|
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
(30人の利用者による、間の34版が非表示) |
1行目: |
1行目: |
|
|
{{出典の明記|date=2021-06}} |
|
{{基礎情報 過去の国 |
|
{{基礎情報 過去の国 |
|
|略名 = アルバニア |
|
|略名 = アルバニア |
|
|日本語国名 = アルバニア王国 |
|
|日本語国名 = アルバニア王国 |
|
|公式国名 = '''{{Lang|sq|Mbretnija Shqiptare}}''' |
|
|公式国名 = '''Mbretëria Shqiptare''' |
|
|建国時期 = 1928年 |
|
|建国時期 = [[1928年]] |
|
|亡国時期 = 1946年 |
|
|亡国時期 = [[1946年]] |
|
|先代1 = アルバニア共和国 (1925年-1928年) |
|
|先代1 = アルバニア共和国 (1925年-1928年) |
|
|先旗1 = Flag of Albania 1926.svg |
|
|先旗1 = Flag of Albania 1926.svg |
11行目: |
12行目: |
|
|国旗画像 = Flag Kingdom Of Albania.svg |
|
|国旗画像 = Flag Kingdom Of Albania.svg |
|
|国旗リンク = |
|
|国旗リンク = |
|
|国旗説明 = |
|
|
|国旗幅 = |
|
|国旗幅 = |
|
|国旗縁 = |
|
|国旗縁 = |
|
|国章画像 = Coat of arms of the Albanian Kingdom (1928–1939).svg |
|
|国章画像 = Coat of arms of the Albanian Kingdom (1928–1939).svg |
|
|国章リンク = |
|
|国章リンク = |
|
|国章説明 = |
|
|国章幅 = 95 |
|
|
|標語 = Atdheu mbi te gjitha{{sq icon}}<br>''何よりも祖国'' |
|
|国章幅 = |
|
|
|
|国歌 = [[旗への賛歌|Himni i Flamurit]]{{sq icon}}<br><small>''旗への賛歌''</small>{{center|[[File:Hymni i Flamurit instrumental.ogg]]}} |
|
|標語 = |
|
|
|国歌名 = 旗への賛歌 |
|
|
|国歌 = 旗への賛歌 |
|
|
|国歌追記 = |
|
|国歌追記 = |
|
|位置画像 = |
|
|位置画像 = Albanian Kingdom (1935).svg |
|
|位置画像説明 = |
|
|位置画像説明 = 1935年のアルバニア王国 |
|
|公用語 = [[アルバニア語]] |
|
|公用語 = [[アルバニア語]] |
|
|首都 = [[ティラナ]] |
|
|首都 = [[ティラナ]] |
|
|
|宗教 = [[イスラム教]]<br>[[東方正教]]<br>[[カトリック]] |
|
|元首等肩書 = 国王 |
|
|元首等肩書 = 国王 |
|
|元首等年代始1 = 1928年 |
|
|元首等年代始1 = 1928年 |
42行目: |
41行目: |
|
|人口値1 = |
|
|人口値1 = |
|
|変遷1 = 成立 |
|
|変遷1 = 成立 |
|
|変遷年月日1 = [[1928年]][[9月1日]] |
|
|変遷年月日1 = 1928年9月1日 |
|
|変遷2 = [[イタリア王国|イタリア]]による侵攻 |
|
|変遷2 = [[イタリア王国|イタリア]]による侵攻 |
|
|変遷年月日2 = [[1939年]][[4月7日]] |
|
|変遷年月日2 = 1939年4月7日 |
|
|変遷3 = [[ナチス・ドイツ|ドイツ]]による侵攻 |
|
|変遷3 = [[ナチス・ドイツ|ドイツ]]による侵攻 |
|
|変遷年月日3 = [[1943年]][[9月9日]] |
|
|変遷年月日3 = 1943年9月9日 |
