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ウェイン・グレツキー (Wayne Gretzky、1961年 ねん 1月 がつ 26日 にち - )は、カナダ連邦 れんぽう オンタリオ州 しゅう ブラントフォード 生 うま れの元 もと プロアイスホッケー 選手 せんしゅ 。ポジションはセンター。ショットは左利 ひだりき き。オーダー・オブ・カナダ 受賞 じゅしょう 者 しゃ 。現役 げんえき 引退 いんたい 後 ご はNHL フェニックス・コヨーテズ の共同 きょうどう 経営 けいえい 者 しゃ 兼 けん ヘッドコーチを務 つと める。
多 おお くのホッケーファンから、アイスホッケーの神様 かみさま 、史上 しじょう 最 もっと も優 すぐ れたホッケー選手 せんしゅ と称 しょう されている[2] 。愛称 あいしょう は"ザ・グレート・ワン "("The Great One ")[3] 。
弟 おとうと のブレント・グレツキー もNHLで13試合 しあい に出場 しゅつじょう した。また別 べつ の弟 おとうと のキース・グレツキー はNHLでの出場 しゅつじょう はないもののバッファロー・セイバーズ からドラフトで指名 しめい を受 う けている[4] 。
父親 ちちおや ウォルターの指導 しどう もあって幼少 ようしょう 時 じ からアイスホッケーにおける卓越 たくえつ した才能 さいのう を開花 かいか させ、6歳 さい の時 とき にはもう10歳 さい の選手 せんしゅ に混 ま じって活躍 かつやく するほどであった。また10歳 さい の時 とき に、85試合 しあい 378ゴールの記録 きろく を残 のこ しており、当時 とうじ の『トロントテレグラム』紙 し (後 ご の『トロント・サン』)にはグレツキーを紹介 しょうかい する記事 きじ が掲載 けいさい された。14歳 さい で、20歳 さい の選手 せんしゅ とともにプレーしたのち、キャリアアップのために故郷 こきょう のブラントフォードを後 のち にした。この頃 ころ 初 はじ めて代理人 だいりにん との契約 けいやく を行 おこな った。
16歳 さい の1年間 ねんかん はジュニア選手 せんしゅ を対象 たいしょう とするオンタリオホッケーリーグ 所属 しょぞく のスーセントマリー・グレイハウンド(Sault Ste. Marie Greyhounds)で活躍 かつやく した。この頃 ころ から、グレツキーは背番号 せばんごう 99を着用 ちゃくよう し始 はじ めた(この背番号 せばんごう 99は、後 のち にNHL 全 ぜん チームの永久 えいきゅう 欠番 けつばん となる)。ちなみに、この当時 とうじ グレツキーは憧 あこが れのゴーディ・ハウ にあやかって9番 ばん を望 のぞ んだのだが、既 すで にチームの同僚 どうりょう がつけていたのでコーチのムッツ・マクファーソンの勧 すす めもあり99番 ばん に落 お ちついたとされる。
プロ入 い りとレイサーズ時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
1978-1979シーズン、ワールド・ホッケー・アソシエーション(WHA )の数 すう チームが当時 とうじ 17歳 さい でNHLとの契約 けいやく 対象 たいしょう 外 がい だった(NHLは20歳 さい 以上 いじょう )グレツキーの獲得 かくとく を表明 ひょうめい し、争奪 そうだつ 戦 せん の末 すえ インディアナポリス・レイサーズ (Indianapolis Racers)と契約 けいやく しプロ生活 せいかつ をスタート。デビュー4戦 せん 目 め となる1978年 ねん 10月 がつ 20日 はつか の対 たい エドモントン・オイラーズ 戦 せん で初 はつ ゴールを決 き め、出場 しゅつじょう 8試合 しあい で3ゴールと順調 じゅんちょう なスタート切 き ったが、当時 とうじ 深刻 しんこく な財政難 ざいせいなん に陥 おちい っていたレイサーズはグレツキーの放出 ほうしゅつ を決意 けつい (その後 ご レイサーズは12月12日 にち に25試合 しあい を消化 しょうか したところで存続 そんぞく を断念 だんねん )。
1978年 ねん 11月2日 にち にグレツキー他 た 2選手 せんしゅ の契約 けいやく はオイラーズのオーナー、 ピーター・ポクリントンが買 か い取 と った[5] 。オイラーズで72試合 しあい に出場 しゅつじょう 、2チーム合計 ごうけい で46ゴール、64アシストと活躍 かつやく し、WHAの最後 さいご の新人 しんじん 王 おう となった。
1978-1979シーズン終了 しゅうりょう 後 ご にWHAは閉鎖 へいさ 、オイラーズを含 ふく む4チームがNHL に加入 かにゅう した(他 た はケベック・ノルディクス 、ウィニペグ・ジェッツ 及 およ びハートフォード・ホエーラーズ )。
