アレクサンダー・バークマン

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アレクサンダー・バークマン

アレクサンダー・バークマンまたはアレクサンドル・ベルクマン[1]Alexander Berkman, 1870ねん11月21にち - 1936ねん6月28にち)とは、その政治せいじてき行動こうどう著作ちょさくられる無政府むせいふ主義しゅぎしゃ。20世紀せいきはじめのアナキズムにおける指導しどうしゃ一人ひとり

概要がいよう[編集へんしゅう]

リトアニア首都しゅとヴィリニュスユダヤじんとしてまれた。1888ねんにアメリカのニューヨークへ移住いじゅうし、そこで政府せいふ主義しゅぎ運動うんどうとうじる。かれおなじくアナキストのエマ・ゴールドマン恋人こいびとであり、終生しゅうせいともだった。

1892ねん、バークマンは「遂行すいこうのプロパガンダ」の一環いっかんとしてヘンリー・クレイ・フリックの暗殺あんさつこころみる。結果けっか失敗しっぱいであり、バークマンは刑務所けいむしょで14年間ねんかんごすことになった。そこでの体験たいけんかれ処女しょじょさくである「あるアナキストによる刑務所けいむしょ回想かいそう」にまとめられた。

出所しゅっしょのバークマンはゴールドマンの雑誌ざっしははなる地球ちきゅう」の編集へんしゅうしゃとなり、自身じしんも「発破はっぱ」という雑誌ざっし発行はっこうした。

1917ねん、バークマンとゴールドマンは徴兵ちょうへいせいたいする反対はんたい工作こうさくとがめられ、懲役ちょうえき2ねんをいいわたされた。出所しゅっしょふたたにんなんひゃくという人々ひとびととともに逮捕たいほされ、ロシア国外こくがい退去たいきょをさせられた。はじめはボリシェビキによる革命かくめい好意こういてきだったバークマンだったが、すぐにソヴィエトの暴力ぼうりょく自由じゆうこえ抑圧よくあつたいして反対はんたいする声明せいめいをだした。1925ねん、「ボリシェヴィキの神話しんわ」を出版しゅっぱんしている。

フランスで生活せいかつしながら、バークマンはアナキズムの原則げんそく古典こてんてき解説かいせつをくわえた文章ぶんしょう「アナキズムのABC」を発表はっぴょうし、アナキズム運動うんどう支援しえんする活動かつどうつづけた。

やまいくるしみ、1936ねん6がつ28にち拳銃けんじゅうによりみずかいのちつ。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

少年しょうねん時代じだい[編集へんしゅう]

出生しゅっしょうめいオフセイ・オシポヴィチ・ベルクマンロシア: Овсей Осипович Беркман)で、当時とうじロシア帝国ていこく一部いちぶだったリトアニアの裕福ゆうふくなユダヤじん家庭かていまれたよんにん兄弟きょうだい末子まっしである。バークマンはペテルブルクそだち、よりロシアらしい名前なまえとしてアレクサンドル使つかうようになった。友人ゆうじんたちからはサーシャばれていた。

バークマンの家族かぞくは、使用人しようにん別荘べっそうをもったゆたかならしをおくっていた。バークマンはギムナジウムにかよい、そこで古典こてんてき教育きょういくけた。当時とうじからロシアの首都しゅとけん労働ろうどうしゃたちにひろがっていたラディカリズムに影響えいきょうけている。1881ねん、アレクサンドル2せいばくだんによって暗殺あんさつされた。その衝撃しょうげき余波よはでバークマンのかよ学校がっこう授業じゅぎょうがとりやめになった。その午後ごごかれ両親りょうしんたちがおさえた口調くちょう言葉ことばわす一方いっぽうで、バークマンはナロードニキであった「マクシムおじさん」ことマーク・ナタンソンから暗殺あんさつとはなにかを学習がくしゅうしていたのだった。

