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クンドゥン

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
クンドゥン
Kundun
監督かんとく マーティン・スコセッシ
脚本きゃくほん メリッサ・マシスン
製作せいさく バーバラ・デ・ティーナ
製作せいさくそう指揮しき ローラ・ファットリ
音楽おんがく フィリップ・グラス
撮影さつえい ロジャー・ディーキンス
編集へんしゅう セルマ・スクーンメイカー
配給はいきゅう アメリカ合衆国の旗 ブエナビスタ
日本の旗 東北新社とうほくしんしゃ
公開こうかい アメリカ合衆国の旗 1997ねん12月25にち
日本の旗 1999ねん7がつ10日とおか
上映じょうえい時間じかん 135ふん
製作せいさくこく アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
言語げんご 英語えいご
チベット
中国ちゅうごく
製作せいさく $28,000,000[1]
興行こうぎょう収入しゅうにゅう $5,684,789[1]
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クンドゥン』(原題げんだい: Kundun)は、ダライ・ラマ14せい半生はんせいえがいた、1997ねんアメリカ映画えいがマーティン・スコセッシ監督かんとくメリッサ・マシスン脚本きゃくほん

1998ねんのアカデミーしょういて4部門ぶもんがノミネートされた。

概要がいよう

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チベット最高さいこう指導しどうしゃダライ・ラマ14せいの、インド亡命ぼうめいいたるまでのぜん半生はんせいえがいた伝記でんき映画えいがで、ダライ・ラマ14せい自身じしんがさまざまなアドバイスを提供ていきょうした。出演しゅつえんしゃはダライ・ラマのおい息子むすこ主役しゅやくえんじて、母親ははおややくもダライ・ラマの実母じつぼ親族しんぞくなど、俳優はいゆうとしては素人しろうと亡命ぼうめいチベットじんだい多数たすうをしめた。撮影さつえい当初とうしょインド北部ほくぶ予定よていされたがかなわず、チベット高原こうげんがよくモロッコおこなわれた。

監督かんとくはイタリアけい移民いみんカトリック教育きょういくそだったマーティン・スコセッシ脚本きゃくほん自身じしんチベット仏教ぶっきょう帰依きえしたメリッサ・マシスン当時とうじ俳優はいゆうハリソン・フォードつま)、音楽おんがくフィリップ・グラスもチベット仏教徒ぶっきょうとであった。

題名だいめいクンドゥンかれ尊称そんしょう Kundunチベット文字もじསྐུ་མདུན་ワイリー方式ほうしきsku mdun文字通もじどおりには「御前ごぜん」)に由来ゆらいする。これはチベットじんがダライ・ラマに敬愛けいあい親愛しんあいじょうめてぶときの尊称そんしょうで、「とうといもの」または「存在そんざい(Presence)」というような意味いみち、法王ほうおう法王ほうおう猊下げいかとも意訳いやくされる。

あらすじ

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1937ねん僧侶そうりょ召使めしつかいに変装へんそうした高僧こうそうがチベット東部とうぶアムド(げん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく青海せいかいしょう)の田舎いなかにある質素しっそ農家のうかる。そのいえのラモ・ドンドゥプというすえ幼児ようじ高僧こうそうになつき、かれくびにかけている数珠じゅずを「これはぼくのだ」といいはる。今度こんど本来ほんらい服装ふくそういえたずねた高僧こうそうは、だれ著名ちょめい高僧こうそう遺品いひんを、よく物品ぶっぴんべてラモ(「守護しゅごしゃ」の)にせると、ラモはことごとく本物ほんもの遺品いひんをいいあてる。高僧こうそうたちは感動かんどうし、おもわず「クンドゥン」とつぶやく。どうやらラモはだれ高位こういそう化身けしんラマ転生てんせいしゃとして認定にんていされたらしい。だがそのこと自体じたいは、ラモの家族かぞくにとって名誉めいよなことではあるが、そんなにめずらしいことにもおもえなかった。

