P-MODEL
P-MODEL(ピー・モデル)は、
P-MODEL / | |
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| |
ジャンル | |
レーベル |
|
| |
SUSUMU HIRASAWA | |
メンバー |
|
「#メンバー」を |
概要
1979
プラスチックス・ヒカシューと
1981
1991
1993
1994
2000
アメリカ
核 P-MODEL
2004
なお、
ライブにおいても2014
2018
メンバー
個人 記事 のあるメンバーについてはそちらを参照 。
パート | ||||
---|---|---|---|---|
(ひらさわ すすむ) |
ボーカル ギター シンセサイザー |
1954 |
1979 |
|
(あきやま かつひこ) |
ベース キーボード シンセサイザー |
1959 |
1979 1991 |
CROSS |
(たなか やすみ) |
キーボード シンセサイザー |
1953 |
1979 |
|
(たいなか さだとし) |
ドラムス | 1953 |
1979 1987 |
|
(きくち たつや) |
ベース | 1963 |
1980 |
さよなら |
| ||||
(みうら しゅんいち) |
キーボード (ギター) |
1964 |
1983 |
ケラ&ザ・シンセサイザーズ NESS |
| ||||
(よこがわ ただひこ) |
ベース バイオリン |
1957 |
1984 |
4-D mode1 After Dinner メトロファルス |
(あらき やすひろ) |
ドラムス パーカッション |
1959 |
1984 |
ALLERGY Chevalf |
| ||||
(なかの てるお) |
ベース キーボード シンセサイザー |
1963 |
1986 |
LONG VACATION Sonic Sky |
(たかはし よしかず) |
キーボード Systems |
1961 |
1986 |
CROSS Chevalf |
| ||||
ことぶき (ことぶき ひかる) |
キーボード シンセサイザー プログラミング |
1964 |
1987 1991 |
プノンペンモデル |
(ふじい やすちか) |
ドラムス シーケンサー プログラミング |
1967 |
1991 |
THE GROOVERS |
| ||||
(ふくま はじめ) |
キーボード シンセサイザー System-1 |
1970 ~2022 |
1994 |
YAPOOS ケラ&ザ・シンセサイザーズ Soyuz Project(ソロ |
(こにし けんじ) |
キーボード System-2 ベース |
1955 |
1994 |
4-D mode1 |
(かみりょう わたる) |
ドラムス Algorhythm |
1964 |
1994 |
NeoBallad GRASS VALLEY CROW |
時 系列
その他 企画 バンド
- IKARI
- 5thアルバム『ANOTHER GAME』の
発売 延期 に関 して、当時 のマネージャーである広瀬 充 がジャパンレコードと揉 めて帰 ってきたところ、平沢 に「その怒 りを音 で表現 するんだ」と言 われて結成 したバンド[13]。ソノシートを1枚 リリースしている他 、1983年 に“P-MODELの前座 ”という形 で1回 ライブを行 っている。
ボーカル | ギター | ベース | キーボード | ドラムス | ||
---|---|---|---|---|---|---|
1983 |
( |
- 此岸のパラダイス
亀有 永遠 のワンパターンバンド
ボーカル | ギター | ベース | キーボード | ドラムス | ||
---|---|---|---|---|---|---|
1987 |
KERA | |||||
1990 |
ことぶき |
ドラムスは |
亀有 タワーズ / Miburi隊
- ファンクラブ
主催 のP-MODELコピーバンドコンテスト『Errors of P-MANIA!』にて結成 された「P-MODELメンバー本人 によるコピーバンド」。全員 が本来 の担当 楽器 と異 なる楽器 を演奏 している。『Errors of P-MANIA!』は1993年 - 1995年 の3回 開催 され、93・94年 は「亀有 タワーズ」名義 で、95年 は「Miburi隊 」名義 で出演 している。
ボーカル | ギター | ベース | キーボード | ドラムス | その |
||
---|---|---|---|---|---|---|---|
1993 |
ことぶき |
KERA(マラカス) | 「ミサイル」 | ||||
1994 |
TAKA |
「カウボーイとインディアン」 「フ・ル・ヘッ・ヘッ・ヘッ」 | |||||
1995 |
― | (Miburi/Syn) |
「HEAVEN」 |
来歴
月 1日 -前身 バンド「MANDRAKE」が解散 、即日 P-MODEL結成 。同時 に所属 事務所 として「MODEL HOUSE」が設立 される。 1
結成 メンバーは、平沢 進 (Vo・Gt)、秋山 勝彦 (Ba)、田中 靖 美 (Key)、田井中 貞利 (Dr)の4人 。
日 -下北沢 LOFTにて初 のライブを行 う。
3月16月 25日 - 1stシングル『美術館 で会 った人 だろ』でワーナー・パイオニアよりメジャーデビュー。
7月 20日 - XTCの来日 公演 のフロントアクトを務 める( - 8月 22日 )。
8月 25日 - 1stアルバム『IN A MODEL ROOM』リリース。
8日 - VAN HALENの来日 ツアー全 7公演 全 てでフロントアクトを担当 ( - 9月13日 )。この中 で初 の日本武道館 公演 を経験 する。
9月 3- 12月25
日 - 2ndシングル『KAMEARI POP』リリース。1stアルバムからのリカットシングル。
月 3日 -初 の自主 ツアー「P-TRICK PLAN Vol.1」開催 ( - 1月 11日 、全 7公演 )。
1日 -自主 ツアー「P-TRICK PLAN Vol.2」開催 ( - 4月 13日 、全 9公演 )。29日 の京都 公演 をたまたま来日 していたデヴィッド・ボウイが観 ており、平沢 は終演 後 楽屋 を訪 れたボウイにサインを貰 っている[14][15]。 3月28
月 7日 -中野 サンプラザホールにてヒカシューとのジョイントライブを開催 。このライブでは運営 側 と両 バンドの間 でアンコールを巡 ってトラブルが発生 した。のちに「中野 サンプラザ事件 」と称 されるようになる[16][17]。- イベンター
側 よりライブの演出 としてパントマイマーが入 る、アンコール演奏 は無 しという事 を直前 になって通達 され、両 バンドとも抗議 をしたが話 は揺 るがなかった[18][17]。当日 、イベント終演 後 に観客 がアンコールを求 めて会場 から帰 らず、「ひとつのショーとしてステージの上 だけで完結 してしまうような企画 に、自分 達 が参加 することは、観客 を裏切 ることでしかない」と疑問 を感 じたP-MODELがアンコール演奏 を強行 した事 がきっかけの一 つとなっている[17][18]。 - ステージの
警備 員 がアンコールを求 める観客 に対 し暴力 を振 るい、他 の観客 やステージ上 の平沢 が間 に割 って止 めに入 る[17]、P-MODELのアンコール演奏 の最中 に「約束 が違 う」とヒカシューの巻 上 公一 やスタッフが演奏 の止 めに入 るなどの騒 ぎを起 こした[19]。翌日 、平沢 は巻 上 から電話 で叱責 を受 け謝罪 をしている[18]。また、平沢 はこの時 楽屋裏 にいた近田 春夫 より「テメーをこの業界 から消 してやる!」と激昂 される[17][注 2]。しかし、近田 はこの事 を後悔 しており、直接 謝罪 をしたいと後年 語 っている[19]。 後日 、新聞 に「乱闘 騒 ぎ」として取 り上 げられ、両 バンドのフロントマンである平沢 ・巻 上 とイベンターの担当 者 がコメントを発表 する事態 となった[18][17]。当事 者 だった秋山 は後年 、自身 の力量 不足 でミスが多発 し、メンバー間 で挽回 しなければという気持 ちが強 まった結果 であり、平沢 の語 る「正義 」や「反 体制 側 」としてアンコールを強行 した訳 では無 いと回顧 している[20]。