ちちきびしいかお非難ひなんするようにははつめていた。マクシムはいつもとちがってしずかだったが、その表情ひょうじょうれやかで、にはたこともないかがやきがあった。そのよるひろ寝室しんしつ一人ひとりベッドによこたわるわたしのところへかれびこんできて、ひざをつくとわたしいだきかかえてキスし、わめいてからまたわたしにキスをしてきた。かれみだしようにはおどろかされた。「どうしたのさ、マクシムおじちゃん?」わたしはゆっくりといきいた。かれ部屋へやちゅうまわり、わたしにキスをしてはブツブツとなにかをくちにしていた。「すばらしい、すばらしい!勝利しょうりだ!」
すすりきながらも、かれ厳粛げんしゅく面持おももちでこのことは秘密ひみつにするようわたし約束やくそくさせ、ミステリアスな、そして畏敬いけいねんぶような言葉ことばをささやいた。「人民じんみん意志いし専制せんせいたおし、自由じゆうなロシアを」[2]

バークマンが15さいのときに父親ちちおやくなり、母親ははおや翌年よくねんいきった。1888ねん2がつ、バークマンはアメリカへとった。

ニューヨークで[編集へんしゅう]

ヘイマーケット事件じけん(1886ねん)で有罪ゆうざいとなったおとこ釈放しゃくほううったえるキャンペーンを組織そしきしていたグループとの関係かんけいつうじて、バークマンはアナーキストとなる。ニューヨークにいてすぐのことだった。当時とうじアメリカでもっと有名ゆうめいだったアナキストであるヨハン・モストの影響えいきょうけるまで時間じかんはかからなかった。ヨハン・モストは「遂行すいこうのプロパガンダ」というテロ行為こうい、あるいは大衆たいしゅう反逆はんぎゃくみちびくための暴力ぼうりょく提唱ていしょうしゃだった。バークマンはヨハン・モストの新聞しんぶん自由じゆう」のタイプライターとなる。

バークマンはニューヨークで自分じぶんおなじくロシアからの移民いみんであるエマ・ゴールドマンと出会であい、こいにおちた。すぐにかれらは自分じぶんたちのいとこや友人ゆうじんとともに共同きょうどう生活せいかつはじめている。困難こんなんちた人生じんせいだったが、バークマンとゴールドマンはなんじゅうねんものあいだかたきずなむすばれ、平等びょうどう個人こじんというアナキズムの原理げんり責任せきにんによってひとつだったのだ。

バークマンは次第しだいにヨハン・モストと疎遠そえんになり、べつ雑誌ざっし自治じち」とかかわっていく。しかし、革命かくめいてき鼓舞こぶするための手段しゅだんとしての暴力ぼうりょくてき行動こうどうという方針ほうしんゆだねることをやめはしなかった。

襲撃しゅうげき[編集へんしゅう]

バークマンとエマ・ゴールドマンがはじめて政治せいじてき行動こうどうこす機会きかい見出みいだしたのが、ペンシルベニアしゅうホームステッド工場こうじょうでのストライキ事件じけんだった。1892ねん6がつ、カーネギー鉄鋼てっこう会社かいしゃと「鉄鋼てっこう労働ろうどうしゃ合同ごうどう組合くみあい」の交渉こうしょう決裂けつれつすると、ホームステッドにある工場こうじょう労働ろうどうしゃたちは、ロックアウトされた。工場こうじょうちょうだったヘンリー・クレイ・フリックはピンカートン警備けいび会社かいしゃから警備けいびいん300にんやとって武装ぶそうさせ、組合くみあいピケ突破とっぱさせた。ピンカートンしゃ警備けいびいんは6がつ6にち工場こうじょうおそって銃撃じゅうげきせんひろげた。12あいだにもおよぶ戦闘せんとう労働ろうどうしゃがわに9にん警備けいびいんがわに7にん死者ししゃがでた。

