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オプチカル・プリンター

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
映画えいが特殊とくしゅ効果こうか処理しょり使つかわれる、2つのプロジェクターをそなえたオプチカル・プリンター。左端ひだりはしにあるランプハウスが光源こうげん。A:だい1プロジェクターのフィルムゲート B:だい2プロジェクターのフィルムゲート(C)にAの映像えいぞう投影とうえいするレンズ D:撮影さつえいレンズ E:カメラのファインダー F:シャッター・コントロール もとだいGで装置そうちすべての電子でんし制御せいぎょおこなう

オプチカル・プリンター(Optical printer)は、映画えいがフィルムの編集へんしゅう装置そうちで、現像げんぞうみの映写えいしゃフィルムをべつのフィルムに光学こうがくてきける(光学こうがく合成ごうせい、オプチカル合成ごうせい)ためにもちいるもの。

概要がいよう[編集へんしゅう]

映画えいが撮影さつえい接続せつぞくする、1だい以上いじょう小型こがた映写機えいしゃきからなる。修正しゅうせいふるいフィルムのコピー、そして特殊とくしゅ効果こうかもちいられる。特殊とくしゅ効果こうかには画面がめん徐々じょじょあかるくなるフェードインぎゃく段々だんだんくらくなるフェードアウト画面がめん徐々じょじょべつ画面がめんへとうつわるディゾルブクロスフェードとも)・スローモーション・クイックモーション・マット合成ごうせいなどがふくまれる。複雑ふくざつ処理しょり場合ばあい複数ふくすう特殊とくしゅ効果こうかを1ショットにふくめることもできる。

経済けいざいてき理由りゆうから、使用しようする場合ばあいでも通常つうじょう映像えいぞう作品さくひんでは、「特殊とくしゅ効果こうかくわえるカット」だけがオプチカル・プリンターにかけられた。特殊とくしゅ効果こうかくわえるカットは「ネガ編集へんしゅう」の段階だんかいで「オプチカルし」とばれるカットとしてされ、合成ごうせいされてもどってきたネガフィルムが、合成ごうせいされていないネガフィルムとつなげられた。そのため、オプチカル合成ごうせいおこなったカットとおこなっていないカットとは世代せだいことなり、あきらかに見栄みばえがことなる(この落差らくさはプロがなければわからない程度ていどのものから素人しろうとてもわかるくらいにおおきながあるものまで、作品さくひんによってさまざまにことなる)。この見栄みばえのかく技術ぎじゅつは、ネガ編集へんしゅうやオプチカル・プリンターを担当たんとうするスタッフの職人しょくにんわざ発揮はっきされる部分ぶぶんでもあった。

歴史れきし[編集へんしゅう]

もっと単純たんじゅん構造こうぞうのオプチカル・プリンターは1920年代ねんだいはじめに開発かいはつされた。その、1930ねんにリンウッド・ダンによる改良かいりょうくわえられ、1980年代ねんだいにはコンピュータ制御せいぎょそなえたものがあらわれた。

しかし1980年代ねんだいわりにデジタル処理しょりによる特殊とくしゅ効果こうか使つかわれはじめ、1990年代ねんだいなか以降いこうは、完全かんぜんにデジタル処理しょり主流しゅりゅううつわった。それ以降いこう、オプチカル・プリンターは商業しょうぎょう作品さくひん使つかわれることはまれで、フィルム撮影さつえいおこなう一部いちぶ映像えいぞう作家さっか使つかわれるのみとなった。

1992ねん公開こうかいの『永遠えいえんうつくしく…』がILMがオプチカル・プリンターを使つかった最後さいご作品さくひんである。

円谷つぶらやのオプチカル・プリンター導入どうにゅう[編集へんしゅう]

1937ねん昭和しょうわ12ねん)に東宝とうほうの「特殊とくしゅ技術ぎじゅつ」へとむかえられた円谷つぶらや英二えいじは、手動しゅどうしき国産こくさんみずか設計せっけいすることで、どう合成ごうせい技術ぎじゅつ向上こうじょう目指めざしていた。東宝とうほうでも、『ゴジラ』を合成ごうせい技術ぎじゅつさらなる向上こうじょう目指めざしていた円谷つぶらや意欲いよくこたえるべく[注釈ちゅうしゃく 1]1963ねん昭和しょうわ38ねん)の6がつにはアメリカにて開発かいはつみの、オックスベリー(Oxberry)しゃせいスリーヘッド方式ほうしきオプチカル・プリンター1900シリーズを『マタンゴ』の撮影さつえいよう購入こうにゅうした[2][1][注釈ちゅうしゃく 2]設置せっちはアメリカからおもむいた同社どうしゃ社員しゃいんが1ヶ月かげつかけてったが、日米にちべいでの気候きこうちがいから当時とうじ絶縁ぜつえんたいとしてもちいていた蜜蝋みつろうけてしまったため、別途べっと絶縁ぜつえんたい用意よういすることとなった[3][注釈ちゅうしゃく 3]

