グレッグ・レモン

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グレッグ・レモン
Greg LeMond
1989ねんツール・ド・トランプにおけるレモン
基本きほん情報じょうほう
本名ほんみょう Gregory James LeMond
愛称あいしょう "L'Americain"
"LeMonster"
生年月日せいねんがっぴ (1961-06-26) 1961ねん6月26にち(62さい
国籍こくせき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
身長しんちょう 178cm
体重たいじゅう 67kg
選手せんしゅ情報じょうほう
分野ぶんや ロードレース
特徴とくちょう オールラウンダー
アマチュア経歴けいれき
1976–1980 U.S. National Team
プロ経歴けいれき
1981–1984
1985–1987
1988
1989
1990–1994
Renault-Elf-Gitane
La Vie Claire
PDM
ADR
Z–Tomasso
主要しゅようレース勝利しょうり

グランツール

ツール・ド・フランス
総合そうごう優勝ゆうしょう (1986, 1989, 1990)
新人しんじんしょう (1984)
ふくごうしょう (1985, 1986)
区間くかん5しょう
ジロ・デ・イタリア
区間くかん1しょう (1986)

ステージレース

シルキュイ・ド・ラ・サルト (1980)
クアーズ・クラシック (1981, 1985)
ツール・ド・ラブニール (1982)
クリテリウム・デュ・ドフィネ・リベレ (1983)
ツアー・デュポン (1992)
獲得かくとくメダル
世界せかい自転車じてんしゃ選手権せんしゅけん
きむ 1983 オルテンレイン プロ・個人こじんロード
きむ 1989 シャンベリー プロ・個人こじんロード
ぎん 1982 グッドウッド プロ・個人こじんロード
ぎん 1985 ジャベラ・ディ・モンテロ プロ・個人こじんロード
ジュニア世界せかい選手権せんしゅけん
きむ 1979 個人こじんロード
最終さいしゅう更新こうしん
2016ねん6がつ17にち

グレッグ・レモン[注釈ちゅうしゃく 1]Greg LeMond1961ねん6月26にち - )は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくもと自転車じてんしゃプロロードレース選手せんしゅ1986ねん1989ねん1990ねんにアメリカじんとしては大会たいかい史上しじょうはつとなるツール・ド・フランス個人こじん総合そうごう優勝ゆうしょう達成たっせいしたほか、1983ねん1989ねん世界せかい選手権せんしゅけんせいしている。

キャリアのスタート[編集へんしゅう]

アマチュア時代じだい [編集へんしゅう]

レモンはもともと、スキー選手せんしゅとして活躍かつやくしており、夏場なつばのトレーニングの一環いっかんとして自転車じてんしゃっていた。はじめてロードバイクったのは13さいのときで、芝刈しばかりのアルバイトでめたおかねで10だん変速へんそく自転車じてんしゃったのがはじまりであった[1]。1976ねんごろからは父親ちちおやれられてロードレースに参加さんかするようになった。

しかしそこで非凡ひぼんなる成績せいせきしめし、1979ねんのジュニア世界せかい選手権せんしゅけん代表だいひょう選出せんしゅつされた。ここでロードできんメダル、そして競技きょうぎでもぎんどう獲得かくとくし、わずか18さいオリンピック代表だいひょう選出せんしゅつされた。しかし、モスクワ五輪ごりんはアメリカがボイコットしたため、実際じっさいにオリンピックでその姿すがたることはかなわなかった[2]

プロに転向てんこう[編集へんしゅう]

1981ねんに、プロとしてのいちした。前述ぜんじゅつしたジュニア世界せかい選手権せんしゅけん個人こじんロードで優勝ゆうしょうしたレモンの才能さいのうを、当時とうじベルナール・イノーローラン・フィニョン所属しょぞくしていたルノー・エルフ=ジタンチーム英語えいごばん監督かんとくであったシリル・ギマールいだしたことがきっかけであった。

プロり1ねんの1981ねんにはクアーズ・クラシックで優勝ゆうしょうつづく2ねんの1982ねんにはツール・ド・ラブニール優勝ゆうしょうとさっそく結果けっかのこした。

どう1982ねん世界せかい選手権せんしゅけんプロロードレースでは、レモンは優勝ゆうしょう目前もくぜんられながらも、最後さいご優勝ゆうしょうしたジュゼッペ・サローニ強烈きょうれつなスプリントりょくくっした。しかし、経験けいけんではなく実力じつりょくで2になれることを証明しょうめいし、よく1983ねんのアメリカじんはつ世界せかい選手権せんしゅけん優勝ゆうしょうへとつながってゆく。

