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グレッグ・レモン Greg LeMond
基本 きほん 情報 じょうほう 本名 ほんみょう
Gregory James LeMond 愛称 あいしょう
"L'Americain" "LeMonster" 生年月日 せいねんがっぴ
(1961-06-26 ) 1961年 ねん 6月26日 にち (62歳 さい ) 国籍 こくせき
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 身長 しんちょう
178cm 体重 たいじゅう
67kg 選手 せんしゅ 情報 じょうほう 分野 ぶんや
ロードレース 特徴 とくちょう
オールラウンダー アマチュア経歴 けいれき 1976–1980
U.S. National Team プロ経歴 けいれき 1981–1984 1985–1987 1988 1989 1990–1994
Renault-Elf-Gitane La Vie Claire PDM ADR Z–Tomasso 主要 しゅよう レース勝利 しょうり
グランツール
ツール・ド・フランス
総合 そうごう 優勝 ゆうしょう (1986, 1989, 1990)
新人 しんじん 賞 しょう (1984)
複 ふく 合 ごう 賞 しょう (1985, 1986)
区間 くかん 5勝 しょう
ジロ・デ・イタリア
区間 くかん 1勝 しょう (1986)
ステージレース
シルキュイ・ド・ラ・サルト (1980)
クアーズ・クラシック (1981, 1985)
ツール・ド・ラブニール (1982)
クリテリウム・デュ・ドフィネ ・リベレ (1983)
ツアー・デュポン (1992)
最終 さいしゅう 更新 こうしん 日 び 2016年 ねん 6月 がつ 17日 にち
グレッグ・レモン [注釈 ちゅうしゃく 1] (Greg LeMond 、1961年 ねん 6月26日 にち - )は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の元 もと 自転車 じてんしゃ プロロードレース 選手 せんしゅ 。1986年 ねん 、1989年 ねん 、1990年 ねん にアメリカ人 じん としては大会 たいかい 史上 しじょう 初 はつ となるツール・ド・フランス 個人 こじん 総合 そうごう 優勝 ゆうしょう を達成 たっせい したほか、1983年 ねん 、1989年 ねん の世界 せかい 選手権 せんしゅけん を制 せい している。
レモンはもともと、スキー 選手 せんしゅ として活躍 かつやく しており、夏場 なつば のトレーニングの一環 いっかん として自転車 じてんしゃ に乗 の っていた。初 はじ めてロードバイク を買 か ったのは13歳 さい のときで、芝刈 しばか りのアルバイトで貯 た めたお金 かね で10段 だん 変速 へんそく の自転車 じてんしゃ を買 か ったのが始 はじ まりであった[1] 。1976年 ねん 頃 ごろ からは父親 ちちおや に連 つ れられてロードレースに参加 さんか するようになった。
しかしそこで非凡 ひぼん なる成績 せいせき を示 しめ し、1979年 ねん のジュニア世界 せかい 選手権 せんしゅけん の代表 だいひょう に選出 せんしゅつ された。ここでロードで金 きん メダル、そして他 た 競技 きょうぎ でも銀 ぎん と銅 どう を獲得 かくとく し、わずか18歳 さい でオリンピック代表 だいひょう に選出 せんしゅつ された。しかし、モスクワ五輪 ごりん はアメリカがボイコットしたため、実際 じっさい にオリンピックでその姿 すがた を見 み ることは叶 かな わなかった[2] 。
1981年 ねん に、プロとしての一 いち 歩 ほ を踏 ふ み出 だ した。前述 ぜんじゅつ したジュニア世界 せかい 選手権 せんしゅけん ・個人 こじん ロードで優勝 ゆうしょう したレモンの才能 さいのう を、当時 とうじ ベルナール・イノー 、ローラン・フィニョン が所属 しょぞく していたルノー・エルフ=ジタンチーム (英語 えいご 版 ばん ) の監督 かんとく であったシリル・ギマール が見 み いだしたことがきっかけであった。
プロ入 い り1年 ねん 目 め の1981年 ねん にはクアーズ・クラシックで優勝 ゆうしょう 、続 つづ く2年 ねん 目 め の1982年 ねん にはツール・ド・ラブニール で優勝 ゆうしょう とさっそく結果 けっか を残 のこ した。
同 どう 1982年 ねん の世界 せかい 選手権 せんしゅけん プロロードレース では、レモンは優勝 ゆうしょう 目前 もくぜん と見 み られながらも、最後 さいご は優勝 ゆうしょう したジュゼッペ・サローニ の強烈 きょうれつ なスプリント力 りょく に屈 くっ した。しかし、経験 けいけん ではなく実力 じつりょく で2位 い になれることを証明 しょうめい し、翌 よく 1983年 ねん のアメリカ人 じん 初 はつ の世界 せかい 選手権 せんしゅけん 優勝 ゆうしょう へとつながってゆく。