4- イベンター
月 25日 - 2ndアルバム『LANDSALE』リリース。公称 10万 枚 、実 売 3万 枚 というセールスを記録 した[21]。
4日 - 3rdシングル『ミサイル』リリース。2ndシングルと同 じく、アルバムからのリカットシングルとなった。 5月25
- この
頃 から、過熱 するテクノブームに危機 感 を覚 えたP-MODELは大幅 な路線 変更 を打 ち出 す。その為 、秋山 と他 の3人 との間 でステージパフォーマンスの方向 性 に食 い違 いが生 じるようになる。
- この
日 -初 の自主 企画 「POP THE HERO」開催 。
6月15- 11月
日 - この日 の文化服装学院 でのライブを以 て秋山 が脱退 。
3 - 11月21
日 -秋山 の後任 として、平沢 のシンセサイザー講師 時代 の教 え子 である菊池 達也 (Ba)がサポートメンバーとして加入 。翌年 より正式 メンバーとなる。
日 - 4thシングル『ジャングルベッドⅠ』、3rdアルバム『Potpourri』を同時 発売 。レコーディング当時 まだサポートメンバーだった菊池 は制作 に参加 しておらず、レコーディングに於 いてはベースは平沢 ・田中 が演奏 していた。 3月25
月 5日 -関西 ツアー「万物 三 つこぶらくだの旅 」開催 ( - 6月9日 )。
6- 10月18
日 - シリーズライブ「カナリアの籠 展開 図 ぐるりと回 る360度 期待 は記憶 気 のどくだねオゾノコブラノスキー」開催 ( - 11月8日 、全 3公演 )。11月8日 の第 3公演 では平沢 が鳥 の餌 を観客 に撒 きつけるなどのパフォーマンスも行 われた。のちに平沢 は「(観客 に)怒 ってほしいと思 ってた。でも怒 んないと思 ってたけど」と語 っている。
月 1日 - レーベルをジャパンレコードに移籍 。同日 、4thアルバム『Perspective』及 びカセットテープ『Perspective II』をリリース。
3日 -恵比寿 ・日仏会館 にて自主 企画 「突拍子 のためのLesson.1」を開催 。平沢 の自作 楽器 「ヘブナイザー」[注 3]の初 お披露目 となる。
3月26日 - The Jamの来日 公演 のフロントアクトを務 める。
6月21月 22日 -自主 企画 「突拍子 のためのLesson.2」を開催 。ヘブナイザーを用 いた観客 参加 型 のライブも行 われた(通常 ライブとの2部 構成 )。 8
月 20日 - この日 の渋谷 ・屋根裏 でのライブを最後 に田中 が脱退 。理由 は「音楽 的 アイデアの枯渇 」であった。
3日 - これまでのボツ曲 やデモ曲 を集 めた編集 盤 『不 許可 曲 集 Vol.1』リリース。所属 事務所 「MODEL HOUSE」からの直接 リリースとなった。
3月25日 -千葉 ダンシングマザースのライブよりサポートメンバーとして三浦 俊一 (Key)が加入 。翌年 2月 のアルバムリリース後 より正式 メンバーとなる。三浦 は元々 P-MODELのファンであり、ドラム以外 のパートは全 てコピーしていた[22]。
3月27- 10月24
日 -全国 22ヶ所 をまわるツアー「ANOTHER GAME TOUR」スタート( - 12月27日 、全 23公演 )。このツアーより、平沢 は自身 のトレードマークとなるギター「TALBO」を使用 し始 めている。
月 25日 - 3回 の延期 を経 て、5thアルバム『ANOTHER GAME』がリリースされる。
2月 10日 - アルバムリリースツアー「ANOTHER GAME TOUR 2nd」開催 ( - 3月25日 )。
3月 5日 -新宿 LOFT公演 を以 て菊池 が脱退 。
8月 28日 -全国 ツアー「SCUBA TOUR」がスタート( - 11月3日 )。菊池 の後任 として横川 理 彦(Ba・Violin)が加入 した。横川 はバイオリンを弾 くこともあった為 、その時 は平沢 がベース、三浦 がギターを弾 くなどの変則 編成 もとられた。 8
- 10
月 10日 - カセットブック『SCUBA』リリース。当時 既 にジャパンレコードから離脱 していたため、JICC出版 局 からのリリースとなった。 - 12月16
日 - ツアー「SCUBA TOUR II」開催 ( - 12月23日 )。このツアーの最終 公演 を以 て田井中 が脱退 。- ツアーサポートにはパーカッション
奏者 として、田井中 の後任 となる荒木 康弘 (Dr・Perc)が参加 。翌年 より正式 メンバーとなる。 - また、このツアー
終了 を以 てP-MODELは一時 ライブ活動 を休止 し、新 メンバー体制 でのリハーサルと曲 作 りに注力 した。
- ツアーサポートにはパーカッション
月 19日 -筑波 ・29BARにて、新 メンバーでの初 ライブを行 う。
4- 10月25
日 - レーベルをアルファレコードに移籍 し、6thアルバム『KARKADOR』を発売 。 - 10月26
日 - アルバムのリリースツアー「KARKADOR TOUR」開催 ( - 12月27日 )。このツアーの最終 公演 を以 て横川 と三浦 が脱退 。
月 23日 - この日 の天王寺 ・キャンディホール公演 より、中野 照夫 (Ba)、高橋 芳一 (Systems)が加入 。
1日 - 7thアルバム『ONE PATTERN』リリース。翌月 25日 はバンド初 のCDでのリリースも行 われた。
6月25日 -全国 ツアー「ONE PATTERN TOUR」開催 ( - 10月25日 、全 8公演 )。この頃 から平沢 はMIDIギターを使用 し始 める。
9月15- 11月26
日 -水道橋 ・RNホールで自主 企画 「ゼブラの日 」開催 。この公演 で初 めて、メンバー全員 が揃 いの衣装 を着用 した。
月 10日 - グッズセット『P-MODEL BOX』発売 開始 。かつて使 っていた機材 や衣装 などを13種類 のセットに分 けて販売 する、というものだった。
1月 -同年 夏 のリリースに向 けて8thアルバム『モンスター』の制作 に取 り掛 かるようになるが、スタジオに入 った初日 にアルファより突然 レコーディングの中止 を知 らされ、再 びレコード会社 とのトラブルが発生 する[23]。当時 について、平沢 ・中野 によると「企画 書 ・デモ・曲目 まではレコード会社 に通 っていた」と語 っており、当時 のプロデューサーであった神尾 明朗 が間 に立 ってレコーディングまでは進 めてくれたと語 っている。ただし、中野 は「ちょっとバンド側 の強行 的 なレコーディングっぽい感 じがあったと思 うんですよね。」と述懐 している。同年 にはアルファとの契約 を解除 したが、次 のレコード会社 との交渉 が難航 するなどのトラブルが重 なった結果 、リリースは行 われずお蔵 入 りとなってしまった[23]。収録 予定 曲 の一部 は後 に平沢 と中野 がソロ活動 にてカバーしている。この時期 のライブより『モンスター』収録 予定 曲 も演奏 されており、1988年 発売 の映像 作品 『三界 の人体 地図 』に一部 楽曲 が収録 されている。
2