ヨーロッパのロードレース文化ぶんかとの軋轢あつれき[編集へんしゅう]

フランスのプロチームであるルノー・エルフでプロとしてのキャリアをあゆはじめたが、アメリカじんであるレモンはヨーロッパの伝統でんとうてきなロードレースにおける食事しょくじ管理かんり体調たいちょう管理かんりかんがかた衝突しょうとつすることがおおくなった。いちれいとしては、だいのアイスクリームきであるレモンは「アイスクリームはからだわるい」としんじるチームと衝突しょうとつした。レモンは当時とうじをこう回想かいそうしている。「フランスの自転車じてんしゃ選手せんしゅって、レースになにいかってことに、とてもつよ固定こてい観念かんねんってますね」「アイスクリームはわるいがチーズならいとか、ワインはいけどピザは駄目だめとか。なにくてなにわるいかは自転車じてんしゃレースかい伝統でんとうによってまるものみたいにかんがえてるんです」[3]

ダイエットや体重たいじゅう管理かんり、その体調たいちょう管理かんりひとつひとつにかんするかんがかたでも、アメリカのスポーツかいにつけてきたレモンの常識じょうしきはフランスの常識じょうしきとは齟齬そごおおく、チームとは軋轢あつれきえなかった。最初さいしょころはチームメイトはだれもがレモンとの同室どうしついやがったという。アメリカじんのレモンは、就寝しゅうしんさいして外気がいき室内しつないれるのはくないとかんがえるフランスじん常識じょうしき理解りかいできず、このんでまどはなしていたからだった。また後年こうねん、ラ・ヴィ・クレール時代じだいのアメリカ遠征えんせいではチームメイトの意識いしきえようとアメリカ料理りょうりべさせようともこころみたが、チームメイトたちはフランス料理りょうりしかくちにしなかったという。ただしベルナール・イノーだけは例外れいがいで、アメリカ料理りょうり関心かんしんしめしたとレモンは回想かいそうしている[4]

ツール・ド・フランスでの活躍かつやく[編集へんしゅう]

1984ねん、レモンはベルナール・イノーとともに、フランスのだい富豪ふごうベルナール・タピげたしんチーム、ラ・ヴィ・クレール英語えいごばん移籍いせきした。そのラ・ヴィ・クレールでイノーのアシストとして参戦さんせんした1984ねんのツール・ド・フランスでは、レモンははつ参戦さんせんながら3でゴールし、マイヨ・ブラン新人しんじんしょう)を獲得かくとくする。なお、このとし優勝ゆうしょうしゃ後年こうねんのライバルであるローラン・フィニョンであり、エースのイノーは2であった。

1985ねんのツール・ド・フランスではだい21ステージでアメリカじんはつとなるステージ優勝ゆうしょうかざる。さらに、1986ねんのツール・ド・フランスでは、ヨーロッパ以外いがい出身しゅっしん選手せんしゅとしてはつとなる総合そうごう優勝ゆうしょうかざったが、これにはツール史上しじょうまれにみる、どういちチームの選手せんしゅによるあらそいがともなった(以下いか詳述しょうじゅつ)。また、同年どうねんジロ・デ・イタリア総合そうごう3となって表彰台ひょうしょうだいのぼった。

1986ねんジロ・デ・イタリアでもステージ1しょうげて総合そうごう4こう結果けっかのこしている。

イノーとの確執かくしつ[編集へんしゅう]

1985ねんツール[編集へんしゅう]

2度目どめ参戦さんせんとなった1985ねんのツール・ド・フランスでは、ラ・ヴィ・クレール英語えいごばんのチームで、それまでツール4しょうげていたエース、ベルナール・イノーのアシストをつとめることになった。そのイノーはレースをリードしていたが、ステージ途中とちゅう転倒てんとう事故じこ負傷ふしょうしていた。だい17ステージでレモンは、イノーをりにして先頭せんとう集団しゅうだんについていった。このため監督かんとくであったパウル・ケヒリは、レモンにたい後方こうほうがるよう指示しじした。しかしステージ終了しゅうりょう、レモンはイノーに2ふん25びょうをつけてリードしていた。このため当日とうじつよる緊急きんきゅうのチームミーティングがひらかれた。そこで、オーナーにより「イノーに総合そうごう優勝ゆうしょうさせる」、「レモンにはボーナス(日本円にほんえんにしてやく3,000まんえん)を支給しきゅうする」というチームオーダー決定けっていされた[5]。このツールでレモンはイノーにぐ2(1ふん42びょう)でレースをえたが、イノーのツール・ド・フランス5しょうのために、みずからの勝利しょうりはあきらめざるをなかった。

