(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ホルチン - Wikipedia コンテンツにスキップ

ホルチン

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

2023ねん10がつ16にち (月)げつ 09:22; Early correct (会話かいわ | 投稿とうこう記録きろく) によるはん (→‎関連かんれん項目こうもく: 修正しゅうせい)日時にちじ個人こじん設定せってい設定せっていならUTC

(差分さぶん) ふるはん | 最新さいしんばん (差分さぶん) | あたらしいはん → (差分さぶん)

ホルチンモンゴル: Хорчинᠬᠤᠷᠴᠢᠨ 中国ちゅうごくしか沁、ラテン文字もじ表記ひょうき:Khorchin)は、15世紀せいき前期ぜんき形成けいせいされたモンゴル一部いちぶぞく。その遠祖えんそチンギス・カンおとうとジョチ・カサル

概要がいよう[編集へんしゅう]

チンギス・カン生前せいぜん自分じぶん諸子しょししょおとうとなどの親族しんぞくに、それぞれ遊牧ゆうぼくあてて、おとうとジョチ・カサルにはモンゴル高原こうげん東北とうほくアルグンがわからホロン・ノールおよび、ハイラルがわにいたる地方ちほうあたえられた[1]。ジョチ・カサルの子孫しそんおう(オン)とばれ、その直系ちょっけい代々だいだいホルチン領主りょうしゅとなった[2]ダヤン・ハーン時代じだいには「おうものたち」という意味いみで、オンリュートばれる集団しゅうだんぞくした[3]

1624ねん、ホルチン王族おうぞく後金あときん清朝せいちょう)のヌルハチ姻戚いんせき関係かんけいとなり、同盟どうめいむす[4]後金あときん清朝せいちょう)のだい2だい皇帝こうていホンタイジの5にん皇后こうごうのうち、3にんはホルチン出身しゅっしんであり、だい3だい皇帝こうてい順治じゅんじみかどはそのであるため、だい4だい皇帝こうていかん熙帝共々ともどもモンゴル堪能かんのうであった[5]

しんだいにはうちこうむろくめいのジェリム(あきらさとめいよんじゅうはたぞくし、そのうちのろくはたがホルチン(なんじ沁)であった。また、ジョーオダ(あきらがらすたちめいはちじゅういちはたにはアルホルチン(おもね魯科なんじ沁)いちはたがある[6]

歴史れきし[編集へんしゅう]

ホルチン形成けいせい[編集へんしゅう]

モンゴル年代ねんだいひとつ、『つねかわなが』ではジョチ・カサルのせいまごをブシュー(Бушуу)とし、アグサカルダイ(Агсахалдай)、アルグ・テムル(Аруг Төмөр)、エスンク(Eсөнхү)をバートル・シューシテイ(баатар Шигүшидзй)がカサル当主とうしゅになったとしるす。おおくのモンゴル年代ねんだいではバートル・シューシテイが最初さいしょ言及げんきゅうされるホルチン統治とうちしゃであるため、バートル・シューシテイがホルチン事実じじつじょう創始そうししゃであるとられる[7]。バートル・シューシテイはアダイ・ハーンタイスン・ハーンつかえるモンゴルの有力ゆうりょく諸侯しょこう一人ひとりであったが、タイスン・ハーンを弑逆しいぎゃくしたエセン・タイシによってころされてしまった。

バートル・シューシテイの死後しご、その息子むすこボルナイがホルチン統治とうちしゃとなったが、オンリュートないさい有力ゆうりょくしゃとなったのはベルグテイ後裔こうえいモーリハイおうであった。モーリハイおうモーラン・ハーン擁立ようりつすることで権勢けんせいきわめたものの、そのモーラン・ハーンと対立たいりつしてこれを弑逆しいぎゃくしたため、最終さいしゅうてきにボルナイにころされることとなった[8]。モーリハイをころしその勢力せいりょく吸収きゅうしゅうしたボルナイであったが、モーリハイのようにハーンを擁立ようりつすることができず、オイラトのオシュ・テムルやぶれて衰退すいたいした。

ボルナイにわってホルチン統治とうちしゃとなったのはそのおとうとウネ・ボラトであり、バト・モンケ(ダヤン・ハーン)が即位そくいしたころにはモンゴルの有力ゆうりょく諸侯しょこう一人ひとりとしてられていた。ウネ・ボラトはマンドゥールン・ハーン未亡人みぼうじんマンドフイ・ハトンにをつけ、マンドフイと再婚さいこんすればマンドゥールンの遺産いさんぐことができ、ハーンにも即位そくいできるだろうとかんがえてマンドフイに求婚きゅうこんした。しかしマンドフイ・ハトンはチンギス・ハーンのくバト・モンケがまだ健在けんざいであるのにジョチ・カサルの後裔こうえい結婚けっこんすることはできないとして、バト・モンケと結婚けっこんかれをハーンに即位そくいさせた。以後いごのウネ・ボラトの動向どうこう不明ふめいであるものの、のちにダヤン・ハーンが右翼うよく3トゥメンとダラン・テリグンでたたかったさいにはホルチンはダヤン・ハーンのしたたたかったことが記録きろくされているため、ダヤン・ハーンに服属ふくぞくしたものとられる。

