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ハルハ

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ハルハ
(2,168,141[1])
居住きょじゅう地域ちいき
言語げんご
モンゴルハルハ方言ほうげん
宗教しゅうきょう
チベット仏教ぶっきょうシャーマニズム
関連かんれんする民族みんぞく
モンゴルけい民族みんぞく

ハルハモンゴル:᠋᠋᠋ᠬᠠᠯᠬ ᠎ᠠ 転写てんしゃqalq-a, Khalkha, Халх, [χかいɑɬχかい]中国ちゅうごく:喀爾喀 Kāĕrkā)は、近世きんせいモンゴル一部いちぶぞくであり、現在げんざいモンゴルこく多数たすう民族みんぞくである。中国ちゅうごく内モンゴル自治うちもんごるじちにもハルハの一部いちぶむ。北元きたもとほろんだのちだいじゅん大西おおにし南明なんめいきよしきおいりつ中国ちゅうごく地図ちずでは「喀爾喀部」「こうもと」「韃靼だったん」など様々さまざましるされている。

15世紀せいきひがしアジア諸国しょこく北方ほっぽうしょ民族みんぞく

歴史れきし

起源きげん

ハルハの起源きげんは、元朝がんちょう左翼さよく投下とうか[2]であるジャライルムカリ国王こくおう所管しょかんにさかのぼり、その名称めいしょうハルハがわ由来ゆらいする。1487ねんにモンゴルのバト・モンケ(Batu Möngke)がハーンくらいいてダヤン・ハーン(Dayan Qaγがんまan)と名乗なのると、モンゴルを左翼さよく右翼うよくおおきく2つにけ、さらに左翼さよくチャハルハルハウリヤンハン右翼うよくオルドストゥメトヨンシエブけた。この6つのだい部族ぶぞくトゥメンまんにんたい)といい[3]、ハルハハルハ・トゥメンともぶ。

[4]

ハルハとななはたハルハ

ハルハ・トゥメンにはダヤン・ハーンだい5アルジュボラトとだい11ゲレセンジェ婿むこはいり、その首長しゅちょうとなった。

モンゴル宗家そうけである左翼さよくのチャハル部長ぶちょうダライスン・ゴデン・ハーンと、右翼うよくのトゥメト部長ぶちょうアルタン・ハーンとのあいだあらそいがきると、ハルハふたつにかれてそれぞれにつくこととなる。1547ねん、アルジュボラトの配下はいか部族ぶぞくはダライスン・ハーンにひきいられてだいきょうやすみね山脈さんみゃくひがし移住いじゅうし、その5にんまごにちなんで、のちにハルハ(タヴ・オトク・ハルハ)もしくはうちハルハとばれる。ゲレセンジェの配下はいか部族ぶぞくはアルタン・ハーンにき、その7にんにちなんで、のちにななはたハルハ(ドロー・ホシューン・ハルハ)もしくはそとハルハとばれる(ただし、「ななはた」というはあくまで名称めいしょうであり、実際じっさいには13かれていた)。そとハルハはのちそとモンゴルとなる。

[5]

ななはたハルハのひだり右翼うよく

ダヤン・ハーン死後しご、その母方ははかた部族ぶぞく[6]であるウリャンカイ反乱はんらんこしたので、ウリヤンハン以外いがいひだり右翼うよくトゥメンは1538ねんにウリヤンハンを討伐とうばつし、部族ぶぞく解体かいたいした。ひがしとなりであったななはたハルハはウリヤンハンの一部いちぶ吸収きゅうしゅうしてまきをハルハかわから西方せいほうひろげ、現在げんざいのモンゴルこく中央ちゅうおうヘンティー山脈さんみゃくからハンガイ山脈さんみゃくまでたっすることとなった。

このように、広大こうだい領土りょうど支配しはいするようになったななはたハルハはおおきく2つにかれることとなり、ゲレセンジェの長子ちょうしアシハイ系統けいとう右翼うよく、ゲレセンジェのだい3ノーノホ系統けいとうだい5アミンドラル系統けいとう左翼さよくとなった。

[7]

ハルハの3ハーン

16世紀せいき、ハルハ中央ちゅうおうにアバダイ・ハーンがつくったエルデネ・ゾー

1580年代ねんだい前半ぜんはん、ノーノホのアバダイアルタイ山脈さんみゃくきたオイラトやぶって有名ゆうめいとなり、1585ねんきゅうモンゴル帝国ていこく首都しゅとカラコルム仏教ぶっきょう寺院じいんエルデネ・ゾー建立こんりゅうした。翌年よくねん1586ねん)にはうちモンゴル出向でむいて、巡錫じゅんしゃくちゅうダライ・ラマ3せい謁見えっけんし、「ほう大金おおかねつよしおう(ノムン・イェケ・オチル・ハーン)」の称号しょうごうたまわり、ハルハ最初さいしょのハーンとなる。かれ子孫しそんのちにハルハ左翼さよく盟主めいしゅトシェート・ハーンとなる。アバダイ・ハーンの死後しご、オイラト討伐とうばついだのがアシハイのまごライフル・ハーンであり、かれ子孫しそんのちにハルハ右翼うよくジャサクト・ハーンとなる。これにアミンドラルの子孫しそんチェチェン・ハーンくわえて「3ハーン」とばれる[8]

