アレクサンダー・バークマン
アレクサンダー・バークマン またはアレクサンドル・ベルクマン [1] (Alexander Berkman , 1870年 ねん 11月21日 にち - 1936年 ねん 6月28日 にち )とは、その政治 せいじ 的 てき な行動 こうどう や著作 ちょさく で知 し られる無政府 むせいふ 主義 しゅぎ 者 しゃ 。20世紀 せいき はじめのアナキズム における指導 しどう 者 しゃ の一人 ひとり 。
リトアニア の首都 しゅと ヴィリニュス でユダヤ人 じん として生 う まれた。1888年 ねん にアメリカのニューヨークへ移住 いじゅう し、そこで無 む 政府 せいふ 主義 しゅぎ 運動 うんどう に身 み を投 とう じる。彼 かれ は同 おな じくアナキストのエマ・ゴールドマン の恋人 こいびと であり、終生 しゅうせい の友 とも だった。
1892年 ねん 、バークマンは「遂行 すいこう のプロパガンダ」の一環 いっかん としてヘンリー・クレイ・フリックの暗殺 あんさつ を試 こころ みる。結果 けっか は失敗 しっぱい であり、バークマンは刑務所 けいむしょ で14年間 ねんかん を過 す ごすことになった。そこでの体験 たいけん は彼 かれ の処女 しょじょ 作 さく である「あるアナキストによる刑務所 けいむしょ の回想 かいそう 」にまとめられた。
出所 しゅっしょ 後 ご のバークマンはゴールドマンの雑誌 ざっし 「母 はは なる地球 ちきゅう 」の編集 へんしゅう 者 しゃ となり、自身 じしん も「発破 はっぱ 」という雑誌 ざっし を発行 はっこう した。
1917年 ねん 、バークマンとゴールドマンは徴兵 ちょうへい 制 せい に対 たい する反対 はんたい 工作 こうさく が咎 とが められ、懲役 ちょうえき 2年 ねん をい渡 いわた された。出所 しゅっしょ 後 ご 、再 ふたた び二 に 人 にん は他 た の何 なん 百 ひゃく という人々 ひとびと とともに逮捕 たいほ され、ロシア に国外 こくがい 退去 たいきょ をさせられた。初 はじ めはボリシェビキ による革命 かくめい に好意 こうい 的 てき だったバークマンだったが、すぐにソヴィエトの暴力 ぼうりょく と自由 じゆう な声 こえ の抑圧 よくあつ に対 たい して反対 はんたい する声明 せいめい をだした。1925年 ねん 、「ボリシェヴィキの神話 しんわ 」を出版 しゅっぱん している。
フランスで生活 せいかつ しながら、バークマンはアナキズムの原則 げんそく に古典 こてん 的 てき な解説 かいせつ をくわえた文章 ぶんしょう 「アナキズムのABC」を発表 はっぴょう し、アナキズム運動 うんどう を支援 しえん する活動 かつどう を続 つづ けた。
病 やまい に苦 くる しみ、1936年 ねん 6月 がつ 28日 にち 、拳銃 けんじゅう により自 みずか ら命 いのち を絶 た つ。
出生 しゅっしょう 名 めい はオフセイ・オシポヴィチ・ベルクマン (ロシア語 ご : Овсей Осипович Беркман )で、当時 とうじ はロシア帝国 ていこく の一部 いちぶ だったリトアニアの裕福 ゆうふく なユダヤ人 じん の家庭 かてい に生 う まれた四 よん 人 にん 兄弟 きょうだい の末子 まっし である。バークマンはペテルブルク で育 そだ ち、よりロシアらしい名前 なまえ としてアレクサンドル を使 つか うようになった。友人 ゆうじん 達 たち からはサーシャ と呼 よ ばれていた。
バークマンの家族 かぞく は、使用人 しようにん や別荘 べっそう をもった豊 ゆた かな暮 く らしを送 おく っていた。バークマンはギムナジウムに通 かよ い、そこで古典 こてん 的 てき な教育 きょういく を受 う けた。当時 とうじ からロシアの首都 しゅと 圏 けん の労働 ろうどう 者 しゃ たちに広 ひろ がっていたラディカリズムに影響 えいきょう を受 う けている。1881年 ねん 、アレクサンドル2世 せい が爆 ばく 弾 だん によって暗殺 あんさつ された。その衝撃 しょうげき の余波 よは でバークマンの通 かよ う学校 がっこう の授業 じゅぎょう がとりやめになった。その日 ひ の午後 ごご 、彼 かれ の両親 りょうしん たちが抑 おさ えた口調 くちょう で言葉 ことば を交 か わす一方 いっぽう で、バークマンはナロードニキであった「マクシムおじさん」ことマーク・ナタンソンから暗殺 あんさつ とは何 なに かを学習 がくしゅう していたのだった。