|
|変遷4 = [[臨時政府]]成立 |
|
|変遷4 = [[臨時政府]]成立 |
|
|変遷年月日4 = [[1944年]][[11月28日]] |
|
|変遷年月日4 = 1944年11月28日 |
|
|変遷5 = [[人民共和国]]成立 |
|
|変遷5 = [[人民共和国]]成立 |
|
|変遷年月日5 = [[1946年]] |
|
|変遷年月日5 = 1946年 |
|
|通貨 = [[フラン (通貨)|銀フラン]]<br />[[レク (通貨)|アルバニア・レク]] |
|
|通貨 = [[フラン (通貨)|銀フラン]] |
|
|時間帯 = |
|
|時間帯 = |
|
|夏時間 = |
|
|夏時間 = |
59行目: |
58行目: |
|
|国際電話番号 = |
|
|国際電話番号 = |
|
|国際電話番号追記 = |
|
|国際電話番号追記 = |
|
|
|現在 = {{ALB}} |
|
|注記 = |
|
|注記 = |
|
}} |
|
}} |
|
|
{{アルバニアの歴史}} |
⚫ |
'''アルバニア 王国'''(アルバニアおうこく、{{Lang-sq| '''Mbretnija Shqiptare '''}})は、[[1928 年]]に[[アルバニア 共和国 (1925 年-1928 年)|アルバニア 共和国]]の[[アルバニアの 大統領| 大統領]]である[[ゾグー1 世|アフメト・ベイ・ゾグー]]が[[ 国王]]に[[ 即位]] して誕生した 、[[ バルカン半島]]の 国家。 |
|
|
|
|
|
⚫ |
'''アルバニア 王国'''(アルバニアおうこく、{{Lang-sq| Mbretëria Shqiptare}})は、[[1928 年]]に[[アルバニア 共和国 (1925 年-1928 年)|アルバニア 共和国]]の[[アルバニアの 元首| 大統領]]である[[ゾグー1 世|アフメト・ベイ・ゾグー]]が[[ 国王]]に[[ 即位]] する形で誕生した[[ バルカン半島]]の 国家である。 |
|
|
|
|
|
== 歴史 == |
|
== 歴史 == |
|
[[1928年]]、アルバニアは元大統領のゾグーを国王に戴く[[立憲君主制|立憲君主国]]となった。当時のアルバニアは氏族社会であり、国内情勢は不安定であった。ゾグーは氏族の武装解除や法律整備を推し進め、アルバニアの[[近代化]]を図った。 |
|
[[1928年]]、アルバニアは大統領だったゾグーを国王に戴く[[立憲君主制|立憲君主国]]となった。当時のアルバニアは民族社会であり、国内情勢は不安定であった。ゾグーは民族の武装解除や法律整備を推し進め、アルバニアの[[近代化]]を図った。 |
|
|
|
|
|
[[1939年]]、[[ファシスト党]]率いる[[イタリア王国]]がアルバニアへ侵攻し[[イタリア軍]]が進駐すると([[イタリアのアルバニア侵攻]])、ゾグーは王妃と共に国外脱出した。同年、アルバニアはイタリアとの[[同君連合]]となり、[[イタリア君主一覧|イタリア国王]]の[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]がアルバニア王に即位する。実質的には国王代理の[[総督]]が統治し、総督となった[[ガレアッツォ・チャーノ|チャーノ]]の下で親伊派の[[傀儡政権]]が置かれ、国政を担当した。[[1940年]]にはイタリアの[[ギリシャ・イタリア戦争|ギリシャ侵攻]]の煽りを受け、南部地域が激戦地となり多くの犠牲者を出した。[[1941年]]の枢軸軍のユーゴスラヴィア占領により[[コソボ]]及び西マケドニア、ギリシャ南部まで領土が拡大し、形式上は[[大アルバニア]]を形成した。 |
|
