アクレ紛争 ふんそう (西 にし : Guerra del Acre )またはアクレ革命 かくめい (伯 はく : Revolução Acriana )は、1899年 ねん から1903年 ねん にかけて、当時 とうじ ボリビア の領土 りょうど であったアクレ地方 ちほう で起 お きた紛争 ふんそう のことである。19世紀 せいき 後半 こうはん 、世界 せかい 的 てき なゴム需要 じゅよう の高 たか まりにより、パラゴムノキ が自生 じせい していたアクレ地方 ちほう には、一攫千金 いっかくせんきん を狙 ねら ってブラジル人 じん の入植 にゅうしょく 者 しゃ が、1898年 ねん まで、少 すく なくとも80,000人 にん がアクレ地方 ちほう に進出 しんしゅつ した[1] 。この状況 じょうきょう に、ボリビアは、税 ぜい を課 か すなどの方針 ほうしん をとったため、ブラジル人 じん の入植 にゅうしょく 者 しゃ が独立 どくりつ を主張 しゅちょう して反乱 はんらん を起 お こし、アクレ共和 きょうわ 国 こく として独立 どくりつ を宣言 せんげん した。反乱 はんらん を鎮圧 ちんあつ できないボリビアに対 たい して、ブラジル が干渉 かんしょう し、アクレ地方 ちほう をブラジルに編入 へんにゅう することになった。
アマゾン地方 ちほう の国境 こっきょう 線 せん 問題 もんだい [ 編集 へんしゅう ]
17世紀 せいき 、ブラジルでは、大西洋 たいせいよう 沿岸 えんがん 部 ぶ から内陸 ないりく へ進出 しんしゅつ する動 うご きが現 あらわ れた[2] 。バンデイランテス と呼 よ ばれる武装 ぶそう 集団 しゅうだん が、インディオ 狩 か りと金 きむ 鉱脈 こうみゃく 探索 たんさく を目的 もくてき としてアマゾンに分 わ け入 はい った[2] 。またイエズス会 かい もキリスト教 きりすときょう の布教 ふきょう とインディオ保護 ほご を目的 もくてき としてアマゾンに入 はい った[2] 。
18世紀 せいき 、ブラジル側 がわ からのアマゾンの開発 かいはつ が進 すす むと、スペイン とポルトガル の間 あいだ で、ラテンアメリカでの植民 しょくみん 地 ち の境界 きょうかい 線 せん を巡 めぐ る争 あらそ いが生 しょう じた[3] 。両国 りょうこく 間 あいだ の争 あらそ いは、1750年 ねん のマドリッド条約 じょうやく (スペイン語 ご 版 ばん ) 、1777年 ねん に結 むす ばれた第 だい 一 いち 次 じ サン・イルデフォンソ条約 じょうやく で一応 いちおう の解決 かいけつ をみた[3] 。これらの条約 じょうやく により、未開 みかい の地 ち であったアマゾン領域 りょういき の国境 こっきょう 線 せん が定 さだ められ、ブラジルのアマゾン川 あまぞんがわ 流域 りゅういき の領土 りょうど が拡大 かくだい した[4] 。
19世紀 せいき に入 はい り、ラテンアメリカのスペイン植民 しょくみん 地 ち が次々 つぎつぎ に独立 どくりつ した。しかし、独立 どくりつ した各国 かっこく にはブラジルに対抗 たいこう できる国力 こくりょく が不足 ふそく していた[1] 。1867年 ねん 、ブラジルとボリビアの間 あいだ に、アヤクチョ条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん 、スペイン語 ご 版 ばん ) が締結 ていけつ された。この条約 じょうやく でボリビア政府 せいふ は、マデイラ川 がわ 、アブナ川 がわ の下流 かりゅう の地域 ちいき を放棄 ほうき した[1] 。ボリビアの愛国 あいこく 者 しゃ たちは、この政府 せいふ の決定 けってい を厳 きび しく批判 ひはん したが、これらの地域 ちいき を統治 とうち するには多額 たがく の費用 ひよう がかかり、現実 げんじつ 的 てき な選択 せんたく ではなかった[1] 。
ゴム景気 けいき 当時 とうじ の豪華 ごうか さの象徴 しょうちょう であるマナウス のアマゾナス劇場 げきじょう (伯 はく : Teatro Amazonas )
19世紀 せいき 末 まつ に、自転車 じてんしゃ や自動車 じどうしゃ の普及 ふきゅう によりタイヤなどの原料 げんりょう として天然 てんねん ゴムの需要 じゅよう が増大 ぞうだい した[5] [6] 。ベニ川 がわ 、マドレ・デ・ディオス川 がわ 、アクレ川 がわ などアマゾン流域 りゅういき 上流 じょうりゅう の低地 ていち 帯 たい には、パラゴムノキ が自生 じせい していた[7] 。このためアマゾン地域 ちいき には、「ゴム景気 けいき 」が起 お こり、多 おお くの商人 しょうにん がベレン 、マナウス 、ポルト・ヴェーリョにラテックス を買 か い付 つ けるために店舗 てんぽ を構 かま えた。また多 おお くの労働 ろうどう 者 しゃ がラテックス採集 さいしゅう 労働 ろうどう 者 しゃ としてアマゾン地域 ちいき に分 わ け入 はい った。
ボリビア人 じん では、ニコラス・スアレス・カリャウ (英語 えいご 版 ばん 、スペイン語 ご 版 ばん ) が天然 てんねん ゴムで巨富 きょふ を築 きず いていた[8] 。ニコラス・スアレスの経営 けいえい するスアレス商会 しょうかい は、アマゾン地方 ちほう に18万 まん 平方 へいほう キロを所有 しょゆう し、ボリビア領 りょう で産出 さんしゅつ される天然 てんねん ゴムの60%を掌握 しょうあく していた[8] 。ニコラス・スアレスは、「天然 てんねん ゴム世界 せかい のロックフェラー 」と呼 よ ばれていた[8] 。
アマゾンへの入植 にゅうしょく 状 じょう 況 きょう [ 編集 へんしゅう ]
ボリビアでは、サンタ・クルス地方 ちほう からゴムの自生 じせい 地域 ちいき に、1860年 ねん から1910年 ねん の半 はん 世紀 せいき の間 あいだ に約 やく 80,000人 にん が移住 いじゅう したとされる[7] 。また、1898年 ねん まで、少 すく なくとも80,000人 にん のブラジル人 じん がアクレ地方 ちほう に無断 むだん で入植 にゅうしょく した[1] 。その多 おお くは、ゴムの採取 さいしゅ で一攫千金 いっかくせんきん を狙 ねら う者 もの 、ならず者 もの 、犯罪 はんざい を犯 おか して逃 に げて来 き た者 もの 達 たち だった[1] 。
1879年 ねん 、アクレ川 がわ で蒸気 じょうき 船 せん が定期 ていき 航行 こうこう を始 はじ め、入植 にゅうしょく 者 しゃ たちの食料 しょくりょう や産出 さんしゅつ した天然 てんねん ゴムを輸送 ゆそう した[1] 。しかし、マデイラ川 がわ にはところどころに航行 こうこう 困難 こんなん な急流 きゅうりゅう があり、これが自然 しぜん の防壁 ぼうへき になっていた[1] 。ブラジル側 がわ からマデイラ川 がわ の支流 しりゅう であるマモレ川 がわ 、ベニ川 がわ 、マドレ・デ・ディオス川 がわ への船舶 せんぱく 航行 こうこう は困難 こんなん であり、同様 どうよう に、ボリビア側 がわ からアブナ川 がわ の流域 りゅういき に船舶 せんぱく で向 む かうことは困難 こんなん であった[1] 。アクレ地方 ちほう には多 おお くのブラジル人 じん が入 はい り込 こ んだが、マデイラ川 がわ の上流 じょうりゅう とのその支流 しりゅう にブラジル人 じん が入植 にゅうしょく することを防 ふせ いだ[1] 。一方 いっぽう で、アクレ地方 ちほう にはボリビア政府 せいふ の統治 とうち が及 およ ばなかった[9] 。アマゾンがゴム景気 けいき で活況 かっきょう を呈 てい するまで、ボリビア政府 せいふ は、アクレ地方 ちほう に、役人 やくにん の派遣 はけん や、現地 げんち 調査 ちょうさ もほとんど行 おこな っていなかった[9] 。このため、アクレ地方 ちほう は無法 むほう 地帯 ちたい になっていた[9] [注釈 ちゅうしゃく 1] 。
