ミハイル・アレクサンドロヴィチ・バクーニン (ロシア語 ご : Михаи́л Алекса́ндрович Баку́нин 、1814年 ねん 5月30日 にち - 1876年 ねん 7月 がつ 1日 にち [ 1] )は、ロシア の思想家 しそうか で哲学 てつがく 者 しゃ 、無 む 政府 せいふ 主義 しゅぎ 者 しゃ 、革命 かくめい 家 か 。元 もと 正 せい 教徒 きょうと で無 む 神 かみ 論 ろん 者 しゃ 。
アナキズム の歴史 れきし を語 かた る上 じょう で重要 じゅうよう な人物 じんぶつ である。またマルクス主義 まるくすしゅぎ 、とりわけマルクスの主張 しゅちょう したプロレタリア独裁 どくさい に反対 はんたい したことでも知 し られている。ノーム・チョムスキー など、現代 げんだい のアナキストにも影響 えいきょう を与 あた えている。
ロシア帝国 ていこく の貴族 きぞく の家 いえ に生 う まれ、少年 しょうねん 期 き から青年 せいねん 期 き にはロシア軍 ぐん に仕官 しかん したが1835年 ねん に退官 たいかん 。その後 ご モスクワ で哲学 てつがく を学 まな び、急進 きゅうしん 派 は のサークルと交流 こうりゅう を持 も つ。特 とく にゲルツェン からは多大 ただい な影響 えいきょう を受 う けた。1842年 ねん にはロシアを発 た ってドレスデン へ赴 おもむ き、のちにパリ でジョルジュ・サンド やピエール・ジョセフ・プルードン 、そしてマルクス と出会 であ っている。
ロシアのポーランド 弾圧 だんあつ に反対 はんたい し、ついにはフランス を国外 こくがい 追放 ついほう された。1848年 ねん 革命 かくめい ではチェック人 じん の蜂起 ほうき に加 くわ わったため、ドレスデンで逮捕 たいほ された。ロシアへ移送 いそう され、サンクトペテルブルク のペトロパブロフスク要塞 ようさい に収容 しゅうよう された。1857年 ねん まで獄中 ごくちゅう 生活 せいかつ を送 おく った後 のち にシベリア 流刑 りゅうけい となった。
1861年 ねん に脱走 だっそう 。日本 にっぽん とアメリカ を経由 けいゆ してロンドン へ逃 のが れ、ゲルツェンとともに急進 きゅうしん 派 は の言論 げんろん 誌 し 『カラコル』(ロシア語 ご で「鐘 かね 」の意味 いみ )の刊行 かんこう に一時 いちじ 携 たずさ わった。1863年 ねん にはポーランドの一 いち 月 がつ 蜂起 ほうき に参加 さんか するため出発 しゅっぱつ するが、現地 げんち へは到達 とうたつ できずスイス とイタリア にしばらく留 とど まった。犯罪 はんざい 者 しゃ の立場 たちば ではあったが、ロシアやヨーロッパ 全土 ぜんど で急進 きゅうしん 派 は の若者 わかもの に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えていった。1870年 ねん には、パリ・コミューン 誕生 たんじょう の先駆 さきが けとなるリヨン の暴動 ぼうどう に加 くわ わっている。
1868年 ねん には、急進 きゅうしん 派 は と労働 ろうどう 者 しゃ 組織 そしき の連合 れんごう であり、ヨーロッパ各地 かくち に支部 しぶ を持 も つ国際 こくさい 組織 そしき 第 だい 一 いち インターナショナル に加入 かにゅう 。のち、自身 じしん の支持 しじ 者 しゃ とともにジュラ連合 れんごう を形成 けいせい した。1872年 ねん の大会 たいかい は、議会 ぎかい 選挙 せんきょ への参加 さんか を主張 しゅちょう するマルクス一派 いっぱ と、それに反対 はんたい するバクーニンらの衝突 しょうとつ に終始 しゅうし した。バクーニン派 は は議決 ぎけつ で敗 やぶ れ、同 どう 大会 たいかい の終 お わりには、インター内部 ないぶ で秘密裏 ひみつり に組織 そしき 活動 かつどう を行 おこな ったとして、バクーニンと支持 しじ 者 しゃ の一部 いちぶ が除名 じょめい された。彼 かれ をはじめとするアナキストたちは、大会 たいかい が公正 こうせい に運営 うんえい されていないとして同年 どうねん スイス のサン・ティミエで独自 どくじ にインターの会議 かいぎ を開催 かいさい している。バクーニンはこの他 ほか のヨーロッパ の社会 しゃかい 主義 しゅぎ 運動 うんどう においても精力 せいりょく 的 てき に活動 かつどう した。『国家 こっか 制度 せいど とアナーキー』『神 かみ と国家 こっか 』など、後世 こうせい に多大 ただい な影響 えいきょう を与 あた えた著書 ちょしょ の多 おお くは1870年 ねん から1876年 ねん の間 あいだ に書 か かれたものである。体 からだ の不調 ふちょう を押 お してボローニャ 蜂起 ほうき に参加 さんか しようとしたが、ついには馬車 ばしゃ の積荷 つみに に紛 まぎ れてスイスに戻 もど る羽目 はめ になり、その後 ご ルガーノに暮 く らした。ヨーロッパの急進 きゅうしん 派 は として活動 かつどう を続 つづ けたが、健康 けんこう 状態 じょうたい が悪化 あっか してベルン の病院 びょういん へ運 はこ ばれ、同地 どうち で1876年 ねん に死去 しきょ した。
1814年 ねん 春 はる 、モスクワの北西 ほくせい に位置 いち するトヴェリ県 けん プリャムヒノ(トルジョーク とクフシーノヴォ 間 あいだ の地名 ちめい )で貴族 きぞく の家 いえ に生 う まれる。14歳 さい の時 とき にサンクトペテルブルク に出 で て砲兵 ほうへい 学校 がっこう で教育 きょういく を受 う ける。1832年 ねん に卒業 そつぎょう し、1834年 ねん にはロシア皇帝 こうてい 親衛 しんえい 部隊 ぶたい に准尉 じゅんい として入隊 にゅうたい 、当時 とうじ ロシアに併合 へいごう されていたリトアニア のミンスク とフロドナ (現在 げんざい はベラルーシ に属 ぞく する)に赴 おもむ いた。同年 どうねん 夏 なつ 、家族 かぞく の間 あいだ で悶着 もんちゃく があり、バクーニンは意 い に沿 そ わない結婚 けっこん をめぐって姉 あね を庇 かば った。父 ちち は息子 むすこ に軍 ぐん 職 しょく と市民 しみん への奉仕 ほうし を続 つづ けるよう望 のぞ んだが、バクーニンはそのどちらも放棄 ほうき しモスクワへ向 む かい、哲学 てつがく を学 まな んだ。
モスクワでは元 もと 学生 がくせい のグループと親 した しくなり、観念論 かんねんろん 哲学 てつがく を体系 たいけい 的 てき に学 まな び、E.H.カー が後年 こうねん 「ロシアの思想 しそう に広大 こうだい で肥沃 ひよく なドイツ形而上学 けいじじょうがく の地平 ちへい を開 ひら いてみせた勇敢 ゆうかん な先駆 せんく 者 しゃ 」と評 ひょう した詩人 しじん 、ニコライ・スタンケーヴィチを中心 ちゅうしん とした人々 ひとびと とも交 まじ わった。彼 かれ らは当初 とうしょ カントの哲学 てつがく をおもに追究 ついきゅう したが、やがてシェリング 、フィヒテ 、ヘーゲル とその対象 たいしょう を移 うつ していった。1835年 ねん 秋 あき 頃 ごろ には故郷 こきょう のプリャムヒノで自身 じしん の哲学 てつがく サークルを作 つく っており、それは若者 わかもの たちの恋 こい の舞台 ぶたい ともなった。例 たと えばベリンスキー はバクーニンの姉妹 しまい の一人 ひとり と恋 こい に落 お ちている。1836年 ねん 初頭 しょとう 、バクーニンは再 ふたた びモスクワへ戻 もど り、フィヒテの『学者 がくしゃ の使命 しめい についての数 かず 講 こう 』と『浄福 じょうふく なる生 せい への指教 しきょう 』の翻訳 ほんやく を出版 しゅっぱん した。これはバクーニン自身 じしん がもっとも好 この んだ著作 ちょさく だった。また、スタンケーヴィチと共 とも にゲーテ やシラー 、E.T.A.ホフマン の著作 ちょさく にも親 した しんだ。
この当時 とうじ のバクーニンは、宗教 しゅうきょう 的 てき でありつつ脱 だつ 教会 きょうかい 的 てき 色彩 しきさい の強 つよ い内在 ないざい 論 ろん を展開 てんかい した。
