アクレ紛争ふんそう

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アクレ紛争ふんそう
 
アクレ紛争ふんそう以前いぜんのボリビアの領域りょういき
戦争せんそう:アクレ紛争ふんそう
年月日ねんがっぴ1899ねん-1903ねん
場所ばしょ現在げんざいのブラジルアクレしゅうにあたる領域りょういき
結果けっか:ブラジルの勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
ボリビアの旗 ボリビア アクレ共和きょうわこく
ブラジルの旗 ブラジル

アクレ紛争ふんそう西にし: Guerra del Acre)またはアクレ革命かくめいはく: Revolução Acriana)は、1899ねんから1903ねんにかけて、当時とうじボリビア領土りょうどであったアクレ地方ちほうきた紛争ふんそうのことである。19世紀せいき後半こうはん世界せかいてきなゴム需要じゅようたかまりにより、パラゴムノキ自生じせいしていたアクレ地方ちほうには、一攫千金いっかくせんきんねらってブラジルじん入植にゅうしょくしゃが、1898ねんまで、すくなくとも80,000にんがアクレ地方ちほう進出しんしゅつした[1]。この状況じょうきょうに、ボリビアは、ぜいすなどの方針ほうしんをとったため、ブラジルじん入植にゅうしょくしゃ独立どくりつ主張しゅちょうして反乱はんらんこし、アクレ共和きょうわこくとして独立どくりつ宣言せんげんした。反乱はんらん鎮圧ちんあつできないボリビアにたいして、ブラジル干渉かんしょうし、アクレ地方ちほうをブラジルに編入へんにゅうすることになった。

背景はいけい[編集へんしゅう]

アマゾン地方ちほう国境こっきょうせん問題もんだい[編集へんしゅう]

17世紀せいき、ブラジルでは、大西洋たいせいよう沿岸えんがんから内陸ないりく進出しんしゅつするうごきがあらわれた[2]バンデイランテスばれる武装ぶそう集団しゅうだんが、インディオりときむ鉱脈こうみゃく探索たんさく目的もくてきとしてアマゾンにはいった[2]。またイエズスかいキリスト教きりすときょう布教ふきょうとインディオ保護ほご目的もくてきとしてアマゾンにはいった[2]

18世紀せいき、ブラジルがわからのアマゾンの開発かいはつすすむと、スペインポルトガルあいだで、ラテンアメリカでの植民しょくみん境界きょうかいせんめぐあらそいがしょうじた[3]両国りょうこくあいだあらそいは、1750ねんのマドリッド条約じょうやくスペインばん1777ねんむすばれただいいちサン・イルデフォンソ条約じょうやく一応いちおう解決かいけつをみた[3]。これらの条約じょうやくにより、未開みかいであったアマゾン領域りょういき国境こっきょうせんさだめられ、ブラジルのアマゾン川あまぞんがわ流域りゅういき領土りょうど拡大かくだいした[4]

19世紀せいきはいり、ラテンアメリカのスペイン植民しょくみん次々つぎつぎ独立どくりつした。しかし、独立どくりつした各国かっこくにはブラジルに対抗たいこうできる国力こくりょく不足ふそくしていた[1]1867ねん、ブラジルとボリビアのあいだに、アヤクチョ条約じょうやく英語えいごばんスペインばん締結ていけつされた。この条約じょうやくでボリビア政府せいふは、マデイラがわアブナがわ下流かりゅう地域ちいき放棄ほうきした[1]。ボリビアの愛国あいこくしゃたちは、この政府せいふ決定けっていきびしく批判ひはんしたが、これらの地域ちいき統治とうちするには多額たがく費用ひようがかかり、現実げんじつてき選択せんたくではなかった[1]

アマゾンのゴム景気けいき[編集へんしゅう]

ゴム景気けいき当時とうじ豪華ごうかさの象徴しょうちょうであるマナウスのアマゾナス劇場げきじょうはく: Teatro Amazonas

19世紀せいきまつに、自転車じてんしゃ自動車じどうしゃ普及ふきゅうによりタイヤなどの原料げんりょうとして天然てんねんゴムの需要じゅよう増大ぞうだいした[5][6]ベニがわマドレ・デ・ディオスがわ、アクレがわなどアマゾン流域りゅういき上流じょうりゅう低地ていちたいには、パラゴムノキ自生じせいしていた[7]。このためアマゾン地域ちいきには、「ゴム景気けいき」がこり、おおくの商人しょうにんベレンマナウス、ポルト・ヴェーリョにラテックスけるために店舗てんぽかまえた。またおおくの労働ろうどうしゃがラテックス採集さいしゅう労働ろうどうしゃとしてアマゾン地域ちいきはいった。

ボリビアじんでは、ニコラス・スアレス・カリャウ英語えいごばんスペインばん天然てんねんゴムで巨富きょふきずいていた[8]。ニコラス・スアレスの経営けいえいするスアレス商会しょうかいは、アマゾン地方ちほうに18まん平方へいほうキロを所有しょゆうし、ボリビアりょう産出さんしゅつされる天然てんねんゴムの60%を掌握しょうあくしていた[8]。ニコラス・スアレスは、「天然てんねんゴム世界せかいロックフェラー」とばれていた[8]

アマゾンへの入植にゅうしょくじょうきょう[編集へんしゅう]

ボリビアでは、サンタ・クルス地方ちほうからゴムの自生じせい地域ちいきに、1860ねんから1910ねんはん世紀せいきあいだやく80,000にん移住いじゅうしたとされる[7]。また、1898ねんまで、すくなくとも80,000にんのブラジルじんがアクレ地方ちほう無断むだん入植にゅうしょくした[1]。そのおおくは、ゴムの採取さいしゅ一攫千金いっかくせんきんねらもの、ならずもの犯罪はんざいおかしてげてものたちだった[1]

