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'''ミシア・セール'''(Misia Sert、誕生たんじょうは'''マリア・ゾフィア・オルガ・ゼナイダ・ゴデプスカ''' (Maria Zofia Olga Zenajda Godebska)。[[1872ねん]][[3がつ30にち]] - [[1950ねん]][[10がつ15にち]])は、[[ポーランド]]けいの[[ピアニスト]]で、[[パリ]]で芸術げいじゅつ[[サロン]]を主催しゅさいした。ミシア・セールは多数たすう芸術げいじゅつのパトロン・友人ゆうじんであり、しばしば芸術げいじゅつの[[美術びじゅつモデル|モデル]]もつとめた。
'''ミシア・セール'''(Misia Sert、誕生たんじょうは'''マリア・ゾフィア・オルガ・ゼナイダ・ゴデプスカ''' (Maria Zofia Olga Zenajda Godebska)。[[1872ねん]][[3がつ30にち]] - [[1950ねん]][[10がつ15にち]])は、[[ポーランド]]けいの[[ピアニスト]]で、[[パリ]]で芸術げいじゅつ[[サロン]]を主催しゅさいした。ミシア・セールは多数たすう芸術げいじゅつ[[パトロン]]友人ゆうじんであり、しばしば芸術げいじゅつの[[美術びじゅつモデル|モデル]]もつとめた。


== 初期しょき ==
== 初期しょき ==
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2021ねん1がつ2にち (土) 06:39時点じてんにおけるはん

ミシア・セール
生誕せいたん マリア・ゾフィア・オルガ・ゼナイダ・ゴデプスカ
1872ねん3がつ30にち
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ていこく ツァールスコエ・セロー
死没しぼつ 1950ねん10がつ15にち
フランスの旗 フランス パリ
職業しょくぎょう ピアニスト、芸術げいじゅつのパトロン
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ミシア・セール(Misia Sert、誕生たんじょうマリア・ゾフィア・オルガ・ゼナイダ・ゴデプスカ (Maria Zofia Olga Zenajda Godebska)。1872ねん3月30にち - 1950ねん10月15にち)は、ポーランドけいピアニストで、パリ芸術げいじゅつサロン主催しゅさいした。ミシア・セールは多数たすう芸術げいじゅつパトロン友人ゆうじんであり、しばしば芸術げいじゅつモデルもつとめた。

初期しょき

マリア・ゾフィア・オルガ・ゼナイダ・ゴデプスカは、1872ねん3がつ30にちにロシアのサンクトペテルブルク郊外こうがいツァールスコエ・セローまれた[1]ちちツィプリアン・ゴデプスキ英語えいごばんはポーランドの有名ゆうめい彫刻ちょうこくで、サンクトペテルブルク美術びじゅつ大学だいがく教授きょうじゅだった。ははのゾフィア・セルヴェはロシアじんとベルギーじん家系かけいで、ベルギーの有名ゆうめいなチェリストであるアドリアン=フランソワ・セルヴェ英語えいごばんむすめだった。おっと不倫ふりん没頭ぼっとうしていることを懸念けねんした妊娠にんしんちゅうのゾフィアはツァールスコエ・セローまでたびし、そこに当時とうじ情婦じょうふんでいたゴデプスキをおどろかせた[2]。ゾフィアはむすめのミシア(マリアのポーランドしき愛称あいしょう)をんだのち死亡しぼうした。

幼児ようじのミシアはブリュッセル母方ははかた祖父母そふぼ(セルヴェ)のもとにおくられ、そこにんだ。セルヴェ音楽おんがく一家いっかであり、有名ゆうめい音楽家おんがくかのコンサートを主催しゅさいした。フランツ・リストはセルヴェ友人ゆうじんだった。ミシアはこのような環境かんきょうなか音楽おんがく教育きょういくけ、幼少ようしょうのころに祖父そふによって楽譜がくふかたまなんだ[2]祖父そふ教育きょういくによってピアニストとしての才能さいのう発揮はっきするようになった。