父 ちち は厳 きび しい顔 かお で非難 ひなん するように母 はは を見 み つめていた。マクシムはいつもと違 ちが って静 しず かだったが、その表情 ひょうじょう は晴 は れやかで、眼 め には見 み たこともない輝 かがや きがあった。その夜 よる 、広 ひろ い寝室 しんしつ で一人 ひとり ベッドに横 よこ たわる私 わたし のところへ彼 かれ が飛 と びこんできて、膝 ひざ をつくと私 わたし を抱 いだ きかかえてキスし、泣 な き喚 わめ いてからまた私 わたし にキスをしてきた。彼 かれ の取 と り乱 みだ しようには驚 おどろ かされた。「どうしたのさ、マクシムおじちゃん?」私 わたし はゆっくりと息 いき を吐 は いた。彼 かれ は部屋 へや 中 ちゅう を駆 か け回 まわ り、私 わたし にキスをしてはブツブツと何 なに かを口 くち にしていた。「すばらしい、すばらしい!勝利 しょうり だ!」
すすり泣 な きながらも、彼 かれ は厳粛 げんしゅく な面持 おもも ちでこのことは秘密 ひみつ にするよう私 わたし に約束 やくそく させ、ミステリアスな、そして畏敬 いけい の念 ねん を呼 よ ぶような言葉 ことば をささやいた。「人民 じんみん の意志 いし !専制 せんせい を倒 たお し、自由 じゆう なロシアを」 [2]
バークマンが15歳 さい のときに父親 ちちおや が亡 な くなり、母親 ははおや も翌年 よくねん 息 いき を引 ひ き取 と った。1888年 ねん 2月 がつ 、バークマンはアメリカへと発 た った。
ヘイマーケット事件 じけん (1886年 ねん )で有罪 ゆうざい となった男 おとこ の釈放 しゃくほう を訴 うった えるキャンペーンを組織 そしき していたグループとの関係 かんけい を通 つう じて、バークマンはアナーキストとなる。ニューヨークに着 つ いてすぐのことだった。当時 とうじ アメリカで最 もっと も有名 ゆうめい だったアナキストであるヨハン・モストの影響 えいきょう を受 う けるまで時間 じかん はかからなかった。ヨハン・モストは「遂行 すいこう のプロパガンダ」というテロ行為 こうい 、あるいは大衆 たいしゅう を反逆 はんぎゃく に導 みちび くための暴力 ぼうりょく の提唱 ていしょう 者 しゃ だった。バークマンはヨハン・モストの新聞 しんぶん 「自由 じゆう 」のタイプライターとなる。
バークマンはニューヨークで自分 じぶん と同 おな じくロシアからの移民 いみん であるエマ・ゴールドマンと出会 であ い、恋 こい におちた。すぐに彼 かれ らは自分 じぶん 達 たち のいとこや友人 ゆうじん とともに共同 きょうどう 生活 せいかつ を始 はじ めている。困難 こんなん に満 み ちた人生 じんせい だったが、バークマンとゴールドマンは何 なん 十 じゅう 年 ねん ものあいだ固 かた い絆 きずな で結 むす ばれ、平等 びょうどう な個人 こじん というアナキズムの原理 げんり と責任 せきにん によってひとつだったのだ。
バークマンは次第 しだい にヨハン・モストと疎遠 そえん になり、別 べつ の雑誌 ざっし 「自治 じち 」と関 かか わっていく。しかし、革命 かくめい 的 てき を鼓舞 こぶ するための手段 しゅだん としての暴力 ぼうりょく 的 てき な行動 こうどう という方針 ほうしん に身 み を委 ゆだ ねることをやめはしなかった。
バークマンとエマ・ゴールドマンが初 はじ めて政治 せいじ 的 てき な行動 こうどう を起 お こす機会 きかい を見出 みいだ したのが、ペンシルベニア州 しゅう ホームステッド工場 こうじょう でのストライキ事件 じけん だった。1892年 ねん 6月 がつ 、カーネギー鉄鋼 てっこう 会社 かいしゃ と「鉄鋼 てっこう 労働 ろうどう 者 しゃ 合同 ごうどう 組合 くみあい 」の交渉 こうしょう が決裂 けつれつ すると、ホームステッドにある工場 こうじょう の労働 ろうどう 者 しゃ たちは、ロックアウト された。工場 こうじょう 長 ちょう だったヘンリー・クレイ・フリックはピンカートン警備 けいび 会社 かいしゃ から警備 けいび 員 いん 300人 にん を雇 やと って武装 ぶそう させ、組合 くみあい のピケ を突破 とっぱ させた。ピンカートン社 しゃ の警備 けいび 員 いん は6月 がつ 6日 にち 、工場 こうじょう を襲 おそ って銃撃 じゅうげき 戦 せん を繰 く り広 ひろ げた。12時 じ 間 あいだ にもおよぶ戦闘 せんとう で労働 ろうどう 者 しゃ 側 がわ に9人 にん 、警備 けいび 員 いん 側 がわ に7人 にん の死者 ししゃ がでた。