1979-1980シーズン、グレツキーは異例 いれい の18歳 さい でNHLデビューを飾 かざ る。このシーズンでハート記念 きねん 賞 しょう (リーグ最優秀 さいゆうしゅう 選手 せんしゅ 賞 しょう )を受賞 じゅしょう (以後 いご 8年 ねん 連続 れんぞく )。加 くわ えて最多 さいた ポイント記録 きろく 137をマーセル・ディオン と分 わ かちあった[6] [7] 。なお、アート・ロス記念 きねん 賞 しょう (リーグ最多 さいた スコアラー賞 しょう )は、ゴール数 すう の多 おお かったディオンが受賞 じゅしょう したが、グレツキーの出場 しゅつじょう 試合 しあい 数 すう はディオンのそれよりも少 すく なかった。グレツキーは、前年 ぜんねん にプロ経験 けいけん があったためカルダー記念 きねん 賞 しょう (NHL最優秀 さいゆうしゅう 新人 しんじん 賞 しょう )の受賞 じゅしょう は逸 いっ した(なお、後 のち にルール改正 かいせい がされ、ティーム・セラニ は前年 ぜんねん にプロ経験 けいけん があるにもかかわらず、年間 ねんかん 76ゴールによりこの賞 しょう を受 う けることができた。)。
2年 ねん 目 め には、当時 とうじ のシーズン最多 さいた ポイント記録 きろく 164を打 う ちたて、アート・ロス記念 きねん 賞 しょう (レギュラーシーズン得点 とくてん 王 おう 、以後 いご 7年 ねん 連続 れんぞく )を受賞 じゅしょう 、また、2年 ねん 連続 れんぞく でハート記念 きねん 賞 しょう に輝 かがや く。当時 とうじ のオイラーズは、フォワードにマーク・メシエ 、グレン・アンダーソン 、ヤリ・クリ 、ディフェンスにポール・コフィー 、ゴーリー(キーパー)にグラント・フューア ら若 わか い有力 ゆうりょく 選手 せんしゅ を擁 よう し、これらの選手 せんしゅ をグレツキーがキャプテンとして統率 とうそつ していた。
1983年 ねん にはスタンレー・カップ 決勝 けっしょう に進出 しんしゅつ したが、4回 かい の優勝 ゆうしょう 経験 けいけん を持 も つニューヨーク・アイランダーズ の前 まえ に惜敗 せきはい した。スタジアムの構造 こうぞう 上 じょう 敗退 はいたい したチームは勝利 しょうり チームの控室 ひかえしつ の横 よこ を通 とお って帰路 きろ につかなければならず、この際 さい どんちゃん騒 さわ ぎしているであろうアイランダーズを目 め にするのであろうと思 おも ってこの上 うえ ない屈辱 くつじょく を感 かん じたという。しかし実際 じっさい に目撃 もくげき したのはボロボロになり静 しず まり返 かえ っていたが、どこか満足 まんぞく そうなアイランダーズの面々 めんめん であり、このことから勝利 しょうり には大 おお きな犠牲 ぎせい が伴 ともな うことを学 まな び、翌 よく シーズンで絶対 ぜったい にスタンレーカップを手 て にすることを誓 ちか ったという。
1984年 ねん に両 りょう チームは再 ふたた び決勝 けっしょう で合 あ いまみえたが、今度 こんど はオイラーズが勝利 しょうり しその後 ご 4年間 ねんかん で3度 ど の優勝 ゆうしょう の先鞭 せんべん をつけた。
NHL所属 しょぞく 2年 ねん 目 め だけでも、ボビー・オア が持 も っていた年間 ねんかん 最多 さいた アシスト記録 きろく 、フィル・エスポジト の年間 ねんかん 最多 さいた ポイント記録 きろく を突破 とっぱ した。1981年 ねん にはホッケーで最 もっと も重要 じゅうよう 視 し される50試合 しあい 50ゴール の記録 きろく を更新 こうしん した(従来 じゅうらい は、"ロケット"・リシャール (1944-1945) とマイク・ボッシー (1980-1981)が達成 たっせい している。)。この記録 きろく は、1981年 ねん 12月30日 にち にエドモントンのシーズン39戦 せん 目 め 、対 たい フィラデルフィア・フライヤーズ戦 せん において達成 たっせい された(グレツキーは同 どう 試合 しあい で5ゴールを上 あ げ、試合 しあい は7対 たい 5でエドモントンの勝利 しょうり )。
1982年 ねん 2月 がつ 24日 にち には、対 たい バッファロー・セイバーズ でチームの勝利 しょうり (6対 たい 3)に貢献 こうけん する4ゴールを上 あ げ、フィル・エスポジト の持 も つシーズン最多 さいた ゴール76の記録 きろく を更新 こうしん 。結局 けっきょく このシーズンにおいて80試合 しあい 92ゴール、212ポイントの記録 きろく を残 のこ した。
さらに1985-1986シーズンには自己 じこ の持 も つ最多 さいた ポイント記録 きろく を215に塗 ぬ り替 か えるとともに、年間 ねんかん 最多 さいた アシスト163の新 しん 記録 きろく (以下 いか 「記録 きろく 」ないし「新 しん 記録 きろく 」はグレツキーの達成 たっせい 時点 じてん 。)を打 う ち立 た てた。