1879ねん、アクレがわ蒸気じょうきせん定期ていき航行こうこうはじめ、入植にゅうしょくしゃたちの食料しょくりょう産出さんしゅつした天然てんねんゴムを輸送ゆそうした[1]。しかし、マデイラがわにはところどころに航行こうこう困難こんなん急流きゅうりゅうがあり、これが自然しぜん防壁ぼうへきになっていた[1]。ブラジルがわからマデイラがわ支流しりゅうであるマモレがわベニがわマドレ・デ・ディオスがわへの船舶せんぱく航行こうこう困難こんなんであり、同様どうように、ボリビアがわからアブナがわ流域りゅういき船舶せんぱくかうことは困難こんなんであった[1]。アクレ地方ちほうにはおおくのブラジルじんはいんだが、マデイラがわ上流じょうりゅうとのその支流しりゅうにブラジルじん入植にゅうしょくすることをふせいだ[1]一方いっぽうで、アクレ地方ちほうにはボリビア政府せいふ統治とうちおよばなかった[9]。アマゾンがゴム景気けいき活況かっきょうていするまで、ボリビア政府せいふは、アクレ地方ちほうに、役人やくにん派遣はけんや、現地げんち調査ちょうさもほとんどおこなっていなかった[9]。このため、アクレ地方ちほう無法むほう地帯ちたいになっていた[9][注釈ちゅうしゃく 1]

ブラジルの状況じょうきょう[編集へんしゅう]

1889ねん共和きょうわせい革命かくめいにより、ブラジルは帝政ていせいから共和きょうわせい移行いこうした。共和きょうわせい実権じっけんにぎったのは、ブラジル経済けいざい牽引けんいんしていただい農園のうえんぬしたちであった。コーヒー生産せいさん中心ちゅうしんであったサンパウロしゅうと、畜産ちくさん酪農らくのう生産せいさんであったミナスジェライスしゅうから交互こうご連邦れんぽう大統領だいとうりょうおくんだ(カフェ・コン・レイテ体制たいせい)。このような状況じょうきょうから連邦れんぽう政府せいふは、各州かくしゅう内政ないせいにあまり干渉かんしょうせず、各州かくしゅう利益りえき調整ちょうせいちかいものであった。

パラーしゅう州都しゅうとベレンは、17世紀せいき建設けんせつされた大西洋たいせいようめんする港町みなとちょうであった。ベレンは、砂糖さとう綿花めんかコーヒー主要しゅよう貿易ぼうえきひんえながら、ブラジルでもっとさかえたみなとひとつとなっていた[10]他方たほうアマゾナスしゅうマナウスは、大西洋たいせいようから内陸ないりくに1500km、アマゾン川あまぞんがわ本流ほんりゅうネグロがわ合流ごうりゅう地点ちてんきた位置いちする。アマゾン川あまぞんがわ利用りようした物流ぶつりゅうでの物資ぶっし集積しゅうせきとして、19世紀せいき中頃なかごろ建設けんせつされた[11]

1876ねん、イギリスのインマン汽船きせん会社かいしゃは、マナウスとイギリスのリバプールあいだ直接ちょくせつ航路こうろ開設かいせつした[12]。1880ねん、ベレンは7,793トンの天然てんねんゴムを輸出ゆしゅつしたが、マナウスは374トンをおくしただけであった[13]。これはベレンにはふるくからの港湾こうわん都市としで、銀行ぎんこう保険ほけん会社かいしゃ法律ほうりつ事務所じむしょなどをそなえていたからでもあった[13]。アマゾナスしゅう有力ゆうりょくしゃたちは、アマゾンでのゴム貿易ぼうえき優位ゆういせいをベレンからうばうことを画策かくさくした[14]1878ねん、マナウスから直接ちょくせつ国外こくがい天然てんねんゴムを輸出ゆしゅつする場合ばあいは、ひく税率ぜいりつ適用てきようすることをさだめた[14]

ボリビアの状況じょうきょう[編集へんしゅう]

ボリビアでは、1898ねんすえからボリビア連邦れんぽう革命かくめいスペインばんき、武力ぶりょく闘争とうそうすえ保守党ほしゅとう英語えいごばんから自由党じゆうとう英語えいごばん政権せいけんうつった[15]1899ねんホセ・マヌエル・パンド英語えいごばんスペインばん大統領だいとうりょうにつくと、影響えいきょうりょくつよめていたすず鉱山こうざん所有しょゆうする資産しさん都市とし中産ちゅうさん階級かいきゅう支持しじけ、中央ちゅうおう集権しゅうけんてき政府せいふ目指めざした[16]

だいいちアクレ紛争ふんそう[編集へんしゅう]

プエルト・アロンソの建設けんせつ[編集へんしゅう]

アマゾンのゴム景気けいき状況じょうきょうをつけたボリビア政府せいふは、アクレ地方ちほう産出さんしゅつされるゴムに課税かぜいすることを目論もくろんだ[9]。1899ねん1がつ2にち、アクレがわ沿いのブラジル国境こっきょうそばにまち建設けんせつし、プエルト・アロンソ(現在げんざいポルト・アクレポルトガルばん)と命名めいめいした[9]。そして、このプエルト・アロンソに税関ぜいかんき、ブラジルへとはこばれる天然てんねんゴムに輸出ゆしゅつぜいした[9]

だいいちアクレ共和きょうわこく独立どくりつ宣言せんげん[編集へんしゅう]

アクレ地方ちほう入植にゅうしょくしていたブラジルじんたちは、ボリビア政府せいふした天然てんねんゴムの輸出ゆしゅつぜい不満ふまんった[9]。またアクレがわ下流かりゅうにあたるアマゾナスしゅう課税かぜい反発はんぱつした[9]。アマゾナスしゅうしゅう知事ちじであったホセ・カルドソ・ラマル・ジュニオールポルトガルばんは、スペインじんルイス・ガルベス・ロドリゲススペインばんやとい、武器ぶきなどをあたえて実力じつりょく排除はいじょくわだてた[9]

ルイス・ガルベスは、ボリビアじん役人やくにんりすましてプエルト・アロンソにはいんだ[9]状況じょうきょう調査ちょうさしたところ、現地げんちのブラジルじん不満ふまんやボリビアの役人やくにん警官けいかんしょう人数にんずうであることを把握はあくし、慎重しんちょう反乱はんらん計画けいかく立案りつあんした[9]

