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ウェイン・グレツキー

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ウェイン・グレツキー

2019ねん6がつ
本名ほんみょう ウェイン・ダグラス・グレツキー
原語げんごめい Wayne Douglas Gretzky
愛称あいしょう アイスホッケーの神様かみさま
ザ・グレート・ワン
国籍こくせき カナダの旗 カナダ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
じゅう国籍こくせき[1]
生誕せいたん
出生しゅっしょう
(1961-01-26) 1961ねん1がつ26にち(63さい
カナダの旗 カナダ
オンタリオしゅうブラントフォード
身長しんちょう
体重たいじゅう
6 ft 0 in (1.83 m)
185 lb (84 kg; 13 st 3 lb)
ポジション センター
ショット ひだり
所属しょぞくれき インディアナポリス・レイサーズ英語えいごばん (1978-79)
エドモントン・オイラーズ (1978 - 1988)
ロサンゼルス・キングス (1988 - 1995)
セントルイス・ブルース (1995-96)
ニューヨーク・レンジャース (1996 - 1999)
代表だいひょう カナダの旗 カナダ
プロ選手せんしゅ期間きかん 1978ねん – 1999ねん
1999ねん殿堂でんどうはい

ウェイン・グレツキー(Wayne Gretzky、1961ねん1がつ26にち - )は、カナダ連邦れんぽうオンタリオしゅうブラントフォードうまれのもとプロアイスホッケー選手せんしゅ。ポジションはセンター。ショットは左利ひだりきき。オーダー・オブ・カナダ受賞じゅしょうしゃ現役げんえき引退いんたいNHLフェニックス・コヨーテズ共同きょうどう経営けいえいしゃけんヘッドコーチをつとめる。

おおくのホッケーファンから、アイスホッケーの神様かみさま史上しじょうもっとすぐれたホッケー選手せんしゅしょうされている[2]愛称あいしょうは"ザ・グレート・ワン"("The Great One")[3]

おとうとブレント・グレツキーもNHLで13試合しあい出場しゅつじょうした。またべつおとうとキース・グレツキーはNHLでの出場しゅつじょうはないもののバッファロー・セイバーズからドラフトで指名しめいけている[4]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

幼少ようしょう年期ねんき[編集へんしゅう]

父親ちちおやウォルターの指導しどうもあって幼少ようしょうからアイスホッケーにおける卓越たくえつした才能さいのう開花かいかさせ、6さいときにはもう10さい選手せんしゅじって活躍かつやくするほどであった。また10さいときに、85試合しあい378ゴールの記録きろくのこしており、当時とうじの『トロントテレグラム』の『トロント・サン』)にはグレツキーを紹介しょうかいする記事きじ掲載けいさいされた。14さいで、20さい選手せんしゅとともにプレーしたのち、キャリアアップのために故郷こきょうのブラントフォードをのちにした。このころはじめて代理人だいりにんとの契約けいやくおこなった。

16さいの1年間ねんかんはジュニア選手せんしゅ対象たいしょうとするオンタリオホッケーリーグ所属しょぞくのスーセントマリー・グレイハウンド(Sault Ste. Marie Greyhounds)で活躍かつやくした。このころから、グレツキーは背番号せばんごう99を着用ちゃくようはじめた(この背番号せばんごう99は、のちNHLぜんチームの永久えいきゅう欠番けつばんとなる)。ちなみに、この当時とうじグレツキーはあこがれのゴーディ・ハウにあやかって9ばんのぞんだのだが、すでにチームの同僚どうりょうがつけていたのでコーチのムッツ・マクファーソンのすすめもあり99ばんちついたとされる。

プロりとレイサーズ時代じだい[編集へんしゅう]

1978-1979シーズン、ワールド・ホッケー・アソシエーション(WHA)のすうチームが当時とうじ17さいでNHLとの契約けいやく対象たいしょうがいだった(NHLは20さい以上いじょう)グレツキーの獲得かくとく表明ひょうめいし、争奪そうだつせんすえインディアナポリス・レイサーズ (Indianapolis Racers)と契約けいやくしプロ生活せいかつをスタート。デビュー4せんとなる1978ねん10がつ20日はつかたいエドモントン・オイラーズせんはつゴールをめ、出場しゅつじょう8試合しあいで3ゴールと順調じゅんちょうなスタートったが、当時とうじ深刻しんこく財政難ざいせいなんおちいっていたレイサーズはグレツキーの放出ほうしゅつ決意けつい(そのレイサーズは12月12にちに25試合しあい消化しょうかしたところで存続そんぞく断念だんねん)。