この事件じけんではアメリカちゅう新聞しんぶん組合くみあい労働ろうどうしゃ擁護ようごした。バークマンとエマ・ゴールドマンはフリックを暗殺あんさつすることを決意けついする。バークマンは暗殺あんさつこそが労働ろうどうしゃ階級かいきゅう団結だんけつさせ、資本しほん主義しゅぎ社会しゃかいへの反逆はんぎゃくみちびくとしんじていたのだ。バークマンの計画けいかくでは、フリックを暗殺あんさつしたのち自殺じさつすることになっていた。ゴールドマンの役割やくわりはその自殺じさつのちでバークマンの動機どうき説明せつめいすることだった。バークマンははじめばくだん自作じさくこころみたが、それに失敗しっぱいすると、ピッツバーグで拳銃けんじゅう1ちょうとりっぱな背広せびろ購入こうにゅうした。7月23にち、バークマンは拳銃けんじゅうにフリックの事務所じむしょおとずれた。そのままフリックに3発砲はっぽうし、それからつかみかかってりつけた。フリックのたすけをきつけてやってきた労働ろうどうしゃたちになぐりつけられ、バークマンは失神しっしんした。そしてかれ殺人さつじん未遂みすいにより懲役ちょうえき22ねんをいいわたされたのだった。わるいことに、バークマンの「襲撃しゅうげき」は大衆たいしゅうがらせることにも失敗しっぱいしたのだった。労働ろうどうしゃとアナキストたちはともにその行為こうい非難ひなんした。

バークマンは14ねん刑務所けいむしょごし、1906ねん5がつ18にち出所しゅっしょした。エマ・ゴールドマンとはデトロイトえきのプラットフォームで再開さいかいしたが、そのやせこけた姿すがた彼女かのじょを「恐怖きょうふ憐憫れんびんのとりこ」にした。刑務所けいむしょにいるあいだ、バークマンはアメリカびいきにこそなったが、一人ひとり自由じゆうおとことして人生じんせいをやりなおすことには素直すなおでなかった。不安ふあんとストレスから、かれ自殺じさつかんがえてクリーブランド (オハイオしゅう)|クリーヴランドで拳銃けんじゅう購入こうにゅうした。しかしニューヨークへもどったかれは、そこでゴールドマンや運動うんどうたちがレオン・チョルゴスについてのミーティングの逮捕たいほされたことをった。この「集会しゅうかい自由じゆう」の侵害しんがいをうけてバークマンは復活ふっかつ宣言せんげんし、仲間なかま解放かいほう目指めざしてうごきはじめた。

すぐにバークマンはアメリカにおけるアナキストのリーダーかく一人ひとりとしてエマ・ゴールドマンらとかたならべるようになった。ゴールドマンのすすめもあって、かれ刑務所けいむしょにいたころのことを「あるアナキストによる刑務所けいむしょ回想かいそう」としてまとめた。執筆しっぴつすることで、囚人しゅうじんになったという経験けいけんからすくわれたとバークマンはかたっている。

ははなる地球ちきゅうとフェラー・センター[編集へんしゅう]

1907ねんから15ねんまで、バークマンはエマ・ゴールドマンの「ははなる地球ちきゅう」の編集へんしゅうしゃをしていた。かれ運営うんえいのもと、この雑誌ざっしはアメリカでも指折ゆびおりのアナキスト刊行かんこうぶつとなった。雑誌ざっし編集へんしゅうはバークマンにとって自分じぶん活力かつりょくあたえてくれる仕事しごとだった。エマ・ゴールドマンとの関係かんけい停滞ていたいしていたが、当時とうじかれはベッキー・エデルソンという15さいのアナキストと浮気うわきをしていた。

1910ねん、11ねんにかけてニューヨークに設立せつりつされたフェラー・センターを支援しえんし、バークマン自身じしん講師こうし一人ひとりとして活動かつどうした。フェラー・センターはスペインじんアナキストのフランシスコ・フェラーにちなんでづけられた。生徒せいとたちに自主じしゅてき思考しこううながすための学校がっこうでもあったが、フェラー・センターは成人せいじんたちのコミュニティのでもあった。

メーデーで演説えんぜつするバークマン(1914ねん

ラドローの虐殺ぎゃくさつとレキシントンどおりの爆発ばくはつ[編集へんしゅう]

1913ねん9がつコロラドしゅうラドローの鉱夫こうふたちがストライキをびかけた。しかしかれらの親会社おやがいしゃは、ロックフェラーいえがオーナーである、当時とうじもっと規模きぼおおきい鉱山こうざん会社かいしゃだった。1914ねん4がつ20日はつか警備けいびいんたちがストライキをしていた鉱夫こうふたちやその家族かぞくむテントを襲撃しゅうげきし、26にん死者ししゃる。

