イブン・ハイサムのイメージ像 ぞう
イブン・ハイサム (ابن الهيثم , Ibn al-Haytham もしくは Ibn al-Haitham, イブン・アル=ハイサム , ラテン名 めい : アルハゼン )は、イスラム圏 けん の数学 すうがく 者 しゃ 、天文学 てんもんがく 者 しゃ 、物理 ぶつり 学者 がくしゃ 、医学 いがく 者 しゃ 、哲学 てつがく 者 しゃ 、音楽 おんがく 学者 がくしゃ [1] (965年 ねん - 1040年 ねん )。
イブン・ハイサムは光学 こうがく の諸 しょ 原理 げんり の発見 はっけん と科学 かがく 実験 じっけん 手法 しゅほう の発展 はってん に対 たい し、近代 きんだい 科学 かがく へ重要 じゅうよう な貢献 こうけん をした人物 じんぶつ である。また彼 かれ が残 のこ した光学 こうがく に関 かん する書物 しょもつ 、レンズ や鏡 かがみ を使 つか った屈折 くっせつ や反射 はんしゃ の実験 じっけん などから「光学 こうがく の父 ちち 」ともみなされている。「アルハゼンの定理 ていり 」や月 つき のクレーター 「アルハゼン (英語 えいご 版 ばん ) 」は彼 かれ にちなむ。
フルネームはアブー・アリー・アル=ハサン・イブン・アル=ハサン・イブン・アル=ハイサム (Abū ‘Alī al-Ḥasan ibn al-Ḥasan ibn al-Haytham, أبو علي الحسن بن الحسن بن الهيثم )で、直訳 ちょくやく は「アリーの父 ちち こと、アル=ハイサムの息子 むすこ (≒アル=ハイサム家 か の者 もの )であるアル=ハサンの息子 むすこ たるアル=ハサン」。
日本語 にほんご では「イブン・アル=ハイサム 」または定冠詞 ていかんし アル=を省 はぶ いた「イブン・ハイサム 」表記 ひょうき が多 おお く見 み られる。
西洋 せいよう ではファーストネームであるアル=ハサンのラテン語 らてんご 風発 ふうはつ 音 おん であるアルハゼン 、アルハーゼン (Alhacen 、Alhazen)の名 な で知 し られていた。ただし本名 ほんみょう に関 かん しては異説 いせつ があり、アル=ハサンではなくムハンマドとも言 い われている[2] 。
イラク の都市 とし バスラ 出身 しゅっしん であったことから「アル=バスリー」(al-Baṣrī, البصري, 「バスラ出身 しゅっしん の(人 ひと )」の意 い )とも呼 よ ばれていた。
なお「イブン・アル=ハイサム」は学者 がくしゃ 本人 ほんにん のファーストネームやその父 ちち の名前 なまえ だと言 い われている「アル=ハサン」ではなくアラブ世界 せかい で多用 たよう される出自 しゅつじ 表示 ひょうじ 方法 ほうほう で、名字 みょうじ に相当 そうとう する部分 ぶぶん を「イブン・アル=ハイサム」という形式 けいしき で表現 ひょうげん しているもの。「アル=ハイサムの息子 むすこ 」という直訳 ちょくやく になるがここではイブンは実父 じっぷ 以外 いがい の先祖 せんぞ の名前 なまえ が入 はい る事例 じれい であり、アル=ハイサムは実父 じっぷ ではなく数 すう 代 だい 前 まえ の祖先 そせん の名前 なまえ [2] で、「アル=ハイサム家 か (出身 しゅっしん 者 しゃ )」といった意味 いみ で使 つか われる家名 かめい ・名字 みょうじ 相当 そうとう 部分 ぶぶん となっている。
1572年 ねん にラテン語 らてんご に翻訳 ほんやく されたイブン・ハイサム(アルハゼン)の書 しょ Thesaurus opticus (光学 こうがく の書 しょ )の表紙 ひょうし 。太陽光 たいようこう を集 あつ めてシラクサ 沖 おき の軍艦 ぐんかん を燃 も やすアルキメデス の装置 そうち が描 えが かれている
イブン・ハイサムは光学 こうがく 理論 りろん の研究 けんきゅう 、および科学 かがく 研究 けんきゅう の実践 じっせん や手法 しゅほう に関 かん して重大 じゅうだい な貢献 こうけん をした、史上 しじょう 最 もっと も偉大 いだい な科学 かがく 者 しゃ の一人 ひとり である。
イブン・ハイサムの伝記 でんき には不明 ふめい な部分 ぶぶん が多 おお い[3] 。彼 かれ はアッバース朝 あさ 時代 じだい の965年 ねん にバスラ で生 う まれた。父親 ちちおや は官吏 かんり を務 つと めており、息子 むすこ に地元 じもと バスラにて十分 じゅうぶん な教育 きょういく を受 う けさせた[4] という。
彼 かれ はバグダード で学業 がくぎょう を修了 しゅうりょう しバスラでカーディー (裁判官 さいばんかん )となったが、当時 とうじ 吹 ふ き荒 あ れていた宗教 しゅうきょう 対立 たいりつ ・抗 こう 争 そう の嵐 あらし の中 なか で職 しょく を辞 じ し学者 がくしゃ の道 みち へと転向 てんこう 。資料 しりょう によっては父方 ちちかた おじから医学 いがく を学 まな び[5] 医師 いし 兼 けん 官吏 かんり として宮廷 きゅうてい で仕官 しかん していた[6] ともされている。
イラクもしくはシャーム(現在 げんざい のシリア近辺 きんぺん )にいた頃 ころ にナイル川 がわ 止 とめ 水 すい 堰 せき 構想 こうそう を伝 つた え聞 き いたファーティマ朝 あさ カリフのハーキムによりエジプト のカイロ へ招聘 しょうへい され移住 いじゅう 。同地 どうち でそのまま暮 く らし1040年 ねん に死去 しきょ 、埋葬 まいそう されたものと見 み られる。
ファーティマ朝 あさ カリフによるエジプト招聘 しょうへい [ 編集 へんしゅう ]
後世 こうせい の伝記 でんき によれば、学芸 がくげい を保護 ほご する一方 いっぽう 冷酷 れいこく な奇人 きじん としても知 し られたエジプトのファーティマ朝 あさ の第 だい 6代 だい カリフ ・ハーキム によってカイロに招 まね かれた。イブン・ハイサムが毎年 まいとし 氾濫 はんらん を起 お こすナイル川 がわ 治水 ちすい 実現 じつげん に結 むす びつく科学 かがく 的 てき 見解 けんかい ーアスワン に堰 せき を作 つく ればナイル川 がわ の流量 りゅうりょう を調節 ちょうせつ し、氾濫 はんらん 期 き か渇水 かっすい 期 き かにかかわらず水 みず を供給 きょうきゅう できるようになるーを明 あき らかにしたと伝 つた え聞 き いたハーキムの強 つよ い希望 きぼう によるものだった[7] という。
ハーキムはカイロ郊外 こうがい の(アル=)ハンダクと呼 よ ばれた地 ち でイブン・ハイサムを迎 むか え、彼 かれ のために用意 ようい した住居 じゅうきょ まで同行 どうこう 。生活 せいかつ や警護 けいご などの援助 えんじょ を提供 ていきょう [8] し、公的 こうてき な地位 ちい も与 あた えた[9] 。
カリフの意向 いこう を聞 き いたイブン・ハイサムは技術 ぎじゅつ 者 しゃ らとナイル川 がわ を遡上 そじょう しながら見 み て回 まわ ることにしたが、現地 げんち 調査 ちょうさ の結果 けっか 自身 じしん が立 た てた治水 ちすい 構想 こうそう を実現 じつげん に移 うつ すことは不可能 ふかのう であると判断 はんだん 。古代 こだい エジプトに建設 けんせつ された数々 かずかず の遺跡 いせき とその技術 ぎじゅつ 力 りょく 、滝 たき があるアスワン付近 ふきん の難 むずか しい地形 ちけい 、祖国 そこく を流 なが れるティグリス川 がわ ・ユーフラテス川 がわ とは異 こと なる荒々 あらあら しいナイル川 がわ の実際 じっさい の流 なが れを目 め にして、自分 じぶん がエジプトの地 ち を踏 ふ まないまま机上 きじょう で生 う み出 だ した推論 すいろん と当時 とうじ の技術 ぎじゅつ 力 りょく ではナイル川 がわ を治 おさ めるには足 た りなかったと悟 さと ったからだとも伝 つた えられ[7] ている。