オイラーズ時代じだい[編集へんしゅう]

1978ねん11月2にちにグレツキー2選手せんしゅ契約けいやくはオイラーズのオーナー、 ピーター・ポクリントンがった[5]。オイラーズで72試合しあい出場しゅつじょう、2チーム合計ごうけいで46ゴール、64アシストと活躍かつやくし、WHAの最後さいご新人しんじんおうとなった。

1978-1979シーズン終了しゅうりょうにWHAは閉鎖へいさ、オイラーズをふくむ4チームがNHL加入かにゅうした(ケベック・ノルディクスウィニペグ・ジェッツおよハートフォード・ホエーラーズ)。

1979-1980シーズン、グレツキーは異例いれいの18さいでNHLデビューをかざる。このシーズンでハート記念きねんしょう(リーグ最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅしょう)を受賞じゅしょう以後いご8ねん連続れんぞく)。くわえて最多さいたポイント記録きろく137をマーセル・ディオンかちあった[6][7]。なお、アート・ロス記念きねんしょう(リーグ最多さいたスコアラーしょう)は、ゴールすうおおかったディオンが受賞じゅしょうしたが、グレツキーの出場しゅつじょう試合しあいすうはディオンのそれよりもすくなかった。グレツキーは、前年ぜんねんにプロ経験けいけんがあったためカルダー記念きねんしょう(NHL最優秀さいゆうしゅう新人しんじんしょう)の受賞じゅしょういっした(なお、のちにルール改正かいせいがされ、ティーム・セラニ前年ぜんねんにプロ経験けいけんがあるにもかかわらず、年間ねんかん76ゴールによりこのしょうけることができた。)。

2ねんには、当時とうじのシーズン最多さいたポイント記録きろく164をちたて、アート・ロス記念きねんしょう(レギュラーシーズン得点とくてんおう以後いご7ねん連続れんぞく)を受賞じゅしょう、また、2ねん連続れんぞくでハート記念きねんしょうかがやく。当時とうじのオイラーズは、フォワードにマーク・メシエグレン・アンダーソンヤリ・クリ、ディフェンスにポール・コフィー、ゴーリー(キーパー)にグラント・フューアわか有力ゆうりょく選手せんしゅようし、これらの選手せんしゅをグレツキーがキャプテンとして統率とうそつしていた。

1983ねんにはスタンレー・カップ決勝けっしょう進出しんしゅつしたが、4かい優勝ゆうしょう経験けいけんニューヨーク・アイランダーズまえ惜敗せきはいした。スタジアムの構造こうぞうじょう敗退はいたいしたチームは勝利しょうりチームの控室ひかえしつよことおって帰路きろにつかなければならず、このさいどんちゃんさわぎしているであろうアイランダーズをにするのであろうとおもってこのうえない屈辱くつじょくかんじたという。しかし実際じっさい目撃もくげきしたのはボロボロになりしずまりかえっていたが、どこか満足まんぞくそうなアイランダーズの面々めんめんであり、このことから勝利しょうりにはおおきな犠牲ぎせいともなうことをまなび、よくシーズンで絶対ぜったいにスタンレーカップをにすることをちかったという。

1984ねんりょうチームはふたた決勝けっしょういまみえたが、今度こんどはオイラーズが勝利しょうりしその4年間ねんかんで3優勝ゆうしょう先鞭せんべんをつけた。

NHL所属しょぞく2ねんだけでも、ボビー・オアっていた年間ねんかん最多さいたアシスト記録きろくフィル・エスポジト年間ねんかん最多さいたポイント記録きろく突破とっぱした。1981ねんにはホッケーでもっと重要じゅうようされる50試合しあい50ゴール記録きろく更新こうしんした(従来じゅうらいは、"ロケット"・リシャール (1944-1945) とマイク・ボッシー(1980-1981)が達成たっせいしている。)。この記録きろくは、1981ねん12月30にちにエドモントンのシーズン39せんたいフィラデルフィア・フライヤーズせんにおいて達成たっせいされた(グレツキーはどう試合しあいで5ゴールをげ、試合しあいは7たい5でエドモントンの勝利しょうり)。

1982ねん2がつ24にちには、たいバッファロー・セイバーズでチームの勝利しょうり(6たい3)に貢献こうけんする4ゴールをげ、フィル・エスポジトつシーズン最多さいたゴール76の記録きろく更新こうしん結局けっきょくこのシーズンにおいて80試合しあい92ゴール、212ポイントの記録きろくのこした。