ストライキちゅう、バークマンは鉱夫こうふたちの支持しじニューヨークでデモをおこなった。5月と6がつにはのアナキストたちとともにジョン・ロックフェラーjrへの複数ふくすう抗議こうぎデモを主導しゅどうした。抗議こうぎ活動かつどうはしだいにニューヨーク中心ちゅうしんからロックフェラーのお膝元ひざもとであるテリータウンへとひろがる一方いっぽうで、相当そうとうかずのアナキストが暴行ぼうこうけ、逮捕たいほ監禁かんきんされた。テリータウンでしめされた警察けいさつ強硬きょうこう姿勢しせいは、フェラー・センターにつどうアナキストたちによる爆破ばくは計画けいかくへとつながった。7月、バークマンの仲間なかま3にんがダイナマイトを調達ちょうたつし、やはりかれ同調どうちょうしていたルイーズ・バーガーのむアパートにんだ。かれらによれば、バークマンが指導しどうてき立場たちばにあり、グループないもっと年長ねんちょうであり経験けいけんもあったという。のちにバークマンは計画けいかくへの関与かんよ否定ひていしている。

7がつ4にち9、ルイーズがエマ・ゴールドマンの事務所じむしょかけた。その15ふんだい爆発ばくはつこる。ばくだんはやはっし、ルイーズのむ6かいてのアパートがふるえ、3かいからさき大破たいはした。ダイナマイトを仕掛しかけた3にん全員ぜんいん死亡しぼうし、もう1人ひとり女性じょせいくなった。彼女かのじょあきらかにこの事件じけん共謀きょうぼうしゃではなかった。バークマンはくなった人間にんげん葬儀そうぎ手配てはいしている。

発破はっぱ」とムーニー事件じけん[編集へんしゅう]

1915ねん、バークマンはニューヨークをはなれ、カリフォルニアしゅうむかった。翌年よくねんサンフランシスコかれはアナーキスト発破はっぱ」の出版しゅっぱんはじめた。18ヶ月かげつしか発行はっこうされなかったものの、「発破はっぱ」は「ははなる地球ちきゅう」にいでアメリカのアナキストたちおおきな影響えいきょうあたえたとかんがえられている。

1916ねん7がつ22にち、10にん殺害さつがいし40にん重傷じゅうしょうわせたばくだん事件じけんこる。警察けいさつはバークマンが首謀しゅぼうしゃだとかんがえていたが、証拠しょうこはなかった。最終さいしゅうてきに、トーマス・ムーニーとウォーレン・ビリングスが犯人はんにんだとされた。しかし、二人ふたりともバークマンと関係かんけいっておらず、その釈放しゃくほうもとめてだい規模きぼ運動うんどうこった。ムーニーは死刑しけい、ビリングスは終身しゅうしんけいをいいわたされている。バークマンはロシアじんのアナキストにアピールするため、ロシア革命かくめい最中さいちゅうにあったペテルブルクのアメリカ大使館あめりかたいしかんへのデモを組織そしきした。アメリカやヨーロッパなどでも抗議こうぎデモはおこなわれた。ウィルソン大統領だいとうりょうがカリフォルニアしゅう知事ちじにムーニーの減刑げんけいもとめ、しゅう知事ちじはそれにおうじた。いわく、「(ムーニーのけんでの)バークマンによってかれた筋書すじがきは世界せかい通用つうようするほどよくできていた」。

だいいち世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

アメリカの参戦さんせんは1917ねん議会ぎかい選抜せんばつ徴兵ちょうへいほう(Selective Service Act of 1917)を可決かけつし、徴兵ちょうへい制度せいどによって登録とうろくされた21さいから30さいまでのぜん成人せいじん男性だんせいをその対象たいしょうとした。バークマンはニューヨークへともどり、エマ・ゴールドマンと「はん徴兵ちょうへい連盟れんめい」を組織そしき、「我々われわれ徴兵ちょうへい反対はんたいする。なぜなら我々われわれ国際こくさい共産きょうさん主義しゅぎしゃでありはん軍国ぐんこく主義しゅぎしゃだからであり、資本しほん主義しゅぎ国家こっかによっておこなわれるあらゆる戦争せんそうにも反対はんたいする」という声明せいめい発表はっぴょうした。この組織そしきはん徴兵ちょうへい運動うんどう最前線さいぜんせんち、ニューヨーク以外いがいにも支部しぶ誕生たんじょうした。しばらくして「はん徴兵ちょうへい連盟れんめい」は公然こうぜん集会しゅうかいひらくのではなく、パンフレットをばらくことが中心ちゅうしんてき活動かつどうになる。かれらの徴兵ちょうへいせい登録とうろくしない若者わかものもとめる集会しゅうかい警察けいさつ妨害ぼうがいするようになったからだ。

