シャルル=マリー・ド・ラ・コンダミーヌ

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シャルル=マリー・ド・ラ・コンダミーヌ

シャルル=マリー・ド・ラ・コンダミーヌ(Charles Marie de La Condamine、1701ねん1がつ28にち - 1774ねん2がつ4にち)は、フランス地理ちり学者がくしゃ数学すうがくしゃである。

Mesure des trois premiers degrés du méridien dans l'hémisphere austral, 1751

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

ラ・コンダミーヌは1701ねんパリまれた。軍人ぐんじんとしての訓練くんれんけたが、科学かがくや、地理ちりてき探検たんけん1731ねん東部とうぶ地中海ちちゅうかい沿岸えんがんレバント地方ちほう調査ちょうさ参加さんかし、1735ねん緯度いど1ぶん相当そうとうする子午線しごせんちょう比較ひかくするために、ルイ・ゴダンピエール・ブーゲとともに赤道あかみちちかくのペルーでの測量そくりょうたい参加さんかした。この調査ちょうさ困難こんなんきわめ、最終さいしゅうてきにコンダミーヌはペルーのキト現在げんざいエクアドル首都しゅと)からアマゾン川あまぞんがわをくだり、カイエンヌたっした。これは最初さいしょのアマゾンの科学かがく調査ちょうさであり、数々かずかず貴重きちょう発見はっけんをした。1736ねんには、現地げんち住民じゅうみん採取さいしゅするパラゴムノキ樹皮じゅひ調査ちょうさしてその特異とくい性質せいしつ発見はっけん本国ほんごくフランスの科学かがくアカデミー報告ほうこくし、以後いごゴム産業さんぎょう発展はってん火付ひつやくとなった。また1737ねんには、マラリア治療ちりょうやくとしてキニーネ効果こうかてき使用しよう方法ほうほう見出みいだしている。子午線しごせんちょう測量そくりょうえ、地球ちきゅう完全かんぜん球体きゅうたいではなく、赤道あかみち方向ほうこうなが回転かいてん楕円だえんたいひらただま)であることをあきらかにした。この測量そくりょう結果けっかは、トル法とるほう制定せいていにも役立やくだった。

1744ねんにフランスにもどったのちは、1745ねん科学かがくアカデミーの会報かいほう測定そくてい結果けっか地図ちずとともに旅行りょこう発表はっぴょうした。このなかアマゾン川あまぞんがわオリノコがわをつなぐ自然しぜん運河うんがであるカシキアレがわ(Casiquiare)や、アマゾン原住民げんじゅうみん使つかどくクラーレについて、最初さいしょにヨーロッパに紹介しょうかいした。

1748ねんにはロンドン王立おうりつ協会きょうかい会員かいいん選出せんしゅつされた[1]。さらに1760ねんにはアカデミー・フランセーズにも選出せんしゅつされた。

そのローマ時代じだい建築けんちく調査ちょうさからローマのながさの単位たんい調しらべた。1751ねんには南米なんべい旅行りょこう出版しゅっぱんした。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ "Condamine; Charles Maria de La (1701 - 1774)". Record (英語えいご). The Royal Society. 2011ねん12月24にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

前任ぜんにん
ルイ=ギィ・ド・ゲラパン=ド・ヴォーレアル
アカデミー・フランセーズ
席次せきじ23

だい7だい1760ねん - 1774ねん
後任こうにん
ジャック・ドリーユ