この事件 じけん ではアメリカ中 ちゅう の新聞 しんぶん が組合 くみあい の労働 ろうどう 者 しゃ を擁護 ようご した。バークマンとエマ・ゴールドマンはフリックを暗殺 あんさつ することを決意 けつい する。バークマンは暗殺 あんさつ こそが労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう を団結 だんけつ させ、資本 しほん 主義 しゅぎ 社会 しゃかい への反逆 はんぎゃく に導 みちび くと信 しん じていたのだ。バークマンの計画 けいかく では、フリックを暗殺 あんさつ した後 のち で自殺 じさつ することになっていた。ゴールドマンの役割 やくわり はその自殺 じさつ の後 のち でバークマンの動機 どうき を説明 せつめい することだった。バークマンははじめ爆 ばく 弾 だん の自作 じさく を試 こころ みたが、それに失敗 しっぱい すると、ピッツバーグで拳銃 けんじゅう 1丁 ちょう とりっぱな背広 せびろ を購入 こうにゅう した。7月23日 にち 、バークマンは拳銃 けんじゅう を手 て にフリックの事務所 じむしょ を訪 おとず れた。そのままフリックに3度 ど 発砲 はっぽう し、それから掴 つか みかかって蹴 け りつけた。フリックの助 たす けを聞 き きつけてやってきた労働 ろうどう 者 しゃ たちに殴 なぐ りつけられ、バークマンは失神 しっしん した。そして彼 かれ は殺人 さつじん 未遂 みすい により懲役 ちょうえき 22年 ねん をい渡 いわた されたのだった。悪 わる いことに、バークマンの「襲撃 しゅうげき 」は大衆 たいしゅう を立 た ち上 あ がらせることにも失敗 しっぱい したのだった。労働 ろうどう 者 しゃ とアナキストたちは共 とも にその行為 こうい を非難 ひなん した。
バークマンは14年 ねん を刑務所 けいむしょ で過 す ごし、1906年 ねん 5月 がつ 18日 にち に出所 しゅっしょ した。エマ・ゴールドマンとはデトロイト 駅 えき のプラットフォームで再開 さいかい したが、そのやせこけた姿 すがた は彼女 かのじょ を「恐怖 きょうふ と憐憫 れんびん のとりこ」にした。刑務所 けいむしょ にいる間 あいだ 、バークマンはアメリカびいきにこそなったが、一人 ひとり の自由 じゆう な男 おとこ として人生 じんせい をやり直 なお すことには素直 すなお でなかった。不安 ふあん とストレスから、彼 かれ は自殺 じさつ を考 かんが えてクリーブランド (オハイオ州 しゅう )|クリーヴランドで拳銃 けんじゅう を購入 こうにゅう した。しかしニューヨークへ戻 もど った彼 かれ は、そこでゴールドマンや他 た の運動 うんどう 家 か たちがレオン・チョルゴスについてのミーティングの場 ば で逮捕 たいほ されたことを知 し った。この「集会 しゅうかい の自由 じゆう 」の侵害 しんがい をうけてバークマンは復活 ふっかつ を宣言 せんげん し、仲間 なかま の解放 かいほう を目指 めざ して動 うご きはじめた。
すぐにバークマンはアメリカにおけるアナキストのリーダー格 かく の一人 ひとり としてエマ・ゴールドマンらと肩 かた を並 なら べるようになった。ゴールドマンの勧 すす めもあって、彼 かれ は刑務所 けいむしょ にいた頃 ころ のことを「あるアナキストによる刑務所 けいむしょ の回想 かいそう 」としてまとめた。執筆 しっぴつ することで、囚人 しゅうじん になったという経験 けいけん から救 すく われたとバークマンは語 かた っている。
母 はは なる地球 ちきゅう とフェラー・センター[ 編集 へんしゅう ]
1907年 ねん から15年 ねん まで、バークマンはエマ・ゴールドマンの「母 はは なる地球 ちきゅう 」の編集 へんしゅう 者 しゃ をしていた。彼 かれ の運営 うんえい のもと、この雑誌 ざっし はアメリカでも指折 ゆびお りのアナキスト向 む け刊行 かんこう 物 ぶつ となった。雑誌 ざっし 編集 へんしゅう はバークマンにとって自分 じぶん に活力 かつりょく を与 あた えてくれる仕事 しごと だった。エマ・ゴールドマンとの関係 かんけい は停滞 ていたい していたが、当時 とうじ の彼 かれ はベッキー・エデルソンという15歳 さい のアナキストと浮気 うわき をしていた。