治水 ちすい 事業 じぎょう を約束 やくそく した形 かたち で出立 しゅったつ したもののそれが無理 むり だったと悟 さと ったイブン・ハイサムは、アスワンから戻 もど った後 のち にハーキムに謝罪 しゃざい [10] 。ハーキムは自身 じしん の理論 りろん に不備 ふび があったことを正直 しょうじき に認 みと めた[11] イブン・ハイサムをその場 ば で処刑 しょけい したり国外 こくがい 追放 ついほう したりすることはせず、謝罪 しゃざい を受 う け入 い れ実現 じつげん が不可能 ふかのう である理由 りゆう にも納得 なっとく したように見受 みう けられ、それなりの公職 こうしょく を改 あらた めて与 あた えた。これについてはイブン・ハイサムが他国 たこく の為政者 いせいしゃ によってその才能 さいのう を活用 かつよう されることを防 ふせ ぎ手元 てもと に置 お いておく目論見 もくろみ もあったのではないかと論 ろん じる説 せつ 、シーア派 は であるファーティマ朝 あさ 支配 しはい 下 か にあるカイロが過 す ごしやすかったためイブン・ハイサム自身 じしん がそのまま逗留 とうりゅう することを選 えら んだのではないかといった見方 みかた もあるという[10] 。
ハーキムの真意 しんい は了解 りょうかい とは程遠 ほどとお いのではないかと考 かんが えたイブン・ハイサムはカリフの気 き まぐれと翻意 ほんい によって殺害 さつがい されることを恐 おそ れ[12] 、自 みずか らが置 お かれた不安定 ふあんてい な状況 じょうきょう と慣 な れない官吏 かんり 職 しょく から唯一 ゆいいつ 逃 のが れられる方法 ほうほう としてイスラーム法 ほう 上 じょう 責任 せきにん を問 と われず死刑 しけい から免 まぬか れることのできる狂人 きょうじん になったかのようにふるまうことを選択 せんたく した。
狂気 きょうき を装 よそお ったものの結局 けっきょく は公職 こうしょく を剥奪 はくだつ 。財産 ざいさん や書籍 しょせき などの所持 しょじ 品 ひん も没収 ぼっしゅう [13] され、ハーキムが1021年 ねん に謎 なぞ の死 し を遂 と げるまで自宅 じたく 軟禁 なんきん 生活 せいかつ を送 おく った[4] 。ハーキムによって監視 かんし の使用人 しようにん をつけられていたことから狂人 きょうじん になったふりはハーキムが死去 しきょ するまでの約 やく 10年間 ねんかん にわたって続 つづ けざるを得 え ず、カリフ死去 しきょ 後 ご にようやく正気 しょうき に戻 もど ったふりができるようになり学究 がっきゅう 生活 せいかつ を公然 こうぜん と行 おこな うようになった。
軟禁 なんきん されていた自宅 じたく からアズハルモスクのそばに転居 てんきょ 。アズハル学院 がくいん で講義 こうぎ を行 おこな い複数 ふくすう の学者 がくしゃ らが彼 かれ の元 もと で巣立 すだ っていった。また生活 せいかつ が楽 らく でなかったことからエウクレイデスやプトレマイオス(著 ちょ 『アルマゲスト』)といった書籍 しょせき の写本 しゃほん ・翻訳 ほんやく などを行 おこな うなどして生計 せいけい を立 た て[14] ながら研究 けんきゅう に没頭 ぼっとう したという。
外出 がいしゅつ 禁止 きんし 期間 きかん 中 ちゅう に研究 けんきゅう のための十分 じゅうぶん な時間 じかん を得 え て、光学 こうがく 、数学 すうがく 、物理 ぶつり 学 がく 、薬学 やくがく 、および学問 がくもん の分類 ぶんるい や研究 けんきゅう 手法 しゅほう に関 かん する多 おお くの書物 しょもつ を著 あらわ すに至 いた った。『光学 こうがく の書 しょ 』もその中 なか の一 ひと つであった。
後世 こうせい に作成 さくせい された彼 かれ の著作 ちょさく のリストをつきあせると、200弱 じゃく のタイトルを数 かぞ えることができ、そのうち60程度 ていど がアラビア語 ご の写本 しゃほん 又 また は断片 だんぺん で現存 げんそん している。
その中 なか で『كِتَابُ الْمَنَاظِرِ 』(転写 てんしゃ :Kitāb al-Manāẓir, キターブ・アル=マナーズィル, 実際 じっさい の発音 はつおん :kitābu-l-manāẓir, キターブ・ル=マナーズィル, 邦題 ほうだい :光学 こうがく の書 しょ 、1015年 ねん - 1021年 ねん )は特 とく に重要 じゅうよう な著書 ちょしょ であり、12世紀 せいき の末 すえ から13世紀 せいき の中頃 なかごろ までの間 あいだ に恐 おそ らくはスペインでラテン語 らてんご に翻訳 ほんやく され、ヘブライ語 ご 、およびイタリア語 ご に訳 やく された。
『光学 こうがく の書 しょ 』を併 あわ せて計 けい 3 みっ つの著作 ちょさく がラテン語 らてんご 訳 やく された
[15] 。
プトレマイオス の『光学 こうがく 』『アルマゲスト』など、古代 こだい ギリシア ・古代 こだい ローマ の光学 こうがく ・天文学 てんもんがく ・数学 すうがく を批判 ひはん 的 てき に継承 けいしょう し、画期的 かっきてき な成果 せいか を上 あ げた。
彼 かれ の名前 なまえ を冠 かん した施設 しせつ など[ 編集 へんしゅう ]
彼 かれ の肖像 しょうぞう は2003年 ねん 、イラクの10,000ディナール 紙幣 しへい に登場 とうじょう したほか、テヘラン に本部 ほんぶ を置 お くイラン原子力 げんしりょく 庁 ちょう (英語 えいご 版 ばん ) にあるイラン最大 さいだい のレーザー 研究 けんきゅう 施設 しせつ にも彼 かれ の名 な が冠 かん されている。月 つき のクレーター 「アルハゼン (英語 えいご 版 ばん ) 」のほか、小惑星 しょうわくせい 59239「アルハゼン 」も彼 かれ を記念 きねん して名 な づけられた。
古代 こだい ギリシア的 てき な自然 しぜん に対 たい するアプローチには、自然 しぜん 学 がく によるものと数学 すうがく 的 てき な諸 しょ 学 がく によるものがあった。後者 こうしゃ は狭義 きょうぎ の数学 すうがく (幾何 きか 学 がく 、算術 さんじゅつ 、代数 だいすう )の他 ほか に天文学 てんもんがく 、光学 こうがく (視学 しがく )、和声 わせい 学 がく 、静 せい 力学 りきがく (釣 つ り合 あ いの学 がく )などを含 ふく んでいた。
イブン・ハイサムは後者 こうしゃ の専門 せんもん 家 か で、狭義 きょうぎ の数学 すうがく のほか、光学 こうがく (視学 しがく )、天文学 てんもんがく 、静 せい 力学 りきがく (釣 つ り合 あ いの学 がく )において大 おお きな業績 ぎょうせき があった。特 とく に、光学 こうがく における業績 ぎょうせき で名高 なだか い。
自然 しぜん 学 がく と数学 すうがく 的 てき な諸 しょ 学 がく のアプローチは、対象 たいしょう は同 おな じでも基本 きほん 的 てき には別 べつ のものとされた。例 たと えば「天文学 てんもんがく は天体 てんたい の運行 うんこう の幾何 きか 学 がく 的 てき な側面 そくめん に関 かん する理論 りろん であって、その原因 げんいん や本性 ほんしょう については語 かた らない」などとされた。イブン・ハイサムは高度 こうど な数学 すうがく を駆使 くし する一方 いっぽう 、自然 しぜん 学 がく 的 てき な問題 もんだい 意識 いしき も重視 じゅうし した。
イブン・ハイサムは、古代 こだい 以来 いらい バラバラに行 おこな われてきた光 ひかり や視覚 しかく に関 かん する研究 けんきゅう を綜合 そうごう し、深 ふか め、後世 こうせい の光学 こうがく の研究 けんきゅう に決定的 けっていてき な影響 えいきょう を与 あた えた[注 ちゅう 1] 。特 とく に視覚 しかく が光 ひかり によって引 ひ き起 お こされることを明 あき らかにし、新 あら たな解析 かいせき 手法 しゅほう (点 てん 解析 かいせき [注 ちゅう 2] を開発 かいはつ したことは大 おお きな貢献 こうけん であった。また、実験 じっけん を効果 こうか 的 てき に多用 たよう した。屈折 くっせつ 光学 こうがく に関 かん しては、近代 きんだい 以前 いぜん では、数少 かずすく ない包括 ほうかつ 的 てき で信頼 しんらい できる典拠 てんきょ の一 ひと つであった。
古代 こだい の光 ひかり と視覚 しかく の研究 けんきゅう [ 編集 へんしゅう ]