ジョチ・カサルから14だい、ボルナイのまごにあたるクイメンクタスハラ(奎蒙かつとう斯哈喇)にはにんおり、長男ちょうなんのボディダラ(ひろしだいたち喇)はジョルゴル・ノヤン(たくしかかく勒諾がお)とごうし、次男じなんのノムンダラ(だく捫達喇)はガルジク・ノヤン(噶勒ずみだくがお)とごうした。ボディダラには9にんがおり、長男ちょうなんのジジク(ひとしひとしかつ)はバートル・ノヤン(ともえしかだくがお)とごうし、トシェート・チンワン(しゃ親王しんのう)のオーバ(おくともみ)、ジャサクト・ギュンワン(扎薩かつぐんおう)のブダジ(布達ふたつひとしはたとなる。次男じなんのナムサイ(おさめきよしさい)はドラル・ノヤン(喇勒だくがお)とごうし、ダルハン・チンワン(いたるなんじかん親王しんのう)のマンジュシリ(まんたま習礼)、ビントゥ・ギュンワン(冰図ぐんおう)のホンゴル(ひろしはてなんじ)、ベイレ(かい勒)のドンゴル(むねはてなんじさんはたとなる。三男さんなんのウバシ(がらすともえ什)はエトファン・ノヤン(鄂特歓諾がお)とごうし、ゴルロスかくなんじ斯)となる。よんなんのウヤンダイホトゴル(がらすのべ岱科たくはてなんじ)、五男いつおのトドバートルハラ(たくともえしか喀喇)、ろくなんのバイシン(はいしん)、なななんのエルジグ・ジョリクト(がく勒済かくたくまいるかつとう後裔こうえい不明ふめい八男はちおのアイナガ(あいおさめ噶)はチェチェン・ノヤン(くるましんだくがお)とごうし、ドルベトもりなんじはくとくとなる。きゅうなんのアミン(おもねさとし)はバガ・ノヤン(ともえ噶諾がお)とごうし、ジャライト(扎賚とくとなる。ノムンダラの一人ひとりで、ジェグルドゥ(あきらかくしかとく)といい、ジャサク(扎薩かつ)鎮国こうのラマシシ(喇嘛什希)一旗ひとはたとなる。

あきらひろし年間ねんかん1425ねん)、ホルチンオイラトやぶられ、嫩江避難ひなんし、同族どうぞくアルホルチンおもね魯科なんじ沁)がいたため、嫩江ホルチンとごうしてべつとなる。ジャライト,ドルベト,ゴルロスのさんとも遊牧ゆうぼくし、チャハル服属ふくぞくした。

後金あときんへの帰服きふく[編集へんしゅう]

1593ねん、ホルチンのタイジ(Taiji、たいきち)であるチェチェク(Cecek、ひとしひとしかつ)のウンガダイはナムサイ(Namusai、おさめきよしさい)ののマングス(Manggūs、莽古斯),ミンガン(Minggan、あかりやすとうと、うみ西にしおんなしんのイェヘ(Yehe、赫)タイジのブジャイ(Bujai、ぬのとき)にしたがい、ハダウラホイファ,シベ(Sibe、すずはく),グワルチャ(Gūwalca、なんじ察),ジュシェリ(Jušeri、たましゃさと),ネイェン(Neyen、おさめいん)のしょとともにけんしゅうおんなしん(Manju、まんしゅう)に侵攻しんこうした (→参照さんしょう勒山のせん)。イェヘ連合れんごうぐんはヘジゲ(Hejige、赫済かくしろめたがくだせず、そのヌルハチやぶれた。ミンガンはうますてはだか遁走とんそうし、ウンガダイはウラのタイジであるブジャンタイたすけたが、まんしゅうぐんによって敗北はいぼくした。ここにおいてマングス,ミンガン,ウェンゴダイは前後ぜんごしてまんしゅう使つかいおくってこのみうた。

後金あときん天命てんめい9ねん1624ねん)、ウンガダイののオーバ(Ooba、おくともみ)は一族いちぞくひきいて後金あときん帰順きじゅんした。このため、ホルチンがチャハル侵攻しんこうされたとき後金あときんはこれを援けて包囲ほういいてやった。てんさとし2ねん1628ねん)、大軍たいぐんかいしてチャハルせいした。てんさと3ねん1629ねん)、ホルチン後金あときんあかり征伐せいばつしたがい、遵化しゅう勝利しょうりし、北京ぺきん包囲ほういした。てんさと5ねん1631ねん)、だいしのげかわかこみ、そのしょうである大寿だいずくだした。てんさと6ねん1632ねん)、後金あときん大同だいどうせん攻略こうりゃくしたがう。てんさと8ねん1634ねん)、ふたたあかり征伐せいばつしたがう。てんさと10ねん1636ねんはる後金あときんぐんはチャハルくだし、元朝がんちょうつてこくたま獲得かくとくした。オーバののトシェート・ジノン・バダリシェ・タイジ(しゃずみのうともえたちれい偕台きち)であるウクシャン(Ukšan、がらすかつぜん),マンジュシリ(Manjusiri、まんたま習礼),ブダチ(Budaci、布達ふたつひとし),ホンゴル(Honggor、ひろしはてなんじ),ラマスヒ(Lamashi、喇嘛什希),ドンゴル(Donggor、むねはてなんじとうおよびジャライト(Jalait、扎賚とく,ドルベト(Durbet、もりなんじはくとく,ゴルロス(Gorlos、かくなんじ斯)ハラチン(Haracin、喀喇沁)トゥメト(Tumet、だまとくアオハン(Auhan、敖漢)ナイマン(Naiman、奈曼)バアリン(Barin、ともえりんジャルート(Jalut、扎魯とく,アルホルチン(Aru Karacin、おもね魯科なんじ沁)オンリュート(Ongliγがんまud、おううしとくしょ部族ぶぞくちょう後金あときん来朝らいちょうし、祝賀しゅくがした。