ミシアのちちすうかい再婚さいこんしたが、最終さいしゅうてきむすめびもどし、自分じぶんあたらしい義母ぎぼとともにパリませた。ミシアはブリュッセルの祖父母そふぼいえのなごりをしんだ。ちちはミシアを修道院しゅうどういん附属ふぞくのボーディングスクールであるサクレ・クールにれ、ミシアはそこで6年間ねんかんごした。彼女かのじょ唯一ゆいいつたのしみは、しゅう1かいガブリエル・フォーレからけたピアノ・レッスンだった[1]。15さいのときに義母ぎぼ口論こうろんになり、いえってロンドンうつった[1]数ヶ月すうかげつにパリにもどって下宿げしゅくし、フォーレの紹介しょうかいした学生がくせいにピアノをおしえることで自活じかつするようになった[1][2]

結婚けっこん社会しゃかい環境かんきょう

ミシア・セールをえがいた
トゥールーズ=ロートレックが『ラ・ルヴュ・ブランシュ』表紙ひょうしえがいたミシア

21さいのとき、ミシアは20さいのいとこでポーランドからの出国しゅっこくしゃであるタデ・ナタンソンと結婚けっこんした[1]。ナタンソンはしばしばパリの芸術げいじゅつてき知識ちしきてきサークルにあらわれた。かれ友人ゆうじんレオン・ブルムドレフュス支持しじしゃとともに社会しゃかい主義しゅぎ理想りそうとする政治せいじてき信条しんじょうっていた。サン=フロランタンどおりの自宅じたくマルセル・プルーストクロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールオディロン・ルドンポール・シニャッククロード・ドビュッシーステファヌ・マラルメアンドレ・ジッドといった指導しどうてき文化ぶんかじん集会しゅうかいしょになった。娯楽ごらく贅沢ぜいたくだった。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックはナタンソンのパーティーでバーテンダーをつとめることをたのしみ、いろあざやかにそうをなしたさけで「プース・カフェ」とばれた強力きょうりょくなカクテルで有名ゆうめいになった[3]人々ひとびと主催しゅさいしゃ魅力みりょくわかさに魅了みりょうされた。1889ねん、ナタンソンはあたらしい才能さいのうそだて、ポスト印象派いんしょうはであるナビ作品さくひん紹介しょうかいするための雑誌ざっし『ラ・ルヴュ・ブランシュ』を創刊そうかんした。ミシアはこの雑誌ざっしのミューズでシンボルとなり、トゥールーズ=ロートレック、エドゥアール・ヴュイヤールピエール・ボナールによる広告こうこくポスターのモデルになった[2][4]。ルノワールによるミシアの肖像しょうぞうテート・ギャラリー所蔵しょぞうしている[5]

マルセル・プルーストはミシアを実話じつわ小説しょうせつうしなわれたときもとめて』の登場とうじょう人物じんぶつであるヴェルデュラン夫人ふじん原型げんけいとして使用しようした[3]

ナタンソンの『ラ・ルヴュ・ブランシュ』はかれ政治せいじてき行動こうどうむすびついており、それには大量たいりょう資金しきん必要ひつようとしたが、ナタンソンひとりでは資金しきん供給きょうきゅうできず、後援こうえんしゃ必要ひつようとした。ナタンソンは新聞しんぶんかい大物おおもので、パリの主要しゅよう新聞しんぶんである『ル・マタン』の創刊そうかんしゃであるアルフレッド・エドワーズに接近せっきんした。エドワーズはミシアに魅了みりょうされ、1903ねん彼女かのじょ自分じぶん情婦じょうふとした。エドワーズはスポンサーになる条件じょうけんとしてナタンソンがつま手放てばなすことをもとめた。