そのレモンはインタビューで、チームマネジャーとコーチのポール・コークリが、レモンにうそをつたえていたと暴露ばくろした(大切たいせつなステージちゅう、イノーとのレモンのは+3ふん以上いじょうあるとつたえていた)。これにたいしイノーは、来年らいねん自分じぶんがアシストにまわることを約束やくそくした。

1986ねんツール[編集へんしゅう]

しかしながら、1986ねんのツール・ド・フランスでは12ステージに、イノーは不調ふちょうのレモンをりにしてげをめ、5ぶんのアドバンテージをレモンにたいきずいた。翌日よくじつもイノーはげをめるが、約束やくそく反故ほごにされたことに激怒げきどしたレモンがじわじわとかえし4ふんはんもどした。パフォーマンスとしてラルプ・デュエズでの頂上ちょうじょうゴールで2人ふたりってゴールしてせたが、イノーはしつこくアタックをつづけた。結果けっかてきにこのとしのツールをせいしたのはレモンであったが、選手せんしゅのみならず観客かんきゃくにとってもストレスのまるレースとなった。露骨ろこつなまでのチームないでの裏切うらぎ自体じたいめずらしいことだが、それをイノーのようなスター選手せんしゅおこなったことは衝撃しょうげきであった。「かれはイオタでまったくぼくをアシストしてくれなかった。かれにはもう尊敬そんけいねんのかけらすらないよ。それどころかこのレースかれとはもう友達ともだちでもない。こんな裏切うらぎりはありえないよ。」とレースにレモンはかたっている[2]。なお、イノーの行動こうどうについては「レモンのライバル(とくに、優勝ゆうしょう候補こうほとして注目ちゅうもくされていたローラン・フィニョン)をワナにかけるため、あえて陽動ようどう作戦さくせん実施じっしした」、「(前人未到ぜんじんみとうの)ツールろくしょうがくらみ、みずからの約束やくそくたさなかった」といった、さまざまな憶測おくそくがなされている[6]

クアーズ・クラシックでの決裂けつれつ [編集へんしゅう]

ツール終了しゅうりょう開催かいさいされた同年どうねんのクアーズ・クラシックで、レモンとイノーのなか決定的けっていてき決裂けつれつした。このレースでイノーは現役げんえき最後さいご優勝ゆうしょうたすことになるが、レモンはこのレースではイノーのアシストにまわっていた。しかし、レースちゅう順位じゅんいげようと速度そくどげたレモンのはしり(結果けっかてきにレモンは2となった)をイノーは自分じぶんへのアタックとおもみ、レモンをはげしく非難ひなんした[7]。それにたいしてレモンは、このレースでは自分じぶんはアシストにてっするつもりだとして弁明べんめいこころみたがイノーはかず、2人ふたりはげしい口論こうろんとなってしまった。ここで2人ふたりなか完全かんぜんわってしまったとレモンはかたっている[8]

事故じこからの生還せいかん[編集へんしゅう]

1987ねんのツール・ド・フランスを2かげつひかえた1987ねん4がつ20日はつか、レモンにとって不幸ふこう事故じこカリフォルニアきた。狩猟しゅりょうなか同行どうこうしゃ散弾さんだんじゅうたまがレモンのむねたったのである[9]。レモンは大量たいりょう出血しゅっけつし、生死せいしふちをさまよった。一命いちめいをとりとめ、そのはリハビリにはげむものの、都合つごう2かい、ツール・ド・フランス出場しゅつじょう不可能ふかのうになった。このあいだ所属しょぞくチームも東芝とうしばルック(前身ぜんしんはラ・ヴィ・クレール)から、P.D.M英語えいごばんわったが成績せいせきるわず、プロ・ロードマン・ランキングも1986ねんの6から345にまで下降かこうしてしまった。1988ねん、P.D.Mから放出ほうしゅつされるかたちでベルギーの弱小じゃくしょうチーム、ADRボテッキアに移籍いせきした[10]

ツール・ド・フランスでの復活ふっかつ[編集へんしゅう]

マイヨ・ジョーヌたグレッグ・レモン(1990ねんツール・ド・フランス最終さいしゅうステージのスタート地点ちてんにて)