さらに1985-1986シーズンには自己じこ最多さいたポイント記録きろくを215にえるとともに、年間ねんかん最多さいたアシスト163のしん記録きろく以下いか記録きろく」ないし「しん記録きろく」はグレツキーの達成たっせい時点じてん。)をてた。

キングス時代じだい[編集へんしゅう]

1988ねん8がつ9にちにチームメイトのマーティ・マクソーリー (Marty McSorley) 、マイク・クルシェルニスキ(Mike Krushelnyski)らとともに、ロサンゼルス・キングス移籍いせきした。移籍いせき見返みかえりは、選手せんしゅとして ジミー・カーソン (Jimmy Carson) 、マルタン・ジェリナ (Martin Gelinas) 、金銭きんせん(1500まんドル)ならびにキングスの1989、1991、1993さんヵ年かねんのドラフトにおけるだい1じゅん選択せんたくけんであった。このトレードの情報じょうほうつたわると、カナダ国民こくみんおおくが憤慨ふんがいしたため、ある議員ぎいん政府せいふたいしこれをめさせるようにはたらきかけをおこなったり、オイラーズのオーナーであるポクリントン (Pocklington)の人形にんぎょう公衆こうしゅう面前めんぜんかれるなどの騒動そうどうがあった。カナダ国内こくないにはグレツキー自身じしんを「裏切うらぎもの」とみなすものがえ、このトレード以降いこう国内こくないにおけるグレツキー人気にんき凋落ちょうらくしたとする見方みかたもある。

カナダでの反応はんのうたいして、ロサンゼルスでは従来じゅうらいはアイスホッケーに関心かんしんたなかったファンそうこしにつながり、初年度しょねんど観客かんきゃく動員どういんすういちじるしく増加ぞうかさせた。当時とうじロサンゼルス・キングスがホーム試合しあい開催かいさいしたグレート・ウェスタン・フォーラムでは、プレーオフまでのかく試合しあいでチケットのれが頻繁ひんぱんこった。かつてグレツキーが所属しょぞくした強豪きょうごうチームとくらべるとキングスは弱小じゃくしょうされたチームであったが、グレツキーは新生しんせいキングスをリンクの内外ないがいわたって統率とうそつし、スタンレー・カップにおいて前年度ぜんねんど覇者はしゃ古巣ふるすオイラーズにたいし、1しょう3はい逆境ぎゃっきょうから挽回ばんかいして見事みごと4しょう3はい優勝ゆうしょうという衝撃しょうげきてきだい番狂ばんくるわせをえんじた。グレツキーのみなみカリフォルニアへの登場とうじょうは「NHLの版図はんと」をえたと評価ひょうかするきもおおい。カリフォルニアには、3つのNHLチームが所在しょざいすることとなった。

1993ねんのスタンリー・カップ決勝けっしょう進出しんしゅつでピークをむかえた。シリーズ初戦しょせん勝利しょうりしたのちは、モントリオール・カナディアンズに4連敗れんぱいきっした。チームは継続けいぞくてき選手せんしゅやコーチをえたが、1998ねんまでふたたびプレーオフ進出しんしゅつすらはたせず、長期ちょうき低迷ていめいつづいた。

ブルース時代じだい[編集へんしゅう]

1996ねん2がつ27にちに、パトリス・ターディフ (Patrice Tardif) 、ロマン・ボパット (Roman Vopat) 、クレイグ・ジョンソン(Craig Johnson)の3選手せんしゅおよびドラフトの選択せんたくけんとのトレードでセントルイス・ブルース移籍いせきした。31試合しあい(レギュラーシーズンおよびプレイオフもふくむ)に出場しゅつじょうし37得点とくてんげ、地区ちく決勝けっしょうにおいて延長えんちょうせん突入とつにゅうした試合しあいもあったが、大方おおかた期待きたいはんしてチームや点取てんとのブレット・ハルとプレーのりがあわなかった。

レンジャーズ時代じだい[編集へんしゅう]

ニューヨーク・レンジャーズ時代じだい

1996ねん7がつ21にちにフリーエージェントとしてニューヨーク・レンジャース移籍いせきした。

レンジャースで3年間ねんかんプレーし、1997ねん地区ちく決勝けっしょう進出しんしゅつ貢献こうけんしたのち現役げんえき生活せいかつ引退いんたいした。NHL公式こうしきせんにおける最終さいしゅう出場しゅつじょうせんは、1999ねん4がつ16にちにカナダでおこなわれた。また、引退いんたい試合しあい同年どうねん4がつ18にちたいピッツバーグ・ペンギンズせんで、この試合しあい延長えんちょうせん突入とつにゅうしたが2たい1でけにわった。この試合しあいうたわれたカナダ国歌こっかはグレツキーの旅立たびだちをしんで、O Canada, we stand on guard for thee箇所かしょWe're going to miss you Wayne Gretzky(ウェイン・グレツキーがいなくなるとさびしくなるなあ)とうたされた。また、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国歌こっかthe land of the free部分ぶぶんthe land of Wayne Gretzkyうたされた。また、16にち、18にちりょう試合しあいにおけるだい1からだい3までのスター選手せんしゅしょうすべてがグレツキーにあたえられた(ちゅう)。