ヨーロッパのロードレース文化 ぶんか との軋轢 あつれき [ 編集 へんしゅう ]
フランスのプロチームであるルノー・エルフでプロとしてのキャリアを歩 あゆ み始 はじ めたが、アメリカ人 じん であるレモンはヨーロッパの伝統 でんとう 的 てき なロードレースにおける食事 しょくじ 管理 かんり や体調 たいちょう 管理 かんり の考 かんが え方 かた と衝突 しょうとつ することが多 おお くなった。一 いち 例 れい としては、大 だい のアイスクリーム好 す きであるレモンは「アイスクリームは体 からだ に悪 わる い」と信 しん じるチームと衝突 しょうとつ した。レモンは当時 とうじ をこう回想 かいそう している。「フランスの自転車 じてんしゃ 選手 せんしゅ って、レースに何 なに が良 よ いかってことに、とても強 つよ い固定 こてい 観念 かんねん を持 も ってますね」「アイスクリームは悪 わる いがチーズなら良 よ いとか、ワインは良 よ いけどピザは駄目 だめ とか。何 なに が良 よ くて何 なに が悪 わる いかは自転車 じてんしゃ レース界 かい の伝統 でんとう によって決 き まるものみたいに考 かんが えてるんです」[3] 。
ダイエットや体重 たいじゅう 管理 かんり 、その他 た の体調 たいちょう 管理 かんり ひとつひとつに関 かん する考 かんが え方 かた でも、アメリカのスポーツ界 かい で身 み につけてきたレモンの常識 じょうしき はフランスの常識 じょうしき とは齟齬 そご が多 おお く、チームとは軋轢 あつれき が絶 た えなかった。最初 さいしょ の頃 ころ はチームメイトは誰 だれ もがレモンとの同室 どうしつ を嫌 いや がったという。アメリカ人 じん のレモンは、就寝 しゅうしん に際 さい して外気 がいき を室内 しつない に入 い れるのは良 よ くないと考 かんが えるフランス人 じん の常識 じょうしき が理解 りかい できず、好 この んで窓 まど を開 あ け放 はな していたからだった。また後年 こうねん 、ラ・ヴィ・クレール時代 じだい のアメリカ遠征 えんせい ではチームメイトの意識 いしき を変 か えようとアメリカ料理 りょうり を食 た べさせようとも試 こころ みたが、チームメイトたちはフランス料理 りょうり しか口 くち にしなかったという。ただしベルナール・イノー だけは例外 れいがい で、アメリカ料理 りょうり に関心 かんしん を示 しめ したとレモンは回想 かいそう している[4] 。
ツール・ド・フランスでの活躍 かつやく [ 編集 へんしゅう ]
1984年 ねん 、レモンはベルナール・イノー とともに、フランスの大 だい 富豪 ふごう ベルナール・タピ が立 た ち上 あ げた新 しん チーム、ラ・ヴィ・クレール (英語 えいご 版 ばん ) に移籍 いせき した。そのラ・ヴィ・クレールでイノーのアシストとして参戦 さんせん した1984年 ねん のツール・ド・フランス では、レモンは初 はつ 参戦 さんせん ながら3位 い でゴールし、マイヨ・ブラン (新人 しんじん 賞 しょう )を獲得 かくとく する。なお、この年 とし の優勝 ゆうしょう 者 しゃ は後年 こうねん のライバルであるローラン・フィニョン であり、エースのイノーは2位 い であった。
1985年 ねん のツール・ド・フランス では第 だい 21ステージでアメリカ人 じん 初 はつ となるステージ優勝 ゆうしょう を飾 かざ る。さらに、1986年 ねん のツール・ド・フランス では、ヨーロッパ以外 いがい の出身 しゅっしん の選手 せんしゅ として初 はつ となる総合 そうごう 優勝 ゆうしょう を飾 かざ ったが、これにはツール史上 しじょう 稀 まれ にみる、同 どう 一 いち チームの選手 せんしゅ による争 あらそ いが伴 ともな った(以下 いか に詳述 しょうじゅつ )。また、同年 どうねん のジロ・デ・イタリア で総合 そうごう 3位 い となって表彰台 ひょうしょうだい に上 のぼ った。
1986年 ねん のジロ・デ・イタリア でもステージ1勝 しょう を挙 あ げて総合 そうごう 4位 い の好 こう 結果 けっか を残 のこ している。