[9]

ハルハのアルタン・ハーン

ライフル・ハーンのオイラト討伐とうばつ先鋒せんぽうつとめたのは従兄弟いとこウバシ・ホンタイジで、かれはアルタン・ハーン(黄金おうごんあせで、16世紀せいき後半こうはんにモンゴルをさい統一とういつしたトゥメト部長ぶちょうアルタン・ハーンとは別人べつじん)と名乗なのってロシア関係かんけいち、ロシアから「モンゴルおう」とばれた。しかし、ウバシ・ホンタイジは1623ねんよんオイラト連合れんごうぐん侵攻しんこうってころされてしまう。このことはのちにオイラトの英雄えいゆう叙事詩じょじしウバシ・ホンタイジでん』としてかたがれることとなる。

北元きたもと滅亡めつぼうとオイラト和睦わぼく

1635ねん北元きたもとのエジェイが後金あときん降伏ごうぶくし、皇帝こうていたま璽「せい誥之たから[10][11]ふとそうあいしんさとしすめらぎ太極たいきょく)に献上けんじょうした。これによりハルハのぞくモンゴル部族ぶぞく連合れんごうはすべて後金あときん支配しはいはいった。 後金あときんふとそう1636ねん国号こくごうだいきよしまんしゅう: ᡩᠠᡳ᠌ᠴᡳᠩ
ᡤᡠᡵᡠᠨ
転写てんしゃ: daicing gurun ダイチンこく)にあらためた。 これにたいして、きよし脅威きょういにさらされたそとモンゴルのハルハとオイラトの各部かくぶ同盟どうめいむすび、1640ねんに「ハルハ・オイラド法典ほうてん[12](「オイラト・モンゴル法典ほうてん」)を制定せいていして部族ぶぞくあいだ関係かんけい調整ちょうせい、ハルハとオイラトのこうそうはやんだ。

ウバシの後継こうけいしゃたち

ウバシのバトマ・エルデニ・ホンタイジ(オンブ・エルデニ)はちちのちぎ、2代目だいめアルタン・ハーンとしてロシアと外交がいこうした。1639ねんにはロシアにはじめてちゃをもたらした[3]1652ねん、バトマは老衰ろうすいのため、のロージャン(エリンチン・ロブザン・タイジ)に譲位じょういし、1659ねん死去しきょした。

1662ねん、3代目だいめアルタン・ハーンを名乗なのったエリンチン・ロブザン・タイジは、宗主そうしゅにあたるジャサクト・ハーンのワンシュクを襲撃しゅうげきして殺害さつがいした。これによってエリンチンはハルハ左翼さよくのトシェート・ハーンとオイラトのジュンガル部長ぶちょうセンゲからわれることとなり、1667ねんつかまる。しかし、この混乱こんらんしょうじたぞくみん返還へんかんについて、右翼うよくのジャサクト・ハーンと左翼さよくのトシェート・ハーンとのあいだ内紛ないふん勃発ぼっぱつし、結果けっかてきにジュンガル部長ぶちょうガルダン侵入しんにゅうまねいてしまう[13]

きよしとハルハ

1635ねん、ハルハ左翼さよくなかもっとひがしにあったチェチェン・ハーンきよしはじめて友好ゆうこう使節しせつ派遣はけんした。これにつづ左翼さよく宗主そうしゅのトシェート・ハーンも1637ねんつうこのまはじめた。こうしてハルハの領主りょうしゅたちは独立どくりつたもちつつも、きよしとの関係かんけいったため、1655ねんにはひだり右翼うよく4めいずつけい8めい領主りょうしゅ清朝せいちょうからジャサク(はたちょう)に任命にんめいされた。ハルハの領主りょうしゅたちはきよし支配しはいはいったわけでなく、朝貢ちょうこう部族ぶぞく(=同盟どうめいこくあつかいだったため、しんがわから「そとジャサク」とばれた。

[14]