  • ちゅう)プロホッケーの場合ばあい試合しあい終了しゅうりょうにその試合しあいのベストプレーヤー3にん選出せんしゅつしょうあたえられることがある。

引退いんたい[編集へんしゅう]

2003ねん、グレツキーはエドモントン・オイラーズのNHL加入かにゅう25周年しゅうねん記念きねんいわうため、リンクじょう姿すがたせた。「ヘリテイジ・クラシック(Heritage Classic)」と名付なづけられたこの試合しあいはNHL史上しじょうはつ野外やがい試合しあいであるが、先立さきだっておこなわれたエキシビジョン試合しあいたいモントリオール・カナディアンズ)において、グレツキーはのオイラーズOBとともに出場しゅつじょうした。のちにこの試合しあい模様もようはDVDされている。

代表だいひょうれき[編集へんしゅう]

グレツキーは、日本にっぽん長野ながの開催かいさいされた1998ねん冬季とうきオリンピックに出場しゅつじょうしている。カナダチームにたいする期待きたいたかかったものの、マリオ・ルミュー(1987ねんカナダ・カップにおいてグレツキーと絶妙ぜつみょうのコンビを発揮はっき)やその有力ゆうりょく選手せんしゅ怪我けがによる欠場けつじょうがあり、カナダはフィンランドやぶれて4わった。この結果けっかについては、コーチの守備しゅび選手せんしゅ選択せんたくミスやシュート・アウトにおいてゴーリーのドミニク・ハシェックたいしてグレツキーを登場とうじょうさせなかったことに帰着きちゃくせしめようとするこえもある。

ユタしゅうソルトレイクシティ開催かいさいされた2002ねん冬季とうきオリンピックでは、グレツキーはカナダホッケーチームのそう監督かんとくつとめた。2002ねん2がつ18にち記者きしゃ会見かいけんでは、報道陣ほうどうじんまえでカナダじん代表だいひょうチームにたいする反応はんのう支援しえんすくなさにいらいらして、これをはげしく非難ひなんする発言はつげんおこなった。これについては、かれ選手せんしゅのプレッシャーをはらいのけるために、たんぜんコーチのグレン・セイサー(Glen Sather)のいた文書ぶんしょ借用しゃくようしただけだとの観測かんそくもある。 この大会たいかいでカナダは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくやぶってきんメダルを獲得かくとくした。エドモントン・ウォータールー・マーキュリーズ以来いらいじつに50ねんぶりのきんメダル獲得かくとくであった。

なお、2005ねん世界せかいアイスホッケー選手権せんしゅけん大会たいかい監督かんとく依頼いらいされたが、母親ははおやがんわずらっており、母親ははおや健康けんこう状態じょうたい理由りゆうことわっている。公式こうしきには監督かんとくではないものの決定けっていたいして諮問しもんされる立場たちばにあった。この大会たいかいでカナダは、ぎんメダルを獲得かくとくした。

2010ねんバンクーバーオリンピック開会かいかいしきにて、聖火せいか最終さいしゅうランナーとして登場とうじょうした。開会かいかいしきなま中継ちゅうけいしていたNHKアナウンサー武田たけだ真一しんいちは「グレート・ワン」の表現ひょうげん紹介しょうかいした。

詳細しょうさい情報じょうほう[編集へんしゅう]

通算つうさん成績せいせき[編集へんしゅう]