日 -自主 企画 「進化 の軌跡 ~ガラパゴス島 の待 ち伏 せ男 ~」開催 。この公演 を以 て荒木 が脱退 し、初代 ドラマーの田井中 が「Part2」と称 してメンバーに復帰 。荒木 の脱退 理由 は「どうしてもガラパゴス島 に残 りたかったから」というものだった[24][注 4]。
3月14日 - KERA(有頂天 )の主導 により、初期 P-MODELのコピーバンド「此岸のパラダイス亀有 永遠 のワンパターンバンド」結成 。渋谷 La.mamaで初 ライブを行 う。
5月 1日 -所属 事務所 の主催 による関東 4ヶ所 をまわるツアー(タイトルなし)を開催 ( - 5月17日 、全 4公演 )。
5月 8月 1日 -全国 ツアー「TOUR SENSONICS」開催 ( - 7月 26日 、全 10公演 )。
7日 -前進 座 にて「此岸のパラダイス~」の2回 目 のライブを開催 。結成 からの目標 である「P-MODELのフロントアクトを務 める」を達成 したことで一旦 解散 した。
9月 5日 - この日 の横浜 市 教育 会館 でのライブを最後 に高橋 が脱退 。
9月27- 11月
日 - この日 の武蔵大学 でのライブより、高橋 の後任 としてことぶき光 (Key)が加入 。ことぶきは加入 当初 “羊羹 ゑるゑる”という名義 を使用 していた。12月4日 に行 われたライブ「北 から来 たオルガン弾 き」の終了 後 に改名 する。 1
月 3日 -関西 ツアー「天国 のANAGRAM」開催 ( - 3月5日 、全 3公演 )。
3月 29日 -富士 フイルム主催 のコンサート「FUJI AV LIVE」の第 27回 に出演 。お蔵 入 りとなったアルバム『モンスター』の収録 予定 曲 もいくつか演奏 された。
4月 10日 -新宿 LOFTにて2Daysライブを開催 。このライブから試験 的 にAmigaが導入 される。
6月 1日 -初 の全国 流通 映像 作品 『三界 の人体 地図 』リリース。4月のFUJI AV LIVEの映像 と、平沢 裕一 が制作 した立体 アニメーションが収録 された。
7- 12月28
日 -渋谷 ・CLUB QUATTROで行 われたライブにて平沢 はP-MODELの「氷河期 入 り」を宣言 。これをもって活動 「凍結 」(休止 )となった[25]。平沢 は当時 の心境 として「バンドの崩壊 [26]」「活動 休止 では無 く解散 [26]」「解散 とは言 わなかったのは、ドラマティックな終 わり方 がイヤだったから[27]」と語 っている。構想 の段階 では、ライブではアンコールはやらず、ステージ上 のシャッターが閉 まって終演 するという内容 であった[27]。- 1988
年 半 ば頃 にバンド活動 に疲弊 していった平沢 はP-MODELの解散 を考 えるようになる。平沢 は「あまりにも自分 ひとりになっている感触 があって、これ以上 P-MODELという看板 をしょって続 けていくのは、あまりにも辛 かったんです」と回顧 している[28]。同年 6月 頃 に一 度 メンバー間 で話 し合 いが行 われ、一時 的 に持 ち直 したが最終 的 には活動 休止 となった[25]。
月 1日 - ファンクラブ会員 限定 で映像 作品 『平沢 進 のCG年賀状 』を販売 。平沢 がP-MODEL凍結 に至 った経緯 [注 5]や今後 の活動 について語 るという内容 だった。
1月 1日 -所属 事務所 「MODEL HOUSE」が「オクターブ」に改称 。
3月 4日 - レーベルをポリドールへ移籍 。
4- 10月
日 -所属 事務所 をアイスリープロモーションへ移 す。 1
日 -日比谷 野外 音楽 堂 にて平沢 ソロのライブイベント「ERROR FORCE」が開催 。共演 者 には元 メンバーの秋山 が率 いるバンドHERE IS EDEN、戸川 純 の他 、シークレットゲストとしてヒカシューが参加 した。また、当日 はP-MODELが「此岸のパラダイス亀有 永遠 のワンパターンバンド」のメンバーで、あくまでもシャレとして再 結成 を果 たした。 9月23
日 -平沢 がソロ活動 で「ヴァーチュアル・ラビット・ツアー」を開催 ( - 6月25日 、全 3公演 )。全 公演 で「目覚 めよP-MODEL」と題 したチラシが配布 された。チラシの内容 は「同年 9月 に日比谷 でP-MODELは解凍 し、活動 再開 する」というものだった。 6月21
日 -日比谷 野外 音楽 堂 にて平沢 主催 のライブイベント「ERROR OF UNIVERSE」を開催 。この公演 を以 て正式 に活動 再開 した。- メンバーは
当日 まで秘密 にされ、ライブの出 囃子 とP-MODELのロゴが回 る映像 と共 に、メンバーの名前 がAMIGA2500の声 に呼 ばれる形 で登場 した。「解凍 」P-MODELとして、秋山 勝彦 (Key・Ba)、ことぶき光 (Key)が正規 メンバーに復帰 。また事務所 の後輩 にあたるバンド「THE GROOVERS」から藤井 ヤスチカ(Dr)をメンバーに迎 えた。
9月23- メンバーは
月 26日 -前作 より6年 ぶりとなる8thアルバム『P-MODEL』リリース。
2月 10日 -東阪 ライブ「P-MODEL TOUR '92」を開催 ( - 3月18日 、全 2公演 )。
3日 -東名 阪 ツアー「TOUR ON GRID」開催 ( - 5月19日 、全 5公演 )。当初 は全 6公演 の予定 だったが、5月13日 の大阪 2日 目 の公演 は「マシントラブル」[注 6]により中止 。
5月11日 -日 清 パワーステーションでのイベント「サタデイ・ナイトR&Rショウ」に出演 。藤井 がスケジュールの都合 で出席 できず、ドラムレス編成 の「P-MODEL Lo-Res」として出演 した。この公演 ではスタッフの手違 いで平沢 のギターアンプが故障 、共演 していたマルコシアス・バンプのアンプを借 りることになったが、思 っていた様 な音 が出 せず、終演 後 TALBOを床 に叩 き付 けて破損 させている[注 7]。 6月27
日 -映像 作品 2作 目 『BITMAP 1979-1992』リリース。今 作 では「P-MODEL TOUR'92」の模様 を中心 に、結成 ~解凍 までのライブダイジェスト、平沢 がAmigaで作成 したPVが収録 されている。
9月 2- 10月25
日 -日比谷 野外 音楽 堂 にて自主 企画 「PLANET ERROR」開催 。 - 12月
日 -東阪 ライブ「能率 の予 感 」を開催 ( - 12月11日 、全 3公演 )。 7
日 - 9thアルバム『big body』リリース。
3月25日 -東名 阪 ツアー「BIG BODY TOUR」開催 ( - 6月21日 、全 3公演 )。- アルバムジャケットには「Nsetn.... Oirao Ivook」という
暗号 が書 かれており、同年 5月 に開催 されたライブツアーにて、9thアルバムのジャケットに書 かれていた暗号 の答 え合 わせが行 われた。暗号 の答 えとは、「kono ato revisION...(このあとリビジョン、この後 改訂 )」であり、次 の日比谷 野外 大 音楽 堂 でのライブにて、P-MODELは“改訂 作業 ”(メンバーチェンジ)のために活動 「待機 」となる事 が発表 される。
5月26- アルバムジャケットには「Nsetn.... Oirao Ivook」という
日 - ファンクラブ主催 のP-MODELコピーバンドコンテスト「Errors of P-MANIA! 1993」が開催 される。
9月22- 10月11
日 -日比谷 野外 音楽 堂 にて自主 企画 「ERROR OF INFORMATION ''待機 ''」開催 。この公演 を以 て「待機 」状態 となった。- この
公演 にて、平沢 はP-MODELはポリドールとの契約 を終了 した事 を発表 し、来年 の野 音 にて新 体制 でのライブを開催 する事 を発表 した[29]。