復活ふっかつした1989ねん、ツール・ド・フランスに先立さきだって参戦さんせんしたジロ・デ・イタリアでもレモンは総合そうごう47るわず、総合そうごう優勝ゆうしょうたしたローラン・フィニョンはる後塵こうじん(こうじん)をはいすることとなった。しかし、最後さいご個人こじんタイムトライアルでは2健闘けんとうし、復活ふっかつきざしもせつつはあった[11]。なおフィニョンも1983ねんと1984ねんに2ねん連続れんぞくでツール・ド・フランスを連覇れんぱしたのち負傷ふしょうなどで低迷ていめいし、「てない王者おうじゃ」などとばれるようになっており[12]、レモンより一足ひとあしさき復活ふっかつたすこととなった。ルノー・エルフ時代じだいにはチームメイトでもあり、おなじくベルナール・イノーのアシストやくになっていたレモンとフィニョンは、人間にんげん関係かんけいにおいてはけっして良好りょうこうではなかったが[13]選手せんしゅとしてはたがいに一定いってい敬意けいいはらっており、また負傷ふしょう低迷ていめいから復活ふっかつもの同士どうしとしての共感きょうかんっていた[14]1989ねんのツール・ド・フランスで、レモンは37もの散弾さんだんへんからだ(いくつかは心臓しんぞうのそば)にのこしたまま、20以内いない目標もくひょうにした。直前ちょくぜんジロ・デ・イタリアでの不振ふしん、また所属しょぞくチームも弱小じゃくしょうのADRボテッキアということでレースまえぜん評判ひょうばんひくかった。

しかし、レースがはじまってみると、得意とくいのタイムトライアルで好成績こうせいせきのこすとともに、アシストじん非力ひりきなために苦戦くせん予想よそうされた山岳さんがく[注釈ちゅうしゃく 2]ではフィニョンのスーパーUチーム[注釈ちゅうしゃく 3]のアシストをりるたくみな「間借まが作戦さくせん」で上位じょういをキープしつづ[12]最終さいしゅうステージ、パリでの個人こじんタイムトライアル時点じてんで、レモンは総合そうごう2ローラン・フィニョンにタイム+50びょうせまっていた。レモンは当時とうじ最新さいしんエアロバーバイクでタイムトライアルにのぞみ、フィニョンにこのステージで逆転ぎゃくてん総合そうごうで8びょうでマイヨ・ジョーヌをうばい、個人こじん総合そうごう優勝ゆうしょうたした[注釈ちゅうしゃく 4][注釈ちゅうしゃく 5][注釈ちゅうしゃく 6]

すう週間しゅうかん、さらにレモンは世界せかい選手権せんしゅけんプロロードレースで、最後さいごのゴールスプリントをせいし、2度目どめ優勝ゆうしょうたす[15][注釈ちゅうしゃく 7]。レモンは自転車じてんしゃ選手せんしゅとしてはじめて、『スポーツ・イラストレイテッドの1989年度ねんどスポーツマン・オブ・ザ・イヤーの栄誉えいよかがやいた。

よく1990ねんのツール・ド・フランスにレモンは移籍いせきしたZチーム英語えいごばんのエースとして、前年ぜんねん世界せかい選手権せんしゅけん優勝ゆうしょうしゃとしてマイヨ・アルカンシェルジャージをのぞんだ。序盤じょばんはライバルたちのマークにくるしみ、先行せんこうしたクラウディオ・キアプッチスティーブ・バウアー、チームメイトの、ロナン・パンセック英語えいごばんらにおおきく出遅でおくれてしまったためにレースちゅう監督かんとく命令めいれいによって一時いちじてきにエースから降格こうかくし、その時点じてんマイヨ・ジョーヌ獲得かくとくしていたパンセックのアシストにまわ状況じょうきょうにもなった[16]。レモンはチームオーダーにしたがいパンセックのアシストしながらも、だい12ステージ個人こじんタイムトライアルで地道じみちにタイムちぢめ、またパンセックがこの時点じてんマイヨ・ジョーヌうしなったこともあって、そのエースに復帰ふっき[16]最終さいしゅう前日ぜんじつ個人こじんタイムトライアル開始かいし時点じてんでは首位しゅいクラウディオ・キアプッチたいして5びょうの2にまで順位じゅんいもどしていた。けっきょくいちもステージ優勝ゆうしょうはできなかったが、前年ぜんねん同様どうよう最終さいしゅう個人こじんタイムトライアル(このとし最終さいしゅう前日ぜんじつ)でマイヨ・ジョーヌを獲得かくとく自身じしん3度目どめ総合そうごう優勝ゆうしょうたした。

後遺症こういしょうによる引退いんたい[編集へんしゅう]