    レギュラー シーズン   プレイオフ
シーズン チーム リーグ GP G A Pts PIM GP G A Pts PIM
1976-77 ピーターボロ・ペッツ OHA 3 0 3 3 0 -- -- -- -- --
1977-78 スーセントマリー・グレイハウンズ OHA 64 70 112 182 14 -- -- -- -- --
1978-79 インディアナポリス・レイサーズ WHA 8 3 3 6 0 -- -- -- -- --
1978-79 エドモントン・オイラーズ WHA 72 43 61 104 19 13 10 10 20 2
1979-80 エドモントン・オイラーズ NHL 79 51 86 137 21 3 2 1 3 0
1980-81 エドモントン・オイラーズ NHL 80 55 109 164 28 9 7 14 21 4
1981-82 エドモントン・オイラーズ NHL 80 92 120 212 26 5 5 7 12 8
1982-83 エドモントン・オイラーズ NHL 80 71 125 196 59 16 12 26 38 4
1983-84 エドモントン・オイラーズ NHL 74 87 118 205 39 19 13 22 35 12
1984-85 エドモントン・オイラーズ NHL 80 73 135 208 52 18 17 30 47 4
1985-86 エドモントン・オイラーズ NHL 80 52 163 215 46 10 8 11 19 2
1986-87 エドモントン・オイラーズ NHL 79 62 121 183 28 21 5 29 34 6
1987-88 エドモントン・オイラーズ NHL 64 40 109 149 24 19 12 31 43 16
1988-89 ロサンゼルス・キングス NHL 78 54 114 168 26 11 5 17 22 0
1989-90 ロサンゼルス・キングス NHL 73 40 102 142 42 7 3 7 10 0
1990-91 ロサンゼルス・キングス NHL 78 41 122 163 16 12 4 11 15 2
1991-92 ロサンゼルス・キングス NHL 74 31 90 121 34 6 2 5 7 2
1992-93 ロサンゼルス・キングス NHL 45 16 49 65 6 24 15 25 40 4
1993-94 ロサンゼルス・キングス NHL 81 38 92 130 20 -- -- -- -- --
1994-95 ロサンゼルス・キングス NHL 48 11 37 48 6 -- -- -- -- --
1995-96 ロサンゼルス・キングス NHL 62 15 66 81 32 -- -- -- -- --
1995-96 セントルイス・ブルース NHL 18 8 13 21 2 13 2 14 16 0
1996-97 ニューヨーク・レンジャース NHL 82 25 72 97 28 15 10 10 20 2
1997-98 ニューヨーク・レンジャース NHL 82 23 67 90 28 -- -- -- -- --
1998-99 ニューヨーク・レンジャース NHL 70 9 53 62 14 -- -- -- -- --
20 Years 合計ごうけい NHL 1487 894 1963 2857 596 208 122 260 382 68

記録きろくおよ受賞じゅしょうれきとう[編集へんしゅう]

グレツキーは、1999ねん4がつ18にち引退いんたい時点じてんで61個いっこのNHL記録きろく保持ほじしていた(内訳うちわけは、レギュラーシーズン40、プレーオフ15、オールスターせん6)。

いちシーズンにおける記録きろくとしては、ゴールすう (92)、アシストすう (163) およびポイントすう (215)、点取てんと試金石しきんせきとされる50試合しあい50ゴールの最短さいたん到達とうたつ記録きろく(39試合しあい)などをつ。また、プレイオフ通算つうさん記録きろくとしては、ゴールすう (122)、アシストすう (260) およびポイントすう (382) もつ。さらに、レギュラーシーズン通算つうさんでは、ゴールすう (894)、アシストすう (1963) およびポイントすう (2857) を記録きろくしている。かれ生涯しょうがいアシストすうだけをもってしても、NHLの最多さいた獲得かくとくポイント選手せんしゅとなることができたであろう。

ハート記念きねんしょうを9(うち81980ねんから1987ねんまで連続れんぞく受賞じゅしょうしている。ちなみに、グレツキーは北米ほくべい地区ちくにおけるプロスポーツかい最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅしょうもっとおお受賞じゅしょうした選手せんしゅである。また、アート・ロス記念きねんしょう(リーグ最多さいたスコアラー)を10(うち71981ねんから1987ねんまで連続れんぞく)、コーン・スマイスしょうを2、レスター・B・ピアソンしょう選手せんしゅえら優秀ゆうしゅう選手せんしゅしょう)を5、レディ・ビング記念きねんしょう(フェアプレー)を5それぞれ受賞じゅしょうしている。

また、オールスターせんにおける最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅしょうも3獲得かくとくしている(最多さいた受賞じゅしょうタイ記録たいきろく)。オールスターせんにおいては、ファーストチームのセンターを8、セカンドチームのセンターを7つとめる栄誉えいよあたえられており、これらの合計ごうけい回数かいすうおよびオールスター出場しゅつじょう回数かいすう (18) は、ゴーディ・ハウおよレイ・ボークぐ。