清朝せいちょう統治とうち活動かつどう[編集へんしゅう]

たかしとく元年がんねん1636ねん)4がつ後金あときんきよし改称かいしょうし、皇帝こうていホンタイジみことのりでホルチンいつつのジャサク(Jasak、扎薩かつ)をもうけ、バダリ(Badari、ともえいたるれい),マンジュシリ,ブダチ,ホンゴル、ラマスヒにそれぞれぶんりょうし、親王しんのう(cin wang、チンワン)、ぐんおう(giyūn wang、ギュンワン)、鎮国こう(トシェグン)の爵をさづけた。たかしとく2ねん1637ねん)、カムニカン(Kamnikan、喀木あまこらえ朝鮮ちょうせん征伐せいばつ従軍じゅうぐんする。たかしとく3ねん1638ねん)、ハルハ(Halha、喀爾喀)をせいす。たかしとく4ねん1639ねんはるソロン(Solon、さくりん)をせいす。あきあかりからももさん高橋たかはし包囲ほういする。たかしとく8ねん1643ねん)、にょうあまりかい勒(ラオユ・ベイレ)のアバタイ(Abatai、おもねともえやすし),まもるぐんすべりょうのアルジン(Arjin、おもねしか)にしたがい、あきらおよ黒龍江こくりゅうこうしょ征伐せいばつした。

順治じゅんじ元年がんねん1644ねん)、ジャライト,ドルベト,ゴルロスへいは睿親おうドルゴン(Dorgon、なんじ袞)にしたがって山海さんかいせきはいり、ながれぞくなり敗走はいそうさせ、望都もとまでった。順治じゅんじ2ねん1645ねん)、親王しんのうドド(Dodo、鐸)にしたがい、江南こうなん平定へいていした。順治じゅんじ3ねん1646ねん)、スニト(Sunit、とく出身しゅっしん叛乱はんらんしゃタンジス(あがおもえ)を討伐とうばつしたがい、ハルハのトシェート・ハーン(Tusiyetu han、しゃあせ),チェチェン・ハーン(Cecen han、くるましんあせ)をはいって支援しえんした。順治じゅんじ7ねん1650ねん)、ホルチンはジャサクひとつをくわえ、ドンゴルののジャンジルン(あきらよしりん)にこれをすべりょうさせ、ベイレ(beile、かい勒)からぐんおうの爵にすすんだ。順治じゅんじ13ねん1656ねん)、順治じゅんじみかどはホルチンおよびジャライト,ドルベト,ゴルロス,ハラチン,トゥメト,アオハン,ナイマン,バアリン,ジャルート,アルホルチン,オンリュートウジュムチン(Ujumucin、がらすたまきよし沁)ホーチト(Hoocit、ひろしひとしとく,スニト(Sunit、とくアバガ(Abaga、おもねともえ噶)ドルベン・フーヘトよん部落ぶらく)、ウラト(Urad、がらす喇特),ハルハ左翼さよくオルドス(Ordos、鄂爾斯)しょジャサクに敕をたまわった。

かん13ねん1674ねん)、さんはんらんさいし、ホルチン所部ところぶへい徴収ちょうしゅうしてさんかつら討伐とうばつした。かん熙14ねん1675ねん)、叛乱はんらんこしたチャハルブルニ(Burni、ぬのなんじあま親王しんのう討伐とうばつする。ホルチンはそのジュンガルチベット征伐せいばつでも従軍じゅうぐんしたこうがあったため、トシェート・チンワン(Tusiyetu cin wang、しゃ親王しんのう),ダルハン・チンワン(Darhan cin wang、いたるなんじかん親王しんのう),ジョリクト・チンワン(Joriktu cin wang、たくまいるかつ親王しんのう),ジャサクト・ギュンワン(Jasaktu cin wang、扎薩かつぐんおう)のよん爵はくらべて報酬ほうしゅうえた。ホルチンろくはたひだり右翼うよくかれ、トシェート・チンワンは右翼うよく掌握しょうあくし、ジャライト一旗ひとはた,ドルベト一旗ひとはた管轄かんかつした。ダルハン・チンワンは左翼さよく掌握しょうあくし、オルドスはた管轄かんかつし、ジェリム(あきらさと)においてめいアイマク)をべた。右翼うよくちゅうはたはバヤンフシャン(ともえがおかずしょう)に駐在ちゅうざいし、左翼さよくちゅうはたはイクタンガリク(かつから噶哩かつ)坡に駐在ちゅうざいし、右翼うよくぜんはたはシラブルハス(せき喇布なんじ哈蘇)に駐在ちゅうざいし、右翼うよくはたはエムトゥ(がく)坡に駐在ちゅうざいし、左翼さよくぜんはたはイユエクリボ(だけかつさとはく)に駐在ちゅうざいし、左翼さよくはたはシャンフル(そう和爾わにやま駐在ちゅうざいした。