ブラジルの状況 じょうきょう [ 編集 へんしゅう ]
1889年 ねん の共和 きょうわ 制 せい 革命 かくめい により、ブラジルは帝政 ていせい から共和 きょうわ 制 せい に移行 いこう した。共和 きょうわ 制 せい で実権 じっけん を握 にぎ ったのは、ブラジル経済 けいざい を牽引 けんいん していた大 だい 農園 のうえん 主 ぬし たちであった。コーヒー生産 せいさん の中心 ちゅうしん であったサンパウロ州 しゅう と、畜産 ちくさん ・酪農 らくのう の生産 せいさん 地 ち であったミナスジェライス州 しゅう から交互 こうご に連邦 れんぽう の大統領 だいとうりょう を送 おく り込 こ んだ(カフェ・コン・レイテ体制 たいせい )。このような状況 じょうきょう から連邦 れんぽう 政府 せいふ は、各州 かくしゅう の内政 ないせい にあまり干渉 かんしょう せず、各州 かくしゅう の利益 りえき の調整 ちょうせい の場 ば に近 ちか いものであった。
パラー州 しゅう の州都 しゅうと 、ベレン は、17世紀 せいき に建設 けんせつ された大西洋 たいせいよう に面 めん する港町 みなとちょう であった。ベレンは、砂糖 さとう 、綿花 めんか 、コーヒー と主要 しゅよう な貿易 ぼうえき 品 ひん を変 か えながら、ブラジルで最 もっと も栄 さか えた港 みなと の一 ひと つとなっていた[10] 。他方 たほう 、アマゾナス州 しゅう のマナウス は、大西洋 たいせいよう から内陸 ないりく に1500km、アマゾン川 あまぞんがわ 本流 ほんりゅう とネグロ川 がわ の合流 ごうりゅう 地点 ちてん の北 きた に位置 いち する。アマゾン川 あまぞんがわ を利用 りよう した物流 ぶつりゅう での物資 ぶっし の集積 しゅうせき 地 ち として、19世紀 せいき 中頃 なかごろ に建設 けんせつ された[11] 。
1876年 ねん 、イギリスのインマン汽船 きせん 会社 かいしゃ は、マナウスとイギリスのリバプール の間 あいだ に直接 ちょくせつ 航路 こうろ を開設 かいせつ した[12] 。1880年 ねん 、ベレンは7,793トンの天然 てんねん ゴムを輸出 ゆしゅつ したが、マナウスは374トンを送 おく り出 だ しただけであった[13] 。これはベレンには古 ふる くからの港湾 こうわん 都市 とし で、銀行 ぎんこう 、保険 ほけん 会社 かいしゃ 、法律 ほうりつ 事務所 じむしょ などを備 そな えていたからでもあった[13] 。アマゾナス州 しゅう の有力 ゆうりょく 者 しゃ たちは、アマゾンでのゴム貿易 ぼうえき の優位 ゆうい 性 せい をベレンから奪 うば うことを画策 かくさく した[14] 。1878年 ねん 、マナウスから直接 ちょくせつ 国外 こくがい に天然 てんねん ゴムを輸出 ゆしゅつ する場合 ばあい は、低 ひく い税率 ぜいりつ を適用 てきよう することを定 さだ めた[14] 。
ボリビアの状況 じょうきょう [ 編集 へんしゅう ]
ボリビアでは、1898年 ねん の末 すえ からボリビア連邦 れんぽう 革命 かくめい (スペイン語 ご 版 ばん ) が起 お き、武力 ぶりょく 闘争 とうそう の末 すえ に保守党 ほしゅとう (英語 えいご 版 ばん ) から自由党 じゆうとう (英語 えいご 版 ばん ) に政権 せいけん が移 うつ った[15] 。1899年 ねん 、ホセ・マヌエル・パンド (英語 えいご 版 ばん 、スペイン語 ご 版 ばん ) が大統領 だいとうりょう の座 ざ につくと、影響 えいきょう 力 りょく を強 つよ めていた錫 すず 鉱山 こうざん を所有 しょゆう する資産 しさん 家 か や都市 とし 部 ぶ の中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう の支持 しじ を受 う け、中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 的 てき な政府 せいふ を目指 めざ した[16] 。
第 だい 一 いち 次 じ アクレ紛争 ふんそう [ 編集 へんしゅう ]
プエルト・アロンソの建設 けんせつ [ 編集 へんしゅう ]
アマゾンのゴム景気 けいき の状況 じょうきょう に目 め をつけたボリビア政府 せいふ は、アクレ地方 ちほう で産出 さんしゅつ されるゴムに課税 かぜい することを目論 もくろ んだ[9] 。1899年 ねん 1月 がつ 2日 にち 、アクレ川 がわ 沿 ぞ いのブラジル国境 こっきょう そばに町 まち を建設 けんせつ し、プエルト・アロンソ(現在 げんざい のポルト・アクレ (ポルトガル語 ご 版 ばん ) )と命名 めいめい した[9] 。そして、このプエルト・アロンソに税関 ぜいかん を置 お き、ブラジルへと運 はこ ばれる天然 てんねん ゴムに輸出 ゆしゅつ 税 ぜい を課 か した[9] 。
第 だい 一 いち 次 じ アクレ共和 きょうわ 国 こく の独立 どくりつ 宣言 せんげん [ 編集 へんしゅう ]
アクレ地方 ちほう に入植 にゅうしょく していたブラジル人 じん 達 たち は、ボリビア政府 せいふ が課 か した天然 てんねん ゴムの輸出 ゆしゅつ 税 ぜい に不満 ふまん を持 も った[9] 。またアクレ川 がわ の下流 かりゅう にあたるアマゾナス州 しゅう も課税 かぜい に反発 はんぱつ した[9] 。アマゾナス州 しゅう の州 しゅう 知事 ちじ であったホセ・カルドソ・ラマル・ジュニオール (ポルトガル語 ご 版 ばん ) は、スペイン人 じん のルイス・ガルベス・ロドリゲス (スペイン語 ご 版 ばん ) を雇 やと い、武器 ぶき などを与 あた えて実力 じつりょく 排除 はいじょ を企 くわだ てた[9] 。
ルイス・ガルベスは、ボリビア人 じん の役人 やくにん に成 な りすましてプエルト・アロンソに入 はい り込 こ んだ[9] 。状況 じょうきょう を調査 ちょうさ したところ、現地 げんち のブラジル人 じん の不満 ふまん やボリビアの役人 やくにん や警官 けいかん が少 しょう 人数 にんずう であることを把握 はあく し、慎重 しんちょう に反乱 はんらん 計画 けいかく を立案 りつあん した[9] 。