円谷つぶらやは、スリーヘッド方式ほうしき性能せいのうでも満足まんぞくしなかった。みずか主宰しゅさいする円谷つぶらや特技とくぎプロダクションに、フジテレビTBSからそれぞれ、円谷つぶらやすぐれた特殊とくしゅ技術ぎじゅつかしたしん番組ばんぐみ企画きかく発注はっちゅうがあったことをり、オックスベリーしゃあらたに開発かいはつされたフォーヘッド方式ほうしきオプチカル・プリンター1200シリーズの購入こうにゅう決断けつだんした。だが当時とうじ世界中せかいじゅうに2だいしか存在そんざいしなかった1200シリーズの価格かかくは11まんドルで、当時とうじレート換算かんさんすると4000まんえんという高額こうがく機材きざいだったことから[注釈ちゅうしゃく 4]円谷つぶらや手付てつきんの500まんえん工面くめんすべく、円谷つぶらや特技とくぎプロダクションを東宝とうほう傘下さんか会社かいしゃにすることで、資金しきんめんでの安定あんていはかろうとした。円谷つぶらやはフジテレビで企画きかくちゅうだったしん番組ばんぐみWoo』の制作せいさく予算よさんまわすことで一時いちじてきにしろ1200シリーズの購入こうにゅう代金だいきんえようと計画けいかくした。しかし『Woo』が中止ちゅうしとなり不可能ふかのうとなった。ふね輸送ゆそう途上とじょう現物げんぶつをキャンセルするわけにもいかず、TBSの敏腕びんわんディレクターで円谷つぶらや長男ちょうなんでもある円谷つぶらやはじめ仲介ちゅうかいで、TBSがわって1200シリーズを購入こうにゅうし、同局どうきょくのために円谷つぶらや特技とくぎプロダクションがオプチカル合成ごうせい技術ぎじゅつもちいた特撮とくさつ番組ばんぐみ制作せいさくするという契約けいやくむすばれ、機材きざいあそばせないためにまだ検討けんとう段階だんかいにあった『UNBALANCE』の制作せいさく決定けってい、タイトルはのちに『ウルトラQ』にあらためられ1966ねんから放送ほうそう開始かいし人気にんきはくした。また機材きざいの「ウルトラシリーズ」でも使用しようされることとなった。このプリンターはその、TBS局内きょくないにあった「TBS現像げんぞうしょ」(通称つうしょう:TBSラボ)でながあいだ使用しようされ、映画えいが、CMとう活躍かつやくした。

当時とうじ円谷つぶらやプロの購入こうにゅう騒動そうどう刺激しげきされてか、オックスベリーしゃせいのオプチカル・プリンターはその東映化学工業とうえいかがくこうぎょう東洋とうよう現像げんぞうしょ[4]などの大手おおて現像げんぞうしょや、日本にっぽんエフェクトセンターといった合成ごうせい専門せんもん会社かいしゃ相次あいついで設置せっちされることになった。ちなみに業界ぎょうかいないでもこう品質ひんしつ合成ごうせいカットでられていたデン・フィルム・エフェクト社内しゃないでは、線画せんがだい使つかった作画さくが合成ごうせいようマスクの作成さくせいせんもんであり、仕上しあげのオプチカル撮影さつえい日本にっぽんエフェクトセンターへと一任いちにんされていた[5]

エリアルイメージ合成ごうせい[編集へんしゅう]

東宝とうほう特殊とくしゅ技術ぎじゅつ円谷つぶらやプロがオックスベリーしゃせいのオプチカル・プリンターを購入こうにゅうする以前いぜん、あるいは以後いご映像えいぞう業界ぎょうかいでも、エリアルイメージ合成ごうせい[6]ばれるオプチカル・プリンターの一種いっしゅが、各社かくしゃ重宝ちょうほうされていた。