[[1939年]]、[[ファシスト党]]率いる[[イタリア王国]]がアルバニアへ侵攻し[[イタリア軍]]が進駐すると([[イタリアのアルバニア侵攻]])、ゾグーは王妃と共に国外脱出した。同年、アルバニアはイタリアとの[[同君連合]]となり、[[イタリア君主一覧|イタリア国王]]の[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]がアルバニア王に即位する。実質的には国王代理の[[総督]]が統治し、総督となった[[ガレアッツォ・チャーノ|チャーノ]]の下で親伊派の[[傀儡政権]]が置かれ、国政を担当した。[[1940年]]にはイタリアの[[ギリシャ・イタリア戦争|ギリシャ侵攻]]の煽りを受け、南部地域が激戦地となり多くの犠牲者を出した。[[1941年]]の枢軸軍のユーゴスラヴィア占領により[[コソボ]]及び西マケドニア、ギリシャ南部まで領土が拡大し、形式上は[[大アルバニア]]を形成した。 |
75行目: |
77行目: |
|
|
|
|
|
== 経済 == |
|
== 経済 == |
|
ゾグ1世による統治下のアルバニアの11年は国家的で大規模な近代化が推し進められた。結果それまでバルカン半島において最小の経済規模であったにも関わらず最大の発達した国へ成長した。[[世界恐慌]]によるストライキ等で一時期経済は不況に陥ったが、1930年代末において再び経済は繁栄を取り戻した。しかしその繁栄も1939年のイタリア軍の侵攻と1944年から始まる共産主義政権の支配によりすぐさま終焉を迎える。 |
|
ゾグ1世による統治下のアルバニアの11年は、国家的で大規模な近代化が推し進められた。その結果それまでバルカン半島において最小の経済規模であったにもかかわらず最大の発達した国へ成長した。[[世界恐慌]]によるストライキ等で一時期経済は不況に陥ったが、1930年代末において再び経済は繁栄を取り戻した。しかしその繁栄も1939年のイタリア軍の侵攻と1944年から始まる共産主義政権の支配によりすぐさま終焉を迎える。 |
|
数年間の枢軸国の支配による混乱で再びアルバニアはバルカン最貧の国となり、貧しい小作農がアルバニアの人口の大部分を占めるようになる。 アルバニアは実質的に産業が皆無になり、未開発の資源とされていた水力発電も当分は開発されそうになく、石油が輸出される資源の多くを占めていた。石油の他、アルバニアは[[ビチューメン]]、[[亜炭]]、[[鉄]]、[[クロマイト]]、[[銅]]、[[ボーキサイト]]、[[マンガン]]や[[金]]等の資源を産出し、[[シュコドラ県]]にセメント工場、[[コルチャ県]]にビール工場、[[ドゥラス県]]とシュコドラ県には地元のタバコ草を原料とするタバコ工場など小規模な産業のみがあった。 |
|
数年間の枢軸国の支配による混乱で再びアルバニアはバルカン最貧の国となり、貧しい小作農がアルバニアの人口の大部分を占めるようになる。 アルバニアは実質的に産業が皆無になり、未開発の資源とされていた水力発電も当分は開発されそうになく、石油が輸出される資源の多くを占めていた。石油の他、アルバニアは[[ビチューメン]]、[[亜炭]]、[[鉄]]、[[クロマイト]]、[[銅]]、[[ボーキサイト]]、[[マンガン]]や[[金]]等の資源を産出し、[[シュコドラ県]]にセメント工場、[[コルチャ県]]にビール工場、[[ドゥラス県]]とシュコドラ県には地元のタバコ草を原料とするタバコ工場など小規模な産業のみがあった。<BR> |
|
戦間期においてはアルバニア国内の技術職はイタリア人が多くを占め、アルバニアが輸出していたのは毛皮、チーズ、家畜と卵で輸入品は穀物等の食料、鉄製品、機械類だった。1939年にはアルバニアの輸入の割合は輸出のそれの4倍にもなった。そして輸出される物の7割はイタリアへ行き、イタリアの工業製品はアルバニアの輸入の40%を占めており、経済はイタリアに依存していた。数年の混乱を通じてアルバニアは再び教育・社会的にバルカンで一番貧弱になってしまい、街に住むのは人口のわずか13%で、 無学者が人口の高い割合を占めるようになった。。90%の小作農は貧しく、木製の鋤等を使うような原始的な、最低限度の食料生産しか行えなかった。 そして多くの地主達の農園はマラリアのはびこる沿岸や湿地にあった。アルバニアには銀行、鉄道、近代的な港、機能的な軍隊、大学、近代的なマスコミが不足し、ヨーロッパで最も高い出生率と乳幼児死亡率で、そして男性の平均寿命は38歳だった。
|
|