1988年 ねん 8月 がつ 9日 にち にチームメイトのマーティ・マクソーリー (Marty McSorley) 、マイク・クルシェルニスキ(Mike Krushelnyski)らとともに、ロサンゼルス・キングス に移籍 いせき した。移籍 いせき の見返 みかえ りは、選手 せんしゅ として ジミー・カーソン (Jimmy Carson) 、マルタン・ジェリナ (Martin Gelinas) 、金銭 きんせん (1500万 まん ドル)並 なら びにキングスの1989、1991、1993三 さん ヵ年 かねん のドラフトにおける第 だい 1順 じゅん 目 め の選択 せんたく 権 けん であった。このトレードの情報 じょうほう が伝 つた わると、カナダ 国民 こくみん の多 おお くが憤慨 ふんがい したため、ある議員 ぎいん が政府 せいふ に対 たい しこれを止 と めさせるように働 はたら きかけを行 おこな ったり、オイラーズのオーナーであるポクリントン (Pocklington)の人形 にんぎょう が公衆 こうしゅう の面前 めんぜん で焼 や かれるなどの騒動 そうどう があった。カナダ国内 こくない にはグレツキー自身 じしん を「裏切 うらぎ り者 もの 」とみなすものが増 ふ え、このトレード以降 いこう 国内 こくない におけるグレツキー人気 にんき が凋落 ちょうらく したとする見方 みかた もある。
カナダでの反応 はんのう に対 たい して、ロサンゼルス では従来 じゅうらい はアイスホッケーに関心 かんしん を持 も たなかったファン層 そう の掘 ほ り起 お こしにつながり、初年度 しょねんど の観客 かんきゃく 動員 どういん 数 すう を著 いちじる しく増加 ぞうか させた。当時 とうじ ロサンゼルス・キングスがホーム試合 しあい を開催 かいさい したグレート・ウェスタン・フォーラム では、プレーオフまでの各 かく 試合 しあい でチケットの売 う り切 き れが頻繁 ひんぱん に起 お こった。かつてグレツキーが所属 しょぞく した強豪 きょうごう チームと比 くら べるとキングスは弱小 じゃくしょう と目 め されたチームであったが、グレツキーは新生 しんせい キングスをリンクの内外 ないがい に渡 わた って統率 とうそつ し、スタンレー・カップにおいて前年度 ぜんねんど 覇者 はしゃ の古巣 ふるす オイラーズに対 たい し、1勝 しょう 3敗 はい の逆境 ぎゃっきょう から挽回 ばんかい して見事 みごと 4勝 しょう 3敗 はい の優勝 ゆうしょう という衝撃 しょうげき 的 てき な大 だい 番狂 ばんくる わせを演 えん じた。グレツキーの南 みなみ カリフォルニアへの登場 とうじょう は「NHLの版図 はんと 」を塗 ぬ り替 か えたと評価 ひょうか する向 む きも多 おお い。カリフォルニアには、3つのNHLチームが所在 しょざい することとなった。
1993年 ねん のスタンリー・カップ決勝 けっしょう 進出 しんしゅつ でピークを迎 むか えた。シリーズ初戦 しょせん に勝利 しょうり した後 のち は、モントリオール・カナディアンズ に4連敗 れんぱい を喫 きっ した。チームは継続 けいぞく 的 てき に選手 せんしゅ やコーチを入 い れ替 か えたが、1998年 ねん まで再 ふたた びプレーオフ進出 しんしゅつ すら果 はた せず、長期 ちょうき 低迷 ていめい が続 つづ いた。
1996年 ねん 2月 がつ 27日 にち に、パトリス・ターディフ (Patrice Tardif) 、ロマン・ボパット (Roman Vopat) 、クレイグ・ジョンソン(Craig Johnson)の3選手 せんしゅ 及 およ びドラフトの選択 せんたく 権 けん とのトレードでセントルイス・ブルース へ移籍 いせき した。31試合 しあい (レギュラーシーズン及 およ びプレイオフも含 ふく む)に出場 しゅつじょう し37得点 とくてん を挙 あ げ、地区 ちく の決勝 けっしょう において延長 えんちょう 戦 せん に突入 とつにゅう した試合 しあい もあったが、大方 おおかた の期待 きたい に反 はん してチームや点取 てんと り屋 や のブレット・ハルとプレーの反 そ りがあわなかった。
ニューヨーク・レンジャーズ時代 じだい
1996年 ねん 7月 がつ 21日 にち にフリーエージェントとしてニューヨーク・レンジャース に移籍 いせき した。
レンジャースで3年間 ねんかん プレーし、1997年 ねん の地区 ちく 決勝 けっしょう 進出 しんしゅつ に貢献 こうけん した後 のち 、現役 げんえき 生活 せいかつ を引退 いんたい した。NHL公式 こうしき 戦 せん における最終 さいしゅう 出場 しゅつじょう 戦 せん は、1999年 ねん 4月 がつ 16日 にち にカナダで行 おこな われた。また、引退 いんたい 試合 しあい は同年 どうねん 4月 がつ 18日 にち 対 たい ピッツバーグ・ペンギンズ 戦 せん で、この試合 しあい は延長 えんちょう 戦 せん に突入 とつにゅう したが2対 たい 1で負 ま けに終 お わった。この試合 しあい で歌 うた われたカナダ国歌 こっか はグレツキーの旅立 たびだ ちを惜 お しんで、O Canada, we stand on guard for thee の箇所 かしょ はWe're going to miss you Wayne Gretzky (ウェイン・グレツキーがいなくなると寂 さび しくなるなあ)と替 か え歌 うた された。また、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 国歌 こっか もthe land of the free の部分 ぶぶん がthe land of Wayne Gretzky と替 か え歌 うた された。また、16日 にち 、18日 にち の両 りょう 試合 しあい における第 だい 1位 い から第 だい 3位 い までのスター選手 せんしゅ 賞 しょう すべてがグレツキーに与 あた えられた(注 ちゅう )。
