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ギュスタヴ・ガリグー

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ギュスタヴ・ガリグー

ギュスタヴ・ガリグー(Gustave Garrigou、1884ねん9月24にち - 1963ねん1がつ28にち)は、フランスアヴェロンけんヴァブル=ティザック出身しゅっしん自転車じてんしゃ競技きょうぎ選手せんしゅ

来歴らいれき[編集へんしゅう]

1907ねんにプロロードレース選手せんしゅとしての活動かつどう開始かいし同年どうねんツール・ド・フランスにも出場しゅつじょうたしたが、1914ねん引退いんたいするまで、8ねん連続れんぞくどうレースに出場しゅつじょう下記かきしめとおり、すべ総合そうごう5以内いない成績せいせきおさめた。

1911ねんツール・ド・フランスでは、だい4ステージ以降いこう総合そうごう首位しゅいをキープしていたが、同胞どうほうポール・デュボック中盤ちゅうばんだい8ステージ以降いこう猛追もうついする展開てんかいとなった。ところが、ピレネー山脈さんみゃくえステージとなっただい10ステージにおいて、ガリグーが区間くかん優勝ゆうしょうモリス・ブロッコに34ふんの2でゴールしたのにたいし、デュボックはピレネー山中さんちゅう突然とつぜん激痛げきつうおそわれたことが原因げんいんで、3あいだ47ふんの21くずれた。レース、デュボックの給水きゅうすいボトルから毒物どくぶつつかったが、これはガリグーが指示しじしたというはなしが、デュブロックのサポーターからはっせられたことが要因よういんとなり、よくだい11ステージでは、沿道えんどう観客かんきゃくがガリグーにたい非難ひなん罵声ばせいびせつづけ、ルーアンにおいて、そのボルテージは最高潮さいこうちょうたっしたことから、レースディレクターのアンリ・デグランジュ急遽きゅうきょ自動車じどうしゃ3だい用意よういして、コースと沿道えんどう隔離かくりさせた。

結局けっきょく上述じょうじゅつ毒物どくぶつ混入こんにゅうについては、デュボックのライバルチームのスタッフの単独たんどく犯行はんこうであることが判明はんめい。このことが影響えいきょうして、デュボックはだい8ステージ以降いこう区間くかん4しょうたしたものの、ガリグーに18ポイントおよばず総合そうごう2となり、ガリグーが出場しゅつじょう5かいにしてはつ総合そうごう優勝ゆうしょうたした。

ガリグーはぜん出場しゅつじょうレースちゅう96かい、10以内いないはいったが、うち65かいは5以内いない記録きろくするという、安定あんていした戦績せんせきおさめた。1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつ影響えいきょうにより、現役げんえき引退いんたいした。

主要しゅよう実績じっせき[編集へんしゅう]

ツール・ド・フランス[編集へんしゅう]

1907ねん - 総合そうごう2区間くかん2しょう
1908ねん - 総合そうごう4
1909ねん - 総合そうごう2
1910ねん - 総合そうごう3
1911ねん - 総合そうごう優勝ゆうしょう区間くかん2しょう)。
1912ねん - 総合そうごう3
1913ねん - 総合そうごう2区間くかん1しょう
1914ねん - 総合そうごう5区間くかん1しょう

その優勝ゆうしょう実績じっせき[編集へんしゅう]

ジロ・ディ・ロンバルディア (1907)
パリ〜ブリュッセル (1907)
ミラノ〜サンレモ (1911)

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]