バクーニンはヘーゲルの影響 えいきょう を受 う け、その著作 ちょさく のロシア語 ご 訳 やく を初 はじ めて刊行 かんこう した。スラヴ主義 しゅぎ 者 しゃ のコンスタンチン・アクサーコフ 、ピョートル・チャーダーエフ 、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ のアレクサンドル・ゲルツェン 、ニコライ・オガリョフに出会 であ い、この時期 じき からバクーニンの思想 しそう は汎 ひろし スラヴ主義 しゅぎ 的 てき 色彩 しきさい を濃 こ くしてゆく。やがて父親 ちちおや を説得 せっとく して1840年 ねん にベルリン へ赴 おもむ く。当初 とうしょ 、大学 だいがく 教授 きょうじゅ になることを目的 もくてき としていた(本人 ほんにん や友人 ゆうじん らが「真実 しんじつ の教導 きょうどう 者 しゃ 」であると考 かんが えていた)のだが、ほどなくいわゆるヘーゲル左派 さは の急進 きゅうしん 的 てき な学生 がくせい と接触 せっしょく し、ベルリンの社会 しゃかい 主義 しゅぎ 運動 うんどう に加 くわ わることになる。1842年 ねん の小論文 しょうろんぶん 『ドイツにおける反動 はんどう 』では否定 ひてい というものが果 は たす革命 かくめい 的 てき 役割 やくわり を支持 しじ しており、「破壊 はかい への情熱 じょうねつ は、創造 そうぞう の情熱 じょうねつ である[ 2] 」という一節 いっせつ を記 しる している。
ベルリンで三 さん 学期 がっき を過 す ごしたのち、バクーニンはドレスデンへ向 む かい、そこでアーノルド・ルーゲと親 した しくなった。この頃 ころ シュタイン の著作 ちょさく 『今日 きょう のフランスにおける社会 しゃかい 主義 しゅぎ と共産 きょうさん 主義 しゅぎ 』に触 ふ れ、社会 しゃかい 主義 しゅぎ への感化 かんか を深 ふか めた。バクーニンは学究 がっきゅう 的 てき 生活 せいかつ に興味 きょうみ を失 うしな って革命 かくめい 運動 うんどう に没頭 ぼっとう するようになり、ロシア政府 せいふ がその急進 きゅうしん 的 てき 思想 しそう を警戒 けいかい して帰国 きこく を命 めい じるも、これを拒否 きょひ したため財産 ざいさん を没収 ぼっしゅう された。こののちゲオルク・ヘルヴェーク とともにスイスのチューリヒ へ向 む かった。
スイス、ブリュッセル、プラハ、ドレスデン、パリ時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
チューリヒには半年 はんとし 間 あいだ 滞在 たいざい し、ドイツの共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ ヴィルヘルム・ヴァイトリング と親 した しく交流 こうりゅう した。ドイツ共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ らとの親交 しんこう は1848年 ねん まで続 つづ き、バクーニン自身 じしん も時折 ときおり 共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ を自称 じしょう し、『スイスの共和 きょうわ 主義 しゅぎ 者 しゃ 』(Schweitzerische Republikaner ) 紙 し に記事 きじ を書 か いた。バクーニンがスイス西部 せいぶ のジュネーヴ に移 うつ った直後 ちょくご 、ヴァイトリングが逮捕 たいほ された。警察 けいさつ に押収 おうしゅう されたヴァイトリングの書簡 しょかん にはバクーニンの名 な がしばしば登場 とうじょう しており、これがロシア帝国 ていこく 警察 けいさつ の知 し るところとなる。ベルンのロシア大使 たいし から帰国 きこく を命 めい じられたバクーニンはこれに応 おう じずブリュッセル へと移動 いどう し、ヨアヒム・レレヴェルをはじめ、マルクスとエンゲルス の活動 かつどう に同地 どうち で参加 さんか していた主要 しゅよう なポーランド国家 こっか 主義 しゅぎ 者 しゃ との邂逅 かいこう を果 は たしている。レレヴェルがバクーニンに及 およ ぼした影響 えいきょう は多大 ただい であるが、彼 かれ らポーランド国家 こっか 主義 しゅぎ 者 しゃ は1776年 ねん 当時 とうじ (ポーランド分割 ぶんかつ 以前 いぜん )の国境 こっきょう 線 せん に基 もと づく同国 どうこく の復活 ふっかつ を主張 しゅちょう しており、意見 いけん が衝突 しょうとつ した。バクーニンはポーランド人 じん 以外 いがい の自治 じち 権 けん も守 まも るよう主張 しゅちょう したのである。バクーニンはこれらポーランド国家 こっか 主義 しゅぎ 者 しゃ たちの聖職 せいしょく 権 けん 主義 しゅぎ にも賛同 さんどう を示 しめ さなかった。一方 いっぽう でバクーニンは農民 のうみん 層 そう の解放 かいほう を彼 かれ らに呼 よ びかけたが、支持 しじ は得 え られなかった。
1844年 ねん 、バクーニンは当時 とうじ ヨーロッパ急進 きゅうしん 派 は の中心 ちゅうしん 地 ち となっていたパリへ向 む かった。マルクスやアナキストのピエール・ジョセフ・プルードン と接触 せっしょく したが、特 とく にプルードンからは大 おお きな感銘 かんめい を受 う け、二人 ふたり の間 あいだ には友情 ゆうじょう が築 きず かれた。1844年 ねん 12月 、皇帝 こうてい ニコライ1世 せい により貴族 きぞく 的 てき 特権 とっけん および市民 しみん 権 けん の剥奪 はくだつ 、所領 しょりょう の没収 ぼっしゅう 、終身 しゅうしん のシベリア流刑 りゅうけい が宣告 せんこく され、バクーニンはロシア帝国 ていこく 当局 とうきょく から追 お われる身 み となった。これに対 たい しバクーニンは新聞 しんぶん 『改革 かいかく 』(La Réforme ) に長 なが い手紙 てがみ を送 おく り、ロシア皇帝 こうてい を圧制 あっせい 者 しゃ と非難 ひなん し、ロシアとポーランドにおける民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の必要 ひつよう 性 せい を訴 うった えた。1846年 ねん 3月 がつ 、『立憲 りっけん 』(Constitutionel ) に寄 よ せた書簡 しょかん ではポーランドを擁護 ようご し、同地 どうち のカトリック 教徒 きょうと に対 たい する弾圧 だんあつ に賛同 さんどう した。1847年 ねん 11月 、クラクフ からの避難 ひなん 民 みん のうち反乱 はんらん 軍 ぐん の勝利 しょうり に賛同 さんどう する者 もの たちが、1830年 ねん のポーランド十一月 じゅういちがつ 蜂起 ほうき を記念 きねん する集会 しゅうかい にバクーニンを招 まね き、講演 こうえん を行 おこな った[ 3] 。
この講演 こうえん でバクーニンはポーランドとロシアの人民 じんみん が協力 きょうりょく して皇帝 こうてい に立 た ち向 む かうよう呼 よ びかけ、ロシアにおける専制 せんせい 政治 せいじ の終焉 しゅうえん を待 ま ち望 のぞ んでいると表明 ひょうめい 。この結果 けっか フランスから追放 ついほう され、ブリュッセルへと赴 おもむ くこととなった。バクーニンはゲルツェンとベリンスキーに協力 きょうりょく を仰 あお ぎロシアで革命 かくめい を起 お こそうと目論 もくろ んだが、二人 ふたり の助力 じょりょく は得 え られなかった。ブリュッセルでは再 ふたた びポーランドの革命 かくめい 家 か やマルクスとやりとりし、1848年 ねん 2月 がつ にはレレヴェルが組織 そしき した会合 かいごう でスラヴ民族 みんぞく の未来 みらい について語 かた り、彼 かれ らが西洋 せいよう 世界 せかい に活力 かつりょく をもたらすと述 の べた。この頃 ころ 、バクーニンが度 ど を越 こ した活動 かつどう に走 はし ったロシア側 がわ の工作 こうさく 員 いん であったという噂 うわさ が、ロシア大使 たいし によって流 なが された。
1848年 ねん には各地 かくち で革命 かくめい 運動 うんどう が起 お こった。ロシア国内 こくない でそうした動 うご きが見 み られなかったことには失望 しつぼう したものの、バクーニンの歓喜 かんき の念 ねん はひとしおであった。暫定 ざんてい 政府 せいふ を担 にな う社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ 、フェルディナンド・フロコン、ルイ・ブラン 、アレクサンドル・オーギュスト・レドル・ロラン、アルベール・ロリヴィエといった面々 めんめん の資金 しきん 協力 きょうりょく を得 え て、スラヴ連合 れんごう によりプロイセンやオーストリア・ハンガリー帝国 ていこく 、トルコの支配 しはい 下 か におかれた人々 ひとびと を解放 ときはな すべく活動 かつどう を開始 かいし 。ドイツへ向 む けて出発 しゅっぱつ し、バーデンを通 とお りフランクフルト、ケルンに至 いた った。
バクーニンはヘルヴェーグ率 ひき いるドイツ民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 者 しゃ 義勇 ぎゆう 隊 たい を支援 しえん し、フリードリヒ・ヘッカーによるバーデン 蜂起 ほうき に加 くわ わろうと企 くわだ てたが失敗 しっぱい 。この時 とき ヘルヴェーグを批判 ひはん したマルクスと対立 たいりつ した。バクーニンはマルクスとの関係 かんけい について、この頃 ころ から互 たが いに良 よ い感情 かんじょう が持 も てなくなったと後年 こうねん になって振 ふ り返 かえ っている[ 4] 。