(注 ちゅう )プロホッケーの場合 ばあい 、試合 しあい 終了 しゅうりょう 後 ご にその試合 しあい のベストプレーヤー3人 にん を選出 せんしゅつ し賞 しょう が与 あた えられることがある。
2003年 ねん 、グレツキーはエドモントン・オイラーズのNHL加入 かにゅう 25周年 しゅうねん 記念 きねん を祝 いわ うため、リンク上 じょう に姿 すがた を見 み せた。「ヘリテイジ・クラシック(Heritage Classic)」と名付 なづ けられたこの試合 しあい はNHL史上 しじょう 初 はつ の野外 やがい 試合 しあい であるが、先立 さきだ って行 おこな われたエキシビジョン試合 しあい (対 たい モントリオール・カナディアンズ)において、グレツキーは他 た のオイラーズOBとともに出場 しゅつじょう した。後 のち にこの試合 しあい の模様 もよう はDVD化 か されている。
グレツキーは、日本 にっぽん の長野 ながの 市 し で開催 かいさい された1998年 ねん 冬季 とうき オリンピックに出場 しゅつじょう している。カナダチームに対 たい する期待 きたい は高 たか かったものの、マリオ・ルミュー(1987年 ねん カナダ・カップにおいてグレツキーと絶妙 ぜつみょう のコンビを発揮 はっき )やその他 た 有力 ゆうりょく 選手 せんしゅ の怪我 けが による欠場 けつじょう があり、カナダはフィンランド に敗 やぶ れて4位 い に終 お わった。この結果 けっか については、コーチの守備 しゅび 選手 せんしゅ の選択 せんたく ミスやシュート・アウトにおいてゴーリーのドミニク・ハシェック に対 たい してグレツキーを登場 とうじょう させなかったことに帰着 きちゃく せしめようとする声 こえ もある。
ユタ州 しゅう ソルトレイクシティ で開催 かいさい された2002年 ねん 冬季 とうき オリンピックでは、グレツキーはカナダホッケーチームの総 そう 監督 かんとく を務 つと めた。2002年 ねん 2月 がつ 18日 にち の記者 きしゃ 会見 かいけん では、報道陣 ほうどうじん の前 まえ でカナダ人 じん の代表 だいひょう チームに対 たい する反応 はんのう や支援 しえん の少 すく なさにいらいらして、これを激 はげ しく非難 ひなん する発言 はつげん を行 おこな った。これについては、彼 かれ は選手 せんしゅ のプレッシャーを払 はら いのけるために、単 たん に前 ぜん コーチのグレン・セイサー(Glen Sather)の書 か いた文書 ぶんしょ を借用 しゃくよう しただけだとの観測 かんそく もある。
この大会 たいかい でカナダは、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく を破 やぶ って金 きん メダルを獲得 かくとく した。エドモントン・ウォータールー・マーキュリーズ以来 いらい 実 じつ に50年 ねん ぶりの金 きん メダル獲得 かくとく であった。
なお、2005年 ねん の世界 せかい アイスホッケー選手権 せんしゅけん 大会 たいかい の監督 かんとく を依頼 いらい されたが、母親 ははおや が癌 がん を患 わずら っており、母親 ははおや の健康 けんこう 状態 じょうたい を理由 りゆう に断 ことわ っている。公式 こうしき には監督 かんとく ではないものの決定 けってい に対 たい して諮問 しもん される立場 たちば にあった。この大会 たいかい でカナダは、銀 ぎん メダルを獲得 かくとく した。
2010年 ねん バンクーバーオリンピック の開会 かいかい 式 しき にて、聖火 せいか 最終 さいしゅう ランナーとして登場 とうじょう した。開会 かいかい 式 しき を生 なま 中継 ちゅうけい していたNHK のアナウンサー 武田 たけだ 真一 しんいち は「グレート・ワン」の表現 ひょうげん で紹介 しょうかい した。
詳細 しょうさい 情報 じょうほう [ 編集 へんしゅう ]
レギュラー シーズン
プレイオフ
シーズン
チーム
リーグ
GP
G
A
Pts
PIM
GP
G
A
Pts
PIM
1976-77
ピーターボロ・ペッツ
OHA
3
0
3
3
0
--
--
--
--
--
1977-78
スーセントマリー・グレイハウンズ
OHA
64
70
112
182
14