2度目 どめ の参戦 さんせん となった1985年 ねん のツール・ド・フランス では、ラ・ヴィ・クレール (英語 えいご 版 ばん ) のチームで、それまでツール4勝 しょう を挙 あ げていたエース、ベルナール・イノー のアシストを務 つと めることになった。その後 ご イノーはレースをリードしていたが、ステージ途中 とちゅう の転倒 てんとう 事故 じこ で負傷 ふしょう していた。第 だい 17ステージでレモンは、イノーを置 お き去 ざ りにして先頭 せんとう 集団 しゅうだん についていった。このため監督 かんとく であったパウル・ケヒリは、レモンに対 たい し後方 こうほう に下 さ がるよう指示 しじ を出 だ した。しかしステージ終了 しゅうりょう 後 ご 、レモンはイノーに2分 ふん 25秒 びょう の差 さ をつけてリードしていた。このため当日 とうじつ の夜 よる 、緊急 きんきゅう のチームミーティングが開 ひら かれた。そこで、オーナーにより「イノーに総合 そうごう 優勝 ゆうしょう させる」、「レモンにはボーナス(日本円 にほんえん にして約 やく 3,000万 まん 円 えん )を支給 しきゅう する」というチームオーダー が決定 けってい された[5] 。このツールでレモンはイノーに次 つ ぐ2位 い (1分 ふん 42秒 びょう 差 さ )でレースを終 お えたが、イノーのツール・ド・フランス5勝 しょう のために、自 みずか らの勝利 しょうり はあきらめざるを得 え なかった。
その後 ご レモンはインタビューで、チームマネジャーとコーチのポール・コークリが、レモンにうそを伝 つた えていたと暴露 ばくろ した(大切 たいせつ なステージ中 ちゅう 、イノーとのレモンの差 さ は+3分 ふん 以上 いじょう あると伝 つた えていた)。これに対 たい しイノーは、来年 らいねん は自分 じぶん がアシストに回 まわ ることを約束 やくそく した。
しかしながら、1986年 ねん のツール・ド・フランス では12ステージに、イノーは不調 ふちょう のレモンを置 お き去 ざ りにして逃 に げを決 き め、5分 ぶん のアドバンテージをレモンに対 たい し築 きず いた。翌日 よくじつ もイノーは逃 に げを決 き めるが、約束 やくそく を反故 ほご にされたことに激怒 げきど したレモンがじわじわと盛 も り返 かえ し4分 ふん 半 はん を取 と り戻 もど した。パフォーマンスとしてラルプ・デュエズでの頂上 ちょうじょう ゴールで2人 ふたり は手 て を取 と り合 あ ってゴールして見 み せたが、イノーはしつこくアタックを続 つづ けた。結果 けっか 的 てき にこの年 とし のツールを制 せい したのはレモンであったが、選手 せんしゅ のみならず観客 かんきゃく にとってもストレスの溜 た まるレースとなった。露骨 ろこつ なまでのチーム内 ない での裏切 うらぎ り自体 じたい 珍 めずら しいことだが、それをイノーのようなスター選手 せんしゅ が行 おこな ったことは衝撃 しょうげき であった。「彼 かれ はイオタでまったく僕 ぼく をアシストしてくれなかった。彼 かれ にはもう尊敬 そんけい の念 ねん のかけらすらないよ。それどころかこのレース後 ご は彼 かれ とはもう友達 ともだち でもない。こんな裏切 うらぎ りはありえないよ。」とレース後 ご にレモンは語 かた っている[2] 。なお、イノーの行動 こうどう については「レモンのライバル(とくに、優勝 ゆうしょう 候補 こうほ として注目 ちゅうもく されていたローラン・フィニョン )をワナにかけるため、あえて陽動 ようどう 作戦 さくせん を実施 じっし した」、「(前人未到 ぜんじんみとう の)ツール六 ろく 勝 しょう 目 め に目 め がくらみ、自 みずか らの約束 やくそく を果 は たさなかった」といった、さまざまな憶測 おくそく がなされている[6] 。
クアーズ・クラシックでの決裂 けつれつ [ 編集 へんしゅう ]
ツール終了 しゅうりょう 後 ご に開催 かいさい された同年 どうねん のクアーズ・クラシックで、レモンとイノーの仲 なか は決定的 けっていてき に決裂 けつれつ した。このレースでイノーは現役 げんえき 最後 さいご の優勝 ゆうしょう を果 は たすことになるが、レモンはこのレースではイノーのアシストに回 まわ っていた。しかし、レース中 ちゅう 順位 じゅんい を上 あ げようと速度 そくど を上 あ げたレモンの走 はし り(結果 けっか 的 てき にレモンは2位 い となった)をイノーは自分 じぶん へのアタックと思 おも い込 こ み、レモンを激 はげ しく非難 ひなん した[7] 。それに対 たい してレモンは、このレースでは自分 じぶん はアシストに徹 てっ するつもりだとして弁明 べんめい を試 こころ みたがイノーは聞 き かず、2人 ふたり は激 はげ しい口論 こうろん となってしまった。ここで2人 ふたり の仲 なか は完全 かんぜん に終 お わってしまったとレモンは語 かた っている[8] 。
事故 じこ からの生還 せいかん [ 編集 へんしゅう ]