バクーニンは続 つづ いてベルリン に移動 いどう したが、そこからポーゼン(ポズナン) へ向 む かおうとして警察 けいさつ に阻止 そし された。ポーランド分割 ぶんかつ 以来 いらい プロイセンの支配 しはい 下 か に置 お かれていた同地 どうち ではポーランドの国家 こっか 主義 しゅぎ 者 しゃ による暴動 ぼうどう が起 お こっていた。バクーニンは予定 よてい を変更 へんこう してライプツィヒ とブレスラウ を訪 おとず れ、プラハ では第 だい 一 いち 回 かい 汎 ひろし スラヴ会議 かいぎ に参加 さんか 。だがこれに続 つづ いた蜂起 ほうき は、バクーニンの尽力 じんりょく があったにもかかわらず、武力 ぶりょく で鎮圧 ちんあつ され失敗 しっぱい に終 お わった。ブレスラウへ戻 もど ったバクーニンだが、彼 かれ をロシア帝国 ていこく 側 がわ の工作 こうさく 員 いん であるとする言説 げんせつ をマルクスが再 ふたた び広 ひろ め、証拠 しょうこ はジョルジュ・サンド が持 も っている、と主張 しゅちょう した。サンドがバクーニンの擁護 ようご に回 まわ るとマルクスはこの発言 はつげん を撤回 てっかい した。
バクーニンは1848年 ねん 秋 あき 、『スラヴ諸 しょ 民族 みんぞく へのアピール』において、スラヴの革命 かくめい 勢力 せいりょく がハンガリー やイタリア 、ドイツ のそれと連帯 れんたい することを提案 ていあん している[ 5] 。目的 もくてき は当時 とうじ のヨーロッパの三 さん 大 だい 専制 せんせい 君主 くんしゅ 国家 こっか 、ロシア帝国 ていこく 、オーストリア・ハンガリー帝国 ていこく 、プロイセン公国 こうこく の三 さん カ国 かこく の打倒 だとう であった。
1849年 ねん 、ドレスデン五 ご 月 がつ 蜂起 ほうき においてバクーニンは指導 しどう 的 てき 役割 やくわり を担 にな い、リヒャルト・ワーグナー やヴィルヘルム・ハイネ らと共 とも にプロイセン軍 ぐん に抵抗 ていこう 、バリケード戦 せん に臨 のぞ んだ。しかしケムニッツ で捕 と らえられ、13か月 げつ に及 およ ぶ拘置 こうち 期間 きかん ののちザクセン 政府 せいふ により死刑 しけい を宣告 せんこく された。ロシア政府 せいふ とオーストリア 政府 せいふ が彼 かれ の身柄 みがら を欲 ほっ していたため終身 しゅうしん 刑 けい に減刑 げんけい されたが、1850年 ねん 6月 がつ にはオーストリア当局 とうきょく に引 ひ き渡 わた され、11か月 げつ の後 のち に再 ふたた び死刑 しけい 判決 はんけつ を受 う ける。結局 けっきょく これも終身 しゅうしん 刑 けい に減刑 げんけい となり、最終 さいしゅう 的 てき には1851年 ねん 5月 にロシアへ身柄 みがら を送致 そうち された。
この時期 じき について言及 げんきゅう したワーグナーの日記 にっき に「伸 の び放題 ほうだい の顎 あご ひげと藪 やぶ のような頭髪 とうはつ 」をたくわえたバクーニンが登場 とうじょう している[ 6] [ 7] 。
バクーニンは政治 せいじ 犯 はん の収容 しゅうよう 所 しょ として知 し られるペトロパヴロフスク要塞 ようさい に移送 いそう された。監獄 かんごく 生活 せいかつ に入 はい ったバクーニンのもとを皇帝 こうてい ニコライ1世 せい の使者 ししゃ オルロフ伯爵 はくしゃく が訪 おとず れ、告白 こくはく 書 しょ の提出 ていしゅつ を求 もと めた。バクーニンを精神 せいしん 的 てき にもロシア国家 こっか の支配 しはい 下 か に置 お こうという意図 いと であった。バクーニンは、自身 じしん の活動 かつどう は既 すで に知 し られており今更 いまさら 明 あか るみに出 だ す秘密 ひみつ もないと告白 こくはく 書 しょ に記 しる し、他 た の活動 かつどう 家 か たちの名前 なまえ を挙 あ げることを頑 かたく なに拒否 きょひ した[ 8] 。
手紙 てがみ を読 よ んだニコライ1世 せい は「気概 きがい のある見上 みあ げた男 おとこ だが、危険 きけん 人物 じんぶつ だ。監視 かんし を怠 おこた ってはならない」と評 ひょう した。この『告白 こくはく 』はロシア帝国 ていこく の記録 きろく 文書 ぶんしょ として保管 ほかん されていたものであり、内容 ないよう は議論 ぎろん の余地 よち を大 おお いに残 のこ すものだが、ロシア文学 ぶんがく の文脈 ぶんみゃく において位置 いち づけられることがある。
バクーニンはペトロパヴロフスク要塞 ようさい の地下 ちか 牢 ろう に三 さん 年間 ねんかん 幽閉 ゆうへい されたのち、シュリッセリブルク の監獄 かんごく で4年 ねん を過 す ごす。まともな食事 しょくじ の取 と れるような環境 かんきょう ではなく、バクーニンは壊血病 かいけつびょう にかかり、全 すべ ての歯 は が抜 ぬ け落 お ちてしまったという。バクーニンはのちに、ギリシア神話 しんわ のプロメーテウス を思 おも い起 お こすことで心 しん の慰 なぐさ めとしていたとこの頃 ころ を振 ふ り返 かえ っている。あまりに過酷 かこく な状況 じょうきょう 下 か での監禁 かんきん 生活 せいかつ が続 つづ き、兄弟 きょうだい に毒薬 どくやく の差 さ し入 い れを懇願 こんがん するほどであった。
ニコライ1世 せい の死後 しご に皇位 こうい を継 つ いだアレクサンドル2世 せい は、恩赦 おんしゃ 名簿 めいぼ からバクーニンの名 な を削除 さくじょ した。しかし1857年 ねん 2月 がつ 、バクーニンの母親 ははおや による請願 せいがん がき入 きい れられて処刑 しょけい は回避 かいひ 、西 にし シベリア の都市 とし トムスク への終身 しゅうしん 流刑 りゅうけい となった。トムスクに到着 とうちゃく して一 いち 年 ねん のうちに、ポーランド人 じん の商人 しょうにん の娘 むすめ で、バクーニンにフランス語 ふらんすご を教 おそ わっていた女性 じょせい 、アントニア・クヴャトコフスカと結婚 けっこん した。1858年 ねん 8月 がつ 、バクーニンのはとこに当 あ たるムラヴィヨフ 伯爵 はくしゃく が彼 かれ のもとを訪 おとず れる。ムラヴィヨフは10年 ねん 前 まえ から東 ひがし シベリア州 しゅう の総督 そうとく をつとめていた。
ムラヴィヨフはリベラルな気質 きしつ で、親戚 しんせき 筋 すじ のバクーニンに非常 ひじょう に好感 こうかん を抱 だ いた。1859年 ねん 春 はる 、ムラヴィヨフからアムール開発 かいはつ 事業 じぎょう 局 きょく の仕事 しごと を紹介 しょうかい されたバクーニンは妻 つま とともに東 ひがし シベリア の中心 ちゅうしん 都市 とし イルクーツク へ移 うつ り、ムラヴィヨフの治 おさ める植民 しょくみん 事業 じぎょう の拠点 きょてん である同地 どうち イルクーツクを活動 かつどう の中心 ちゅうしん とする政治 せいじ サークルの一員 いちいん となった。サンクトペテルブルクの官僚 かんりょう 政治 せいじ がシベリアを不満 ふまん 分子 ぶんし の追放 ついほう 先 さき として利用 りよう していたこともあり、バクーニンは中央 ちゅうおう 政府 せいふ 側 がわ の入植 にゅうしょく 地 ち に対 たい する扱 あつか いに憤慨 ふんがい した。「シベリア合州国 がっしゅうこく 」の樹立 じゅりつ が提案 ていあん されたが、これはシベリア地域 ちいき がロシア帝国 ていこく から独立 どくりつ してシベリア・アメリカ連合 れんごう を形成 けいせい しようという構想 こうそう で、アメリカ独立 どくりつ の例 れい にならったものである。この政治 せいじ サークルには、ムラヴィヨフの若 わか き部下 ぶか にしてクロポトキンの縁者 えんじゃ であり、ゲルツェンの著作 ちょさく 集 しゅう を所持 しょじ していた参謀 さんぼう 長 ちょう のクーケリをはじめ、書簡 しょかん の送受 そうじゅ のため自分 じぶん の住所 じゅうしょ をバクーニンに貸 か した民政 みんせい 長官 ちょうかん のイズヴォルスキー、ムラヴィヨフの副官 ふっかん でのちの総督 そうとく アレクサンドル・ドンデュコフ=コルサコフ将軍 しょうぐん などが所属 しょぞく していた。