- この
日 - レーベルをディスクユニオンに移籍 し、その中 に自主 レーベル「DIW/SYUN」を設立 。1stライブアルバム『PAUSE』リリース。
5月25月 23日 - 2ndライブアルバム『LIVEの方法 』リリース。
7日 -日比谷 野外 音楽 堂 でこの日 に行 われる予定 だったイベントでP-MODELは改訂 作業 を完了 させる予定 だったが、「若干 のバグが発見 された」として活動 再開 が延期 された。代替 公演 として、平沢 メインの「HIRASAWA ERROR ENGINE平沢 三 幕 三 時 間 」が開催 された。なお、この公演 には後 に改訂 期 のメンバーとなる小西 ・上 領 がサポートメンバーとして参加 している。 9月23
- 10月22
日 -平沢 ・田中 がMANDRAKE時代 に制作 した音源 をまとめた編集 盤 『配線 上 のアリア』がリリースされる。名義 は「平沢 進 ・田中 靖 美 」。 - 11月12
日 -第 2回 となるコピーバンドコンテスト「Errors of P-MANIA! 1994」開催 。 - 12月
日 -所属 事務所 主催 のイベント「I3DAYS '94」の大阪 2日 目 に出演 。この日 を以 て正式 に“改訂 作業 ”を終 え活動 再開 する。新 メンバーは平沢 、福間 創 (System-1)、小西 健司 (System-2)、上 領 亘 (Algorhythm)となった。解凍 期 と同 じく、メンバーは当日 まで秘密 とされ、ライブの出 囃子 に合 わせて登場 した。福間 ・小西 に与 えられた「System」はシンセサイザーなどの機材 や楽曲 データの管理 を担当 し、上 領 の「Algorhythm」はビート全般 を担当 することから付 けられた。- また、
小西 が大阪 に在住 していた為 、メンバー間 のミーティングは電子 メールなどのインターネット上 のやり取 りのみで完結 し、実際 に出会 うのはレコーディングやライブを行 う際 に限 られた。
1
日 -日比谷 野外 音楽 堂 にて自主 企画 「ENDING ERROR」を開催 。同日 、リミックスアルバム『Corrective Errors〜remix of舟 』発売 。このアルバムは後 の10thアルバムの収録 曲 をリミックスしたもの。オリジナルアルバムよりリミックスアルバムが先行 発売 される事 に対 し、公式 サイトによると「前代未聞 」としている[30]。 9月30
- 10月
日 - レーベルを日本 コロムビアに移籍 。
1 - 10
月 20日 -第 3回 となるコピーバンドコンテスト「Errors of P-MANIA! 1995」開催 。 - 11月30
日 - リメイク・アルバム『SCUBA RECYCLE』リリース。このアルバムは『SCUBA』の収録 曲 をリメイクしたもの。 - 12月10
日 - 10thアルバム『舟 』リリース。
月 9日 -全国 ツアー「電子 舟 訪日 行脚 」開催 ( - 4月 6日 、全 8公演 )。
3月 1日 -日本 コロムビア内 に「TESLAKITE」レーベルを設立 。
8- 10月
日 -日比谷 野外 音楽 堂 にて自主 企画 「Branch-O」開催 。P-MODELメンバーがそれぞれ個別 に活動 し、最後 には集結 するというプロジェクト「Unfix」が開始 され、この公演 は“Unfix #0”と位置付 けられた。
5 - 10月19
日 -全国 流通 シングルとしては5枚 目 となる『Rocket Shoot』発売 。“Unfix #1”と位置付 けられる。同日 には“Unfix #2”として、上 領 のソロアルバム『鴉 』がリリースされている。
- 11月15
日 -歌舞伎町 ・LIQUIDROOMで「Unfix#3 コミュノ・ハイブリディア」開催 。メンバー4人 が一時 集結 しそれぞれ自身 で組 んだユニットで出演 する、というものだった。当日 、平沢 は体調 不良 [注 8]により出演 をキャンセルし、他 の3人 (とそれぞれのユニット)のみが出演 する事 になった。数日 後 、平沢 は出演 をキャンセルした事 について「私 は風邪 如 きで休 むような人間 ではない。休 んだ本当 の理由 は言 えないが」との発言 を公式 サイト上 で行 っている。[注 9]
- 12月24
日 -六本木 ・ラフォーレミュージアムにおいて「Unfix#5 Another Green Nerves」が開催 予定 だったが、平沢 の体調 不良 により中止 。
日 -新 事務所 「ケイオスユニオン」を設立 し、所属 事務所 をそこへ移 す。また同日 を以 てスケジュールの都合 で上 領 が脱退 。これにより“Unfix #7”として予定 されていたツアーはお蔵 入 りとなる。
5月15月 1日 - シングル『ASHURA CLOCK』発売 。“Unfix #8”と位置付 けられる。なお、本 作 より「Unfix」シリーズは「レイヤー・グリーンの危機 ~議定 書 (プロトコル)を探 せ~」というストーリー仕立 てのプロジェクトに変更 された。 8
月 30日 - “Unfix #9”としてシングル『LAYER-GREEN』をリリース。同日 、渋谷 HMVで行 われたレコ発 イベントに平沢 が復帰 後 初 登場 する。
8- 10月21
日 -東阪 ライブ「非 局所 性 LIVE」を開催 ( - 10月22日 、全 2公演 )。田井中 をモデルとしたバーチャルドラマー「TAINACO」がステージデビュー。 - 11月29
日 - 11thアルバム『電子 悲劇 /~ENOLA』リリース。 - 12月
日 - バンコクのセントラル・プラザで開催 された「ASIA FOR THAILAND」に出演 。 6
月 21日 -全国 ツアー「LIVE電子 悲劇 」スタート( - 2月 7日 、全 8公演 )。赤坂 BLITZで行 われた最終 公演 を以 て「レイヤー・グリーンの危機 ~議定 書 を探 せ~」は完結 。なお、1998年 は各 メンバーがそれぞれの活動 に注力 していたため、P-MODELとしての活動 はこれ以降 あまり行 われなかった。 1
日 -結成 20周年 記念 プロジェクトとして「音楽 産業 廃棄 物 ~P-MODEL OR DIE」がスタート。特設 サイト「P-PLANT」が設置 される。また同日 日本 コロムビアを離脱 。これ以降 、平沢 及 びP-MODELの作品 は所属 事務所 であるケイオスユニオンから直接 、MP3によってリリースされることになる[注 10]。 5月29
日 -渋谷 O-Eastで開催 された「Future Screen of Tokyo New Wave」に出演 。解凍 期 以降 半 封印 状態 だった1stアルバムの曲 が披露 された。
6月29月 6日 - 『VIRTUAL LIVE』シリーズ第 1弾 として、『VIRTUAL LIVE-1』をリリース。『VIRTUAL LIVE』シリーズは過去 アルバムをライブアルバム風 に再 録 したもの。当時 1st~10thアルバムが全 て廃盤 となっており、入手 できないリスナーの為 の救済 措置 という形 だった。 7
日 - 12thにして最後 のオリジナルアルバムとなる『音楽 産業 廃棄 物 ~P-MODEL OR DIE』をリリース。
9月 1- 10月
日 -全国 ツアー「音楽 産業 廃棄 物 ~P-MODEL OR DIE」スタート( - 10月28日 、全 6公演 )。
4 - 10月25
日 - 『VIRTUAL LIVE』シリーズ第 2弾 『VIRTUAL LIVE-2』リリース。 - 11月
日 - 「音楽 産業 廃棄 物 」ツアーの追加 公演 として、渋谷 O-Eastで「音楽 産業 廃棄 物 取扱 技能 者 総 決起 集会 」が開催 される。2000年 はライブを行 わなかったため、これが事実 上 のP-MODELラストライブとなった。