古代 こだい ギリシア ・古代 こだい ローマ において、光学 こうがく (optica, 視学 しがく )は、ユークリッド やプトレマイオス らによって高度 こうど な幾何 きか 学 がく 的 てき な理論 りろん となっていたが、主 しゅ たる目的 もくてき は視覚 しかく の説明 せつめい であった。反射 はんしゃ 鏡 きょう で太陽光 たいようこう を一 いち 点 てん に集 あつ める研究 けんきゅう (焦 こげ 鏡 きょう 、ディオクレス (英語 えいご 版 ばん )、トラレスのアンテミオス )もあったが、それらは別 べつ の学問 がくもん とされた。虹 にじ 、暈 かさ などの大気 たいき 光学 こうがく 現象 げんしょう は、気象 きしょう 学 がく で扱 あつか われ、数学 すうがく 的 てき な学問 がくもん の専門 せんもん 家 か による研究 けんきゅう は残 のこ っていない。
また、視覚 しかく の原因 げんいん に於 お いては、光 ひかり は主要 しゅよう な原因 げんいん とはされなかった。まず、ユークリッド やプトレマイオス らの光学 こうがく 家 か は、眼 め から放出 ほうしゅつ される「視線 しせん 」が対象 たいしょう に到達 とうたつ して成立 せいりつ するとした(外 そと 送 おく 理論 りろん (英語 えいご 版 ばん ))。ついで医学 いがく 者 しゃ ガレノス は、視覚 しかく 論 ろん に眼 め や神経 しんけい 、脳 のう の解剖 かいぼう 学 がく と生理学 せいりがく を始 はじ めて本格 ほんかく 的 てき に取 と り入 い れたが、彼 かれ の視覚 しかく 論 ろん もまた、ある種 しゅ の外 そと 送 おく 理論 りろん だった[注 ちゅう 3] 。このほか、プラトンやストア派 は の哲学 てつがく 者 しゃ たちを含 ふく め、外 そと 送 おく 理論 りろん が圧倒的 あっとうてき な多数 たすう 派 は であった。
一方 いっぽう 、アリストテレスは「色 いろ 」が空気 くうき などの媒体 ばいたい を介 かい して感覚 かんかく 器 き 眼 め に流入 りゅうにゅう することで成立 せいりつ するとし[注 ちゅう 4] 、視線 しせん の理論 りろん を批判 ひはん した。例 たと えば「星 ほし にまで瞬時 しゅんじ に届 とど く視線 しせん を考 かんが えねばならないのは不自然 ふしぜん 」といった議論 ぎろん は、素朴 そぼく ながら分 わ かりやすい[20] 。また、古代 こだい において、初 はじ めてまとまった感覚 かんかく の理論 りろん を展開 てんかい し、プトレマイオスやガレノスにも影響 えいきょう を与 あた えた。だが、視覚 しかく 論 ろん についてはあまり賛同 さんどう 者 しゃ はいなかった。なお、アリストテレスにおいては、「光 ひかり 」とは発光 はっこう 体 たい の作用 さよう によって空気 くうき などの媒質 ばいしつ が活性 かっせい 化 か された状況 じょうきょう のことを指 さ す[注 ちゅう 5] 。
視覚 しかく と光 ひかり の関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
イブン・ハイサムは古代 こだい の幾何 きか 学 がく 的 てき な視覚 しかく 論 ろん 、とりわけプトレマイオス 『光学 こうがく 』を大 おお いに利用 りよう しているが、「視線 しせん 」の物理 ぶつり 的 てき な不自然 ふしぜん さについては、アリストテレス の見解 けんかい に同意 どうい した。しかしアリストテレスの視覚 しかく 論 ろん にも与 くみ せず、光 ひかり が物体 ぶったい の「色 いろ 」を眼 め に届 とど けるという、新 あら たな理論 りろん を打 う ち出 だ した[注 ちゅう 6] 。古代 こだい の主要 しゅよう な視覚 しかく 論 ろん では、光 ひかり は補助 ほじょ 的 てき な役割 やくわり しか与 あた えられなかったが、これによって光 ひかり が視学 しがく で主要 しゅよう な場所 ばしょ を占 し めることになった。また、彼 かれ は、光線 こうせん が視線 しせん と概 おおむ ね同 おな じ経路 けいろ を逆 ぎゃく 向 む きに進 すす むと結論 けつろん し、古代 こだい の幾何 きか 学 がく 的 てき な視覚 しかく 論 ろん の成果 せいか を取 と り込 こ むことができた。
また、光 ひかり は視線 しせん と異 こと なって煙 けむり や埃 ほこり で経路 けいろ を浮 う かび上 あ がらせることができ、その性質 せいしつ を実験 じっけん で多角 たかく 的 てき に調 しら べることができた。例 たと えば、外 そと 送 おく 理論 りろん への反論 はんろん で、複数 ふくすう の視線 しせん が空気 くうき 中 ちゅう で交錯 こうさく した場合 ばあい の効果 こうか を問題 もんだい 視 し する議論 ぎろん があった。光 ひかり についても、似 に たような問題 もんだい が考 かんが えられる。そこでイブン・ハイサムは、ロウソクから発 はっ せられる光 ひかり を壁 かべ に開 あ けた小 ちい さな穴 あな で交 ま じらわせたのちスクリーンに投影 とうえい し、ロウソクが二 に 本 ほん でも像 ぞう は乱 みだ れないことを示 しめ した。そして、光 ひかり が光源 こうげん から四方 しほう に均等 きんとう に放出 ほうしゅつ されて直進 ちょくしん するとして実験 じっけん 結果 けっか を説明 せつめい した。これはカメラ・オブスクラの特殊 とくしゅ な場合 ばあい である。
視覚 しかく を光 ひかり で説明 せつめい した結果 けっか 、古代 こだい の視覚 しかく 論 ろん では問題 もんだい にされなかった、眼 め における像 ぞう の形成 けいせい の問題 もんだい が浮上 ふじょう した。光 ひかり は独自 どくじ の法則 ほうそく に従 したが って直進 ちょくしん するだけであるので、眼 め に入 はい って適切 てきせつ な像 ぞう を結 むす ぶかどうかは全 まった く自明 じめい ではない。
イブン・ハイサムは当時 とうじ のガレノス 流 りゅう の解剖 かいぼう 学 がく を参考 さんこう にしてこの問題 もんだい に取 と り組 く んだ。しかし、当時 とうじ の眼 め の構造 こうぞう 論 ろん は、この目的 もくてき には全 まった く不十分 ふじゅうぶん であった[注 ちゅう 7] 。彼 かれ の理論 りろん では、水晶 すいしょう 体 たい に光 ひかり を屈折 くっせつ させるほかに水晶 すいしょう 体 たい の表面 ひょうめん に垂直 すいちょく な光線 こうせん のみを選 えら ぶ役割 やくわり を果 は たさせた。また、水晶 すいしょう 体 たい から網膜 もうまく までのプロセスは、純粋 じゅんすい に光学 こうがく 的 てき な現象 げんしょう とはされなかった。正 せい 立像 りつぞう に準拠 じゅんきょ したことを含 ふく め、古代 こだい の視覚 しかく 論 ろん の基本 きほん 的 てき な構造 こうぞう を保 たも つ結果 けっか となった。
しかし、問題 もんだい 設定 せってい や分析 ぶんせき の手法 しゅほう 、特 とく に点 てん 状 じょう 解析 かいせき はヨハネス・ケプラー 以降 いこう の視覚 しかく 論 ろん でも継承 けいしょう される[22] 。また、眼 め に入射 にゅうしゃ した光 ひかり が屈折 くっせつ を経 へ てから感知 かんち されることを証明 しょうめい するなど、鋭 するど い見識 けんしき を発揮 はっき しているところもある。証明 しょうめい の一環 いっかん として、古代 こだい の視線 しせん の理論 りろん では説明 せつめい できない現象 げんしょう を巧 たく みな実験 じっけん で示 しめ しており、彼 かれ はこの発見 はっけん を視線 しせん の理論 りろん に対 たい する、自 みずか らの理論 りろん の優位 ゆうい の根拠 こんきょ とした[21]
実験 じっけん 的 てき 手法 しゅほう [ 編集 へんしゅう ]
イブン・ハイサムとそれ以前 いぜん の光学 こうがく 研究 けんきゅう の相違 そうい 点 てん の一 ひと つには、実験 じっけん の効果 こうか 的 てき な多用 たよう がある。『光学 こうがく の書 しょ 』に記述 きじゅつ される実験 じっけん の数 かず はプトレマイオス のそれよりも圧倒的 あっとうてき に数 かず が多 おお く、ほぼ全 すべ ての重要 じゅうよう な論点 ろんてん について一々 いちいち 実験 じっけん 的 てき な証明 しょうめい を付 つ けている。実験 じっけん は、光 ひかり の性質 せいしつ に関 かん する、自然 しぜん 学 がく 的 てき な議論 ぎろん を避 さ けるための手段 しゅだん として多用 たよう された形跡 けいせき がある。それゆえに論証 ろんしょう のためのレトリックに過 す ぎず、実際 じっさい には実験 じっけん を実行 じっこう していないのではないか、という疑念 ぎねん はある。例 たと えば、後 のち に述 の べる屈折 くっせつ の実験 じっけん は、様々 さまざま な困難 こんなん が指摘 してき されており、どこまで実際 じっさい に実行 じっこう したか疑問 ぎもん を持 も たれている。だが、提示 ていじ されている実験 じっけん の結果 けっか は、全 すべ て健全 けんぜん な結果 けっか を示 しめ しており、全 すべ てが思考 しこう 実験 じっけん であったとは考 かんが えられない。また、彼 かれ の実験 じっけん 的 てき 手法 しゅほう と近代 きんだい 的 てき な実験 じっけん 科学 かがく の関係 かんけい については様々 さまざま な議論 ぎろん がある[注 ちゅう 8] 。