--
--
--
--
--
1978-79
インディアナポリス・レイサーズ
WHA
8
3
3
6
0
--
--
--
--
--
1978-79
エドモントン・オイラーズ
WHA
72
43
61
104
19
13
10
10
20
2
1979-80
エドモントン・オイラーズ
NHL
79
51
86
137
21
3
2
1
3
0
1980-81
エドモントン・オイラーズ
NHL
80
55
109
164
28
9
7
14
21
4
1981-82
エドモントン・オイラーズ
NHL
80
92
120
212
26
5
5
7
12
8
1982-83
エドモントン・オイラーズ
NHL
80
71
125
196
59
16
12
26
38
4
1983-84
エドモントン・オイラーズ
NHL
74
87
118
205
39
19
13
22
35
12
1984-85
エドモントン・オイラーズ
NHL
80
73
135
208
52
18
17
30
47
4
1985-86
エドモントン・オイラーズ
NHL
80
52
163
215
46
10
8
11
19
2
1986-87
エドモントン・オイラーズ
NHL
79
62
121
183
28
21
5
29
34
6
1987-88
エドモントン・オイラーズ
NHL
64
40
109
149
24
19
12
31
43
16
1988-89
ロサンゼルス・キングス
NHL
78
54
114
168
26
11
5
17
22
0
1989-90
ロサンゼルス・キングス
NHL
73
40
102
142
42
7
3
7
10
0
1990-91
ロサンゼルス・キングス
NHL
78
41
122
163
16
12
4
11
15
2
1991-92
ロサンゼルス・キングス
NHL
74
31
90
121
34
6
2
5
7
2
1992-93
ロサンゼルス・キングス
NHL
45
16
49
65
6
24
15
25
40
4
1993-94
ロサンゼルス・キングス
NHL
81
38
92
130
20
--
--
--
--
--
1994-95
ロサンゼルス・キングス
NHL
48
11
37
48
6
--
--
--
--
--
1995-96
ロサンゼルス・キングス
NHL
62
15
66
81
32
--
--
--
--
--
1995-96
セントルイス・ブルース
NHL
18
8
13
21
2
13
2
14
16
0
1996-97
ニューヨーク・レンジャース
NHL
82
25
72
97
28
15
10
10
20
2
1997-98
ニューヨーク・レンジャース
NHL
82
23
67
90
28
--
--
--
--
--
1998-99
ニューヨーク・レンジャース
NHL
70
9
53
62
14
--
--
--
--
--
20 Years
合計 ごうけい
NHL
1487
894
1963
2857
596
208
122
260
382
68
記録 きろく 及 およ び受賞 じゅしょう 歴 れき 等 とう [ 編集 へんしゅう ]
グレツキーは、1999年 ねん 4月 がつ 18日 にち の引退 いんたい 時点 じてん で61個 いっこ のNHL記録 きろく を保持 ほじ していた(内訳 うちわけ は、レギュラーシーズン40、プレーオフ15、オールスター戦 せん 6)。
一 いち シーズンにおける記録 きろく としては、ゴール数 すう (92)、アシスト数 すう (163) 及 およ びポイント数 すう (215)、点取 てんと り屋 や の試金石 しきんせき とされる50試合 しあい 50ゴールの最短 さいたん 到達 とうたつ 記録 きろく (39試合 しあい 目 め )などを持 も つ。また、プレイオフ通算 つうさん 記録 きろく としては、ゴール数 すう (122)、アシスト数 すう (260) 及 およ びポイント数 すう (382) も持 も つ。さらに、レギュラーシーズン通算 つうさん では、ゴール数 すう (894)、アシスト数 すう (1963) 及 およ びポイント数 すう (2857) を記録 きろく している。彼 かれ の生涯 しょうがい アシスト数 すう だけをもってしても、NHLの最多 さいた 獲得 かくとく ポイント選手 せんしゅ となることができたであろう。
ハート記念 きねん 賞 しょう を9度 ど (うち8度 ど は1980年 ねん から1987年 ねん まで連続 れんぞく )受賞 じゅしょう している。ちなみに、グレツキーは北米 ほくべい 地区 ちく におけるプロスポーツ界 かい で最優秀 さいゆうしゅう 選手 せんしゅ 賞 しょう を最 もっと も多 おお く受賞 じゅしょう した選手 せんしゅ である。また、アート・ロス記念 きねん 賞 しょう (リーグ最多 さいた スコアラー)を10度 ど (うち7度 ど は1981年 ねん から1987年 ねん まで連続 れんぞく )、コーン・スマイス賞 しょう を2度 ど 、レスター・B・ピアソン賞 しょう (選手 せんしゅ が選 えら ぶ優秀 ゆうしゅう 選手 せんしゅ 賞 しょう )を5度 ど 、レディ・ビング記念 きねん 賞 しょう (フェアプレー)を5度 ど それぞれ受賞 じゅしょう している。