1982ねん、グレツキーはホッケー選手せんしゅ、そしてカナダじんとしてははじめてAPしゃ主催しゅさい年間ねんかん最優秀さいゆうしゅう男性だんせい運動うんどう選手せんしゅ (Associated Press Male Athlete of the Year) に選出せんしゅつされた。また、同年どうねん雑誌ざっし『スポーツ・イラストレーテッド』からは、スポーツマン・オブ・ザ・イヤーを受賞じゅしょう1990ねんには、APしゃから10年間ねんかん最優秀さいゆうしゅう男性だんせい運動うんどう選手せんしゅ (Male Athlete of the Decade) にえらばれた。

1984ねん6月25にちには、エドモントン・オイラーズ時代じだいにおけるアイスホッケーにたいする顕著けんちょ貢献こうけんとなえられ、カナダ最高さいこう勲章くんしょうであるオーダー・オブ・カナダ受章じゅしょうした。ただし、授章じゅしょう式典しきてんはNHLのシーズン期間きかんちゅうおこなわれる慣例かんれいであるため、実際じっさい受勲じゅくんするのはこの13ねん7ヵ月かげつとなった(このあいだカナダ総督そうとく2人ふたり交代こうたいしていた)。

1999ねん11月22にちに、3年間ねんかん待機たいき期間きかんたずして特例とくれいホッケーの殿堂でんどうりをはたす。このときNHLは、この特例とくれい適用てきようされる選手せんしゅはおそらく今後こんご登場とうじょうしないであろうとの声明せいめい発表はっぴょうした。また、この殿堂でんどうりのいたるまでのかれ心情しんじょうつづった日誌にっしはカナダちゅう新聞しんぶん共同きょうどう配信はいしんされた。さらにかれのユニフォームの背番号せばんごう99ばんぜんNHLチームの永久えいきゅう欠番けつばんとすることも同時どうじ発表はっぴょうされた。

1999ねんには、ESPN が選出せんしゅつする「20世紀せいき最高さいこう運動うんどう選手せんしゅ」のだい5つらねた。このとき、グレツキーの上位じょういえらばれたのは、マイケル・ジョーダンベーブ・ルースモハメド・アリジム・ブラウンであった。

驚異きょういてき記録きろく事実じじつ[編集へんしゅう]

  • 年間ねんかん50ゴールをげた最年少さいねんしょう選手せんしゅ
  • マーセル・ディオンの現役げんえき時代じだい年間ねんかん最多さいたポイントは137であるが、グレツキーはNHL参加さんか初年度しょねんどでこの記録きろくならび、その10シーズンにわたってこれを下回したまわることがなかった。(1991-1992シーズンにはおよばず121)
  • 当時とうじはルーキーとはみなされなかったが、参加さんか初年度しょねんどいち試合しあい8ポイントおよび7アシストをげたのはしん記録きろく
  • ボビー・オアはNHL 史上しじょう最高さいこうのプレーヤーの一人ひとりかぞえることができるが、グレツキーは2ねんにボビーの年間ねんかんアシスト記録きろく102を上回うわまわる109を樹立じゅりつし、その1991-1992シーズンにいたるまで102を下回したまわることがなかった。
  • シーズン2ねんにはスーパースターとしょうされたフィル・エスポジト年間ねんかん最多さいたポイント152をやぶる164を記録きろく。さらにNHLの近代きんだい以降いこういち試合しあい平均へいきん2ポイントを記録きろくした史上しじょうはつ選手せんしゅである。
  • シーズン3ねんには当時とうじやぶるのが不可能ふかのうかんがえられていた記録きろく数々かずかず、すなわち39試合しあいで50ゴール、エスポジトの年間ねんかん76ゴール、年間ねんかん200ポイントの大台おおだいなどをことごとく突破とっぱした。(このシーズンは、212ポイント、92ゴール、120アシストの成績せいせき
  • 212ポイントをげた前年ぜんねん比較ひかくして4ねんの1982-1983シーズンは、196ポイントにわったが、それでも125アシストのしん記録きろく樹立じゅりつした。
  • グレツキーは、唯一ゆいいつ年間ねんかん200ポイントを達成たっせいした選手せんしゅであるが、かれは、この記録きろくを1981-1982シーズンから1985-1986シーズンの5年間ねんかんに4達成たっせいしている。
  • 5ねんの1983-1984シーズンは、51試合しあい連続れんぞくポイントを記録きろく。このあいだ、61ゴール、92アシスト、153ポイントをげ、これはじついち試合しあい平均へいきんすれば3ポイントにたる。なおこの期間きかんのほとんどをかた脱臼だっきゅうした状態じょうたい出場しゅつじょうしていたことは驚嘆きょうたんあたいする。この記録きろく途絶とだえたのちは、かた治療ちりょうのため6試合しあい休場きゅうじょうしている。
  • 50試合しあい以下いかでの50ゴール到達とうたつ現役げんえきに3記録きろく。(なおブレット・ハル (Brett Hull) は2達成たっせい
  • シーズンをつういち試合しあい平均へいきん2アシストを達成たっせいしたのは、1985-1986シーズンのグレツキーのみ。この期間きかん80試合しあいで163アシスト(いち試合しあい平均へいきん2以上いじょうのアシスト)をおこないながら、かつみずから52ゴールもげた。
  • 1989ねんは、ゴーディ・ハウのもつ現役げんえき最多さいたポイントの記録きろく(26年間ねんかんで1850ポイント)をわずか10年間ねんかん更新こうしん。グレツキーは10年間ねんかんわたって年間ねんかん平均へいきん180ポイント以上いじょうつづけた。この平均へいきんポイントは、マリオ・ルミュー (Mario Lemieux) をのぞほか選手せんしゅ年間ねんかん自己じこベストを上回うわまわる。(ルミューの自己じこベストは199ポイント)
  • かりにグレツキーのげたすべてのゴールを除外じょがいしたとしても、最多さいたスコアラーとしてアート・ロス記念きねんしょうを4獲得かくとくできただろうし、現役げんえき最多さいたポイントをも獲得かくとくできたであろう。というのも、かれの1963アシスト記録きろくは、ゴーディ・ハウの1850ポイントやマーク・メシエの1887ポイントをも上回うわまわるからである。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

