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ミハイル・バクーニン

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミハイル・バクーニン
Михаи́л Алекса́ндрович Баку́нин
生年せいねん (1814-05-30) 1814ねん5月30にち
生地きじ ロシア帝国の旗 ロシア帝国ていこく Pryamukhino (トルジョーク近郊きんこう
没年ぼつねん (1876-07-01) 1876ねん7がつ1にち(62さいぼつ
ぼつ スイスの旗 スイス ベルン
思想しそう 政府せいふ主義しゅぎしゃかみろんしゃ
活動かつどう 政府せいふ主義しゅぎ
所属しょぞく だいいちインターナショナル
信教しんきょう もとせい教徒きょうと
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ミハイル・アレクサンドロヴィチ・バクーニンロシア: Михаи́л Алекса́ндрович Баку́нин1814ねん5月30にち - 1876ねん7がつ1にち[1])は、ロシア思想家しそうか哲学てつがくしゃ政府せいふ主義しゅぎしゃ革命かくめいもとせい教徒きょうとかみろんしゃ

アナキズム歴史れきしかたじょう重要じゅうよう人物じんぶつである。またマルクス主義まるくすしゅぎ、とりわけマルクスの主張しゅちょうしたプロレタリア独裁どくさい反対はんたいしたことでもられている。ノーム・チョムスキーなど、現代げんだいのアナキストにも影響えいきょうあたえている。

ロシア帝国ていこく貴族きぞくいえまれ、少年しょうねんから青年せいねんにはロシアぐん仕官しかんしたが1835ねん退官たいかん。そのモスクワ哲学てつがくまなび、急進きゅうしんのサークルと交流こうりゅうつ。とくゲルツェンからは多大ただい影響えいきょうけた。1842ねんにはロシアをってドレスデンおもむき、のちにパリジョルジュ・サンドピエール・ジョセフ・プルードン、そしてマルクス出会であっている。

ロシアのポーランド弾圧だんあつ反対はんたいし、ついにはフランス国外こくがい追放ついほうされた。1848ねん革命かくめいではチェックじん蜂起ほうきくわわったため、ドレスデンで逮捕たいほされた。ロシアへ移送いそうされ、サンクトペテルブルクペトロパブロフスク要塞ようさい収容しゅうようされた。1857ねんまで獄中ごくちゅう生活せいかつおくったのちシベリア流刑りゅうけいとなった。

1861ねん脱走だっそう日本にっぽんアメリカ経由けいゆしてロンドンのがれ、ゲルツェンとともに急進きゅうしん言論げんろん『カラコル』(ロシアで「かね」の意味いみ)の刊行かんこう一時いちじたずさわった。1863ねんにはポーランドのいちがつ蜂起ほうき参加さんかするため出発しゅっぱつするが、現地げんちへは到達とうたつできずスイスイタリアにしばらくとどまった。犯罪はんざいしゃ立場たちばではあったが、ロシアやヨーロッパ全土ぜんど急進きゅうしん若者わかものおおきな影響えいきょうあたえていった。1870ねんには、パリ・コミューン誕生たんじょう先駆さきがけとなるリヨン暴動ぼうどうくわわっている。

1868ねんには、急進きゅうしん労働ろうどうしゃ組織そしき連合れんごうであり、ヨーロッパ各地かくち支部しぶ国際こくさい組織そしきだいいちインターナショナル加入かにゅう。のち、自身じしん支持しじしゃとともにジュラ連合れんごう形成けいせいした。1872ねん大会たいかいは、議会ぎかい選挙せんきょへの参加さんか主張しゅちょうするマルクス一派いっぱと、それに反対はんたいするバクーニンらの衝突しょうとつ終始しゅうしした。バクーニン議決ぎけつやぶれ、どう大会たいかいわりには、インター内部ないぶ秘密裏ひみつり組織そしき活動かつどうおこなったとして、バクーニンと支持しじしゃ一部いちぶ除名じょめいされた。かれをはじめとするアナキストたちは、大会たいかい公正こうせい運営うんえいされていないとして同年どうねんスイスのサン・ティミエで独自どくじにインターの会議かいぎ開催かいさいしている。バクーニンはこのほかヨーロッパ社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどうにおいても精力せいりょくてき活動かつどうした。『国家こっか制度せいどとアナーキー』『かみ国家こっか』など、後世こうせい多大ただい影響えいきょうあたえた著書ちょしょおおくは1870ねんから1876ねんあいだかれたものである。からだ不調ふちょうしてボローニャ蜂起ほうき参加さんかしようとしたが、ついには馬車ばしゃ積荷つみにまぎれてスイスにもど羽目はめになり、そのルガーノにらした。ヨーロッパの急進きゅうしんとして活動かつどうつづけたが、健康けんこう状態じょうたい悪化あっかしてベルン病院びょういんはこばれ、同地どうちで1876ねん死去しきょした。

生涯しょうがい

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出生しゅっしょうから青年せいねん

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1814ねんはる、モスクワの北西ほくせい位置いちするトヴェリけんプリャムヒノ(トルジョーククフシーノヴォあいだ地名ちめい)で貴族きぞくいえまれる。14さいときサンクトペテルブルク砲兵ほうへい学校がっこう教育きょういくける。1832ねん卒業そつぎょうし、1834ねんにはロシア皇帝こうてい親衛しんえい部隊ぶたい准尉じゅんいとして入隊にゅうたい当時とうじロシアに併合へいごうされていたリトアニアミンスクフロドナ現在げんざいベラルーシぞくする)におもむいた。同年どうねんなつ家族かぞくあいだ悶着もんちゃくがあり、バクーニンは沿わない結婚けっこんをめぐってあねかばった。ちち息子むすこぐんしょく市民しみんへの奉仕ほうしつづけるようのぞんだが、バクーニンはそのどちらも放棄ほうきしモスクワへかい、哲学てつがくまなんだ。

哲学てつがくへの関心かんしん

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モスクワではもと学生がくせいのグループとしたしくなり、観念論かんねんろん哲学てつがく体系たいけいてきまなび、E.H.カー後年こうねん「ロシアの思想しそう広大こうだい肥沃ひよくなドイツ形而上学けいじじょうがく地平ちへいひらいてみせた勇敢ゆうかん先駆せんくしゃ」とひょうした詩人しじん、ニコライ・スタンケーヴィチを中心ちゅうしんとした人々ひとびとともまじわった。かれらは当初とうしょカントの哲学てつがくをおもに追究ついきゅうしたが、やがてシェリングフィヒテヘーゲルとその対象たいしょううつしていった。1835ねんあきごろには故郷こきょうのプリャムヒノで自身じしん哲学てつがくサークルをつくっており、それは若者わかものたちのこい舞台ぶたいともなった。たとえばベリンスキーはバクーニンの姉妹しまい一人ひとりこいちている。1836ねん初頭しょとう、バクーニンはふたたびモスクワへもどり、フィヒテの『学者がくしゃ使命しめいについてのかずこう』と『浄福じょうふくなるせいへの指教しきょう』の翻訳ほんやく出版しゅっぱんした。これはバクーニン自身じしんがもっともこのんだ著作ちょさくだった。また、スタンケーヴィチとともゲーテシラーE.T.A.ホフマン著作ちょさくにもしたしんだ。