左翼さよくちゅうはたのジャサク・ダルハン・チンワン(扎薩かつたちしかかん親王しんのう)であるマンジュシリの玄孫げんそんにあたるスブタンバルジュル(いろぬのあがともえ勒珠なんじ)は、いぬいたかし11ねん1746ねん)3がつにグルンフジン(かたりん和敬わけい公主こうしゅ結婚けっこんした。いぬいたかし20ねん1755ねん)、ジュンガルを平定へいていしたこうによってそう俸をくわえられ、アムルサナー叛乱はんらんによって爵をうばわれる。いぬいたかし23ねん1758ねん)、ふたたびホショイ・チンワン(かずせき親王しんのう)にふうぜられる。いぬいたかし37ねん1772ねん)、せい金川かながわでまたフデ(とみとく)にいてアグイおもねかつら)を弾劾だんがいしたため、爵をうばわれる。いぬいたかし40ねん1775ねん)、爵がもどされる。4だいのち、グンチュクリンチン(棍楚かつはやし沁)にいたり、トシェグン(鎮国こう)を襲名しゅうめいし、かん御前ごぜん大臣だいじんまでで死去しきょした。その左翼さよくちゅうはたのトサラフグン(輔国こうめい左翼さよくはたのトサラフグン(輔国こういちめい襲名しゅうめいしゃ途絶とだえた。左翼さよくはたのジャサク・ドロイ・ギュンワン(扎薩かつぐんおう)のセンゲリンチン(そうかくりん沁)は軍功ぐんこうによってボドレガタイ・ホショイ・チンワン(博多はかた勒噶だいかずせき親王しんのう)にすすんだ。どう4ねん1865ねん)、ドロイベイレ(かい勒)いちめい、トサラフグン(輔国こうめいえたのは、センゲリンチンのこうによる。

センゲリンチンののボヤンネモフ(はく彦訥謨祜)ははじめ、トサラフグン(輔国こう)にふうぜられる。どう3ねん1864ねん)、ベイレ(かい勒)に昇格しょうかくし、どう4ねん1865ねん)7がつ、ボドレガタイ・チンワン(博多はかた勒噶だい親王しんのう)を襲名しゅうめいし、御前ごぜん大臣だいじんとなる。11月、いのちにより左翼さよくちゅうはたのジャサク・ダルハン・チンワン(扎薩かつたちしかかん親王しんのう)のソトナム・プンスク(さくとくともかつとう奉天ほうてん馬賊ばぞく討伐とうばつした。どう5ねん1866ねん)2がつ馬賊ばぞくていたむろ大破たいはした。3月、いのちにより吉林きつりんあまり匪をとらえた。ひかりいとぐちはじめ、ひかりいとぐちみかどによりけん鑲黄はたりょうさむらいまもる内大臣ないだいじんさずかる。ひかりいとぐち17ねん1891ねん)に死去しきょする[9]

ホルチン開墾かいこん[編集へんしゅう]

順治じゅんじ年間ねんかん1643ねん - 1661ねん)に、こうただし・楊・しゅうはりりゅうといったかんじんろくせいひとがホルチン左翼さよくぜんはたはいり、しゅうすいかわ沿岸えんがん移住いじゅうして開墾かいこんはじめた。

ホルチン左翼さよくぜんはた

みちこう2ねん(1822ねん)、在住ざいじゅう漢人かんど農民のうみんやく200開墾かいこんされた草原そうげん面積めんせきは77000ヘクタール。 みちこう3ねん(1823ねん)、耕地こうちになった草原そうげん面積めんせきは1500ヘクタール。 みちこう6ねん(1826ねん)、増加ぞうかした漢人かんど農民のうみんは130、開墾かいこんされた草原そうげん面積めんせきは1546ヘクタール。 ひかりいとぐち29ねん(1903ねん)、あきらたけけん現在げんざい遼寧りょうねいしょうあきらたけけん)を設置せっちひかりいとぐち32ねん(1906ねん)、ほうちょう現在げんざい遼寧りょうねいしょうほうけん)を設置せっち

ホルチン右翼うよくぜんはた

ひかりいとぐち30ねん(1904ねん)、開通かいつうけん現在げんざい吉林きつりんしょうどおりにれけん)を設置せっち

ホルチン左翼さよくちゅうはた

よしみけい14ねん(1809ねん)、すでに耕地こうち転換てんかんされた草原そうげん面積めんせきは12500ヘクタール。 みちこう2ねん(1822ねん)、在住ざいじゅう漢人かんど農民のうみんやく200開墾かいこんされた草原そうげん面積めんせきは2000ヘクタール。 みちこう3ねん(1823ねん)、在住ざいじゅう漢人かんど農民のうみんやく255開墾かいこんされた草原そうげん面積めんせきやく2000ヘクタール。 みちこう6ねん(1826ねん)、増加ぞうかした漢人かんど農民のうみんは760ひかりいとぐち2ねん(1876ねん)、たてまつけん現在げんざい吉林きつりんしょうなしじゅけん)・ふところとくけん現在げんざい吉林きつりんしょう公主こうしゅみね)を設置せっちひかりいとぐち7ねん(1881ねん)、康平こうへいけん現在げんざい遼寧りょうねいしょうあきらけん)を設置せっちひかりいとぐち28ねん(1902ねん)、りょうみなもとけん現在げんざい吉林きつりんしょうそうりょう)を設置せっち

ホルチン右翼うよくちゅうはた

ひかりいとぐち30ねん(1904ねん)、やすしやすけん現在げんざい吉林きつりんしょうしろ城市じょうし洮北)を設置せっちひかりいとぐち34ねん(1908ねん)、醴泉けん現在げんざい内モンゴル自治うちもんごるじち突泉けん)を設置せっち

ホルチン左翼さよくはた

よしみけい7ねん(1802ねん)、在住ざいじゅう漢人かんど農民のうみんは4000みちこう12ねん(1832ねん)、ふところとくたてまつりょうげんの3けんもうける。

ホルチン右翼うよくはた

ひかりいとぐち31ねん(1905ねん)、安広やすひろけん現在げんざい吉林きつりんしょう大安だいあん)を設置せっちせんすべ2ねん(1910ねん)、鎮東けん現在げんざい吉林きつりんしょう鎮賚けん)を設置せっち