ロシア帝国ていこく進出しんしゅつ

17世紀せいき、ロシア帝国ていこくシベリア進出しんしゅつし、ひがし領土りょうどひろげた。そのさい周辺しゅうへんしょ部族ぶぞくから毛皮けがわなどのみつぎ納品のうひんあつめるため、河岸かわぎしとりでもしくは要塞ようさい(オストログ)とばれる冬営とうえい建設けんせつしていった。一旦いったんきよしによって黒竜江こくりゅうこうアムールがわ一帯いったいから駆逐くちくされたロシアじんであったが(しん国境こっきょう紛争ふんそう)、バイカルひがし(ザバイカリエ)からモンゴルに侵入しんにゅうし、ふたた黒竜江こくりゅうこう地域ちいきにやってネルチンスク要塞ようさい1654ねん)、ダウリヤ行政ぎょうせい1656ねん)、セレンギンスク(1665ねん)、ウダの冬営とうえいのウェルフネウジンスク)(1666ねん)を建設けんせつした。ザバイカリエにはハルハのみつぎおさめみんであるブリヤートじんエヴェンキじんんでいたが、ロシアじん進出しんしゅつによってかれらがロシアがわみつぎおさめみんとなったため、ハルハの領主りょうしゅたちはなんもロシアに抗議こうぎした。

抗議こうぎつうじなかったハルハ左翼さよくトシェート・ハーンらは1681ねんから1682ねんにかけてザバイカリエにみ、ネルチンスクにせまった。1685ねんせいアルバジン攻撃こうげき開始かいしすると、モンゴルの部隊ぶたいがセレンギンスクとウジンスクを包囲ほういした。ハルハの大軍たいぐん1688ねんふたたびセレンギンスクとウジンスクを包囲ほういしたが、モンゴルぐん完敗かんぱいわった。

[15]

ジュンガル帝国ていこくのガルダンとハルハ崩壊ほうかい

ガルダンのハルハ侵入しんにゅうにおけるジュンガルの版図はんと

ぞくみん返還へんかんをめぐってハルハのひだり右翼うよく内紛ないふんきたため、1686ねんきよしかん熙帝ダライ・ラマ5せい名代なだいガンデンだい僧院そういん座主ざす立会たちあいのもと、トシェート・ハーンとジャサクト・ハーンを招集しょうしゅうしてかいめいひらいた。ところが、トシェート・ハーンがぞくみん半分はんぶんしか返還へんかんしなかったため、翌年よくねん1687ねん)、ジャサクト・ハーンのチェングン(なり袞)はオイラトのジュンガル部長ぶちょうガルダンに援助えんじょもとめようとジュンガルかった。これをったトシェート・ハーンはチェングンを追跡ついせきしてころし、ついでにジュンガルと交戦こうせんしてガルダンのおとうところした。

1688ねんはる、ジュンガルのガルダン・ハーンは3まんへいひきいてハンガイ山脈さんみゃくえ、トシェート・ハーンのぐんやぶった。ガルダンはぐんを2け、いちたい仏教ぶっきょう寺院じいんエルデネ・ゾーめ、いちたいヘルレンかわすすんでハルハ左翼さよくチェチェン・ハーン遊牧ゆうぼく略奪りゃくだつした。これによってハルハだい敗北はいぼくきっし、さんみだしたすう10まんぞくみんゴビ砂漠ごびさばくみなみうちモンゴル)にげてきよし保護ほごもとめた。のちにハルハ全土ぜんどがハルハ王家おうけ統治とうちになったさいには、清朝せいちょう皇帝こうていから爵位しゃくいさづけられるかたちでハルハ統治とうちおこなうことになる。

[16]

きよし臣民しんみんとして

ハルハ貴族きぞく女性じょせい
1734ねん出版しゅっぱん地図ちずにかかれた1700ねんごろのハルハの領域りょういきひだり中央ちゅうおうぎゃく三角形さんかっけい部分ぶぶん(Kalkas)。イエズスかいダンヴィユ英語えいごばんによる地図ちず

1691ねん、トシェート・ハーンのチャグンドルジとそのおとうとジェブツンダンバ元朝がんちょうなつであったうえ跡地あとちきよしかん熙帝に臣従しんじゅうちかった。このとき、ハルハ左右さゆうつばさ領主りょうしゅたちも列席れっせきしたため、オイラト部族ぶぞく連合れんごうのぞくモンゴル民族みんぞくすべきよし支配しはいはいることとなった。しかし、ハルハの遊牧ゆうぼくであるばくきたはガルダンの支配しはいになっていたため、かん熙帝かれらの遊牧ゆうぼく確保かくほのためにジュンガル討伐とうばつす。1696ねんかん熙帝はげんウラーンバートル東方とうほう30キロにあるジョーン・モドのでジュンガルぐん激戦げきせんし、潰滅かいめつさせた。翌年よくねん1697ねん)、息子むすこ裏切うらぎられたガルダン・ハーンは流浪るろうすえ病死びょうしする。