4しょうねらったよく1991ねんのツール・ド・フランスは、総合そうごう優勝ゆうしょうしたミゲル・インドゥラインから13ふん13びょうおくれの7わった。

1992ねんにレモンは、アメリカじんはつのツアー・デュポン勝者しょうしゃとなる。しかし、これがプロ選手せんしゅとして最後さいご優勝ゆうしょうとなった。 

ツール・ド・フランスでは序盤じょばんではそこそこの成績せいせきのこすものの、山岳さんがくコースや高速こうそくしたさい集団しゅうだんからせんれることをかえし、1992ねん、1994ねんとリタイアにわった。このふがいないはしりで「ハングリー精神せいしんうしない、みずからがゆうするブランドの自転車じてんしゃむことばかりかんがえている」、「アスリートではなくビジネスマン」などとマスコミに叩(たた)かれた。しかし、その検査けんさにより、1987ねん事故じこ体内たいないのこされた散弾さんだんなまり原因げんいんかんがえられるミトコンドリアせい筋肉きんにく疾患しっかん進行しんこうしていることが判明はんめいする。 日常にちじょう生活せいかつでは支障ししょうがないものの、たかいレベルの運動うんどうおこなったときには筋肉きんにく酸素さんそ供給きょうきゅうされず、異常いじょう疲労ひろう体力たいりょく低下ていかまねくというアスリートにとって致命ちめいてきやまいであった。この検査けんさ結果けっかけて、1994ねん12月3にちにロサンゼルスでひらかれたアメリカ自転車じてんしゃ連盟れんめい各賞かくしょう授賞じゅしょうしきで、プロ自転車じてんしゃ選手せんしゅとしての引退いんたい発表はっぴょうした[9][17]

1997ねんのインタビューで、レモンは優勝ゆうしょうそこねた1985ねんツール、そして狩猟しゅりょう事故じこの1987 - 1988ねんのブランクによってうしなったチャンスをやみ、「仕方しかたがないけど、レースの歴史れきしえられないからね。」「でも、ツールで5かい優勝ゆうしょうできたはずなんだ。そう断言だんげんできる。」とコメントしている。

引退いんたい[編集へんしゅう]

自転車じてんしゃ競技きょうぎとフィットネス分野ぶんや専門せんもんせいかして、引退いんたいLeMond Bicycles英語えいごばんトレック・バイシクルの1部門ぶもんであったが現在げんざい離脱りだつ)やLeMond Fitnessなどの会社かいしゃこした。また、一時期いちじき運転うんてん技術ぎじゅつきそうレースからはなれられずすう年間ねんかんモータースポーツにはまっていた。

2005ねんおこなわれた日本にっぽんのアマチュアレース、ツール・ド・草津くさつには特別とくべつゲストとして参加さんかし、日本にっぽんのファンに元気げんき姿すがたせた。

2009ねんツアー・オブ・ジャパンにも特別とくべつゲストとして来日らいにちし、最終さいしゅう東京とうきょうステージではパレード走行そうこう先導せんどうやくつとめた。

2013ねん10がつ岩手いわてけん陸前高田りくぜんたかたおこなわれたツール・ド・三陸さんりくには特別とくべつ名誉めいよライダーとして参加さんか被災ひさいへのメッセージをせた[18]。2013ねん11月にはみずからプロデュースしたフレームの限定げんてい発売はつばい発表はっぴょうされた。レモンがツール・ド・フランスで総合そうごう優勝ゆうしょうしたとしにちなんだモデルめいで【Tour86】【Tour89】【Tour90】の3種類しゅるいぜん世界せかいかくモデル100ほんのみの限定げんてい生産せいさんである[19]

現在げんざい[いつ?]ミネソタしゅうメディナ在住ざいじゅう

ドーピングへの批判ひはん[編集へんしゅう]

後年こうねんランス・アームストロングのドーピング問題もんだいはげしく批判ひはんしたが、それ以前いぜん現役げんえき時代じだいからロードレースかいのドーピングと薬物やくぶつ規制きせいなるさにたいして一貫いっかんして批判ひはんしていた[20]

  • 成績せいせきれば、選手せんしゅ薬物やくぶつ使用しようしているとか、上手じょうずにトレーニングをこなしていないとかがわかるものですよ。そういう選手せんしゅかぎってあるしゅう成績せいせきくてつぎしゅうわるかったり」
  • 「プロのレースでもっとあやまっているのは薬物やくぶつ規制きせいをしていないことですね。必要ひつようなことですよ。ずいぶんたくさんの選手せんしゅ薬物やくぶつ使用しようしているんです。そんなことをするなんて本当ほんとう馬鹿ばかげていますよ」
  • 選手せんしゅ何人なんにんかがあしけん(けん)に問題もんだいがあるのは、薬物やくぶつ使用しようしているからなんです」
  • 薬物やくぶつ使用しようするやつなんて馬鹿ばかですよ。ステロイドは本当ほんとう有害ゆうがいですよ。それにたよりきりになっちゃいますからね」
  • 「けっきょくは自分じぶん自分じぶん選手せんしゅ生命せいめいちぢめて、代価だいか支払しはらわされることになるんです」

