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ジーノ・バルタリ

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ジーノ・バルタリ
Gino Bartali
中央ちゅうおうがバルタリ、みぎにコッピ 40~43ねん
基本きほん情報じょうほう
生年月日せいねんがっぴ (1914-07-18) 1914ねん7がつ18にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2000-05-05) 2000ねん5月5にち(85さいぼつ
国籍こくせき イタリアの旗 イタリア
死没しぼつ Florence, Italy
選手せんしゅ情報じょうほう
アマチュア経歴けいれき
1931–1934 -
プロ経歴けいれき
1935–1954

35 Fréjus
36–45 Legnano cycling team
46–47 Tebag and Legnano
48 Legnano cycling team
49–50 Bartali–Gardiol
51 Bartali–Ursus
52 Tebag and Bartali
53 Bartali

54 Bartali–Brooklin
グランツール最高さいこう成績せいせき
ジロ・デ・イタリア 総合そうごう優勝ゆうしょう (1936, 1937, 1946)
ツール・ド・フランス 総合そうごう優勝ゆうしょう (1938, 1948)
主要しゅようレース勝利しょうり
ミラノ〜サンレモ(1939, 1940, 1947, 1950)
ジロ・ディ・ロンバルディア(1936, 1939, 1940)
最終さいしゅう更新こうしん
2023ねん3がつ15にち

ジーノ・バルタリ(Gino Bartali, 1914ねん7がつ18にち - 2000ねん5月5にち)は、イタリアフィレンツェ近郊きんこう位置いちするポンテ・ア・エマ出身しゅっしん往年おうねん自転車じてんしゃ競技きょうぎ選手せんしゅである。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

だいいち全盛ぜんせい時代じだい[編集へんしゅう]

イタリアチャンピオンジャージを着用ちゃくようしたポスター

1935ねんにプロ選手せんしゅとなったバルタリは、そのとしのイタリア国内こくない選手権せんしゅけん制覇せいは。また同年どうねんジロ・デ・イタリアでは山岳さんがくしょう受賞じゅしょうするが、ジロではこのあと通算つうさん7かい受賞じゅしょう経験けいけん。さらにこの記録きろくいまもなおジロ史上しじょうどうしょう最多さいた受賞じゅしょう記録きろくとなっている。よく1936ねん、ジロでは総合そうごう優勝ゆうしょうならびに山岳さんがくしょう制覇せいはし、ジロ・ディ・ロンバルディア優勝ゆうしょう1937ねんにはジロの総合そうごう連覇れんぱならびに山岳さんがくしょう3ねん連続れんぞく受賞じゅしょう、さらに2度目どめのイタリア国内こくない選手権せんしゅけん制覇せいはかざる。また同年どうねんツール・ド・フランスにおいて区間くかん1しょうげるも、その区間くかんで落車したうえだい怪我けがいリタイアしている。

1938ねん、イタリア国内こくないにおけるファシストの圧力あつりょくつよさをしたことから、バルタリは拠点きょてんパリうつす。そしてこのとし、ツールはつ優勝ゆうしょうかざる。ピレネーちょうえステージをえた段階だんかい総合そうごう2につけたバルタリは、だい14ステージにおいて中盤ちゅうばんのアロとうげ一気いっきにトップにつとヴァルとうげイゾアールとうげもトップで通過つうかしそのままるという圧勝あっしょうえんじる。また、このステージでマイヨジョーヌをうばったが、なに総合そうごう2に18ふんちかをつけてはやくもこの時点じてん総合そうごう優勝ゆうしょうをほぼ確定かくていづけてしまった。また、ツールでははつとなる山岳さんがくしょう受賞じゅしょうしている。

しかしよく1939ねんだい世界せかい大戦たいせんかげしのってきたこともあってイタリアチームのツール・ド・フランス参加さんか見送みおくられることになり、バルタリの連覇れんぱ自動的じどうてきついえた。ちなみにこのとし、ジロ・ディ・ロンバルディアとミラノ~サンレモ制覇せいはしている。1940ねん、ジロ・ディ・ロンバルディアとミラノ~サンレモのダブル連覇れんぱ達成たっせいしたほか、3度目どめ国内こくない選手権せんしゅけん優勝ゆうしょうたしている。だが、バルタリは自転車じてんしゃ選手せんしゅとしてのキャリアは一旦いったんここで途切とぎれることとなる。

ユダヤじん逃亡とうぼう幇助ほうじょ[編集へんしゅう]

1940ねんのシーズンを最後さいご事実じじつじょう引退いんたい状態じょうたいいられたバルタリはそのあいだ強制きょうせい収容しゅうようしょ収監しゅうかんされているユダヤけいじんすくうべく、カトリック教会きょうかいとの接点せってんおおったり、はたまたピウス12せい接見せっけんしたり、てはだい主教しゅきょうフランシスコかいにもすくいのもとめていた。このあたりのはなしについては1969ねんにインタビューをけたさい言明げんめいしている。しかしこののちはなしはバルタリの生前せいぜんかたられることはなく、2000ねんにバルタリの死後しご息子むすこたちが遺言ゆいごんわりにのこしていた当時とうじのバルタリの日記にっき公表こうひょうしたことでようやおおやけにされたものであった。