1987年 ねん のツール・ド・フランス を2か月 げつ 後 ご に控 ひか えた1987年 ねん 4月 がつ 20日 はつか 、レモンにとって不幸 ふこう な事故 じこ がカリフォルニア で起 お きた。狩猟 しゅりょう 中 なか 、同行 どうこう 者 しゃ の散弾 さんだん 銃 じゅう の弾 たま がレモンの胸 むね に当 あ たったのである[9] 。レモンは大量 たいりょう に出血 しゅっけつ し、生死 せいし の淵 ふち をさまよった。一命 いちめい をとりとめ、その後 ご はリハビリに励 はげ むものの、都合 つごう 2回 かい 、ツール・ド・フランス出場 しゅつじょう が不可能 ふかのう になった。この間 あいだ 、所属 しょぞく チームも東芝 とうしば ルック(前身 ぜんしん はラ・ヴィ・クレール)から、P.D.M (英語 えいご 版 ばん ) と変 か わったが成績 せいせき は振 ふ るわず、プロ・ロードマン・ランキングも1986年 ねん の6位 い から345位 い にまで下降 かこう してしまった。1988年 ねん 、P.D.Mから放出 ほうしゅつ される形 かたち でベルギーの弱小 じゃくしょう チーム、ADRボテッキアに移籍 いせき した[10] 。
ツール・ド・フランスでの復活 ふっかつ [ 編集 へんしゅう ]
マイヨ・ジョーヌ を着 き たグレッグ・レモン(1990年 ねん ツール・ド・フランス 最終 さいしゅう ステージのスタート地点 ちてん にて)
復活 ふっかつ を期 き した1989年 ねん 、ツール・ド・フランスに先立 さきだ って参戦 さんせん したジロ・デ・イタリア でもレモンは総合 そうごう 47位 い と振 ふ るわず、総合 そうごう 優勝 ゆうしょう を果 は たしたローラン・フィニョン の遥 はる か後塵 こうじん (こうじん)を拝 はい することとなった。しかし、最後 さいご の個人 こじん タイムトライアルでは2位 い と健闘 けんとう し、復活 ふっかつ の兆 きざ しも見 み せつつはあった[11] 。なおフィニョンも1983年 ねん と1984年 ねん に2年 ねん 連続 れんぞく でツール・ド・フランスを連覇 れんぱ した後 のち に負傷 ふしょう などで低迷 ていめい し、「勝 か てない王者 おうじゃ 」などと呼 よ ばれるようになっており[12] 、レモンより一足 ひとあし 先 さき に復活 ふっかつ を果 は たすこととなった。ルノー・エルフ時代 じだい にはチームメイトでもあり、同 おな じくベルナール・イノー のアシスト役 やく を担 にな っていたレモンとフィニョンは、人間 にんげん 関係 かんけい においては決 けっ して良好 りょうこう ではなかったが[13] 、選手 せんしゅ としては互 たが いに一定 いってい の敬意 けいい を払 はら い合 あ っており、また負傷 ふしょう と低迷 ていめい から復活 ふっかつ を期 き す者 もの 同士 どうし としての共感 きょうかん も抱 だ き合 あ っていた[14] 。1989年 ねん のツール・ド・フランス で、レモンは37もの散弾 さんだん 片 へん を体 からだ (いくつかは心臓 しんぞう のそば)に残 のこ したまま、20位 い 以内 いない を目標 もくひょう にした。直前 ちょくぜん のジロ・デ・イタリア での不振 ふしん 、また所属 しょぞく チームも弱小 じゃくしょう のADRボテッキアということでレース前 まえ の前 ぜん 評判 ひょうばん は低 ひく かった。
しかし、レースが始 はじ まってみると、得意 とくい のタイムトライアルで好成績 こうせいせき を残 のこ すとともに、アシスト陣 じん が非力 ひりき なために苦戦 くせん が予想 よそう された山岳 さんがく [注釈 ちゅうしゃく 2] ではフィニョンのスーパーUチーム[注釈 ちゅうしゃく 3] のアシストを借 か りる巧 たく みな「間借 まが り作戦 さくせん 」で上位 じょうい をキープし続 つづ け[12] 、最終 さいしゅう ステージ、パリでの個人 こじん タイムトライアル時点 じてん で、レモンは総合 そうごう 2位 い 。ローラン・フィニョン にタイム差 さ +50秒 びょう で迫 せま っていた。レモンは当時 とうじ 最新 さいしん のエアロバーバイク でタイムトライアルに臨 のぞ み、フィニョンにこのステージで逆転 ぎゃくてん 。総合 そうごう で8秒 びょう 差 さ でマイヨ・ジョーヌを奪 うば い、個人 こじん 総合 そうごう 優勝 ゆうしょう を果 は たした[注釈 ちゅうしゃく 4] [注釈 ちゅうしゃく 5] [注釈 ちゅうしゃく 6] 。
数 すう 週間 しゅうかん 後 ご 、さらにレモンは世界 せかい 選手権 せんしゅけん プロロードレース で、最後 さいご のゴールスプリントを制 せい し、2度目 どめ の優勝 ゆうしょう を果 は たす[15] [注釈 ちゅうしゃく 7] 。レモンは自転車 じてんしゃ 選手 せんしゅ として初 はじ めて、『スポーツ・イラストレイテッド 』誌 し の1989年度 ねんど スポーツマン・オブ・ザ・イヤーの栄誉 えいよ に輝 かがや いた。
