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有本は京都を模して街区整理による都市計画をすすめると共に、鉄道([[米子電車軌道]])、競馬場([[日本の廃止・休止競馬場一覧#中国地方|皆生競馬場]])を整備し、様々なイベントを開催して集客に勤めた<ref name="chimeiKD_tori"/>。背後の[[大山 (鳥取県)|大山]]と[[美保湾]]越しの[[島根半島]]・[[夜見ヶ浜]]や、[[隠岐島]]の遠景などの景観と[[米子市]]に近いことから<ref name="NBC4"/><ref name="S15guide"/>、山陰随一の温泉歓楽街なった<ref name="furusatosanin"/>。 |
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2021年1月30日 (土) 07:44時点における版
座標: 北緯35度27分22.69秒 東経133度21分42.49秒 / 北緯35.4563028度 東経133.3618028度 / 35.4563028; 133.3618028
海沿いのホテル群
ホテルから望む皆生海岸
皆生観光センター周辺
皆生海岸とホテル群
皆生海岸。夏場は海水浴場になる。 |
皆生温泉(かいけおんせん)は、鳥取県米子市にある温泉。
弓ヶ浜の皆生海岸に面する東西1,000m、南北400mの狭い範囲に大型ホテルを含む宿泊施設が集積する。その収容規模は約5,000人で、山陰最大級[3]である。鳥取県が入湯税を基に算出した調査に拠れば、近年は年間40万人前後が利用しており、2017年現在、鳥取県内の温泉では最も入湯客が多い[2][注 1]。「米子の奥座」、「山陰の熱海」とも呼ばれる[5]。
源泉
塩化物泉で[1]、第三紀の安山岩層の割れ目から湧出している[6]。1900年(明治33年)に発見されたが、海岸の侵食によって当初の源泉は水没してしまい、護岸工事が行われた[6](後述)。湧出量も多く、源泉の温度は鳥取県内で最も高温である[6][7]。
主成分
皆生温泉の集中管理泉
温泉街
米子市街の北東部に「皆生温泉1丁目 - 4丁目」があり、そのうち「皆生温泉3・4丁目」に高層ホテル・旅館が立ち並び温泉中心街を形成している。白砂の美しい弓ヶ浜沿いにあり、夏季には海水浴場となる。湯上りの散策に好まれる温泉街は、東には美保湾越しに大山がよく見えて「日本の朝日100選」に選定されているほか、「日本の渚100選」、「日本の白砂青松100選」、「都市景観100選」にも選定されている。浜の内側には大きな温泉旅館やホテルが浜に沿って一直線に立ち並ぶ。旅館街には、飲み屋・飲食店・風俗営業の店が集まる。
歴史
1884年(明治17年)頃、砂浜から180メートル沖合の海面が泡だっているのが漁師に発見され、「泡ノ場」と呼ばれるようになった[8][9]。ところが日野川を流されてくる土砂によって海岸が前進し、「泡ノ場」はどんどん陸に接近してきた[8]。これに注目した地元の事業家・伊島源太郎が温泉掘削を計画したが、実行に移される前に、漁師である山川忠五郎が浅瀬に湧き出る熱湯を偶然発見した(1900年(明治33年)秋)[9][10]。事業家や村が温泉の開発経営を試みたがいずれも失敗し、経営難となった[8]。
これを引き継いだのが米子の実業家有本松太郎で、1921年(大正10年)に皆生温泉土地株式会社を設立、同年1月15日に福生村長の八田善太郎との間に土地売買契約が成立し、本格的に掘削を進める[8]。
有本は京都を模して街区整理による都市計画をすすめると共に、鉄道(米子電車軌道)、競馬場(皆生競馬場)を整備し、様々なイベントを開催して集客に勤めた[8]。背後の大山と美保湾越しの島根半島・夜見ヶ浜や、隠岐島の遠景などの景観と米子市に近いことから[6][9]、山陰随一の温泉歓楽街なった[11]。
温泉地区が海浜に立地することで、長年にわたって海岸の侵食による影響を受けてきた[8]。特に冬季は日本海からの強風で海浜の侵食が激しく、海岸が一晩で13メートル後退したこともある[8]。20年間で海岸線は60メートル以上後退し、11軒の旅館のうち7軒が水没するに至った[8]。対策として鳥取県が防砂堤や防潮堤を造り、砂州を造成して侵食を食い止めている[8]。
戦後は団体客が多く訪れるようになり、今日に見られるような温泉街に発達する。一方で歓楽温泉から健康的な温泉へイメージ変化を図っており、1978年(昭和53年)には弓ヶ浜に海水浴場を整備、1981年(昭和56年)には日本で最初のトライアスロン競技(全日本トライアスロン皆生大会)が開催され、その発祥の地として毎年大会を開催している。その他スキー、キャンプ、登山、釣りなどの拠点としての開発も行っており、その他イベントの開催や郷土文化の伝承、来訪者の手形を嵌め込んだ海岸遊歩道の整備など様々な試みが行われている。
アクセス
1925年(大正14年) - 1938年(昭和13年)には米子電車軌道という路面電車が米子駅前と温泉を結んでいた。
脚注
注釈
- ^ 1997年(平成9年)以前は、各自治体の申告に基づいて利用者を推計していたが、それによれば1997年の1年間の利用者は約177万人で、三朝温泉に次ぐ県内2位だった[4]
出典
参考文献
- 『溫泉案内』,鉄道省,博文館,1940
- 『図説日本文化地理大系4 中国1』,浅香幸雄・編,小学館,1962
- 『日本の文化地理 第13巻 兵庫・岡山・鳥取』講談社,1970
- 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』,角川書店,1982,ISBN 978-4040013107
- 『鳥取県大百科事典』,新日本海新聞社鳥取県大百科事典編纂委員会・編,新日本海新聞社,1984
- 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』,平凡社,1992
- 『全国温泉大事典』野口冬人・著,旅行読売出版社,1997,p560-563
- 鳥取県文化観光局観光政策課 平成22年観光客入込動態調査結果
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