ゲルツェンが『コーロコル』誌 し でムラヴィヨフを批判 ひはん した時 とき 、バクーニンは自身 じしん の後見人 こうけんにん であるムラヴィヨフを真摯 しんし に擁護 ようご した[ 9] 。バクーニンはシベリアでの外商 がいしょう 業務 ぎょうむ に嫌気 いやけ がさしつつあったが、ムラヴィヨフのお陰 かげ で閑職 かんしょく とはいえほとんど働 はたら かずに年 とし 2千 せん ルーブルの収入 しゅうにゅう を得 え ることができていたのである。だがムラヴィヨフは総督 そうとく の任 にん を追 お われることになる。理由 りゆう としては彼 かれ が自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき 思想 しそう の持 も ち主 ぬし であったこと、そしてシベリア独立 どくりつ 運動 うんどう を起 お こすおそれがあると判断 はんだん されたことなどが挙 あ げられる。コルサコフがその任 にん を継 つ いだが、彼 かれ はシベリアの流刑 りゅうけい 者 しゃ に対 たい して更 さら に同情 どうじょう 的 てき であったとも考 かんが えられている。コルサコフの従姉妹 いとこ はバクーニンの兄弟 きょうだい パヴェルと結婚 けっこん しており、彼 かれ もまたバクーニンの縁者 えんじゃ であった。コルサコフはバクーニンの要望 ようぼう に応 おう じ、川 かわ が凍結 とうけつ する時期 じき はイルクーツクに戻 もど るという条件 じょうけん 付 つ きで、アムール川 がわ および支流 しりゅう を通航 つうこう する全 ぜん 船舶 せんぱく への乗船 じょうせん 許可 きょか 証 しょう を発行 はっこう した。
流刑 りゅうけい 地 ち からの脱出 だっしゅつ 、ヨーロッパへの帰還 きかん [ 編集 へんしゅう ]
1861年 ねん 6月 がつ 5日 にち 、バクーニンはイルクーツクを後 のち にした。シベリアの商人 しょうにん から依頼 いらい されて仕事 しごと でニコラエフスク へ向 む かうという名目 めいもく であった。7月17日 にち にはロシアの軍艦 ぐんかん ストレローク号 ごう に乗船 じょうせん してデ=カストリ へ向 む かうつもりだったが、オリガ港 みなと に到着 とうちゃく した後 のち 、蒸気 じょうき 船 せん ヴィッカリー号 ごう の船長 せんちょう を説 と き伏 ふ せてこれに乗 の り込 こ んだ。船上 せんじょう ではロシア領事 りょうじ と遭遇 そうぐう するものの、バクーニンはロシア帝国 ていこく 海軍 かいぐん の眼前 がんぜん をなんとか通過 つうか することができた。8月6日 にち には北海道 ほっかいどう の箱 はこ 館 かん (函館 はこだて )に上陸 じょうりく 、その後 ご 間 ま もなく横浜 よこはま に到着 とうちゃく した。日本 にっぽん ではドレスデン蜂起 ほうき で共 とも に戦 たたか ったヴィルヘルム・ハイネ と偶然 ぐうぜん 再会 さいかい しているほか、ドイツの植物 しょくぶつ 学者 がくしゃ シーボルト とも会 あ っている。シーボルトは日本 にっぽん の開国 かいこく にまつわる動 うご き(特 とく に対 たい 露 ろ 、対 たい オランダ)に関与 かんよ しており、またバクーニンの後見人 こうけんにん ムラヴィヨフの友人 ゆうじん でもあった[ 10] 。シーボルトの息子 むすこ アレクサンダー・フォン・シーボルト はこの40年 ねん 後 ご に当時 とうじ を振 ふ り返 かえ り、横浜 よこはま 滞在 たいざい 中 ちゅう のバクーニンやハイネについて書 か き残 のこ している[ 11] 。
バクーニンは蒸気 じょうき 船 せん カーリントン号 ごう で神奈川 かながわ から出航 しゅっこう 。この船 ふね の乗客 じょうきゃく は19人 にん で、他 た にはハイネ、牧師 ぼくし のP.F.コウ (P.F.Koe)、浜田 はまだ 彦蔵(ジョセフ・ヒコ) がいた。ヒコは帰化 きか アメリカ人 じん で、8年 ねん 後 ご の明治維新 めいじいしん 期 き には木戸 きど 孝允 たかよし や伊藤 いとう 博文 ひろぶみ に政治 せいじ に関 かん する助言 じょげん を行 おこな うなど、重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たすことになる[ 12] 。カーリントン号 ごう は10月15日 にち にサンフランシスコ に到着 とうちゃく 。大陸 たいりく 横断 おうだん 鉄道 てつどう はまだ開通 かいつう しておらず、ニューヨーク へ行 い くにはパナマ を経由 けいゆ するのがもっとも早 はや かった。バクーニンはオリザバ号 ごう でパナマへ向 む かい、2週間 しゅうかん 待 ま ってチャンピオン号 ごう に乗船 じょうせん 、ニューヨークに赴 おもむ いた。
ボストン では、パリ二 に 月 がつ 革命 かくめい でミエロスワフスキーの勢力 せいりょく にいたカロル・フォースターのもとを訪 おとず れ、フリードリヒ・カップなど、1848年 ねん 革命 かくめい に立 た ち上 あ がったいわゆる「48年 ねん 組 ぐみ 」の面々 めんめん とも出会 であ った[ 13] 。その後 ご バクーニンはふたたび船出 ふなで し、12月27日 にち にイギリス のリバプール に到着 とうちゃく 。直 ただ ちにロンドン へ向 む かい、ゲルツェンと会 あ っている。一家 いっか が夕食 ゆうしょく をとっている最中 さいちゅう に応接間 おうせつま へと押 お しかけ、「なんだ!牡蠣 かき を食 た べているのか!いいじゃないか!色々 いろいろ 教 おし えてくれないか、どこで何 なに が起 お きてるんだい?」などと話 はな したという。
西 にし ヨーロッパ に帰還 きかん するとバクーニンはすぐさま革命 かくめい 運動 うんどう に身 み を投 とう じていった。1860年 ねん 、まだイルクーツクにいた頃 ころ のバクーニンは政治 せいじ グループの同輩 どうはい ともどもジュゼッペ・ガリバルディ とそのシチリア 遠征 えんせい に多大 ただい な感銘 かんめい を受 う けていた。この遠征 えんせい でガリバルディはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 せい の名 な のもと、自 みずか らをシチリアの支配 しはい 者 しゃ であると宣言 せんげん していた。バクーニンはロンドン に戻 もど ると、ガリバルディに1862年 ねん 1月 がつ 31日 にち 付 づけ で手紙 てがみ を書 か いている[ 14] 。
バクーニンはガリバルディに、イタリア人 じん やハンガリー人 じん 、南 みなみ スラヴの民 みん らとともにオーストリアとトルコ に対 たい し立 た ち上 あ がるよう依頼 いらい した。当時 とうじ ガリバルディはローマ遠征 えんせい の準備 じゅんび を進 すす めていた。5月頃 ごろ のバクーニンの手紙 てがみ では、イタリアとスラヴの連合 れんごう とポーランド問題 もんだい に焦点 しょうてん が当 あ てられている。バクーニンは6月 がつ にはイタリアへの移住 いじゅう を決意 けつい していたが、妻 つま との合流 ごうりゅう に時間 じかん が掛 か かり、出発 しゅっぱつ は8月 がつ になった。このときジュゼッペ・マッツィーニ が支援 しえん 者 しゃ マウリツィオ・クアドリオに向 む けた手紙 てがみ で、バクーニンを信頼 しんらい に足 た る好人物 こうじんぶつ と評 ひょう している。しかしアスプロモンテの変 へん によりバクーニンはパリ で足止 あしど めとなり、そこでルドヴィク・ミエロスワフスキーの活動 かつどう にしばらく関 かか わることとなった。とは言 い うもののバクーニンはミエロスワフスキーの排外 はいがい 主義 しゅぎ を受容 じゅよう することはなく、農民 のうみん 層 そう への権利 けんり の付与 ふよ について顧 かえり みないミエロスワウスキーの考 かんが えを是 ぜ としなかった。バクーニンは同年 どうねん 9月 がつ にイギリスに戻 もど り、ポーランド問題 もんだい に注力 ちゅうりょく することとなる。1863年 ねん には一 いち 月 がつ 蜂起 ほうき が発生 はっせい 、バクーニンはコペンハーゲン へ渡 わた りこの反乱 はんらん に加 くわ わるつもりであった。蒸気 じょうき 船 せん ウォード・ジャクソン号 ごう でバルト海 ばるとかい を航行 こうこう する計画 けいかく を立 た てたが失敗 しっぱい に終 お わり、バクーニンはストックホルム で妻 つま と合流 ごうりゅう し、ロンドンへ戻 もど った。再 ふたた びイタリア行 い きを考 かんが え始 はじ め、友人 ゆうじん のアウレリオ・サッフィ はバクーニンにフィレンツェ やトリノ 、ミラノ への紹介 しょうかい 状 じょう を送 おく っている。またマッツィーニはジェノヴァ のフェデリコ・カンパネッラやフィレンツェのジュゼッペ・ドルフィにバクーニンの推薦 すいせん 状 じょう を送 おく っている。1863年 ねん 11月にロンドンを発 た ち、ブリュッセル、パリ、スイスのヴヴェ を経由 けいゆ して1864年 ねん 1月 がつ 11日 にち 、イタリア入 い りを果 は たした。バクーニンはこの地 ち でそのアナキスト的 てき 思想 しそう を展開 てんかい していくことになる。