翌 よく 1990年 ねん のツール・ド・フランス にレモンは移籍 いせき したZチーム (英語 えいご 版 ばん ) のエースとして、前年 ぜんねん の世界 せかい 選手権 せんしゅけん 優勝 ゆうしょう 者 しゃ としてマイヨ・アルカンシェル ジャージを着 き て臨 のぞ んだ。序盤 じょばん はライバルたちのマークに苦 くる しみ、先行 せんこう したクラウディオ・キアプッチ 、スティーブ・バウアー 、チームメイトの、ロナン・パンセック (英語 えいご 版 ばん ) らに大 おお きく出遅 でおく れてしまったためにレース中 ちゅう 、監督 かんとく 命令 めいれい によって一時 いちじ 的 てき にエースから降格 こうかく し、その時点 じてん でマイヨ・ジョーヌ を獲得 かくとく していたパンセックのアシストに回 まわ る状況 じょうきょう にもなった[16] 。レモンはチームオーダーに従 したが いパンセックのアシストしながらも、第 だい 12ステージ個人 こじん タイムトライアルで地道 じみち にタイム差 さ を縮 ちぢ め、またパンセックがこの時点 じてん でマイヨ・ジョーヌ を失 うしな ったこともあって、その後 ご エースに復帰 ふっき [16] 、最終 さいしゅう 日 び 前日 ぜんじつ の個人 こじん タイムトライアル開始 かいし 時点 じてん では首位 しゅい のクラウディオ・キアプッチ に対 たい して5秒 びょう 差 さ の2位 い にまで順位 じゅんい を戻 もど していた。けっきょく一 いち 度 ど もステージ優勝 ゆうしょう はできなかったが、前年 ぜんねん 同様 どうよう 最終 さいしゅう の個人 こじん タイムトライアル(この年 とし は最終 さいしゅう 日 び 前日 ぜんじつ )でマイヨ・ジョーヌを獲得 かくとく し自身 じしん 3度目 どめ の総合 そうごう 優勝 ゆうしょう を果 は たした。
後遺症 こういしょう による引退 いんたい [ 編集 へんしゅう ]
4勝 しょう 目 め を狙 ねら った翌 よく 1991年 ねん のツール・ド・フランス は、総合 そうごう 優勝 ゆうしょう したミゲル・インドゥライン から13分 ふん 13秒 びょう 遅 おく れの7位 い に終 お わった。
1992年 ねん にレモンは、アメリカ人 じん 初 はつ のツアー・デュポン勝者 しょうしゃ となる。しかし、これがプロ選手 せんしゅ として最後 さいご の優勝 ゆうしょう となった。
ツール・ド・フランスでは序盤 じょばん ではそこそこの成績 せいせき を残 のこ すものの、山岳 さんがく コースや高速 こうそく 化 か した際 さい に集団 しゅうだん から千 せん 切 き れることを繰 く り返 かえ し、1992年 ねん 、1994年 ねん とリタイアに終 お わった。このふがいない走 はし りで「ハングリー精神 せいしん を失 うしな い、自 みずか らが有 ゆう するブランドの自転車 じてんしゃ を売 う り込 こ むことばかり考 かんが えている」、「アスリートではなくビジネスマン」などとマスコミに叩(たた)かれた。しかし、その後 ご の検査 けんさ により、1987年 ねん の事故 じこ で体内 たいない に残 のこ された散弾 さんだん の鉛 なまり が原因 げんいん と考 かんが えられるミトコンドリア性 せい 筋肉 きんにく 疾患 しっかん が進行 しんこう していることが判明 はんめい する。 日常 にちじょう 生活 せいかつ では支障 ししょう がないものの、高 たか いレベルの運動 うんどう を行 おこな った時 とき には筋肉 きんにく に酸素 さんそ が供給 きょうきゅう されず、異常 いじょう な疲労 ひろう と体力 たいりょく 低下 ていか を招 まね くというアスリートにとって致命 ちめい 的 てき な病 やまい であった。この検査 けんさ 結果 けっか を受 う けて、1994年 ねん 12月3日 にち にロサンゼルスで開 ひら かれたアメリカ自転車 じてんしゃ 連盟 れんめい 各賞 かくしょう 授賞 じゅしょう 式 しき で、プロ自転車 じてんしゃ 選手 せんしゅ としての引退 いんたい を発表 はっぴょう した[9] [17] 。
1997年 ねん のインタビューで、レモンは優勝 ゆうしょう し損 そこ ねた1985年 ねん ツール、そして狩猟 しゅりょう 事故 じこ 後 ご の1987 - 1988年 ねん のブランクによって失 うしな ったチャンスを悔 く やみ、「仕方 しかた がないけど、レースの歴史 れきし は書 か き換 か えられないからね。」「でも、ツールで5回 かい は優勝 ゆうしょう できたはずなんだ。そう断言 だんげん できる。」とコメントしている。
自転車 じてんしゃ 競技 きょうぎ とフィットネス分野 ぶんや の専門 せんもん 性 せい を生 い かして、引退 いんたい 後 ご はLeMond Bicycles (英語 えいご 版 ばん ) (トレック・バイシクル の1部門 ぶもん であったが現在 げんざい は離脱 りだつ )やLeMond Fitness などの会社 かいしゃ を起 お こした。また、一時期 いちじき 、運転 うんてん 技術 ぎじゅつ を競 きそ うレースから離 はな れられず数 すう 年間 ねんかん モータースポーツ にはまっていた。