1910年 ねん 、11年 ねん にかけてニューヨークに設立 せつりつ されたフェラー・センターを支援 しえん し、バークマン自身 じしん も講師 こうし の一人 ひとり として活動 かつどう した。フェラー・センターはスペイン人 じん アナキストのフランシスコ・フェラーにちなんで名 な づけられた。生徒 せいと たちに自主 じしゅ 的 てき な思考 しこう を促 うなが すための学校 がっこう でもあったが、フェラー・センターは成人 せいじん たちのコミュニティの場 ば でもあった。
メーデーで演説 えんぜつ するバークマン(1914年 ねん )
ラドローの虐殺 ぎゃくさつ とレキシントン通 どお りの爆発 ばくはつ [ 編集 へんしゅう ]
1913年 ねん 9月 がつ 、コロラド州 しゅう ラドローの鉱夫 こうふ たちがストライキを呼 よ びかけた。しかし彼 かれ らの親会社 おやがいしゃ は、ロックフェラー 家 いえ がオーナーである、当時 とうじ 最 もっと も規模 きぼ の大 おお きい鉱山 こうざん 会社 かいしゃ だった。1914年 ねん 4月 がつ 20日 はつか 、警備 けいび 員 いん たちがストライキをしていた鉱夫 こうふ たちやその家族 かぞく の住 す むテントを襲撃 しゅうげき し、26人 にん の死者 ししゃ が出 で る。
ストライキ中 ちゅう 、バークマンは鉱夫 こうふ たちの支持 しじ を得 え てニューヨーク でデモを行 おこな った。5月と6月 がつ には他 た のアナキストたちとともにジョン・ロックフェラーjrへの複数 ふくすう の抗議 こうぎ デモを主導 しゅどう した。抗議 こうぎ 活動 かつどう はしだいにニューヨーク中心 ちゅうしん 地 ち からロックフェラー家 か のお膝元 ひざもと であるテリータウンへと広 ひろ がる一方 いっぽう で、相当 そうとう な数 かず のアナキストが暴行 ぼうこう を受 う け、逮捕 たいほ 、監禁 かんきん された。テリータウンで示 しめ された警察 けいさつ の強硬 きょうこう な姿勢 しせい は、フェラー・センターに集 つど うアナキストたちによる爆破 ばくは 計画 けいかく へとつながった。7月、バークマンの仲間 なかま 3人 にん がダイナマイトを調達 ちょうたつ し、やはり彼 かれ に同調 どうちょう していたルイーズ・バーガーの住 す むアパートに投 な げ込 こ んだ。彼 かれ らによれば、バークマンが指導 しどう 的 てき な立場 たちば にあり、グループ内 ない で最 もっと も年長 ねんちょう であり経験 けいけん もあったという。後 のち にバークマンは計画 けいかく への関与 かんよ を否定 ひてい している。
7月 がつ 4日 にち 9時 じ 、ルイーズがエマ・ゴールドマンの事務所 じむしょ に出 で かけた。その15分 ふん 後 ご 、大 だい 爆発 ばくはつ が起 お こる。爆 ばく 弾 だん が早 はや 発 はっ し、ルイーズの住 す む6階 かい 立 だ てのアパートが震 ふる え、3階 かい から先 さき は大破 たいは した。ダイナマイトを仕掛 しか けた3人 にん は全員 ぜんいん 死亡 しぼう し、もう1人 ひとり の女性 じょせい が亡 な くなった。彼女 かのじょ は明 あき らかにこの事件 じけん の共謀 きょうぼう 者 しゃ ではなかった。バークマンは亡 な くなった人間 にんげん の葬儀 そうぎ を手配 てはい している。
「発破 はっぱ 」とムーニー事件 じけん [ 編集 へんしゅう ]
1915年 ねん 、バークマンはニューヨークを離 はな れ、カリフォルニア州 しゅう へ向 むか った。翌年 よくねん 、サンフランシスコ で彼 かれ はアナーキスト誌 し 「発破 はっぱ 」の出版 しゅっぱん を始 はじ めた。18ヶ月 かげつ しか発行 はっこう されなかったものの、「発破 はっぱ 」は「母 はは なる地球 ちきゅう 」に次 つ いでアメリカのアナキスト達 たち に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えたと考 かんが えられている。
