょく顕著けんちょしめしている。
  • 面積めんせき:25.0ha

となり宿やど

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東海道とうかいどう
亀山かめやま宿やど - 関宿せきやど - さか下宿げしゅく

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h 日本にっぽんみち100せん研究けんきゅうかい 2002, pp. 116–117.
  2. ^ a b c d e 関宿せきやど公益社こうえきしゃだん法人ほうじん 三重みえけん観光かんこう連盟れんめい、2021ねん6がつ20日はつか閲覧えつらん
  3. ^ 日本にっぽんみち100せん研究けんきゅうかい 2002, p. 9.
  4. ^ a b 関宿せきやど昔話むかしばなし”. 亀山かめやま. 2020ねん8がつ2にち閲覧えつらん
  5. ^ せきしょうまん”. 亀山かめやま歴史れきし博物館はくぶつかん. 2020ねん8がつ2にち閲覧えつらん
  6. ^ 出典しゅってん:米川よねかわ明彦あきひこへん日本にっぽん俗語ぞくごだい辞典じてんだい3はん)』東京とうきょうどう出版しゅっぱん 2006ねん 320ぺーじ
  7. ^ 亀山かめやま関宿せきやど” (pdf). 文化庁ぶんかちょう. 2020ねん8がつ2にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 日本にっぽんみち100せん研究けんきゅうかい ちょ国土こくど交通省こうつうしょう道路どうろきょく監修かんしゅうへん日本にっぽんみち100せん新版しんぱん〉』ぎょうせい、2002ねん6がつ20日はつかISBN 4-324-06810-0 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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