2005年 ねん に行 おこな われた日本 にっぽん のアマチュアレース、ツール・ド・草津 くさつ には特別 とくべつ ゲストとして参加 さんか し、日本 にっぽん のファンに元気 げんき な姿 すがた を見 み せた。
2009年 ねん ツアー・オブ・ジャパン にも特別 とくべつ ゲストとして来日 らいにち し、最終 さいしゅう 東京 とうきょう ステージではパレード走行 そうこう 時 じ に先導 せんどう 役 やく を務 つと めた。
2013年 ねん 10月 がつ に岩手 いわて 県 けん 陸前高田 りくぜんたかた 市 し で行 おこな われたツール・ド・三陸 さんりく には特別 とくべつ 名誉 めいよ ライダーとして参加 さんか 。被災 ひさい 地 ち へのメッセージを寄 よ せた[18] 。2013年 ねん 11月には自 みずか らプロデュースしたフレームの限定 げんてい 発売 はつばい が発表 はっぴょう された。レモンがツール・ド・フランスで総合 そうごう 優勝 ゆうしょう した年 とし にちなんだモデル名 めい で【Tour86】【Tour89】【Tour90】の3種類 しゅるい 、全 ぜん 世界 せかい で各 かく モデル100本 ほん のみの限定 げんてい 生産 せいさん である[19] 。
現在 げんざい [いつ? ] はミネソタ州 しゅう メディナ 在住 ざいじゅう 。
後年 こうねん ランス・アームストロングのドーピング問題 もんだい を激 はげ しく批判 ひはん したが、それ以前 いぜん の現役 げんえき 時代 じだい からロードレース界 かい のドーピングと薬物 やくぶつ 規制 きせい の緩 なる さに対 たい して一貫 いっかん して批判 ひはん していた[20] 。
「成績 せいせき を見 み れば、選手 せんしゅ が薬物 やくぶつ を使用 しよう しているとか、上手 じょうず にトレーニングをこなしていないとかがわかるものですよ。そういう選手 せんしゅ に限 かぎ ってある週 しゅう は成績 せいせき が良 よ くて次 つぎ の週 しゅう は悪 わる かったり」
「プロのレースで最 もっと も誤 あやま っているのは薬物 やくぶつ 規制 きせい をしていないことですね。必要 ひつよう なことですよ。ずいぶんたくさんの選手 せんしゅ が薬物 やくぶつ を使用 しよう しているんです。そんなことをするなんて本当 ほんとう に馬鹿 ばか げていますよ」
「選手 せんしゅ の何人 なんにん かが足 あし の腱 けん (けん)に問題 もんだい があるのは、薬物 やくぶつ を使用 しよう しているからなんです」
「薬物 やくぶつ を使用 しよう するやつなんて馬鹿 ばか ですよ。ステロイドは本当 ほんとう に有害 ゆうがい ですよ。それに頼 たよ りきりになっちゃいますからね」
「けっきょくは自分 じぶん で自分 じぶん の選手 せんしゅ 生命 せいめい を縮 ちぢ めて、代価 だいか を支払 しはら わされることになるんです」
レモンの同 どう 時代 じだい の選手 せんしゅ としては、ローラン・フィニョン 、ペドロ・デルガド らには陽性 ようせい 反応 はんのう の履歴 りれき があった。一方 いっぽう レモンは、確執 かくしつ のあったベルナール・イノー については、そのクリーンさを認 みと める発言 はつげん をしている[21] 。P.D.M在籍 ざいせき 時代 じだい 、チームのマッサージ師 し だったオット・ジャーコムの言 げん によれば、レモン自身 じしん は何 なに の問題 もんだい もないビタミン剤 ざい の注射 ちゅうしゃ すらしなかった[22] 。
アームストロングへの批判 ひはん と戦 たたか い [ 編集 へんしゅう ]
2001年 ねん に、レモンは当時 とうじ ツール・ド・フランスを連覇 れんぱ 中 ちゅう であったランス・アームストロング の成功 せいこう をドーピング の力 ちから によるものと示唆 しさ し、論争 ろんそう を巻 ま き起 お こした[23] 。「アメリカ人 じん によるツール総合 そうごう 優勝 ゆうしょう 」、「生命 せいめい の危機 きき からの奇跡 きせき の復帰 ふっき 」といった共通 きょうつう 項 こう を有 ゆう する先輩 せんぱい が、ツールで活躍 かつやく を続 つづ ける現役 げんえき 選手 せんしゅ を批判 ひはん したことは、世界 せかい 的 てき に衝撃 しょうげき を与 あた えることになった。
さらに、アームストロングがツール連覇 れんぱ を続 つづ けた2004年 ねん 7月 がつ にも、再 ふたた び「もしもアームストロングがクリーンなら、まれにみる復活 ふっかつ 劇 げき だ。そしてもしもクリーンではなかったとしたら、史上 しじょう まれにみる茶番 ちゃばん だ」とコメントした[24] 。また「ランスにはなんでも秘密 ひみつ にしておける才能 さいのう があるようだね。どうやってみんなに潔癖 けっぺき さを信 しん じ込 こ ませ続 つづ けているのか私 わたし には理解 りかい 不能 ふのう だ」と『ル・モンド 』紙 し へのコメントで語 かた った[25] 。