こうしてばくきたもどることができたハルハであったが、1731ねんになってふたたびジュンガルの侵攻しんこうけた。翌年よくねん1732ねん)にもジュンガルが侵攻しんこうしたため、トシェート・ハーンのダンジンドルジ親王しんのうとエフ・ツェリン[17]ひきいる2まんはジュンガルぐん撃退げきたいした。このこうによってエフ・ツェリンは清朝せいちょうからかずせき親王しんのう(ホショイチンワン)にふうぜられ、だい扎薩かつ(ジャサク)にのぼり、雍正みかどから「ちょういさみ」の称号しょうごうさずかった。エフ・ツェリンは1733ねんていあたりひだりふく将軍しょうぐん任命にんめいされてボブドに駐在ちゅうざいし、ジュンガルとの国境こっきょう画定かくてい交渉こうしょうにあたった。1739ねん画定かくていしたハルハしょとオイラトしょ境界きょうかいは、現在げんざいのモンゴルこく西部せいぶのザブハンけん東端ひがしばたながれるブヤントがわさかいとし、オイラトの遊牧ゆうぼくアルタイ山脈さんみゃくえないこと、ハルハの遊牧ゆうぼくもアルタイ山脈さんみゃくきたまでとまった。

清朝せいちょう支配しはいのモンゴルじん満州まんしゅうじんはちはた制度せいどじゅんじてはた(ホシューン)を基本きほん単位たんいとし、はたごとにまき指定していした。はたちょう(ジャサク)は世襲せしゅうせいで、もとのモンゴルしょ部族ぶぞくちょう任命にんめいされた。『こうむ遊牧ゆうぼく』において、ハルハしょは「そとこうむハルハ486はた」にけられ、かつての3ハーンくわえてサイン・ノヤンがハルハ4の1となっている。清朝せいちょうはサイン・ノヤンジャサクト・ハーン管轄かんかつするためにていあたりひだりふく将軍しょうぐんき、チェチェン・ハーントシェート・ハーン管轄かんかつするためにくらりん辦事大臣だいじん(kuren de tefi baita icihiyara amban)をいた。

[18]

モンゴルの独立どくりつ宣言せんげん

20世紀せいきはいると、清朝せいちょうはモンゴルにたいする行政ぎょうせい改革かいかくをおこない、仏教ぶっきょう僧侶そうりょ優遇ゆうぐうをなくし、こうむ保護ほご政策せいさく漢人かんどにゅうこうむ禁止きんしれいをやめてモンゴリアへの漢人かんど入植にゅうしょくをうながした。これによってうちモンゴルのまき減少げんしょうしたため、そとモンゴルのハルハではこのたいこうむしん政策せいさく反発はんぱつし、はんきよしはんかん感情かんじょうたかまっていった。

1911ねん12月29にち、ハルハの王公おうこうたちはチベット出身しゅっしんジェブツンダンバ8せい皇帝こうてい(ハーン)に推戴すいたいしてしんからの独立どくりつ宣言せんげんした。それまでボグド・ゲゲーン(お聖人まさとさま)とばれていたジェブツンダンバ8せいはこれ以降いこう、「ボグド・ハーン」とばれるようになる。よってこの政権せいけんボグド・ハーン政権せいけんぶが、国号こくごうはあくまで「モンゴルこく」であった。

ボグド・ハーン政権せいけん1924ねんモンゴル人民じんみん共和きょうわこくわり、1992ねん現在げんざいモンゴルこくとなっていく。

[19]

モンゴルこく主要しゅよう民族みんぞくとして

現在げんざいのモンゴルこく領域りょういきはかつてのそとモンゴルであり、そのほとんどをめていたのがチェチェン・ハーン,トシェート・ハーン,サイン・ノヤン,ジャサクト・ハーンといったハルハけい部族ぶぞくであった。よって、現代げんだいモンゴルを構成こうせいする国民こくみんのほとんどはハルハの子孫しそんということになる。

構成こうせい部族ぶぞく

(タヴ・オトク)ハルハ

  • ジャルート(J̌arud)
  • バアリン(Barin)
  • バヤウト(Bayaud)
  • コンギラト(Qonggirad)
  • オジェート(Öǰiyed)

ななはた(ドロー・ホシューン)ハルハ

  • ジャライル(J̌alayir)
  • ウネゲト(Üneged)
  • ベスート(Besüd)
  • エルジゲン(Elǰigen)
  • キレグート(Kiregüd/Kerüd)
  • ゴールラス(Γがんまoorlus)
  • フルフ・キュリエ(Quruqu küriye)
  • チュググル(Čügügür)
  • フフジット(Kökeǰid)
  • ハタギン(Qatagin)
  • タングート(Tangγがんまud)
  • サルタグル(Sartaγがんまul)
  • ウリヤンハン(Uriyangqan)