この当時とうじのバクーニンは、宗教しゅうきょうてきでありつつだつ教会きょうかいてき色彩しきさいつよ内在ないざいろん展開てんかいした。 バクーニンはヘーゲルの影響えいきょうけ、その著作ちょさくのロシアやくはじめて刊行かんこうした。スラヴ主義しゅぎしゃコンスタンチン・アクサーコフピョートル・チャーダーエフ社会しゃかい主義しゅぎしゃアレクサンドル・ゲルツェン、ニコライ・オガリョフに出会であい、この時期じきからバクーニンの思想しそうひろしスラヴ主義しゅぎてき色彩しきさいくしてゆく。やがて父親ちちおや説得せっとくして1840ねんベルリンおもむく。当初とうしょ大学だいがく教授きょうじゅになることを目的もくてきとしていた(本人ほんにん友人ゆうじんらが「真実しんじつ教導きょうどうしゃ」であるとかんがえていた)のだが、ほどなくいわゆるヘーゲル左派さは急進きゅうしんてき学生がくせい接触せっしょくし、ベルリンの社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどうくわわることになる。1842ねん小論文しょうろんぶん『ドイツにおける反動はんどう』では否定ひていというものがたす革命かくめいてき役割やくわり支持しじしており、「破壊はかいへの情熱じょうねつは、創造そうぞう情熱じょうねつである[2]」という一節いっせつしるしている。

ベルリンでさん学期がっきごしたのち、バクーニンはドレスデンへかい、そこでアーノルド・ルーゲとしたしくなった。このころシュタイン著作ちょさく今日きょうのフランスにおける社会しゃかい主義しゅぎ共産きょうさん主義しゅぎ』にれ、社会しゃかい主義しゅぎへの感化かんかふかめた。バクーニンは学究がっきゅうてき生活せいかつ興味きょうみうしなって革命かくめい運動うんどう没頭ぼっとうするようになり、ロシア政府せいふがその急進きゅうしんてき思想しそう警戒けいかいして帰国きこくめいじるも、これを拒否きょひしたため財産ざいさん没収ぼっしゅうされた。こののちゲオルク・ヘルヴェークとともにスイスのチューリヒかった。

スイス、ブリュッセル、プラハ、ドレスデン、パリ時代じだい

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チューリヒには半年はんとしあいだ滞在たいざいし、ドイツの共産きょうさん主義しゅぎしゃヴィルヘルム・ヴァイトリングしたしく交流こうりゅうした。ドイツ共産きょうさん主義しゅぎしゃらとの親交しんこうは1848ねんまでつづき、バクーニン自身じしん時折ときおり共産きょうさん主義しゅぎしゃ自称じしょうし、『スイスの共和きょうわ主義しゅぎしゃ』(Schweitzerische Republikaner) 記事きじいた。バクーニンがスイス西部せいぶジュネーヴうつった直後ちょくご、ヴァイトリングが逮捕たいほされた。警察けいさつ押収おうしゅうされたヴァイトリングの書簡しょかんにはバクーニンのがしばしば登場とうじょうしており、これがロシア帝国ていこく警察けいさつるところとなる。ベルンのロシア大使たいしから帰国きこくめいじられたバクーニンはこれにおうじずブリュッセルへと移動いどうし、ヨアヒム・レレヴェルをはじめ、マルクスとエンゲルス活動かつどう同地どうち参加さんかしていた主要しゅようなポーランド国家こっか主義しゅぎしゃとの邂逅かいこうたしている。レレヴェルがバクーニンにおよぼした影響えいきょう多大ただいであるが、かれらポーランド国家こっか主義しゅぎしゃ1776ねん当時とうじポーランド分割ぶんかつ以前いぜん)の国境こっきょうせんもとづく同国どうこく復活ふっかつ主張しゅちょうしており、意見いけん衝突しょうとつした。バクーニンはポーランドじん以外いがい自治じちけんまもるよう主張しゅちょうしたのである。バクーニンはこれらポーランド国家こっか主義しゅぎしゃたちの聖職せいしょくけん主義しゅぎにも賛同さんどうしめさなかった。一方いっぽうでバクーニンは農民のうみんそう解放かいほうかれらにびかけたが、支持しじられなかった。

1844ねん、バクーニンは当時とうじヨーロッパ急進きゅうしん中心ちゅうしんとなっていたパリへかった。マルクスやアナキストのピエール・ジョセフ・プルードン接触せっしょくしたが、とくにプルードンからはおおきな感銘かんめいけ、二人ふたりあいだには友情ゆうじょうきずかれた。1844ねん12月皇帝こうていニコライ1せいにより貴族きぞくてき特権とっけんおよび市民しみんけん剥奪はくだつ所領しょりょう没収ぼっしゅう終身しゅうしんのシベリア流刑りゅうけい宣告せんこくされ、バクーニンはロシア帝国ていこく当局とうきょくからわれるとなった。これにたいしバクーニンは新聞しんぶん改革かいかく』(La Réforme) になが手紙てがみおくり、ロシア皇帝こうてい圧制あっせいしゃ非難ひなんし、ロシアとポーランドにおける民主みんしゅ主義しゅぎ必要ひつようせいうったえた。1846ねん3がつ、『立憲りっけん』(Constitutionel) にせた書簡しょかんではポーランドを擁護ようごし、同地どうちカトリック教徒きょうとたいする弾圧だんあつ賛同さんどうした。1847ねん11月クラクフからの避難ひなんみんのうち反乱はんらんぐん勝利しょうり賛同さんどうするものたちが、1830ねんのポーランド十一月じゅういちがつ蜂起ほうき記念きねんする集会しゅうかいにバクーニンをまねき、講演こうえんおこなった[3]

この講演こうえんでバクーニンはポーランドとロシアの人民じんみん協力きょうりょくして皇帝こうていかうようびかけ、ロシアにおける専制せんせい政治せいじ終焉しゅうえんのぞんでいると表明ひょうめい。この結果けっかフランスから追放ついほうされ、ブリュッセルへとおもむくこととなった。バクーニンはゲルツェンとベリンスキーに協力きょうりょくあおぎロシアで革命かくめいこそうと目論もくろんだが、二人ふたり助力じょりょくられなかった。ブリュッセルではふたたびポーランドの革命かくめいやマルクスとやりとりし、1848ねん2がつにはレレヴェルが組織そしきした会合かいごうでスラヴ民族みんぞく未来みらいについてかたり、かれらが西洋せいよう世界せかい活力かつりょくをもたらすとべた。このころ、バクーニンがした活動かつどうはしったロシアがわ工作こうさくいんであったといううわさが、ロシア大使たいしによってながされた。

1848ねんには各地かくち革命かくめい運動うんどうこった。ロシア国内こくないでそうしたうごきがられなかったことには失望しつぼうしたものの、バクーニンの歓喜かんきねんはひとしおであった。暫定ざんてい政府せいふにな社会しゃかい主義しゅぎしゃ、フェルディナンド・フロコン、ルイ・ブラン、アレクサンドル・オーギュスト・レドル・ロラン、アルベール・ロリヴィエといった面々めんめん資金しきん協力きょうりょくて、スラヴ連合れんごうによりプロイセンやオーストリア・ハンガリー帝国ていこく、トルコの支配しはいにおかれた人々ひとびと解放ときはなすべく活動かつどう開始かいし。ドイツへけて出発しゅっぱつし、バーデンをとおりフランクフルト、ケルンにいたった。

バクーニンはヘルヴェーグひきいるドイツ民主みんしゅ主義しゅぎしゃ義勇ぎゆうたい支援しえんし、フリードリヒ・ヘッカーによるバーデン蜂起ほうきくわわろうとくわだてたが失敗しっぱい。このときヘルヴェーグを批判ひはんしたマルクスと対立たいりつした。バクーニンはマルクスとの関係かんけいについて、このころからたがいに感情かんじょうてなくなったと後年こうねんになってかえっている[4]

バクーニンはつづいてベルリン移動いどうしたが、そこからポーゼン(ポズナン)かおうとして警察けいさつ阻止そしされた。ポーランド分割ぶんかつ以来いらいプロイセンの支配しはいかれていた同地どうちではポーランドの国家こっか主義しゅぎしゃによる暴動ぼうどうこっていた。バクーニンは予定よてい変更へんこうしてライプツィヒブレスラウおとずれ、プラハではだいいちかいひろしスラヴ会議かいぎ参加さんか。だがこれにつづいた蜂起ほうきは、バクーニンの尽力じんりょくがあったにもかかわらず、武力ぶりょく鎮圧ちんあつされ失敗しっぱいわった。ブレスラウへもどったバクーニンだが、かれをロシア帝国ていこくがわ工作こうさくいんであるとする言説げんせつをマルクスがふたたひろめ、証拠しょうこジョルジュ・サンドっている、と主張しゅちょうした。サンドがバクーニンの擁護ようごまわるとマルクスはこの発言はつげん撤回てっかいした。