1905ねん2がつ24にち、ミシアはアルフレッド・エドワーズのつまになった[1]。ミシアとあたらしいおっとテュイルリー宮殿きゅうでんのぞリヴォリどお英語えいごばんいえ豪奢ごうしゃ生活せいかついとなんだ。ここでもミシアは芸術げいじゅつ作家さっか音楽家おんがくか自宅じたくでもてなした。モーリス・ラヴェルは『博物はくぶつ』のうちの「白鳥はくちょう」と、ずっとのちに『ラ・ヴァルス』をミシアに献呈けんていした。有名ゆうめいなオペラ歌手かしゅエンリコ・カルーソー聴衆ちょうしゅうナポリうたたのしませるあいだ、ミシアはピアノで伴奏ばんそうした[3]。しかしエドワーズは不実ふじつおっとであることがわかり、1909ねん離婚りこんした[1][6]

1920ねん、ミシアはスペインじん画家がかホセ=マリア・セール英語えいごばんと3めの結婚けっこんをした[1]。このころ彼女かのじょ文化ぶんかてき調停ちょうていしゃとして君臨くんりんするようになり、それは30ねん以上いじょうにわたってつづいた。ポール・モランはミシアについて「天才てんさい収集しゅうしゅうで、かれらすべてはミシアをあいしていた」としるした[7]。「ミシアがおうとおもうには才能さいのうたなくてはならない」と認識にんしきされていた。ミシアのサロンにおいてエリック・サティがピアノで『なしかたちをした3つの小品しょうひん』を演奏えんそうしているのをいている最中さいちゅうに、あつまったきゃくサラエボ事件じけんのニュースをかされた[8]

セールとの結婚けっこん生活せいかつ感情かんじょうてき波乱はらんふくんでいた。おっとはロシア貴族きぞくのムディヴァニ一員いちいんであるイザベル・ルサダナ・ムディヴァニ、通称つうしょう「ルシー」と関係かんけいった。ミシアはおっとおんな関係かんけいつことにれようとつとめた。またミシア自身じしんもルシーと関係かんけいむすんだ。しばらくのあいだ、3にんさんにんこん関係かんけい維持いじした[9][10]。しかし、結局けっきょく1927ねん12月28にち離婚りこんした[1]

ミシアとトゥールーズ=ロートレック

セール交友こうゆう範囲はんいにはボヘミアンのエリートや社会しゃかい上層じょうそう階級かいきゅうふくんでいた。道徳どうとくてき自由じゆう人々ひとびとあつまりであり、感情かんじょうてき性的せいてき密通みっつうがはびこっていた。それはさらに薬物やくぶつ使用しよう乱用らんようによってをそそがれた[11]。ミシア・セールは女優じょゆうセシル・ソレル英語えいごばんいえでファッションデザイナーのココ・シャネルい、永続えいぞくてき関係かんけいむすんだ。1919ねん12月22にちにシャネルの愛人あいじんであるアーサー・カペル自動車じどうしゃ事故じこ死亡しぼうしたときのこされたシャネルに感情かんじょうてき支援しえん提供ていきょうした。ミシア・セールとシャネルの関係かんけいたましいをもつしゃどうしのきずなであり、セールは「シャネルの天才てんさい致命ちめいてき機知きち皮肉ひにく狂気きょうき破壊はかいせいがすべての人々ひとびと興味きょうみをそそり、おどろかせる」てんかれていた。ともに修道院しゅうどういんそだてられた2人ふたり友人ゆうじんとしての関係かんけい維持いじし、興味きょうみ信頼しんらい薬物やくぶつ使用しよう共有きょうゆうした[3][12][13]

ミシアは困窮こんきゅうした友人ゆうじんたいして気前きまえがよくたすけをしまなかった。詩人しじんピエール・ルヴェルディソレムベネディクトかい修道院しゅうどういんじこもるための資金しきん必要ひつようとしたとき、ミシアは財政ざいせいてき支援しえんおこなった。ミシアは長期ちょうきにわたってセルゲイ・ディアギレフ共同きょうどうし、バレエ・リュスのダンサーたちとの友情ゆうじょうから衣裳いしょうデザインにかんする提案ていあん振付ふりつけいたるまで、すべての創造そうぞうてきめんにかかわり、しばしば財政ざいせいてき困難こんなんおちいったこのバレエだんのために資金しきん供給きょうきゅうした。『ペトルーシュカ』の初演しょえんよるには、衣裳いしょうさえをふせぐために必要ひつような4000フランをミシアが提供ていきょうした。ディアギレフがヴェネツィアひんしているとき、ミシアはそのはたにいた。1929ねん8がつにディアギレフがぼっすると、葬儀そうぎ費用ひようはらい、バレエかいにきわめて重要じゅうよう影響えいきょうおよぼしたこの人物じんぶつ栄誉えいよをたたえた[3][14]