歴代れきだい族長ぞくちょう

(タヴ・オトク)ハルハ

  1. アルジュボラト…ダヤン・ハーンのだい5
  2. フルハチ…アルジュボラトの

ななはた(ドロー・ホシューン)ハルハ

  • ゲレセンジェ・ジャライル・ホンタイジ(かくらちもり扎扎賚爾琿台きち)…ダヤン・ハーンの末子まっし
    • アシハイ(おもね什海、いたるなんじかん琿台きち)→ジャサクト・ハーン、アルタン・ハーン
    • ノヤンタイ(だくがおたい、哈坦ともえなんじ
    • ノーノフ(諾諾だくだくえらちょうだくがお)→トシェート・ハーン
    • デルデン・クンドゥレン(とく勒登こんみやこりん
    • アミンドラル(おもねさとし喇勒)→チェチェン・ハーン
    • オトカン・ノヤン(鄂特歓諾がお
アルタン・ハーン
  1. ショロイ・ウバシ・ホンタイジ(? - 1623ねん)…アシハイのまご、トゥメンダラの
  2. バトマ・エルデニ・ホンタイジ(1623ねん - 1652ねん)…ショロイ・ウバシ・ホンタイジの
  3. エリンチン・ロブザン・タイジ(1652ねん - ?)…バトマ・エルデニ・ホンタイジの

ハルハ左翼さよく

ジャサク・ドロイ・ベイレ(扎薩かつかい勒)
  1. ゴンボイルデン(袞布勒登)(1664ねん – 1682ねん
  2. ロブサン(ぼくぞう)(1682ねん – 1707ねん)…ゴンボイルデンの長子ちょうし
  3. ジュンドゥイ(じゅんたい)(1707ねん – 1719ねん)…ロブサンの長子ちょうし
  4. ガルサン(噶勒くわ)(1719ねん – 1759ねん)…ジュンドゥイの長子ちょうし
  5. アユル(おもねひろしなんじ)(1759ねん – 1796ねん)…ガルサンのだいさん
  6. ナムルライジャブ(きよしなんじ賚扎ぬの)(1796ねん – 1815ねん)…アユルのまご
  7. バンザンシリ(はん咱什まいる)(1815ねん)…ナムルライジャブのおとうと
  8. シャクドルジャブ(すなかつしか扎布)(1815ねん – 1830ねん)…ナムルライジャブの
  9. バヤンバートル(ともえ彦巴なんじ)(1830ねん – 1870ねん
  10. ドゥイグルスロン(うずたかかたしかたかし)(1870ねん – 1890ねん)…バヤンバートルの
  11. ブリンマンドフ(ぬのりん曼都よび)(1890ねん – 1897ねん
  12. ルルムセリン(魯勒しょく楞)(1897ねん - ?)