バクーニンは1848ねんあき、『スラヴしょ民族みんぞくへのアピール』において、スラヴの革命かくめい勢力せいりょくハンガリーイタリアドイツのそれと連帯れんたいすることを提案ていあんしている[5]目的もくてき当時とうじのヨーロッパのさんだい専制せんせい君主くんしゅ国家こっか、ロシア帝国ていこくオーストリア・ハンガリー帝国ていこく、プロイセン公国こうこくさんカ国かこく打倒だとうであった。

1849ねん、ドレスデンがつ蜂起ほうきにおいてバクーニンは指導しどうてき役割やくわりにない、リヒャルト・ワーグナーヴィルヘルム・ハイネらとともにプロイセンぐん抵抗ていこう、バリケードせんのぞんだ。しかしケムニッツらえられ、13かげつおよ拘置こうち期間きかんののちザクセン政府せいふにより死刑しけい宣告せんこくされた。ロシア政府せいふオーストリア政府せいふかれ身柄みがらほっしていたため終身しゅうしんけい減刑げんけいされたが、1850ねん6がつにはオーストリア当局とうきょくわたされ、11かげつのちふたた死刑しけい判決はんけつける。結局けっきょくこれも終身しゅうしんけい減刑げんけいとなり、最終さいしゅうてきには1851ねん5月にロシアへ身柄みがら送致そうちされた。

この時期じきについて言及げんきゅうしたワーグナーの日記にっきに「放題ほうだいあごひげとやぶのような頭髪とうはつ」をたくわえたバクーニンが登場とうじょうしている[6][7]

収監しゅうかん、『告白こくはく』、流刑りゅうけい

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バクーニンは政治せいじはん収容しゅうようしょとしてられるペトロパヴロフスク要塞ようさい移送いそうされた。監獄かんごく生活せいかつはいったバクーニンのもとを皇帝こうていニコライ1せい使者ししゃオルロフ伯爵はくしゃくおとずれ、告白こくはくしょ提出ていしゅつもとめた。バクーニンを精神せいしんてきにもロシア国家こっか支配しはいこうという意図いとであった。バクーニンは、自身じしん活動かつどうすでられており今更いまさらあかるみに秘密ひみつもないと告白こくはくしょしるし、活動かつどうたちの名前なまえげることをかたくなに拒否きょひした[8]

手紙てがみんだニコライ1せいは「気概きがいのある見上みあげたおとこだが、危険きけん人物じんぶつだ。監視かんしおこたってはならない」とひょうした。この『告白こくはく』はロシア帝国ていこく記録きろく文書ぶんしょとして保管ほかんされていたものであり、内容ないよう議論ぎろん余地よちおおいにのこすものだが、ロシア文学ぶんがく文脈ぶんみゃくにおいて位置いちづけられることがある。

バクーニンはペトロパヴロフスク要塞ようさい地下ちかろうさん年間ねんかん幽閉ゆうへいされたのち、シュリッセリブルク監獄かんごくで4ねんごす。まともな食事しょくじれるような環境かんきょうではなく、バクーニンは壊血病かいけつびょうにかかり、すべてのちてしまったという。バクーニンはのちに、ギリシア神話しんわプロメーテウスおもこすことでしんなぐさめとしていたとこのころかえっている。あまりに過酷かこく状況じょうきょうでの監禁かんきん生活せいかつつづき、兄弟きょうだい毒薬どくやくれを懇願こんがんするほどであった。

ニコライ1せい死後しご皇位こういいだアレクサンドル2せいは、恩赦おんしゃ名簿めいぼからバクーニンの削除さくじょした。しかし1857ねん2がつ、バクーニンの母親ははおやによる請願せいがんがききいれられて処刑しょけい回避かいひ西にしシベリア都市としトムスクへの終身しゅうしん流刑りゅうけいとなった。トムスクに到着とうちゃくしていちねんのうちに、ポーランドじん商人しょうにんむすめで、バクーニンにフランス語ふらんすごおそわっていた女性じょせい、アントニア・クヴャトコフスカと結婚けっこんした。1858ねん8がつ、バクーニンのはとこにたるムラヴィヨフ伯爵はくしゃくかれのもとをおとずれる。ムラヴィヨフは10ねんまえからひがしシベリアしゅう総督そうとくをつとめていた。

ムラヴィヨフはリベラルな気質きしつで、親戚しんせきすじのバクーニンに非常ひじょう好感こうかんいた。1859ねんはる、ムラヴィヨフからアムール開発かいはつ事業じぎょうきょく仕事しごと紹介しょうかいされたバクーニンはつまとともにひがしシベリア中心ちゅうしん都市としイルクーツクうつり、ムラヴィヨフのおさめる植民しょくみん事業じぎょう拠点きょてんである同地どうちイルクーツクを活動かつどう中心ちゅうしんとする政治せいじサークルの一員いちいんとなった。サンクトペテルブルクの官僚かんりょう政治せいじがシベリアを不満ふまん分子ぶんし追放ついほうさきとして利用りようしていたこともあり、バクーニンは中央ちゅうおう政府せいふがわ入植にゅうしょくたいするあつかいに憤慨ふんがいした。「シベリア合州国がっしゅうこく」の樹立じゅりつ提案ていあんされたが、これはシベリア地域ちいきがロシア帝国ていこくから独立どくりつしてシベリア・アメリカ連合れんごう形成けいせいしようという構想こうそうで、アメリカ独立どくりつれいにならったものである。この政治せいじサークルには、ムラヴィヨフのわか部下ぶかにしてクロポトキンの縁者えんじゃであり、ゲルツェンの著作ちょさくしゅう所持しょじしていた参謀さんぼうちょうのクーケリをはじめ、書簡しょかん送受そうじゅのため自分じぶん住所じゅうしょをバクーニンにした民政みんせい長官ちょうかんのイズヴォルスキー、ムラヴィヨフの副官ふっかんでのちの総督そうとくアレクサンドル・ドンデュコフ=コルサコフ将軍しょうぐんなどが所属しょぞくしていた。

ゲルツェンが『コーロコル』でムラヴィヨフを批判ひはんしたとき、バクーニンは自身じしん後見人こうけんにんであるムラヴィヨフを真摯しんし擁護ようごした[9]。バクーニンはシベリアでの外商がいしょう業務ぎょうむ嫌気いやけがさしつつあったが、ムラヴィヨフのおかげ閑職かんしょくとはいえほとんどはたらかずにとし2せんルーブルの収入しゅうにゅうることができていたのである。だがムラヴィヨフは総督そうとくにんわれることになる。理由りゆうとしてはかれ自由じゆう主義しゅぎてき思想しそうぬしであったこと、そしてシベリア独立どくりつ運動うんどうこすおそれがあると判断はんだんされたことなどがげられる。コルサコフがそのにんいだが、かれはシベリアの流刑りゅうけいしゃたいしてさら同情どうじょうてきであったともかんがえられている。コルサコフの従姉妹いとこはバクーニンの兄弟きょうだいパヴェルと結婚けっこんしており、かれもまたバクーニンの縁者えんじゃであった。コルサコフはバクーニンの要望ようぼうおうじ、かわ凍結とうけつする時期じきはイルクーツクにもどるという条件じょうけんきで、アムールがわおよび支流しりゅう通航つうこうするぜん船舶せんぱくへの乗船じょうせん許可きょかしょう発行はっこうした。