これに対 たい しアームストロングは反論 はんろん し、著書 ちょしょ においても引用 いんよう している[26] 。しかし、レモンはアームストロングやドーピングへの批判 ひはん を止 と めず、そのためさまざまな報復 ほうふく や困難 こんなん に遭 あ うことになった。
2006年 ねん 、レモンは、後 のち にアームストロングのドーピングを告発 こくはつ した1人 ひとり で、自身 じしん もドーピングによって2006年 ねん のツール・ド・フランス 総合 そうごう 優勝 ゆうしょう のタイトルを剥奪 はくだつ されたフロイド・ランディス に対 たい する公聴 こうちょう 会 かい にエディ・メルクス とともに参考 さんこう 人 じん として証言 しょうげん を求 もと められていたが、そのマネージャーから公聴 こうちょう 会 かい に出廷 しゅってい しないよう脅迫 きょうはく 電話 でんわ を受 う けていた。後日 ごじつ 、ランディスのマネージャーは脅迫 きょうはく 電話 でんわ の事実 じじつ を認 みと め、レモンとその家族 かぞく に謝罪 しゃざい した[27] [注釈 ちゅうしゃく 8] 。
2008年 ねん 、レモンのブランドバイク「LeMond Bicycles 」を販売 はんばい していたトレック・バイシクル (トレックはアームストロングの主 おも なスポンサー)は、レモンが長年 ながねん アームストロングとトレックに対 たい して「悪意 あくい あるコメント」を行 おこな ってきたとして、販売 はんばい 停止 ていし を求 もと める訴訟 そしょう を提訴 ていそ した[28] 。これによってレモンは以降 いこう 5年間 ねんかん にわたって、事実 じじつ 上 じょう 同車 どうしゃ の販売 はんばい ができなくなってしまった[注釈 ちゅうしゃく 9] 。
2012年 ねん 8月 がつ 24日 にち 、米国 べいこく 反 はん ドーピング機関 きかん (USADA)は、ドーピング違反 いはん で告発 こくはつ したランス・アームストロングについて、7連覇 れんぱ を達成 たっせい したツール・ド・フランスのタイトルが含 ふく まれる1998年 ねん 8月 がつ 1日 にち から2012年 ねん 現在 げんざい までの競技 きょうぎ 成績 せいせき を剥奪 はくだつ 、さらに自転車 じてんしゃ 競技 きょうぎ からの永久 えいきゅう 追放 ついほう 処分 しょぶん を科 か す、と発表 はっぴょう [29] 、2013年 ねん 1月 がつ 14日 にち にはアームストロング自身 じしん もドーピングを行 おこな っていたことを認 みと めた。この結果 けっか 、レモンの指摘 してき は正 ただ しかったことが証明 しょうめい されたが、その間 あいだ にレモンが受 う けたさまざまな妨害 ぼうがい や被害 ひがい はとても大 おお きいものであった。
1977年 ねん
アメリカ・ナショナル・ロードレース選手権 せんしゅけん ジュニア部門 ぶもん 優勝 ゆうしょう
1979年 ねん
世界 せかい 選手権 せんしゅけん 自転車 じてんしゃ 競技 きょうぎ 大会 たいかい ロードレース ジュニア部門 ぶもん 優勝 ゆうしょう
アメリカ・ナショナル・ロードレース選手権 せんしゅけん ジュニア部門 ぶもん 優勝 ゆうしょう
1981年 ねん
1982年 ねん
1983年 ねん
1984年 ねん
1985年 ねん
1986年 ねん
1989年 ねん
1990年 ねん
1991年 ねん
1992年 ねん
^ 正式 せいしき なフルネームは「Gregory James LeMond 」であり、「Greg 」は愛称 あいしょう である。日本 にっぽん ではしばしば彼 かれ の苗字 みょうじ 「LeMond 」は1語 ご で記載 きさい されるためか、そのまま発音 はつおん の第 だい 1音節 おんせつ に高 こう アクセント を置 お いて発音 はつおん されることが多 おお いが(果物 くだもの のレモン と同 おな じ)、本来 ほんらい は「Le + Mond」であり、発音 はつおん はMondの第 だい 1音節 おんせつ に強 つよ アクセントを置 お く(すなわち「ル・モー ン」)。
^ この時 とき テレビ解説 かいせつ をしていたベルナール・イノー は山岳 さんがく ステージ前 まえ に「これからレモンは苦 くる しくなるよ。彼 かれ のチームは平地 ひらち は良 よ いけど、山岳 さんがく に強 つよ くないからね」と解説 かいせつ している。
^ 後年 こうねん 、日本 にっぽん の新城 しんじょう 幸也 ゆきや が所属 しょぞく するチーム・ヨーロッパカー の前身 ぜんしん である。
^ レモンが表彰台 ひょうしょうだい で喜 よろこ びをあらわにするのとは対照 たいしょう 的 てき に、フィニョンは肩 かた を落 お とし座 すわ り込 こ んだ。フィニョンは特 とく に言 い わなかったが、最終 さいしゅう の何 なん 日 にち かサドルによる股 また ずれ に苦 くる しんでいた。