点 てん 状 じょう 解析 かいせき [ 編集 へんしゅう ]
彼 かれ の理論 りろん 的 てき な分析 ぶんせき で鍵 かぎ になったのは点 てん 状 じょう 解析 かいせき (point analysis) で、これは発光 はっこう 体 たい やそれに照 て らされた物体 ぶったい の表面 ひょうめん の各 かく 点 てん から全 ぜん 方向 ほうこう に一様 いちよう に光 ひかり が放出 ほうしゅつ され、眼 め の受光 じゅこう 部 ぶ の各 かく 点 てん で感知 かんち されるとする。また、明 あか るさは光線 こうせん の密度 みつど に比例 ひれい するとするとする[注 ちゅう 9] 。
この理論 りろん の一 ひと つの著 いちじる しい成果 せいか はカメラ・オブスクラ (ピンホールカメラ)ある[注 ちゅう 10] 。古代 こだい から、穴 あな の形 かたち が映 うつ される像 ぞう にほとんど影響 えいきょう しないことが難問 なんもん としてして指摘 してき されていたが[注 ちゅう 11] 、それに明快 めいかい な答 こた えを出 だ したのがイブン・ハイサムの『日食 にっしょく の形 かたち について』という論考 ろんこう である[注 ちゅう 12] 。本書 ほんしょ が伝 つた わらなかった欧州 おうしゅう では、この問題 もんだい の扱 あつか いについて当初 とうしょ は迷走 めいそう し[注 ちゅう 13] 、イブン・ハイサムの水準 すいじゅん に到達 とうたつ したのは、16〜17世 せい 期 き のケプラーやマウリョリコ であった[注 ちゅう 14] 。
反射 はんしゃ と屈折 くっせつ [ 編集 へんしゅう ]
古代 こだい の幾何 きか 学 がく 的 てき な視覚 しかく の理論 りろん の重要 じゅうよう な話題 わだい に、反射 はんしゃ や屈折 くっせつ による像 ぞう の反転 はんてん や変形 へんけい の問題 もんだい があった。これらの問題 もんだい において、イブン・ハイサムは幾何 きか 学者 がくしゃ としての手腕 しゅわん を余 あま すことなく発揮 はっき している。
まず反射 はんしゃ 光学 こうがく (catoptrics )では、球面 きゅうめん 鏡 きょう での反射 はんしゃ に関 かん する「アルハーゼンの問題 もんだい 」[注 ちゅう 15] (en:Alhazen's problem 、アルハゼンの定理 ていり )の円錐 えんすい 曲線 きょくせん を用 もち いた解 かい の構成 こうせい 方法 ほうほう を与 あた え[注 ちゅう 16] 、この解 かい を用 もち いて球面 きゅうめん 鏡 きょう 、円筒 えんとう 鏡 きょう および円錐 えんすい 鏡 きょう による像 ぞう を解析 かいせき した。なお、イブン・ハイサム自身 じしん は代数 だいすう 学 がく と幾何 きか 的 てき に未知 みち な量 りょう を求 もと める問題 もんだい を別 べつ の分野 ぶんや の学問 がくもん と考 かんが えており、この問題 もんだい は純粋 じゅんすい に幾何 きか 学 がく 的 てき に扱 あつか っている。この「アルハーゼンの問題 もんだい 」は17世紀 せいき 欧州 おうしゅう の数学 すうがく 者 しゃ たちの興味 きょうみ を引 ひ き、ホイヘンス が非常 ひじょう にエレガントな別 べつ 解 かい を与 あた えている[注 ちゅう 17] 。
屈折 くっせつ 光学 こうがく に於 お いては、入射 にゅうしゃ 角 かく と屈折 くっせつ 角 かく の間 あいだ に成 な り立 た つ定性的 ていせいてき な関係 かんけい や不等式 ふとうしき をいくつか提示 ていじ し、それらに基 もと づいて巧妙 こうみょう に球面 きゅうめん レンズによる像 ぞう の拡大 かくだい や収差 しゅうさ などの、光 ひかり の経路 けいろ の幾何 きか 学 がく 的 てき な性質 せいしつ を詳 くわ しく論 ろん じている[29] 。これらの洗練 せんれん された理論 りろん は、のちにTheodoric of Freiberg(英語 えいご 版 ばん )やal-Fārisī(英語 えいご 版 ばん )の虹 にじ の研究 けんきゅう の土台 どだい になる。
屈折 くっせつ の法則 ほうそく の実験 じっけん 的 てき な研究 けんきゅう は、彼 かれ の主要 しゅよう な業績 ぎょうせき として紹介 しょうかい されることがある。しかし、彼 かれ の実験 じっけん のスキームには様々 さまざま な難点 なんてん が指摘 してき されており、十分 じゅうぶん な精度 せいど は得 え られなかったと思 おも われ、実際 じっさい には実施 じっし しなかったとする見解 けんかい もある[注 ちゅう 18] 。『光学 こうがく の書 しょ 』には、実験 じっけん の結果 けっか の記載 きさい はなく、理論 りろん で用 もち いている関係 かんけい 式 しき や数値 すうち は、プトレマイオス 『光学 こうがく 』の屈折 くっせつ についての数 かず 表 ひょう と整合 せいごう 的 てき である。ただし、プトレマイオス の実験 じっけん が本質 ほんしつ 的 てき に視線 しせん の屈折 くっせつ を対象 たいしょう にしているのに対 たい して、イブン・ハイサムは光線 こうせん の入射 にゅうしゃ 角 かく や屈折 くっせつ 角 かく の直接 ちょくせつ の計測 けいそく を意図 いと している点 てん は新 あたら しい。なお、プトレマイオスの数 かず 表 ひょう は現代 げんだい の屈折 くっせつ の理論 りろん の良好 りょうこう な近似 きんじ になっており、イブン・ハイサムの用 もち いた関係 かんけい 式 しき や結論 けつろん も概 おおむ ね正 ただ しい。
また、イブン・ハイサムの屈折 くっせつ 光学 こうがく は、近代 きんだい 以前 いぜん に於 お いては突出 とっしゅつ していることは事実 じじつ である。古代 こだい でも中世 ちゅうせい でも、彼 かれ 以前 いぜん は、イブン・サフル (英語 えいご 版 ばん )を例外 れいがい として、プトレマイオス 『光学 こうがく 』はあまり用 もち いられず、屈折 くっせつ と反射 はんしゃ の概念 がいねん 上 じょう の区別 くべつ すら曖昧 あいまい で、混乱 こんらん した記述 きじゅつ が多 おお くなされていた。彼 かれ の『光学 こうがく の書 しょ 』は、屈折 くっせつ 光学 こうがく の信頼 しんらい できる希少 きしょう な典拠 てんきょ であった。
地平線 ちへいせん 近辺 きんぺん で天体 てんたい が拡大 かくだい されて見 み える「月 つき の錯視 さくし 」を地表 ちひょう 面 めん 近 ちか くの水蒸気 すいじょうき を多 おお く含 ふく んだ大気 たいき による屈折 くっせつ と、心理 しんり 学 がく 的 てき な効果 こうか の双方 そうほう で説明 せつめい しようとした[注 ちゅう 19] 。
扱 あつか われた問題 もんだい の範囲 はんい [ 編集 へんしゅう ]
『光学 こうがく の書 しょ 』で扱 あつか われた題材 だいざい は、概 おおむ ね古代 こだい の光学 こうがく (幾何 きか 学 がく 的 てき な視覚 しかく 論 ろん 、視学 しがく )の範囲 はんい を超 こ えない。実際 じっさい 、眼 め の構造 こうぞう 論 ろん を除 のぞ けば、プトレマイオス 『光学 こうがく 』と構成 こうせい を含 ふく め、大 おお きく重 かさ なる。反射 はんしゃ や屈折 くっせつ の問題 もんだい に於 お いても、最後 さいご は視覚 しかく への影響 えいきょう が問題 もんだい とされる。