流刑りゅうけいからの脱出だっしゅつ、ヨーロッパへの帰還きかん

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1861ねん6がつ5にち、バクーニンはイルクーツクをのちにした。シベリアの商人しょうにんから依頼いらいされて仕事しごとニコラエフスクかうという名目めいもくであった。7月17にちにはロシアの軍艦ぐんかんストレロークごう乗船じょうせんしてデ=カストリかうつもりだったが、オリガみなと到着とうちゃくしたのち蒸気じょうきせんヴィッカリーごう船長せんちょうせてこれにんだ。船上せんじょうではロシア領事りょうじ遭遇そうぐうするものの、バクーニンはロシア帝国ていこく海軍かいぐん眼前がんぜんをなんとか通過つうかすることができた。8月6にちには北海道ほっかいどうはこかん函館はこだて)に上陸じょうりく、そのもなく横浜よこはま到着とうちゃくした。日本にっぽんではドレスデン蜂起ほうきともたたかったヴィルヘルム・ハイネ偶然ぐうぜん再会さいかいしているほか、ドイツの植物しょくぶつ学者がくしゃシーボルトともっている。シーボルトは日本にっぽん開国かいこくにまつわるうごき(とくたいたいオランダ)に関与かんよしており、またバクーニンの後見人こうけんにんムラヴィヨフの友人ゆうじんでもあった[10]。シーボルトの息子むすこアレクサンダー・フォン・シーボルトはこの40ねん当時とうじかえり、横浜よこはま滞在たいざいちゅうのバクーニンやハイネについてのこしている[11]

バクーニンは蒸気じょうきせんカーリントンごう神奈川かながわから出航しゅっこう。このふね乗客じょうきゃくは19にんで、にはハイネ、牧師ぼくしのP.F.コウ (P.F.Koe)、浜田はまだ彦蔵(ジョセフ・ヒコ)がいた。ヒコは帰化きかアメリカじんで、8ねん明治維新めいじいしんには木戸きど孝允たかよし伊藤いとう博文ひろぶみ政治せいじかんする助言じょげんおこなうなど、重要じゅうよう役割やくわりたすことになる[12]。カーリントンごう10月15にちサンフランシスコ到着とうちゃく大陸たいりく横断おうだん鉄道てつどうはまだ開通かいつうしておらず、ニューヨークくにはパナマ経由けいゆするのがもっともはやかった。バクーニンはオリザバごうでパナマへかい、2週間しゅうかんってチャンピオンごう乗船じょうせん、ニューヨークにおもむいた。

ボストンでは、パリがつ革命かくめいでミエロスワフスキーの勢力せいりょくにいたカロル・フォースターのもとをおとずれ、フリードリヒ・カップなど、1848ねん革命かくめいがったいわゆる「48ねんぐみ」の面々めんめんとも出会であった[13]。そのバクーニンはふたたび船出ふなでし、12月27にちイギリスリバプール到着とうちゃくただちにロンドンかい、ゲルツェンとっている。一家いっか夕食ゆうしょくをとっている最中さいちゅう応接間おうせつまへとしかけ、「なんだ!牡蠣かきべているのか!いいじゃないか!色々いろいろおしえてくれないか、どこでなにきてるんだい?」などとはなしたという。

イタリアへ

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西にしヨーロッパ帰還きかんするとバクーニンはすぐさま革命かくめい運動うんどうとうじていった。1860ねん、まだイルクーツクにいたころのバクーニンは政治せいじグループの同輩どうはいともどもジュゼッペ・ガリバルディとそのシチリア遠征えんせい多大ただい感銘かんめいけていた。この遠征えんせいでガリバルディはヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいのもと、みずからをシチリアの支配しはいしゃであると宣言せんげんしていた。バクーニンはロンドンもどると、ガリバルディに1862ねん1がつ31にちづけ手紙てがみいている[14]

バクーニンはガリバルディに、イタリアじんやハンガリーじんみなみスラヴのみんらとともにオーストリアとトルコたいがるよう依頼いらいした。当時とうじガリバルディはローマ遠征えんせい準備じゅんびすすめていた。5月ごろのバクーニンの手紙てがみでは、イタリアとスラヴの連合れんごうとポーランド問題もんだい焦点しょうてんてられている。バクーニンは6がつにはイタリアへの移住いじゅう決意けついしていたが、つまとの合流ごうりゅう時間じかんかり、出発しゅっぱつは8がつになった。このときジュゼッペ・マッツィーニ支援しえんしゃマウリツィオ・クアドリオにけた手紙てがみで、バクーニンを信頼しんらい好人物こうじんぶつひょうしている。しかしアスプロモンテのへんによりバクーニンはパリ足止あしどめとなり、そこでルドヴィク・ミエロスワフスキーの活動かつどうにしばらくかかわることとなった。とはうもののバクーニンはミエロスワフスキーの排外はいがい主義しゅぎ受容じゅようすることはなく、農民のうみんそうへの権利けんり付与ふよについてかえりみないミエロスワウスキーのかんがえをとしなかった。バクーニンは同年どうねん9がつにイギリスにもどり、ポーランド問題もんだい注力ちゅうりょくすることとなる。1863ねんにはいちがつ蜂起ほうき発生はっせい、バクーニンはコペンハーゲンわたりこの反乱はんらんくわわるつもりであった。蒸気じょうきせんウォード・ジャクソンごうバルト海ばるとかい航行こうこうする計画けいかくてたが失敗しっぱいわり、バクーニンはストックホルムつま合流ごうりゅうし、ロンドンへもどった。ふたたびイタリアきをかんがはじめ、友人ゆうじんアウレリオ・サッフィはバクーニンにフィレンツェトリノミラノへの紹介しょうかいじょうおくっている。またマッツィーニはジェノヴァのフェデリコ・カンパネッラやフィレンツェのジュゼッペ・ドルフィにバクーニンの推薦すいせんじょうおくっている。1863ねん11月にロンドンをち、ブリュッセル、パリ、スイスのヴヴェ経由けいゆして1864ねん1がつ11にち、イタリアりをたした。バクーニンはこのでそのアナキストてき思想しそう展開てんかいしていくことになる。

プロパガンダ続行ぞっこう直接ちょくせつ行動こうどう準備じゅんびおこなうため、バクーニンは革命かくめい地下ちか組織そしきつくろうとかんがえた。イタリアじんやフランスじんスカンディナヴィアひと、そしてスラヴじん勧誘かんゆう国際こくさい同胞どうほうだん(International Brotherhood、別名べつめい革命かくめい社会しゃかい主義しゅぎ連合れんごう the Alliance of Revolutionary Socialists)を設立せつりつした。

1866ねん7がつ、バクーニンはゲルツェンとオガリョフにみずからの2年間ねんかん活動かつどう成果せいか報告ほうこくしている。地下ちか組織そしきのメンバーの出身しゅっしんはスウェーデンやノルウェイ、デンマーク、ベルギー、イングランド、フランス、スペイン、イタリアにまでおよんでおり、ポーランドじんやロシアじんばかりにとどまらなかった。同年どうねんの『革命かくめいてき教理きょうり問答もんどうしょ』でバクーニンは宗教しゅうきょう国家こっか反発はんぱつし「国家こっか便益べんえきのために自由じゆう犠牲ぎせいにするようなすべての権威けんいぜん否定ひてい[15]」をとなえた。

1867ねんから68ねんにかけて、バクーニンはエミール・アコラスフランス語ふらんすごばんびかけにこた平和へいわ自由じゆう連盟れんめい (Ligue de la Paix et de la Liberté) に参加さんかし、長文ちょうぶん評論ひょうろん連合れんごう主義しゅぎ社会しゃかい主義しゅぎおよびはん神学しんがく主義しゅぎ』を執筆しっぴつ。このなかでプルードンの著作ちょさくげ、連邦れんぽうせい社会しゃかい主義しゅぎ賛同さんどうした。結社けっしゃ自由じゆう支持しじし、また連盟れんめい参加さんかしているすべての団体だんたいたい脱退だったい自由じゆうをもみとめたが、「社会しゃかい主義しゅぎなき自由じゆう特権とっけんであり、不正ふせいである。自由じゆうなき社会しゃかい主義しゅぎ奴隷どれいせいであり、蛮行ばんこうである」としるしているように[16]、この自由じゆう社会しゃかい主義しゅぎとともに実現じつげんされることを強調きょうちょうした。