^ この総合 そうごう 1位 い 、2位 い のタイム差 さ 8秒 びょう という差 さ は、今 いま なおツール史上 しじょう 最小 さいしょう タイム差 さ である。レモンはこの時 とき 、フィニョンに何 なに と言 い っていいかわからなかったと後 のち に回想 かいそう している。
^ 最終 さいしゅう ステージでレモンがマークした平均 へいきん 時速 じそく 54.545kmは、2021年 ねん 現在 げんざい も距離 きょり 20km以上 いじょう の個人 こじん タイムトライアルの最速 さいそく 記録 きろく であるが、この認定 にんてい は以下 いか の理由 りゆう からほとんど意味 いみ がない。まず、このコースはベルサイユを出発 しゅっぱつ してから下 くだ り基調 きちょう のコースであって、パリに入 はい ってからは平坦 へいたん なコース構成 こうせい であったために、そもそも高速 こうそく 走行 そうこう を期待 きたい できること。これに対 たい して、プロローグと山岳 さんがく コースを除 のぞ く個人 こじん タイムトライアルのうち20km以上 いじょう のレースは、2021年 ねん までに30大会 たいかい で行 おこな われているが、そのうち30kmを超 こ える大会 たいかい が26大会 たいかい であることから、長 なが い距離 きょり を走行 そうこう するほど平均 へいきん 時速 じそく は落 お ちる傾向 けいこう にあるということ。さらに、残 のこ りの4大会 たいかい 、つまり20km以上 いじょう 30km未満 みまん のコースだった大会 たいかい では、いずれも登 のぼ りを含 ふく むコースであり、この部分 ぶぶん の走行 そうこう で大幅 おおはば にタイムが落 お ちる傾向 けいこう にあること。距離 きょり を20km以上 いじょう と恣意 しい 的 てき に限定 げんてい した上 うえ で、このコースよりも条件 じょうけん の悪 わる いコースと比較 ひかく すれば、より上位 じょうい の記録 きろく になるのは当 あ たり前 まえ である。ちなみに、2005年 ねん 大会 たいかい のプロローグとして実施 じっし された個人 こじん タイムトライアルでは、デヴィッド・ザブリスキーが19kmを20分 ふん 51秒 びょう で走行 そうこう し、平均 へいきん 時速 じそく 54.676kmを記録 きろく しており、レモンの記録 きろく を上回 うわまわ っている。距離 きょり を限定 げんてい しない場合 ばあい の同 どう 大会 たいかい での最速 さいそく 記録 きろく は、クリス・ボードマン が所持 しょじ している55.152km/h (1994年 ねん 、距離 きょり 7.2km)である。なお、リック・フェルブリュッヘ (英語 えいご 版 ばん ) は2001年 ねん にジロ・デ・イタリア のプロローグで58.895km/h (7.6km)を達成 たっせい している。
^ この時 とき 、フィニョンはまたもゴールスプリントでレモンに3秒 びょう 差 さ で競 せ り負 ま け、ツールに続 つづ いてレモンに苦杯 くはい を喫 きっ することになってしまった。フィニョンは「彼 かれ は今 いま や、僕 ぼく の疫病神 やくびょうがみ ですよ」と苦々 にがにが しく述懐 じゅっかい している。
^ レモンによれば、この時 とき ランディスはドーピングの事実 じじつ を告白 こくはく すべきかをレモンに相談 そうだん 、レモンは全 すべ てを正直 しょうじき に告白 こくはく するよう助言 じょげん していたという。
^ アームストロングのドーピングが認定 にんてい された後 のち 、トレックとレモンの和解 わかい が成立 せいりつ し、レモンはフランスのTIMEと提携 ていけい して前述 ぜんじゅつ のように同車 どうしゃ の販売 はんばい を再開 さいかい している。
参考 さんこう 文献 ぶんけん ・資料 しりょう [ 編集 へんしゅう ]
『グレッグ・レモン』サミュエル・アプト 未知 みち 谷 だに 1995年 ねん 7月 がつ 初版 しょはん ISBN 978-4915841200
『ツール・ド・フランス 1985~1991 7YEARS BOX』 NHKエンタープライズ 2005年 ねん ASIN: B0009RB77Y
『ツール・ド・フランス 黄金 おうごん 時代 じだい 』北中 きたじゅう 康文 やすふみ えい出版 しゅっぱん 社 しゃ 2009年 ねん 3月 がつ 10日 とおか 初版 しょはん ISBN 978-4777912926
『バッド・ブラッド―ツール・ド・フランスの秘 ひ められた生活 せいかつ 』ジェレミー・ホイットル 未知 みち 谷 だに 2014年 ねん 5月 がつ 初版 しょはん ISBN 978-4896424423
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