1899ねん7がつ14にち、ルイス・ガルベスは行動こうどうこし、アクレ共和きょうわこく独立どくりつ宣言せんげんみずか初代しょだい大統領だいとうりょう名乗なのった[9]。ルイス・ガルベスは、さらに粗末そまつ小屋こや大統領だいとうりょう宮殿きゅうでんしょうして、大統領だいとうりょうれい次々つぎつぎはっした[9]。アクレ共和きょうわこく領域りょういきは、きたはアヤクチョ条約じょうやくでのブラジルとボリビアの国境こっきょうせんみなみマドレ・デ・ディオスがわまでを主張しゅちょうした[9]。ルイス・ガルベスは、おおくの入植にゅうしょくしゃ大佐たいさ称号しょうごうおくり、またヨーロッパにいる知人ちじんをアクレ共和きょうわこく外交がいこう代表だいひょう任命にんめいした[9]。このような稚拙ちせつ行動こうどうは、アクレの入植にゅうしょくしゃ離反りはんまねき、ルイス・ガルベスを追放ついほうするうごきがでた[9]

ボリビア政府せいふ反乱はんらんほうけて、ブラジル政府せいふ反乱はんらん鎮圧ちんあつ依頼いらいした[9]。ブラジル国内こくないではアマゾナスしゅう競合きょうごう関係かんけいにあったパラーしゅうのゴム商人しょうにんたちも、この反乱はんらん否定ひていてきであった[17]かれらはルイス・ガルベスを「強盗ごうとう」と批判ひはんし、反乱はんらん鎮圧ちんあつ賛成さんせい立場たちばをとった[17]。ブラジル政府せいふは、1900ねん3がつ警備けいびてい派遣はけんし、ルイス・ガルベスをマナウスもどした[9]だいいちアクレ共和きょうわこく崩壊ほうかいし、アクレ地方ちほうは、ふたた無法むほう地帯ちたいもどった[18]

ボリビアぐんのアクレ遠征えんせい[編集へんしゅう]

イスマエル・モンテス

ボリビア政府せいふ蒸気じょうきせんれ、ブラジル国内こくない水路すいろ経由けいゆしてプエルト・アロンソでの混乱こんらんおさえるため、部隊ぶたいおく計画けいかくてた[18]実際じっさいには、小規模しょうきぼ部隊ぶたいベニがわ経由けいゆおくろうとしたが、ブラジルは1900ねん6がつ19にち水路すいろ閉鎖へいさし、ボリビアぐん船舶せんぱく進入しんにゅう阻止そしした[18]。ブラジル政府せいふは、アクレ地方ちほうへボリビアぐん派遣はけんしないように要請ようせいしたが、マヌエル・パンド政権せいけんは、アクレ地方ちほう部隊ぶたい物資ぶっしおく計画けいかくすすめた[18]。ブラジル国内こくない水路すいろ回避かいひするため、陸路りくろから3部隊ぶたいけて派兵はへいすることを決定けっていした[18]

1905ねん5がつにボリビアぐん調査ちょうさたいおくり、ベニがわ支流しりゅうマドレ・デ・ディオスがわ北側きたがわ並行へいこうしてながれるオーソンかわスペインばん沿いのメルセデスを拠点きょてんにすることをめた[18]。メルセデスをえらんだ理由りゆうは、ブラジル国内こくないはいることなく、船舶せんぱくによる輸送ゆそう可能かのうなこと、ゴム樹液じゅえき採取さいしゅしゃたちがひらいた小道こみちがアクレかわまでつながっていることだった[18]一方いっぽうで、メルセデスからプエルト・アロンソまでの陸路りくろ120kmを兵士へいしいちにんあたり25kgの食料しょくりょう装備そうびみずか背負せおってジャングルのなか行軍こうぐんしなければならなかった[18]

一番いちばんたいは、1900ねん8がつ8にち、メルセデスを出発しゅっぱつした[19]熱帯ねったい気候きこうとジャングルのどろなかある困難こんなん行軍こうぐんすえに、8がつ13にち、アブナがわまで進出しんしゅつ、8がつ22にちにはアクレがわ到達とうたつした[19]。プエルト・アロンソの情勢じょうせいがつかめなかったため、部隊ぶたい行動こうどう慎重しんちょうであった[19]。しかし、アクレ地方ちほう入植にゅうしょくしていたブラジルじんはボリビアぐん好意こういてきであり、現地げんちのブラジルじん商人しょうにんはボリビアの部隊ぶたいへの食料しょくりょうなどの供給きょうきゅう同意どういした[19]。9月22にち一番いちばんたい反乱はんらん勢力せいりょく交戦こうせんすることなく無血むけつで、プエルト・アロンソにはいった[19]

ペレス・ベラスコふく大統領だいとうりょう指揮しきしたばんたいは、9月26にちにメルセデスにはいった。また10がつ7にちに、イスマエル・モンテス英語えいごばんスペインばん大佐たいさ指揮しきするさんばんたいがメルセデスに到着とうちゃくした[19]。マヌエル・パンド大統領だいとうりょうはこの作戦さくせん最高さいこう指揮しきかんとしてイスマエル・モンテス大佐たいさ指名しめいしており、ペレス・ベラスコふく大統領だいとうりょうとのあいだ内部ないぶ分裂ぶんれつこることが懸念けねんされたが、二人ふたり良好りょうこう関係かんけいたもつことができた[19]

イスマエル・モンテスは、さんばんたい予備よびとしてメルセデスにのこし、ペレス・ベラスコふく大統領だいとうりょうともばんたいれてプエルト・アロンソにけて出発しゅっぱつ、10月14にちにアクレがわ進出しんしゅつした[19]一番いちばんたいがプエルト・アロンソにはいったという情報じょうほうたイスマエル・モンテスとペレス・ベラスコは、ばんたい待機たいきさせたうえで、小型こがたボートでアクレがわくだり、プエルト・アロンソへかった[20]

リオシノのたたか[編集へんしゅう]