レモンのどう時代じだい選手せんしゅとしては、ローラン・フィニョンペドロ・デルガドらには陽性ようせい反応はんのう履歴りれきがあった。一方いっぽうレモンは、確執かくしつのあったベルナール・イノーについては、そのクリーンさをみとめる発言はつげんをしている[21]。P.D.M在籍ざいせき時代じだい、チームのマッサージだったオット・ジャーコムのげんによれば、レモン自身じしんなに問題もんだいもないビタミンざい注射ちゅうしゃすらしなかった[22]

アームストロングへの批判ひはんたたか[編集へんしゅう]

2001ねんに、レモンは当時とうじツール・ド・フランスを連覇れんぱちゅうであったランス・アームストロング成功せいこうドーピングちからによるものと示唆しさし、論争ろんそうこした[23]。「アメリカじんによるツール総合そうごう優勝ゆうしょう」、「生命せいめい危機ききからの奇跡きせき復帰ふっき」といった共通きょうつうこうゆうする先輩せんぱいが、ツールで活躍かつやくつづける現役げんえき選手せんしゅ批判ひはんしたことは、世界せかいてき衝撃しょうげきあたえることになった。

さらに、アームストロングがツール連覇れんぱつづけた2004ねん7がつにも、ふたたび「もしもアームストロングがクリーンなら、まれにみる復活ふっかつげきだ。そしてもしもクリーンではなかったとしたら、史上しじょうまれにみる茶番ちゃばんだ」とコメントした[24]。また「ランスにはなんでも秘密ひみつにしておける才能さいのうがあるようだね。どうやってみんなに潔癖けっぺきさをしんませつづけているのかわたしには理解りかい不能ふのうだ」と『ル・モンドへのコメントでかたった[25]

これにたいしアームストロングは反論はんろんし、著書ちょしょにおいても引用いんようしている[26]。しかし、レモンはアームストロングやドーピングへの批判ひはんめず、そのためさまざまな報復ほうふく困難こんなんうことになった。

  • 2006ねん、レモンは、のちにアームストロングのドーピングを告発こくはつした1人ひとりで、自身じしんもドーピングによって2006ねんのツール・ド・フランス総合そうごう優勝ゆうしょうのタイトルを剥奪はくだつされたフロイド・ランディスたいする公聴こうちょうかいエディ・メルクスとともに参考さんこうじんとして証言しょうげんもとめられていたが、そのマネージャーから公聴こうちょうかい出廷しゅっていしないよう脅迫きょうはく電話でんわけていた。後日ごじつ、ランディスのマネージャーは脅迫きょうはく電話でんわ事実じじつみとめ、レモンとその家族かぞく謝罪しゃざいした[27][注釈ちゅうしゃく 8]
  • 2008ねん、レモンのブランドバイク「LeMond Bicycles」を販売はんばいしていたトレック・バイシクル(トレックはアームストロングのおもなスポンサー)は、レモンが長年ながねんアームストロングとトレックにたいして「悪意あくいあるコメント」をおこなってきたとして、販売はんばい停止ていしもとめる訴訟そしょう提訴ていそした[28]。これによってレモンは以降いこう5年間ねんかんにわたって、事実じじつじょう同車どうしゃ販売はんばいができなくなってしまった[注釈ちゅうしゃく 9]

2012ねん8がつ24にち米国べいこくはんドーピング機関きかん(USADA)は、ドーピング違反いはん告発こくはつしたランス・アームストロングについて、7連覇れんぱ達成たっせいしたツール・ド・フランスのタイトルがふくまれる1998ねん8がつ1にちから2012ねん現在げんざいまでの競技きょうぎ成績せいせき剥奪はくだつ、さらに自転車じてんしゃ競技きょうぎからの永久えいきゅう追放ついほう処分しょぶんす、と発表はっぴょう[29]、2013ねん1がつ14にちにはアームストロング自身じしんもドーピングをおこなっていたことをみとめた。この結果けっか、レモンの指摘してきただしかったことが証明しょうめいされたが、そのあいだにレモンがけたさまざまな妨害ぼうがい被害ひがいはとてもおおきいものであった。