それら以外 いがい の問題 もんだい 、例 たと えば鏡 かがみ やレンズによる集 しゅう 光 こう [注 ちゅう 20] 、そして、アリストテレス 『気象 きしょう 論 ろん 』以来 いらい 、主 おも に気象 きしょう 論 ろん の対象 たいしょう だった虹 にじ 、暈 かさ について、各々 おのおの 論考 ろんこう を著 あらわ している[注 ちゅう 21] 。なお、日 にち の出前 でまえ の薄明 はくめい や日没 にちぼつ 後 ご の薄暮 はくぼ から大気 たいき の高 たか さを推測 すいそく した書 しょ 『Liber de crepusculis』は彼 かれ の名 な でラテン世界 せかい に流通 りゅうつう し、今 いま でもイブン・ハイサムに帰 き する記述 きじゅつ があるが、これは12世紀 せいき のスペインのイスラム圏 けん の天文学 てんもんがく 者 しゃ ・数学 すうがく 者 しゃ Ibn Muʿādh al-Jayyānī(en:Ibn Muʿādh al-Jayyānī )の著作 ちょさく である[33] 。
このように、イブン・ハイサムの研究 けんきゅう はそれまで別個 べっこ に扱 あつか われてきた光 ひかり や視覚 しかく に拘 かか わる様々 さまざま なテーマを網羅 もうら しており、単 たん なる視覚 しかく 論 ろん から脱却 だっきゃく した新 あら たな光学 こうがく の出発 しゅっぱつ を予感 よかん させる[34] 。一方 いっぽう 、古代 こだい の「光学 こうがく 」に属 ぞく しないテーマは、一部 いちぶ の例外 れいがい (光 ひかり の性質 せいしつ を扱 あつか う第 だい 一 いち 巻 かん 三 さん 章 しょう など)を除 のぞ いて、『光学 こうがく の書 しょ 』以外 いがい の著作 ちょさく でカバーしていることは注意 ちゅうい すべきである[注 ちゅう 22] 。
イブン・ハイサムののち、暫 しばら くの間 あいだ はその光学 こうがく 研究 けんきゅう を継承 けいしょう するものはあまり現 あらわ れなかった。特 とく に東方 とうほう イスラム世界 せかい においては言及 げんきゅう 自体 じたい が稀 まれ で[注 ちゅう 23] 、14世紀 せいき 初頭 しょとう になって初 はじ めてal-Fārisī(英語 えいご 版 ばん )が『光学 こうがく の書 しょ 』に着目 ちゃくもく する。彼 かれ は注釈 ちゅうしゃく 書 しょ Kitab Tanqih al-Manazir (The Revision of the Optics)を著 あらわ し、イブン・ハイサムの光学 こうがく 関連 かんれん の著作 ちょさく も「一連 いちれん のテーマである」として添付 てんぷ した。「光 ひかり 」を主軸 しゅじく とした学問 がくもん としての「光学 こうがく 」が明瞭 めいりょう に意識 いしき されていることがわかる[36] 。またal-Fārisī自身 じしん の独創 どくそう 的 てき な研究 けんきゅう も含 ふく めた。特 とく に、その虹 にじ の研究 けんきゅう は、イブン・ハイサムの屈折 くっせつ 光学 こうがく を発展 はってん させたもので、デカルト以前 いぜん ではもっとも優 すぐ れたていた[37] 。このal-Fārisīの著作 ちょさく はイスラム圏 けん における光学 こうがく の標準 ひょうじゅん 的 てき な書物 しょもつ となったが、その後 ご 、同書 どうしょ を超 こ える成果 せいか は現 あらわ れなかった。
一方 いっぽう ラテン西欧 せいおう では、al-Fārisīに先立 さきだ って『光学 こうがく の書 しょ 』(光学 こうがく の書 しょ (英語 えいご 版 ばん ) )は13世紀 せいき の中頃 なかごろ から深 ふか く研究 けんきゅう されるはじめる。中世 ちゅうせい の大 だい 科学 かがく 者 しゃ ロジャー・ベーコン の光学 こうがく 研究 けんきゅう は同書 どうしょ の強 つよ い影響 えいきょう 下 か にあり、ウィテロ , Pecham(英語 えいご 版 ばん ),フライベルクのデートリッヒ (英語 えいご 版 ばん )といった光学 こうがく 理論 りろん 家 か らが後 のち に続 つづ いた。1250-1400年 ねん までの間 あいだ には多 おお くの写本 しゃほん がつくられた形跡 けいせき があり、この間 あいだ 、14世紀 せいき には俗語 ぞくご であるイタリア語 ご にも翻訳 ほんやく され、絵画 かいが 理論 りろん 家 か たちにも利用 りよう された。その後 ご 、本書 ほんしょ から発展 はってん した光学 こうがく 書 しょ が流布 るふ したこともあり下火 したび になるが、1572年 ねん に出版 しゅっぱん されたRisner (en:Friedrich Risner )の『Opticae Thesaurus』に改訳 かいやく が収録 しゅうろく され[注 ちゅう 24] 、これが広 ひろ く流布 るふ することになる。
16世紀 せいき の終 お わりには、解剖 かいぼう 学 がく の進歩 しんぽ や数学 すうがく 的 てき な知識 ちしき の深化 しんか に支 ささ えられ、ヨハネス・ケプラー によってイブン・ハイサムの視覚 しかく 論 ろん は大幅 おおはば に書 か き換 か えられる。しかし、そもそも眼 め を光学 こうがく 機器 きき として見 み る必要 ひつよう 性 せい の認識 にんしき や、各 かく 点 てん から全 ぜん 方位 ほうい に射出 しゃしゅつ される光 ひかり を追 お いかけるという解析 かいせき は、元々 もともと はイブン・ハイサム由来 ゆらい である[38] 。その後 ご 光学 こうがく は新 あら たな段階 だんかい に入 はい るが、デカルト においても若干 じゃっかん の影響 えいきょう がみられる。
静 せい 力学 りきがく および動力 どうりょく 学 がく [ 編集 へんしゅう ]
現存 げんそん はしないものの、イブン・ハイサムは静 しずか 力学 りきがく の書 しょ を著 あらわ しており、11-12世紀 せいき のハーズィニー の 『釣 つ り合 あ いの書 しょ 』Kitāb mīzān al-ḥikma に内容 ないよう の紹介 しょうかい がある。ただし、このレビューは、アブー・サフル・アル=クーヒー の理論 りろん とイブン・ハイサムの理論 りろん を一体 いったい のものとして紹介 しょうかい しており、両者 りょうしゃ の差異 さい はこれからは明 あき らかではない。
このハーズィニーの要約 ようやく によれば、物体 ぶったい が地球 ちきゅう の中心 ちゅうしん (当時 とうじ においては宇宙 うちゅう の中心 ちゅうしん )に向 む かう傾向 けいこう 性 せい である重 おも さ (thiql)を、秤 ばかり ではかることが出来 でき て場所 ばしょ に依存 いぞん せずに決 き まる量 りょう waznから区別 くべつ した。この「重 おも さ」は物体 ぶったい の場所 ばしょ に依存 いぞん する。例 たと えば、梃 てこ の支点 してん においては「重 おも さ」は無 な く、支点 してん からの距離 きょり に比例 ひれい して増加 ぞうか する(これは梃 てこ の原理 げんり と整合 せいごう する)。これを地球 ちきゅう の中心 ちゅうしん を梃 てこ の支点 してん に見立 みた てるアナロジーから、「重 おも さ」は地球 ちきゅう の中心 ちゅうしん からの距離 きょり に依存 いぞん するとした。この理論 りろん では、地球 ちきゅう の中心 ちゅうしん では「重 おも さ」は無 な くなる[39] 。
また、彼 かれ の『光学 こうがく の書 しょ 』では、光 ひかり の反射 はんしゃ や屈折 くっせつ を投射 とうしゃ 体 たい の運動 うんどう との比喩 ひゆ で説明 せつめい している。その際 さい 、球体 きゅうたい と壁 かべ の衝突 しょうとつ をやや細 こま かく分析 ぶんせき しているが、運動 うんどう を壁 かべ に垂直 すいちょく な方向 ほうこう と水平 すいへい な方向 ほうこう に分 わ けて各々 おのおの 分析 ぶんせき したあとに重 かさ ね合 あ わせる議論 ぎろん の流 なが れは、近代 きんだい 的 てき な雰囲気 ふんいき が漂 ただよ う[40] 。まず、壁 かべ に垂直 すいちょく な成分 せいぶん は、壁 かべ に直角 ちょっかく に球体 きゅうたい を落 お としたりぶつけた場合 ばあい と同様 どうよう の運動 うんどう になり、衝突 しょうとつ の前後 ぜんご で速 はや さは不変 ふへん で向 む きが反転 はんてん する。壁 かべ に平行 へいこう な成分 せいぶん は、何 なに も妨 さまた げのない運動 うんどう と同 おな じで、直進 ちょくしん を続 つづ ける。これらの合成 ごうせい として、球体 きゅうたい の反発 はんぱつ が説明 せつめい れる。ただし、以上 いじょう は球体 きゅうたい の重量 じゅうりょう を無視 むし した分析 ぶんせき であるとし、実際 じっさい には重 おも さの効果 こうか で上記 じょうき の進路 しんろ からそれるとする。この分析 ぶんせき をもって、近代 きんだい 力学 りきがく の諸 しょ 概念 がいねん を先取 さきど りしていたかのような解説 かいせつ がされることもあるが、彼 かれ の議論 ぎろん は概 おおむ ね中世 ちゅうせい 的 てき なインペトゥスの理論 りろん (英語 えいご 版 ばん )の枠 わく 内 ない で理解 りかい できるものである。