これは、機材きざい付属ふぞくしている線画せんがだいにて作成さくせいしたマスクをデュープ映像えいぞう素材そざい合致がっちさせて、現像げんぞうしょ納入のうにゅうすれば翌日よくじつには合成ごうせいカットが完成かんせいする仕組しくみである。構造こうぞう自体じたいきわめて単純たんじゅんながら、合成ごうせい必要ひつような「マスク」と「めすマスク」の現像げんぞう工程こうてい省略しょうりゃくして即座そくざにデュープ処理しょりできるのが最大さいだい利点りてんである。オックスベリーしゃせいのオプチカル・プリンターだと、作成さくせいしたマスクをパンクロマチック・フィルムで撮影さつえい現像げんぞう工程こうていほどこしたうえで、翌日よくじつのデュープ映像えいぞう素材そざい合致がっちさせて、といった具合ぐあい日数にっすうてきなロスが必要ひつようなのにたいし、はや仕上しあがることから、整備せいびめんふくめたコストパフォーマンスたかさは劇場げきじょう映画えいがよりも、むしろテレビシリーズ作品さくひん撮影さつえいスケジュールにいていた。テレビでの具体ぐたいてき使用しようれいとして、むしプロ商事しょうじ制作せいさくした『バンパイヤ』(1968-69ねん放送ほうそう)がげられる。どうさくでは同機どうき使用しようすることで、実写じっしゃ映像えいぞうとセルアニメーションの合成ごうせい多用たようすることがきわめて容易よういとなった。

1956ねん松竹しょうちくけい公開こうかいされたイヴ・シャンピ監督かんとくにちふつ合作がっさく映画えいがわすれえぬ慕情ぼじょう』で日本にっぽん映画えいが技術ぎじゅつしょう特殊とくしゅ技術ぎじゅつ部門ぶもん受賞じゅしょうした川上かわかみけいは、松竹しょうちく特殊とくしゅ技術ぎじゅつそなえられていたエリアルイメージ合成ごうせい存分ぞんぶん使つかっている。

川上かわかみ弟子でしだった矢島やじま信男のぶおは、どう縮小しゅくしょうから不要ふようとなった同機どうき手土産てみやげに、1959ねんには創設そうせつされたばかりの東映とうえい特殊とくしゅ技術ぎじゅつへと移籍いせきした。矢島やじま合成ごうせい同社どうしゃ劇場げきじょう映画えいがやテレビシリーズ作品さくひん数々かずかずにてフル回転かいてんすることになる。その東映とうえい1966ねんの『だい忍術にんじゅつ映画えいがワタリ』の撮影さつえいようにオックスベリーしゃせいオプチカル・プリンターを購入こうにゅう系列けいれつ会社かいしゃ東映化学工業とうえいかがくこうぎょう設置せっちされた。これによって、矢島やじま合成ごうせいはおやく御免ごめんとなった。

同機どうきは、その特殊とくしゅ技術ぎじゅつ縮小しゅくしょうともなって独立どくりつした、合成ごうせい技師ぎし山田やまだたかしへと譲渡じょうとされる。元々もともとは35ミリようだったが、山田やまだはそれを16じゅうろくミリよう改造かいぞうした。そして、これを主力しゅりょくに「山田やまだ合成ごうせい」という16じゅうろくミリ合成ごうせいせんもん会社かいしゃ設立せつりつ1977ねんに「チャンネル16」へと社名しゃめい変更へんこうする。

「チャンネル16」による16じゅうろくミリ合成ごうせいは、16じゅうろくミリフィルムに片側かたがわしかパーフォレーションがないことから、移動いどうマスクやわせ合成ごうせいは、合成ごうせいした画面がめんがそれぞれ微妙びみょうにゆれてしまうという問題もんだいてんがあった。もっとも、このてんも80年代ねんだい後半こうはんからは大幅おおはば改善かいぜんされ、テレビの画面がめん肉眼にくがんるうえでは、ほとんど画面がめんれがわからないほど微細びさいなものにまでなっていた。

光線こうせん稲光いなびかりなど線画せんが合成ごうせい完成かんせい年々ねんねんたかくなっていき、80年代ねんだい後半こうはん以降いこうは35ミリフィルムによる線画せんが合成ごうせい匹敵ひってきするクオリティがあった。とくにテレビ作品さくひん場合ばあい円谷つぶらやプロでは合成ごうせいカットのみ35ミリフィルムを使用しようしていたが、それによって16じゅうろくミリで撮影さつえいしたほかのカットとのフィルムの色調しきちょう変化へんかいちじるしい場合ばあいもあった。しかし「チャンネル16」による80年代ねんだい後半こうはん以降いこう線画せんが合成ごうせい元々もともと16じゅうろくミリフィルムを使つかっているため色調しきちょう変化へんかがなく、そのてんでは35ミリによる合成ごうせいよりすぐれていたといえる。

山奥やまおくなどのロケに35ミリようカメラをはこ労力ろうりょくはぶけたことで、屋外おくがいでの火薬かやく効果こうかワイヤーアクション多用たようした手持ても撮影さつえいでも、オプチカル合成ごうせいのカットすうやすことが可能かのうになった。その手軽てがるさのため、『ちょう電子でんしバイオマン』(1984-85ねん放送ほうそう以降いこう作品さくひんでは、光線こうせんわざなどのオプチカル合成ごうせい乱発らんぱつして予算よさんなんひゃくまん超過ちょうかするなど想定そうていがい副作用ふくさようまねくことがあったと、東映とうえい鈴木すずき武幸たけゆきプロデューサー当時とうじ苦労くろうばなしべていた。