1899年 ねん 7月 がつ 14日 にち 、ルイス・ガルベスは行動 こうどう を起 お こし、アクレ共和 きょうわ 国 こく の独立 どくりつ を宣言 せんげん 、自 みずか ら初代 しょだい 大統領 だいとうりょう を名乗 なの った[9] 。ルイス・ガルベスは、さらに粗末 そまつ な小屋 こや を大統領 だいとうりょう 宮殿 きゅうでん と称 しょう して、大統領 だいとうりょう 令 れい を次々 つぎつぎ と発 はっ した[9] 。アクレ共和 きょうわ 国 こく の領域 りょういき は、北 きた はアヤクチョ条約 じょうやく でのブラジルとボリビアの国境 こっきょう 線 せん 、南 みなみ はマドレ・デ・ディオス川 がわ までを主張 しゅちょう した[9] 。ルイス・ガルベスは、多 おお くの入植 にゅうしょく 者 しゃ に大佐 たいさ の称号 しょうごう を送 おく り、またヨーロッパにいる知人 ちじん をアクレ共和 きょうわ 国 こく の外交 がいこう 代表 だいひょう に任命 にんめい した[9] 。このような稚拙 ちせつ な行動 こうどう は、アクレの入植 にゅうしょく 者 しゃ の離反 りはん を招 まね き、ルイス・ガルベスを追放 ついほう する動 うご きがでた[9] 。
ボリビア政府 せいふ は反乱 はんらん の報 ほう を受 う けて、ブラジル政府 せいふ に反乱 はんらん の鎮圧 ちんあつ を依頼 いらい した[9] 。ブラジル国内 こくない ではアマゾナス州 しゅう と競合 きょうごう 関係 かんけい にあったパラー州 しゅう のゴム商人 しょうにん たちも、この反乱 はんらん に否定 ひてい 的 てき であった[17] 。彼 かれ らはルイス・ガルベスを「追 お い剥 は ぎ強盗 ごうとう 」と批判 ひはん し、反乱 はんらん 鎮圧 ちんあつ に賛成 さんせい の立場 たちば をとった[17] 。ブラジル政府 せいふ は、1900年 ねん 3月 がつ 、警備 けいび 艇 てい を派遣 はけん し、ルイス・ガルベスをマナウス に連 つ れ戻 もど した[9] 。第 だい 一 いち 次 じ アクレ共和 きょうわ 国 こく は崩壊 ほうかい し、アクレ地方 ちほう は、再 ふたた び無法 むほう 地帯 ちたい に戻 もど った[18] 。
ボリビア軍 ぐん のアクレ遠征 えんせい [ 編集 へんしゅう ]
イスマエル・モンテス
ボリビア政府 せいふ は蒸気 じょうき 船 せん を買 か い入 い れ、ブラジル国内 こくない の水路 すいろ を経由 けいゆ してプエルト・アロンソでの混乱 こんらん を抑 おさ えるため、部隊 ぶたい を送 おく る計画 けいかく を立 た てた[18] 。実際 じっさい には、小規模 しょうきぼ の部隊 ぶたい をベニ川 がわ 経由 けいゆ で送 おく ろうとしたが、ブラジルは1900年 ねん 6月 がつ 19日 にち 、水路 すいろ を閉鎖 へいさ し、ボリビア軍 ぐん の船舶 せんぱく の進入 しんにゅう を阻止 そし した[18] 。ブラジル政府 せいふ は、アクレ地方 ちほう へボリビア軍 ぐん を派遣 はけん しないように要請 ようせい したが、マヌエル・パンド政権 せいけん は、アクレ地方 ちほう に部隊 ぶたい と物資 ぶっし を送 おく る計画 けいかく を進 すす めた[18] 。ブラジル国内 こくない の水路 すいろ を回避 かいひ するため、陸路 りくろ から3部隊 ぶたい に分 わ けて派兵 はへい することを決定 けってい した[18] 。
1905年 ねん 5月 がつ にボリビア軍 ぐん は調査 ちょうさ 隊 たい を送 おく り、ベニ川 がわ の支流 しりゅう でマドレ・デ・ディオス川 がわ の北側 きたがわ に並行 へいこう して流 なが れるオーソン川 かわ (スペイン語 ご 版 ばん ) 沿 ぞ いのメルセデスを拠点 きょてん にすることを決 き めた[18] 。メルセデスを選 えら んだ理由 りゆう は、ブラジル国内 こくない に入 はい ることなく、船舶 せんぱく による輸送 ゆそう が可能 かのう なこと、ゴム樹液 じゅえき 採取 さいしゅ 者 しゃ たちが切 き り開 ひら いた小道 こみち がアクレ川 かわ までつながっていることだった[18] 。一方 いっぽう で、メルセデスからプエルト・アロンソまでの陸路 りくろ 120kmを兵士 へいし 一 いち 人 にん あたり25kgの食料 しょくりょう と装備 そうび を自 みずか ら背負 せお ってジャングルの中 なか を行軍 こうぐん しなければならなかった[18] 。
一番 いちばん 隊 たい は、1900年 ねん 8月 がつ 8日 にち 、メルセデスを出発 しゅっぱつ した[19] 。熱帯 ねったい 気候 きこう とジャングルの泥 どろ の中 なか を歩 ある く困難 こんなん な行軍 こうぐん の末 すえ に、8月 がつ 13日 にち 、アブナ川 がわ まで進出 しんしゅつ 、8月 がつ 22日 にち にはアクレ川 がわ に到達 とうたつ した[19] 。プエルト・アロンソの情勢 じょうせい がつかめなかったため、部隊 ぶたい の行動 こうどう は慎重 しんちょう であった[19] 。しかし、アクレ地方 ちほう に入植 にゅうしょく していたブラジル人 じん はボリビア軍 ぐん に好意 こうい 的 てき であり、現地 げんち のブラジル人 じん 商人 しょうにん はボリビアの部隊 ぶたい への食料 しょくりょう などの供給 きょうきゅう も同意 どうい した[19] 。9月22日 にち 、一番 いちばん 隊 たい は反乱 はんらん 勢力 せいりょく と交戦 こうせん することなく無血 むけつ で、プエルト・アロンソに入 はい った[19] 。
ペレス・ベラスコ副 ふく 大統領 だいとうりょう が指揮 しき した二 に 番 ばん 隊 たい は、9月26日 にち にメルセデスに入 はい った。また10月 がつ 7日 にち に、イスマエル・モンテス (英語 えいご 版 ばん 、スペイン語 ご 版 ばん ) 大佐 たいさ が指揮 しき する三 さん 番 ばん 隊 たい がメルセデスに到着 とうちゃく した[19] 。マヌエル・パンド大統領 だいとうりょう はこの作戦 さくせん の最高 さいこう 指揮 しき 官 かん としてイスマエル・モンテス大佐 たいさ を指名 しめい しており、ペレス・ベラスコ副 ふく 大統領 だいとうりょう との間 あいだ で内部 ないぶ 分裂 ぶんれつ が起 お こることが懸念 けねん されたが、二人 ふたり は良好 りょうこう な関係 かんけい を保 たも つことができた[19] 。
イスマエル・モンテスは、三 さん 番 ばん 隊 たい を予備 よび としてメルセデスに残 のこ し、ペレス・ベラスコ副 ふく 大統領 だいとうりょう と共 とも に二 に 番 ばん 隊 たい を引 ひ き連 つ れてプエルト・アロンソに向 む けて出発 しゅっぱつ 、10月14日 にち にアクレ川 がわ に進出 しんしゅつ した[19] 。一番 いちばん 隊 たい がプエルト・アロンソに入 はい ったという情報 じょうほう を得 え たイスマエル・モンテスとペレス・ベラスコは、二 に 番 ばん 隊 たい を待機 たいき させた上 うえ で、小型 こがた ボートでアクレ川 がわ を下 くだ り、プエルト・アロンソへ向 む かった[20] 。
10月24日 にち 、イスマエル・モンテスとペレス・ベラスコは、プエルト・アロンソに入 はい ったが、駐屯 ちゅうとん していたボリビア兵 へい は疲弊 ひへい しており、脚気 かっけ で死亡 しぼう したものも多 おお かった[20] 。またイスマエル・モンテスらは、現地 げんち の不穏 ふおん な情勢 じょうせい を感 かん じた[20] 。