2ねんむかえに僧侶そうりょたちにれられ、ラモ少年しょうねん家族かぞくラサかう。すでに近所きんじょ僧院そういん修行しゅぎょうするのラモの長兄ちょうけいは「おまえ立派りっぱなおぼうさんになるんだよ。こわがることはない。こうやってつけられたどもはいままでにもたくさんいたし、これからだっている」とう。宿営しゅくえいあたまられるのをいやがってしたラモは、摂政せっしょうのレティン・リンポチェのテントにむ。レティンはかれを「クンドゥン」とび、きとしけるものすべてをあいするために、またこのまれわってたのだとげる。

なにやら仰々ぎょうぎょうしい儀式ぎしき上座かみざすわらされたラモに、レティンは「観音かんのん菩薩ぼさつ化身けしんねがいをかなえたもう宝珠ほうしゅだい14せいダライ・ラマ」とびかける。数珠じゅず様々さまざま遺品いひんも1933ねん崩御ほうぎょしたダライ・ラマ13せい遺品いひんであり、ラモはその転生てんせいとして認定にんていされたのだった。

ダライ・ラマになったラモは歴代れきだい法王ほうおう住居じゅうきょでありチベットの政治せいじ宗教しゅうきょう中心ちゅうしんであるラサのポタラみやむことになり、あそ相手あいてとしてすぐうえあに一緒いっしょそだてられる。だがおやはなされ、高僧こうそうたちにかこまれ、くら重々おもおもしいポタラに、おさないダライ・ラマはなかなかなじめない。養育よういくがかりつとめるポタラみや給仕きゅうじちょうポンポは、「なつ離宮りきゅうほうるでしょう」とう。そのなつ離宮りきゅうノルブリンカみやには両親りょうしんいえもあり、かれ動物どうぶつゆたかな自然しぜんかこまれて無邪気むじゃきにのびのびとそだつ。

5ねん1944ねんだい世界せかい大戦たいせんのことも外国がいこく雑誌ざっしやニュース・フィルムでるくらいの、平和へいわえるポタラみやで、ダライ・ラマは仏教ぶっきょう哲学てつがくまなび、様々さまざま修行しゅぎょうけて利発りはつ好奇心こうきしん旺盛おうせい少年しょうねんへと成長せいちょうしている。あるばんかれ摂政せっしょうのレティンと側近そっきん高僧こうそうタクバ・リンポチェが密談みつだんしているのをいてしまう。タクバはレティンに、摂政せっしょう辞任じにんして隠遁いんとんするようにすすめていた。ある、ダライ・ラマ少年しょうねん西洋せいようからのおくものである望遠鏡ぼうえんきょうまちていて、ポタラ宮内くない建物たてもの屋上おくじょうあしくさりつながれたおとこがいるのをる。閣議かくぎでレティンの辞任じにん報告ほうこくされ、ダライ・ラマはタクバを摂政せっしょう任命にんめいする。