6 - 11月25
日 - 『VIRTUAL LIVE』シリーズ最終 弾 『VIRTUAL LIVE-3』リリース。
月 1日 - 「グローバル・トリビュート大 作戦 」が始動 。ネットを介 して平沢 進 ・P-MODELのカバー楽曲 を制作 し海外 の人 に歌 わせる趣旨 であった。
3月 4日 -映像 作品 『音楽 産業 廃棄 物 ~P-MODEL OR DIE』がMAGNETからの通販 限定 で販売 。7月 10日 より店頭 販売 も開始 される。
4月 1日 -活動 休止 前 最後 の作品 となるCD『P-PLANT CD Vol.1』をリリース。ケイオスユニオン内 のWIRELESSレーベルより発売 された。
6- 10月
日 - 「グローバル・トリビュート大 作戦 」の結果 発表 。上位 5曲 は後 にCD化 された。
6 - 12月20
日 -公式 ホームページ及 びファンクラブ会報 にて「培養 」と呼 ばれる活動 休止 期間 に入 る事 と、現 メンバー編成 の解体 が発表 される。これ以降 、P-MODELとしての活動 は行 われていない。何人 かのメンバーは再 結成 に意欲 を見 せているが、平沢 は再 結成 に対 して非常 に後 ろ向 きであり事実 上 の解散 とみられている[注 11]。ただし、平沢 は「私 以外 の歴代 メンバー集 まってP-MODEL名乗 るの許可 します」とも発言 している。[31]
月 10日 - P-MODELのほぼ全 音源 を収録 したボックスセット『太陽系 亞種 音 』リリース。 5
- 10月
日 -平沢 が「核 P-MODEL」という名義 での活動 を開始 。1stアルバム『ビストロン』をリリース。
7 - 11月
日 -新宿 ・全労済 ホールにて4Daysライブ「トーキョー・ビストロン」を開催 ( - 11月13日 、全 4公演 )。核 P-MODELとしての初 ライブとなる。 8
月 1日 -核 P-MODELとして初 の映像 作品 『LIVE VISTRON』をリリース。ケイオスユニオンからの通販 限定 で、店頭 販売 はされなかった。
4日 - シングル『アンチ・ビストロン [MecanoVersion]』発売 。東京 都 中野 区 にあるCDショップ「メカノ」のみでの限定 販売 。 6月30
月 20日 - シングル『Big Brother -可逆 的 分離 態様 』リリース。前作 と同 じく、「メカノ」のみでの販売 となった。 5
日 - P-MODEL結成 30周年 &平沢 ソロ活動 20周年 記念 プロジェクトとして、「凝集 する過去 還 弦 主義 8760時 間 」がスタート。特設 サイトでは結成 ~培養 までのフライヤーや写真 が閲覧 でき、ライブ音源 の一部 が視聴 可能 であった。 9月 1
日 - 「還 弦 主義 」プロジェクトの一環 として、P-MODELの曲 をストリングスアレンジ・セルフカバーしたアルバム『突弦変異 』を発売 。収録 曲 の「Solid Air」は同日 より無料 配信 された。 6月23
月 26日 -平沢 の兄 ・裕一 がプロデュースするニューウェーブ喫茶 「Gazio」のオープンにあたり、30日 までプレオープンイベント「Cycle-Z」を開催 。平沢 や元 メンバーも来店 し、その中 で核 P-MODELが新譜 の制作 を開始 することが発表 された。 4
- 11月
日 -核 P-MODELの2ndアルバム『гипноза』リリース。収録 曲 の「それ行 け!Halycon」には田中 がキーボードで参加 しており、脱退 以来 30年 ぶりに平沢 と共演 した。 6
月 11日 -赤坂 BLITZにおいて4Daysライブ「パラレル・コザック」を開催 ( - 1月 14日 、全 4公演 )。
1- 10月11
日 -品川 ステラボールにて3Daysライブ「HYBRID PHONON」を開催 ( - 10月13日 、全 3公演 )。「平沢 進 ×核 P-MODEL」名義 で行 われ、双方 の曲 を織 り交 ぜたセットリストとなった。
月 3日 - ケイオスユニオンからの通販 限定 で映像 作品 「パラレル・コザック」が発売 される[32]。
6日 - メカノの開店 10周年 記念 コンピレーション・アルバム『築 10年 』に参加 。『гипноза』収録 曲 の別 バージョンとなる「白 く巨大 でt0t1」を収録 。 6月30
- 4
月 13日 - ケイオスユニオンからの通販 限定 で映像 作品 「HYBRID PHONON」が発売 される[33]。
月 3日 -今 敏 の漫画 を原作 とした映画 「OPUS」のテーマ曲 を核 P-MODEL名義 で制作 する事 が発表 される[34]。
4日 - 3rdアルバム『回 =回 』リリース。
9月 5日 -東阪 2Daysツアー「回 =回 (Kai equal Kai)」開催 (全 4公演 )。9月14・15日 に大阪 で、11月16・17日 に東京 でライブが行 われた。 9月14
月 14日 - 「回 =回 (Kai equal Kai)」ツアーの追加 公演 が豊洲 PITで開催 。平沢 ソロ時代 も含 め20年 ぶりの追加 公演 となった[35]
1月 29日 -平沢 が正体 不明 のメンバー「会 人 (EJIN)」をサポートに携 えた「平沢 進 +会 人 (EJIN)」名義 でフジロックフェスティバル'19に出演 。「HYBRID PHONON」と同 じく、ソロとのハイブリッド形式 のセットリストが展開 された。 7
月 14日 -平沢 進 +会 人 (EJIN)が Zepp Tokyoにて2daysライブ「会 然 TREK 2K20▲03」( - 1月 15日 、全 2公演 )開催 。平沢 ソロとのハイブリッド形式 のセットリストが展開 された。
1月 2日 -平沢 の生誕 記念 として、核 P-MODELの楽曲 「二 重 展望 3」をアレンジした「Gift2020 (二 重 展望 2020)」が限定 配信 される[36]。 4
月 22日 -平沢 進 +会 人 (EJIN)がフジロックフェスティバル'21に出演 。同 じく平沢 ソロとのハイブリッド形式 のセットリストが展開 された。 8
- 1
月 1日 -改訂 から培養 までのメンバーだった福間 がかねてより患 っていた脳 内 の未 破裂 血栓 化 大動脈 瘤 を要因 とし51歳 で死去 。 訃報 公表 当時 の1月 7日 に平沢 の公式 サイトで追悼 コメントを発表 した[2]。- 10月24
日 - ケイオスユニオンからの通販 限定 で映像 作品 「LIVE回 =回 」が発売 される[37]。
9月8
4
8
音楽 性
- MANDRAKE
後期 のパンク、ニューウェーブ的 手法 を発展 させた、リズムボックスやシンセサイザーをラジカルに使 ったサウンドで、ヒカシュー、プラスチックスと共 に「テクノ御三家 」と俗称 され、日本 のテクノポップ/ニューウェーブ・ムーブメントの一翼 を担 った[注 12]。平沢 によるとメンバーが影響 を受 けたバンドは、999やセックス・ピストルズ、Métal Urbain、ジョルジオ・モロダーなどであり、テクノポップで有名 なKRAFTWERKやXTCではないと言 う[38]。小室 等 司会 の番組 「パイオニア・ステレオ音楽 館 」(東京 12チャンネル)に出演 したときは、平沢 は小室 にテクノポップについて聞 かれると「イエローでマジックな人 たちにでも聞 けばいいんじゃないですか?」と投 げやりに答 えるなど、枠 にはめられることに拒否 感 を持 つような態度 をとっていた。平沢 は後年 、YMOについては「フュージョンだと思 っていた」とも語 っている[13]。ライブではこまわり君 の動 きを採 り入 れ、跳 びはねるなどのパンク・ロック寄 りのコミカルなパフォーマンスを行 う。音楽 は工業 製品 でしかないという意味 を込 めて「I AM A COKE」や「YOURYO JIDOU(優良 児童 )」と書 かれたプレートを服 に着 けて演奏 を行 った。 - ポップで
