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アパメア

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座標ざひょう: 北緯ほくい3525ふん06びょう 東経とうけい3623ふん55びょう / 北緯ほくい35.41833 東経とうけい36.39861 / 35.41833; 36.39861

れつばしら道路どうろ
アパメアの位置(シリア内)
アパメア
アパメア
シリア国内こくない位置いち

アパメア(Apamea)またはアパメイア(Apameia、ギリシアΑπάμειαアラビア: أفاميا , آفاميا‎ , アファミヤ)はシリア北西ほくせいにある都市とし遺跡いせきオロンテスがわ右岸うがんにあり、セレウコスあさよん大都市だいとしといわれる繁華はんか都市としのひとつで、軍馬ぐんば物資ぶっしなどを集積しゅうせきする軍事ぐんじ都市としでもあった。おなじアパメアというのほかの都市とし区別くべつするために「シリアのアパメア」(Απάμεια της Συρίας)または「オロンテス河畔かはんのアパメア」ともばれる。アパメアについてはストラボンゲオグラフィカ(地理ちり』(xvi. p. 752)やプトレマイオスゲオグラフィア(地理ちりがく』(v. 15. § 19)などにて言及げんきゅうされている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

セレウコスあさだい都会とかい[編集へんしゅう]

れつばしら道路どうろひがしよりのなが

アパメア史跡しせきはシリア西部せいぶ都市としハマー北西ほくせい55kmに位置いちし、ガブ(Ghab)の谷間たにま見下みおろす高台たかだいにある。もとはパルナケ(Pharnake)とばれるまちだったが、アレクサンドロス大王だいおう征服せいふく、シリアをギリシャするという政策せいさくのもとに、マケドニアふうのペラ(Pella)の短期間たんきかんばれた。その、セレウコスあさ創始そうししたセレウコス1せいにより紀元前きげんぜん300ねん拡大かくだい要塞ようさいされ、バクトリア出身しゅっしんつまアパメー(Apama)のってアパメアとづけられた。要塞ようさいは、湿地しっちみずうみつくりながら屈曲くっきょくするオロンテスかわつくした半島はんとうじょうおかうえてられた。この半島はんとうのようにしたかたちから、「Cherronêsos(ケロネソス、みさき)」というアパメアの別名べつめいまれた。セレウコス1せいぐん兵站へいたん基地きちをこのまちき、500とうせんぞう、30,000とうめす、300とう種馬たねうまあつめた。紀元前きげんぜん2世紀せいきおう僭称せんしょうしたディオドトス・トリュフォン(Diodotus Tryphon)はアパメアを拠点きょてんとして作戦さくせん行動こうどうおこなった。

アパメアは、東方とうほうとの交易こうえきと、オロンテスがわ沿いにエジプトから北方ほっぽういたみちまじわるであり、繁栄はんえいきわめた時期じきには人口じんこうは50まんにんたっしたとされる。アパメアは、首都しゅとアンティオキア、その外港がいこうセレウキア・ピエリア、アパメアの西にしみなとラオディケイアならんで「シリアのテトラポリス」(よん大都市だいとし)とばれた。

ローマ時代じだい[編集へんしゅう]

フラウィウス・ヨセフスは『ユダヤ古代こだい』(Ant. xiv. 3. § 2)で、グナエウス・ポンペイウス紀元前きげんぜん64ねん、アンティオキアかそのちかくにあったふゆ兵営へいえいからみなみすすみ、アパメアの要塞ようさい破壊はかいしてこれをローマ併合へいごうしたとべている。カエキリウス・バッスス(Q. Caecilius Bassus)がシリアで反乱はんらんこしたさい鎮圧ちんあつにやってきたユリウス・カエサルぐんたいしてアパメアは抵抗ていこうし、ガイウス・カッシウス・ロンギヌス援軍えんぐん到着とうちゃくする紀元前きげんぜん46ねんまでの3年間ねんかんちこたえたという(カッシウス・ディオ『ローマ』 xlvii. 26–28、およびフラウィウス・ヨセフスユダヤ戦記せんき』 i. 10. § 10.)。ユダヤ戦争せんそう勃発ぼっぱつするとアパメア市民しみんまちなかユダヤじんたすけ、虐殺ぎゃくさつ監禁かんきんなどのにあわせないようにしたという(『ユダヤ戦記せんき』 ii. 18, § 5)。