バクーニンは1867ねんおこなわれたジュネーヴ会議かいぎ重要じゅうよう役割やくわりにない、中央ちゅうおう委員いいんかいくわわった。その創立そうりつ集会しゅうかいには6せんにん出席しゅっせき、バクーニンの演説えんぜつ会場かいじょう熱狂ねっきょうし、拍手はくしゅがいつまでもまなかったという[17]

連盟れんめいのベルン会議かいぎ(1868ねん)では社会しゃかい主義しゅぎしゃら(エリゼ・ルクリュ、アリスティード・レイ、ジャクラール、ジュゼッペ・ファネッリ、N・I・ジュコフスキー、V・ムラチコフスキほか)ととも少数しょうすうとなり、連盟れんめい脱退だったいしてあらたに国際こくさい社会しゃかい民主みんしゅ同盟どうめい設立せつりつし、革命かくめいてき社会しゃかい主義しゅぎ綱領こうりょうかかげた。

だいいちインターナショナルへの参加さんか、アナキスト運動うんどう隆盛りゅうせい

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1868ねん、バクーニンはだいいちインターナショナルのジュネーヴ支部しぶ参加さんか精力せいりょくてき活動かつどうおこなったが、1872ねんのハーグ大会たいかいでマルクスを中心ちゅうしんとする一派いっぱによって除名じょめいされた。バクーニンはイタリアおよびスペインにおいてインター支部しぶ創設そうせつするさい重要じゅうよう役割やくわりたしていた。

1869ねん社会しゃかい民主みんしゅ同盟どうめいだいいちインターナショナルへの参加さんか拒否きょひされていた。どう組織そしきそのものが国際こくさいてき団体だんたいであり、インターに加入かにゅうできるのは国内こくないてき活動かつどうおこな組織そしきだけであるというのがその理由りゆうであった。社会しゃかい民主みんしゅ同盟どうめい解散かいさんし、同盟どうめい構成こうせいしていた団体だんたい各自かくじでインターに加盟かめいした。

1869ねんから70ねんにかけて、バクーニンはロシアの革命かくめいセルゲイ・ネチャーエフとさまざまな地下ちか活動かつどうつうじてかかわることとなる。しかしバクーニンは革命かくめいをめぐるネチャーエフの主張しゅちょうを「革命かくめいのイエズス主義しゅぎ」としょうし、関係かんけい断絶だんぜつした。この主張しゅちょうは、革命かくめいげるためにはあらゆる手段しゅだん正当せいとうされる、というものであった[18]

1870ねん、バクーニンはリヨン暴動ぼうどう先頭せんとうった。これは失敗しっぱいわったものの、のちのパリ・コミューン先例せんれいとなった。リヨン蜂起ほうきひろしふつ戦争せんそうによるフランス政府せいふ崩壊ほうかい呼応こおうしただい規模きぼ反乱はんらんみずとなるものであり、帝国ていこく主義しゅぎてき紛争ふんそう社会しゃかい革命かくめいつなげようとするうごきであった。『いちフランスじんてた現状げんじょう危機ききかんする手紙てがみ』では労働ろうどうしゃ階級かいきゅう農民のうみん階級かいきゅう革命かくめい運動うんどうにおいて連帯れんたいするべきであるとうったえ、またのちに「行動こうどうによるプロパガンダ」という言葉ことばあらわされることになるおのれ理念りねん明確めいかくにしている[19]

バクーニンが強力きょうりょく支援しえんした1871ねんのパリ・コミューンは、フランス政府せいふにより容赦ようしゃのない弾圧だんあつけた。かれはコミューンをひとえに「国家こっかたいしての反乱はんらん」としてとらえ、コミューンのメンバーには国家こっかのみならず革命かくめいによる独裁どくさい体制たいせい拒否きょひすべきであるとびかけた[20]。バクーニンは一連いちれんのパンフレットでコミューンとインターを擁護ようごし、イタリアの国家こっか主義しゅぎしゃであったマッツィーニとは対立たいりつしたが、おおくのイタリア共和きょうわ主義しゅぎしゃがこれによりインターにつらなることとなり、革命かくめいてき社会しゃかい主義しゅぎはその根拠こんきょ獲得かくとくしたのであった。

バクーニンはマルクスの意見いけんには同意どういできず、1872ねんのハーグ大会たいかいおこなわれた投票とうひょうにおいてマルクス一派いっぱ敗北はいぼくきっ追放ついほうされている。これは革命かくめいけて直接的ちょくせつてき行動こうどうり、労働ろうどうしゃ階級かいきゅう組織そしきして国家こっか資本しほんせいほろぼすべきであるという「はん専制せんせい主義しゅぎ各派かくは論調ろんちょうと、労働ろうどうしゃ階級かいきゅうにより政権せいけん奪取だっしゅする社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎかかげるマルクスとのみぞがインター内部ないぶにおいてふかまりつつあったことのあらわれであった。

はん独裁どくさいはサンティミエ大会たいかい開催かいさいして独自どくじのインター組織そしき創設そうせつし、革命かくめい主義しゅぎてきアナキストを標榜ひょうぼうした[21]。バクーニンは、マルクスの階級かいきゅう分析ぶんせき資本しほん主義しゅぎかんする経済けいざい理論りろんみとめ、かれを「天才てんさい」と認識にんしきしていた。しかしマルクスの性格せいかく傲慢ごうまんであるとかんじており、また議会ぎかい進出しんしゅついとわないかれ手法しゅほうによって社会しゃかい革命かくめい妥協だきょう産物さんぶつわってしまうともかんがえていた。なによりバクーニンは「専制せんせいてき社会しゃかい主義しゅぎ」を批判ひはんしており、マルクスにしたが一派いっぱを「権威けんい主義しゅぎ」と批判ひはんしていた。プロレタリア独裁どくさいについても同様どうようで、この思想しそうたいしてバクーニンは一貫いっかんして拒絶きょぜつ表明ひょうめいしつづけ、「もっと熱心ねっしん革命かくめいぜん権力けんりょくあたえたならば、いちねんもしないうちにかれはツァーリよりひど君主くんしゅとなっているだろう[22]」という言葉ことばのこしている。

1873ねん、バクーニンは引退いんたいしてルガーノにみ、1876ねん7がつ1にち、ベルンで死去しきょした。

政治せいじてき信念しんねん

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バクーニンはその政治せいじてき信念しんねんにおいていかなる名称めいしょうであれ形式けいしきであれ、政治せいじ機構きこうというものをみとめなかった。支配しはいしゃ意志いしであろうと全員ぜんいん一致いっちのぞみであろうと、外部がいぶ権力けんりょく機関きかんをことごとく否定ひていした。この信念しんねんはバクーニンの死後しご、1882ねん出版しゅっぱんされた『かみ国家こっか』にもつらぬかれている[23]

バクーニンはまたあらゆる特権とっけんてき地位ちい階級かいきゅうという概念がいねん拒絶きょぜつした。それらがひと知性ちせい精神せいしん腐敗ふはいさせるとかんがえていたのである。

バクーニンの政治せいじてき信念しんねんはいくつかの相関そうかんする概念がいねんもとづいていた。自由じゆう社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽう主義しゅぎはんかみろん、そして唯物ゆいぶつろんである。またマルクス主義まるくすしゅぎへの批判ひはんおこなったが、これが未来みらい予見よけんしていたという指摘してきもある。バクーニンは、マルクス主義まるくすしゅぎしゃ権力けんりょく場合ばあいかれらが「人民じんみん意志いしであるとせかけているぶん、さらに危険きけんな」いちとう独裁どくさい体制たいせいくであろう、と予言よげんしたのである[24]