仏教ぶっきょう教義きょうぎ試験しけんをダライ・ラマがけているとき、突然とつぜん銃声じゅうせいがポタラみやひびく。僧侶そうりょたちは少年しょうねんあたまから袈裟けさをかぶせ、あわてて保護ほごする。「あなたのおみみれるようなことではありません」と高僧こうそうたちに、少年しょうねんダライ・ラマは「なぜぼくいてはいけないのか」とおこる。しぶしぶ説明せつめいする側近そっきんたちによると、レティンが摂政せっしょう復帰ふっきしようとして逮捕たいほされ、その一派いっぱそうたちが発砲はっぽうしたのだとう。「そうじゅうってるの?」とショックをけるダライ・ラマ。逮捕たいほされたレティンはポタラ宮内くない牢獄ろうごく収監しゅうかんされたという。「ポタラに牢獄ろうごくがあったのか」とさらにショックをけるダライ・ラマに、宮内みやうち長官ちょうかんのパラが「ポタラにはむかしから牢獄ろうごくがあります」といにくそうにつたえる。レティンのクーデター未遂みすいについて質問しつもんするダライ・ラマだが、パラたちは「いろいろ複雑ふくざつ事情じじょうがありまして」としかってくれない。ダライ・ラマはレティンにいたいというが制止せいしされ、「かれわたしいだしてくれたひとだ。わたしだ。待遇たいぐうをするように」としかえない。中国ちゅうごくのことをたずねても、「それもいろいろ複雑ふくざつ事情じじょうがありまして」との返事へんじ中国ちゅうごくがわがチベットを中国ちゅうごく一部いちぶだと主張しゅちょうはじめているとわれ、ダライ・ラマは「チベットがチベットだ」とう。タクバが「我々われわれ中国ちゅうごくは、そのてんではけっして同意どういしないということで同意どういしてたのです」と説明せつめいする。チベットと自分じぶんかれた複雑ふくざつ政治せいじてき立場たちばがなんとなくにはかって少年しょうねんダライ・ラマは、「これからおおくのことをえなければいけない」と決意けついする。パラがダライ・ラマ13せい後継こうけいしゃのこした手紙てがみかせる。少年しょうねんのダライ・ラマは「ぼくなに出来できるの? ただのどもなのに」としかえない。パラは「あなたはこの手紙てがみいたひとであり、我々われわれみちびくためにまれわってたのです」という。そしてレティン・リンポチェの服毒ふくどく自殺じさつ報告ほうこくされる。ダライ・ラマのちちくなり、とりそうおこなわれる[2]

5ねん1949ねんかぞとしで16さいになったダライ・ラマに、摂政せっしょうタクバ・リンポチェが中国ちゅうごく中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつしたこと、毛沢東もうたくとうが「チベットが中国ちゅうごく一部いちぶであることをみとめる」などのみっつの条件じょうけんきつけてたことを報告ほうこくする。タクバはダライ・ラマに正式せいしき元首げんしゅとして即位そくいすることを進言しんげんするが、かれは「わたしはまだ少年しょうねんだから」と躊躇ちゅうちょする。歴代れきだいのダライ・ラマは18さい即位そくいしているから、自分じぶんもそれまではってしい、と。だが人民じんみん解放かいほうぐんがチベットに侵攻しんこう開始かいし、ダライ・ラマは即位そくいして即座そくざインド国境こっきょうちかいドゥンカル僧院そういん避難ひなんすることになる。即位そくい同時どうじ政治せいじはん恩赦おんしゃと、各国かっこく国際こくさい連合れんごうにチベット独立どくりつへの支持しじ要請ようせいする使者ししゃすことをめいずるダライ・ラマだが、その使者ししゃはインドですら無視むしされ、国連こくれんでもげられない。16さい元首げんしゅは、中国ちゅうごくとの困難こんなん交渉こうしょうみずかうことになる。どものころからの世話せわがかりだったノルブに、ダライ・ラマは「レティン・リンポチェが本当ほんとうただしい転生てんせいしたどもをつけたのか、うたがったことはないか」とたずねる。ノルブは「わたし一切いっさいありません。あなた以外いがいだれただしかったか間違まちがいだったかかるのか」という。ラサを出発しゅっぱつするわかぎわに、ノルブはダライ・ラマに携帯けいたいしき電灯でんとうおくる。