ハルハ右翼うよく

ジャサク・ドロイダルハン・ベイレ(扎薩かついたるなんじかんかい勒)
  1. ベンタル(ほんとうなんじ)(1653ねん - 1669ねん
  2. ノネイ(だくない)(1669ねん - 1707ねん)…ほんとうなんじだいよん
  3. ジャンダグミ(詹達かたみつ)(1708ねん - 1728ねん)…だくないだいはち
  4. ラワンドルジ(ひしげ旺多なんじずみ)(1729ねん - 1781ねん)…詹達かたみつ長子ちょうし
  5. ツェブテンナムジャル(くるまぬののぼりおさむ扎勒)(1781ねん - 1799ねん)…ひしげ旺多なんじずみ長子ちょうし
  6. ジョンジルツェリン(ちゅうずみ勒車璘)(1800ねん - 1822ねん)…くるまぬののぼりおさむ扎勒の長子ちょうし
  7. グンチュクチョクピル(みつぎすわえかつ綽克丕勒)(1822ねん - 1824ねん)…ちゅうずみ勒車璘の
  8. ツェワンドブジ(くるま旺都ぬのずみ)(1824ねん - 1844ねん)…みつぎすわえかつ綽克丕勒のおとうと
  9. ソトナムドルジ(さくとく木多きたなんじずみ)(1844ねん - 1863ねん)…くるま旺都ぬのずみ
  10. グンサン(みつぎくわ)(1863ねん - 1880ねん)…さくとく木多きたなんじずみおとうと
  11. ツェリンドルジ(くるまりんなんじずみ)(1880ねん - 1890ねん)…みつぎくわ
  12. ユンダンワンチュク(くもはし旺楚かつ)(1890ねん - ?)…くるまりんなんじずみ
グサイ・ジョリクト・ベイセ(固山こやまたくまいるかつかい
  1. ゴンボ(袞布)(1653ねん - 1661ねん)…たちしかかん親王しんのうほんとうなんじしたがえ
  2. ダルジャイ(いたるなんじ扎)(1661ねん - 1682ねん)…袞布の長子ちょうし
  3. グルシシ(かた嚕什まれ)(1683ねん - 1704ねん)…たちしか扎の長子ちょうし
  4. バトマワンジャル(ともえとく瑪旺扎勒)(1704ねん - 1756ねん)…かた嚕什まれ長子ちょうし
  5. チェンベル(車木くるまきはく勒)(1756ねん - 1780ねん)…ともえとく瑪旺扎勒の次子じし
  6. ツェテンドルジ(くるまとうなんじずみ)(1780ねん - 1786ねん)…車木くるまきはく勒の長子ちょうし
  7. ドンユエト(東岳あずまだけとく)(1786ねん - 1795ねん)…くるまとうなんじずみおとうと
  8. チリクラシ(吉礼きれかつ喇錫)(1795ねん - 1820ねん)…東岳あずまだけとく
  9. ユンダンガイルブ(蘊丹ぶた魯布)(1820ねん - 1866ねん)…吉礼きれかつ喇錫のしたがえ
  10. アユルブネ(おもねいくなんじぬの呢)(1866ねん - 1887ねん)…蘊丹ぶた魯布の
  11. ミンジュルドルジ(あきらたましかなんじずみ)(1887ねん - ?)…おもねいくなんじぬの呢の
グサイ・ベイセ(固山こやまかい
  1. バンバシシ(ほんともえ什希)(1653ねん - 1675ねん)…たちしかかん親王しんのうほんとうなんじおとうと
  2. バトマ(ともえとく瑪)(1676ねん - 1686ねん)…ほんともえ什希の次子じし
  3. ジンムバ(すすむきよしともえ)(1687ねん - 1714ねん)…ともえとく瑪の長子ちょうし
  4. ダジ(いたるずみ)(1715ねん - 1728ねん)…すすむきよしともえ長子ちょうし
  5. バンディダ(はんだいたち)(1729ねん - 1735ねん)…ともえとく瑪の次子じし
  6. アラブダン(おもね喇布ひろし)(1735ねん - 1760ねん)…はんだいたち長子ちょうし
  7. バルジュンドルジ(ともえしかじゅんなんじずみ)(1761ねん - 1797ねん)…おもね喇布ひろし長子ちょうし
  8. ラシナムジャル(喇什扎爾)(1797ねん - 1804ねん)…ともえしかじゅんなんじずみ次子じし
  9. アディヤ(おもねだいみやび)(1804ねん - 1850ねん)…喇什扎爾の長子ちょうし
  10. セルブグンゲ(いろ勒布みつぎかく)(1850ねん - 1868ねん)…おもねだいみやび
  11. トゥオグオワ(たくはてかわら)(1868ねん - ?)…いろ勒布みつぎかくおとうと
トシエ・グン(鎮国こう
  1. サマディ(薩瑪だい)(1675ねん - 1686ねん)…たちしかかん親王しんのうほんとうなんじだい
  2. ゴンボアラブダン(袞布おもね喇布ひろし)(1687ねん - 1705ねん)…薩瑪第の長子ちょうし
  3. ソノムバンジュル(さくだくはんたまなんじ)(1705ねん - 1731ねん)…袞布おもね喇布ひろし長子ちょうし
  4. ゴンゲアラブダン(きょうかくおもね喇布ひろし)(1731ねん - 1773ねん)…さくだくはんたまなんじ長子ちょうし
  5. グンチュクドンルブ(袞楚かつとう囉布)(1773ねん - 1774ねん)…きょうかくおもね喇布ひろし長子ちょうし
  6. ダンジンドルジ(なんじずみ)(1775ねん - 1807ねん)…袞楚かつとう囉布の長子ちょうし
  7. ガルサンツェリン(噶爾くわしゃりん)(1807ねん - 1840ねん)…なんじずみ
  8. グサン(みつぎくわ)(1840ねん - 1883ねん)…噶爾くわしゃりん
  9. カンチュクダワ(ひろしすわえかつたちかわら)(1883ねん - 1887ねん)…みつぎくわ
  10. モロム(莫羅)(1887ねん - 1894ねん
  11. ノルブサンブ(だくしかぬの散布さんぷ)(1894ねん - ?)…莫羅

ジャサクト・ハーン

ジャサクト・ハーン(扎薩かつあせ
  1. スブディ(ソバンタイ)・ジャサクト・ハーン(もとともえだい、扎薩かつあせ)(? - 1647ねん)…ライフル・ハーンの
  2. ノルブ(だくしかぬの、畢錫哷勒あせ)(1647ねん – ?)…スブディの
  3. ワンシュク(旺舒かつ、扎薩かつあせ)(? - 1662ねん)…ノルブの
  4. チェングン(なり袞)(1670ねん – 1687ねん)…ワンシュクのおとうと
  5. ツェワンジャブ(さく旺扎ぬのかずせき親王しんのう)(1691ねん - 1732ねん)…チェングンの、ジャサクト・ハーンしょう
ジャサクト・ハーンけんドロイ・ギュンワン(ぐんおう
  1. プンスクラブダン(とももとかつ喇布ひろし)(ぐんおう:1691ねん - 1712ねん
  2. ゲレクヤンベル(かく哷克のべ丕勒)(ぐんおう:1712ねん - 1741ねん、ジャサクト・ハーン:1732ねん - 1741ねん)…プンスクラブダンの
  3. バルダル(ともえ勒達なんじ)(1741ねん - 1770ねん)…ゲレクヤンベルの長子ちょうし
  4. ジワンバルジャイ(ひとし旺巴勒斎)(1770ねん - 1791ねん)…バルダルの長子ちょうし
  5. ブニラテナ(ぬのあまひしげ忒納)(1791ねん - 1823ねん)…ジワンバルジャイの長子ちょうし
  6. マニバジャル(瑪呢ともえ咱爾)(1823ねん - 1840ねん)…ブニラテナの
  7. ツェリンドンドゥブ(くるまりんはしぬの)(1840ねん - 1877ねん)…マニバジャルの
  8. ドルジパラマ(なんじずみ帕拉瑪)(1877ねん - 1898ねん)…ツェリンドンドゥブの
  9. ソトムナムダン(さくとくひろし)(1898ねん - ?)…ドルジパラマの