自由じゆう

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バクーニンが「自由じゆう」というかたりによってしめしたのは抽象ちゅうしょうてき理想りそうなどではなく、明確めいかく具体ぐたいてき現実げんじつであった。肯定こうていてきべれば、自由じゆうとは「教育きょういく科学かがくてき訓練くんれん物質ぶっしつてき繁栄はんえいによってぜん人類じんるいがその才能さいのう能力のうりょく十全じゅうぜん発達はったつさせること」によってつものであった。またそのようなとらかたは「非常ひじょう社会しゃかいてきである。なぜならば社会しゃかいにあってのみ実現じつげんされる」からであって、孤立こりつしていては不可能ふかのうだからである。否定ひていてきにとらえると、自由じゆう意味いみするところは「かみてき権威けんい集団しゅうだん権威けんい個人こじん権威けんいすべてにたいする個々人ここじん反逆はんぎゃく」である[25]

政府せいふあつまりさん主義しゅぎ

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バクーニンの社会しゃかい主義しゅぎは「政府せいふあつまりさん主義しゅぎ」としてられている。そこでは労働ろうどうしゃらは自身じしん運営うんえいする生産せいさんしゃ組織そしきによって生産せいさん手段しゅだん直接ちょくせつ管理かんりすることになる。子供こどもたちはみな平等びょうどう学習がくしゅう成長せいちょう機会きかいあたえられ、大人おとなはみな平等びょうどう物資ぶっし生産せいさんにいそしむのであるという[26]

連邦れんぽう主義しゅぎ

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バクーニンは、連邦れんぽう主義しゅぎという思想しそうによって「したからうえへ、周縁しゅうえんから中央ちゅうおうけた、連帯れんたい連邦れんぽう自由じゆうという原則げんそくのっとった」社会しゃかい組織そしきとなえ、社会しゃかいは「個人こじん生産せいさんしゃ組織そしきおよびコミューンの自由じゆう基盤きばんとして」「すべての個人こじんすべての組織そしきすべてのコミューン、すべての宗教しゅうきょうすべての国家こっかによって構成こうせいされ」「完全かんぜんなる自己じこ決定けっていけん結社けっしゃ自由じゆう同盟どうめい自由じゆうをもつ」ものとされた[26]

はん神学しんがく主義しゅぎ

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バクーニンは「かみという思想しそう人類じんるい生存せいぞん理由りゆう正義せいぎ放棄ほうき意味いみしており、まぎれもなく人間にんげん自由じゆう否定ひていするものであり、理論りろんてきにも実際じっさいてきにも、必然ひつぜんてき人類じんるい隷属れいぞくという結果けっかをもたらす」と主張しゅちょうしていた。バクーニンは「もしかみ存在そんざいしないというなら、それを発明はつめいしなければならない」というヴォルテール著名ちょめい文言もんごん逆転ぎゃくてんさせ、「もしかみ実在じつざいするというなら、それを破棄はきしなければならない」とべている[23]

唯物ゆいぶつろん

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バクーニンは自由じゆう意志いし宗教しゅうきょうてきにとらえることなく、自然しぜん現象げんしょう唯物ゆいぶつろんてき説明せつめいすることを支持しじした[27]。「科学かがく使命しめいとは、まえにある実際じっさい物事ものごと全体ぜんたいてき関係かんけい観察かんさつし、物質ぶっしつてき社会しゃかいてき現象げんしょう産物さんぶつそなわった普遍ふへんてき法則ほうそく明文化めいぶんかすることである」。だがバクーニンは「科学かがくてき社会しゃかい主義しゅぎ」という概念がいねんれなかった。『かみ国家こっか』のなかでは「社会しゃかい統治とうちけんゆだねられた科学かがくてき身体しんたいはすぐにほろびるであろう」といている[23]

社会しゃかい革命かくめい

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革命かくめい実現じつげんけバクーニンがもちいようとした方法ほうほうは、自身じしん主義しゅぎ思想しそう一致いっちしていた。工場こうじょう労働ろうどうしゃ農民のうみん連邦れんぽう基盤きばんとして組織そしきされ「アイデアだけでなく、未来みらい事実じじつをも創出そうしゅつし」ていく[3]工場こうじょう労働ろうどうしゃ通商つうしょう組合くみあいつくり「すべての生産せいさん用具ようぐを、建物たてもの資産しさんおなじように一手いってに」所有しょゆうする[4]農民のうみんそうは「土地とち農民のうみんたち自身じしんのものとし、他人たにん労働ろうどうによって生活せいかつしている地主じぬしらを追放ついほうする」[19]。バクーニンは「下層かそう人々ひとびと」に注目ちゅうもくし、貧困ひんこんくるしむ大勢おおぜい搾取さくしゅそう、いわゆるルンペンプロレタリアートは「ブルジョワ文明ぶんめいによる汚染おせんをほとんどけておらず」、ゆえに「社会しゃかい革命かくめい火蓋ひぶたり、勝利しょうりへとみちびく」存在そんざいであるとかんがえた[28]

マルクス主義まるくすしゅぎ批判ひはん

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バクーニンとマルクスのあいだわされた論争ろんそうは、アナキズムとマルクス主義まるくすしゅぎとの相違そういてんりにした。バクーニンはおおくのマルクス主義まるくすしゅぎしゃらがついくつかのかんがえにたいしてこととなえ、革命かくめいすべ暴力ぼうりょくてきである必要ひつようはないと主張しゅちょうした。同時どうじにマルクスの提示ていじするプロレタリア独裁どくさいという概念がいねんにはつよ反対はんたいした。マルクスの支持しじしゃはこの言葉ことば現代げんだいうところの労働ろうどうしゃによる民主みんしゅせい解釈かいしゃくするが、これによって共産きょうさん主義しゅぎへの過渡かと状態じょうたいにも国家こっか存続そんぞくすることになる[29]。バクーニンは「革命かくめいによる独裁どくさいというかんがえはもうてており」[29]革命かくめい民衆みんしゅう主導しゅどうおこなわれるべきであると主張しゅちょうし、また「知識ちしきにつけたエリート」には「ひょうにはず」「ひと負担ふたんをかけず」「公権力こうけんりょくたず、要職ようしょくにつかずに」「ただ影響えいきょうおよぼすにとどまる」[30]べきであるとした。国家こっかというものをただちにくすべきである、というのがバクーニンの見解けんかいであった。いかなるかたち政府せいふも、やがては抑圧よくあつへのみちをたどる、とかんがえたのである[29]。バクーニンにとって、自由じゆうとはあくまでも「したからうえへとけて実現じつげんされる」べきものであった[31]

社会しゃかいてきアナキストとマルクス主義まるくすしゅぎしゃ両者りょうしゃとも、目指めざすところは自由じゆう創出そうしゅつであり、社会しゃかいてき階層かいそう統治とうち機関きかんなき平等びょうどう社会しゃかい実現じつげんであったが、目的もくてきたっするための手段しゅだんについてははげしく対立たいりつした。アナキストの信念しんねんによれば、階級かいきゅう国家こっか存在そんざいしない社会しゃかいきずくためには大衆たいしゅう自身じしん直接ちょくせつ行動こうどうこし、社会しゃかい革命かくめい達成たっせいするべきであり、プロレタリア独裁どくさいのようななかあいだてき段階だんかいみとめるべきではない。そのような独裁どくさい体制たいせいはのちに永久えいきゅう土台どだいしてしまうからである。バクーニンからると、マルクス主義まるくすしゅぎしゃ根本こんぽんてき矛盾むじゅんかかえていた[32]