このように光 ひかり の反射 はんしゃ や屈折 くっせつ を投射 とうしゃ 体 たい の運動 うんどう とのアナロジーで説明 せつめい する理論 りろん は、『光学 こうがく の書 しょ 』に影響 えいきょう を受 う けた欧州 おうしゅう 中世 ちゅうせい の光学 こうがく 研究 けんきゅう 家 か が熱心 ねっしん に取 と り組 く んだところであり、ルネ・デカルト やアイザック・ニュートン の反射 はんしゃ や屈折 くっせつ の力学 りきがく 的 てき な説明 せつめい もそのような伝統 でんとう の中 なか で理解 りかい することができる。
天文学 てんもんがく の著作 ちょさく としては、『世界 せかい の配置 はいち 』(“Configuration of the World”)と『プトレマイオスへの懐疑 かいぎ 』(Doubts on Ptolemy)が重要 じゅうよう である。
前者 ぜんしゃ は当時 とうじ のプトレマイオス 的 てき な天文学 てんもんがく のモデルに基 もと づいて、天球 てんきゅう の三 さん 次元 じげん 的 てき な構造 こうぞう を描 えが き出 だ したもので、数学 すうがく はおろか数値 すうち すらもほとんど現 あらわ れず、非常 ひじょう に初等 しょとう 的 てき に書 か かれている。プトレマイオス は円運動 えんうんどう の組 く み合 あ わせで惑星 わくせい の複雑 ふくざつ な運動 うんどう を近似 きんじ して見 み せたが、本書 ほんしょ では、アリストテレス 的 てき な考 かんが えに基 もと づき、それらの円 えん に透明 とうめい な硬 かた い球体 きゅうたい という、物理 ぶつり 的 てき な実体 じったい を与 あた えている。ヘブライ語 ご やラテン語 らてんご に訳 やく され、両者 りょうしゃ ともよく読 よ まれたが、特 とく に前者 ぜんしゃ は広 ひろ く読 よ まれた。
後者 こうしゃ は、プトレマイオスの3つの著作 ちょさく 『アルマゲスト 』『惑星 わくせい 仮説 かせつ 』『光学 こうがく 』の問題 もんだい 点 てん を列挙 れっきょ したものである。『惑星 わくせい 仮説 かせつ 』への批判 ひはん は、主 おも に『アルマゲスト 』との齟齬 そご に関 かん する点 てん である。『アルマゲスト 』批判 ひはん では、理論 りろん の中 なか で重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たしているエカント やprosneusis、黄 き 緯 ぬき のモデルへの批判 ひはん を述 の べた部分 ぶぶん が歴史 れきし 上 じょう 重要 じゅうよう である。これらの数学 すうがく 的 てき なモデルが、硬 かた い球体 きゅうたい の等 ひとし 速 そく 回転 かいてん という物理 ぶつり 的 てき な描像に馴染 なじ まないことが批判 ひはん の根拠 こんきょ である。
プトレマイオス 理論 りろん の問題 もんだい 点 てん は、『アルマゲスト 』でも一部 いちぶ 告白 こくはく されており、古代 こだい 末期 まっき から中世 ちゅうせい にかけて、様々 さまざま な批判 ひはん があった。イブン・ハイサムの議論 ぎろん は、特 とく に新規 しんき な点 てん はなかったが、本書 ほんしょ を含 ふく めた一連 いちれん の著作 ちょさく で問題 もんだい を包括 ほうかつ 的 てき にそして徹底的 てっていてき に掘 ほ り下 さ げたため、よく取 と り上 あ げられた。この後 のち 、東方 とうほう イスラム世界 せかい においてはマラーガ学派 がくは の革新 かくしん 的 てき な数理 すうり 天文学 てんもんがく が生 う まれ、またスペインの西方 にしかた イスラム世界 せかい に於 お いてはイブン・ルシュド やアル・ビトゥルージ らが独自 どくじ の天文学 てんもんがく 改革 かいかく を志向 しこう した。このどちらにおいても、イブン・ハイサムの著作 ちょさく は参照 さんしょう されている。西方 にしかた イスラム世界 せかい のこの議論 ぎろん はイブン・ルシュド のアリストテレスの著作 ちょさく への注釈 ちゅうしゃく を介 かい してラテン欧州 おうしゅう にも広 ひろ く知 し られ、コペルニクスも言及 げんきゅう している。一方 いっぽう 、マラーガ学派 がくは の数理 すうり モデルとコペルニクスのそれは様々 さまざま な類似 るいじ が指摘 してき される[41] 。
また、光学 こうがく と天文学 てんもんがく の中間 ちゅうかん にあたる著作 ちょさく として『月 つき の模様 もよう について』『天 あま の川 がわ について』といった論考 ろんこう がある。
アリストテレス的 てき な宇宙 うちゅう 観 かん によれば、天体 てんたい の組成 そせい は均一 きんいつ でその形状 けいじょう は完全 かんぜん な球 たま であるとされる。これに一見 いっけん して矛盾 むじゅん するように思 おも われるのが、均質 きんしつ な球 たま であるべき月 つき の滲 にじ みのような模様 もよう であり、また不 ふ 定形 ていけい に見 み える天 あま の川 がわ であった。
当時 とうじ 、月 つき の模様 もよう に関 かん しては、①地球 ちきゅう との中 なか 間 あいだ 点 てん にある何者 なにもの かである②月 がつ の表面 ひょうめん が鏡 かがみ のように地表 ちひょう 面 めん の何 なに かを映 うつ している、といったアリストテレス説 せつ 擁護 ようご があったが、『月 つき の模様 もよう について』で彼 かれ は、光学 こうがく 研究 けんきゅう に基 もと づいた知見 ちけん を援用 えんよう してそれらを論駁 ろんばく し、月 つき そのものが不 ふ 均一 きんいつ であるとしている[42] 。
また、天 あま の川 がわ についてはアリストテレスは、大気 たいき 上層 じょうそう 部 ぶ の現象 げんしょう だとしている。これに対 たい しては古代 こだい のヨハネス・ピロポノス などから「気象 きしょう 現象 げんしょう にしては形 かたち が一定 いってい すぎる」といった反論 はんろん があったが、データに基 もと づいた緻密 ちみつ な検討 けんとう はなかった。『天 あま の川 がわ について』では、プトレマイオスと自 みずか らの観測 かんそく データを併 あわ せて用 もち いて、天 そら の川 かわ の視差 しさ (場所 ばしょ による見 み える角度 かくど のずれ)を吟味 ぎんみ し、月 つき よりも(おそらくは非常 ひじょう に)遠 とお くにあるとしている[43] 。
数学 すうがく においては、主 おも に幾何 きか 学 がく の分野 ぶんや に功績 こうせき を残 のこ し、代数 だいすう 学 がく にはあまり関与 かんよ していない。特 とく に、アポロニウスやアルキメデスの仕事 しごと を発展 はってん させ、円錐 えんすい 曲線 きょくせん 論 ろん および図形 ずけい の面積 めんせき や立体 りったい の体積 たいせき の求 もとめ 積 せき [44] において重要 じゅうよう な業績 ぎょうせき をのこしている。
ナイル川 がわ 治水 ちすい 構想 こうそう [ 編集 へんしゅう ]
イブン・ハイサムが実現 じつげん 不可能 ふかのう だと悟 さと り狂気 きょうき を装 よそお う原因 げんいん となった堰 せき の建設 けんせつ 計画 けいかく だが、現代 げんだい のエジプトではこのナイル治水 ちすい 構想 こうそう がアスワン・ハイ・ダム 計画 けいかく に通 つう じるアイデアだったと評価 ひょうか [7] されている。イブン・ハイサムが現場 げんば を視察 しさつ していない段階 だんかい で堰 せき を作 つく るべき場所 ばしょ として目星 めぼし をつけた地域 ちいき はアスワン・ハイ・ダムの場所 ばしょ とほぼ一致 いっち しており、彼 かれ の洞察 どうさつ 力 りょく と知識 ちしき の確 たし かさを裏付 うらづ けるものだという。