プロパガンダ を続行 ぞっこう し直接 ちょくせつ 行動 こうどう の準備 じゅんび を行 おこな うため、バクーニンは革命 かくめい 家 か の地下 ちか 組織 そしき を作 つく ろうと考 かんが えた。イタリア人 じん やフランス人 じん 、スカンディナヴィア 人 ひと 、そしてスラヴ人 じん を勧誘 かんゆう し国際 こくさい 同胞 どうほう 団 だん (International Brotherhood、別名 べつめい ・革命 かくめい 派 は 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 連合 れんごう the Alliance of Revolutionary Socialists)を設立 せつりつ した。
1866年 ねん 7月 がつ 、バクーニンはゲルツェンとオガリョフに自 みずか らの2年間 ねんかん の活動 かつどう の成果 せいか を報告 ほうこく している。地下 ちか 組織 そしき のメンバーの出身 しゅっしん 地 ち はスウェーデンやノルウェイ、デンマーク、ベルギー、イングランド、フランス、スペイン、イタリアにまで及 およ んでおり、ポーランド人 じん やロシア人 じん ばかりにとどまらなかった。同年 どうねん の『革命 かくめい 的 てき 教理 きょうり 問答 もんどう 書 しょ 』でバクーニンは宗教 しゅうきょう と国家 こっか に反発 はんぱつ し「国家 こっか の便益 べんえき のために自由 じゆう を犠牲 ぎせい にするような全 すべ ての権威 けんい の全 ぜん 否定 ひてい [ 15] 」を唱 とな えた。
1867年 ねん から68年 ねん にかけて、バクーニンはエミール・アコラス (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) の呼 よ びかけに応 こた え平和 へいわ と自由 じゆう 連盟 れんめい (Ligue de la Paix et de la Liberté) に参加 さんか し、長文 ちょうぶん の評論 ひょうろん 『連合 れんごう 主義 しゅぎ ・社会 しゃかい 主義 しゅぎ および反 はん 神学 しんがく 主義 しゅぎ 』を執筆 しっぴつ 。この中 なか でプルードンの著作 ちょさく を取 と り上 あ げ、連邦 れんぽう 制 せい 社会 しゃかい 主義 しゅぎ に賛同 さんどう した。結社 けっしゃ の自由 じゆう を支持 しじ し、また連盟 れんめい に参加 さんか しているすべての団体 だんたい に対 たい し脱退 だったい の自由 じゆう をも認 みと めたが、「社会 しゃかい 主義 しゅぎ なき自由 じゆう は特権 とっけん であり、不正 ふせい である。自由 じゆう なき社会 しゃかい 主義 しゅぎ は奴隷 どれい 制 せい であり、蛮行 ばんこう である」と記 しる しているように[ 16] 、この自由 じゆう が社会 しゃかい 主義 しゅぎ とともに実現 じつげん されることを強調 きょうちょう した。
バクーニンは1867年 ねん に行 おこな われたジュネーヴ会議 かいぎ で重要 じゅうよう な役割 やくわり を担 にな い、中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい に加 くわ わった。その創立 そうりつ 集会 しゅうかい には6千 せん 人 にん が出席 しゅっせき 、バクーニンの演説 えんぜつ に会場 かいじょう は熱狂 ねっきょう し、拍手 はくしゅ がいつまでも鳴 な り止 や まなかったという[ 17] 。
連盟 れんめい のベルン会議 かいぎ (1868年 ねん )では他 た の社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ ら(エリゼ・ルクリュ 、アリスティード・レイ、ジャクラール、ジュゼッペ・ファネッリ、N・I・ジュコフスキー、V・ムラチコフスキほか)と共 とも に少数 しょうすう 派 は となり、連盟 れんめい を脱退 だったい して新 あら たに国際 こくさい 社会 しゃかい 民主 みんしゅ 同盟 どうめい を設立 せつりつ し、革命 かくめい 的 てき 社会 しゃかい 主義 しゅぎ を綱領 こうりょう に掲 かか げた。
第 だい 一 いち インターナショナルへの参加 さんか 、アナキスト運動 うんどう の隆盛 りゅうせい [ 編集 へんしゅう ]
1868年 ねん 、バクーニンは第 だい 一 いち インターナショナルのジュネーヴ支部 しぶ に参加 さんか し精力 せいりょく 的 てき な活動 かつどう を行 おこな ったが、1872年 ねん のハーグ大会 たいかい でマルクスを中心 ちゅうしん とする一派 いっぱ によって除名 じょめい された。バクーニンはイタリアおよびスペインにおいてインター支部 しぶ を創設 そうせつ する際 さい に重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たしていた。
1869年 ねん 、社会 しゃかい 民主 みんしゅ 同盟 どうめい は第 だい 一 いち インターナショナルへの参加 さんか を拒否 きょひ されていた。同 どう 組織 そしき そのものが国際 こくさい 的 てき 団体 だんたい であり、インターに加入 かにゅう できるのは国内 こくない 的 てき な活動 かつどう を行 おこな う組織 そしき だけであるというのがその理由 りゆう であった。社会 しゃかい 民主 みんしゅ 同盟 どうめい は解散 かいさん し、同盟 どうめい を構成 こうせい していた団体 だんたい は各自 かくじ でインターに加盟 かめい した。
1869年 ねん から70年 ねん にかけて、バクーニンはロシアの革命 かくめい 家 か セルゲイ・ネチャーエフ とさまざまな地下 ちか 活動 かつどう を通 つう じて関 かか わることとなる。しかしバクーニンは革命 かくめい をめぐるネチャーエフの主張 しゅちょう を「革命 かくめい のイエズス主義 しゅぎ 」と称 しょう し、関係 かんけい を断絶 だんぜつ した。この主張 しゅちょう は、革命 かくめい を成 な し遂 と げるためにはあらゆる手段 しゅだん が正当 せいとう 化 か される、というものであった[ 18] 。
1870年 ねん 、バクーニンはリヨン で暴動 ぼうどう の先頭 せんとう に立 た った。これは失敗 しっぱい に終 お わったものの、のちのパリ・コミューン の先例 せんれい となった。リヨン蜂起 ほうき は普 ひろし 仏 ふつ 戦争 せんそう によるフランス政府 せいふ の崩壊 ほうかい に呼応 こおう した大 だい 規模 きぼ な反乱 はんらん の呼 よ び水 みず となるものであり、帝国 ていこく 主義 しゅぎ 的 てき 紛争 ふんそう を社会 しゃかい 革命 かくめい に繋 つな げようとする動 うご きであった。『一 いち フランス人 じん に宛 あ てた現状 げんじょう の危機 きき に関 かん する手紙 てがみ 』では労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう と農民 のうみん 階級 かいきゅう が革命 かくめい 運動 うんどう において連帯 れんたい するべきであると訴 うった え、また後 のち に「行動 こうどう によるプロパガンダ」という言葉 ことば で表 あらわ されることになる己 おのれ の理念 りねん を明確 めいかく にしている[ 19] 。
バクーニンが強力 きょうりょく に支援 しえん した1871年 ねん のパリ・コミューンは、フランス政府 せいふ により容赦 ようしゃ のない弾圧 だんあつ を受 う けた。彼 かれ はコミューンをひとえに「国家 こっか に対 たい しての反乱 はんらん 」としてとらえ、コミューンのメンバーには国家 こっか のみならず革命 かくめい 家 か による独裁 どくさい 体制 たいせい も拒否 きょひ すべきであると呼 よ びかけた[ 20] 。バクーニンは一連 いちれん のパンフレットでコミューンとインターを擁護 ようご し、イタリアの国家 こっか 主義 しゅぎ 者 しゃ であったマッツィーニとは対立 たいりつ したが、多 おお くのイタリア共和 きょうわ 主義 しゅぎ 者 しゃ がこれによりインターに連 つら なることとなり、革命 かくめい 的 てき 社会 しゃかい 主義 しゅぎ はその根拠 こんきょ を獲得 かくとく したのであった。
バクーニンはマルクスの意見 いけん には同意 どうい できず、1872年 ねん のハーグ大会 たいかい で行 おこな われた投票 とうひょう においてマルクス一派 いっぱ に敗北 はいぼく を喫 きっ し追放 ついほう されている。これは革命 かくめい に向 む けて直接的 ちょくせつてき 行動 こうどう を取 と り、労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう を組織 そしき 化 か して国家 こっか と資本 しほん 制 せい を滅 ほろ ぼすべきであるという「反 はん 専制 せんせい 主義 しゅぎ 」各派 かくは の論調 ろんちょう と、労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう により政権 せいけん を奪取 だっしゅ する社会 しゃかい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ を掲 かか げるマルクス派 は との溝 みぞ がインター内部 ないぶ において深 ふか まりつつあったことの表 あらわ れであった。