トシェート・ハーン

トシェート・ハーン(しゃあせ
  • アバダイ・ハーンおもねともえ岱、斡斉よりゆきさいいんあせ)…ノーノフの長子ちょうし
  • エリエイ・メルゲン・ハーン(がくれつかつぼくなんじあせ)…アバダイの次子じし
  1. ゴンボ・トシェート・ハーン(袞布、しゃあせ)(? - 1673ねん)…エリエイ・メルゲン・ハーンの
  2. チャグンドルジ(察琿なんじずみ)(1673ねん - 1700ねん)…ゴンボ・トシェート・ハーンの
  3. ドンドゥブドルジ(あつしぬのなんじずみ)(1700ねん - 1702ねん)…チャグンドルジのまご、ガルダンドルジ(噶勒なんじずみ)の
  4. ドルジエルデニアハイ(なんじずみがくしかとくあまおもねうみ)(1702ねん - 1711ねん)…チャグンドルジの次子じし
  5. ワンジャルドルジ(旺扎勒多なんじずみ)(1711ねん - 1732ねん)…ドルジエルデニアハイの長子ちょうし
  6. ドンダンドルジ(あつしなんじずみ)(1732ねん - 1744ねん)…ワンジャルドルジの次子じし
  7. ドンドゥブドルジ(あつしぬのなんじずみ)(1744ねん - 1746ねん)…ワンジャルドルジのだい4
  8. ヤンベルドルジ(のべ丕勒なんじずみ)(1746ねん - 1759ねん)…ワンジャルドルジの長子ちょうし
  9. ツェテンドルジ(くるまとうなんじずみ)(1759ねん - 1793ねん、1794ねん - 1815ねん)…ドンダンドルジの次子じし
  10. ミンジュルドルジ(さとしたましかなんじずみ)(1793ねん)…ドンダンドルジの長子ちょうし
  11. エイダブドルジ(がくぬのなんじずみ)(1815ねん - 1829ねん)…ツェテンドルジの
  12. エリンタイ(まさりょうやすし)(1829ねん - 1832ねん)…エイダブドルジの
  13. ツェリンドルジ(くるまりんなんじずみ)(1832ねん - 1863ねん)…エリンタイの
  14. ナスンチョクトゥ(へりくだ綽克)(1863ねん - 1900ねん)…ツェリンドルジの
  15. セナンイルドルジ(いろ嚢依勒多なんじずみ)(1900ねん - 1904ねん)…ナスンチョクトゥの
  16. ダシニマ(いたる什尼瑪)(1904ねん - ?)…セナンイルドルジの

チェチェン・ハーン

チェチェン・ハーン(くるましんあせ
  • モーロボイマ(謨囉かい瑪)…アミンドラルの
  1. ショロイ・チェチェン・ハーン(せきるいしゃしんあせ)(? - 1655ねん)…モーロボイマの
  2. バブ(ともえぬの)(1655ねん - 1683ねん)…ショロイの
  3. ノルブ(だくしかぬの)(1683ねん - 1688ねん)…バブの
  4. ウメハ(がらすだまきゃく)(1688ねん - 1709ねん)…ノルブのまご、チェチェン・ハーンしょう
  5. グンチェン(袞臣)(1709ねん - 1728ねん)…ウメハの長子ちょうし
  6. ツェブテンバンジュル(くるまぬのとうはんたまなんじ)(1728ねん - 1733ねん)…グンチェンの長子ちょうし
  7. チョイジャブ(たれ扎布)(1733ねん - 1735ねん)…ウメハの従弟じゅうてい
  8. ダマリン(いたる瑪璘)(1735ねん - 1751ねん)…グンチェンの次子じし
  9. マニバダラ(嘛呢ともえたち喇)(1751ねん - 1767ねん)…ダマリンの長子ちょうし
  10. ツェブテンジャブ(くるまぬのとう扎布)(1767ねん - 1788ねん)…ダマリンの次子じし
  11. ジワンドルジ(ひとし旺多なんじずみ)(1788ねん - 1795ねん)…ツェブテンジャブの長子ちょうし
  12. プンチュクドルジ(ともすわえかつなんじずみ)(1795ねん)…ジワンドルジの次子じし
  13. サンジドルジ(くわひとしなんじずみ)(1796ねん - 1800ねん)…ジワンドルジの長子ちょうし
  14. マハシリ(瑪哈什哩)(1800ねん - 1807ねん)…プンチュクドルジの
  15. エンケトロ(おんかつ嚕)(1807ねん - 1817ねん)…マハシリの長子ちょうし
  16. アルタンシダ(おもねしかとう什達)(1817ねん - 1875ねん)…エンケトロの
  17. ツェリンドルジ(くるまりんなんじずみ)(1875ねん - 1893ねん)…アルタンシダの
  18. デムチュクドルジ(とくすわえかつなんじずみ)(1893ねん - 1909ねん
  19. アクワンナリン(おもねかつ旺那りん)(1909ねん - ?)