ボリビアが輸出 ゆしゅつ 税 ぜい を課 か したことに反発 はんぱつ していたブラジル人 じん の商人 しょうにん たちは、アクレ地方 ちほう に入植 にゅうしょく していたゴム樹液 じゅえき 採取 さいしゅ 者 しゃ たちを扇動 せんどう していた[20] 。「ボリビア人 じん はゴム林 りん のある土地 とち を没収 ぼっしゅう するためにやって来 き た」という噂 うわさ を広 ひろ めた[20] 。またアマゾナス州 しゅう の州 しゅう 知事 ちじ もアクレ地方 ちほう の反乱 はんらん を積極 せっきょく 的 てき に支持 しじ した[20] 。アマゾナス州 しゅう は、プエルト・アロンソに物資 ぶっし を運 はこ ぶ船舶 せんぱく を足止 あしど めにした[20] 。少 すく なくとも1,500人 にん の入植 にゅうしょく 者 しゃ を国境 こっきょう に集 あつ め、プエルト・アロンソを襲撃 しゅうげき する機会 きかい をうかがっていた[20] 。
イスマエル・モンテスは、三 さん 番 ばん 隊 たい をメルセデスからアクレ川 がわ まで進出 しんしゅつ させることを決 き め、メルセデスまで一 いち 度 ど 引 ひ き返 かえ した[20] 。一方 いっぽう で、二 に 番 ばん 隊 たい は、11月18日 にち 、プエルト・アロンソに入 はい った[20] 。しかし、反乱 はんらん 軍 ぐん がアクレ川 がわ の国境 こっきょう 付近 ふきん を封鎖 ふうさ したため、プエルト・アロンソは食料 しょくりょう 不足 ふそく に見舞 みま われた[20] 。プエルト・アロンソのボリビア兵 へい は食料 しょくりょう 配給 はいきゅう は半減 はんげん され、また病気 びょうき の蔓延 まんえん で兵 へい の病死 びょうし 者 しゃ が増 ふ えていた[20] 。
一方 いっぽう 、12月上旬 じょうじゅん には、反乱 はんらん 軍 ぐん に参加 さんか した数 かず は、2,000人 にん に達 たっ していた[21] 。反乱 はんらん 軍 ぐん の最大 さいだい のグループはプエルト・アロンソを包囲 ほうい していた[21] 。また反乱 はんらん 軍 ぐん の拠点 きょてん は、プエルト・アロンソからアクレ川 がわ の上流 じょうりゅう にさかのぼった、エンペレサ(西 にし : Empresa 、現在 げんざい のリオブランコ のアクレ川 がわ の対岸 たいがん 付近 ふきん )にあった。
イスマエル・モンテスの率 ひき いる三 さん 番 ばん 隊 たい は、エンペレサからアクレ川 がわ のやや上流 じょうりゅう に位置 いち するリオシノ(Riosinho)に12月6日 にち に到着 とうちゃく した[21] 。イスマエル・モンテスは、リオシノ周辺 しゅうへん の偵察 ていさつ を実施 じっし させたが、反乱 はんらん 軍 ぐん は見 み つからなかった[21] 。しかし、イスマエル・モンテスは、周囲 しゅうい に堀 ほり を掘 ほ って陣地 じんち を作 つく らせ、防御 ぼうぎょ を固 かた めた[21] 。
1900年 ねん 12月12日 にち 、午前 ごぜん 6時 じ 、反乱 はんらん 軍 ぐん はリオシノのボリビア軍 ぐん の陣地 じんち を襲撃 しゅうげき した[21] 。反乱 はんらん 軍 ぐん は、二 に 方向 ほうこう から攻撃 こうげき を加 くわ えたが、統率 とうそつ がとれておらず、支援 しえん が不十分 ふじゅうぶん であった[21] 。またボリビア軍 ぐん が装備 そうび していた最新 さいしん 式 しき のモーゼル ライフル が威力 いりょく を発揮 はっき し、反乱 はんらん 軍 ぐん を弱気 よわき にさせた[21] 。2時 じ 間 あいだ の銃撃 じゅうげき 戦 せん の末 すえ 、反乱 はんらん 軍 ぐん はジャングルの中 なか へと後退 こうたい した[21] 。しかし、ボリビア軍 ぐん は銃撃 じゅうげき 戦 せん には勝利 しょうり したが、反乱 はんらん 軍 ぐん の包囲 ほうい を突破 とっぱ できなかった[21] 。
第 だい 一 いち 次 じ プエルト・アロンソの戦 たたか い[ 編集 へんしゅう ]
プエルト・アロンソのボリビア兵 へい が弱体 じゃくたい 化 か していたのは明 あき らかであったが、リオシノでの敗北 はいぼく に反乱 はんらん 軍 ぐん の指導 しどう 者 しゃ たちはプエルト・アロンソへの攻撃 こうげき に対 たい して消極 しょうきょく 的 てき であった[22] 。しかし、国境 こっきょう で足止 あしど めしていた船舶 せんぱく の船長 せんちょう たちが、反乱 はんらん 軍 ぐん に対 たい してアクレ川上 かわかみ 流 りゅう への航行 こうこう 再開 さいかい を強 つよ く求 もと めたため[注釈 ちゅうしゃく 2] 、反乱 はんらん 軍 ぐん はプエルト・アロンソのボリビア軍 ぐん を1900年 ねん 12月24日 にち に攻撃 こうげき することを決定 けってい した[22] 。
1900年 ねん 12月24日 にち 、反乱 はんらん 軍 ぐん は夜明 よあ けと共 とも に攻撃 こうげき 開始 かいし する予定 よてい であったが、濃霧 のうむ のために遅 おく れた[22] 。濃霧 のうむ は、反乱 はんらん 軍 ぐん がアクレ川 かわ を渡 わた りプエルト・アロンソに接近 せっきん することを隠 かく した[22] 。午後 ごご 、反乱 はんらん 軍 ぐん は攻撃 こうげき を開始 かいし した[22] 。プエルト・アロンソのボリビア兵 へい で戦 たたか える者 もの は100人 にん 程度 ていど で圧倒的 あっとうてき に少数 しょうすう であったが、ここでもモーゼル ライフル が威力 いりょく を発揮 はっき し、奮戦 ふんせん した[22] 。14時 じ になり、反乱 はんらん 軍 ぐん はボリビア陣地 じんち を突破 とっぱ する寸前 すんぜん まで押 お し込 こ んでいた[22] 。しかし、蒸気 じょうき 船 せん の汽笛 きてき をボリビア軍 ぐん の援軍 えんぐん と勘違 かんちが いした反乱 はんらん 軍 ぐん はパニックに陥 おちい ち入 い り、ブラジル領内 りょうない へ後退 こうたい してしまった[22] 。
反乱 はんらん 軍 ぐん の降伏 ごうぶく [ 編集 へんしゅう ]
反乱 はんらん 軍 ぐん の攻撃 こうげき を撃退 げきたい したボリビア軍 ぐん であったが、補給 ほきゅう が困難 こんなん なため反乱 はんらん 軍 ぐん を鎮圧 ちんあつ するまでの力 ちから はなかった[22] 。リオシノにあったイスマエル・モンテスの率 ひき いる部隊 ぶたい もメルセデスへの一時 いちじ 撤退 てったい を検討 けんとう していた[22] 。一方 いっぽう で、反乱 はんらん 軍 ぐん も今後 こんご の方針 ほうしん について内部 ないぶ 分裂 ぶんれつ した状態 じょうたい であった[22] 。
アクレ川 がわ の国境 こっきょう で足 あし どめされたまま、進展 しんてん しない状況 じょうきょう に業 ごう を煮 に やした商船 しょうせん の船長 せんちょう たちは、反乱 はんらん 軍 ぐん の封鎖 ふうさ を突破 とっぱ することを決 き めた[23] 。1900年 ねん 12月29日 にち 、商船 しょうせん 団 だん は白旗 はっき を掲 かか げて、封鎖 ふうさ を突破 とっぱ し、プエルト・アロンソに入 はい り、ボリビア側 がわ と取引 とりひき を行 おこな った[23] 。状況 じょうきょう 不利 ふり と見 み て、反乱 はんらん 軍 ぐん を抜 ぬ けてゴム採取 さいしゅ に戻 もど る者 もの が出 で はじめた[23] 。1901年 ねん に入 はい り、反乱 はんらん 軍 ぐん は、正式 せいしき に降伏 ごうぶく した[23] 。
