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アルバニア王国おうこく (近代きんだい)

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アルバニア王国おうこく
Mbretëria Shqiptare (アルバニア)
アルバニア共和国 (1925年-1928年)
ユーゴスラビア王国
1928ねん - 1946ねん アルバニア社会主義人民共和国
マケドニア人民共和国
セルビア人民共和国
モンテネグロ人民共和国
ユーゴスラビア連邦人民共和国
アルバニアの国旗 アルバニアの国章
国旗こっきくにあきら
くに標語ひょうご: Atdheu mbi te gjitha(アルバニア
なによりも祖国そこく
国歌こっか: Himni i Flamurit(アルバニア
はたへの賛歌さんか
アルバニアの位置
1935ねんのアルバニア王国おうこく
公用こうよう アルバニア
宗教しゅうきょう イスラム教いすらむきょう
東方とうほう正教せいきょう
カトリック
首都しゅと ティラナ
国王こくおう
1928ねん - 1939ねん ゾグ1せい
1939ねん - 1943ねんヴィットーリオ・エマヌエーレ3せい
変遷へんせん
成立せいりつ 1928ねん9がつ1にち
イタリアによる侵攻しんこう1939ねん4がつ7にち
ドイツによる侵攻しんこう1943ねん9がつ9にち
臨時りんじ政府せいふ成立せいりつ1944ねん11月28にち
人民じんみん共和きょうわこく成立せいりつ1946ねん
通貨つうかぎんフラン
現在げんざいアルバニアの旗 アルバニア
アルバニア歴史れきし
アルバニア国章
この記事きじシリーズ一部いちぶです。

アルバニア ポータル

アルバニア王国おうこく(アルバニアおうこく、アルバニア: Mbretëria Shqiptare)は、1928ねんアルバニア共和きょうわこく大統領だいとうりょうであるアフメト・ベイ・ゾグー国王こくおう即位そくいするかたち誕生たんじょうしたバルカン半島ばるかんはんとう国家こっかである。

歴史れきし

1928ねん、アルバニアは大統領だいとうりょうだったゾグーを国王こくおういただ立憲りっけん君主くんしゅこくとなった。当時とうじのアルバニアは民族みんぞく社会しゃかいであり、国内こくない情勢じょうせい不安定ふあんていであった。ゾグーは民族みんぞく武装ぶそう解除かいじょ法律ほうりつ整備せいびすすめ、アルバニアの近代きんだいはかった。

1939ねんファシストとうひきいるイタリア王国おうこくがアルバニアへ侵攻しんこうイタリアぐん進駐しんちゅうすると(イタリアのアルバニア侵攻しんこう)、ゾグーは王妃おうひとも国外こくがい脱出だっしゅつした。同年どうねん、アルバニアはイタリアとの同君どうくん連合れんごうとなり、イタリア国王こくおうヴィットーリオ・エマヌエーレ3せいがアルバニアおう即位そくいする。実質じっしつてきには国王こくおう代理だいり総督そうとく統治とうちし、総督そうとくとなったチャーノしたしん傀儡かいらい政権せいけんかれ、国政こくせい担当たんとうした。1940ねんにはイタリアのギリシャ侵攻しんこうあおりをけ、南部なんぶ地域ちいき激戦げきせんとなりおおくの犠牲ぎせいしゃした。1941ねん枢軸すうじくぐんのユーゴスラヴィア占領せんりょうによりコソボおよ西にしマケドニア、ギリシャ南部なんぶまで領土りょうど拡大かくだいし、形式けいしきじょうだいアルバニア形成けいせいした。

1943ねんにイタリアが連合れんごうこく降伏ごうぶくすると、今度こんどドイツぐん占領せんりょうかれ、ドイツ軍政ぐんせいしたしんどく傀儡かいらい政府せいふかれた。一部いちぶのアルバニア民族みんぞく主義しゅぎしゃたちは、ナチスの武装ぶそう親衛隊しんえいたい入隊にゅうたいするなど、たいどく協力きょうりょくおこない、セルビアじんユダヤじんたいする虐殺ぎゃくさつ行為こういめた。しかし、すべてのアルバニアじんたいどく協力きょうりょくおこなったわけでなく、住民じゅうみん積極せっきょくてきにレジスタンス活動かつどうやユダヤじん保護ほご協力きょうりょくしている。