また、オールスター戦 せん における最優秀 さいゆうしゅう 選手 せんしゅ 賞 しょう も3度 ど 獲得 かくとく している(最多 さいた 受賞 じゅしょう タイ記録 たいきろく )。オールスター戦 せん においては、ファーストチームのセンターを8度 ど 、セカンドチームのセンターを7度 ど 務 つと める栄誉 えいよ を与 あた えられており、これらの合計 ごうけい 回数 かいすう 及 およ びオールスター出場 しゅつじょう 回数 かいすう (18) は、ゴーディ・ハウ及 およ びレイ・ボーク に次 つ ぐ。
1982年 ねん 、グレツキーはホッケー選手 せんしゅ 、そしてカナダ人 じん としては初 はじ めてAP社 しゃ 主催 しゅさい の年間 ねんかん 最優秀 さいゆうしゅう 男性 だんせい 運動 うんどう 選手 せんしゅ (Associated Press Male Athlete of the Year) に選出 せんしゅつ された。また、同年 どうねん 雑誌 ざっし 『スポーツ・イラストレーテッド』からは、スポーツマン・オブ・ザ・イヤーを受賞 じゅしょう 。1990年 ねん には、AP社 しゃ から10年間 ねんかん の最優秀 さいゆうしゅう 男性 だんせい 運動 うんどう 選手 せんしゅ (Male Athlete of the Decade) に選 えら ばれた。
1984年 ねん 6月25日 にち には、エドモントン・オイラーズ時代 じだい におけるアイスホッケーに対 たい する顕著 けんちょ な貢献 こうけん を称 とな えられ、カナダ最高 さいこう の勲章 くんしょう であるオーダー・オブ・カナダ を受章 じゅしょう した。ただし、授章 じゅしょう 式典 しきてん はNHLのシーズン期間 きかん 中 ちゅう に行 おこな われる慣例 かんれい であるため、実際 じっさい に受勲 じゅくん するのはこの13年 ねん 7ヵ月 かげつ 後 ご となった(この間 あいだ カナダ総督 そうとく は2人 ふたり も交代 こうたい していた)。
1999年 ねん 11月22日 にち に、3年間 ねんかん の待機 たいき 期間 きかん を待 ま たずして特例 とくれい でホッケーの殿堂 でんどう 入 い りを果 はた す。このときNHLは、この特例 とくれい が適用 てきよう される選手 せんしゅ はおそらく今後 こんご は登場 とうじょう しないであろうとの声明 せいめい を発表 はっぴょう した。また、この殿堂 でんどう 入 い りの日 ひ に至 いた るまでの彼 かれ の心情 しんじょう を綴 つづ った日誌 にっし はカナダ中 ちゅう の新聞 しんぶん に共同 きょうどう 配信 はいしん された。さらに彼 かれ のユニフォームの背番号 せばんごう 99番 ばん を全 ぜん NHLチームの永久 えいきゅう 欠番 けつばん とすることも同時 どうじ に発表 はっぴょう された。
1999年 ねん には、ESPN が選出 せんしゅつ する「20世紀 せいき 最高 さいこう の運動 うんどう 選手 せんしゅ 」の第 だい 5位 い に名 な を連 つら ねた。このとき、グレツキーの上位 じょうい に選 えら ばれたのは、マイケル・ジョーダン 、ベーブ・ルース 、モハメド・アリ 、ジム・ブラウン であった。
驚異 きょうい 的 てき な記録 きろく ・事実 じじつ [ 編集 へんしゅう ]
年間 ねんかん 50ゴールを上 あ げた最年少 さいねんしょう 選手 せんしゅ
マーセル・ディオンの現役 げんえき 時代 じだい の年間 ねんかん 最多 さいた ポイントは137であるが、グレツキーはNHL参加 さんか 初年度 しょねんど でこの記録 きろく に並 なら び、その後 ご 10シーズンに渡 わた ってこれを下回 したまわ ることがなかった。(1991-1992シーズンには及 およ ばず121)
当時 とうじ はルーキーとはみなされなかったが、参加 さんか 初年度 しょねんど で一 いち 試合 しあい 8ポイント及 およ び7アシストを上 あ げたのは新 しん 記録 きろく 。
ボビー・オアはNHL 史上 しじょう 最高 さいこう のプレーヤーの一人 ひとり に数 かぞ えることができるが、グレツキーは2年 ねん 目 め にボビーの持 も つ年間 ねんかん アシスト記録 きろく 102を上回 うわまわ る109を樹立 じゅりつ し、その後 ご 1991-1992シーズンに至 いた るまで102を下回 したまわ ることがなかった。
シーズン2年 ねん 目 め にはスーパースターと称 しょう されたフィル・エスポジト の持 も つ年間 ねんかん 最多 さいた ポイント152を破 やぶ る164を記録 きろく 。さらにNHLの近代 きんだい 化 か 以降 いこう 、一 いち 試合 しあい 平均 へいきん 2ポイントを記録 きろく した史上 しじょう 初 はつ の選手 せんしゅ である。