10月24にち、イスマエル・モンテスとペレス・ベラスコは、プエルト・アロンソにはいったが、駐屯ちゅうとんしていたボリビアへい疲弊ひへいしており、脚気かっけ死亡しぼうしたものもおおかった[20]。またイスマエル・モンテスらは、現地げんち不穏ふおん情勢じょうせいかんじた[20]

ボリビアが輸出ゆしゅつぜいしたことに反発はんぱつしていたブラジルじん商人しょうにんたちは、アクレ地方ちほう入植にゅうしょくしていたゴム樹液じゅえき採取さいしゅしゃたちを扇動せんどうしていた[20]。「ボリビアじんはゴムりんのある土地とち没収ぼっしゅうするためにやってた」といううわさひろめた[20]。またアマゾナスしゅうしゅう知事ちじもアクレ地方ちほう反乱はんらん積極せっきょくてき支持しじした[20]。アマゾナスしゅうは、プエルト・アロンソに物資ぶっしはこ船舶せんぱく足止あしどめにした[20]すくなくとも1,500にん入植にゅうしょくしゃ国境こっきょうあつめ、プエルト・アロンソを襲撃しゅうげきする機会きかいをうかがっていた[20]

イスマエル・モンテスは、さんばんたいをメルセデスからアクレがわまで進出しんしゅつさせることをめ、メルセデスまでいちかえした[20]一方いっぽうで、ばんたいは、11月18にち、プエルト・アロンソにはいった[20]。しかし、反乱はんらんぐんがアクレがわ国境こっきょう付近ふきん封鎖ふうさしたため、プエルト・アロンソは食料しょくりょう不足ふそく見舞みまわれた[20]。プエルト・アロンソのボリビアへい食料しょくりょう配給はいきゅう半減はんげんされ、また病気びょうき蔓延まんえんへい病死びょうししゃえていた[20]

一方いっぽう、12月上旬じょうじゅんには、反乱はんらんぐん参加さんかしたかずは、2,000にんたっしていた[21]反乱はんらんぐん最大さいだいのグループはプエルト・アロンソを包囲ほういしていた[21]。また反乱はんらんぐん拠点きょてんは、プエルト・アロンソからアクレがわ上流じょうりゅうにさかのぼった、エンペレサ(西にし: Empresa現在げんざいリオブランコのアクレがわ対岸たいがん付近ふきん)にあった。

イスマエル・モンテスのひきいるさんばんたいは、エンペレサからアクレがわのやや上流じょうりゅう位置いちするリオシノ(Riosinho)に12月6にち到着とうちゃくした[21]。イスマエル・モンテスは、リオシノ周辺しゅうへん偵察ていさつ実施じっしさせたが、反乱はんらんぐんつからなかった[21]。しかし、イスマエル・モンテスは、周囲しゅういほりって陣地じんちつくらせ、防御ぼうぎょかためた[21]

1900ねん12月12にち午前ごぜん6反乱はんらんぐんはリオシノのボリビアぐん陣地じんち襲撃しゅうげきした[21]反乱はんらんぐんは、方向ほうこうから攻撃こうげきくわえたが、統率とうそつがとれておらず、支援しえん不十分ふじゅうぶんであった[21]。またボリビアぐん装備そうびしていた最新さいしんしきモーゼルライフル威力いりょく発揮はっきし、反乱はんらんぐん弱気よわきにさせた[21]。2あいだ銃撃じゅうげきせんすえ反乱はんらんぐんはジャングルのなかへと後退こうたいした[21]。しかし、ボリビアぐん銃撃じゅうげきせんには勝利しょうりしたが、反乱はんらんぐん包囲ほうい突破とっぱできなかった[21]

だいいちプエルト・アロンソのたたか[編集へんしゅう]

プエルト・アロンソのボリビアへい弱体じゃくたいしていたのはあきらかであったが、リオシノでの敗北はいぼく反乱はんらんぐん指導しどうしゃたちはプエルト・アロンソへの攻撃こうげきたいして消極しょうきょくてきであった[22]。しかし、国境こっきょう足止あしどめしていた船舶せんぱく船長せんちょうたちが、反乱はんらんぐんたいしてアクレ川上かわかみりゅうへの航行こうこう再開さいかいつよもとめたため[注釈ちゅうしゃく 2]反乱はんらんぐんはプエルト・アロンソのボリビアぐんを1900ねん12月24にち攻撃こうげきすることを決定けっていした[22]

1900ねん12月24にち反乱はんらんぐん夜明よあけととも攻撃こうげき開始かいしする予定よていであったが、濃霧のうむのためにおくれた[22]濃霧のうむは、反乱はんらんぐんがアクレかわわたりプエルト・アロンソに接近せっきんすることをかくした[22]午後ごご反乱はんらんぐん攻撃こうげき開始かいしした[22]。プエルト・アロンソのボリビアへいたたかえるものは100にん程度ていど圧倒的あっとうてき少数しょうすうであったが、ここでもモーゼルライフル威力いりょく発揮はっきし、奮戦ふんせんした[22]。14になり、反乱はんらんぐんはボリビア陣地じんち突破とっぱする寸前すんぜんまでんでいた[22]。しかし、蒸気じょうきせん汽笛きてきをボリビアぐん援軍えんぐん勘違かんちがいした反乱はんらんぐんはパニックにおちいり、ブラジル領内りょうない後退こうたいしてしまった[22]

反乱はんらんぐん降伏ごうぶく[編集へんしゅう]

反乱はんらんぐん攻撃こうげき撃退げきたいしたボリビアぐんであったが、補給ほきゅう困難こんなんなため反乱はんらんぐん鎮圧ちんあつするまでのちからはなかった[22]。リオシノにあったイスマエル・モンテスのひきいる部隊ぶたいもメルセデスへの一時いちじ撤退てったい検討けんとうしていた[22]一方いっぽうで、反乱はんらんぐん今後こんご方針ほうしんについて内部ないぶ分裂ぶんれつした状態じょうたいであった[22]