アヘン戦争せんそうのジェリムめい開墾かいこんもっとはげしくおこなわれ、ゴルロスはた,ジャライト,ドルベト3はた編入へんにゅうされた漢人かんど農民のうみんは159844で1220558にんとなり、これらの漢人かんど農民のうみん当時とうじの3はたモンゴルの8.9ばい人口じんこうは9.8ばいとなった。1902ねんから1908ねんまでのわずか6年間ねんかんでジェリムめい開墾かいこんされた草原そうげん面積めんせきは24おく5000まん平方へいほうメートルにたっした。こうした漢人かんど農民のうみんによるだい規模きぼ開墾かいこんは170ねんあいだ広大こうだい肥沃ひよくなホルチン草原そうげん耕地こうちにしてしまい、遊牧ゆうぼくによる牧畜ぼくちく産業さんぎょう農業のうぎょうはんのう半牧はんぼく産業さんぎょう転嫁てんかされた。現在げんざい清朝せいちょう前期ぜんき存在そんざいしたホルチンだい草原そうげんは、清朝せいちょう中期ちゅうきから中華民国ちゅうかみんこくにかけての開墾かいこんによってフンシャンダク砂漠さばくホルチン砂漠さばくわっている[9][10]

清朝せいちょうとの婚姻こんいん関係かんけい[編集へんしゅう]

ホルチンきよしあさ帰順きじゅんしたとき、マングス(莽古斯)はむすめのジェルジェルをふとそうホンタイジ)にとつがせ、皇后こうごうてられた(こうはしぶん皇后こうごう)。マングスののジャイサン(寨桑)もハルジョルとブムブタイのむすめ2にんたいむねとつがせ、ブムブタイは順治じゅんじみかど)の生母せいぼとして皇太后こうたいごうてられた(こうそうぶん皇后こうごう)。ジャイサンののウクシャン(がらすかつぜん)とマンジュシリ(まんたま習礼)、この2人ふたりおい(ジャイサンのまご)のジョルジ(綽爾ずみ)もそれぞれむすめとつがせた。ウクシャンのむすめ皇后こうごうとなったのちはいされ、マンジュシリのむすめ夭逝ようせいして悼妃おくりなされ、ジョルジのむすめ2にん皇后こうごう孝恵たかえあきら皇后こうごう)および淑恵よしえ)となった[9]

ホルチン爵位しゃくい[編集へんしゅう]

ホルチンには17めいの爵がある。

  1. ジャサク・ホショイ・トシェート・チンワン(扎薩かつかずせきしゃ親王しんのう)…いちめい
    • ドロイ・ベイレ(かい勒)…いちめい
  2. ジャサク・ホショイ・ダルハン・チンワン(扎薩かつかずせきたちしかかん親王しんのう)…いちめい
    • ジョリクト・チンワン(たくまいるかつ親王しんのう)…いちめい
  3. ドロイ・ギュンワン(ぐんおう)…二名にみょういち親王しんのうから降格こうかく
  4. ドロイ・ベイレ(かい勒)…いちめい
  5. グサイ・ベイセ(固山こやまかい)…いちめい
  6. トサラフグン(輔国こう)…よんめいいちベイセから降格こうかく
  7. ジャサク・ドロイ・ジャサクト・ギュンワン(扎薩かつ扎薩かつぐんおう)…いちめい
  8. ジャサク・ドロイ・ビントゥ・ギュンワン(扎薩かつ冰図ぐんおう)…いちめい
  9. ジャサク・ドロイ・ギュンワン(扎薩かつぐんおう)…いちめい(ベイレから昇格しょうかく
    • トサラフグン(輔国こう)…いちめい(ベイセ)から降格こうかく
  10. ジャサク・トシェグン(扎薩かつ鎮国こう)…いちめい

[9]

歴代れきだい首長しゅちょう[編集へんしゅう]

ジャサク・ホショイ・トシェート・チンワン(扎薩かつかずせきしゃ親王しんのう[編集へんしゅう]

  1. オーバ(おくともみ)(1626ねん - 1632ねん
  2. バダリ(ともえいたるれい)(1633ねん - 1671ねん)…オバの長男ちょうなん
  3. バヤスフラン(ともえみやび斯呼ろう)(1672ねん - 1673ねん)…バダリの長男ちょうなん
  4. アラシャン(おもね喇善)(1674ねん - 1688ねん)…バヤスフランの長男ちょうなん
  5. シャジン(すな)(1688ねん - 1702ねん)…バダリの次男じなん
  6. アラシャン(おもね喇善)(1702ねん - 1711ねん
  7. エルジャイトゥ(鄂勒とき)(1712ねん - 1720ねん)…アラシャンの長男ちょうなん
  8. アラブタン(おもね喇布ひろし)(1720ねん - 1759ねん
  9. チュイジャブ(たれ扎布)(1759ねん - 1767ねん
  10. ナワン(おさめ旺)(1767ねん
  11. ラシナムジャル(喇什おさめ扎勒)(1767ねん - 1782ねん
  12. ノルブリンチン(だくしかぬの璘沁)(1782ねん - 1840ねん
  13. セテンドンルブ(いろとうはし魯布)(1840ねん - 1856ねん
  14. ババオドルジ(ともえたからなんじずみ)(1856ねん - 1890ねん
  15. セワンノルブサンバオ(いろ旺諾なんじぬのくわたから)(1890ねん - 1901ねん
  16. イェシハイシュン(ぎょううみじゅん)(1902ねん - ?)