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^ 本節 ほんぶし の記述 きじゅつ は、断 ことわ りのないかぎり、Smith 2001のintroduction, Lindberg 1976. 及 およ び Raynoud 2016のintroduction及 およ び Chapter 3による。なお、イブン・ハイサムまでの前史 ぜんし においては、古代 こだい 末期 まっき やイスラム期 き の進展 しんてん (6世紀 せいき のヨハネス・ピロポノス や9世紀 せいき のキンディー など)も無視 むし できない。
^ 英語 えいご では the punctiform analysis[16] または the point analysis[17] とされる。
^ これらの視線 しせん の理論 りろん の背景 はいけい としては、プラトンやストア派 は の影響 えいきょう が考 かんが えられる[18] 。プラトンの視線 しせん の理論 りろん については『ティマイオス 』に詳 くわ しい[19] 。
^ 『霊魂 れいこん 論 ろん 』『感覚 かんかく と感覚 かんかく されるものについて 』など。ただしガレノスとは異 こと なり、眼 め や神経 しんけい の構造 こうぞう やそこにおける具体 ぐたい 的 てき なプロセスには触 ふ れない。
^ ただし、古代 こだい 後期 こうき から末期 まっき にかけて、アフロディシアスのアレキサンドロス やピロポノス らの注釈 ちゅうしゃく 家 か たちは、光源 こうげん の作用 さよう はまず近辺 きんぺん の空気 くうき に作用 さよう し、ついで隣接 りんせつ する空気 くうき に作用 さよう し。。と直線 ちょくせん 状 じょう に効果 こうか が伝播 でんぱ するとした。この伝播 でんぱ はまず光源 こうげん から視覚 しかく 対象 たいしょう へ、ついで視覚 しかく 対象 たいしょう から眼 め に至 いた る。この経路 けいろ は光学 こうがく 家 か の「視線 しせん 」と同 おな じコースを逆 ぎゃく に辿 たど るとして、光学 こうがく 家 か の理論 りろん とアリストテレス的 てき な視覚 しかく 論 ろん を折衷 せっちゅう した。このほか、原子 げんし 論 ろん 者 しゃ も独自 どくじ の視覚 しかく 論 ろん を立 た てており、主流 しゅりゅう とはならなかったものの、古代 こだい の著作 ちょさく 家 か が視覚 しかく 論 ろん を列挙 れっきょ する際 さい には、外 そと 送 おく 理論 りろん と並 なら んでしばしば言及 げんきゅう されている。
^ イブン・ハイサムの考 かんが えでは、「色 いろ は光 ひかり とは別 べつ のものであって、各々 おのおの の物体 ぶったい の性質 せいしつ の一 ひと つである」とされ、「光 ひかり と合 あ わさって物体 ぶったい から眼 め に伝搬 でんぱん する。また、光源 こうげん が発 はっ する一 いち 次 じ 光 こう (primary light)が不透明 ふとうめい な物体 ぶったい に照射 しょうしゃ されると、一度 いちど すべて吸収 きゅうしゅう され、あらたに二 に 次 じ 光 こう (secondary light)が生 しょう じる」とされた。「一 いち 次 じ 光 こう と二 に 次 じ 光 こう は違 ちが ったもの」とされたので、反射 はんしゃ や屈折 くっせつ などの法則 ほうそく はすべて各々 おのおの 別 べつ に確認 かくにん されている[21] 。なお、現在 げんざい では、色 いろ は光 ひかり の性質 せいしつ である波長 はちょう の反映 はんえい であり、また一 いち 次 じ 光 こう と二 に 次 じ 光 こう の区別 くべつ は存在 そんざい しない。
^ フナイン・イブン・イスハーク の『眼 め 科学 かがく についての十 じゅう 章 しょう 』(英語 えいご 版 ばん )などに依拠 いきょ していると思 おも われる。フナインの同書 どうしょ は水晶 すいしょう 体 たい を眼球 がんきゅう の中央 ちゅうおう に据 す えた。これはガレノスが水晶 すいしょう 体 たい に視覚 しかく の機能 きのう の中核 ちゅうかく を担 にな わせたからであり、眼 め の断面 だんめん 図 ず と正面 しょうめん 図 ず を一 いち 枚 まい の図 ず で表 あらわ すためにも都合 つごう がよかった。また、白内障 はくないしょう が水晶 すいしょう 体 たい と角膜 かくまく の間 あいだ にある白濁 はくだく と考 かんが えられたため、その外科 げか 手術 しゅじゅつ の経験 けいけん からも水晶 すいしょう 体 たい の位置 いち はやや奥 おく にあるとされていた。ただし、眼 め の様々 さまざま な部分 ぶぶん の形状 けいじょう や配列 はいれつ 順序 じゅんじょ の記述 きじゅつ はおおむね正 ただ しい。最終 さいしゅう 的 てき に水晶 すいしょう 体 たい の位置 いち が修正 しゅうせい されるのは16世紀 せいき 末 すえ で、ケプラーはこの成果 せいか を利用 りよう している。
^ Kheirandish, 2009の導入 どうにゅう 部分 ぶぶん には、例 たと えば、近代 きんだい における「探求 たんきゅう 的 てき な実験 じっけん 」は中世 ちゅうせい にはなく「検証 けんしょう 的 てき な実験 じっけん 」だけがあるといった主張 しゅちょう が紹介 しょうかい されている。また、『光学 こうがく の書 しょ 』などにおいて、実験 じっけん の数値 すうち 的 てき なデータが示 しめ されていることがないこと、用 もち いられた機器 きき が簡素 かんそ であること(壁 かべ に穴 あな をあけた暗 くら い部屋 へや など)であることは同書 どうしょ の翻訳 ほんやく Smith, 2001などで確認 かくにん できる。さらにSmith, 2001のintroductionでは実験 じっけん が圧倒的 あっとうてき に数 かず が多 おお くかつ効果 こうか 的 てき に用 もち いられていることを認 みと めながら、プトレマイオス 『光学 こうがく 』ですでに実験 じっけん が用 もち いられていることを指摘 してき 。一方 いっぽう 、Raynoud 2016では、『食 しょく の形 かたち について』の分析 ぶんせき から、イブン・ハイサムの手法 しゅほう が近代 きんだい 的 てき な実験 じっけん 科学 かがく の手法 しゅほう が満 み たすべき様々 さまざま な基準 きじゅん をみたしているとする。またSabra 1994やRaynoud 2016は用語 ようご の分析 ぶんせき から、プトレマイオスの天文学 てんもんがく における、データによる仮説 かせつ の検証 けんしょう の影響 えいきょう を主張 しゅちょう している。
^ この手法 しゅほう は元々 もともと は9世紀 せいき の「アラブの哲学 てつがく 者 しゃ 」キンディー が視線 しせん の理論 りろん の改良 かいりょう のために開発 かいはつ したもので、イブン・ハイサムはそれを新 あら たな光 ひかり の理論 りろん に合 あ わせて改変 かいへん した上 うえ で洗練 せんれん した。
^ 最 もっと も古 ふる いこの現象 げんしょう の記述 きじゅつ は古代 こだい 中国 ちゅうごく の『墨 ぼく 子 こ 』に見 み える。簡潔 かんけつ な文章 ぶんしょう の中 なか に像 ぞう の反転 はんてん など重要 じゅうよう なポイントを的確 てきかく に指摘 してき している。
^ アリストテレス の名 な を冠 かん した古代 こだい の『問題 もんだい 集 しゅう 』には木 こ の葉 は の隙間 すきま から洩 も れた光 ひかり の像 ぞう が穴 あな の形 かたち に従 したが わずに太陽 たいよう の形 かたち になり、日食 にっしょく 時 じ にはその欠 か ける様 よう も反映 はんえい されることを指摘 してき している。また、網 あみ 篭 かご の四角形 しかっけい の隙間 すきま から洩 も れる光 ひかり の像 ぞう が丸 まる みを帯 お びることも指摘 してき している。共 とも に穴 あな の形 かたち と映 うつ される像 ぞう の関係 かんけい についての問題 もんだい である[23] 。同書 どうしょ では月 つき の場合 ばあい は満 み ち欠 か けが象 ぞう に反映 はんえい されないとしている。なお、穴 あな が点 てん で近似 きんじ できるほど小 ちい さいカメラ・オブスクラについては、ラテン語 らてんご 訳 やく された『光学 こうがく の書 しょ 』にもやや詳 くわ しく述 の べられており、アリストテレスの名 な を冠 かん した『問題 もんだい 集 しゅう 』などとともに欧州 おうしゅう での研究 けんきゅう の出発 しゅっぱつ 点 てん になっている。