ルッカ修道院しゅうどういんらはかくまっていたユダヤけいじんたちの国外こくがい逃亡とうぼうはかるべく、身柄みがらわたしのための偽造ぎぞう文書ぶんしょ作成さくせいする秘密ひみつ工場こうじょうもうけた。しかしそれには身分みぶん証明しょうめいする写真しゃしん必要ひつようであった。そこでどう修道院しゅうどういんらは、バルタリにおねがいしてトレーニングとよそわせて、ファシストにばれぬよう、べつ場所ばしょかくしてあった写真しゃしんはいった募金ぼきんばこさせた。バルタリは以前いぜんよりレジスタンス運動うんどう声明せいめいぶんおくるなどしてつよくファシストにたいする抵抗ていこうしゃたちにたいして支援しえんおこなっていた。そのため、ファシストから格好かっこう標的ひょうてきとされたが、一方いっぽう自転車じてんしゃ選手せんしゅとして著名ちょめいであるバルタリを迫害はくがいするようなことをすれば、それにじょうじて抵抗ていこうしゃたちがだい暴動ぼうどうこしかねないということをファシストはつよおそれていたため、前述ぜんじゅつしたバルタリの慈恵じえ活動かつどうについては、当初とうしょてみぬりというかたちっていた。ルッカ修道院しゅうどういんらは、ファシストにつよ反発はんぱつしていたバルタリの名声めいせいりたわけである。

しかし、ドイツナチスがイタリア国内こくない駐留ちゅうりゅうするようになると一層いっそうユダヤけいじん追跡ついせきへのうごきがつよくなった。バルタリはフィレンツェでナチスから度重たびかさなる尋問じんもんけることになった。そのうえでユダヤけいじんたいする慈恵じえ活動かつどうをやめるようさとしたが、バルタリはひるまなかった。なおも表向おもてむきは慈恵じえ活動かつどうおこないながら、一方いっぽうでは逃亡とうぼう作戦さくせん加担かたんしていたバルタリは、ナチスやファシストのユダヤけいじん迫害はくがいうごきがさらにつよまるなか1943ねんにユダヤけいじんれて改造かいぞうしたワゴンしゃスイスアルプス方面ほうめん逃亡とうぼうくわだてた。そのあいだ、たびたび検問けんもんけるとバルタリは、トレーニング用品ようひんんでいるいうことにしてのがれていたという。

だい黄金おうごん時代じだい強力きょうりょくライバルの出現しゅつげん現役げんえき引退いんたい[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせん、バルタリは復帰ふっきした。そして同胞どうほう宿命しゅくめいのライバルであるファウスト・コッピと鎬をけずることになる。

5さい年下とししたにあたるコッピは、1940ねんのジロで総合そうごう優勝ゆうしょう。そして1942ねんには45.798kmのアワーレコードを樹立じゅりつしていた。そんなコッピのことをバルタリは可愛かわいがっていた。1939ねんのシーズン終了しゅうりょうみずからの所属しょぞくするチームにれ、1940ねんのジロのときにはコッピのアシストにもまわっていた。だが戦前せんぜんはまだまだバルタリの存在そんざいはコッピにとってみればくもうえであった。

戦後せんごまもない1946ねんはいってバルタリとコッピの立場たちば対等たいとうとなる。ジロでかろうじてコッピを退しりぞけて3度目どめ総合そうごう優勝ゆうしょうたしたバルタリだが、ミラノ~サンレモではコッピに完敗かんぱいしていた。その、バルタリは同年どうねんツール・ド・スイスチューリッヒ選手権せんしゅけん制覇せいは一方いっぽう、コッピはグランプリ・デ・ナシオンジロ・ディ・ロンバルディアせいしていた。1947ねん、バルタリは3度目どめのミラノ~サンレモ制覇せいはおよびツール・ド・スイス連覇れんぱたしたが、このとしのジロの総合そうごう優勝ゆうしょうはコッピのわたった。

1948ねんのツール。バルタリはイタリアのエースとして出場しゅつじょうだい1ステージをはやくもせいしたバルタリは、そのルイゾン・ボベにマイヨのわたすものの、アルプスえのだい13ステージにおいて、イゾアールとうげでトップにつとそのままって区間くかん優勝ゆうしょう。そしてここでマイヨもボベから奪取だっしゅ。するとその余勢よせいをかって、つづだい14・15ステージまでもせいし、アルプスステージ終了しゅうりょう時点じてんではボベに13ふん以上いじょう大差たいさをつけていた。そしてわってみれば、総合そうごう2ブリック・ショットに26ふん16びょうをつける圧勝あっしょうげきえんじた。