ドロイ・ベイレ(かい勒)[編集へんしゅう]

  1. シャジン(すな)(1675ねん - 1694ねん
  2. アビダ(おもね必達)(1694ねん - 1722ねん
  3. ドルジ(なんじずみ)(1723ねん - 1746ねん
  4. トグスエルクト(とく斯額しかかつ)(1746ねん - 1759ねん
  5. グムジャブ(きよし扎布)(1759ねん - 1799ねん
  6. サンインジヤト(さんおとずみみやび)(1799ねん - 1823ねん
  7. ダルマジャプ(いたるなんじ瑪扎ひろし)(1823ねん - 1841ねん
  8. サンインフビト(さんおと瑚比)(1841ねん - 1848ねん
  9. ワンチュクリンチン(旺楚かつはやし沁)(1848ねん - 1861ねん
  10. ダムリンワンジル(いたる木林きばやし旺済勒)(1861ねん - 1881ねん
  11. ミンジュルセタン(さとしたまなんじ色丹しこたん)(1881ねん - 1887ねん
  12. カイビ(凱畢)(1887ねん - 1910ねん

ジャサク・ホショイ・ダルハン・チンワン(扎薩かつかずせきたちしかかん親王しんのう[編集へんしゅう]

  1. マンジュシリ(まんたま習礼)(1652ねん - 1665ねん
  2. フタ(とう)(1665ねん - 1669ねん
  3. バンディ(はんだい)(1671ねん - 1710ねん
  4. ロブザングンブ(ぼく臧袞ぬの)(1710ねん - 1752ねん
  5. セブタンバリジュル(いろぬのあがともえ勒珠なんじ)(1752ねん - 1755ねん
  6. セワンノルブ(いろ旺諾なんじぬの)(1755ねん - 1773ねん
  7. ワンジャリドルジ(旺扎勒多なんじずみ)(1774ねん - 1798ねん
  8. タンツェンワンブ(曾旺ぬの)(1798ねん - 1808ねん
  9. ブヤンウェンドルフ(ぬの彦温しか瑚)(1808ねん - 1838ねん
  10. ソトナムプンスク(さくとくとももとかつ)(1838ねん - 1874ねん
  11. ゴンボワンジル(棍布旺済勒)(1874ねん - 1884ねん
  12. ナムジルセレン(ずみ勒色楞)(1884ねん - ?)

ホショイ・ジョリクト・チンワン(かずせきたくまいるかつ親王しんのう[編集へんしゅう]

  1. ウクシャン(がらすかつぜん)(1636ねん - 1665ねん
  2. 畢勒とう噶爾(1666ねん - 1667ねん
  3. オチル(鄂斉なんじ)(1668ねん - 1682ねん
  4. 勒巴(1682ねん - 1688ねん
  5. バトマ(ともえとく瑪)(1688ねん - 1725ねん
  6. おもね勒坦かくよび勒(1725ねん - 1736ねん
  7. ジャムバルジャムス(扎木ともえ勒扎もと)(1737ねん - 1761ねん
  8. ゴンゲラブタン(きょうかく喇布ひろし)(1761ねん - 1795ねん
  9. ラワン(ひしげ旺)(1795ねん - 1804ねん
  10. 噶勒くわとうぬの(1804ねん - 1826ねん
  11. バトゥ(ともえ)(1826ねん - 1861ねん
  12. すみかつとう旺庫なんじ(1861ねん - 1891ねん
  13. 丹色にいろさととく旺珠なんじ(1891ねん - 1894ねん
  14. エルデムビリクトゥ(がくなんじとく畢里かつ)(1894ねん - 1906ねん
  15. セワンドンルブ(いろ旺端魯布)(1908ねん - ?)

トサラフグン(輔国こう[編集へんしゅう]

  1. セプテンバルジュル(いろぬのあがともえ勒珠なんじ)(1743ねん - 1775ねん
  2. 鄂勒あきらとくきよしなんじがくしかかつともえはい(1775ねん - 1793ねん
  3. オルジェイトゥ(鄂勒あきら)(1794ねん - 1819ねん
  4. ジクムトゥ(すみかつだまとく)(1819ねん - 1848ねん
  5. グンチュクリンチン(棍楚かつはやし沁)(1848ねん - 1884ねん
  6. ナストゥ()(1884ねん - 1901ねん
  7. ダライ(いたる賚)(1901ねん - ?)

ドロイ・ギュンワン(ぐんおう[編集へんしゅう]

  1. とうとく(1649ねん - 1653ねん
  2. エルデニ(がくなんじとくあま)(1653ねん - 1675ねん
  3. ビリクトゥ(畢里かつ)(1676ねん - 1710ねん
  4. ノムンエルヘトゥ(だく捫額なんじ赫図)(1710ねん - 1743ねん
  5. おもね旺蔵ぬの(1743ねん - 1759ねん
  6. 喇什噶勒とう(1759ねん - 1801ねん
  7. くわずみ扎布(1801ねん - 1805ねん
  8. むねだまとく(1805ねん - 1841ねん
  9. すみかつだまとくろうぬの(1841ねん - 1872ねん
  10. らんかくよび勒(1872ねん - ?)