アクレがわ国境こっきょうあしどめされたまま、進展しんてんしない状況じょうきょうごうやした商船しょうせん船長せんちょうたちは、反乱はんらんぐん封鎖ふうさ突破とっぱすることをめた[23]。1900ねん12月29にち商船しょうせんだん白旗はっきかかげて、封鎖ふうさ突破とっぱし、プエルト・アロンソにはいり、ボリビアがわ取引とりひきおこなった[23]状況じょうきょう不利ふりて、反乱はんらんぐんけてゴム採取さいしゅもどものはじめた[23]。1901ねんはいり、反乱はんらんぐんは、正式せいしき降伏ごうぶくした[23]

だいアクレ紛争ふんそう[編集へんしゅう]

ボリビアン・シンジケート[編集へんしゅう]

反乱はんらん鎮圧ちんあつしたボリビア政府せいふだが、アクレ地方ちほう治安ちあん維持いじするためには、ぐん駐留ちゅうりゅうつづける必要ひつようがあった[24]すくなくとも1,000めい守備しゅびたいをアクレ地方ちほう常駐じょうちゅうさせる必要ひつようがあったが、必要ひつよう物資ぶっし輸送ゆそうには多額たがく費用ひよう必要ひつようであり、この負担ふたん重荷おもにであった[24]。マヌエル・パンド大統領だいとうりょう政権せいけんは、アクレ地方ちほうから産出さんしゅつされる天然てんねんゴムの収益しゅうえき国庫こっこはい方法ほうほう模索もさくした[24]

1901ねん7がつ11にち、ボリビア政府せいふは、アメリカの投資とうしグループとアクレ地方ちほうへの投資とうしについて「ボリビアン・シンジケート」とばれる契約けいやくわした[24]。ボリビアン・シンジケートは、アメリカの投資とうしグループにアクレ地方ちほう信託しんたくし、ここで産出さんしゅつされる天然てんねんゴムの輸出ゆしゅつ独占どくせんするのとえに、ボリビア政府せいふ利益りえき一部いちぶ内容ないようだった[24]

ブラジルでは、パラーしゅう商人しょうにんたちは、自分じぶんたちの利益りえきそこなわれないかぎり、ボリビア政府せいふによるアクレの統治とうち支持しじしていた[24]。その一方いっぽうで、パラーしゅう商人しょうにん排除はいじょしたいとかんがえていたアマゾナスしゅう商人しょうにんたちは、アクレのはん政府せいふ勢力せいりょく支持しじしていた[24]したがって、ブラジル政府せいふはパラーしゅうとアマゾナスしゅうのそれぞれの要求ようきゅうのバランスをとりながら、ボリビア政府せいふのアクレ地方ちほう統治とうち支持しじしていた[25]。しかし、ボリビア政府せいふがアメリカ投資とうしだん契約けいやくすると、パラーしゅう商人しょうにんたちはこれにつよ反発はんぱつ、ブラジル政府せいふもアクレ地方ちほう反乱はんらん勢力せいりょくへの理解りかい表明ひょうめいし、ボリビアに契約けいやく撤回てっかいせまった[25]

このころのプエルト・アロンソは、1900ねん12月の反乱はんらん鎮圧ちんあつ比較的ひかくてき平穏へいおん状態じょうたい維持いじしていた[25]。ボリビアじん軍人ぐんじんは、ブラジルじん入植にゅうしょくしゃたちを信頼しんらいすることがアクレ地方ちほう統治とうちする唯一ゆいいつ手段しゅだんであることをさとっていた[25]。しかし、マヌエル・パンド大統領だいとうりょうは、国内こくない慎重しんちょう意見いけん、ブラジルの反対はんたいおさえて、1901ねん12月21にち、アメリカ投資とうしだんとの契約けいやくについての議会ぎかい承認しょうにん[25]

マヌエル・パンド大統領だいとうりょうは、文官ぶんかんのリノ・ロメロ(西にし: Lino Romero)をアクレ地方ちほう派遣はけんした[25]。リノ・ロメロは、法律ほうりつ書記官しょきかんれて、1902ねん4がつにプエルト・アロンソに到着とうちゃくした[25]

リノ・ロメロは、すぐにあたらしい税金ぜいきん法令ほうれいし、アクレがわ沿いのブラジルじん入植にゅうしょくしゃたちに徴税ちょうぜいかん派遣はけんした[26]。さらに、リノ・ロメロは、半年はんとし以内いないにゴムりん土地とち登録とうろくおうじるようアクレの入植にゅうしょくしゃめいじた[26]

だいアクレ共和きょうわこく独立どくりつ宣言せんげん[編集へんしゅう]

プラシド・デ・カストロ

リノ・ロメロの統治とうち政策せいさくにより、アクレ地方ちほうのブラジルじん入植にゅうしょくしゃたちの不満ふまんたかまった[26]。このころ、ブラジルじん入植にゅうしょくしゃなかホセ・プラシド・デ・カストロポルトガルばんスペインばん頭角とうかくをあらわしていた[26]。プラシド・デ・カストロは、1900ねん反乱はんらん失敗しっぱいした原因げんいん規律きりつ指導しどうしゃ欠如けつじょ分析ぶんせきし、これをおぎなうためブラジルじんもと将校しょうこうあつめた[26]。またひそかに武器ぶき弾薬だんやくをアクレ地方ちほうはこびこんでいた[26]

1902ねん7がつ反乱はんらんぐん作戦さくせん会議かいぎひらき、ここでプラシド・デ・カストロは、プエルト・アロンソへの奇襲きしゅう攻撃こうげき主張しゅちょうした[26]。しかし、反乱はんらんぐん幹部かんぶは1900ねん失敗しっぱい再現さいげんおそれ、これに同意どういせず、ボリビアじん警察官けいさつかんすうめい駐在ちゅうざいしていたシャプリ英語えいごばんポルトガルばん蜂起ほうきすることを提案ていあんした[26]。プラシド・デ・カストロは、これに同意どういした[26]

1902ねん8がつ6にち早朝そうちょう、プラシド・デ・カストロはすうじゅうめい同志どうしともに、アクレがわ沿いのシャプリにあったボリビア政府せいふ拠点きょてん襲撃しゅうげきした[27]奇襲きしゅう成功せいこうし、拘束こうそくしたボリビアの役人やくにんたちをブラジルに強制きょうせい送還そうかんした[27]よく8がつ7にち、プラシド・デ・カストロは、アクレの独立どくりつ宣言せんげんした[27][注釈ちゅうしゃく 3]