第 だい 二 に 次 じ アクレ紛争 ふんそう [ 編集 へんしゅう ]
反乱 はんらん を鎮圧 ちんあつ したボリビア政府 せいふ だが、アクレ地方 ちほう の治安 ちあん を維持 いじ するためには、軍 ぐん の駐留 ちゅうりゅう を続 つづ ける必要 ひつよう があった[24] 。少 すく なくとも1,000名 めい の守備 しゅび 隊 たい をアクレ地方 ちほう に常駐 じょうちゅう させる必要 ひつよう があったが、必要 ひつよう 物資 ぶっし の輸送 ゆそう には多額 たがく の費用 ひよう が必要 ひつよう であり、この負担 ふたん は重荷 おもに であった[24] 。マヌエル・パンド大統領 だいとうりょう の政権 せいけん は、アクレ地方 ちほう から産出 さんしゅつ される天然 てんねん ゴムの収益 しゅうえき が国庫 こっこ に入 はい る方法 ほうほう を模索 もさく した[24] 。
1901年 ねん 7月 がつ 11日 にち 、ボリビア政府 せいふ は、アメリカの投資 とうし 家 か グループとアクレ地方 ちほう への投資 とうし について「ボリビアン・シンジケート」と呼 よ ばれる契約 けいやく を交 か わした[24] 。ボリビアン・シンジケートは、アメリカの投資 とうし 家 か グループにアクレ地方 ちほう を信託 しんたく し、ここで産出 さんしゅつ される天然 てんねん ゴムの輸出 ゆしゅつ を独占 どくせん するのと引 ひ き換 か えに、ボリビア政府 せいふ が利益 りえき の一部 いちぶ を受 う け取 と る内容 ないよう だった[24] 。
ブラジルでは、パラー州 しゅう の商人 しょうにん たちは、自分 じぶん たちの利益 りえき が損 そこ なわれない限 かぎ り、ボリビア政府 せいふ によるアクレの統治 とうち を支持 しじ していた[24] 。その一方 いっぽう で、パラー州 しゅう の商人 しょうにん を排除 はいじょ したいと考 かんが えていたアマゾナス州 しゅう の商人 しょうにん たちは、アクレの反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく を支持 しじ していた[24] 。従 したが って、ブラジル政府 せいふ はパラー州 しゅう とアマゾナス州 しゅう のそれぞれの要求 ようきゅう のバランスをとりながら、ボリビア政府 せいふ のアクレ地方 ちほう の統治 とうち を支持 しじ していた[25] 。しかし、ボリビア政府 せいふ がアメリカ投資 とうし 団 だん と契約 けいやく すると、パラー州 しゅう の商人 しょうにん たちはこれに強 つよ く反発 はんぱつ 、ブラジル政府 せいふ もアクレ地方 ちほう の反乱 はんらん 勢力 せいりょく への理解 りかい を表明 ひょうめい し、ボリビアに契約 けいやく 撤回 てっかい を迫 せま った[25] 。
この頃 ころ のプエルト・アロンソは、1900年 ねん 12月の反乱 はんらん 鎮圧 ちんあつ 後 ご 、比較的 ひかくてき 平穏 へいおん な状態 じょうたい を維持 いじ していた[25] 。ボリビア人 じん の軍人 ぐんじん は、ブラジル人 じん の入植 にゅうしょく 者 しゃ たちを信頼 しんらい することがアクレ地方 ちほう を統治 とうち する唯一 ゆいいつ の手段 しゅだん であることを悟 さと っていた[25] 。しかし、マヌエル・パンド大統領 だいとうりょう は、国内 こくない の慎重 しんちょう 意見 いけん 、ブラジルの反対 はんたい を抑 おさ えて、1901年 ねん 12月21日 にち 、アメリカ投資 とうし 団 だん との契約 けいやく についての議会 ぎかい 承認 しょうにん を得 え た[25] 。
マヌエル・パンド大統領 だいとうりょう は、文官 ぶんかん のリノ・ロメロ(西 にし : Lino Romero )をアクレ地方 ちほう に派遣 はけん した[25] 。リノ・ロメロは、法律 ほうりつ 家 か や書記官 しょきかん を引 ひ き連 つ れて、1902年 ねん 4月 がつ にプエルト・アロンソに到着 とうちゃく した[25] 。
リノ・ロメロは、すぐに新 あたら しい税金 ぜいきん を課 か す法令 ほうれい を出 だ し、アクレ川 がわ 沿 ぞ いのブラジル人 じん 入植 にゅうしょく 者 しゃ たちに徴税 ちょうぜい 官 かん を派遣 はけん した[26] 。さらに、リノ・ロメロは、半年 はんとし 以内 いない にゴム林 りん の土地 とち の登録 とうろく に応 おう じるようアクレの入植 にゅうしょく 者 しゃ に命 めい じた[26] 。
第 だい 二 に 次 じ アクレ共和 きょうわ 国 こく の独立 どくりつ 宣言 せんげん [ 編集 へんしゅう ]
プラシド・デ・カストロ
リノ・ロメロの統治 とうち 政策 せいさく により、アクレ地方 ちほう のブラジル人 じん 入植 にゅうしょく 者 しゃ たちの不満 ふまん は高 たか まった[26] 。この頃 ころ 、ブラジル人 じん 入植 にゅうしょく 者 しゃ の中 なか でホセ・プラシド・デ・カストロ (ポルトガル語 ご 版 ばん 、スペイン語 ご 版 ばん ) が頭角 とうかく をあらわしていた[26] 。プラシド・デ・カストロは、1900年 ねん の反乱 はんらん が失敗 しっぱい した原因 げんいん を規律 きりつ と指導 しどう 者 しゃ の欠如 けつじょ と分析 ぶんせき し、これを補 おぎな うためブラジル人 じん の元 もと 将校 しょうこう を集 あつ めた[26] 。また密 ひそ かに武器 ぶき や弾薬 だんやく をアクレ地方 ちほう に運 はこ びこんでいた[26] 。
1902年 ねん 7月 がつ 、反乱 はんらん 軍 ぐん は作戦 さくせん 会議 かいぎ を開 ひら き、ここでプラシド・デ・カストロは、プエルト・アロンソへの奇襲 きしゅう 攻撃 こうげき を主張 しゅちょう した[26] 。しかし、他 た の反乱 はんらん 軍 ぐん の幹部 かんぶ は1900年 ねん の失敗 しっぱい の再現 さいげん を恐 おそ れ、これに同意 どうい せず、ボリビア人 じん の警察官 けいさつかん が数 すう 名 めい 駐在 ちゅうざい していたシャプリ (英語 えいご 版 ばん 、ポルトガル語 ご 版 ばん ) で蜂起 ほうき することを提案 ていあん した[26] 。プラシド・デ・カストロは、これに同意 どうい した[26] 。
1902年 ねん 8月 がつ 6日 にち 、早朝 そうちょう 、プラシド・デ・カストロは数 すう 十 じゅう 名 めい の同志 どうし と共 とも に、アクレ川 がわ 沿 ぞ いのシャプリにあったボリビア政府 せいふ の拠点 きょてん を襲撃 しゅうげき した[27] 。奇襲 きしゅう は成功 せいこう し、拘束 こうそく したボリビアの役人 やくにん たちをブラジルに強制 きょうせい 送還 そうかん した[27] 。翌 よく 8月 がつ 7日 にち 、プラシド・デ・カストロは、アクレの独立 どくりつ を宣言 せんげん した[27] [注釈 ちゅうしゃく 3] 。
ボルタ・ダ・エンペレサの戦 たたか い [ 編集 へんしゅう ]