1916年 ねん 7月 がつ 22日 にち 、10人 にん を殺害 さつがい し40人 にん に重傷 じゅうしょう を負 お わせた爆 ばく 弾 だん 事件 じけん が起 お こる。警察 けいさつ はバークマンが首謀 しゅぼう 者 しゃ だと考 かんが えていたが、証拠 しょうこ はなかった。最終 さいしゅう 的 てき に、トーマス・ムーニーとウォーレン・ビリングスが犯人 はんにん だとされた。しかし、二人 ふたり ともバークマンと関係 かんけい を持 も っておらず、その釈放 しゃくほう を求 もと めて大 だい 規模 きぼ な運動 うんどう が起 お こった。ムーニーは死刑 しけい 、ビリングスは終身 しゅうしん 刑 けい をい渡 いわた されている。バークマンはロシア人 じん のアナキストにアピールするため、ロシア革命 かくめい の最中 さいちゅう にあったペテルブルクのアメリカ大使館 あめりかたいしかん へのデモを組織 そしき した。アメリカやヨーロッパなどでも抗議 こうぎ デモは行 おこな われた。ウィルソン大統領 だいとうりょう がカリフォルニア州 しゅう 知事 ちじ にムーニーの減刑 げんけい を求 もと め、州 しゅう 知事 ちじ はそれに応 おう じた。曰 いわ く、「(ムーニーの件 けん での)バークマンによって書 か かれた筋書 すじが きは世界 せかい に通用 つうよう するほどよくできていた」。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん [ 編集 へんしゅう ]
アメリカの参戦 さんせん は1917年 ねん 。議会 ぎかい は選抜 せんばつ 徴兵 ちょうへい 法 ほう (Selective Service Act of 1917)を可決 かけつ し、徴兵 ちょうへい 制度 せいど によって登録 とうろく された21歳 さい から30歳 さい までの全 ぜん 成人 せいじん 男性 だんせい をその対象 たいしょう とした。バークマンはニューヨークへと戻 もど り、エマ・ゴールドマンと「反 はん 徴兵 ちょうへい 連盟 れんめい 」を組織 そしき 、「我々 われわれ は徴兵 ちょうへい に反対 はんたい する。なぜなら我々 われわれ は国際 こくさい 共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ であり反 はん 軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ 者 しゃ だからであり、資本 しほん 主義 しゅぎ 国家 こっか によって行 おこな われるあらゆる戦争 せんそう にも反対 はんたい する」という声明 せいめい を発表 はっぴょう した。この組織 そしき は反 はん 徴兵 ちょうへい 運動 うんどう の最前線 さいぜんせん に立 た ち、ニューヨーク以外 いがい にも支部 しぶ が誕生 たんじょう した。しばらくして「反 はん 徴兵 ちょうへい 連盟 れんめい 」は公然 こうぜん と集会 しゅうかい を開 ひら くのではなく、パンフレットをばら撒 ま くことが中心 ちゅうしん 的 てき な活動 かつどう になる。彼 かれ らの徴兵 ちょうへい 制 せい に登録 とうろく しない若者 わかもの を求 もと める集会 しゅうかい を警察 けいさつ が妨害 ぼうがい するようになったからだ。
1917年 ねん 6月 がつ 15日 にち 、バークマンとゴールドマンは事務所 じむしょ にいる所 ところ を逮捕 たいほ された。警察 けいさつ は「アナキストの名簿 めいぼ や宣伝 せんでん 材料 ざいりょう の山 やま 」も押収 おうしゅう していった。二人 ふたり はスパイ防止 ぼうし 法 ほう (Espionage Act of 1917)違反 いはん として起訴 きそ される。「徴兵 ちょうへい 制 せい への不 ふ 登録 とうろく を共謀 きょうぼう して誘導 ゆうどう した」ものとされた。保釈 ほしゃく 金 きん は一人 ひとり につき25000ドルだった。
バークマンとエマ・ゴールドマン(1917年 ねん )
バークマンとゴールドマンは公判 こうはん 中 ちゅう 、合衆国 がっしゅうこく 憲法 けんぽう 修正 しゅうせい 第 だい 1条 じょう を引 ひ き合 あ いに出 だ して自分 じぶん たちを弁護 べんご した。本国 ほんごく で自由 じゆう な言論 げんろん を抑圧 よくあつ して、どうしてヨーロッパで「自由 じゆう と民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 」のために戦 たたか うという主張 しゅちょう ができるのかと訊 たず ねたのである。
ヨーロッパに自由 じゆう をもたらそうとしながら、ここには自由 じゆう がない。ドイツで民主 みんしゅ 主義 しゅぎ のために戦 たたか いながら、いまここニューヨークでは民主 みんしゅ 主義 しゅぎ を抑圧 よくあつ している。それがアメリカだと世界 せかい に宣言 せんげん するのですか?この国 くに における自由 じゆう な言論 げんろん をはじめ自由 じゆう そのものを抑圧 よくあつ しておいて、5000マイルの彼方 かなた で戦 たたか うほど自由 じゆう を愛 あい しているとまだ偽 いつわ るのですか? [3]