反 はん 独裁 どくさい 派 は はサンティミエ大会 たいかい を開催 かいさい して独自 どくじ のインター組織 そしき を創設 そうせつ し、革命 かくめい 主義 しゅぎ 的 てき アナキストを標榜 ひょうぼう した[ 21] 。バクーニンは、マルクスの階級 かいきゅう 分析 ぶんせき や資本 しほん 主義 しゅぎ に関 かん する経済 けいざい 理論 りろん を認 みと め、彼 かれ を「天才 てんさい 」と認識 にんしき していた。しかしマルクスの性格 せいかく を傲慢 ごうまん であると感 かん じており、また議会 ぎかい 進出 しんしゅつ も厭 いと わない彼 かれ の手法 しゅほう によって社会 しゃかい 革命 かくめい が妥協 だきょう の産物 さんぶつ に終 お わってしまうとも考 かんが えていた。なによりバクーニンは「専制 せんせい 的 てき 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 」を批判 ひはん しており、マルクスに従 したが う一派 いっぱ を「権威 けんい 主義 しゅぎ 派 は 」と批判 ひはん していた。プロレタリア独裁 どくさい についても同様 どうよう で、この思想 しそう に対 たい してバクーニンは一貫 いっかん して拒絶 きょぜつ を表明 ひょうめい しつづけ、「最 もっと も熱心 ねっしん な革命 かくめい 家 か に全 ぜん 権力 けんりょく を与 あた えたならば、一 いち 年 ねん もしないうちに彼 かれ はツァーリより酷 ひど い君主 くんしゅ となっているだろう[ 22] 」という言葉 ことば を残 のこ している。
1873年 ねん 、バクーニンは引退 いんたい してルガーノに住 す み、1876年 ねん 7月 がつ 1日 にち 、ベルンで死去 しきょ した。
バクーニンはその政治 せいじ 的 てき 信念 しんねん においていかなる名称 めいしょう であれ形式 けいしき であれ、政治 せいじ 機構 きこう というものを認 みと めなかった。支配 しはい 者 しゃ の意志 いし であろうと全員 ぜんいん 一致 いっち の望 のぞ みであろうと、外部 がいぶ の権力 けんりょく 機関 きかん をことごとく否定 ひてい した。この信念 しんねん はバクーニンの死後 しご 、1882年 ねん に出版 しゅっぱん された『神 かみ と国家 こっか 』にも貫 つらぬ かれている[ 23] 。
バクーニンはまたあらゆる特権 とっけん 的 てき 地位 ちい や階級 かいきゅう という概念 がいねん を拒絶 きょぜつ した。それらが人 ひと の知性 ちせい や精神 せいしん を腐敗 ふはい させると考 かんが えていたのである。
バクーニンの政治 せいじ 的 てき 信念 しんねん はいくつかの相関 そうかん する概念 がいねん に基 もと づいていた。自由 じゆう 、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 、連邦 れんぽう 主義 しゅぎ 、反 はん 神 かみ 論 ろん 、そして唯物 ゆいぶつ 論 ろん である。またマルクス主義 まるくすしゅぎ への批判 ひはん も行 おこな ったが、これが未来 みらい を予見 よけん していたという指摘 してき もある。バクーニンは、マルクス主義 まるくすしゅぎ 者 しゃ が権力 けんりょく を得 え た場合 ばあい に彼 かれ らが「人民 じんみん の意志 いし であると見 み せかけている分 ぶん 、さらに危険 きけん な」一 いち 党 とう 独裁 どくさい 体制 たいせい を敷 し くであろう、と予言 よげん したのである[ 24] 。
バクーニンが「自由 じゆう 」という語 かたり によって示 しめ したのは抽象 ちゅうしょう 的 てき な理想 りそう などではなく、明確 めいかく で具体 ぐたい 的 てき な現実 げんじつ であった。肯定 こうてい 的 てき に述 の べれば、自由 じゆう とは「教育 きょういく や科学 かがく 的 てき 訓練 くんれん 、物質 ぶっしつ 的 てき 繁栄 はんえい によって全 ぜん 人類 じんるい がその才能 さいのう や能力 のうりょく を十全 じゅうぜん に発達 はったつ させること」によって成 な り立 た つものであった。またそのような捉 とら え方 かた は「非常 ひじょう に社会 しゃかい 的 てき である。なぜならば社会 しゃかい にあってのみ実現 じつげん される」からであって、孤立 こりつ していては不可能 ふかのう だからである。否定 ひてい 的 てき にとらえると、自由 じゆう の意味 いみ するところは「神 かみ 的 てき 権威 けんい 、集団 しゅうだん の権威 けんい 、個人 こじん の権威 けんい すべてに対 たい する個々人 ここじん の反逆 はんぎゃく 」である[ 25] 。
バクーニンの社会 しゃかい 主義 しゅぎ は「無 む 政府 せいふ 集 あつまり 産 さん 主義 しゅぎ 」として知 し られている。そこでは労働 ろうどう 者 しゃ らは自身 じしん の運営 うんえい する生産 せいさん 者 しゃ 組織 そしき によって生産 せいさん 手段 しゅだん を直接 ちょくせつ 管理 かんり することになる。子供 こども たちはみな平等 びょうどう に学習 がくしゅう と成長 せいちょう の機会 きかい を与 あた えられ、大人 おとな はみな平等 びょうどう に物資 ぶっし を得 え て生産 せいさん にいそしむのであるという[ 26] 。
バクーニンは、連邦 れんぽう 主義 しゅぎ という思想 しそう によって「下 した から上 うえ へ、周縁 しゅうえん から中央 ちゅうおう へ向 む けた、連帯 れんたい や連邦 れんぽう の自由 じゆう という原則 げんそく に則 のっと った」社会 しゃかい の組織 そしき 化 か を唱 とな え、社会 しゃかい は「個人 こじん 、生産 せいさん 者 しゃ 組織 そしき およびコミューンの自由 じゆう を基盤 きばん として」「全 すべ ての個人 こじん 、全 すべ ての組織 そしき 、全 すべ てのコミューン、全 すべ ての宗教 しゅうきょう 、全 すべ ての国家 こっか によって構成 こうせい され」「完全 かんぜん なる自己 じこ 決定 けってい 権 けん 、結社 けっしゃ の自由 じゆう 、同盟 どうめい の自由 じゆう をもつ」ものとされた[ 26] 。
バクーニンは「神 かみ という思想 しそう は人類 じんるい の生存 せいぞん 理由 りゆう と正義 せいぎ の放棄 ほうき を意味 いみ しており、まぎれもなく人間 にんげん の自由 じゆう を否定 ひてい するものであり、理論 りろん 的 てき にも実際 じっさい 的 てき にも、必然 ひつぜん 的 てき に人類 じんるい の隷属 れいぞく 化 か という結果 けっか をもたらす」と主張 しゅちょう していた。バクーニンは「もし神 かみ が存在 そんざい しないというなら、それを発明 はつめい しなければならない」というヴォルテール の著名 ちょめい な文言 もんごん を逆転 ぎゃくてん させ、「もし神 かみ が実在 じつざい するというなら、それを破棄 はき しなければならない」と述 の べている[ 23] 。
バクーニンは自由 じゆう 意志 いし を宗教 しゅうきょう 的 てき にとらえることなく、自然 しぜん 現象 げんしょう を唯物 ゆいぶつ 論 ろん 的 てき に説明 せつめい することを支持 しじ した[ 27] 。「科学 かがく の使命 しめい とは、目 め の前 まえ にある実際 じっさい の物事 ものごと の全体 ぜんたい 的 てき 関係 かんけい を観察 かんさつ し、物質 ぶっしつ 的 てき 社会 しゃかい 的 てき 現象 げんしょう の産物 さんぶつ に具 そな わった普遍 ふへん 的 てき 法則 ほうそく を明文化 めいぶんか することである」。だがバクーニンは「科学 かがく 的 てき 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 」という概念 がいねん は受 う け入 い れなかった。『神 かみ と国家 こっか 』の中 なか では「社会 しゃかい の統治 とうち 権 けん を委 ゆだ ねられた科学 かがく 的 てき 身体 しんたい はすぐに滅 ほろ びるであろう」と書 か いている[ 23] 。