サイン・ノヤン

扎薩かつかずせき親王しんのう(ジャサク・ホショイ・チンワン)
  1. シャンバ(ぜんともえ)(1696ねん - 1707ねん)…とう斯希ぬの
  2. ダシドンドゥブ(いたる什敦ぬの)(1707ねん - 1726ねん)…シャンバの長子ちょうし
  3. ラマジャブ(喇嘛扎布)(1726ねん - 1732ねん)…ダシドンドゥブの長子ちょうし
  4. デチンジャブ(とく沁扎ぬの)(1733ねん - 1762ねん)…ダシドンドゥブの次子じし
  5. ノルブジャブ(だくしかぬの扎布)(1762ねん - 1786ねん)…デチンジャブの長子ちょうし
  6. ツェテンジャブ(くるまとう扎布)(1786ねん - 1792ねん)…ノルブジャブの長子ちょうし
  7. エリンチンドルジ(がく璘沁なんじずみ)(1793ねん - 1800ねん)…ツェテンジャブの
  8. プンチュクダシ(ともすわえかつたち什)(1802ねん - 1817ねん)…エリンチンドルジのおとうと
  9. ツェリンドルジ(くるまりんなんじずみ)(1817ねん - 1853ねん)…プンチュクダシの
  10. デムチョイ(とく吹)(1853ねん - 1871ねん)…ツェリンドルジの
  11. ツェリンドンドゥブ(くるまりんはしぬの)(1871ねん - 1883ねん)…デムチョイの
  12. トグスワジル(とくかた斯瓦ひとししか)(1883ねん - 1896ねん)…ツェリンドンドゥブの
  13. ナムナンスルン(嚢蘇りん)(1896ねん - ?)…トグスワジルの

脚注きゃくちゅう

  1. ^ National Census 2010 of Mongolia
  2. ^ ジャライル(J̌alayir),オンギラト(Onggirad)(ホンギラト),イキレス(Ikires),ウルート(Urud),モングート(マングート(Mangγがんまud))
  3. ^ a b 宮脇みやわき:2002
  4. ^ 宮脇みやわき 2002,p150
  5. ^ 宮脇みやわき 2002,p168-169
  6. ^ アルタン・トプチ』、『こうむ古世こせ系譜けいふ』、『アサラグチ・ネレトイン・テウケ』、『アルタン・クルドウン・ミンガン・ケゲスト・ビチク』、『ボロル・エリケ』などはダヤン・ハーンのははを「ウリヤンハンのフトグト・シグシのむすめ」としているが、『こうむ源流げんりゅう』、『ジャラグスン・フリム』、『シラ・トージ』は「ウルグートのオロジュ・シグシのむすめ」としている。《『東洋とうようがくほうだい55かん「ハルハ・トゥメンとその成立せいりつについて」》
  7. ^ 宮脇みやわき 2002,p153,169
  8. ^ 清史きよし稿こう列伝れつでんさんひゃくはち はんよん
  9. ^ 宮脇みやわき 2002,p169-171
  10. ^ せんどう (2017ねん5がつ21にち). “そのの「せい誥之たから」とマハーカーラぞう”. せんどうのここと. 2022ねん1がつ28にち閲覧えつらん
  11. ^ 中研ちゅうけんいん歷史れきしげん研究所けんきゅうじょ歷史れきし文物ぶんぶつ陳列ちんれつかん”. museum.sinica.edu.tw. 2022ねん1がつ28にち閲覧えつらん
  12. ^ Japanese section, The Voice of Mongolia (2018ねん1がつ15にち). “「ハルハ・オイラド法典ほうてん」とだいした著書ちょしょ出版しゅっぱんされた”. モンゴルのこえ. 2022ねん1がつ28にち閲覧えつらん
  13. ^ 宮脇みやわき 2002,p168-199
  14. ^ 宮脇みやわき 2002,p184
  15. ^ 宮脇みやわき 2002,p181-186
  16. ^ 宮脇みやわき 2002,p198-200
  17. ^ かたりんじゅん愨公ぬしかん熙帝とつうむすめ)のおっと
  18. ^ 宮脇みやわき 2002,p201-206,219-227
  19. ^ 宮脇みやわき 2002,p230-252

参考さんこう文献ぶんけん

関連かんれん項目こうもく