避難ひなんさきで、よる、ダライ・ラマはラジオで自分じぶん使節しせつだん中国ちゅうごくからじゅうななじょう協定きょうていしょうするものに無理矢理むりやり合意ごういさせられたことをき、むねいたみをおぼえてたおれる。人民じんみん解放かいほうぐん使節しせつ面会めんかいするダライ・ラマは、ラサにもどるように要請ようせいされるが、なにもわない。安全あんぜん保証ほしょうできないとインドへの亡命ぼうめい主張しゅちょうする内閣ないかくたいし、パラは「インドにかれたら、ラサにおもどりになれるかどうか保証ほしょうはできません」と進言しんげんする。そのよるゆめのなかで人民じんみん解放かいほうぐん将軍しょうぐんたちが、毛沢東もうたくとう以前いぜん中国ちゅうごくがいかに悲惨ひさんで、人々ひとびとしいたげられ、えていたのかをかたる。一人ひとり将軍しょうぐんは、おとこあかぼう死体したい料理りょうりしようとしながら「おれころしたんじゃない。勝手かってんだんだ!」とさけんでいた、とう。

人民じんみん解放かいほうぐん使節しせつ要望ようぼうおうじて、ポタラみやもどったダライ・ラマを、はは長兄ちょうけいタクツェル・リンポチェ)がたずねる。「おかあさん、僧院そういんちたら女性じょせい禁止きんしですよ」とってはは人払ひとばらいしたダライ・ラマに、長兄ちょうけい人民じんみん解放かいほうぐん進駐しんちゅう体験たいけんはなし、おどろくべきことをげる。「中国人ちゅうごくじんわたしがあなたを説得せっとくすることを条件じょうけん釈放しゃくほうしてくれました。かれらは、もしわたしがあなたを説得せっとくできなかった場合ばあい、あなたをころせ、とった[3]」。ダライ・ラマは愕然がくぜんとし、「かれらは、あにおとうところせると本気ほんきしんじているのか?」とつぶやく。

ダライ・ラマはみずか北京ぺきんかい、毛沢東もうたくとう交渉こうしょうすることを決意けついする。側近そっきんたちは共産きょうさん主義しゅぎ嫌悪けんおかくさないが、ダライ・ラマは好奇心こうきしん旺盛おうせいどもの合唱がっしょういたりしている。毛沢東もうたくとうかれ歓待かんたいし「はは仏教徒ぶっきょうとでした」と理解りかいしめし、ダライ・ラマも一時いちじは「仏教ぶっきょう社会しゃかい主義しゅぎには共通きょうつうするところもあるから、共存きょうぞん可能かのうだ」とさえおもう。ゆめのなかで、タクバ、ノルブ、そしてちちがそれぞれに「さようなら、クンドゥン」とってっていく。ダライ・ラマはおもわず「だれんではならない」とさけんでます。だがラサにもど前夜ぜんやかれまねいた毛沢東もうたくとうは「ひとつだけあなたに忠告ちゅうこくがあります。宗教しゅうきょうどくです。民族みんぞくおとろえさせるどくなのです。チベットはそのどくおかされているのです」とい、それをいたダライ・ラマは戦慄せんりつする。

ダライ・ラマはチベットにもどり、生家せいかたずねる。かつてゆたかにけむりげていたかまどにはもなく、家中いえじゅうには「中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく万歳ばんざい」「毛沢東もうたくとう主席しゅせきまんさい」といった中国ちゅうごく標語ひょうごや、毛沢東もうたくとう写真しゃしんかざられている。「しあわせですか」とそこに老女ろうじょたずねるダライ・ラマ。老女ろうじょくるしそうになみだをこらえながら「中国共産党ちゅうごくきょうさんとうもう主席しゅせきのご指導しどうしたわたしたちはしあわせです」とう。ダライ・ラマはその老女ろうじょほおおもわず両手りょうてつつむ。