よく1944ねん11月、パルチザン赤軍せきぐんによって国土こくど解放かいほうされると、ソビエト連邦れんぽう支援しえんしたアルバニア共産党きょうさんとう中心ちゅうしんとした臨時りんじ政府せいふ樹立じゅりつされる。ゾグーは戦後せんご帰国きこくすることができず、亡命ぼうめいさき1961ねん死去しきょする。

1946ねん王政おうせい廃止はいし同時どうじアルバニア人民じんみん共和きょうわこく成立せいりつし、エンヴェル・ホッジャ最高さいこう指導しどうしゃとする共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけん成立せいりつした。

経済けいざい

ゾグ1せいによる統治とうちのアルバニアの11ねんは、国家こっかてきだい規模きぼ近代きんだいすすめられた。その結果けっかそれまでバルカン半島ばるかんはんとうにおいて最小さいしょう経済けいざい規模きぼであったにもかかわらず最大さいだい発達はったつしたくに成長せいちょうした。世界せかい恐慌きょうこうによるストライキとういち時期じき経済けいざいきょうおちいったが、1930年代ねんだいまつにおいてふたた経済けいざい繁栄はんえいもどした。しかしその繁栄はんえいも1939ねんのイタリアぐん侵攻しんこうと1944ねんからはじまる共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけん支配しはいによりすぐさま終焉しゅうえんむかえる。 すう年間ねんかん枢軸すうじくこく支配しはいによる混乱こんらんふたたびアルバニアはバルカン最貧さいひんくにとなり、まずしい小作農こさくのうがアルバニアの人口じんこうだい部分ぶぶんめるようになる。 アルバニアは実質じっしつてき産業さんぎょう皆無かいむになり、開発かいはつ資源しげんとされていた水力すいりょく発電はつでん当分とうぶん開発かいはつされそうになく、石油せきゆ輸出ゆしゅつされる資源しげんおおくをめていた。石油せきゆほか、アルバニアはビチューメン亜炭あたんてつクロマイトどうボーキサイトマンガンきむひとし資源しげん産出さんしゅつし、シュコドラけんにセメント工場こうじょうコルチャけんにビール工場こうじょうドゥラスけんとシュコドラけんには地元じもとのタバコくさ原料げんりょうとするタバコ工場こうじょうなど小規模しょうきぼ産業さんぎょうのみがあった。
アルバニアが輸出ゆしゅつしていたのは毛皮けがわ、チーズ、家畜かちくたまご輸入ゆにゅうひん穀物こくもつとう食料しょくりょうてつ製品せいひん機械きかいるいだった。1939ねんにはアルバニアの輸入ゆにゅう割合わりあい輸出ゆしゅつのそれの4ばいにもなった。そして輸出ゆしゅつされるものの7わりはイタリアへき、イタリアの工業こうぎょう製品せいひんはアルバニアの輸入ゆにゅうの40%をめており、経済けいざいはイタリアに依存いぞんしていた。せんあいだにおいてはアルバニア国内こくない技術ぎじゅつしょくはイタリアじんおおくをめた。すうねん混乱こんらんつうじてアルバニアはふたた教育きょういく社会しゃかいてきにバルカンで一番いちばん貧弱ひんじゃくになってしまい、まちむのは人口じんこうのわずか13%で、 学者がくしゃ人口じんこうたか割合わりあいめるようになった。90%の小作農こさくのうまずしく、木製もくせいすきとう使つかうような原始げんしてきな、最低さいてい限度げんど食料しょくりょう生産せいさんしかおこなえなかった。 そしておおくの地主じぬしたち農園のうえんはマラリアのはびこる沿岸えんがん湿地しっちにあった。アルバニアには銀行ぎんこう鉄道てつどう近代きんだいてきみなと機能きのうてき軍隊ぐんたい大学だいがく近代きんだいてきなマスコミが不足ふそくし、ヨーロッパでもっとたか出生しゅっしょうりつ乳幼児にゅうようじ死亡しぼうりつで、そして男性だんせい平均へいきん寿命じゅみょうは38さいだった。

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