1917ねん6がつ15にち、バークマンとゴールドマンは事務所じむしょにいるところ逮捕たいほされた。警察けいさつは「アナキストの名簿めいぼ宣伝せんでん材料ざいりょうやま」も押収おうしゅうしていった。二人ふたりはスパイ防止ぼうしほう(Espionage Act of 1917)違反いはんとして起訴きそされる。「徴兵ちょうへいせいへの登録とうろく共謀きょうぼうして誘導ゆうどうした」ものとされた。保釈ほしゃくきん一人ひとりにつき25000ドルだった。

バークマンとエマ・ゴールドマン(1917ねん

バークマンとゴールドマンは公判こうはんちゅう合衆国がっしゅうこく憲法けんぽう修正しゅうせいだい1じょういにして自分じぶんたちを弁護べんごした。本国ほんごく自由じゆう言論げんろん抑圧よくあつして、どうしてヨーロッパで「自由じゆう民主みんしゅ主義しゅぎ」のためにたたかうという主張しゅちょうができるのかとたずねたのである。

ヨーロッパに自由じゆうをもたらそうとしながら、ここには自由じゆうがない。ドイツで民主みんしゅ主義しゅぎのためにたたかいながら、いまここニューヨークでは民主みんしゅ主義しゅぎ抑圧よくあつしている。それがアメリカだと世界せかい宣言せんげんするのですか?このくににおける自由じゆう言論げんろんをはじめ自由じゆうそのものを抑圧よくあつしておいて、5000マイルの彼方かなたたたかうほど自由じゆうあいしているとまだいつわるのですか?[3]

陪審ばいしん評決ひょうけつ有罪ゆうざいであり、裁判官さいばんかんもっとおも判決はんけつくだした。懲役ちょうえき2ねん罰金ばっきん1まんドル、釈放しゃくほう国外こくがい追放ついほう検討けんとうするというものだった。バークマンはアトランタ連邦れんぽう刑務所けいむしょけいふくした。囚人しゅうじんから暴行ぼうこうけたためそのうち7カ月かげつ独居どっきょぼうはいっていた。1919ねん10がつ1にち釈放しゃくほうされたバークマンは「やつれ、あおざめて」いたとエマ・ゴールドマンはいう。21カ月かげつあいだのアトランタでの生活せいかつはバークマンにとってペンシルベニヤでの14年間ねんかんよりもはるかにくるしいものだった。

ロシア[編集へんしゅう]

バークマンたちが釈放しゃくほうされたのは、アメリカで最初さいしょの「あか恐怖きょうふ」が絶頂ぜっちょうのときだった。ボリシェヴィキによる1917ねんのロシア革命かくめいは、戦争せんそうへの不安ふあん相俟あいまってはん急進きゅうしん主義しゅぎはん外国がいこく感情かんじょう風潮ふうちょうしていたのだ。ジョン・フーヴァーとアレクサンダー・パーマーのもとアメリカ司法省しほうしょう一般いっぱん情報じょうほうは、「パーマー・レイド」としてられる左翼さよくりをはじめた。かれらを刑務所けいむしょおくんだフーヴァーはこうべている。

エマ・ゴールドマンとアレクサンダー・バークマンは、うたがいようもなくわがくにもっと危険きけんなアナキストだ。もし社会しゃかいへの復帰ふっきゆるせば、はなはだしいがいをもたらすだろう。1918ねんのアナキスト排除はいじょほうのもと、政府せいふはバークマンへは二度にど合衆国がっしゅうこく市民しみんけん適用てきようしない。ゴールドマンやそのほか200にん以上いじょう人間にんげん同様どうようだ。ロシアへ追放ついほうする。[4]
1ロシア追放ついほう前夜ぜんや