1949ねん、このとしのジロをせいしたコッピはツールも出場しゅつじょう。そしてバルタリも出場しゅつじょうすることになったことからイタリアチームは当時とうじとしてはきわめて異例いれいの「ダブルリーダーせい」をることになった。だい16ステージ、さきにイゾアールとうげ通過つうかしたコッピだが、バルタリがその追随ついずいしてくるだろうとかんがえていた。またバルタリもコッピを追撃ついげきした。その結果けっか、ゴール地点ちてんブリアンソンではどうタイムで仲良なかよくワンツーフィニッシュ。区間くかん優勝ゆうしょうはバルタリのち、またマイヨもここでバルタリのわたったが、つづだい17ステージではコッピが圧勝あっしょうし、マイヨもコッピに移動いどう。そしてだい20ステージの個人こじんTTでコッピはバルタリにおおきくひろげ、わってみればバルタリに10ふん以上いじょうをつけた。コッピは史上しじょうはつの「ダブルツール」を達成たっせいした。

同時どうじに、ここで対等たいとう立場たちばかんがえられてきたバルタリとコッピの立場たちばおおきくわり、そのバルタリは1950ねんのミラノ~サンレモ、1952ねん国内こくない選手権せんしゅけんせいした程度ていどまったのにたいし、コッピはそのもダブルツールを1952ねんたすなど次々つぎつぎだいレースをモノにしていった。コッピが丁度ちょうど「カンピオニッシモ」とわれるようになった1954ねんに、バルタリは現役げんえき引退いんたいした。

コッピが現役げんえき最後さいごとなったチームの監督かんとくはバルタリであった。コッピは1960ねんマラリア感染かんせん原因げんいんによる熱病ねつびょうにより他界たかいするが、アラッシオに、仲良なかよ2人ふたり直筆じきひつのサインがきざまれた石碑せきひがある。このようにしてていくと、おたがいにきライバル関係かんけいであったということがうかがえる。

2000ねん5がつ5にちポンテ・ア・エマ自宅じたくしん停止ていしにより死去しきょした[1]。 2001ねんからかれらの名前なまえかんした「コッピ・バルタリ」というレースが毎年まいとし開催かいさいされている。

おも実績じっせき[編集へんしゅう]

1935
イタリアの旗 イタリア 国内こくない選手権せんしゅけん 優勝ゆうしょう
ジロ・デ・イタリア 山岳さんがくしょう
1936
ジロ・デ・イタリア 総合そうごう優勝ゆうしょう山岳さんがくしょう
ジロ・ディ・ロンバルディア 優勝ゆうしょう
1937
イタリアの旗 イタリア 国内こくない選手権せんしゅけん 優勝ゆうしょう
ジロ・デ・イタリア 総合そうごう優勝ゆうしょう山岳さんがくしょう
ツール・ド・フランス だい7区間くかん優勝ゆうしょう
1938
ツール・ド・フランス 総合そうごう優勝ゆうしょう山岳さんがくしょうだい11・14区間くかん優勝ゆうしょう
1939
ジロ・ディ・ロンバルディア 優勝ゆうしょう
ミラノ~サンレモ 優勝ゆうしょう
ジロ・デ・イタリア 山岳さんがくしょう
1940
イタリアの旗 イタリア 国内こくない選手権せんしゅけん 優勝ゆうしょう
ジロ・ディ・ロンバルディア 優勝ゆうしょう
ミラノ~サンレモ 優勝ゆうしょう
ジロ・デ・イタリア 山岳さんがくしょう
1946
ジロ・デ・イタリア 総合そうごう優勝ゆうしょう山岳さんがくしょう
ツール・ド・スイス 総合そうごう優勝ゆうしょう
チューリッヒ選手権せんしゅけん 優勝ゆうしょう
1947
ツール・ド・スイス 総合そうごう優勝ゆうしょう
ミラノ~サンレモ 優勝ゆうしょう
ジロ・デ・イタリア 山岳さんがくしょう
1948
ツール・ド・フランス 総合そうごう優勝ゆうしょう山岳さんがくしょうだい1・7・8・13・14・15区間くかん優勝ゆうしょう
チューリッヒ選手権せんしゅけん 優勝ゆうしょう
1949
ツール・ド・フランス 総合そうごう2だい16区間くかん優勝ゆうしょう
1950
ミラノ~サンレモ 優勝ゆうしょう
ツール・ド・フランス だい11区間くかん優勝ゆうしょう
1952
イタリアの旗 イタリア 国内こくない選手権せんしゅけん 優勝ゆうしょう


脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Gino Bartali, une légende de la route disparaît” (フランス語ふらんすご). リベラシオン (2000ねん5がつ6にち). 2024ねん2がつ17にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]