シーズン3年 ねん 目 め には当時 とうじ 破 やぶ るのが不可能 ふかのう と考 かんが えられていた記録 きろく の数々 かずかず 、すなわち39試合 しあい で50ゴール、エスポジトの持 も つ年間 ねんかん 76ゴール、年間 ねんかん 200ポイントの大台 おおだい などをことごとく突破 とっぱ した。(このシーズンは、212ポイント、92ゴール、120アシストの成績 せいせき )
212ポイントを上 あ げた前年 ぜんねん と比較 ひかく して4年 ねん 目 め の1982-1983シーズンは、196ポイントに終 お わったが、それでも125アシストの新 しん 記録 きろく を樹立 じゅりつ した。
グレツキーは、唯一 ゆいいつ の年間 ねんかん 200ポイントを達成 たっせい した選手 せんしゅ であるが、彼 かれ は、この記録 きろく を1981-1982シーズンから1985-1986シーズンの5年間 ねんかん に4度 ど 達成 たっせい している。
5年 ねん 目 め の1983-1984シーズンは、51試合 しあい 連続 れんぞく ポイントを記録 きろく 。この間 あいだ 、61ゴール、92アシスト、153ポイントを上 あ げ、これは実 じつ に一 いち 試合 しあい 平均 へいきん すれば3ポイントに当 あ たる。なおこの期間 きかん のほとんどを肩 かた を脱臼 だっきゅう した状態 じょうたい で出場 しゅつじょう していたことは驚嘆 きょうたん に値 あたい する。この記録 きろく が途絶 とだ えた後 のち は、肩 かた の治療 ちりょう のため6試合 しあい 休場 きゅうじょう している。
50試合 しあい 以下 いか での50ゴール到達 とうたつ を現役 げんえき 時 じ に3度 ど 記録 きろく 。(なおブレット・ハル (Brett Hull) は2度 ど 達成 たっせい )
シーズンを通 つう じ一 いち 試合 しあい 平均 へいきん 2アシストを達成 たっせい したのは、1985-1986シーズンのグレツキーのみ。この期間 きかん 80試合 しあい で163アシスト(一 いち 試合 しあい 平均 へいきん 2以上 いじょう のアシスト)を行 おこな いながら、かつ自 みずか ら52ゴールも上 あ げた。
1989年 ねん は、ゴーディ・ハウのもつ現役 げんえき 最多 さいた ポイントの記録 きろく (26年間 ねんかん で1850ポイント)をわずか10年間 ねんかん で更新 こうしん 。グレツキーは10年間 ねんかん に渡 わた って年間 ねんかん 平均 へいきん 180ポイント以上 いじょう を上 あ げ続 つづ けた。この平均 へいきん ポイントは、マリオ・ルミュー (Mario Lemieux) を除 のぞ き他 ほか の選手 せんしゅ の年間 ねんかん 自己 じこ ベストを上回 うわまわ る。(ルミューの自己 じこ ベストは199ポイント)
仮 かり にグレツキーの上 あ げたすべてのゴールを除外 じょがい したとしても、最多 さいた スコアラーとしてアート・ロス記念 きねん 賞 しょう を4度 ど も獲得 かくとく できただろうし、現役 げんえき 最多 さいた ポイントをも獲得 かくとく できたであろう。というのも、彼 かれ の1963アシスト記録 きろく は、ゴーディ・ハウ の1850ポイントやマーク・メシエ の1887ポイントをも上回 うわまわ るからである。
王室 おうしつ 並 な みの結婚式 けっこんしき [ 編集 へんしゅう ]
1984年 ねん にグレツキーは、ショー『ダンス・フィーバー(Dance Fever)』の審査 しんさ 員 いん として出演 しゅつえん したときにアメリカ人 じん 女優 じょゆう でダンサーのジャネット・ジョーンズと知 し り合 あ った。しかし、1987年 ねん までは付 つ き合 あ いは始 はじ めていなかった。
1988年 ねん 7月 がつ 17日 にち にアルバータ州 しゅう エドモントンのセント・ジョセフ聖堂 せいどう での結婚式 けっこんしき は、マスコミによって「王室 おうしつ の結婚式 けっこんしき (The Royal Wedding)」と喧伝 けんでん され、カナダ国内 こくない にその映像 えいぞう が生 なま 放送 ほうそう された。エドモントンの消防署 しょうぼうしょ 員 いん が警備 けいび 員 いん として聖堂 せいどう の階段 かいだん に立 た った。また、結婚式 けっこんしき の費用 ひよう は優 ゆう に100万 まん ドルを超 こ えるとされ、新婦 しんぷ ジャネットの衣装 いしょう だけでも4万 まん ドル掛 か かったと伝 つた えられる。その後 ご 、夫妻 ふさい は5人 にん の子供 こども (Paulina, Ty, Trevor, Tristan, Emma)をもうけている。その後 ご 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に帰化 きか し、二 に 重 じゅう 国籍 こくせき となっている[1] 。
リンク外 がい での活動 かつどう [ 編集 へんしゅう ]