おも戦績せんせき[編集へんしゅう]

1977ねん

  • アメリカ・ナショナル・ロードレース選手権せんしゅけんジュニア部門ぶもん 優勝ゆうしょう

1979ねん

  • 世界せかい選手権せんしゅけん自転車じてんしゃ競技きょうぎ大会たいかいロードレース ジュニア部門ぶもん 優勝ゆうしょう
  • アメリカ・ナショナル・ロードレース選手権せんしゅけんジュニア部門ぶもん 優勝ゆうしょう

1981ねん

  • クアーズ・クラシック 総合そうごう優勝ゆうしょう
    • だい1、7ステージ優勝ゆうしょう

1982ねん

1983ねん

1984ねん

1985ねん

1986ねん

1989ねん

1990ねん

1991ねん

1992ねん

  • ツアー・デュポン総合そうごう優勝ゆうしょう
    • プロローグ優勝ゆうしょう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 正式せいしきなフルネームは「Gregory James LeMond」であり、「Greg」は愛称あいしょうである。日本にっぽんではしばしばかれ苗字みょうじLeMond」は1記載きさいされるためか、そのまま発音はつおんだい1音節おんせつこうアクセントいて発音はつおんされることがおおいが(果物くだものレモンおなじ)、本来ほんらいは「Le + Mond」であり、発音はつおんはMondのだい1音節おんせつつよアクセントをく(すなわち「ル・モーン」)。
  2. ^ このときテレビ解説かいせつをしていたベルナール・イノー山岳さんがくステージまえに「これからレモンはくるしくなるよ。かれのチームは平地ひらちいけど、山岳さんがくつよくないからね」と解説かいせつしている。
  3. ^ 後年こうねん日本にっぽん新城しんじょう幸也ゆきや所属しょぞくするチーム・ヨーロッパカー前身ぜんしんである。
  4. ^ レモンが表彰台ひょうしょうだいよろこびをあらわにするのとは対照たいしょうてきに、フィニョンはかたとしすわんだ。フィニョンはとくわなかったが、最終さいしゅうなんにちかサドルによるまたずれくるしんでいた。
  5. ^ この総合そうごう1、2のタイム8びょうというは、いまなおツール史上しじょう最小さいしょうタイムである。レモンはこのとき、フィニョンになにっていいかわからなかったとのち回想かいそうしている。
  6. ^ 最終さいしゅうステージでレモンがマークした平均へいきん時速じそく54.545kmは、2021ねん現在げんざい距離きょり20km以上いじょう個人こじんタイムトライアルの最速さいそく記録きろくであるが、この認定にんてい以下いか理由りゆうからほとんど意味いみがない。まず、このコースはベルサイユを出発しゅっぱつしてからくだ基調きちょうのコースであって、パリにはいってからは平坦へいたんなコース構成こうせいであったために、そもそも高速こうそく走行そうこう期待きたいできること。これにたいして、プロローグと山岳さんがくコースをのぞ個人こじんタイムトライアルのうち20km以上いじょうのレースは、2021ねんまでに30大会たいかいおこなわれているが、そのうち30kmをえる大会たいかいが26大会たいかいであることから、なが距離きょり走行そうこうするほど平均へいきん時速じそくちる傾向けいこうにあるということ。さらに、のこりの4大会たいかい、つまり20km以上いじょう30km未満みまんのコースだった大会たいかいでは、いずれものぼりをふくむコースであり、この部分ぶぶん走行そうこう大幅おおはばにタイムがちる傾向けいこうにあること。距離きょりを20km以上いじょう恣意しいてき限定げんていしたうえで、このコースよりも条件じょうけんわるいコースと比較ひかくすれば、より上位じょうい記録きろくになるのはたりまえである。ちなみに、2005ねん大会たいかいのプロローグとして実施じっしされた個人こじんタイムトライアルでは、デヴィッド・ザブリスキーが19kmを20ふん51びょう走行そうこうし、平均へいきん時速じそく54.676kmを記録きろくしており、レモンの記録きろく上回うわまわっている。距離きょり限定げんていしない場合ばあいどう大会たいかいでの最速さいそく記録きろくは、クリス・ボードマン所持しょじしている55.152km/h (1994ねん距離きょり7.2km)である。なお、リック・フェルブリュッヘ英語えいごばんは2001ねんジロ・デ・イタリアのプロローグで58.895km/h (7.6km)を達成たっせいしている。
  7. ^ このとき、フィニョンはまたもゴールスプリントでレモンに3びょうけ、ツールにつづいてレモンに苦杯くはいきっすることになってしまった。フィニョンは「かれいまや、ぼく疫病神やくびょうがみですよ」と苦々にがにがしく述懐じゅっかいしている。