革命 かくめい の実現 じつげん に向 む けバクーニンが用 もち いようとした方法 ほうほう は、自身 じしん の主義 しゅぎ 思想 しそう と一致 いっち していた。工場 こうじょう 労働 ろうどう 者 しゃ と農民 のうみん が連邦 れんぽう を基盤 きばん として組織 そしき 化 か され「アイデアだけでなく、未来 みらい の事実 じじつ をも創出 そうしゅつ し」ていく[3] 。工場 こうじょう 労働 ろうどう 者 しゃ は通商 つうしょう 組合 くみあい を作 つく り「すべての生産 せいさん 用具 ようぐ を、建物 たてもの や資産 しさん と同 おな じように一手 いって に」所有 しょゆう する[4] 。農民 のうみん 層 そう は「土地 とち を農民 のうみん たち自身 じしん のものとし、他人 たにん の労働 ろうどう によって生活 せいかつ している地主 じぬし らを追放 ついほう する」[ 19] 。バクーニンは「下層 かそう の人々 ひとびと 」に注目 ちゅうもく し、貧困 ひんこん に苦 くる しむ大勢 おおぜい の被 ひ 搾取 さくしゅ 層 そう 、いわゆるルンペンプロレタリアート は「ブルジョワ 文明 ぶんめい による汚染 おせん をほとんど受 う けておらず」、ゆえに「社会 しゃかい 革命 かくめい の火蓋 ひぶた を切 き り、勝利 しょうり へと導 みちび く」存在 そんざい であると考 かんが えた[ 28] 。
バクーニンとマルクスの間 あいだ で交 か わされた論争 ろんそう は、アナキズムとマルクス主義 まるくすしゅぎ との相違 そうい 点 てん を浮 う き彫 ぼ りにした。バクーニンは多 おお くのマルクス主義 まるくすしゅぎ 者 しゃ らが持 も ついくつかの考 かんが えに対 たい して異 こと を唱 とな え、革命 かくめい が全 すべ て暴力 ぼうりょく 的 てき である必要 ひつよう はないと主張 しゅちょう した。同時 どうじ にマルクスの提示 ていじ するプロレタリア独裁 どくさい という概念 がいねん には強 つよ く反対 はんたい した。マルクスの支持 しじ 者 しゃ はこの言葉 ことば を現代 げんだい で言 い うところの労働 ろうどう 者 しゃ による民主 みんしゅ 制 せい と解釈 かいしゃく するが、これによって共産 きょうさん 主義 しゅぎ への過渡 かと 期 き の状態 じょうたい にも国家 こっか は存続 そんぞく することになる[ 29] 。バクーニンは「革命 かくめい 家 か による独裁 どくさい という考 かんが えはもう捨 す てており」[ 29] 、革命 かくめい は民衆 みんしゅう 主導 しゅどう で行 おこな われるべきであると主張 しゅちょう し、また「知識 ちしき を身 み につけたエリート」には「表 ひょう には出 で ず」「人 ひと に負担 ふたん をかけず」「公権力 こうけんりょく を持 も たず、要職 ようしょく につかずに」「ただ影響 えいきょう を及 およ ぼすにとどまる」[ 30] べきであるとした。国家 こっか というものを直 ただ ちに無 な くすべきである、というのがバクーニンの見解 けんかい であった。いかなる形 かたち の政府 せいふ も、やがては抑圧 よくあつ への道 みち をたどる、と考 かんが えたのである[ 29] 。バクーニンにとって、自由 じゆう とはあくまでも「下 した から上 うえ へと向 む けて実現 じつげん される」べきものであった[ 31] 。
社会 しゃかい 的 てき アナキストとマルクス主義 まるくすしゅぎ 者 しゃ の両者 りょうしゃ とも、目指 めざ すところは自由 じゆう の創出 そうしゅつ であり、社会 しゃかい 的 てき 階層 かいそう や統治 とうち 機関 きかん なき平等 びょうどう 社会 しゃかい の実現 じつげん であったが、目的 もくてき を達 たっ するための手段 しゅだん については激 はげ しく対立 たいりつ した。アナキストの信念 しんねん によれば、階級 かいきゅう も国家 こっか も存在 そんざい しない社会 しゃかい を築 きず くためには大衆 たいしゅう 自身 じしん が直接 ちょくせつ 行動 こうどう を起 お こし、社会 しゃかい 革命 かくめい を達成 たっせい するべきであり、プロレタリア独裁 どくさい のような中 なか 間 あいだ 的 てき な段階 だんかい を認 みと めるべきではない。そのような独裁 どくさい 体制 たいせい はのちに永久 えいきゅう 化 か の土台 どだい と化 か してしまうからである。バクーニンから見 み ると、マルクス主義 まるくすしゅぎ 者 しゃ は根本 こんぽん 的 てき な矛盾 むじゅん を抱 かか えていた[ 32] 。
バクーニンは1844年 ねん にマルクスと出会 であ って以来 いらい 、「マルクスがエンゲルスと共 とも に第 だい 一 いち インターナショナルに最大 さいだい の貢献 こうけん をしたことは疑 うたが いない。彼 かれ は聡明 そうめい で学識 がくしき 深 ふか い経済 けいざい 学者 がくしゃ であり、イタリアの共和 きょうわ 主義 しゅぎ 者 しゃ マッツィーニ 等 ひとし はその生徒 せいと と呼 よ んでいい程 ほど である」とその能力 のうりょく を認 みと めつつも、「マルクスは、理論 りろん の高 たか みから人々 ひとびと を睥睨 へいげい し、軽蔑 けいべつ している。社会 しゃかい 主義 しゅぎ や共産 きょうさん 主義 しゅぎ の法王 ほうおう だと自 みずか ら考 かんが えており、権力 けんりょく を追求 ついきゅう し、支配 しはい を愛好 あいこう し、権威 けんい を渇望 かつぼう する。何時 いつ の日 ひ にか自分 じぶん 自身 じしん の国 くに を支配 しはい しようと望 のぞ むだけでは満足 まんぞく せず、全 ぜん 世界 せかい 的 てき な権力 けんりょく 、世界国家 せかいこっか を夢見 ゆめみ ている」と彼 かれ の気質 きしつ に対 たい しては反感 はんかん に近 ちか い感情 かんじょう を抱 だ いており、その評価 ひょうか は後年 こうねん も変 か わらなかった[ 33] [ 34] 。
だがバクーニンは経済 けいざい 学者 がくしゃ としてのマルクスを評価 ひょうか し、『資本 しほん 論 ろん 』のロシア語 ご 訳 やく に取 と り掛 か かった。一方 いっぽう マルクスは1848年 ねん のドレスデン蜂起 ほうき について「ロシアからの避難 ひなん 民 みん の中 なか ではミハイル・バクーニンが有望 ゆうぼう で有能 ゆうのう な指導 しどう 者 しゃ とみなされていた」と記 しる している[ 35] 。マルクスはまたエンゲルスへの手紙 てがみ でシベリアから戻 もど ったバクーニンと1864年 ねん に再会 さいかい したことに触 ふ れ「16年 ねん を経 へ て老 お い衰 おとろ えた様子 ようす もなく、なおも成長 せいちょう を遂 と げたようにさえ思 おも われた。彼 かれ のような人物 じんぶつ は稀有 けう である」と書 か いている[ 36] 。
バクーニンは、国家 こっか において官僚 かんりょう 制度 せいど を形成 けいせい する知識 ちしき 人 じん や行政 ぎょうせい 官 かん からなる、いわゆる新 しん 階級 かいきゅう について論 ろん じた最初 さいしょ の人間 にんげん であるともいえる。バクーニンによれば、一部 いちぶ の特権 とっけん 階級 かいきゅう の世襲 せしゅう 財産 ざいさん とされてきた国家 こっか は、やがてこの新 あたら しい階級 かいきゅう である「官僚 かんりょう 階級 かいきゅう の手 て に渡 わた り、単 たん なる機械 きかい へと成 な り下 さ がる――あるいは成 な り上 あ がると言 い うべきか。」[ 28]
暴力 ぼうりょく 性 せい 、革命 かくめい 、「見 み えざる独裁 どくさい 」[ 編集 へんしゅう ]
バクーニンを隠 かく れた独裁 どくさい 者 しゃ であると批判 ひはん する意見 いけん もある。アルベール・リシャールに宛 あ てた手紙 てがみ で、バクーニンは「見 み えざる独裁 どくさい 」という概念 がいねん について記 しる している。だが、バクーニンの支持 しじ 者 しゃ からはこの「見 み えざる独裁 どくさい 」には秘密 ひみつ 結社 けっしゃ 的 てき 意味合 いみあ いはないという主張 しゅちょう がなされている。「見 み えざる独裁 どくさい 」の参加 さんか 者 しゃ が公然 こうぜん と政治 せいじ 力 りょく を行使 こうし することはない、とバクーニンは明示 めいじ している、とする意見 いけん である[ 37] 。
だがチャールズ・A・マディソンによれば、第 だい 一 いち インターナショナルを自 みずか らの支配 しはい 下 か に置 お こうとするバクーニンの策謀 さくぼう がマルクスとの対立 たいりつ と1872年 ねん の追放 ついほう を招 まね いたのだという。暴力 ぼうりょく の肯定 こうてい はやがてニヒリズムへとつながっていき、その結果 けっか 「アナキズムという言葉 ことば が、一般 いっぱん 的 てき には暗殺 あんさつ や混乱 こんらん 状態 じょうたい と同義 どうぎ に捉 とら えられることとなったのである[ 38] 」という。
この分析 ぶんせき を否定 ひてい する意見 いけん もある。バクーニンは自分 じぶん 個人 こじん でインターを支配 しはい しようとはしておらず、自身 じしん の作 つく った地下 ちか 組織 そしき にも独裁 どくさい 者 しゃ 的 てき 権力 けんりょく は行使 こうし せず、テロリズムに関 かん しては、革命 かくめい に反 はん する活動 かつどう であるとして非難 ひなん していたという主張 しゅちょう である[ 39] 。