^ 穴 あな が円形 えんけい の場合 ばあい については詳 くわ しく述 の べ、それ以外 いがい の形 かたち の穴 あな の場合 ばあい は同様 どうよう の解析 かいせき が可能 かのう であることと結論 けつろん だけを述 の べている。この詳細 しょうさい も含 ふく めて詳 くわ しく明 あき らかにしているのは、後 のち に述 の べるal-Farisiである。彼 かれ は実験 じっけん においても飛 と ぶ鳥 とり を映 うつ しだすなどより進歩 しんぽ している。
^ 13世紀 せいき の後半 こうはん 、ロジャー・ベーコン ら欧州 おうしゅう の錚々たる光学 こうがく 家 か たちがこの問題 もんだい について迷走 めいそう した[24] 。Pechamは彼 かれ の手 て になる光学 こうがく 書 しょ で「光 こう は丸 まる くなる傾向 けいこう がある」などとし、カメラ・オブスクラの現象 げんしょう と光 ひかり の直進 ちょくしん 性 せい が両立 りょうりつ しうるか疑問 ぎもん を呈 てい した。
^ なお、イスラム世界 せかい においては、14世紀 せいき 初頭 しょとう にal-Fārisī(英語 えいご 版 ばん )がイブン・ハイサムの研究 けんきゅう を実験 じっけん ・理論 りろん 双方 そうほう において深 ふか めている。欧州 おうしゅう においても14世紀 せいき にポーランドのEgidius of Baisiuとフランス南部 なんぶ のユダヤ人 じん 学者 がくしゃ ゲルソニデス が正 ただ しい方向 ほうこう に向 む かった理論 りろん 的 てき な考察 こうさつ をしており[25] 、後者 こうしゃ はそれを太陽 たいよう の視 み 半径 はんけい の観測 かんそく に応用 おうよう していた。ただし、それらもまだ不完全 ふかんぜん な点 てん が多々 たた あり、また広 ひろ く知 し られることはなかった[26] 。
^ この呼 よ び名 な は17世紀 せいき 欧州 おうしゅう に由来 ゆらい する。現在 げんざい は最初 さいしょ に問題 もんだい を提出 ていしゅつ したプトレマイオスの名 な も併 あわ せて冠 かん することがある。
^ Smithも指摘 してき しているように、本 ほん 問題 もんだい のレビューの多 おお くが混乱 こんらん している[27] 。
^ 本 ほん 問題 もんだい の代数 だいすう 的 てき な側面 そくめん は、現代 げんだい でも趣味 しゅみ 的 てき で周辺 しゅうへん 的 てき ななテーマとしてではあるが、一定 いってい の興味 きょうみ を引 ひ いている[28] 。
^ Smith自身 じしん はこの実験 じっけん は行 おこな われなかったと推測 すいそく している[30] 。
^ 彼 かれ のこれらの説明 せつめい は今 いま は誤 あやま りであることが示 しめ されている[31] 。
^ それらの中 なか で『放物線 ほうぶつせん 鏡 きょう による集 しゅう 光 こう 』はラテン語 らてんご 訳 やく され広 ひろ く読 よ まれた。これは紀元前 きげんぜん 2-3世紀 せいき の数学 すうがく 者 しゃ Dioclesの放物線 ほうぶつせん 鏡 きょう に関 かん する『集 あつまり 光 こう 鏡 きょう について』の写本 しゃほん において、証明 しょうめい が完全 かんぜん に欠落 けつらく していたのを補 おぎな ったものである。また『球面 きゅうめん レンズによる集 しゅう 光 こう 』は後 のち に述 の べるal-Farisiによって発展 はってん され、虹 にじ の研究 けんきゅう に生 い かされた
^ 『虹 にじ と暈 かさ について』において、雲 くも 全体 ぜんたい が一 ひと つの球面 きゅうめん 鏡 きょう を成 な すとして光 ひかり の反射 はんしゃ の法則 ほうそく を用 もち いて虹 にじ の形状 けいじょう を説明 せつめい した[32] 。勿論 もちろん この理論 りろん は今日 きょう において正 ただ しくない。
^ Sabra, 1989による。ただし、Rashedは『光学 こうがく の書 しょ 』の反射 はんしゃ や屈折 くっせつ を扱 あつか った部分 ぶぶん のかなりの部分 ぶぶん が、問題 もんだい の記述 きじゅつ こそ形式 けいしき 的 てき に視覚 しかく をもちだすものの、実質 じっしつ 的 てき には光 ひかり そのものの研究 けんきゅう であるとしている[34] 。
^ スペインの西方 にしかた イスラム世界 せかい では多少 たしょう 様子 ようす が異 こと なる[35] 。
^ 他 た にウィテロのPerspectiva, Ibn Muʿādh al-JayyānīのLiber de crepusculis が収録 しゅうろく されている。
^ 湯浅 ゆあさ 赳 たけし 男 おとこ 『面白 おもしろ いほどよくわかる 世界 せかい の哲学 てつがく ・思想 しそう のすべて』日本文芸社 にほんぶんげいしゃ 、平成 へいせい 17年 ねん 2月 がつ 1日 にち 改訂 かいてい 第 だい 1版 はん 、ISBN:4-537-11501-7、p162
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^ 残 のこ りの2 ふた つは天文学 てんもんがく 書 しょ 『世界 せかい の配置 はいち 』(Configuration of the World)と光学 こうがく 書 しょ 『放物線 ほうぶつせん 鏡 きょう による集 しゅう 光 こう 』(On parabolic burning mirrors, Liber de speculis comburentibus)。Smith, 2001のIntroduction,1.Ibnal-Haytham: A Biobibliographic Sketch および http://www.jphogendijk.nl/ih/ibnalhaytham.html を参照 さんしょう
^ Smith 2001及 およ びLindberg 1976
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^ Smith 2001, Rusell 1996などを参照 さんしょう 。
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^ アリストテレス『感覚 かんかく と感覚 かんかく されるものについて』
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^ Russell 1996
^ Raynaud, 2016 などを参照 さんしょう 。
^ Lindberg 1968を参照 さんしょう 。
^ ゲルソニデスについては Goldstein B.R. (1985) The Astronomy of Levi ben Gerson (1288–1344). A Critical Edition of Chapters 1–20 with Translation and Commentary. Springer に詳 くわ しい。
^ Raynaud 2016 参照 さんしょう 。
^ Smith,2008 を参照 さんしょう 。
^ Smith,2018およびen:Alhazen's problem などを参照 さんしょう 。
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^ Smith,2001などを参照 さんしょう 。また、 Goldstein, B. (1977). Ibn Muddādh's Treatise On Twilight and the Height of the Atmosphere. Archive for History of Exact Sciences, 17(2), 97-118も参照 さんしょう 。
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^ 鈴木 すずき 1992
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