プラシド・デ・カストロは、直 す ぐにでもプエルト・アロンソに対 たい して攻撃 こうげき を加 くわ える計画 けいかく であったが、ボリビア軍 ぐん の部隊 ぶたい がオーソン川 かわ にそって行軍 こうぐん しているという情報 じょうほう を得 え て、これを撃退 げきたい する必要 ひつよう に迫 せま られた[27] 。プラシド・デ・カストロは、ボルタ・ダ・エンペレサ(西 にし : Volta da Empresa 、現在 げんざい のリオブランコ )でボリビア軍 ぐん を待 ま ちぶせすることにした[27] 。
プエルト・アロンソの駐留 ちゅうりゅう を交代 こうたい するために約 やく 100名 めい の兵士 へいし を引 ひ き連 つ れていたのはロセンド・ロハス大佐 たいさ (Rosendo Rojas)であった[27] 。ロセンド・ロハスは、反乱 はんらん の情報 じょうほう を得 え ると直 す ぐに行動 こうどう を開始 かいし した[27] 。ロセンド・ロハスの部隊 ぶたい は夜間 やかん 行軍 こうぐん を行 おこな い、ボルタ・ダ・エンペレサへ向 む かった[27] 。1902年 ねん 9月 がつ 18日 にち の朝 あさ 、待 ま ちぶせしていた反乱 はんらん 軍 ぐん の隙 すき をついて攻撃 こうげき を加 くわ え、3時 じ 間 あいだ 後 ご には反乱 はんらん 軍 ぐん は遁走 とんそう を始 はじ めた[27] 。
奇襲 きしゅう に成功 せいこう したボリビア軍 ぐん であったが、7名 めい のボリビア兵 へい が死亡 しぼう し、弾薬 だんやく も大量 たいりょう に消費 しょうひ していた[28] 。ロセンド・ロハスは、ボルタ・ダ・エンペレサに陣地 じんち を築 きず き、プエルト・アロンソとリベラルタに補給 ほきゅう を要請 ようせい する手紙 てがみ を送 おく った[28] 。
プラシド・デ・カストロは、反乱 はんらん 軍 ぐん を立 た て直 なお し、500名 めい 以上 いじょう の兵士 へいし でロセンド・ロハスのボリビア軍 ぐん 陣地 じんち を包囲 ほうい した[28] 。1902年 ねん 10月 がつ 5日 にち 、プラシド・デ・カストロは、攻撃 こうげき を命 めい じた[28] 。ボリビア軍 ぐん もよく応戦 おうせん し、この日 ひ の攻撃 こうげき では決着 けっちゃく がつかなかった[28] 。しかし、ボリビア側 がわ は弾薬 だんやく を使 つか い果 は たし、食料 しょくりょう なども枯渇 こかつ していた[28] 。1902年 ねん 10月 がつ 15日 にち 、ロセンド・ロハス大佐 たいさ は、降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に署名 しょめい した[29] 。
プエルト・バイーアの戦 たたか い [ 編集 へんしゅう ]
プエルト・バイーア(西 にし : Puerto Bahía 、現在 げんざい のコビハ )でも、プラシド・デ・カストロのに呼応 こおう してアクレ独立 どくりつ を求 もと めた反乱 はんらん が起 お きた[29] 。プエルト・バイーア周辺 しゅうへん は、ゴムで財 ざい を成 な したボリビア人 じん の豪商 ごうしょう であったニコラス・スアレス・カリャウ (英語 えいご 版 ばん 、スペイン語 ご 版 ばん ) が、事実 じじつ 上 じょう 支配 しはい していた[29] 。ニコラス・スアレスは独自 どくじ にゴム液 えき 採取 さいしゅ 労働 ろうどう 者 しゃ たちを集 あつ めて私設 しせつ 部隊 ぶたい を組織 そしき し、10月11日 にち 、プエルト・バイーアでの反乱 はんらん を鎮圧 ちんあつ した[29] 。
プラシド・デ・カストロは、ニコラス・スアレスの私設 しせつ 部隊 ぶたい がボリビア軍 ぐん に合流 ごうりゅう することを恐 おそ れた[29] 。プラシド・デ・カストロ率 ひき いる反乱 はんらん 軍 ぐん は、11月、南 みなみ へ進 すす みアブナ川 がわ でボリビア軍 ぐん の部隊 ぶたい と遭遇 そうぐう した[29] 。ボリビア軍 ぐん の部隊 ぶたい は50名 めい 程度 ていど で、ロセンド・ロハスの部隊 ぶたい に弾薬 だんやく を補給 ほきゅう することが目的 もくてき であった[29] 。このボリビア軍 ぐん の部隊 ぶたい は、反乱 はんらん 軍 ぐん を見 み ると退却 たいきゃく した[29] 。プラシド・デ・カストロは、追撃 ついげき を実施 じっし しようとするが、反乱 はんらん 軍 ぐん の兵士 へいし たちはこれ以上 いじょう の遠征 えんせい に強 つよ く反対 はんたい した[29] 。
一方 いっぽう で、ニコラス・スアレスはシャプリの反乱 はんらん 軍 ぐん を攻撃 こうげき しようと考 かんが えていたが[29] 、スアレスの私設 しせつ 兵 へい も遠征 えんせい してまで戦 たたか うことには消極 しょうきょく 的 てき であった[29] 。
第 だい 二 に 次 じ プエルト・アロンソの戦 たたか い[ 編集 へんしゅう ]
1903年 ねん 1月 がつ 8日 にち 、プラシド・デ・カストロ率 ひき いる反乱 はんらん 軍 ぐん は、プエルト・アロンソを包囲 ほうい した[30] 。プラシド・デ・カストロは、攻撃 こうげき 開始 かいし まで1週間 しゅうかん の猶予 ゆうよ を与 あた え、降伏 ごうぶく を促 うなが したが、リノ・ロメロはこれを拒否 きょひ した[30] 。
1月 がつ 15日 にち 、朝 あさ から反乱 はんらん 軍 ぐん は攻撃 こうげき を開始 かいし した[30] 。銃 じゅう の性能 せいのう で劣 おと る反乱 はんらん 軍 ぐん は、ボリビア軍 ぐん の弾薬 だんやく を消費 しょうひ させるため、銃撃 じゅうげき 戦 せん を続 つづ けた[30] 。反乱 はんらん 軍 ぐん は前線 ぜんせん の兵 へい を交代 こうたい 制 せい にし、昼夜 ちゅうや を問 と わずボリビア軍 ぐん の陣地 じんち を射撃 しゃげき させた[31] 。
一方 いっぽう で、ボリビア軍 ぐん は、昼夜 ちゅうや を問 と わない銃撃 じゅうげき 戦 せん で長時間 ちょうじかん 、緊張 きんちょう 状態 じょうたい に置 お かれ、食料 しょくりょう 、弾薬 だんやく も減少 げんしょう し、疲労 ひろう 困憊 こんぱい の状況 じょうきょう に陥 おちい った[30] 。銃撃 じゅうげき 戦 せん は、1月 がつ 23日 にち まで続 つづ き、リノ・ロメロは、援軍 えんぐん が来 く るまでプエルト・アロンソを維持 いじ することは不可能 ふかのう であると考 かんが えるようになった[31] 。
1903年 ねん 1月 がつ 24日 にち 、リノ・ロメロは降伏 ごうぶく に合意 ごうい した[31] 。
ブラジル政府 せいふ の介入 かいにゅう [ 編集 へんしゅう ]
ブラジルの外務 がいむ 大臣 だいじん で、ボリビアからアクレ地方 ちほう の割譲 かつじょう を取 と り付 つ けた、リオ・ブランコ男爵 だんしゃく
1902年 ねん 11月、ブラジルに新 しん 政権 せいけん が誕生 たんじょう し、リオ・ブランコ男爵 だんしゃく の称号 しょうごう を持 も つホセ・マリア・ダ・シルバ・パラノス・ジュニオール (英語 えいご 版 ばん 、ポルトガル語 ご 版 ばん ) (以後 いご 、「リオ・ブランコ男爵 だんしゃく 」と呼称 こしょう )が、外務 がいむ 大臣 だいじん に就任 しゅうにん した。リオ・ブランコ男爵 だんしゃく は、アクレ紛争 ふんそう の恒久 こうきゅう 的 てき 解決 かいけつ を目指 めざ した[31] 。リオ・ブランコ男爵 だんしゃく は、12月26日 にち 、ボリビア政府 せいふ に対 たい して「アクレ地方 ちほう のブラジルへの併合 へいごう と、代償 だいしょう として十分 じゅうぶん な対価 たいか を支払 しはら うこと」を提案 ていあん した[31] 。