「チャンネル16」のスタッフは「映画えいが工房こうぼう」をて「日本にっぽん映像えいぞうクリエイティブ」に吸収きゅうしゅうさい編成へんせいされた[6]デジタル合成ごうせい主流しゅりゅうとなった2000ねんにも、同社どうしゃ担当たんとうの『未来みらい戦隊せんたいタイムレンジャー』(2000-01ねん放送ほうそう)では、16じゅうろくミリ仕様しようのエリアルイメージ合成ごうせいもちいた、むかしながらのオプチカル合成ごうせい使つかわれつづけていた。

2001ねん、『百獣ひゃくじゅう戦隊せんたいガオレンジャー』のだい6最後さいごに、同社どうしゃデジタル合成ごうせいせんもん体制たいせいへと移行いこうした[6]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 光学こうがく作画さくがスタッフの飯塚いいづか江津子えつこによれば、円谷つぶらやは『そらだい怪獣かいじゅう ラドン』(1956ねん)のわりごろからオックスベリーの導入どうにゅう要望ようぼうしていたという[1]
  2. ^ 光学こうがく作画さくが飯塚いいづか定雄さだおによれば、当時とうじ価格かかくは1おくえんであった[3]
  3. ^ 飯塚いいづかは、東宝とうほう実験じっけんだいにされたと述懐じゅっかいしている[3]
  4. ^ 光学こうがく撮影さつえい宮西みやにし武史たけしは、6せんまんえんべている[1]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 東宝とうほうゴジラかい 2010, p. 183, 「だいしょう 円谷つぶらやぐみスタッフインタビュー INTERVIEW13 黒川くろかわひろしどおり小野寺おのでらひろし飯塚いいづか江津子えつこ宮西みやにし武史たけし
  2. ^ 東宝とうほう特撮とくさつ映画えいがぜん 1983, p. 253, 「東宝とうほう特撮とくさつ映画えいが作品さくひん マタンゴ」
  3. ^ a b c 東宝とうほうゴジラかい 2010, pp. 101–102, 「だいしょう 円谷つぶらやぐみスタッフインタビュー INTERVIEW7 飯塚いいづか定雄さだお
  4. ^ GAMERA THEBOX 1965-1980 DVD-BOX付録ふろく冊子さっし湯浅ゆあさ憲明のりあきインタビュー)
  5. ^ 季刊きかん 宇宙船うちゅうせん vol.2 特集とくしゅう記事きじ(デン・フィルムエフェクトの世界せかい
  6. ^ a b c 「スーパー戦隊せんたい制作せいさくうら舞台ぶたい おきみつる」『スーパー戦隊せんたい Official Mook 21世紀せいき vol.12 特命とくめい戦隊せんたいゴーバスターズ講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃシリーズMOOK〉、2017ねん7がつ25にち、33ぺーじISBN 978-4-06-509523-2 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • ウルトラQ伝説でんせつ -日本にっぽんはつ空想くうそう特撮とくさつシリーズの最終さいしゅう資料しりょう-
    著者ちょしゃ:ヤマダ マサミ、発行はっこう:アスペクトしゃ(1998/03) ISBN 4-7572-0052-8
  • 東宝とうほう特撮とくさつ映画えいがぜん監修かんしゅう 田中たなか友幸ともゆき東宝とうほう出版しゅっぱん事業じぎょうしつ、1983ねん12がつ10日とおかISBN 4-924609-00-5 
  • 巨大きょだい特撮とくさつだい全集ぜんしゅう
    発行はっこう講談社こうだんしゃ
  • パーフェクトマニュアル1 ちょう電子でんしバイオマン
    発行はっこう徳間書店とくましょてん
  • DVDだい忍術にんじゅつ映画えいがワタリ 解説かいせつしょ
  • スパイダーマン 東映とうえいTVシリーズDVD-BOX付録ふろく冊子さっし 「スパイダーマンだい検証けんしょう」(16じゅうろくミリ合成ごうせい世界せかい
    発売はつばい東映とうえいビデオ株式会社かぶしきがいしゃ
  • 円谷つぶらやいち ウルトラQと“テレビ映画えいが”の時代じだい
    著者ちょしゃ白石しらいし雅彦まさひこ発行はっこう双葉社ふたばしゃ
  • 東宝とうほうゴジラかい特撮とくさつ 円谷えんだにぐみ ゴジラと東宝とうほう特撮とくさつにかけた青春せいしゅんよういずみしゃ、2010ねん10がつ9にちISBN 978-4-86248-622-6