陪審 ばいしん の評決 ひょうけつ は有罪 ゆうざい であり、裁判官 さいばんかん は最 もっと も重 おも い判決 はんけつ を下 くだ した。懲役 ちょうえき 2年 ねん 、罰金 ばっきん 1万 まん ドル、釈放 しゃくほう 後 ご は国外 こくがい 追放 ついほう を検討 けんとう するというものだった。バークマンはアトランタ連邦 れんぽう 刑務所 けいむしょ で刑 けい に服 ふく した。他 た の囚人 しゅうじん から暴行 ぼうこう を受 う けたためそのうち7カ月 かげつ は独居 どっきょ 房 ぼう に入 はい っていた。1919年 ねん 10月 がつ 1日 にち に釈放 しゃくほう されたバークマンは「やつれ、青 あお ざめて」いたとエマ・ゴールドマンはいう。21カ月 かげつ 間 あいだ のアトランタでの生活 せいかつ はバークマンにとってペンシルベニヤでの14年間 ねんかん よりもはるかに苦 くる しいものだった。
バークマンたちが釈放 しゃくほう されたのは、アメリカで最初 さいしょ の「赤 あか の恐怖 きょうふ 」が絶頂 ぜっちょう のときだった。ボリシェヴィキによる1917年 ねん のロシア革命 かくめい は、戦争 せんそう への不安 ふあん と相俟 あいま って反 はん 急進 きゅうしん 主義 しゅぎ 、反 はん 外国 がいこく 感情 かんじょう の風潮 ふうちょう を生 う み出 だ していたのだ。ジョン・フーヴァー とアレクサンダー・パーマーのもとアメリカ司法省 しほうしょう 一般 いっぱん 情報 じょうほう 部 ぶ は、「パーマー・レイド」として知 し られる左翼 さよく 狩 か りをはじめた。彼 かれ らを刑務所 けいむしょ に送 おく り込 こ んだフーヴァーはこう述 の べている。
エマ・ゴールドマンとアレクサンダー・バークマンは、疑 うたが いようもなくわが国 くに で最 もっと も危険 きけん なアナキストだ。もし社会 しゃかい への復帰 ふっき を許 ゆる せば、甚 はなは だしい害 がい をもたらすだろう。1918年 ねん のアナキスト排除 はいじょ 法 ほう のもと、政府 せいふ はバークマンへは二度 にど と合衆国 がっしゅうこく 市民 しみん 権 けん を適用 てきよう しない。ゴールドマンやそのほか200人 にん 以上 いじょう の人間 にんげん も同様 どうよう だ。ロシアへ追放 ついほう する。 [4]
1ロシア追放 ついほう の前夜 ぜんや
シカゴでの最後 さいご の晩餐 ばんさん の席上 せきじょう 、バークマンとエマ・ゴールドマンは、25年 ねん 以上 いじょう 前 まえ に自分 じぶん たちが殺 ころ そうとしたヘンリー・クレイ・フリックが死 し んだというニュースを知 し った。記者 きしゃ からコメントを求 もと められたバークマンはフリックは「神 かみ に追放 ついほう された」と述 の べている。
はじめバークマンのボリシェヴィキに対 たい する反応 はんのう は熱狂 ねっきょう 的 てき なものだった。彼 かれ らによる政変 せいへん を初 はじ めて知 し ったときのバークマンは、「私 わたし の人生 じんせい で最良 さいりょう のときだ」と叫 さけ び、ボリシェヴィキが「人間 にんげん の魂 たましい が求 もと める最 もっと も根源 こんげん 的 てき な欲求 よっきゅう の現 あらわ れだ」と書 か いている。ロシアに到着 とうちゃく したバークマンのなかには情熱 じょうねつ がたぎっていた。彼 かれ は14年間 ねんかん の懲役 ちょうえき から解放 かいほう されたとき以上 いじょう の「私 わたし の人生 じんせい で最 もっと も崇高 すうこう なときだ」と表現 ひょうげん している。
バークマンとエマ・ゴールドマンはロシア中 ちゅう を旅 たび し、1920年 ねん の大半 たいはん を革命 かくめい 博物館 はくぶつかん 建設 けんせつ のための資料 しりょう を収集 しゅうしゅう して過 す ごした。しかし二人 ふたり が全国 ぜんこく をまわって発見 はっけん したのは、抑圧 よくあつ と腐敗 ふはい だった。そこには彼 かれ らが夢見 ゆめみ ていた平等 びょうどう や労働 ろうどう 者 しゃ の啓蒙 けいもう はなかった。政府 せいふ に疑問 ぎもん をもつ者 もの は「反 はん 革命 かくめい 」的 てき な悪鬼 あっき とみなされ、労働 ろうどう 者 しゃ たちは過酷 かこく な環境 かんきょう にあった。彼 かれ らが面会 めんかい したウラジーミル・レーニンは政府 せいふ が報道 ほうどう の自由 じゆう を制限 せいげん することを正当 せいとう 化 か して言 い った。