一方 いっぽう 、ボリビアのマヌエル・パンド大統領 だいとうりょう は、自 みずか ら軍隊 ぐんたい を率 ひき いてプエルト・アロンソの救出 きゅうしゅつ に向 む かうことを決意 けつい した[31] 。1903年 ねん 1月 がつ 26日 にち 、数 すう 百 ひゃく の兵 へい を引 ひ き連 つ れてアクレ地方 ちほう に向 む けて出発 しゅっぱつ した[31] 。
リオ・ブランコ男爵 だんしゃく は、1903年 ねん 2月 がつ 6日 にち 、ボリビア政府 せいふ に対 たい して、再度 さいど アクレへの遠征 えんせい を中止 ちゅうし と、受 う け入 い れられない場合 ばあい には交戦 こうせん も辞 じ さないとする最後 さいご 通牒 つうちょう を行 おこな った[32] 。これは外交 がいこう 上 じょう の駆 か け引 ひ きではなく、実際 じっさい に、ブラジルはボリビアとの国境 こっきょう 線 せん に数 すう 千 せん の兵 へい を移動 いどう させていた[32] 。
マヌエル・パンド大統領 だいとうりょう は、プエルト・アロンソのボリビア軍 ぐん が1月 がつ 24日 にち に降伏 ごうぶく したこと、およびブラジルが最後 さいご 通牒 つうちょう を送 おく ってきたことを知 し り、ラ・パス へ引 ひ き返 かえ した[32] 。陸軍 りくぐん 大臣 だいじん の職 しょく にあったイスマエル・モンテスを司令 しれい 官 かん として再 ふたた び遠征 えんせい 軍 ぐん を送 おく る計画 けいかく もあったが、ブラジルとの戦争 せんそう に発展 はってん することを恐 おそ れ、最終 さいしゅう 的 てき に遠征 えんせい を中止 ちゅうし した[32] 。1903年 ねん 3月 がつ 21日 にち 、マヌエル・パンド大統領 だいとうりょう は、正式 せいしき にブラジルの提案 ていあん を受 う け入 い れた[32] 。
アクレ共和 きょうわ 国 こく として独立 どくりつ を宣言 せんげん した反乱 はんらん 軍 ぐん は、アクレ地方 ちほう の南側 みなみがわ の境界 きょうかい 線 せん を、マドレ・デ・ディオス川 がわ に沿 そ って主張 しゅちょう していた[33] 。しかし、アクレ川上 かわかみ 流 りゅう とアブナ川 がわ で強 つよ い影響 えいきょう 力 りょく を有 ゆう していたゴム商人 しょうにん のニコラス・スアレスの暗躍 あんやく により、マドレ・デ・ディオス川 がわ より北側 きたがわ のアクレ川 がわ の上流 じょうりゅう 部分 ぶぶん とアブナ川 がわ に沿 そ った国境 こっきょう 線 せん とすることでブラジル政府 せいふ は譲歩 じょうほ した[33] 。この合意 ごうい に反乱 はんらん 軍 ぐん は不満 ふまん を持 も った[33] 。
ペトロポリス条約 じょうやく [ 編集 へんしゅう ]
1903年 ねん 11月17日 にち に、アクレ紛争 ふんそう の原因 げんいん となったアクレ地方 ちほう の権利 けんり 関係 かんけい を合意 ごうい した「ペトロポリス条約 じょうやく 」が、ブラジルとボリビアの間 あいだ で署名 しょめい された。
この条約 じょうやく で、ボリビアはアブナ川 がわ の北側 きたがわ 、191,000平方 へいほう キロメートル(現在 げんざい のアクレ州 しゅう )を、ブラジルに割譲 かつじょう した[33] [34] 。一方 いっぽう 、ブラジルは、ボリビアに200万 まん 英 えい ボンドの支払 しはら い、マモレ川 がわ とアブナ川 がわ で囲 かこ まれていたブラジル領 りょう の約 やく 3,200平方 へいほう キロメートルをボリビアに譲渡 じょうと [33] 、マデイラ川 がわ の港 みなと ポルト・ヴェーリョ からボリビア国境 こっきょう までの鉄道 てつどう (マデイラ・マモレ鉄道 てつどう )をブラジル側 がわ が建設 けんせつ することを約束 やくそく した[33] 。
紛争 ふんそう 後 ご の状況 じょうきょう [ 編集 へんしゅう ]
ブラジルの状況 じょうきょう [ 編集 へんしゅう ]
リオブランコ市 し にあるアクレ革命 かくめい 100周年 しゅうねん の記念 きねん 碑 ひ
ペトロポリス条約 じょうやく によってブラジルとボリビアの間 あいだ で和解 わかい をみた。しかし内政 ないせい 面 めん では、ブラジル国内 こくない でのアクレ地方 ちほう の扱 あつか いに関 かん してパラー州 しゅう とアマゾナス州 しゅう の対立 たいりつ は残 のこ ったままだった[35] 。アマゾナス州 しゅう の有力 ゆうりょく 者 しゃ たちはアクレ地方 ちほう をアマゾナス州 しゅう に併合 へいごう することを求 もと めた[36] 。対 たい するパラー州 しゅう は、アクレ地方 ちほう を独立 どくりつ した州 しゅう として連邦 れんぽう 政府 せいふ 下 か に置 お くことを求 もと めた[36] 。このため、アクレ地方 ちほう からゴムを搬出 はんしゅつ する際 さい 、パラー州 しゅう のゴム商人 しょうにん は、アマゾナス州 しゅう の管理 かんり するマナウスの港湾 こうわん 当局 とうきょく から嫌 いや がらせを受 う けた[36] 。
アクレ地方 ちほう の入植 にゅうしょく 者 しゃ たちも、連邦 れんぽう 下 か での自治 じち を望 のぞ んだ[36] 。またブラジル連邦 れんぽう 政府 せいふ は、ボリビアに支払 しはら う賠償金 ばいしょうきん と鉄道 てつどう 建設 けんせつ 費用 ひよう の負担 ふたん が問題 もんだい であった[36] 。この財源 ざいげん としてアクレ地方 ちほう のゴム輸出 ゆしゅつ からの税収 ぜいしゅう を目当 めあ てにしており、ブラジル連邦 れんぽう 政府 せいふ はパラー州 しゅう の主張 しゅちょう に最終 さいしゅう 的 てき に同意 どうい した[36] 。結局 けっきょく 、アクレ地方 ちほう は、連邦 れんぽう 下 か に置 お かれ、1904年 ねん 2月 がつ 25日 にち 、アクレ準 じゅん 州 しゅう となった。
アクレ地方 ちほう がブラジルに併合 へいごう されたことは、地理 ちり 的 てき に離 はな れたベレンに大 おお きな恩恵 おんけい を与 あた えた[36] 。ベレンからブラジル国外 こくがい に輸出 ゆしゅつ された天然 てんねん ゴムは、1902年 ねん に約 やく 10,000トンであったが[37] 、1905年 ねん には約 やく 15,000トンと大幅 おおはば に増加 ぞうか した[37] 。この増加 ぞうか 分 ぶん は、アクレから搬出 はんしゅつ される天然 てんねん ゴムがベレンを経由 けいゆ したものであった[37] 。アクレ併合 へいごう 後 ご 、マナウスも発展 はってん を遂 と げたが、ベレンはアマゾン流域 りゅういき での商業 しょうぎょう の優位 ゆうい 性 せい を譲 ゆず ることはなかった[38] 。