シカゴでの最後さいご晩餐ばんさん席上せきじょう、バークマンとエマ・ゴールドマンは、25ねん以上いじょうまえ自分じぶんたちがころそうとしたヘンリー・クレイ・フリックがんだというニュースをった。記者きしゃからコメントをもとめられたバークマンはフリックは「かみ追放ついほうされた」とべている。

はじめバークマンのボリシェヴィキにたいする反応はんのう熱狂ねっきょうてきなものだった。かれらによる政変せいへんはじめてったときのバークマンは、「わたし人生じんせい最良さいりょうのときだ」とさけび、ボリシェヴィキが「人間にんげんたましいもとめるもっと根源こんげんてき欲求よっきゅうあらわれだ」といている。ロシアに到着とうちゃくしたバークマンのなかには情熱じょうねつがたぎっていた。かれは14年間ねんかん懲役ちょうえきから解放かいほうされたとき以上いじょうの「わたし人生じんせいもっと崇高すうこうなときだ」と表現ひょうげんしている。

バークマンとエマ・ゴールドマンはロシアちゅうたびし、1920ねん大半たいはん革命かくめい博物館はくぶつかん建設けんせつのための資料しりょう収集しゅうしゅうしてごした。しかし二人ふたり全国ぜんこくをまわって発見はっけんしたのは、抑圧よくあつ腐敗ふはいだった。そこにはかれらが夢見ゆめみていた平等びょうどう労働ろうどうしゃ啓蒙けいもうはなかった。政府せいふ疑問ぎもんをもつものは「はん革命かくめいてき悪鬼あっきとみなされ、労働ろうどうしゃたちは過酷かこく環境かんきょうにあった。かれらが面会めんかいしたウラジーミル・レーニンは政府せいふ報道ほうどう自由じゆう制限せいげんすることを正当せいとうしてった。

革命かくめい危機ききだっしたならば、自由じゆう発言はつげんというあまえもゆるされる。[5]

1921ねん3がつ、ペトログラードでストライキがこる。労働ろうどうしゃたちが良質りょうしつ配給はいきゅう食糧しょくりょうとさらなる組合くみあい自治じちもとめたのだ。バークマンとゴールドマンはストを支持しじしている。「いま沈黙ちんもくまもることは、不可能ふかのうであり犯罪はんざいてきでさえある」。不穏ふおん状況じょうきょうがペトログラード西にし軍港ぐんこうまでひろがり、トロツキーは軍隊ぐんたい出動しゅつどう要請ようせいした。このクロンシュタットの反乱はんらんでは600にん以上いじょう水夫すいふころされ、2000にん以上いじょう逮捕たいほされた。ソ連それんぐん兵士へいしも500から1500にんくなった。こうして鎮圧ちんあつされた蜂起ほうきをみたバークマンとゴールドマンは、もはやこのくにには自分じぶんたちにとっての未来みらいはないとかんがえた。

1921ねん11月、バークマンたちはロシアをはなれてベルリンうつり、すうねんごした。ほぼロシアを直後ちょくごから、バークマンはロシア革命かくめいについてのしょうろんはじめた。「ロシアの悲劇ひげき」、「ロシア革命かくめい共産党きょうさんとう」、「クロンシュタットの反乱はんらん」は1922ねんなつ出版しゅっぱんされた。

バークマンはロシアでの経験けいけんほんにまとめるつもりだったが、かれあつめた資料しりょう使つかってエマ・ゴールドマンもおなじようなほんいたためそれを手伝てつだい、かれ自身じしんほんはしばらく出版しゅっぱんびた。ゴールドマンの「ロシアでのわたしの2年間ねんかん」は1922ねん12月に完成かんせいし、彼女かのじょがつけていないタイトルがつけられ、「ロシアでのわたし失望しつぼう」、「ロシアでのさらなるわたし失望しつぼう」として2さつほんになって出版しゅっぱんされた。バークマンは1923ねんに「ボリシェヴィキの神話しんわ」をき、1925ねん出版しゅっぱんした。