アルバニアが輸出していたのは毛皮、チーズ、家畜と卵で輸入品は穀物等の食料、鉄製品、機械類だった。1939年にはアルバニアの輸入の割合は輸出のそれの4倍にもなった。そして輸出される物の7割はイタリアへ行き、イタリアの工業製品はアルバニアの輸入の40%を占めており、経済はイタリアに依存していた。戦間期においてはアルバニア国内の技術職はイタリア人が多くを占めた。数年の混乱を通じてアルバニアは再び教育・社会的にバルカンで一番貧弱になってしまい、街に住むのは人口のわずか13%で、 無学者が人口の高い割合を占めるようになった。90%の小作農は貧しく、木製の鋤等を使うような原始的な、最低限度の食料生産しか行えなかった。 そして多くの地主達の農園はマラリアのはびこる沿岸や湿地にあった。アルバニアには銀行、鉄道、近代的な港、機能的な軍隊、大学、近代的なマスコミが不足し、ヨーロッパで最も高い出生率と乳幼児死亡率で、そして男性の平均寿命は38歳だった。 |
|
|
|
|
|
<gallery> |
|
<gallery> |
92行目: |
94行目: |
|
* [[ナチス・ドイツ]] |
|
* [[ナチス・ドイツ]] |
|
|
|
|
|
{{History-stub}} |
|
{{Europe-history-stub}} |
|
{{Albania-stub}} |
|
{{Albania-stub}} |
|
|
{{Normdaten}} |
|
|
|
|
{{DEFAULTSORT:あるはにあおうこく}} |
|
{{DEFAULTSORT:あるはにあおうこく}} |
|
[[Category:アルバニアの歴史]] |
|
[[Category:アルバニアの歴史]] |
|
[[Category:かつてバルカンに存在した国家]] |
|
[[Category:かつてバルカンに存在した国家]] |
|
[[Category:20世紀のヨーロッパ史]] |
|
[[Category:20世紀のヨーロッパ]] |
|
|
[[Category:戦間期]] |
|
|
|
|
|
[[Category:ゾグー1世]] |
|
[[cs:Albánské království]] |
|
|
|
[[Category:イタリア王国]] |
|
[[de:Königreich Albanien]] |
|
|
[[en:Albanian Kingdom]] |
|
|
[[eo:Albana Reĝlando (1928–1939)]] |
|
|
[[es:Reino de Albania]] |
|
|
[[he:ממלכת אלבניה]] |
|
|
[[id:Kerajaan Albania]] |
|
|
[[it:Regno albanese]] |
|
|
[[ko:알바니아 왕국]] |
|
|
[[nl:Koninkrijk Albanië]] |
|
|
[[pl:Królestwo Albanii]] |
|
|
[[pt:Reino da Albânia]] |
|
|
[[ro:Regatul Albanez]] |
|
|
[[ru:Албанское королевство]] |
|
|
[[sq:Mbretëria Shqiptare]] |
|
|
[[uk:Албанське Королівство]] |
|
|
[[zh:阿尔巴尼亚王国]] |
|
| この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "アルバニア王国" 近代 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年6月) |
- アルバニア王国
- Mbretëria Shqiptare
-
- 国の標語: Atdheu mbi te gjitha(アルバニア語)
何よりも祖国 - 国歌: Himni i Flamurit(アルバニア語)
旗への賛歌 ![アルバニアの位置](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7f/Albanian_Kingdom_%281935%29.svg/250px-Albanian_Kingdom_%281935%29.svg.png)
1935年のアルバニア王国-