ドロイ・ベイレ(かい勒)[編集へんしゅう]

  1. チョルジ(綽爾ずみ)(1661ねん - 1668ねん
  2. オチル(鄂斉なんじ)(1670ねん - 1681ねん
  3. ともえかつ什固なんじ(1682ねん - 1720ねん
  4. アラブタン(おもね喇布ひろし)(1720ねん - 1735ねん
  5. サムピルジャムス(薩木丕勒扎木もと)(1735ねん - 1757ねん
  6. さんおと察袞(1757ねん - 1810ねん
  7. セボクドルジ(いろ楞多なんじずみ)(1810ねん - 1823ねん
  8. 八格拉普坦(1823ねん - 1859ねん
  9. くわ嚕布とくさい(1859ねん - 1866ねん
  10. のぼる噶扣(1866ねん - 1883ねん
  11. すみかつとうたちかつときかわら(1884ねん - 1905ねん
  12. すみかつとうだくしかぬのりん沁扎(1906ねん - ?)

グサイ・ベイセ(固山こやまかい[編集へんしゅう]

  1. ラシ(喇什)(1726ねん - 1750ねん
  2. いたるなんじ瑪達(1750ねん - 1753ねん
  3. バンジュル(はんたまなんじ)(1753ねん - 1786ねん
  4. シディ(すずだい)(1786ねん - 1820ねん
  5. おもね舒噶(1820ねん - 1827ねん
  6. アミンウルトゥ(おもねさとがらすなんじ)(1827ねん - 1881ねん
  7. はん咱喇かつ(1881ねん - ?)
  8. リンチンドルジ(はやし沁多なんじずみ)(? - ?)
  9. あげくわともえひしげ(1902ねん - ?)

トサラフグン(輔国こう[編集へんしゅう]

  1. がらすなんじよび瑪勒(1724ねん - 1732ねん
  2. 瑪哈瑪育なんじ(1732ねん - 1770ねん
  3. すずたち什哩(1770ねん - 1828ねん
  4. バトゥ(ともえ)(1828ねん - 1853ねん
  5. くもはし帕爾賚(1853ねん - 1877ねん
  6. ハスバトゥル(哈斯ともえなんじ)(1877ねん - ?)

トサラフグン(輔国こう[編集へんしゅう]

  1. おさめ赫(1661ねん - 1688ねん
  2. ぬのあま(1688ねん - 1722ねん
  3. 薩瑪だい(1722ねん - 1728ねん
  4. ラシセワン(喇什しょく旺)(1728ねん - 1765ねん
  5. いろとう噶瑪勒(1765ねん - 1798ねん
  6. ノルブ(だくしかぬの)(1798ねん - 1822ねん
  7. ひろし囉特(1822ねん - 1841ねん
  8. 帕拉ともえ(1841ねん - 1862ねん
  9. ひとしだまとくなんじ(1862ねん - 1875ねん
  10. とく勒格しかこうむかつ(1875ねん - 1904ねん
  11. ドルジ(なんじずみ)(1904ねん - ?)

トサラフグン(輔国こう[編集へんしゅう]

  1. 噶爾弼(1724ねん - 1738ねん
  2. チャガンダラ(察罕たち喇)(1738ねん - 1742ねん
  3. だくかんたち喇(1742ねん - 1802ねん
  4. 旺親(1802ねん - ?)

トサラフグン(輔国こう[編集へんしゅう]

  1. ハダ(哈達)(1750ねん - 1803ねん)…固山こやまかい喇什の三男さんなん
  2. バトマ(ともえとく瑪)(1803ねん - 1825ねん)…哈達の長男ちょうなん

ジャサク・ドロイ・ジャサクト・ギュンワン(扎薩かつ扎薩かつぐんおう[編集へんしゅう]

  1. ブダチ(布達ふたつひとし)(1636ねん - 1644ねん
  2. はい斯噶勒(1645ねん - 1657ねん
  3. オチル(鄂斉なんじ)(1657ねん - 1718ねん
  4. 薩祜ひしげかつ(1718ねん - 1731ねん
  5. すなとく勒格なんじ(1731ねん - 1749ねん
  6. ナワンスブタン(おさめ旺色ぬのあが)(1749ねん - 1784ねん
  7. ラシドンロプ(喇什はしぬの)(1784ねん - 1798ねん
  8. ミンジュルドルジ(さとしたましかなんじずみ)(1798ねん - 1834ねん
  9. さくだくりん布木ふき(1834ねん - 1867ねん
  10. いたるとくともえ扎木(1867ねん - 1873ねん
  11. あつしうらない(1873ねん - 1881ねん
  12. ウタイ(がらすやすし)(1881ねん - ?)

ジャサク・ドロイ・ビントゥ・ギュンワン(扎薩かつ冰図ぐんおう[編集へんしゅう]

  1. ホンゴル(ひろしはてなんじ)(1636ねん - 1641ねん
  2. エセン(がくもり)(1646ねん - 1665ねん
  3. がくずみおん(1666ねん - 1696ねん
  4. いたる達布たっぷ(1696ねん - 1707ねん
  5. むべ什班だい(1707ねん - 1747ねん
  6. 喇特おさめ扎木もと(1747ねん - 1776ねん
  7. くわたい扎布(1776ねん - 1782ねん
  8. ぼくぞううらない(1782ねん - 1814ねん
  9. はやし沁扎勒参(1814ねん - 1858ねん
  10. すずさとともえ咱爾(1858ねん - 1877ねん
  11. さとし魯普扎布(1877ねん - 1904ねん
  12. 棍楚かつたかし(1904ねん - ?)