ラサにもどると、人民じんみん解放かいほうぐん食糧しょくりょうなどの無理むり要求ようきゅうに、チベット政府せいふ首相しゅしょう辞職じしょくするしかなくなる。人民じんみん解放かいほうぐんはチベットぐん自分じぶんたちの指揮しきにおき、ゲリラの掃討そうとう作戦さくせん参加さんかさせるとまでいいだす。チベット各地かくちから僧院そういん破壊はかいされ、たいした武器ぶきももたないゲリラが人民じんみん解放かいほうぐん掃討そうとうされているという報告ほうこくとどく。さらには、僧侶そうりょ尼僧にそう路上ろじょう陵辱りょうじょくされ、チベットの子供こどもたちが自分じぶんおやころすことを強制きょうせいさせられている、とき、ダライ・ラマはかおおおってくずちる。ゆめのなかでノルブリンカみや中庭なかにわち、周囲しゅうい見回みまわすダライ・ラマ。その周囲しゅういにははる彼方かなたまで僧侶そうりょたちのまみれの死体したいころがっている。人民じんみん解放かいほうぐんからはダライ・ラマの誘拐ゆうかい暗殺あんさつにおわす招待しょうたいじょうまでとどけられる。それでもダライ・ラマは「わたし責任せきにんわたし民衆みんしゅうとともにあることだ」とって、側近そっきんの「インドに亡命ぼうめいすべき」という進言しんげん退しりぞつづける。ダライ・ラマをまもるためにノルブリンカみや周囲しゅういにはチベットの民衆みんしゅう続々ぞくぞく集結しゅうけつするが、かれらの意見いけんも「かけがえのいおいのちです、げてください」と「かないでください」にまっぷたつにわかれている。だがノルブリンカみや爆撃ばくげきすることをにおわす脅迫きょうはくめいた書簡しょかん人民じんみん解放かいほうぐんからとどけられ、ラサの緊張きんちょう最高潮さいこうちょうたっし、中国ちゅうごくがわ全面ぜんめんてき武力ぶりょく行使こうしって危険きけんたかまる。ダライ・ラマはチベットのたましいまもるためには、自分じぶん亡命ぼうめいする以外いがいにないと決意けついする。

兵士へいし変装へんそうしたダライ・ラマはわずかな側近そっきんたちをれて夜中よなか離宮りきゅう脱出だっしゅつする。辺境へんきょうにたどりついたダライ・ラマは、中国ちゅうごくからけられたじゅうななじょう協定きょうていあらためて拒否きょひし、チベット臨時りんじ政府せいふ樹立じゅりつと、チベットの主権しゅけん保持ほじ宣言せんげんする。そして、人民じんみん解放かいほうぐん追跡ついせきのがれながらヒマラヤのけわしい雪山ゆきやまをすりけるくるしいたびつづけ、しん衰弱すいじゃくしながらインド国境こっきょうにたどりつく。側近そっきんから「我々われわれったのです。みずからのあしでインドにおはいりください」とうながされたダライ・ラマはうし背中せなかからり、よろよろとインドの国境こっきょう検問けんもんしょすすめる。インドの国境こっきょう警備けいびへいから「敬意けいいをこめておうかがいします。あなたは仏様ほとけさまでしょうか?」とわれたかれは、「わたしはただのおとこふつつかえる一介いっかい僧侶そうりょぜんおこない、自己じこにめざめる努力どりょくつづけているものだ」とこたえる。

インド政府せいふ用意よういした質素しっそ建物たてものいたダライ・ラマは、望遠鏡ぼうえんきょうをとりだしてヒマラヤの雪山ゆきやま遠望えんぼうし、はるか彼方かなたのチベットにおもいをせる。

出演しゅつえん

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役名やくめい 俳優はいゆう 日本語にほんご吹替
ダライ・ラマ14せい成人せいじん テンジン・トゥタブ・ツァロン 小野塚おのづか貴志たかし
ダライ・ラマ14せい(12さい ギュルメ・テトン 亀井かめい芳子よしこ
ダライ・ラマ14せい(5さい トゥルク・ジャムヤン・クンガ・テンジン
ダライ・ラマ14せい(2さい テンジン・イェシェ・パチュン
はは テンチョ・ギャルポ 種田たねた文子ふみこ
ちち ツェワン・ミギュル・カンサー 星野ほしのたかしあきら