王室おうしつみの結婚式けっこんしき[編集へんしゅう]

1984ねんにグレツキーは、ショー『ダンス・フィーバー(Dance Fever)』の審査しんさいんとして出演しゅつえんしたときにアメリカじん女優じょゆうでダンサーのジャネット・ジョーンズとった。しかし、1987ねんまではいははじめていなかった。

1988ねん7がつ17にちアルバータしゅうエドモントンのセント・ジョセフ聖堂せいどうでの結婚式けっこんしきは、マスコミによって「王室おうしつ結婚式けっこんしき(The Royal Wedding)」と喧伝けんでんされ、カナダ国内こくないにその映像えいぞうなま放送ほうそうされた。エドモントンの消防署しょうぼうしょいん警備けいびいんとして聖堂せいどう階段かいだんった。また、結婚式けっこんしき費用ひようゆうに100まんドルをえるとされ、新婦しんぷジャネットの衣装いしょうだけでも4まんドルかったとつたえられる。その夫妻ふさいは5にん子供こども(Paulina, Ty, Trevor, Tristan, Emma)をもうけている。そのアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく帰化きかし、じゅう国籍こくせきとなっている[1]

リンクがいでの活動かつどう[編集へんしゅう]

エドモントンなどでは、ソフトドリンク、ジーパンから壁紙かべがみまくらカバー、シリアル、チョコバーや人形にんぎょういたるまでグレツキーのかおであふれている。また、レンタカー会社かいしゃ自動車じどうしゃ会社かいしゃ清涼飲料水せいりょういんりょうすい、ファーストフード、スープ、運動うんどう用具ようぐ保険ほけん会社かいしゃ医薬品いやくひん金融きんゆう機関きかんおよ家電かでんメーカーなどの広告こうこくにも登場とうじょうしている。

Mike Leonetti のいた児童じどうよう物語ものがたり『Gretzky's Game』(ISBN 1-55192-851-5)では、アイスホッケーきな主人公しゅじんこう少年しょうねんのアイドルとしてグレツキーがえがかれている。

テレビでは1989ねんに『サタデー・ナイト・ライブ』のホストをつとめた。また1992ねん漫画まんが番組ばんぐみ『プロスター』やコンピューター・ゲームなどに肖像しょうぞう提供ていきょうしている。雑誌ざっしでは1997ねんに『Cigar Aficionado』の表紙ひょうしつまとともにかざっている。また、1998ねん男性だんせいけファッション事業じぎょうはじめるとともに、電話でんわカード会社かいしゃともライセンス契約けいやくむすんだ。さらに、レストラン、スポーツ用具ようぐてん所有しょゆうするほか、ローラー・ホッケーリンクのチェーンを共同きょうどう経営けいえいしている。

引退いんたいは、みなみカリフォルニアの Power Automotive Group や Tylenol Arthritis Formula のスポークスマンともなっている。雑誌ざっしフォーブズ』の推計すいけいによれば、1990ねんから1998ねんまででホッケーおよ広告こうこくなどにより9380まんドルをかせいだとされている。