明 るいビジュアルとは裏腹 に、楽曲 のテーマがSF小説 「1984年 」を題材 としたダークなディストピアがコンセプトとなっている。 基本 的 に平沢 ・田中 が作詞 作曲 を務 めていたが、1st『IN A MODEL ROOM』には平沢 の実兄 である平沢 裕一 が作詞 に参加 し、『LANDSALE』には秋山 が楽曲 を提供 している。また、裕一 は凍結 までアルバムジャケットやライブフライヤーのデザイン、ライブでの映像 演出 を担当 していた。- デビュー
直後 の急激 な人気 にメンバーは困惑 し、ライブハウスには黄色 い歓声 が飛 び交 い、町中 には「ピンクは血 の色 」と車 に書 かれた暴走 族 が現 れるなど、マンドレイク時代 から比 べ、「機材 をピンクに塗 っただけでこのザマかと」などとシニカルな態度 を取 っていた[13]。1980年 に入 ると、演奏 中 に突然 ヤマトノリを絞 り出 す、ライブイベント出演 時 には2ndアルバム『LANDSALE』を流 すだけで観客 が騒然 とするまで演奏 を始 めないなど、デビュー当時 のようなパフォーマンスから離 れ始 める[13]。
過熱 するテクノポップブームへの危機 感 から攻撃 的 、批評 的 な歌詞 やテクノ的 な音 作 りを捨 て、奥行 きを持 たせた音 の空間 や、独自 のリズム解釈 、そして意味 と音 のバランスを作為 的 に崩 した言葉 の組 み立 てによる歌詞 など実験 的 なアプローチへとバンドは大幅 な路線 変更 を打 ち出 した。1981年 の『Perspective』発売 前 に新宿 ロフトにて行 われた2部 制 シリーズライブ「カナリアの籠 展開 図 ぐるりと回 る360度 期待 は記憶 気 のどくだねオゾノコブラノスキー」では、第 一部 に前作 を踏襲 する未 発表 曲 を数 曲 演奏 。田井中 が唯一 作曲 した表題 曲 や「LUCKY TIME」などが演奏 されたが、P-MODELの音源 として発売 されることは無 かった[注 13]田中 はこの時期 を「次 にどういうふうにやっていくか、模索 してた時代 」「(楽曲 制作 において)僕 としては非常 に閉塞 状 況 を感 じてて、ちょっと続 けにくかった」と回顧 しており、平沢 は当時 の田中 について「(Perspective製作 時 に)自信 が無 かったというか、スランプだったかもしれません」と語 る[13]。その後 、「アイデアの枯渇 」を理由 に1983年 に田中 が脱退 。以降 はメンバー、音楽 性 の変遷 を繰 り返 し、その中 で他 バンドの経験 者 やローディーだった者 がメンバーとして採用 されるにつれて、次第 に平沢 のワンマン・バンドとしての要素 が強 くなっていく。後 に平沢 はこのことが活動 休止 の遠因 であったと述 べている[39]。田中 の脱退 やレコード会社 との対立 で平沢 は徐々 に精神 が不安定 となっていく。シルバ・マインド・コントロール(以下 SMC)のレクチャーを受 けたことがきっかけとなり、SMCの方法 論 を取 り入 れた『ANOTHER GAME』、ユング心理 学 を参考 にした『SCUBA』といった作品 が発表 され[13]、「夢 」「無意識 」を題材 としたシュルレアリスム的 世界 観 がコンセプトとなっていく。- ライブでは「ヘヴナイザー」などの
自作 楽器 を用 いてフレーズ・サンプリングの多用 、ドラムサウンドのホワイトノイズ加工 が行 われた。また、ステージ上 から客席 に鳥 の餌 を撒 くなどのパフォーマンスで個性 的 なステージングを展開 した。この頃 から平沢 は現在 でも続 く直立 不動 で演奏 を行 うようになる。 - 1984
年 の横川 加入 後 は、平沢 曰 く「黄金 期 の感覚 を取 り戻 そうと」殺気立 ったパフォーマンスを展開 。P-MODEL史上 最 もファンキーとも称 されたが、バンド内 の衝突 も激 しく平沢 は「(横川 と)傍 から見 ると険悪 に見 える事 もあるくらいにやりあってた」と語 り、後年 平沢 は横川 がバンドから来 るストレスで脱退 したことを明 かしている[13]。三浦 は後年 「もうP-MODELに興味 が持 てなくなっていた」と回顧 しており[40]、この時期 の活動 に疑問 を感 じた三浦 と横川 が1985年 末 を以って脱退 する事 となる。ただし、両者 とも平沢 と仲 が悪 くなった訳 では無 く脱退 後 も交流 は続 いている。
- 7thアルバム『ONE PATTERN』において、
封印 していたテクノポップへ接近 しているが、シーケンサー類 が普及 し画期的 でも無 くなった事 により再 び取 り入 れる事 になった[13]。 高橋 はシーケンサーやカセットデッキも担当 する為 、「Systems」とクレジットされた。ただし、ライブではシーケンサーは使用 されず、同期 を不得手 としていた田井中 に対 する配慮 のために全 て手 弾 きしていた。平沢 はMIDIギターも導入 したが、不調 になる事 が多 く、演奏 が中断 する事 も多 かった。- ライブパフォーマンスにおいては
曲 と曲 との境界 が無 くなり、ほぼメドレー形式 で演奏 を行 うようになる。 - 1987
年 に発売 される予定 だったアルバム「モンスター」には中野 と高橋 の制作 した楽曲 が収録 される予定 となり、ワンマンバンド色 は幾 分 かは薄 くなっていった。高橋 の制作 した楽曲 は脱退 の為 にお蔵 入 りとなったが、高橋 の脱退 ライブで一部 が演奏 された。「モンスター」収録 予定 だった一部 の楽曲 は平沢 ソロアルバム「時空 の水 」、中野 ソロアルバム「USER UNKNOWN」にてセルフカバーがされている。ボックスセット「太陽系 亞種 音 」、ライブDVD「三界 の人体 地図 」には当時 のライブ音源 ・映像 が収録 されている。 - ビジュアルの
面 ではメンバーの衣装 が統一 されるようになり、ツアー毎 にテーマに沿 った衣装 でライブを行 う様 になる。メンバーの衣装 統一 に関 しては解凍 後 にも受 け継 がれた。
凍結 前 は意図 的 に避 けていた「テクノポップ」を宣言 し、よりサイバー感 を高 めたサウンドや、科学 技術 、特 にコンピューター等 をテーマにした歌詞 、を展開 している。また平沢 ソロで培 った、メロディやコンピュータのなかにプリミティヴな精神 世界 を見出 す姿勢 が貫 かれている[41]。- メンバー
選出 に対 し平沢 は、「打 ち込 みができる人 (=ことぶき)、楽器 を弾 けてルックスがいい人 (=藤井 )、そして秋山 。」と語 っている。藤井 以外 は元 P-MODELメンバー兼 平沢 ソロバンド参加 者 であった。「打 ち込 みができる人 」の枠 には、当初 同 じく平沢 ソロバンドに参加 していた砂原 良徳 にもオファーをしていたが、電気 グルーヴ加入 の話 が先 となりこの話 は流 れた。 - ライブでは、ことぶき
光 のキーボードセットは「砦 」と呼 ばれ、パソコンのキーボード、「魂 」と呼 ばれる球体 などが飾 られており、キーボードやシーケンサーが縦 に立 て掛 けられたまま演奏 した[注 14]。また、秋山 は半裸 でステージを縦横無尽 に駆 け巡 る、常 にマラカスを振 りながら踊 る、キーボードを蹴飛 ばすなどのパフォーマンスを行 った。
- インターネットを
活動 のキーワードとしており、P-MODEL加入 の理由 として小西 はインターネットの発達 により大阪 に居 ながら東京 の平沢 との楽曲 制作 が可能 になったこと、福間 はパソコン通信 で小西 に誘 われたことを理由 として挙 げている[13]。『音楽 産業 廃棄 物 ~P-MODEL OR DIE』ではインターネット上 でのやり取 りのみで楽曲 制作 を行 い、インターネット中継 による公開 ミックスダウンも行 われた[9]。また、各 メンバーがホームページを開設 し、メンバーとリスナー間 の直接 なやり取 りが可能 であった。 - 「サイバー・スペースで