エドモントンなどでは、ソフトドリンク、ジーパンから壁紙 かべがみ 、枕 まくら カバー、シリアル、チョコバーや人形 にんぎょう に至 いた るまでグレツキーの顔 かお であふれている。また、レンタカー会社 かいしゃ 、自動車 じどうしゃ 会社 かいしゃ 、清涼飲料水 せいりょういんりょうすい 、ファーストフード、スープ、運動 うんどう 用具 ようぐ 、保険 ほけん 会社 かいしゃ 、医薬品 いやくひん 、金融 きんゆう 機関 きかん 及 およ び家電 かでん メーカーなどの広告 こうこく にも登場 とうじょう している。
Mike Leonetti の書 か いた児童 じどう 用 よう の物語 ものがたり 『Gretzky's Game』(ISBN 1-55192-851-5 )では、アイスホッケー好 す きな主人公 しゅじんこう の少年 しょうねん のアイドルとしてグレツキーが描 えが かれている。
テレビでは1989年 ねん に『サタデー・ナイト・ライブ 』のホストを務 つと めた。また1992年 ねん の漫画 まんが 番組 ばんぐみ 『プロスター』やコンピューター・ゲームなどに肖像 しょうぞう を提供 ていきょう している。雑誌 ざっし では1997年 ねん に『Cigar Aficionado』の表紙 ひょうし を妻 つま とともに飾 かざ っている。また、1998年 ねん に男性 だんせい 向 む けファッション事業 じぎょう を始 はじ めるとともに、電話 でんわ カード会社 かいしゃ ともライセンス契約 けいやく を結 むす んだ。さらに、レストラン、スポーツ用具 ようぐ 店 てん を所有 しょゆう するほか、ローラー・ホッケーリンクのチェーンを共同 きょうどう 経営 けいえい している。
引退 いんたい 後 ご は、南 みなみ カリフォルニアの Power Automotive Group や Tylenol Arthritis Formula のスポークスマンともなっている。雑誌 ざっし 『フォーブズ 』の推計 すいけい によれば、1990年 ねん から1998年 ねん まででホッケー及 およ び広告 こうこく などにより9380万 まん ドルを稼 かせ いだとされている。
現役 げんえき 時代 じだい から馬主 ばしゅ として競走 きょうそう 馬 ば を所有 しょゆう していた。1991年 ねん のジャパンカップ 勝 か ち馬 ば ゴールデンフェザント は、勝利 しょうり の時点 じてん ではグレツキーが共同 きょうどう 馬主 ばしゅ の一人 ひとり であったが、レース翌日 よくじつ に社台 やしろだい ファーム に売却 ばいきゃく している。
2000年 ねん に、NHLのフェニックス・コヨーテズ の Alternate Governor 及 およ び Managing Partnerに就任 しゅうにん 。グレツキーは、チームの出資 しゅっし の17%を保有 ほゆう している。
2004年 ねん には、CBC のアンケート投票 とうひょう により「最 もっと も偉大 いだい なカナダ人 じん ベスト10」の一人 ひとり に選出 せんしゅつ された。
また「グレツキー」の名称 めいしょう は、コーヒーチェーン「ティムホートンズ 」の伝説 でんせつ 的 てき なコーヒー(彼 かれ の背番号 せばんごう にちなんで、ミルクと砂糖 さとう を9つずつ加 くわ えたもの)の愛称 あいしょう ともなっている。
無類 むるい の野球 やきゅう 好 す きで、アイスホッケーだけでなく陸上 りくじょう 競技 きょうぎ や野球 やきゅう でも注目 ちゅうもく されていた。子供 こども の頃 ころ のグレツキーはアイスホッケーよりも野球 やきゅう をやりたがっていた[8] 。カナダ放送 ほうそう 協会 きょうかい (カナダの公共 こうきょう 放送 ほうそう )の取材 しゅざい をうけた少年 しょうねん 時代 じだい には、記者 きしゃ からの「将来 しょうらい はプロのホッケー選手 せんしゅ になりたい?」という質問 しつもん に対 たい して「うん。それか野球 やきゅう 選手 せんしゅ のどっちかになりたい。」と答 こた えている[9] 。
2008年 ねん の9月 がつ にフェニックス・コヨーテズのホームアリーナで受 う けたインタビューにあっては、さっそく『グレートワン』と呼 よ んできた記者 きしゃ らに対 たい して次 つぎ のようなことを言 い っている。『諸君 しょくん 、本当 ほんとう のグレートワンは3000安打 あんだ のイチロー だよ。私 わたし は大 だい の野球 やきゅう ファンなんだ。できたら、イチローに会 あ わせてくれないか?』[10]
野球 やきゅう カード を収集 しゅうしゅう しており、現存 げんそん する最 もっと も価値 かち のある野球 やきゅう カードである「T206ホーナス・ワグナー 」の前 ぜん 保持 ほじ 者 しゃ で、競売 きょうばい にかけたところ235万 まん ドル(約 やく 2億 おく 8,000万 まん 円 えん )で落札 らくさつ されている。現在 げんざい は息子 むすこ が野球 やきゅう をやっており、子供 こども の野球 やきゅう チームのコーチもしている。
息子 むすこ のトレバー・グレツキーは元 もと プロ野球 やきゅう 選手 せんしゅ で、2011年 ねん のMLBドラフト 7巡 じゅん 目 め でシカゴ・カブス から指名 しめい を受 う けている。