ボルタ・ダ・エンペレサのたたか[編集へんしゅう]

プラシド・デ・カストロは、ぐにでもプエルト・アロンソにたいして攻撃こうげきくわえる計画けいかくであったが、ボリビアぐん部隊ぶたいがオーソンかわにそって行軍こうぐんしているという情報じょうほうて、これを撃退げきたいする必要ひつようせまられた[27]。プラシド・デ・カストロは、ボルタ・ダ・エンペレサ(西にし: Volta da Empresa現在げんざいリオブランコ)でボリビアぐんちぶせすることにした[27]

プエルト・アロンソの駐留ちゅうりゅう交代こうたいするためにやく100めい兵士へいしれていたのはロセンド・ロハス大佐たいさ(Rosendo Rojas)であった[27]。ロセンド・ロハスは、反乱はんらん情報じょうほうるとぐに行動こうどう開始かいしした[27]。ロセンド・ロハスの部隊ぶたい夜間やかん行軍こうぐんおこない、ボルタ・ダ・エンペレサへかった[27]。1902ねん9がつ18にちあさちぶせしていた反乱はんらんぐんすきをついて攻撃こうげきくわえ、3あいだには反乱はんらんぐん遁走とんそうはじめた[27]

奇襲きしゅう成功せいこうしたボリビアぐんであったが、7めいのボリビアへい死亡しぼうし、弾薬だんやく大量たいりょう消費しょうひしていた[28]。ロセンド・ロハスは、ボルタ・ダ・エンペレサに陣地じんちきずき、プエルト・アロンソとリベラルタに補給ほきゅう要請ようせいする手紙てがみおくった[28]

プラシド・デ・カストロは、反乱はんらんぐんなおし、500めい以上いじょう兵士へいしでロセンド・ロハスのボリビアぐん陣地じんち包囲ほういした[28]。1902ねん10がつ5にち、プラシド・デ・カストロは、攻撃こうげきめいじた[28]。ボリビアぐんもよく応戦おうせんし、この攻撃こうげきでは決着けっちゃくがつかなかった[28]。しかし、ボリビアがわ弾薬だんやく使つかたし、食料しょくりょうなども枯渇こかつしていた[28]。1902ねん10がつ15にち、ロセンド・ロハス大佐たいさは、降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめいした[29]

プエルト・バイーアのたたか[編集へんしゅう]

プエルト・バイーア(西にし: Puerto Bahía現在げんざいコビハ)でも、プラシド・デ・カストロのに呼応こおうしてアクレ独立どくりつもとめた反乱はんらんきた[29]。プエルト・バイーア周辺しゅうへんは、ゴムでざいしたボリビアじん豪商ごうしょうであったニコラス・スアレス・カリャウ英語えいごばんスペインばんが、事実じじつじょう支配しはいしていた[29]。ニコラス・スアレスは独自どくじにゴムえき採取さいしゅ労働ろうどうしゃたちをあつめて私設しせつ部隊ぶたい組織そしきし、10月11にち、プエルト・バイーアでの反乱はんらん鎮圧ちんあつした[29]

プラシド・デ・カストロは、ニコラス・スアレスの私設しせつ部隊ぶたいがボリビアぐん合流ごうりゅうすることをおそれた[29]。プラシド・デ・カストロひきいる反乱はんらんぐんは、11月、みなみすすみアブナがわでボリビアぐん部隊ぶたい遭遇そうぐうした[29]。ボリビアぐん部隊ぶたいは50めい程度ていどで、ロセンド・ロハスの部隊ぶたい弾薬だんやく補給ほきゅうすることが目的もくてきであった[29]。このボリビアぐん部隊ぶたいは、反乱はんらんぐんると退却たいきゃくした[29]。プラシド・デ・カストロは、追撃ついげき実施じっししようとするが、反乱はんらんぐん兵士へいしたちはこれ以上いじょう遠征えんせいつよ反対はんたいした[29]

一方いっぽうで、ニコラス・スアレスはシャプリの反乱はんらんぐん攻撃こうげきしようとかんがえていたが[29]、スアレスの私設しせつへい遠征えんせいしてまでたたかうことには消極しょうきょくてきであった[29]

だいプエルト・アロンソのたたか[編集へんしゅう]

1903ねん1がつ8にち、プラシド・デ・カストロひきいる反乱はんらんぐんは、プエルト・アロンソを包囲ほういした[30]。プラシド・デ・カストロは、攻撃こうげき開始かいしまで1週間しゅうかん猶予ゆうよあたえ、降伏ごうぶくうながしたが、リノ・ロメロはこれを拒否きょひした[30]

1がつ15にちあさから反乱はんらんぐん攻撃こうげき開始かいしした[30]じゅう性能せいのうおと反乱はんらんぐんは、ボリビアぐん弾薬だんやく消費しょうひさせるため、銃撃じゅうげきせんつづけた[30]反乱はんらんぐん前線ぜんせんへい交代こうたいせいにし、昼夜ちゅうやわずボリビアぐん陣地じんち射撃しゃげきさせた[31]

一方いっぽうで、ボリビアぐんは、昼夜ちゅうやわない銃撃じゅうげきせん長時間ちょうじかん緊張きんちょう状態じょうたいかれ、食料しょくりょう弾薬だんやく減少げんしょうし、疲労ひろう困憊こんぱい状況じょうきょうおちいった[30]銃撃じゅうげきせんは、1がつ23にちまでつづき、リノ・ロメロは、援軍えんぐんるまでプエルト・アロンソを維持いじすることは不可能ふかのうであるとかんがえるようになった[31]

1903ねん1がつ24にち、リノ・ロメロは降伏ごうぶく合意ごういした[31]

講和こうわ[編集へんしゅう]

ブラジル政府せいふ介入かいにゅう[編集へんしゅう]