ミシアはだい世界せかい大戦たいせんなかナチスによるパリ占領せんりょうった。彼女かのじょ交友こうゆう仲間なかまのうちのある人々ひとびと戦時せんじちゅう行動こうどう忠誠ちゅうせいしん有罪ゆうざいとはいえないまでもうたがわしかったのにたいし、彼女かのじょ人格じんかくたいする重要じゅうよう非難ひなんけることはなかった。

1950ねん10がつ15にち、パリでぼっした。

大衆たいしゅう文化ぶんか

バリー・シンガーの作詞さくしヴァーノン・デューク作曲さっきょくによるミュージカル『ミシア』はミシア・セールを主題しゅだいとしている。シンガーは2001ねん初稿しょこういた。2015ねんにPS Classicsからキャストレコーディングとして販売はんばいされた。ブロードウェイのプロデューサーの興味きょうみいたものの、実際じっさい舞台ぶたいにのせられたことはない[15]

脚注きゃくちゅう

  1. ^ a b c d e f g h i Sert, Misia (1872–1950)”. Women in World History: A Biographical Encyclopedia. Encyclopedia.com (7 June 2017). 7 June 2017閲覧えつらん
  2. ^ a b c d Charles-Roux 1981, p. 143.
  3. ^ a b c d e James, Clive (1980ねん). “Misia and All Paris”. CliveJames.com. 7 June 2017閲覧えつらん
  4. ^ Charles-Roux 1981, p. 145, 149.
  5. ^ Misia Sert”. The National Gallery. 7 June 2017閲覧えつらん
  6. ^ Charles-Roux 1981, p. 149, 150, 152.
  7. ^ Charles-Roux 1981, p. 157.
  8. ^ Erik Satie; Ornella Volta (1989). Satie seen through his letters. M. Boyars. p. 102. ISBN 0714528110 
  9. ^ Charles-Roux 1981, p. 234.
  10. ^ McAuliffe, Mary (2016). When Paris Sizzled: The 1920s Paris of Hemingway, Chanel, Cocteau, Cole Porter, Josephine Baker, and Their Friends. New York: Rowman & Littlefield. pp. 243-244. ISBN 9781442253339. https://books.google.com/books?id=YBGvDAAAQBAJ&pg=PA243&lpg=PA243&dq=misia+and+jose+maria+sert+divorce&source=bl&ots=QS-kP36_dL&sig=j1_Ri8XYRS7lZOcda3GzQeZzhuA&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiy1oHi-6rUAhVGxWMKHVzACdoQ6AEIOTAE#v=onepage&q=misia%20and%20jose%20maria%20sert%20divorce&f=false 
  11. ^ Vaughan 2011, p. 63.
  12. ^ Vaughan 2011, p. 13, 80-81.
  13. ^ Charles-Roux 1981, p. 158.
  14. ^ Charles-Roux 1981, p. 154, 234, 252.
  15. ^ Singer, Barry (23 March 2015), ‘Misia’: A New Musical At Last, http://www.huffingtonpost.com/barry-singer/misia-a-new-musical-at-la_b_6905876.html 

参考さんこう文献ぶんけん

  • Vaughan, Hal (2011). Sleeping with the enemy: Coco Chanel's secret war. New York: Alfred A. Knopf. ISBN 9780307592637 
  • Charles-Roux, Edmonde (1981). Chanel and Her World. London: Vendome Press. ISBN 9780865650114 

外部がいぶリンク