革命 かくめい が危機 きき を脱 だっ したならば、自由 じゆう な発言 はつげん という甘 あま えも許 ゆる される。[5]
1921年 ねん 3月 がつ 、ペトログラードでストライキが起 お こる。労働 ろうどう 者 しゃ たちが良質 りょうしつ の配給 はいきゅう 食糧 しょくりょう とさらなる組合 くみあい の自治 じち を求 もと めたのだ。バークマンとゴールドマンはストを支持 しじ している。「いま沈黙 ちんもく を守 まも ることは、不可能 ふかのう であり犯罪 はんざい 的 てき でさえある」。不穏 ふおん な状況 じょうきょう がペトログラード西 にし の軍港 ぐんこう まで広 ひろ がり、トロツキーは軍隊 ぐんたい の出動 しゅつどう を要請 ようせい した。このクロンシュタットの反乱 はんらん では600人 にん 以上 いじょう の水夫 すいふ が殺 ころ され、2000人 にん 以上 いじょう が逮捕 たいほ された。ソ連 それん 軍 ぐん 兵士 へいし も500から1500人 にん が亡 な くなった。こうして鎮圧 ちんあつ された蜂起 ほうき をみたバークマンとゴールドマンは、もはやこの国 くに には自分 じぶん たちにとっての未来 みらい はないと考 かんが えた。
1921年 ねん 11月、バークマンたちはロシアを離 はな れてベルリン に移 うつ り、数 すう 年 ねん を過 す ごした。ほぼロシアを出 で た直後 ちょくご から、バークマンはロシア革命 かくめい についての小 しょう 論 ろん を書 か き始 はじ めた。「ロシアの悲劇 ひげき 」、「ロシア革命 かくめい と共産党 きょうさんとう 」、「クロンシュタットの反乱 はんらん 」は1922年 ねん 夏 なつ に出版 しゅっぱん された。
バークマンはロシアでの経験 けいけん を本 ほん にまとめるつもりだったが、彼 かれ が集 あつ めた資料 しりょう を使 つか ってエマ・ゴールドマンも同 おな じような本 ほん を書 か いたためそれを手伝 てつだ い、彼 かれ 自身 じしん の本 ほん はしばらく出版 しゅっぱん が延 の びた。ゴールドマンの「ロシアでの私 わたし の2年間 ねんかん 」は1922年 ねん 12月に完成 かんせい し、彼女 かのじょ がつけていないタイトルがつけられ、「ロシアでの私 わたし の失望 しつぼう 」、「ロシアでのさらなる私 わたし の失望 しつぼう 」として2冊 さつ の本 ほん になって出版 しゅっぱん された。バークマンは1923年 ねん に「ボリシェヴィキの神話 しんわ 」を書 か き、1925年 ねん に出版 しゅっぱん した。
バークマンは1925年 ねん 、フランスへ行 い く。そこで彼 かれ は年老 としお いたアナキストたちのための基金 ききん をつくった。またソ連 それん で収監 しゅうかん されているアナキストのために戦 たたか いを続 つづ け、「ロシアの刑務所 けいむしょ からの手紙 てがみ 」として彼 かれ らの迫害 はくがい について詳細 しょうさい に記述 きじゅつ した。
1926年 ねん 、ニューヨークのユダヤ人 じん アナキスト連合 れんごう に一般 いっぱん 市民 しみん へ向 む けたアナキズムを紹介 しょうかい する文章 ぶんしょう を依頼 いらい される。ニューヨークのアナキストたちは平易 へいい な言葉 ことば でアナキズムの原理 げんり を示 しめ すことで、読者 どくしゃ が運動 うんどう を支援 しえん する流 なが れが生 う まれることを期待 きたい していた。少 すく なくとも一般 いっぱん 市民 しみん からみたアナキズムやアナキストのイメージが向上 こうじょう するだろうと考 かんが えたのである。バークマンは「アナーキズムのABC」を書 か いて1929年 ねん に出版 しゅっぱん し、その後 ご 何 なん 度 ど も再版 さいはん をかけた。アナキストに詳 くわ しい歴史 れきし 家 か のポール・アヴリッチによれば同書 どうしょ は「共産 きょうさん 主義 しゅぎ 的 てき アナキズムを最 もっと も簡明 かんめい に説明 せつめい した本 ほん 」である。