その

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チベットを自国じこく領土りょうどとし、ダライ・ラマ14せい政治せいじ活動かつどうみとめていない中国ちゅうごくが、この映画えいがをチベットで撮影さつえいすることを許可きょかするはずがく、ロケはチベット本土ほんどでは当然とうぜん不可能ふかのうであった。このため、当初とうしょヒマラヤ山脈ひまらやさんみゃくはさんだインド北部ほくぶ予定よていされていたが、インド政府せいふ政治せいじてき理由りゆうからなかなか許可きょかさず、結果けっかてきに、撮影さつえいおもモロッコおこなわれた。壮大そうだいなポタラみやもモロッコに大掛おおがかりなセットをんで撮影さつえいされ、そとけいは3Dデジタル・マット・ペインティングなどを駆使くしして再現さいげんされた。詳細しょうさい間取まどなどについては、ダライ・ラマ14せい自身じしんふくおおくの亡命ぼうめいチベットじんへの取材しゅざいもとづいている。モロッコを主要しゅようなロケえらんだのは、マーティン・スコセッシ監督かんとく以前いぜんにそこで『最後さいご誘惑ゆうわく』を撮影さつえいしていたからでもあり、また地形ちけいてきチベット高原こうげんていたからである。

作中さくちゅうのセリフはほぼ英語えいご一部いちぶはチベット)だが、出演しゅつえんしゃのほとんどが亡命ぼうめいチベットじん。ダライ・ラマの青年せいねんえんじたテンジン・トゥタブ・ツァロン(Tenzin Thuthob Tsarong)はダライ・ラマ14せいおい息子むすこである。インド北部ほくぶダラムサラにおかれたチベット亡命ぼうめい政府せいふ文化ぶんか機関きかん全面ぜんめんてき協力きょうりょくけ、チベットの建築けんちく服装ふくそう仏教ぶっきょう儀式ぎしき民衆みんしゅう文化ぶんか緻密ちみつ再現さいげんされている。

登場とうじょう人物じんぶつ主観しゅかん描写びょうしゃ多用たようするスコセッシ独特どくとくのスタイルがとくにめられた作品さくひんでもあり、史実しじつ非常ひじょう忠実ちゅうじつでありながら、歴史れきしてき背景はいけい説明せつめい最低限さいていげんさえられ、主人公しゅじんこうダライ・ラマの目線めせんでチベットの文化ぶんか歴史れきし体験たいけんする構造こうぞうになっている。また映画えいがのなかでさんるダライ・ラマのゆめのシーンのうちふたつは、ダライ・ラマ本人ほんにんゆめもとづいている。道具どうぐとしての望遠鏡ぼうえんきょうと、ひかりすものであるろうそく、電灯でんとう携帯けいたいしきのランタンや懐中かいちゅう電灯でんとうなどが、重要じゅうよう象徴しょうちょうてき小道具こどうぐとしてかえもちいられる。また後半こうはんはいるとダライ・ラマを見送みおく人物じんぶつがいつまでもじっと遠景えんけいのなかにっているというモチーフがかえされる。クライマックスのインドへの亡命ぼうめいをチベット仏教ぶっきょうさい重要じゅうよう儀式ぎしきであるカーラ・チャクラ並行へいこうしてせていくモンタージュのなかには、さらに過去かこのシーンのバリエーションもまれ、すな曼荼羅まんだら創造そうぞう破壊はかい融合ゆうごうされるにおよんで、リアリズムをはなれてわかれと再会さいかい物事ものごと変化へんかしながらも不変ふへんでもある流転るてん回帰かいき主題しゅだい色濃いろこかびがる。