終焉しゅうえん[編集へんしゅう]

ポルティコ柱廊ちゅうろう)のあと

7世紀せいきサーサーンあさペルシャのホスロー2せいがアパメアを破壊はかいしたが、その廃墟はいきょ部分ぶぶんてき修復しゅうふくされ、イスラム帝国ていこくアラビアじんはファミアまたはファーミーヤとんだ。十字軍じゅうじぐん時代じだい、アパメアはなおも繁栄はんえいする都市としであり戦略せんりゃくてきにも重要じゅうようで、アンティオキア公国こうこくタンクレードはこのまち占領せんりょうした。しかし1152ねんだい地震じしんがアパメアにめをし、以後いご再建さいけんされなかった。

史跡しせき[編集へんしゅう]

都市とし遺跡いせきはオロンテスがわ見下みおろす台地だいちじょうの200ヘクタールにのぼ面積めんせきめており、まち一部いちぶおかうえにある古代こだい城壁じょうへきかこまれている。まちのその部分ぶぶん平地ひらちにある。隣接りんせつするみずうみさかな(black fish)がれることで有名ゆうめいである。

アクロポリス現在げんざい廃墟はいきょとなっており、カラート・アル=ムディク(Qal’at al-Mudik、Kalat el-Mudik、Kŭlat el-Mudîk)とばれている。非常ひじょう装飾そうしょくてき巨大きょだい廃墟はいきょくずれずにっているが、これはおそらく5世紀せいき前半ぜんはんキリスト教徒きりすときょうと歴史れきしソゾメン(Sozomen)が言及げんきゅうした神殿しんでんあとかんがえられる。また、2世紀せいきごろ建設けんせつされたながやく1,600mのれつばしら道路どうろのこるほか、劇場げきじょう教会きょうかい廃墟はいきょもある。

1930ねんから1938ねんあいだ、および1947ねん1953ねんフランツ・キュモン英語えいごばん(Franz Cumont)らベルギーの調査ちょうさたいによる発掘はっくつおこなわれた。1965ねん以降いこうはジャン・シャルル・バルティ(Jean Charles Balty)の指揮しきにより発掘はっくつつづいた。発掘はっくつ初期しょきには多数たすう遺物いぶつとくモザイクつかり、ブリュッセル王立おうりつ美術びじゅつ歴史れきし博物館はくぶつかんおさめられている。

聖書せいしょにおける記述きじゅつ[編集へんしゅう]

アンティオキアもんあと

エルサレムにおける聖書せいしょふたつのアラムわけタルグームタルグーム・ヨーナーターンタルグーム・オンケロス)において、シェファム(שפם・Shepham、みんすう34しょう11せつ)という地名ちめいはアパメアにひとしいとられている。

著名ちょめい市民しみん[編集へんしゅう]

  • アルキゲネス(Archigenes 医学いがくしゃ
  • ポセイドニオス(Posidonius 哲学てつがくしゃ
  • テオドレトス(Theodoret 5世紀せいき神学しんがくしゃ
  • アリスタルクス(Aristarchus 70にん使徒しと一人ひとり
  • アパメアのヌメニウス(Numenius of Apamea 2世紀せいき哲学てつがくしゃ
  • イアンブリコス(Iamblichus of Chalcis ネオプラトニズム哲学てつがくしゃ

外部がいぶリンクおよび文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Pictures of Apamea
  • Smith, William (editor); Dictionary of Greek and Roman Geography, "Apameia", London, (1854)