アルバニア王国(アルバニアおうこく、アルバニア語: Mbretëria Shqiptare)は、1928年にアルバニア共和国の大統領であるアフメト・ベイ・ゾグーが国王に即位する形で誕生したバルカン半島の国家である。
歴史
1928年、アルバニアは大統領だったゾグーを国王に戴く立憲君主国となった。当時のアルバニアは民族社会であり、国内情勢は不安定であった。ゾグーは民族の武装解除や法律整備を推し進め、アルバニアの近代化を図った。
1939年、ファシスト党率いるイタリア王国がアルバニアへ侵攻しイタリア軍が進駐すると(イタリアのアルバニア侵攻)、ゾグーは王妃と共に国外脱出した。同年、アルバニアはイタリアとの同君連合となり、イタリア国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がアルバニア王に即位する。実質的には国王代理の総督が統治し、総督となったチャーノの下で親伊派の傀儡政権が置かれ、国政を担当した。1940年にはイタリアのギリシャ侵攻の煽りを受け、南部地域が激戦地となり多くの犠牲者を出した。1941年の枢軸軍のユーゴスラヴィア占領によりコソボ及び西マケドニア、ギリシャ南部まで領土が拡大し、形式上は大アルバニアを形成した。
1943年にイタリアが連合国に降伏すると、今度はドイツ軍の占領下に置かれ、ドイツ軍政の下、親独傀儡政府が置かれた。一部のアルバニア民族主義者達は、ナチスの武装親衛隊に入隊するなど、対独協力を行い、セルビア人やユダヤ人に対する虐殺行為に手を染めた。しかし、すべてのアルバニア人が対独協力を行なったわけでなく、住民が積極的にレジスタンス活動やユダヤ人の保護に協力している。
翌1944年11月、パルチザンと赤軍によって国土が解放されると、ソビエト連邦の支援の下、アルバニア共産党を中心とした臨時政府が樹立される。ゾグーは戦後も帰国することができず、亡命先で1961年に死去する。
1946年、王政廃止と同時にアルバニア人民共和国が成立し、エンヴェル・ホッジャを最高指導者とする共産主義政権が成立した。
経済
ゾグ1世による統治下のアルバニアの11年は、国家的で大規模な近代化が推し進められた。その結果それまでバルカン半島において最小の経済規模であったにもかかわらず最大の発達した国へ成長した。世界恐慌によるストライキ等で一時期経済は不況に陥ったが、1930年代末において再び経済は繁栄を取り戻した。しかしその繁栄も1939年のイタリア軍の侵攻と1944年から始まる共産主義政権の支配によりすぐさま終焉を迎える。
数年間の枢軸国の支配による混乱で再びアルバニアはバルカン最貧の国となり、貧しい小作農がアルバニアの人口の大部分を占めるようになる。 アルバニアは実質的に産業が皆無になり、未開発の資源とされていた水力発電も当分は開発されそうになく、石油が輸出される資源の多くを占めていた。石油の他、アルバニアはビチューメン、亜炭、鉄、クロマイト、銅、ボーキサイト、マンガンや金等の資源を産出し、シュコドラ県にセメント工場、コルチャ県にビール工場、ドゥラス県とシュコドラ県には地元のタバコ草を原料とするタバコ工場など小規模な産業のみがあった。
アルバニアが輸出していたのは毛皮、チーズ、家畜と卵で輸入品は穀物等の食料、鉄製品、機械類だった。1939年にはアルバニアの輸入の割合は輸出のそれの4倍にもなった。そして輸出される物の7割はイタリアへ行き、イタリアの工業製品はアルバニアの輸入の40%を占めており、経済はイタリアに依存していた。戦間期においてはアルバニア国内の技術職はイタリア人が多くを占めた。数年の混乱を通じてアルバニアは再び教育・社会的にバルカンで一番貧弱になってしまい、街に住むのは人口のわずか13%で、 無学者が人口の高い割合を占めるようになった。90%の小作農は貧しく、木製の鋤等を使うような原始的な、最低限度の食料生産しか行えなかった。 そして多くの地主達の農園はマラリアのはびこる沿岸や湿地にあった。アルバニアには銀行、鉄道、近代的な港、機能的な軍隊、大学、近代的なマスコミが不足し、ヨーロッパで最も高い出生率と乳幼児死亡率で、そして男性の平均寿命は38歳だった。
-
? イタリア統治下の
国旗。
-
? ドイツ統治下の
国旗。
-
? アルバニア
民主政府(
臨時政府)
統治下の
国旗。
関連項目