彼 かれ は晩年 ばんねん の生活 せいかつ が不安定 ふあんてい な時期 じき には編集 へんしゅう や翻訳 ほんやく をして糊口 ここう をしのいだ。1930年 ねん 、健康 けんこう がすぐれなくなる。前立腺 ぜんりつせん の状態 じょうたい が悪化 あっか し、1936年 ねん の初 はじ めに2度 ど 手術 しゅじゅつ を受 う けたがあまり成功 せいこう しなかった。断続 だんぞく 的 てき に痛 いた みを感 かん じるようになり、経済 けいざい 的 てき にもエミー・エクスタインら友人 ゆうじん 達 たち の支援 しえん に頼 たよ っていたバークマンは、自殺 じさつ を決意 けつい する。1936年 ねん 6月 がつ 28日 にち 午前 ごぜん 、病 やまい による痛 いた みに耐 た え切 き れず、拳銃 けんじゅう を自 みずか らに向 む けて発砲 はっぽう したが失敗 しっぱい する。弾丸 だんがん は脊柱 せきちゅう に撃 う ち込 こ まれ、彼 かれ は意識 いしき を失 うしな った。エマ・ゴールドマンは彼 かれ のいるニースに急 いそ いだ。午後 ごご には昏睡 こんすい 状態 じょうたい に陥 おちい り、夜 よる 10時 じ に息 いき を引 ひ き取 と った。
近代 きんだい の歴史 れきし に残 のこ る最 もっと もわかりやすいアナルコサンディカリスム の例 れい であるスペイン内戦 ないせん が始 はじ まる一 いち 週間 しゅうかん 前 まえ のことだった。1937年 ねん 7月 がつ 、ゴールドマンはこう書 か いている。彼 かれ の生 い き方 かた からして、スペインでのアナキズムの実践 じっせん の場 ば にあったならば「(バークマンは)若返 わかがえ り、新 あら たな力 ちから と希望 きぼう を与 あた えられたことだろう。ただもう少 すこ しのあいだ生 い きてさえいれば!」
「アナーキズムのABC」全 ぜん 2巻 かん 、久田 ひさた 俊夫 としお 訳 やく 、杉山 すぎやま 書店 しょてん 、1981年 ねん
「ボリシェヴィキの神話 しんわ 」岡田 おかだ 丈夫 たけお 訳 やく 、太平 たいへい 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1972年 ねん
^ ロシア・フランス語 ふらんすご 読 よ み風 ふう のカナ表記 ひょうき
^ Berkman, Prison Memoirs, p. 91.
^ Trials and Speeches, p. 55.
^ Falk, pp. 177–178.
^ Berkman, Bolshevik Myth, p. 91.
Avrich, Paul (1988). Anarchist Portraits. Princeton: Princeton University Press. ISBN 0-691-00609-1 .
Berkman, Alexander (1992). Fellner, Gene. ed. Life of an Anarchist: The Alexander Berkman Reader. New York: Four Walls Eight Windows. ISBN 0-941423-78-6
Berkman, Alexander (1989) [1925]. The Bolshevik Myth (Diary 1920-1922). London: Pluto Press. ISBN 1-85305-032-6 .
Falk, Candace (1990). Love, Anarchy, and Emma Goldman (2nd ed.). New Bruswick, N.J.: Rutgers University Press. ISBN 0-8135-1513-0 .
Trial and Speeches of Alexander Berkman and Emma Goldman in the United States District Court, in the City of New York, July, 1917. New York: Mother Earth Publishing Association. 1917. OCLC 808946. https://books.google.com/?id=f65YAAAAMAAJ .
Wexler, Alice (1989). Emma Goldman in Exile. Boston: Beacon Press. ISBN 0-8070-7004-1 .
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