バクーニンは1844ねんにマルクスと出会であって以来いらい、「マルクスがエンゲルスとともだいいちインターナショナルに最大さいだい貢献こうけんをしたことはうたがいない。かれ聡明そうめい学識がくしきふか経済けいざい学者がくしゃであり、イタリアの共和きょうわ主義しゅぎしゃマッツィーニひとしはその生徒せいとんでいいほどである」とその能力のうりょくみとめつつも、「マルクスは、理論りろんたかみから人々ひとびと睥睨へいげいし、軽蔑けいべつしている。社会しゃかい主義しゅぎ共産きょうさん主義しゅぎ法王ほうおうだとみずかかんがえており、権力けんりょく追求ついきゅうし、支配しはい愛好あいこうし、権威けんい渇望かつぼうする。何時いつにか自分じぶん自身じしんくに支配しはいしようとのぞむだけでは満足まんぞくせず、ぜん世界せかいてき権力けんりょく世界国家せかいこっか夢見ゆめみている」とかれ気質きしつたいしては反感はんかんちか感情かんじょういており、その評価ひょうか後年こうねんわらなかった[33][34]

だがバクーニンは経済けいざい学者がくしゃとしてのマルクスを評価ひょうかし、『資本しほんろん』のロシアやくかった。一方いっぽうマルクスは1848ねんのドレスデン蜂起ほうきについて「ロシアからの避難ひなんみんなかではミハイル・バクーニンが有望ゆうぼう有能ゆうのう指導しどうしゃとみなされていた」としるしている[35]。マルクスはまたエンゲルスへの手紙てがみでシベリアからもどったバクーニンと1864ねん再会さいかいしたことにれ「16ねんおとろえた様子ようすもなく、なおも成長せいちょうげたようにさえおもわれた。かれのような人物じんぶつ稀有けうである」といている[36]

バクーニンは、国家こっかにおいて官僚かんりょう制度せいど形成けいせいする知識ちしきじん行政ぎょうせいかんからなる、いわゆるしん階級かいきゅうについてろんじた最初さいしょ人間にんげんであるともいえる。バクーニンによれば、一部いちぶ特権とっけん階級かいきゅう世襲せしゅう財産ざいさんとされてきた国家こっかは、やがてこのあたらしい階級かいきゅうである「官僚かんりょう階級かいきゅうわたり、たんなる機械きかいへとがる――あるいはがるとうべきか。」[28]

批判ひはん

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暴力ぼうりょくせい革命かくめい、「えざる独裁どくさい

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バクーニンをかくれた独裁どくさいしゃであると批判ひはんする意見いけんもある。アルベール・リシャールにてた手紙てがみで、バクーニンは「えざる独裁どくさい」という概念がいねんについてしるしている。だが、バクーニンの支持しじしゃからはこの「えざる独裁どくさい」には秘密ひみつ結社けっしゃてき意味合いみあいはないという主張しゅちょうがなされている。「えざる独裁どくさい」の参加さんかしゃ公然こうぜん政治せいじりょく行使こうしすることはない、とバクーニンは明示めいじしている、とする意見いけんである[37]

だがチャールズ・A・マディソンによれば、だいいちインターナショナルをみずからの支配しはいこうとするバクーニンの策謀さくぼうがマルクスとの対立たいりつと1872ねん追放ついほうまねいたのだという。暴力ぼうりょく肯定こうていはやがてニヒリズムへとつながっていき、その結果けっか「アナキズムという言葉ことばが、一般いっぱんてきには暗殺あんさつ混乱こんらん状態じょうたい同義どうぎとらえられることとなったのである[38]」という。

この分析ぶんせき否定ひていする意見いけんもある。バクーニンは自分じぶん個人こじんでインターを支配しはいしようとはしておらず、自身じしんつくった地下ちか組織そしきにも独裁どくさいしゃてき権力けんりょく行使こうしせず、テロリズムにかんしては、革命かくめいはんする活動かつどうであるとして非難ひなんしていたという主張しゅちょうである[39]

民族みんぞく主義しゅぎ

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アナキズムの歴史れきし研究けんきゅうするマックス・ネットラウは、バクーニンのひろしスラヴ主義しゅぎを、民族みんぞく主義しゅぎというのがれがたいやまい発現はつげんであるとしるした。『告白こくはく』は皇帝こうてい囚人しゅうじんとしてペトロパヴロフスク要塞ようさい監獄かんごくにいたときかれ、1851ねんには出版しゅっぱんされている。みずからのつみへのゆるしをうとともに、皇帝こうていたいし、すくぬしとして、また同時どうじちちなるものとしてスラヴに君臨くんりんするよう懇願こんがんするという内容ないようであったため、この著作ちょさくはバクーニンへの攻撃こうげき材料ざいりょうとして利用りようされた。

はんユダヤ主義しゅぎ

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バクーニンは死後しごユダヤじんきらいとしてしばしばそのげられてきた[40]。マルクスとの論争ろんそうにしばしばはんユダヤ主義しゅぎみ、典型てんけいてきはんユダヤ主義しゅぎ・ユダヤ陰謀いんぼうろんてき見解けんかいかえべている。

貪欲どんよく寄生虫きせいちゅう構成こうせいされるユダヤ世界せかい国境こっきょうえるばかりか、政治せいじ思想しそうちがいさえもえてくる。この世界せかいだい部分ぶぶんは、かたやマルクス、かたロスチャイルドのままになっている。わたしっている。反動はんどう主義しゅぎしゃであるロスチャイルドが共産きょうさん主義しゅぎしゃであるマルクスの恩恵おんけいおおいによくしていることを。他方たほう共産きょうさん主義しゅぎしゃであるマルクスが本能ほんのうてきかね天才てんさいロスチャイルドにあらがいがたいほどの魅力みりょくかんじ、称賛しょうさんねんきんじえなくなっていることも。ユダヤの結束けっそく歴史れきしつうじて維持いじされてきたその強固きょうこ結束けっそくが、かれらをひとつにしているのだ」[41][42]、「マルクスの共産きょうさん主義しゅぎ中央ちゅうおう集権しゅうけんてき権力けんりょくほっする。国家こっか中央ちゅうおう集権しゅうけんには中央ちゅうおう銀行ぎんこうかせない。このような銀行ぎんこう存在そんざいするところに人民じんみん労働ろうどううえ相場そうばっている寄生虫きせいちゅう民族みんぞくユダヤじんは、その存在そんざい手段しゅだん見出みいだすのである」[42]、「独裁どくさいしゃにしてメシアであるマルクスに献身けんしんてきなロシアとドイツのユダヤじんたちがわたし卑劣ひれつ陰謀いんぼう仕掛しかけてきている。わたしはその犠牲ぎせいしゃとなるだろう。ラテンけい人々ひとびとだけがユダヤの世界せかい征服せいふく陰謀いんぼうたたつぶすことができる」といった具合ぐあいである[43]

このような偏狭へんきょうなユダヤじんかん当時とうじ急進きゅうしんてき社会しゃかい主義しゅぎしゃやアナキストのあいだにもみられた[44]たとえばプルードンの覚書おぼえがきには、ヨーロッパからのユダヤじん追放ついほうまたは根絶こんぜつびかけている一節いっせつがある[45]

ヨーロッパ中心ちゅうしん主義しゅぎ

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バクーニンのヨーロッパ中心ちゅうしん主義しゅぎは、かれとなえたヨーロッパ合州国がっしゅうこく構想こうそうかれ支持しじしたロシアの植民しょくみん主義しゅぎあきらかであった。親類しんるいであり後見人こうけんにんでもあったニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー植民しょくみん政策せいさく推進すいしんしていた。バクーニンは横浜よこはまみじかあいだ滞在たいざいしていたことがあるが、日本にっぽん日本にっぽん農民のうみんについては関心かんしんであった。

バクーニンの思想しそう形作かたちづくるこれらの側面そくめんはすべて、アナキストとなる以前いぜんはしはっするものである。バクーニンの思想しそうがアナキズムへと転化てんかしたのは1865ねん以降いこうであり、シベリア流刑りゅうけいののち日本にっぽん経由けいゆ脱出だっしゅつはかってからなんねんのことであった[5]