ブラジルの外務がいむ大臣だいじんで、ボリビアからアクレ地方ちほう割譲かつじょうけた、リオ・ブランコ男爵だんしゃく

1902ねん11月、ブラジルにしん政権せいけん誕生たんじょうし、リオ・ブランコ男爵だんしゃく称号しょうごうホセ・マリア・ダ・シルバ・パラノス・ジュニオール英語えいごばんポルトガルばん以後いご、「リオ・ブランコ男爵だんしゃく」と呼称こしょう)が、外務がいむ大臣だいじん就任しゅうにんした。リオ・ブランコ男爵だんしゃくは、アクレ紛争ふんそう恒久こうきゅうてき解決かいけつ目指めざした[31]。リオ・ブランコ男爵だんしゃくは、12月26にち、ボリビア政府せいふたいして「アクレ地方ちほうのブラジルへの併合へいごうと、代償だいしょうとして十分じゅうぶん対価たいか支払しはらうこと」を提案ていあんした[31]

一方いっぽう、ボリビアのマヌエル・パンド大統領だいとうりょうは、みずか軍隊ぐんたいひきいてプエルト・アロンソの救出きゅうしゅつかうことを決意けついした[31]1903ねん1がつ26にちすうひゃくへいれてアクレ地方ちほうけて出発しゅっぱつした[31]

リオ・ブランコ男爵だんしゃくは、1903ねん2がつ6にち、ボリビア政府せいふたいして、再度さいどアクレへの遠征えんせい中止ちゅうしと、れられない場合ばあいには交戦こうせんさないとする最後さいご通牒つうちょうおこなった[32]。これは外交がいこうじょうきではなく、実際じっさいに、ブラジルはボリビアとの国境こっきょうせんすうせんへい移動いどうさせていた[32]

マヌエル・パンド大統領だいとうりょうは、プエルト・アロンソのボリビアぐんが1がつ24にち降伏ごうぶくしたこと、およびブラジルが最後さいご通牒つうちょうおくってきたことをり、ラ・パスかえした[32]陸軍りくぐん大臣だいじんしょくにあったイスマエル・モンテスを司令しれいかんとしてふたた遠征えんせいぐんおく計画けいかくもあったが、ブラジルとの戦争せんそう発展はってんすることをおそれ、最終さいしゅうてき遠征えんせい中止ちゅうしした[32]。1903ねん3がつ21にち、マヌエル・パンド大統領だいとうりょうは、正式せいしきにブラジルの提案ていあんれた[32]

国境こっきょうあん[編集へんしゅう]

アクレ共和きょうわこくとして独立どくりつ宣言せんげんした反乱はんらんぐんは、アクレ地方ちほう南側みなみがわ境界きょうかいせんを、マドレ・デ・ディオスがわ沿って主張しゅちょうしていた[33]。しかし、アクレ川上かわかみりゅうとアブナがわつよ影響えいきょうりょくゆうしていたゴム商人しょうにんのニコラス・スアレスの暗躍あんやくにより、マドレ・デ・ディオスがわより北側きたがわのアクレがわ上流じょうりゅう部分ぶぶんとアブナがわ沿った国境こっきょうせんとすることでブラジル政府せいふ譲歩じょうほした[33]。この合意ごうい反乱はんらんぐん不満ふまんった[33]

ペトロポリス条約じょうやく[編集へんしゅう]

1903ねん11月17にちに、アクレ紛争ふんそう原因げんいんとなったアクレ地方ちほう権利けんり関係かんけい合意ごういした「ペトロポリス条約じょうやく」が、ブラジルとボリビアのあいだ署名しょめいされた。

この条約じょうやくで、ボリビアはアブナがわ北側きたがわ、191,000平方へいほうキロメートル(現在げんざいアクレしゅう)を、ブラジルに割譲かつじょうした[33][34]一方いっぽう、ブラジルは、ボリビアに200まんえいボンドの支払しはらい、マモレがわとアブナがわかこまれていたブラジルりょうやく3,200平方へいほうキロメートルをボリビアに譲渡じょうと[33]マデイラがわみなとポルト・ヴェーリョからボリビア国境こっきょうまでの鉄道てつどうマデイラ・マモレ鉄道てつどう)をブラジルがわ建設けんせつすることを約束やくそくした[33]

紛争ふんそう状況じょうきょう[編集へんしゅう]

ブラジルの状況じょうきょう[編集へんしゅう]

リオブランコにあるアクレ革命かくめい100周年しゅうねん記念きねん

ペトロポリス条約じょうやくによってブラジルとボリビアのあいだ和解わかいをみた。しかし内政ないせいめんでは、ブラジル国内こくないでのアクレ地方ちほうあつかいにかんしてパラーしゅうとアマゾナスしゅう対立たいりつのこったままだった[35]。アマゾナスしゅう有力ゆうりょくしゃたちはアクレ地方ちほうをアマゾナスしゅう併合へいごうすることをもとめた[36]たいするパラーしゅうは、アクレ地方ちほう独立どくりつしたしゅうとして連邦れんぽう政府せいふくことをもとめた[36]。このため、アクレ地方ちほうからゴムを搬出はんしゅつするさい、パラーしゅうのゴム商人しょうにんは、アマゾナスしゅう管理かんりするマナウスの港湾こうわん当局とうきょくからいやがらせをけた[36]

アクレ地方ちほう入植にゅうしょくしゃたちも、連邦れんぽうでの自治じちのぞんだ[36]。またブラジル連邦れんぽう政府せいふは、ボリビアに支払しはら賠償金ばいしょうきん鉄道てつどう建設けんせつ費用ひよう負担ふたん問題もんだいであった[36]。この財源ざいげんとしてアクレ地方ちほうのゴム輸出ゆしゅつからの税収ぜいしゅう目当めあてにしており、ブラジル連邦れんぽう政府せいふはパラーしゅう主張しゅちょう最終さいしゅうてき同意どういした[36]結局けっきょく、アクレ地方ちほうは、連邦れんぽうかれ、1904ねん2がつ25にち、アクレじゅんしゅうとなった。