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バークマンは1925ねん、フランスへく。そこでかれ年老としおいたアナキストたちのための基金ききんをつくった。またソ連それん収監しゅうかんされているアナキストのためにたたかいをつづけ、「ロシアの刑務所けいむしょからの手紙てがみ」としてかれらの迫害はくがいについて詳細しょうさい記述きじゅつした。

1926ねん、ニューヨークのユダヤじんアナキスト連合れんごう一般いっぱん市民しみんけたアナキズムを紹介しょうかいする文章ぶんしょう依頼いらいされる。ニューヨークのアナキストたちは平易へいい言葉ことばでアナキズムの原理げんりしめすことで、読者どくしゃ運動うんどう支援しえんするながれがまれることを期待きたいしていた。すくなくとも一般いっぱん市民しみんからみたアナキズムやアナキストのイメージが向上こうじょうするだろうとかんがえたのである。バークマンは「アナーキズムのABC」をいて1929ねん出版しゅっぱんし、そのなん再版さいはんをかけた。アナキストにくわしい歴史れきしのポール・アヴリッチによれば同書どうしょは「共産きょうさん主義しゅぎてきアナキズムをもっと簡明かんめい説明せつめいしたほん」である。

かれ晩年ばんねん生活せいかつ不安定ふあんてい時期じきには編集へんしゅう翻訳ほんやくをして糊口ここうをしのいだ。1930ねん健康けんこうがすぐれなくなる。前立腺ぜんりつせん状態じょうたい悪化あっかし、1936ねんはじめに2手術しゅじゅつけたがあまり成功せいこうしなかった。断続だんぞくてきいたみをかんじるようになり、経済けいざいてきにもエミー・エクスタインら友人ゆうじんたち支援しえんたよっていたバークマンは、自殺じさつ決意けついする。1936ねん6がつ28にち午前ごぜんやまいによるいたみにれず、拳銃けんじゅうみずからにけて発砲はっぽうしたが失敗しっぱいする。弾丸だんがん脊柱せきちゅうまれ、かれ意識いしきうしなった。エマ・ゴールドマンはかれのいるニースにいそいだ。午後ごごには昏睡こんすい状態じょうたいおちいり、よる10いきった。

近代きんだい歴史れきしのこもっともわかりやすいアナルコサンディカリスムれいであるスペイン内戦ないせんはじまるいち週間しゅうかんまえのことだった。1937ねん7がつ、ゴールドマンはこういている。かれかたからして、スペインでのアナキズムの実践じっせんにあったならば「(バークマンは)若返わかがえり、あらたなちから希望きぼうあたえられたことだろう。ただもうすこしのあいだきてさえいれば!」

邦訳ほうやく[編集へんしゅう]

  • 「アナーキズムのABC」ぜん2かん久田ひさた俊夫としおやく杉山すぎやま書店しょてん、1981ねん
  • 「ボリシェヴィキの神話しんわ岡田おかだ丈夫たけおやく太平たいへい出版しゅっぱんしゃ、1972ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ロシア・フランス語ふらんすごふうのカナ表記ひょうき
  2. ^ Berkman, Prison Memoirs, p. 91.
  3. ^ Trials and Speeches, p. 55.
  4. ^ Falk, pp. 177–178.
  5. ^ Berkman, Bolshevik Myth, p. 91.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Avrich, Paul (1988). Anarchist Portraits. Princeton: Princeton University Press. ISBN 0-691-00609-1.
  • Berkman, Alexander (1992). Fellner, Gene. ed. Life of an Anarchist: The Alexander Berkman Reader. New York: Four Walls Eight Windows. ISBN 0-941423-78-6
  • Berkman, Alexander (1989) [1925]. The Bolshevik Myth (Diary 1920-1922). London: Pluto Press. ISBN 1-85305-032-6.
  • Falk, Candace (1990). Love, Anarchy, and Emma Goldman (2nd ed.). New Bruswick, N.J.: Rutgers University Press. ISBN 0-8135-1513-0.
  • Trial and Speeches of Alexander Berkman and Emma Goldman in the United States District Court, in the City of New York, July, 1917. New York: Mother Earth Publishing Association. 1917. OCLC 808946. https://books.google.com/?id=f65YAAAAMAAJ.
  • Wexler, Alice (1989). Emma Goldman in Exile. Boston: Beacon Press. ISBN 0-8070-7004-1.

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]