関連かんれん文化ぶんか

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  • イギリスのげき作家さっかトム・ストッパードが2002ねん発表はっぴょうしたさんさく戯曲ぎきょく『ユートピアのきしへ』 (The Coast of Utopia) にバクーニンが登場とうじょうしている。
  • アメリカのテレビドラマ『ロスト』でその使つかわれている(作中さくちゅう哲学てつがくしゃ科学かがくしゃ名前なまえかんする人物じんぶつ登場とうじょうする。ほかにもジョン・ロックジェレミ・ベンサムなど)。
  • 1976ねんセックス・ピストルズのテレビはつ出演しゅつえんとなったグラナダ・テレビジョンの音楽おんがく番組ばんぐみ "So It Goes So It Goes" で、『アナーキー・イン・ザ・UK』の演奏えんそう司会しかいしゃのトニー・ウィルソンが「バクーニンがきていればさぞかしっただろう」と発言はつげんしている。
  • ドイツのバンド、KMFDMのアルバム "Symbols" に収録しゅうろくされている "Stray Bullet" というきょくに、「かみがもし実在じつざいするならば、それを破棄はきせねばならぬ」という一節いっせつがある。
  • ニューヨーク出身しゅっしんのバンド、The Fugsのニヒリスティックなきょく "Nothing" の歌詞かしちゅうマルクスエンゲルスクロポトキントロツキーらとともにそのつらねている。
  • セルジオ・レオーネ映画えいが夕陽ゆうひのギャングたち』(1972ねん公開こうかい)のげきちゅう、マロリー(ジェームズ・コバーン)がファン・ミランダ(ロッド・スタイガー)との議論ぎろんのすえ、バクーニンの著書ちょしょ愛国あいこく主義しゅぎ』をどろむシーンがある。
  • アメリカのスカ・パンクバンドAll Authorityには、その生涯しょうがいうたった『バクーニン』というきょくがある
  • カナダにはBakunin’s Bumというポストロックバンドがある。
  • 小説しょうせつすばらしいしん世界せかい』の作中さくちゅうレーニンやマルクス、トロツキーらとともにバクーニンのせい使つかわれている。
  • ロシアの小説しょうせつボリス・アクーニンのペンネームは、バクーニンの名前なまえ日本語にほんごの「悪人あくにん」をかけたものである。
  • 中国ちゅうごく革命かくめい文筆ぶんぴつともえきんのペンネームは、バクーニン(中国ちゅうごく: ともえ枯寧)の最初さいしょおととクロポトキン(中国ちゅうごく: かつ魯泡特金とっきん)の最後さいごおとからとられたというせつがあるが、これは文化ぶんかだい革命かくめいときともえきんるしげるためにできたデマである。事実じじつは、「ともえ」は自殺じさつした友人ゆうじんせい由来ゆらいしている(ちなみに「かね」がクロポトキンからとったのは事実じじつ)。

著書ちょしょ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Mikhail Bakunin Russian anarchist Encyclopædia Britannica
  2. ^ The Reaction in Germany, Mikhail Bakunin, 1842, In: Bakunin on Anarchy, Sam Dolgoff, 1971, 1980.
  3. ^ On the 17th Anniversary of the Polish Insurrection of 1830, Mikhail Bakunin, La Réforme, December 14 1847.
  4. ^ Michael Bakunin A Biographical Sketch, James Guillaume.
  5. ^ Appeal to the Slavs, Mikhail Bakunin, 1848, In Bakunin on Anarchy, translated and edited by Sam Dolgoff, 1971.
  6. ^ My Life, Volume I, Richard Wagner [1].
  7. ^ リヒャルト・ワーグナー『ヴァーグナー―わが生涯しょうがい』 山田やまだゆりやく、勁草書房しょぼう、1986ねん10がつISBN 978-4-326-93079-1.
  8. ^ Confession to Tsar Nicholas I, Mikhail Bakunin, 1851.
  9. ^ Bakunin, Yokohama and the Dawning of the Pacific Archived 2007ねん6がつ28にち, at the Wayback Machine. , Peter Billingsley.
  10. ^ Philipp Franz von Siebold and Russian Policy and Action on Opening Japan to the West in the Middle of the Nineteenth Century, Edgar Franz, Munich: Iudicum, 2005.
  11. ^ A・シーボルト『ジーボルト最後さいご日本旅行にほんりょこう』 斎藤さいとうしんやく平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこISBN 978-4-582-80398-3、1981ねん
  12. ^ The Narrative of a Japanese: What He Has Seen and the People He Has Met in the Course of the Last 40 Years, Joseph Heco (Narrative Writer), James Murdoch (Editor), Yokohama, Yokohama Publishing Company (Tokyo, Maruzen), 1895, Vol II, pp 90–98.
  13. ^ An Unpublished Letter of M.A. Bakunin to R. Solger, Robert M. Cutler, International Review of Social History 33, no. 2 (1988), p 212–217.
  14. ^ "Bakunin, Garibaldi e gli affari slavi 1862 - 1863", Pier Carlo Massini, Gianni Bosio, Movimento Operaio year 4, No. 1 (Jan - Feb, 1952), p81.
  15. ^ Revolutionary Catechism, Mikhail Bakunin, 1866, In Bakunin on Anarchy, translated and edited by Sam Dolgoff, 1971.
  16. ^ Federalism, Socialism, Anti-Theologism, Mikhail Bakunin, September 1867.
  17. ^ Bakunin's idea of revolution & revolutionary organisation, published by Workers Solidarity Movement in Red and Black Revolution No.6, Winter 2002.
  18. ^ Bakunin to Nechayev on the role of secret revolutionary societies, Mikhail Bakunin, June 2, 1870 letter to Sergey Nechayev.
  19. ^ a b Letters to a Frenchman on the Present Crisis, Mikhail Bakunin, 1870.
  20. ^ The Paris Commune and the Idea of the State, Mikhail Bakunin, 1871.
  21. ^ Anarchism: A Documentary History of Libertarian Ideas Volume One: From Anarchy to Anarchism (300CE to 1939), Robert Graham, Black Rose Books, March 2005.
  22. ^ Anarchism: From Theory to Practice , Daniel Guerin, New York: Monthly Review Press, 1970), pp.25-26.
  23. ^ a b c God and the State, Michael Bakunin, 1882.
  24. ^ Michael Bakunin: Selected Writings, ed. A. Lehning, New York: Grove Press, 1974, page 268.
  25. ^ Man, Society, and Freedom, Mikhail Bakunin, 1871.
  26. ^ a b Revolutionary Catechism, Mikhail Bakunin, 1866.
  27. ^ Michael Bakunin: Selected Writings, ed. A. Lehning, New York: Grove Press, 1974, p219.
  28. ^ a b On the International Workingmen's Association and Karl Marx, Mikhail Bakunin, 1872.
  29. ^ a b c Anarchism, George Woodcock, Harmondsworth, England: Penguin Books, ISBN 978-0-14-020622-7.
  30. ^ Was Bakunin a secret authoritarian?
  31. ^ Anarchist Theory FAQ Version 5.2
  32. ^ Works of Mikhail Bakunin 1873
  33. ^ Bakunin: The Philosophy of Freedom, Brian Morris, 1993, p14.
  34. ^ 『バクーニン著作ちょさくしゅう白水しろみずしゃだい6かん
  35. ^ New York Daily Tribune (October 2, 1852) on 'Revolution and Counter Revolution in Germany'.
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  45. ^ 'The General Idea of Proudhon's Revolution' [2], Robert Graham.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • フランシス・ウィーン英語えいごばん しる田口たぐち俊樹としき わけ『カール・マルクスの生涯しょうがい朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、2002ねん平成へいせい14ねん)。ISBN 978-4022577740 
  • 外川そとかわつぎおとこ左近さこんあつし へん『バクーニン著作ちょさくしゅう だい6かん白水しろみずしゃ、1973ねん昭和しょうわ48ねん)。ASIN B000J9MY6U