アクレ地方ちほうがブラジルに併合へいごうされたことは、地理ちりてきはなれたベレンにおおきな恩恵おんけいあたえた[36]。ベレンからブラジル国外こくがい輸出ゆしゅつされた天然てんねんゴムは、1902ねんやく10,000トンであったが[37]、1905ねんにはやく15,000トンと大幅おおはば増加ぞうかした[37]。この増加ぞうかぶんは、アクレから搬出はんしゅつされる天然てんねんゴムがベレンを経由けいゆしたものであった[37]。アクレ併合へいごう、マナウスも発展はってんげたが、ベレンはアマゾン流域りゅういきでの商業しょうぎょう優位ゆういせいゆずることはなかった[38]

外交がいこうめんでは、ブラジル外務がいむ大臣だいじんのリオ・ブランコ男爵だんしゃくは、エクアドルペルーとの国境こっきょうせんについても軍事ぐんじりょく背景はいけいにブラジルの主張しゅちょうする国境こっきょうせん確定かくていさせていった。1909ねん、ペルーとのあいだ条約じょうやくむすび、ジャバリがわ源流げんりゅうからアマゾン川あまぞんがわ合流ごうりゅうてんまでを国境こっきょうせんとして確定かくていした[39]

ボリビアの状況じょうきょう[編集へんしゅう]

ボリビア政府せいふは、ペトロポリス条約じょうやくつづき、太平洋戦争たいへいようせんそう正式せいしき講和こうわ条約じょうやくであるチリ・ボリビア平和へいわ友好ゆうこう条約じょうやく1904ねんチリとのあいだ締結ていけつした。この条約じょうやくで、ボリビアは太平洋たいへいよう沿岸えんがん領土りょうど放棄ほうきしたわりに、チリから30まんいぎりすポンドの支払しはらいと、ラ・パスとチリの太平洋たいへいよう沿いのアリカとのあいだにチリが鉄道てつどう建設けんせつする約束やくそくけた[40]

このように、周辺しゅうへんこくとの領土りょうど問題もんだいおおきな譲歩じょうほおこなった[16]。その見返みかえりとして、賠償金ばいしょうきんとボリビアにつながる鉄道てつどう建設けんせつした。これらの賠償金ばいしょうきんを、長年ながねん懸案けんあん事項じこうであったボリビア国内こくない鉄道てつどうもう建設けんせつ都市とし近代きんだいへの投資とうしてた[16]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ウィンチェスターライフルがアクレでの唯一ゆいいつほうだ。」という逸話いつわ存在そんざいした[9]
  2. ^ アクレがわ物資ぶっし食料しょくりょうはこふねは、はこんだ物資ぶっし天然てんねんゴムを交換こうかんしてかせいでいた。このため船長せんちょうたちにとって、国境こっきょうあしどめされることは死活しかつ問題もんだいであった。
  3. ^ ゴム樹液じゅえき採取さいしゅしゃのトリスタン・ノルベルト(Gentil Tristan Norberto)が1900ねん10がつにアクレの独立どくりつ宣言せんげんをしており、これをだいかぞえる場合ばあいもある[20]。しかしトリスタン・ノルベルトは仲間なかま反感はんかんい、拘束こうそくされ、プエルト・アロンソでイスマエル・モンテスのひきいるボリビアぐんわたされた[20]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j Wars of Latin America (2006, pp. 52)
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  3. ^ a b 国本こくほん概説がいせつラテンアメリカ (2001, pp. 103)
  4. ^ 国本こくほん概説がいせつラテンアメリカ (2001, pp. 104)
  5. ^ 天然てんねんゴムの歴史れきし (2013, pp. 94)
  6. ^ 中武なかたけ (1998, pp. 257)
  7. ^ a b 国本こくほん・ボリビアの「日本人にっぽんじんむら」 (1989, pp. 21)
  8. ^ a b c Latin American Peasants (2003, pp. 87)
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  10. ^ The Amazon rubber boom (1983, pp. 192)
  11. ^ The Amazon rubber boom (1983, pp. 193)
  12. ^ 天然てんねんゴムの歴史れきし (2013, pp. 99)
  13. ^ a b The Amazon rubber boom (1984, pp. 193)
  14. ^ a b The Amazon rubber boom (1983, pp. 195)
  15. ^ ボリビアの歴史れきし (2011, pp. 232)
  16. ^ a b c ボリビアの歴史れきし (2011, pp. 237)
  17. ^ a b The Amazon rubber boom (1983, pp. 205)
  18. ^ a b c d e f g h Wars of Latin America (2006, pp. 54)
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  20. ^ a b c d e f g h i j k l m n Wars of Latin America (2006, pp. 57)
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  28. ^ a b c d e f Wars of Latin America (2006, pp. 65)
  29. ^ a b c d e f g h i j k Wars of Latin America (2006, pp. 66)
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  31. ^ a b c d e f g Wars of Latin America (2006, pp. 68)
  32. ^ a b c d e Wars of Latin America (2013, pp. 69)
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  34. ^ ボリビアの歴史れきし (2011, pp. 257)
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  40. ^ ボリビアの歴史れきし (2011, pp. 238)

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Rene De La Pedraja (2006). Wars of Latin America, 1899-1941. ISBN 978-078642579-2 
  • Barbara Weinstein (1983). The Amazon rubber boom, 1850-1920. Stanford University Press. OCLC 421913192 
  • Tom Brass (2003). Latin American Peasants. Routledge. ISBN 978-0714653846 
  • 国本くにもと伊代いよ概説がいせつラテンアメリカそうしゃ、2001ねん2がつISBN 978-479480511-9 
  • 国本くにもと伊代いよ『ボリビアの「日本人にっぽんじんむら」 サンタクルスしゅうサンフアン移住いじゅう研究けんきゅう中央大学ちゅうおうだいがく出版しゅっぱん、1989ねんISBN 4-805761245 
  • ハーバード・S・クライン ちょ星野ほしの靖子やすこ やく『ボリビアの歴史れきしそうしゃ〈ケンブリッジばん世界せかい各国かっこく〉、2011ねんISBN 978-4-7988-0208-4 
  • こうじや信三しんぞう天然てんねんゴムの歴史れきし京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい、2013ねんISBN 978-487698860-0