  8. ^ レモンによれば、このときランディスはドーピングの事実じじつ告白こくはくすべきかをレモンに相談そうだん、レモンはすべてを正直しょうじき告白こくはくするよう助言じょげんしていたという。
  9. ^ アームストロングのドーピングが認定にんていされたのち、トレックとレモンの和解わかい成立せいりつし、レモンはフランスのTIMEと提携ていけいして前述ぜんじゅつのように同車どうしゃ販売はんばい再開さいかいしている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 『グレッグ・レモン』p29、未知みちだに、1995ねん
  2. ^ a b http://www.cyclingtime.com/modules/ctnews/view.php?p=19191
  3. ^ 『グレッグ・レモン』p45、未知みちだに、1995ねん
  4. ^ 『グレッグ・レモン』p44.46、未知みちだに、1995ねん
  5. ^ 安家あつか達也たつや『ツール100 -ツール・ド・フランス100ねん歴史れきし』p.230、未知みちだに、2003ねん ISBN 4-89642-079-9
  6. ^ 安家あつか達也たつや前掲ぜんけいp.233
  7. ^ 『グレッグ・レモン』p164.165、未知みちだに、1995ねん
  8. ^ 『グレッグ・レモン』p165.166、未知みちだに、1995ねん
  9. ^ a b http://www.kazg.net/kazg_htmls/about_gl.html
  10. ^ 『グレッグ・レモン』pⅴ、未知みちだに、1995ねん
  11. ^ 『グレッグ・レモン』pⅵ、未知みちだに、1995ねん
  12. ^ a b 『ツール・ド・フランス 1985~1991 7YEARS BOX』5かん NHKエンタープライズ 2005ねん
  13. ^ 『グレッグ・レモン』p285、未知みちだに、1995ねん
  14. ^ 『グレッグ・レモン』p286、未知みちだに、1995ねん
  15. ^ 『グレッグ・レモン』p305.306、未知みちだに、1995ねん
  16. ^ a b 『ツール・ド・フランス 1985~1991 7YEARS BOX』6かん NHKエンタープライズ 2005ねん
  17. ^ 『グレッグ・レモン』pⅷ、未知みちだに、1995ねん
  18. ^ ツール・ド・三陸さんりく公式こうしきサイト
  19. ^ サイクルスポーツ 2013ねん11月19にち
  20. ^ 『グレッグ・レモン』p195~198、未知みちだに、1995ねん
  21. ^ 『グレッグ・レモン』p195、未知みちだに、1995ねん
  22. ^ 『グレッグ・レモン』p215、未知みちだに、1995ねん
  23. ^ http://sportsillustrated.cnn.com/cycling/news/2001/08/02/armstrong_lemond_ap
  24. ^ http://sports.espn.go.com/espn/news/story?id=1841300
  25. ^ http://sports.espn.go.com/oly/news/story?id=1840215
  26. ^ 毎秒まいびょうきるチャンス!』p.100 ランス・アームストロング / サリー・ジェンキンス
  27. ^ ランディスのマネージャーがレモン謝罪しゃざい - AFPBB News 2007ねん5がつ19にちづけ記事きじ
  28. ^ Trek Bicycle sues to sever ties with Greg LeMondMilwaukee Business Journal 2008ねん4がつ8にちづけ記事きじ英語えいご
  29. ^ アームストロングのツール7連覇れんぱ剥奪はくだつべいはんドーピング機関きかん - AFPBB News 8がつ25にちづけ記事きじ

参考さんこう文献ぶんけん資料しりょう[編集へんしゅう]

  • 『グレッグ・レモン』サミュエル・アプト 未知みちだに 1995ねん7がつ初版しょはん ISBN 978-4915841200
  • 『ツール・ド・フランス 1985~1991 7YEARS BOX』 NHKエンタープライズ 2005ねん ASIN: B0009RB77Y
  • 『ツール・ド・フランス 黄金おうごん時代じだい北中きたじゅう康文やすふみ えい出版しゅっぱんしゃ 2009ねん3がつ10日とおか初版しょはん ISBN 978-4777912926
  • 『バッド・ブラッド―ツール・ド・フランスのめられた生活せいかつ』ジェレミー・ホイットル 未知みちだに 2014ねん5がつ初版しょはん ISBN 978-4896424423

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]