出会 ったメンバー達 が情報 宇宙 帆船 P-MODEL号 で旅 をする」というコンセプトの元 、ホームページを活用 した観客 とのインタラクティブなやりとりや、ライブでのステージングひとつひとつに意味 を持 たせた独自 の世界 観 を構築 していった[42]。この「情報 宇宙 帆船 P-MODEL号 」はアルバムによって「Black in White船団 」「回収 船 P-MODEL号 」と名称 が変 わっていった。ステージ上 には小西 の自作 楽器 が持 ち込 まれ、ファミリーコンピュータの周辺 機器 を改造 した「データ・グローブ」、自作 電子 ドラム「道頓堀 一 号 」、観客 に向 けて鞭 を振 るうとセンサーが反応 して音 がなる「デジタル折檻 」などが披露 された。また、上 領 以外 の3人 がMiburiを装着 し横 一 列 になって楽曲 を演奏 する事 もあった[13]。 凍結 以前 から続 く個性 的 なパフォーマンスも受 け継 がれ、平沢 はテレビカメラを持 ち込 み観客 を映 す、福間 はシンセサイザーを抱 えながら暴 れる「シンセサイザーソロ」、小西 は指揮棒 を振 り回 す、バナナを客席 に投 げるパフォーマンスを行 った。また、バンド結成 から平沢 はボーカル・ギター担当 であったが、上 領 が脱退 した1997年 よりボーカル・ギター兼 シンセサイザーにパートチェンジした。平沢 と旧来 の付 き合 いがあり年齢 も近 かった小西 の参加 によって、平沢 と小西 の二 頭 体制 が出来上 がった。この時期 に発表 された楽曲 の半数 近 くは小西 のものである。楽曲 はメンバーの個人 製作 が中心 となり、「Miburi」、「データ・グローブ」などの電子 楽器 群 の比重 が高 まったため、解凍 期 から徐々 に希薄 化 していたバンド色 がこの時期 にはさらに薄 れ、ライブでも打 ち込 み音源 がメインとなっていった。北欧 、東洋 的 メロディやリズムといった平沢 ソロの手法 もより積極 的 に取 り入 れられ、解凍 期 とは異 なる、アジアンテイストが加 わった“アジアン・テクノ”なるサウンドを展開 [42]。『電子 悲劇 /~ENOLA』ではタイでのレコーディングを行 った。
改訂 期 と同 じくコンセプト・アルバムが中心 。2002年 に発売 されたボックスセット『太陽系 亞種 音 』で「今 までのP-MODELの活動 はアシュオンと呼 ばれる物体 の大 規模 な実験 のためだった」という内容 が綴 られ、『ビストロン』ではその物語 の続編 として位置付 けられた。ライブでは「亜種 音 培養 炉 」と呼 ばれる巨大 なセットが鎮座 している。この「培養 炉 」は2011年 に起 きた東北 地方 太平洋 沖 地震 により破損 し、そこから2ndアルバム『гипноза』の物語 が始 まる。その後 アシュオンにまつわる話 はライブ「パラレルコザック」、「HYBRID PHONON」を経 て、平沢 がプロデュースしたバンドPEVOのライブ「NEOZIC」で完結 し、平沢 ソロライブ「WORLD CELL 2015」へ繋 がっていった。当初 は改訂 期 の平沢 ソロ的 手法 は幾分 抑 えられ、解凍 期 や初期 の頃 の様 なテクノポップサウンドとなっていたが、「回 =回 」では中期 ~改訂 期 の手法 を踏襲 した上 で、作風 をソロに寄 せたと明言 している[43]。当初 は平沢 のソロプロジェクトであったが、2ndアルバムでは田中 靖 美 とPEVO1号 がゲストで参加 した。2014年 に行 われた全 てのライブではPEVO1号 がサポートメンバーとして、「パラレル・コザック」では謎 の毛糸 帽 の男 (福間 創 )がゲストで登場 した。2018年 のライブ『回 =回 』ではペストマスクを被 った正体 不明 の「白 会 人 」であるSSHOとTAZZがサポートメンバーになっている。- ライブではP-MODEL
時代 の曲 も演奏 され、「トーキョービストロン」と「回 =回 」で披露 されたアレンジは音源 化 されている。 - 2013
年 時点 でシンセサイザー音源 は専 らSynth1を使用 しており、核 P-MODELの曲 でもメインの音源 として多用 されている[44]。
その他 エピソード
- MANDRAKE
結成 時 からの「パート不問 」の伝統 を受 け継 いでいる。秋山 はもともとキーボード奏者 であったが、P-MODEL結成 にあたりキーボードの続投 を求 めた田中 の意向 により、全 く未経験 であったベースを担当 することになった。- 『Potpourri』のレコーディング
時 には秋山 の脱退 によりベーシストが不在 だった[注 15]ことから、平沢 ・田中 がベースを弾 いている。 横川 の在籍 中 、彼 がバイオリンを演奏 する際 は平沢 がベース、三浦 がギターを弾 く変則 的 な編成 がとられた。中野 はP-MODEL加入 にあたり、空席 となっていたベース・キーボードのどちらかを選択 させられた。また中野 と同 時期 に加入 した高橋 はもともとベーシストだったものの、既 に中野 がベーシストとして内定 していた事 から未 経験 のキーボードを担当 することになった。解凍 期 以降 は正式 なベーシストが存在 しないが、楽曲 によっては秋山 や小西 がベースを弾 くこともあった。
活動 再開 こそ絶望 視 されているものの、元 メンバー同士 の関係 は現在 でも良好 である。2000年代 以降 は楽曲 制作 やライブ共 にほぼ1人 で行 っていた平沢 も、2010年代 からはかつて平沢 がプロデュースしたShampoo、PEVOのメンバーも交 えて共演 、共 作 など盛 んに交流 が行 われている。- かきふらいによる
漫画 「けいおん!」の主要 登場 人物 の氏名 はP-MODELのメンバーに由来 するのではないかと双方 のファンから指摘 されており[45][注 16]、これに対 して「由来 」となったメンバーもそれぞれ反応 している。
作品
ミュージックビデオ
ASHURA CLOCK(discomuniactor)(1997 |
「 | |
アート・ブラインド(1979 I AM ONLY YOUR MODEL(1980 different ≠ another(1981 Potpourri (ポプリ) (2 ナチュラル(1981 いまわし Heaven (2 Perspective(1982 のこりギリギリ(1982 HOKA NO KEIKAKU(1983 ECHOES ( ふるへっへっへ (2 フ・ル・ヘッ・ヘッ・ヘッ (1984 ATOM-SIBERIA(1984 HARM HARMONIZER(1984 |
「ふるへっへっへ」は『BITMAP』に | |
ピーター・カラス | Karkador 3min 1986 Australia(1986 |
「KARKADOR」をBGMに |
Another Day(1986 |
ACユニット | |
2D or not 2D(1992 Grid(1992 Monotone Grid(1994 http (1996 |
||
ホッホー |
||
『 |
ライブ・データ
正式 なライブタイトルがあるもののみ記載 。
ライブ・ツアー
中止 になった公演 は取消 線 、振替 公演 は緑色 、追加 公演 は赤色 で表記
タイトル | ||||
---|---|---|---|---|
1979 |
9月3 |
VAN HALEN |
||
1980 |
1 |
P-TRICK PLAN Vol.1 | 7
|
|
3月28 |
P-TRICK PLAN Vol.2 | 9
|
||
6月15 |
POP THE HERO | 1