外交 がいこう 面 めん では、ブラジル外務 がいむ 大臣 だいじん のリオ・ブランコ男爵 だんしゃく は、エクアドル 、ペルー との国境 こっきょう 線 せん についても軍事 ぐんじ 力 りょく を背景 はいけい にブラジルの主張 しゅちょう する国境 こっきょう 線 せん で確定 かくてい させていった。1909年 ねん 、ペルーとの間 あいだ に条約 じょうやく を結 むす び、ジャバリ川 がわ の源流 げんりゅう からアマゾン川 あまぞんがわ の合流 ごうりゅう 点 てん までを国境 こっきょう 線 せん として確定 かくてい した[39] 。
ボリビアの状況 じょうきょう [ 編集 へんしゅう ]
ボリビア政府 せいふ は、ペトロポリス条約 じょうやく に引 ひ き続 つづ き、太平洋戦争 たいへいようせんそう の正式 せいしき な講和 こうわ 条約 じょうやく であるチリ・ボリビア平和 へいわ 友好 ゆうこう 条約 じょうやく を1904年 ねん 、チリ との間 あいだ で締結 ていけつ した。この条約 じょうやく で、ボリビアは太平洋 たいへいよう 沿岸 えんがん の領土 りょうど を放棄 ほうき した代 か わりに、チリから30万 まん 英 いぎりす ポンドの支払 しはら いと、ラ・パス とチリの太平洋 たいへいよう 沿 ぞ いのアリカ との間 あいだ にチリが鉄道 てつどう を建設 けんせつ する約束 やくそく を取 と り付 つ けた[40] 。
このように、周辺 しゅうへん 国 こく との領土 りょうど 問題 もんだい で大 おお きな譲歩 じょうほ を行 おこな った[16] 。その見返 みかえ りとして、賠償金 ばいしょうきん とボリビアにつながる鉄道 てつどう 建設 けんせつ を引 ひ き出 だ した。これらの賠償金 ばいしょうきん を、長年 ながねん の懸案 けんあん 事項 じこう であったボリビア国内 こくない の鉄道 てつどう 網 もう の建設 けんせつ と都市 とし の近代 きんだい 化 か への投資 とうし に当 あ てた[16] 。
^ 「ウィンチェスターライフル がアクレでの唯一 ゆいいつ の法 ほう だ。」という逸話 いつわ も存在 そんざい した[9]
^ アクレ川 がわ で物資 ぶっし や食料 しょくりょう を運 はこ ぶ船 ふね は、運 はこ んだ物資 ぶっし と天然 てんねん ゴムを交換 こうかん して稼 かせ いでいた。このため船長 せんちょう たちにとって、国境 こっきょう で足 あし どめされることは死活 しかつ 問題 もんだい であった。
^ ゴム樹液 じゅえき 採取 さいしゅ 者 しゃ のトリスタン・ノルベルト(Gentil Tristan Norberto)が1900年 ねん 10月 がつ にアクレの独立 どくりつ 宣言 せんげん をしており、これを第 だい 二 に 次 じ と数 かぞ える場合 ばあい もある[20] 。しかしトリスタン・ノルベルトは仲間 なかま の反感 はんかん を買 か い、拘束 こうそく され、プエルト・アロンソでイスマエル・モンテスの率 ひき いるボリビア軍 ぐん に引 ひ き渡 わた された[20] 。
^ a b c d e f g h i j Wars of Latin America (2006 , pp. 52)
^ a b c 国本 こくほん ・概説 がいせつ ラテンアメリカ史 し (2001 , pp. 102)
^ a b 国本 こくほん ・概説 がいせつ ラテンアメリカ史 し (2001 , pp. 103)
^ 国本 こくほん ・概説 がいせつ ラテンアメリカ史 し (2001 , pp. 104)
^ 天然 てんねん ゴムの歴史 れきし (2013 , pp. 94)
^ 中武 なかたけ (1998 , pp. 257)
^ a b 国本 こくほん ・ボリビアの「日本人 にっぽんじん 村 むら 」 (1989 , pp. 21)
^ a b c Latin American Peasants (2003 , pp. 87)
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s Wars of Latin America (2006 , pp. 53)
^ The Amazon rubber boom (1983 , pp. 192)
^ The Amazon rubber boom (1983 , pp. 193)
^ 天然 てんねん ゴムの歴史 れきし (2013 , pp. 99)
^ a b The Amazon rubber boom (1984 , pp. 193)
^ a b The Amazon rubber boom (1983 , pp. 195)
^ ボリビアの歴史 れきし (2011 , pp. 232)
^ a b c ボリビアの歴史 れきし (2011 , pp. 237)
^ a b The Amazon rubber boom (1983 , pp. 205)
^ a b c d e f g h Wars of Latin America (2006 , pp. 54)
^ a b c d e f g h Wars of Latin America (2006 , pp. 56)
^ a b c d e f g h i j k l m n Wars of Latin America (2006 , pp. 57)
^ a b c d e f g h i j Wars of Latin America (2006 , pp. 58)
^ a b c d e f g h i j k Wars of Latin America (2006 , pp. 59)
^ a b c d Wars of Latin America (2006 , pp. 60)
^ a b c d e f g Wars of Latin America (2006 , pp. 61)
^ a b c d e f g Wars of Latin America (2006 , pp. 62)
^ a b c d e f g h i Wars of Latin America (2006 , pp. 63)
^ a b c d e f g h i Wars of Latin America (2006 , pp. 64)
^ a b c d e f Wars of Latin America (2006 , pp. 65)
^ a b c d e f g h i j k Wars of Latin America (2006 , pp. 66)
^ a b c d e Wars of Latin America (2006 , pp. 67)
^ a b c d e f g Wars of Latin America (2006 , pp. 68)
^ a b c d e Wars of Latin America (2013 , pp. 69)
^ a b c d e f Wars of Latin America (2013 , pp. 70)
^ ボリビアの歴史 れきし (2011 , pp. 257)
^ The Amazon rubber boom (1983 , pp. 207)
^ a b c d e f g The Amazon rubber boom (1983 , pp. 208)
^ a b c The Amazon rubber boom (1983 , pp. 202)
^ The Amazon rubber boom (1983 , pp. 210)
^ Wars of Latin America (2006 , pp. 78)
^ ボリビアの歴史 れきし (2011 , pp. 238)