アナキズムの歴史 れきし を研究 けんきゅう するマックス・ネットラウは、バクーニンの汎 ひろし スラヴ主義 しゅぎ を、民族 みんぞく 主義 しゅぎ という逃 のが れがたい病 やまい の発現 はつげん であると記 しる した。『告白 こくはく 』は皇帝 こうてい の囚人 しゅうじん としてペトロパヴロフスク要塞 ようさい 監獄 かんごく にいた時 とき に書 か かれ、1851年 ねん には出版 しゅっぱん されている。自 みずか らの罪 つみ への赦 ゆる しを乞 こ うとともに、皇帝 こうてい に対 たい し、救 すく い主 ぬし として、また同時 どうじ に父 ちち なる者 もの としてスラヴに君臨 くんりん するよう懇願 こんがん するという内容 ないよう であったため、この著作 ちょさく はバクーニンへの攻撃 こうげき 材料 ざいりょう として利用 りよう された。
バクーニンは死後 しご 、ユダヤ人 じん 嫌 きら いとしてしばしばその名 な を挙 あ げられてきた[ 40] 。マルクスとの論争 ろんそう にしばしば反 はん ユダヤ主義 しゅぎ を持 も ち込 こ み、典型 てんけい 的 てき な反 はん ユダヤ主義 しゅぎ ・ユダヤ陰謀 いんぼう 論 ろん 的 てき 見解 けんかい を繰 く り返 かえ し述 の べている。
「貪欲 どんよく な寄生虫 きせいちゅう で構成 こうせい されるユダヤ世界 せかい は国境 こっきょう を超 こ えるばかりか、政治 せいじ 思想 しそう の違 ちが いさえも超 こ えてくる。この世界 せかい の大 だい 部分 ぶぶん は、片 かた やマルクス、片 かた やロスチャイルド家 か の意 い のままになっている。私 わたし は知 し っている。反動 はんどう 主義 しゅぎ 者 しゃ であるロスチャイルドが共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ であるマルクスの恩恵 おんけい に大 おお いに浴 よく していることを。他方 たほう 、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ であるマルクスが本能 ほんのう 的 てき に金 かね の天才 てんさい ロスチャイルドに抗 あらが いがたいほどの魅力 みりょく を感 かん じ、称賛 しょうさん の念 ねん を禁 きん じえなくなっていることも。ユダヤの結束 けっそく 、歴史 れきし を通 つう じて維持 いじ されてきたその強固 きょうこ な結束 けっそく が、彼 かれ らを一 ひと つにしているのだ」[ 41] [ 42] 、「マルクスの共産 きょうさん 主義 しゅぎ は中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 的 てき 権力 けんりょく を欲 ほっ する。国家 こっか の中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん には中央 ちゅうおう 銀行 ぎんこう が欠 か かせない。このような銀行 ぎんこう が存在 そんざい するところに人民 じんみん の労働 ろうどう の上 うえ に相場 そうば を張 は っている寄生虫 きせいちゅう 民族 みんぞく ユダヤ人 じん は、その存在 そんざい 手段 しゅだん を見出 みいだ すのである」[ 42] 、「独裁 どくさい 者 しゃ にしてメシア であるマルクスに献身 けんしん 的 てき なロシアとドイツのユダヤ人 じん たちが私 わたし に卑劣 ひれつ な陰謀 いんぼう を仕掛 しか けてきている。私 わたし はその犠牲 ぎせい 者 しゃ となるだろう。ラテン系 けい の人々 ひとびと だけがユダヤの世界 せかい 征服 せいふく の陰謀 いんぼう を叩 たた き潰 つぶ すことができる」といった具合 ぐあい である[ 43] 。
このような偏狭 へんきょう なユダヤ人 じん 観 かん は当時 とうじ 、他 た の急進 きゅうしん 的 てき 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ やアナキストの間 あいだ にもみられた[ 44] 。例 たと えばプルードンの覚書 おぼえがき には、ヨーロッパからのユダヤ人 じん の追放 ついほう または根絶 こんぜつ を呼 よ びかけている一節 いっせつ がある[ 45] 。
バクーニンのヨーロッパ中心 ちゅうしん 主義 しゅぎ は、彼 かれ が唱 とな えたヨーロッパ合州国 がっしゅうこく 構想 こうそう や彼 かれ が支持 しじ したロシアの植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ に明 あき らかであった。親類 しんるい であり後見人 こうけんにん でもあったニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー は植民 しょくみん 地 ち 政策 せいさく を推進 すいしん していた。バクーニンは横浜 よこはま に短 みじか い間 あいだ 滞在 たいざい していたことがあるが、日本 にっぽん や日本 にっぽん の農民 のうみん については無 む 関心 かんしん であった。
バクーニンの思想 しそう を形作 かたちづく るこれらの側面 そくめん はすべて、アナキストとなる以前 いぜん に端 はし を発 はっ するものである。バクーニンの思想 しそう がアナキズムへと転化 てんか したのは1865年 ねん 以降 いこう であり、シベリア流刑 りゅうけい ののち日本 にっぽん 経由 けいゆ で脱出 だっしゅつ を図 はか ってから何 なん 年 ねん か後 ご のことであった[5] 。
イギリスの劇 げき 作家 さっか トム・ストッパード が2002年 ねん に発表 はっぴょう した三 さん 部 ぶ 作 さく の戯曲 ぎきょく 『ユートピアの岸 きし へ』 (The Coast of Utopia ) にバクーニンが登場 とうじょう している。
アメリカのテレビドラマ『ロスト 』でその名 な が使 つか われている(作中 さくちゅう 、哲学 てつがく 者 しゃ や科学 かがく 者 しゃ の名前 なまえ を冠 かん する人物 じんぶつ が登場 とうじょう する。他 ほか にもジョン・ロック やジェレミ・ベンサム など)。
1976年 ねん 、セックス・ピストルズ のテレビ初 はつ 出演 しゅつえん となったグラナダ・テレビジョンの音楽 おんがく 番組 ばんぐみ "So It Goes So It Goes" で、『アナーキー・イン・ザ・UK』の演奏 えんそう 後 ご 、司会 しかい 者 しゃ のトニー・ウィルソンが「バクーニンが生 い きていればさぞかし気 き に入 い っただろう」と発言 はつげん している。
ドイツのバンド、KMFDMのアルバム "Symbols" に収録 しゅうろく されている "Stray Bullet" という曲 きょく に、「神 かみ がもし実在 じつざい するならば、それを破棄 はき せねばならぬ」という一節 いっせつ がある。
ニューヨーク出身 しゅっしん のバンド、The Fugsのニヒリスティックな曲 きょく "Nothing" の歌詞 かし 中 ちゅう 、マルクス 、エンゲルス 、クロポトキン 、トロツキー らとともにその名 な を連 つら ねている。
セルジオ・レオーネ の映画 えいが 『夕陽 ゆうひ のギャングたち 』(1972年 ねん 公開 こうかい )の劇 げき 中 ちゅう 、マロリー(ジェームズ・コバーン )がファン・ミランダ(ロッド・スタイガー )との議論 ぎろん のすえ、バクーニンの著書 ちょしょ 『愛国 あいこく 主義 しゅぎ 』を泥 どろ に投 な げ込 こ むシーンがある。
アメリカのスカ・パンクバンドAll Authorityには、その生涯 しょうがい を歌 うた った『バクーニン』という曲 きょく がある
カナダにはBakunin’s Bumというポストロック バンドがある。
小説 しょうせつ 『すばらしい新 しん 世界 せかい 』の作中 さくちゅう 、レーニン やマルクス、トロツキーらとともにバクーニンの姓 せい が使 つか われている。
ロシアの小説 しょうせつ 家 か ボリス・アクーニン のペンネームは、バクーニンの名前 なまえ と日本語 にほんご の「悪人 あくにん 」をかけたものである。
中国 ちゅうごく の革命 かくめい 家 か で文筆 ぶんぴつ 家 か の巴 ともえ 金 きん のペンネームは、バクーニン(中国 ちゅうごく 語 ご : 巴 ともえ 枯寧 )の最初 さいしょ の音 おと とクロポトキン(中国 ちゅうごく 語 ご : 克 かつ 魯泡特金 とっきん )の最後 さいご の音 おと からとられたという説 せつ があるが、これは文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい 時 とき に巴 ともえ 金 きん を吊 つ るし上 あ げるためにできたデマである。事実 じじつ は、「巴 ともえ 」は自殺 じさつ した友人 ゆうじん の姓 せい に由来 ゆらい している(ちなみに「金 かね 」がクロポトキンからとったのは事実 じじつ )。
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