現役げんえき時代じだいから馬主ばしゅとして競走きょうそう所有しょゆうしていた。1991ねんジャパンカップゴールデンフェザントは、勝利しょうり時点じてんではグレツキーが共同きょうどう馬主ばしゅ一人ひとりであったが、レース翌日よくじつ社台やしろだいファーム売却ばいきゃくしている。

2000ねんに、NHLのフェニックス・コヨーテズ の Alternate Governor および Managing Partnerに就任しゅうにん。グレツキーは、チームの出資しゅっしの17%を保有ほゆうしている。

2004ねんには、CBC のアンケート投票とうひょうにより「もっと偉大いだいなカナダじんベスト10」の一人ひとり選出せんしゅつされた。

また「グレツキー」の名称めいしょうは、コーヒーチェーン「ティムホートンズ」の伝説でんせつてきなコーヒー(かれ背番号せばんごうにちなんで、ミルクと砂糖さとうを9つずつくわえたもの)の愛称あいしょうともなっている。

野球やきゅうマニアとして[編集へんしゅう]

無類むるい野球やきゅうきで、アイスホッケーだけでなく陸上りくじょう競技きょうぎ野球やきゅうでも注目ちゅうもくされていた。子供こどもころのグレツキーはアイスホッケーよりも野球やきゅうをやりたがっていた[8]カナダ放送ほうそう協会きょうかい(カナダの公共こうきょう放送ほうそう)の取材しゅざいをうけた少年しょうねん時代じだいには、記者きしゃからの「将来しょうらいはプロのホッケー選手せんしゅになりたい?」という質問しつもんたいして「うん。それか野球やきゅう選手せんしゅのどっちかになりたい。」とこたえている[9]

2008ねんの9がつにフェニックス・コヨーテズのホームアリーナでけたインタビューにあっては、さっそく『グレートワン』とんできた記者きしゃらにたいしてつぎのようなことをっている。『諸君しょくん本当ほんとうのグレートワンは3000安打あんだイチローだよ。わたしだい野球やきゅうファンなんだ。できたら、イチローにわせてくれないか?』[10]

野球やきゅうカード収集しゅうしゅうしており、現存げんそんするもっと価値かちのある野球やきゅうカードである「T206ホーナス・ワグナー」のぜん保持ほじしゃで、競売きょうばいにかけたところ235まんドル(やく2おく8,000まんえん)で落札らくさつされている。現在げんざい息子むすこ野球やきゅうをやっており、子供こども野球やきゅうチームのコーチもしている。

家族かぞく[編集へんしゅう]

息子むすこのトレバー・グレツキーはもとプロ野球やきゅう選手せんしゅで、2011ねんMLBドラフト7じゅんシカゴ・カブスから指名しめいけている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b Treble, Patricia (2018ねん11月13にち). “Why won't Wayne Gretzky pick up his Order of Canada?”. Maclean's. 2022ねん2がつ11にち閲覧えつらん
  2. ^ 時事じじドットコムぎわ美学びがく
  3. ^ Falla, Jack (2000). “Wayne Gretzky: Greatness Ascendant”. In Dan Diamond. Total Hockey: The Official Encyclopedia of the National Hockey League. Total Sports. ISBN 9781892129857. http://www.nhl.com/hockeyu/history/gretzky/greatnessascendant.html 2008ねん4がつ15にち閲覧えつらん 
  4. ^ Right Name, Wrong Genes: The Top 50 Less Talented Relatives of Superstars”. bleacherreport.com (2010ねん9がつ7にち). 2012ねん3がつ25にち閲覧えつらん
  5. ^ Gretzky sold to Oilers in move to save Racers 当時とうじ新聞しんぶん記事きじ
  6. ^ Hart Memorial Trophy Winners”. ホッケーの殿堂でんどう. 2008ねん4がつ10日とおか閲覧えつらん
  7. ^ Matheson, Jim (1980ねん11月1にち). “Gretzky is a bargain”. The Sporting News. http://www.sportingnews.com/archives/gretzky/bargain.html 2008ねん4がつ10日とおか閲覧えつらん 
  8. ^ HOCKEY; Gretzky Takes the Kings To Their First Cup Final ニューヨーク・タイムズ 英語えいご
  9. ^ The Greatest Canadians from the CBC Archives CBC 英語えいご
  10. ^ USAスポーツ狂騒きょうそうきょく アメリカは今日きょうもステロイドをつ』 P.115 町山まちやま智浩ともひろ ISBN 9784087805161

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]