マーティン・スコセッシ自身じしんがもっとも愛着あいちゃくのある自作じさくであることを表明ひょうめいしており、またこの映画えいが完成かんせい間近まぢかくなったははキャサリン・スコセッシにささげている。その理由りゆうを、スコセッシは「この映画えいが無条件むじょうけんあいについての映画えいがであり、そしてわたしにとってもっとも身近みぢか無条件むじょうけんあい体現たいげんしていたひとははだったから」とかたっている。ちなみにダライ・ラマ14せい自身じしんのちにワシントン・ポスト寄稿きこうした記事きじなかで「はじめてわたしにあいおもいやりをおしえてくれた先生せんせいは、わたしの母親ははおやでした。母親ははおやはわたしに最大限さいだいげんあいそそいでくれました」とかたっている。

おも出資しゅっししゃでありアメリカでの配給はいきゅうもとであるディズニーには中国ちゅうごくからつよ圧力あつりょくがあったとわれ、アメリカ国内こくないではあまりひろ公開こうかいされなかった。作品さくひん輸入ゆにゅう上映じょうえいともに中国ちゅうごくでは禁止きんしとなっている。また、どう時期じき中国ちゅうごく公開こうかい予定よていされていたディズニー制作せいさくのアニメ映画えいがムーラン」は、中国ちゅうごくからのいやがらせにより、8ヶ月かげつ公開こうかい妨害ぼうがいされた。このため、中国ちゅうごく舞台ぶたいにした映画えいがにもかかわらず、中国ちゅうごくにおける「ムーラン」の興行こうぎょうは、結果けっかてき失敗しっぱいとなった[4]

メイキングドキュメンタリーとして、1998ねん制作せいさくされた『マーティン・スコセッシとクンドゥンをさがして(原題げんだい: À la recherche de Kundun avec Martin Scorsese)』という作品さくひんがある。(日本にっぽん公開こうかい)

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b Kundun (1997)” (英語えいご). Box Office Mojo. 2010ねん4がつ4にち閲覧えつらん
  2. ^ この部分ぶぶん史実しじつことなっている。ダライ・ラマ14せいははディキ・ツェリン証言しょうげんによると、ダライ・ラマのちち生前せいぜんからとりそう水葬すいそうのぞんでおらず、その遺志いしどお火葬かそうによってほうむられた。また、ディキ・ツェリンは、ダライ・ラマのちちぜん摂政せっしょうレティン・リンポチェとしたしかったため、レティンの失脚しっきゃくをはかる陰謀いんぼうなか毒殺どくさつされた、としている。ヤンツォム・ドマ(ペマ・ギャルポ監修かんしゅう青木あおき真理まりやく)『チベット 家族かぞく肖像しょうぞう—ダライ・ラマ14せいはは—』(近代きんだい文芸ぶんげいしゃ、1998ねん)。
  3. ^ タクツェル・リンポチェは後年こうねん、このエピソードは映画えいが演出えんしゅつではなく事実じじつだったと証言しょうげんしている。#* チベットハウスジャパン フォーラム2002における質疑しつぎ応答おうとう)。なお、タクツェル・リンポチェは2008ねん9がつ5にち、アメリカ・インディアナしゅう死去しきょ(86さい)した。
  4. ^ “ディズニー「ムーラン」でおかした痛恨つうこんのミス”. ニューヨーク・タイムズ (東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ). (2020ねん9がつ21にち). https://toyokeizai.net/articles/-/376536 2020ねん11月23にち閲覧えつらん 

関連かんれん作品さくひん

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映画えいが

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書籍しょせき

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  • じゅうよんせいダライ・ラマ『ダライ・ラマ自伝じでん山際やまぎわおとこわけ単行本たんこうぼん)、文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1992ねん1がつISBN 4-16-345720-8 文庫ぶんこばん)2001ねん6がつISBN 4-16-765109-2
  • ダライ・ラマ『チベットわが祖国そこく ダライ・ラマ自叙伝じじょでん木村きむらこえ佐生さそわけ改版かいはん)、中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、2001ねん11月。ISBN 4-12-203938-X 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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