| ||
11月21 |
P-MODEL in a “M” room concert | 1
|
||
1981 |
6月5 |
5
|
||
10月18 |
カナリアの |
|||
1982 |
3月8 |
BAND in Perspective | 7
| |
3月26 |
1
| |||
8 |
1
| |||
1983 |
10月2 |
LOOPING OPPOSITION | 1
| |
10月24 |
ANOTHER GAME TOUR | 22
| ||
1984 |
3月16 |
ANOTHER GAME TOUR 2nd | 8
| |
4 |
SPECIAL DAY&NIGHT | 1
| ||
6月24 |
1
|
8 | ||
8 |
SCUBA TOUR | |||
12月16 |
SCUBA TOUR(Ⅱ) | |||
1985 |
5月26 |
10MILES HIGH | 1
| |
10月26 |
KARKADOR TOUR | |||
1986 |
4 |
1
| ||
7 |
ONE PATTERN TOUR | |||
10月19 |
ONE PATTERN TOUR 2nd | |||
11月26 |
ゼブラの |
1
| ||
1987 |
3月14 |
1
|
||
4 |
1
|
|||
5月8 |
MODEL HOUSE Presents Tour | |||
6 |
Shoot the Monster | 1
| ||
7 |
TOUR SENSONICS | |||
9月12 |
1
| |||
9月27 |
グレーテルの |
1
| ||
11月1 |
1
|
|||
12月4 |
1
|
|||
1988 |
3月3 |
2
| ||
3月12 |
BAND in PerspectiveⅡ | 1
|
バンド | |
6 |
DAY'S BRAVO! | 1
|
||
6月11 |
NIGHT'S BRAVO! | 1
|
このライブで | |
7 |
FEAR'S BRAVO! | 1
|
||
12月28 |
1
| |||
1990 |
9月23 |
ERROR FORCE | 1
|
P-MODELの |
1991 |
9月23 |
ERROR OF UNIVERSE | 1
|
|
1992 |
3 |
P-MODEL TOUR '92 | 2
|
|
5月11 |
TOUR ON GRID | 4
|
5月13 | |
10月25 |
PLANET ERROR | 1
|
||
12月7 |
2
| |||
1993 |
5月26 |
BIG BODY TOUR | 3
| |
10月11 |
ERROR OF INFORMATION “ |
1
|
||
1995 |
9月30 |
ENDING ERROR | 1
|
|
1996 |
3月9 |
5
|
||
10月5 |
Unfix #0 “Branch-O” | 1
| ||
11月15 |
Unfix #3 “コミュノ・ハイブリディア” | 1
|
||
12月24 |
Unfix #5 “Another Green Nerves「ススムとケンジ」” |
1
|
||
1997 |
10月21 |
2
|
||
1998 |
1 |
LIVE |
7
| |
1999 |
10月4 |
5
| ||
11月6 |
1
| |||
2004 |
11月8 |
LIVE トーキョー・ビストロン | 1
|
|
2014 |
1 |
LIVE パラレル・コザック | 1
|
|
10月11 |
HYBRID PHONON | 1
|
「 | |
2018 |
9月14 |
LIVE |
3
|
|
2019 |
参加 イベント
|
|
脚注
注釈
- ^ P-MODELとは
明確 に異 なるものと定義 されている。 - ^
平沢 側 は「80年代 の業界 人 」として名指 しをしていないが、近田 はクイックジャパンにて自分 である事 を明 かしている。 - ^ テープエコーマシーンとキーボードを
用 いてサンプラーに似 たシステムを構築 したもの。当時 のサンプラーは「1戸 建 ての家 が買 える」と言 われた程 高価 であり、その後 の音楽 業界 に「平沢 進 が宝 くじを当 てた(=当選 金 でサンプラーを導入 した)らしい」との噂 がしばらく立 つ事 になった。 - ^
実際 は一身上 の都合 で止 む無 く脱退 となったもの。この後 荒木 は一時 音楽 活動 を休止 し、コンピュータプログラマーとして活動 することになる。 - ^ P-MODELを
凍結 させた理由 として、あくまでバンドという形 で音楽 活動 を続 けていきたかった平沢 であるが、片腕 的 存在 だった田中 の脱退 により、最終 的 にバンドが平沢 のワンマン状態 になってしまった事 が主 な要因 であると語 られている。 - ^
実際 は平沢 がパニック障害 の発作 を起 こし出演 できなくなったためである。 - ^ このイベントの
模様 は後 にテレビ放映 されたが、TALBOを叩 き付 けるシーンはカットされている。 - ^
公式 サイトからは「風邪 のため」と発表 された。 - ^
実際 は「殺人 的 スケジュール」によってパニック障害 を患 っていたものと、後 に新 事務所 設立 時 のコメントおよびTwitterで語 っている。 - ^
但 し、ネット接続 のないリスナーの為 にインディーズレーベル「MAGNET」からCDでのリリースも行 われた。 - ^
高橋 はオファーがあれば参加 したい旨 を述 べている。小西 も平沢 が「(小西 自身 が)好 きなだけドイツにいてもいい」と認 めることを前提 条件 として述 べているが再 結成 には前向 きである。しかし平沢 はインタビューやTwitterで再 結成 を否定 している。 - ^ 『
音楽 産業 廃棄 物 』内 のインタビューにて、『メンバー全員 「打倒 ・ピンクレディー」で行 こうとしていた』と語 っている。 - ^ 「LUCKY TIME」は
後 にIKARI名義 で、ソノシートに収録 された。「IKARI/NO PERSPECTIVE」を参照 。 - ^ 『
音楽 産業 廃棄 物 』のインタビューにて、ことぶきはトリガーを押 しているだけで大半 がパフォーマンスだったと語 っている。 - ^
後任 である菊池 は当時 サポートメンバー扱 いであったため、レコーディングには参加 していない。 - ^ ただし、
原作 者 のかきふらいから名前 の由来 に関 する公式 なアナウンスはなされていない。
出典
- ^ a b c d e f g Martin, Ian. P-Model Biography, Songs & Albums - オールミュージック. 2021
年 12月26日 閲覧 。 - ^ 『
音楽 産業 廃棄 物 』平沢 進 SIDE「卓上 のウロボロス 」p46 - ^ “プロフィール| P-MODEL |
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外部 リンク
- P-model official homepage(
日本 コロンビア時代 のHP) - ウェイバックマシン(1997年 7月 4日 アーカイブ分 ) - P-MODEL
航海 日誌 - ウェイバックマシン(1997年 7月 4日 アーカイブ分 ) - P-MODEL(CHAOS UNION) - ウェイバックマシン(2007
年 5月 16日 アーカイブ分 ) - NO ROOM - The official site of Susumu Hirasawa (P-MODEL) - ウェイバックマシン(2015
年 12月23日 アーカイブ分 ) 平沢 進 Susumu Hirasawa (P-MODEL) Official site平沢 進 ・核 P-MODELライブ公式 - Twitter- P-MODEL - Discogs