ジャサク・ボドレガタイ・チンワン(扎薩かつ博多はかた勒噶だい親王しんのう[編集へんしゅう]

  1. ドンゴル(むねはてなんじ)(鎮国こう:1636ねん - 1643ねん
  2. ジャンジルン(あきらよしりん)(かい勒:1648ねん - 1650ねん、扎薩かつぐんおう:1650ねん - 1664ねん
  3. 布達ふたつれい(1664ねん - 1684ねん
  4. 扎噶なんじ(1684ねん - 1685ねん
  5. 岱布(1685ねん - 1710ねん
  6. アラブタン(おもね喇布ひろし)(1710ねん - 1716ねん
  7. ぼくぞう喇什(1716ねん - 1738ねん
  8. ひとしだまとくなんじずみ(1738ねん - 1782ねん
  9. ともえ勒珠なんじ(1782ねん - 1783ねん
  10. さくとくおさめ木多きたぬのとき(1783ねん - 1825ねん
  11. センゲリンチンそうかくりん沁)(1825ねん - 1854ねん、扎薩かつ博多はかた勒噶だい親王しんのう:1854ねん - 1865ねん
  12. バヤンネモフ(はく彦訥謨祜)(1865ねん - 1891ねん
  13. おもねきよしなんじれいけい(1891ねん - ?)

トサラフグン(輔国こう[編集へんしゅう]

  1. セブテンドルジ(いろぬのあがなんじずみ)(固山こやまかい:1738ねん - 1743ねん
  2. ソノムセレン(さくだくしょくりょう)(鎮国こう:1743ねん - 1771ねん
  3. ナシュンバトゥ(おさめへりくだともえ)(輔国こう:1771ねん - ?)

ジャサク・トシェグン(扎薩かつ鎮国こう[編集へんしゅう]

  1. ラマシヒ(喇嘛什希)(1636ねん - 1647ねん
  2. セレン(いろりょう)(1648ねん - 1661ねん
  3. 什轄なんじ(1661ねん - 1697ねん
  4. つとむ瑪勒(1697ねん - 1725ねん
  5. ラマジャブ(喇嘛扎布)(1725ねん - 1754ねん
  6. ぬの延徳えんとく勒格なんじ(1754ねん - 1755ねん
  7. ミンジュルドルジ(さとしたましかなんじずみ)(1755ねん - 1768ねん
  8. サムピルジャムス(薩木丕勒扎木もと)(1768ねん - 1802ねん
  9. セワンドルジ(いろ旺多なんじずみ)(1802ねん - 1834ねん
  10. ぬの沁旺(1834ねん - 1840ねん
  11. オルジェジルガル(がらす勒済ずみしか噶勒)(1840ねん - 1872ねん
  12. トグスビリクトゥ(とく斯畢さとかつ)(1872ねん - 1888ねん
  13. ラシミンジュル(喇什さとしたまなんじ)(1889ねん - ?)

ドロイ・ベイレ(かい勒)[編集へんしゅう]

  1. バヤンネモフ(はく彦訥謨祜)(輔国こう:1855ねん - 1864ねんかい勒:1864ねん - 1865ねん
  2. ナルス(しか)(1865ねん - 1890ねん
  3. おもねきよしなんじれいけい(1890ねん - 1891ねん
  4. ゆたか(1891ねん - 1893ねん
  5. アルタンオチル(おもね勒坦鄂斉なんじ)(1893ねん - ?)

トサラフグン(輔国こう[編集へんしゅう]

  1. ろうぬのりん沁(1855ねん - 1858ねん
  2. ぬの彦図かた魯克ひとし(1858ねん - 1871ねん
  3. ぬの彦巴まいるかつひとし(1871ねん - 1884ねん
  4. ひろしすすむ(1884ねん - ?)

トサラフグン(輔国こう[編集へんしゅう]

  1. ゆたか(1865ねん - 1891ねん
  2. ナシュンバダルフ(へりくだともえたちしかよび)(1891ねん - 1900ねん
  3. へりくだおもねしか畢吉よび(1900ねん - ?)

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 宮脇みやわき(2002), p. 88-89.
  2. ^ 宮脇みやわき(2002), p. 146.
  3. ^ 宮脇みやわき(2002), p. 151.
  4. ^ 宮脇みやわき(2002), p. 175-177.
  5. ^ 宮脇みやわき(2002), p. 180-181.
  6. ^ 宮脇みやわき(2002), p. 224-225.
  7. ^ 岡田おかだ英弘ひでひろ現存げんそんするモンゴル部族ぶぞく系譜けいふでエセンの時代じだいさかのぼるものはなくエセンとどう時代じだいじん実際じっさいじょう始祖しそとなっており、このことはどう時代じだいにモンゴル社会しゃかいさい編成へんせいおこなわれたことを示唆しさしている、と指摘してきしている(岡田おかだ2010,67ぺーじ)
  8. ^ モンゴル年代ねんだいではモーリハイをころした人物じんぶつをホルチンのウネ・ボラトとするが、明朝みょうちょう史料しりょうではウネ・ボラトにかんする記述きじゅつがないこと、のちにボルナイがモーリハイの勢力せいりょく吸収きゅうしゅうしていることなどから実際じっさいにモーリハイをころしたのはボルナイではないかと推測すいそくされている(井上いのうえ2002,12ぺーじ)
  9. ^ a b c d 清史きよし稿こう列伝れつでんさんひゃく
  10. ^ がらすりょくきちうちモンゴル高原こうげんにおける砂漠さばくいち要因よういん : 経済けいざい観点かんてんから」『現代げんだい社会しゃかい文化ぶんか研究けんきゅうだい24かん新潟大学にいがただいがく大学院だいがくいん現代げんだい社会しゃかい文化ぶんか研究けんきゅう、2002ねん、215-232ぺーじhdl:10191/1068ISSN 13458485 

参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]